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文学の学習における読みの ( 深さ)について

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Academic year: 2021

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文学の学習における読みの ( 深さ)について

松 本 修

1 問題の所在

教室で文学作品を読む とい う行為の持っ意味について、山元隆春 (200 1:3)は次のようにそ の問題性 を指摘 している。

(文学)は実在す るものではない。在 るのは、 (文学) とい う概念について人々が抱き続け てきた表象である。その ことを問題 としない (文学教育)は、ある時代のある人々が作 り あげた表象 としての (文学) を温存 し、それ を抱き続 ける人々を再生産する装置であ りつ づけるだろ う。それで よいのか、 とい う問いが文学教材 の読みに対 して も必要である。読 みの対象 としてのテ クス トがなぜ文学教材 として必要なのか、それ らが人に対 して何を為 すのか とい う問いを持 ち続けてい くこ とが必要なのである。その ような問いの前で、文学

ヽヽヽヽヽヽヽヽ

教材 は少 しも自明な ものではない。その 自明でない ところを解 き明か してい くことこそ、

文学教材を読む とい うしごとである。

既にある解釈、既にある批評 を受動的に受け容れ、ただそれ を追認するだけに終わる文学の 授業は、このような問いを空疎化 して しま うとい う形で、問いを回避 して しま う。 このことの 問題性は既 に充分批判 され、その対極にあるべきもの として読者論が展開されてきた。しか し、

読者論は、単純に見ても、「教師はどうい う役割を演ず るのか」とい う点、また、 「多様な読み が互いにどのように関わるのか」 とい う点で、それ 自体問題 を抱えていた。

文学の学習におけるこのような問題は、教室における読みが常に (深 さ) を志向す るとい う ことと無関係ではない。

第1に、既にある解釈や批評がある権威性 を帯びて教室で教 え込まれるとい う事態は、教室 における学習者の読みが (浅い) もの として失速す ることをおそれ、それを補完するものとし て既にある解釈や批評が機能するとい うことを期待す るところに発 していると考えられる。教 師が文学の読みにおいて何かを教えようとすれば、とりあえずそのような権威性に依存 しつつ、

深い読みに教え導 くことが手っ取 り早い。 しか し、このよ うな方法は、現実には学習者の読み を (深い) ものとな しえず、受動的な学習に閉塞 させ ることが多かった。教師は (浅い)読み を放置すべきか、 (深い)既成の解釈 を教 えるかとい うジレンマにとらわれていた。

第2に、教師が、権威性 を帯びた既成の解釈に頼 らずに読者論的立場に立つ授業を行 う場合 においても、教師は、自らの読みを提示すべきか否か とい う形のジレンマを抱えて しま う。そ のジレンマは、教師の読みが学習者の読みに比べて (深い) とみな されやすい空間が教室に形 成 されているとい うところか ら来ている。教師の読み 自体が権威性 を帯びて既成の解釈 として 機能することを一方ではおそれ、もう一方で学習者の読みが (浅い)ままに終わることをおそ

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れ るところにこのジレンマがある。

第3に、複数の学習者によって形成 され る多様な読みが、互いに干渉するとき、人間関係な どに基づ く何 らかの権威性が形成 され、安易な影響関係が結果 されるとい う事態‑のおそれ と、

個々の読みが互いに何 ら影響することなく (浅い) 自足的な読みのままおわって しま うこと、

あるいは逆に、自らの読みが反省 され ることな く別の解釈 に移行 して しま うこと‑のおそれ と がジレンマ を形成す る。

このよ うに、教室における文学の読みをめ ぐるジ レンマは、教室における文学の読みが (潔 さ)を要求するものであるところか ら発 している。松本修 (2001C)は、文学の読みの持つ実 践的意義 を検討 し、この (深 さ)の意味の一端 を明 らかにするとともに、読者論的な立場に近 い地点か ら、読みの交流の持つ意義について考察 した。 ここではさらに、第 2の問題 と第 3の 問題にみ られ るジレンマに即 しなが ら、文学の読みが要求す る (深 さ)について検討 したい。

2 教師の読みと学習者の読み

鈴木啓子 (2001b:81)は、「ごんぎっね」 (新美南吉)が多様な読みを喚起するテクス トであ り、読みの交流の媒材 として機能す る教材であることを論 じた松本修 (2001a)を批判す る形 で、次のよ うなことを述べている。

『ごんぎつね』 をどう読むかは、読者の心性 に関わる問題 としてあるのであ り、読者が 自 らの読みにこだわ り、他者の読み を排除 しよ うとす るのも、当然 と言えば、当然なのであ る。 自己の依 って立つ所 をそんなに簡単に譲 ってよいはずがないではないか。そ して、簡 単には譲れない ことを議論す るか らこそ、議論 は他者 との コミュニケー ションとしての意 義 を持つのである。

さて、その時、教師はどうあるべきなのか。 (中略)教師が自らの読みの幅を広げてお く こと、教師が客観的な立場に立っ ことは必ず しもイ コールではない、 と私は思 う。教師は リングの外の レフ リーであってはな らない。教師 もまた一読者 として リングの内にいるべ きである。そ して学習者が差 し出 して くる読みのパ ンチ を生身で受け止めるべきなのでは ないか。 もちろん周到な準備 は大切だが、細部‑の断片的な理解 をい くら貯 め込んでも、

ライブ としての授業で柔軟に対応できるとは思 えない。教師は様々な読みを文献や授業の 体験か ら学び、それ を自らの身体 に吸収 して、ひ とつの統一的な読みを自らの内に育み、

学習者 と対等にぶつか り合わねばな らない。

鈴木 (2001a)に対 して松本 (2001b:82:84)では、次のよ うに述べた。

教師は授業 とい う具体的な状況において、複数 の学習者 と自己自身 とを見つめるなかで既 に引き裂かれている。

鈴木氏が言 うよ うに、「テ クス トの どこを前景化す るかによって、読みはどち らにでも傾 き うる」。だか らま さに、 「(読みの根拠 を)文化制度の内に生きる 『私』 とい う主体 と 『本

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文』 との関係 に問 うことが、他者 としての文学に出会 うこと」となる。′J、学校 の教室にお ける学習者において も、教師において もこのことは全 く変わ らない。そ してそれは、読み の交流 とい う学習活動のなかで さらに動的なもの として現れ る。そ こでは問いつつある自 己同士がぶつか り合い、ま さに他者 との関係 を通 じて、問 うことその ものが問い直 されて い くか らだ。

ここですでに答 えているよ うに、「読みの多様性」はゼ ロ地点で も何でもな く、む しろ授業 においては、きび しい圃ぎ合いの中でのコミュニケーションを促す要因 となる。教師は単なる レフェ リーな りきれないことは事実 として認 めなければな らないが、教師が 自らの読みを教室 において提示するとき、それは既 に 「学習者 と対等」の立場を捨てることになって しま う可能 性が高いことを考えなければならない。む しろ教師は、読みの多様性の中で、自己の読みを契 機 としつつ も、自らの読みをその中で相対化す る方向性を持たねばな らないであろ う。そ うで なければ、読みの優位性が教室の中の人間関係の力学に支配 されることになるからである。教 師の読み もまた一つの読みであるか らこそ、教室の中で安易に提示 されてはな らない。 しか し また、読みの多様性は、閲ぎ合 うことなく放置 されればまさに互いの読みを (浅い)ままに放 置する要因になる可能性はあるのであ り、教師はそのような学習の停滞に対 してどのよう72形 で ドライブをかければよいのか、考 えなければならない。そ うい う意味で教師は引き裂かれて いる。

難波博孝 (2001:121)は、 「白いぼ うし」 (あまんきみこ)について、自らが 「死の影」を読 み取って しま うこと、何人かの教師、学習者が同じような読みを抱いていることの事例につい て述べた上で、次のよ うなことを言 っている。

教師 も自分の 「作品 としての読み」を出せばいい とい うおめでたいことを言 う人がいるか もしれない。 しか し、良心的な教師は、それが、授業を ・学習者 をどのよ うな混乱に導くか を知っている。例 えば、河野氏の授業で、教師が自分の 「作品 としての読み」である、「喪 失の不安感」を提示 した らどうなるだろ う。例えば、私が小学校の担任だ として、小学校の 学習者 に向かって、 「私 にとっての松井 さんの物語」を述べた らどうなるだろ うo学習者 と の関係が深いほど、教師の解釈 は、学習者の 「代表化 されない心」に響き、学習者は混乱す るだろ う。その混乱 を、教師は収拾できるだろうか。

難波は、個人の中にも複数の読みが存在す ることを認め、読みの交流が学習者の中に複数の 読みを現働化 させ るとい う精神的な試練をもた らす ものであることを述べた上で、教師が 「作 品 としての読み」を抑圧 しながら 「教材 としての読み」を行ったとしても、そのような試練が 学習者や教師にプラスの結果 をもた らす とは限 らない とい うふ うに r文学の授業‑の違和感」

を表明す る。しか し、そのよ うな 「試練」を 「犠牲」とい うような形で極大化することもまた、

議論の単純化である。読みの学習において組織 される交流によって、学習者が、授業者が、ど のような影響 を受けるかはわか らない。 しか しそれが、自己を見つめる学習活動であることは 間違いない。難波の危懐は、文学テクス ト自体の教育機能を大きく見積 もるところか ら生まれ ている。文学の読み、あるいはその交流によってもた らされる 「試練」は本質的ではあるが、

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実際にはむ しろささやかなものであろ う.教師の読み と学習者の読み とが、その (深 さ)にお いて大きな落差を持っている場合 、確かに教師の読みの提示が混乱 をもた らす ことは予測でき る。む しろ落差の少ない学習者の読み同士の交流を行い、小 さな混乱を生 じさせなが ら少 しず つ個々の学習者な りの (深 さ)に到達 していけるよ う、交流を組織化することで、その大きな 混乱 を回避す ることはできないのだろ うか。そ してまた、大きな混乱を受け止めることのでき る状況があると信 じられれば、あえて大きな混乱を作 り出す ことは許 されないのだろ うか。鈴 木 と難波 とは、ともに文学の力に信 を置きなが ら、学習者の持つ力 ・教師の持つ力‑の不信 と 信頼 とをどのような側面に対 して抱 くのか とい う点において、その授業観 を分けているように 思 える。そ うした状況は、現実にはま さに状況によって異なるのであって、文学の授業一般 を 律す るものであると考 えなければいいのではないか。

3 学習者問の読みの交流

幾 田仲司 (2001)は、松本 (1999)の行 った授業を契機 として、学習者間の解釈が排他的に 対立する場合、かえってその交流が (浅い) ものにとどまるとい うことを指摘 している。

松本の授業は、宮揮賢治 「報告」をテクス トとして、対立す る解釈 を引き出 し、読みの交流 を目論んだ ものであったo授業では、中学一年生の学習者か らは二様の解釈 を十分な形で引き 出す ことはできず、既 にある解釈 を提示す る格好になった.参考資料 としたのは、斎藤文一 (1998)と篠原資明 (1996)の解釈であ り、松本 (1999:108)では、解釈A ・Bのようにま と めている。

報告 宮滞賢治

さつき火事だとさわざま したのは虹でございました もう一時間もつづいて りん と張って居 ります

解釈

A 人々ない し作者 が、『火事だ』 と騒いだ。それは虹であった と改めて誰かに報告 し ている。

B にわか雨を降 らせて火事を消そ うとしているかのよ うに騒いだのが虹で、その虹が 火事を消 したよ うな顔 をして、塊爽 と張っている。

幾 田は、A ・B二つの解釈が互いに排他的であることを指摘 した上で、次のように述べてい る。(431)

‑‑対立す る解釈の排他性は、個 々の読みの段階においては問題 とす るにあた らない。個 人は自分の解釈 に即 して読みを進 めてい るか らである。 しか し、 「解釈の対立」をめぐって 授業 を構成す る際には、 このことはい くらかの問題 をは らんで くる。対立す る解釈が とも

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に提示 された とき、読者 はある時点においていずれかの解釈に立たざるをえない。言い換 えれ ば、異な る解釈 を知 ることで、 自己の解釈 を相対化す ることはできて も、 自己の解釈 に変容 を起 こす ことはできないのではないだろ うか。

「報告」に即せ ば、 「虹の こと」を報告 した と解釈す る読者が 「虹が さわいだ」 とい う解釈 に出会 った とき、な るほ どと思い、自己 とは異なる読み を進 めることはできる。だが、そ れ以上、当初の 自己の解釈 との葛藤 を生み出す ことは期待 しにくいのではないか。

そ して実際に幾 田が大学生 を対象 として行 った調査では、77名 中73名がAの解釈 を してい たのに対 し、その うち 8割 が提示 されたBの解釈を 「面 白い」 と感 じたとい う。 こ うした反応 を示 した学生が、独力ではできない思考 を発動 させた ことを、 「対立す る解釈 を知 ることが生 む効果」 とした上で、より解釈のコス トが高い Bの解釈に 「乗 り換えた」 とい うよ うにその反 応 を考察 している。

この授業 において、松本 (1999:108)では、 「この よ うな解釈 の分岐が学習者 の中にも起 こ る可能性 があ り、そ うした解釈の相違 を踏まえて読みの交流 を起 こす ことができる題材である と患われ る。大きな変容はないかもしれないが、そ うした交流による読みの深 ま りを期待 した い。」と述べ られてお り、読みの変容、読みの深 ま りが交流の結果 として意図 されていた。授 業者 にも無意識の うちに、コス トの高いBの解釈‑の変容が、読みの深ま りを意味す るとい う 見通 しがあったか もしれない。

しか し、一方、幾 田の調査では、被調査者が大学生であることもあって、解釈の 「乗 り換 え」

が本 当に安易なものであったか どうかは判然 としない。

ある学生は、 「自分 とは違 う読み方 を見て、 どう思いますか。」 とい う問いに対 して、 「読み 方の相違 は読みの深 さだ と思った。 自分の読み方は浅い と感 じさせ られた。」 (433)と答 えて い る。またある学生は 「Bの読み方だ と 「りん と張って」の部分が、子 どもが何かお手伝いを や り終えて得意になっている姿 と虹がだぶってみえて面 白い と思った。」(433)と答えている。

これ は、読み手が、複数の読み を比べた とき、 (深 さ)や」面 白さ」に着 目してい ることを示 している。特 に後者の回答には、 「りん と張って」とい うテクス トのセ グメン トに言及がな さ れてお り、詳述 されていないが、テ クス トの どのセ グメン トを前景化するか、そ してそのセ グ メン トと他のセグメン トの関係 を一貫 して説明する説明が与えられ るかどうかが問題 になって い るように見える。 この 「報告」では、Aの解釈では、文末表現の 口調や、二行 目の 「一時間 も」の 「も」の語用論的意味、 「りん と」 とい う副詞句の意味が一貫性 のある形で説明 しがた い面がある。そのあた りが具体的に言及 されれば、二つの回答にある 「面 白さ」や (深 さ)が 具体的な様相 を見せ ることになる。

幾 田は ‑「文意 レベルでの解釈の対立は、 自分 とは異なるその解釈 を受け入れ るか どうかだけ である。」(431)としてい るが、注 目す るテ クス トのセ グメン トが どこか、解釈の一貫性 はど の よ うに保持 され るか、解釈 に動員す る個人的経験の コンテクス トはどのよ うなものか、など が具体的に提示 され るとき、解釈の対立をめぐる交流の中身は、単なる対立や安易な乗 り換 え とはな らないであろ う。学習者間のコミュニケーシ ョンの持つ ジレンマは、授業の中での学習 過程がいかに有効なもの として生成 されてい くかとい う問題 に依存 しているのであ り、原理的

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に問題 を抱 えてい るのではない。

安易な乗 り換 えの対極 には、 「読む人 が違 えば とらえ方 も当然違 って くるのは当た り前なの で、別 に何 とも思わない。」 (434)とい う回答に見 る通 り、安易な多様性 の是認がある。 これ が文学の読みの本質的機能 に反す ることは、言 うまで もない。そ して、 「安易な乗 り換 え」も

「衝突のない多様性 の是認」 も、 自己を問い直す ことを回避す る運動であるとい う点では同 じ である。文学の授業は、こ うい う運動 をどこかで突き崩そ うとい うところにそのね らいを持 っ ている。 この ことは、幾 田も次のよ うに指摘 してい る。

読者 は、個 々が背負 ってい る様 々な文脈 に束縛 され て、前提や方略 を選 び、解釈 を行 って い る。その文脈 を問 うことが、 「じぶ ん とい う存在の輪郭」 を描 き出す ことにつ ながるので はないか。

解釈の根拠 を問 うことは、読者の解釈の前提 を明るみに出す。それ を対立 させ ることが、

Er己と他者 を対立 させ、解釈 した自己を検討す ることになる.(436)

松本 (1999:108)では、次のよ うに述べていた。

文学作品を教材 とす る学習 においては、個 々の学習者 がテクス トと対時 して解釈 を作 り 上げることがまず大切 であるが、個 々の解釈 を交流 させ ることで相互評価 ・自己評価 をひ きお こ し、 自己の解釈 を見直 し、読み を深 めてい くことが大切 である と考 える。 これは固 定的な解釈‑の閉塞 を避 ける と同時に、衝突のない多様性 に委ねて しま う無意味な開放 を も避 けるものである。

こ うした読みの交流 を起 こすためには、表現の構造 と関連 させ て 自らの解釈 を説 明す る と言 うことが大切である。 この詩においては、文末表現の特徴 、主語 の把握が重要になる。

教師が 自らの権威性 によって学習者の読み を擾乱す ることを避け、学習者 同士の読みの交流 を促す側 に立った としても、たちまち別の権威性が発動す る危険性 がある。学習者 同士の人間 関係 が読みの優位性 を支えるとい うよ うな事態 もないではない。 しか し、これ に対 しては、教 師は気づ き得 る限 り、それ を排除す る手だてを講 じるしかない。また、読み 自体の持つ品質の 落差 とで も言 うべ きものが一種の権威性 を作 ることもある。 「報告」の例では、解釈のコス ト の高 さ、その結果 としての 「面 白さ」が、一種の権威性 を形作った と考え られ 、学生の反応 は そのことを示 していると考 え られ る。その権威性が、解釈の乗 り換 えを促 し、読みの (深 さ) をもた らしていない とすれば、権威性が取 り払われれば良いのであろ うか。そ うではあるまい。

コス トの同 じよ うな解釈間にあって も、別の学生の回答にあったよ うな 「衝突のない多様性」

に開かれて しまい、個 としての読者 は何 ら葛藤 を抱 くことな く、 (浅い)読みに とどまること は考 えられ る。む しろ求め られ るのは、テ クス トのセ グメン トや個人的経験な ど、解釈に動員 されている リソースに しつ こく言及 しなが ら読みの交涜が行われ ることであろ う。それが、あ らゆる権威性か ら自由な形での (深い)読み‑の接近 を可能にする。そのよ うな学習の状況 を 作 り出 し、その状況 を維持す るためには教師の存在が欠かせない し、教師が多様な解釈 を理解 できるだけの教材の読みを徹底 してお くことが必要である。

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4 読みの く深さ)

以上検討 してきた よ うに、読みの (深 さ) を 目指すゆえに、文学教育はジレンマを抱 え、そ の解決策が新たなジレンマをもた らしてきた。 しか し、そ うしたジレンマは、基本的にはある 読みを (深い) ものだ とす る権威 が どこかに安易に求められて しま うことか ら発 している。教 師 も、学習者 も、あ らか じめ (深い)読みな ど、個々の読者 に とっては存在 しない こと、む し ろ最終的には個々の読者の内部における読みの (深ま り) しかない ことを確認すべ きなのであ ろ う。文学 に対す る過剰な信頼 も違和感 も、や は り何 らかの形での外付けの権威性 を信 じてい るところか ら発す る.読みのプロセス と読みの交流のプロセスを丹念に追いなが ら、一つ一つ の文学の授業における状況 を読み取 り、果た されていることと果た されていない ことを確認 し、

次の授業 をどうす るか とい うことを考 えてい くしかないのではないか0 山元 (200 1:3)は次のように述べている。

‑‑本当に大切なのは、読みを進 める一人ひ とりが、読むなかでいかなる (葛藤) を感 じ取 りつつ 自らの読み を構築す るのか、 とい うことではないのだろ うか。読む とい う行為 を通 し ての く生産) とは、その よ うな (葛藤) を乗 り越 えるかたちでの (生産)の ことである。

その生産の中で個人個人の読みを導 く (深 さ)の指標 を、外在す るものに求めるのではな く、

読み手の解釈 における一貫性の高 さや、解釈の生成や変化の過程における言及 に見 られ る言葉 の量的拡大や一貫性の強化そのものに求めていけばいい。読みの (深 さ)もまた、読みの過程、

読みの交流の過程その ものにおいて しか兄いだ されないものであろ う0

(まつ もと お さむ 上越教育大学)

文献

幾 田仲司 (2001)「短詩型テ クス トにお ける 「解釈 の対立」についての一考察」『両輪』第 33 号 浜本純逸先生神戸大学御退任記念号 両輪の会 2001.3

斎藤文一 (1998)「賢治は どの よ うな虹 を見ていたか」第八回宮沢賢治学会イーハ ト‑プセン ター研究発表会 (資料 としては、会報掲載の要旨を用いた。 この発表は、宮 津賢治の詩の 日付 に即 して、気象の記録の調査か ら、 どの よ うな虹であった かを述べた ものである。)

篠原資明 (1996)『心にひび く短詩の世界』講談社現代新書

鈴 木啓子 (2001a)「『ごんぎつね』の引き裂かれた在 りよ う一語 りの転位 を視座 として‑」

田中実 ・須貝千里編 『文学の力 ×教材の力小学校編4年』教育出版 2001.3 ゼロ

鈴木啓子 (200lb) 「Gメンー75‑ 「読みの多様性」とい う零地点」田中 ・須貝編前掲 松本 修 (1999)「詩 の解釈 における読みの交流」全国大学国語教育学会 『国語科教育研究

(8)

第97回大会研究発表要 旨集』 1999.10

松本 修 (2001a)「読みの交流の媒材 としての 『ごんぎつね』」田中 ・須 貝編前掲 松本 修 (2(カ1b)「読みの相対化 と読みの深化」田中 ・須 貝編前掲

松本 修 (2001C)「文学 の読み とその交流の実践的意義」『国語科教育』第49集 全国大学国 語 教育学会 2001.3

難波博孝 (200 1)「「文学」 を教材 として授業す ること‑の疑 問 ‑ 『白いぼ うし』の場合‑」田 中 ・須貝編前掲

山元 隆春 (2001)「文学教材 の読みで何 が問題 か」『月刊 国語 教育研究』351 日本 国語教育学 会 2001.7

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