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目次
資 料キリスト教関係新聞記事と明治学院
一﹃七一雑報﹄﹃基督教新聞﹄﹃福音週報﹄1⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝:⁝⁝⁝−解説
9文部省訓令第十二号関係資料−⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝−⁝⁝・解説
富尾留雄︵東明︶﹃思ひ出の記一ささやかなる滴すら一﹄上巻⁝・⁝..解説
矛 盾 録
i賀川豊彦・明治学院在学時代の日記1⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝解説
明治学院理事会記録
自大正元年十一月 至大正八年十一月⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝解説 工 藤 鼻下 藤 細工 藤 英平林武雄⁝︵一四五︶秋山 繁 雄⁝︵一七一︶
資料︵←
キリスト教関係新聞記事と明治学院
i﹃七一雑報﹄﹃基督教新聞﹄﹃福音週報﹄一
解説工 藤英
︹解説︺︹資料︺
一、@﹃七一雑報﹄
二︑ ﹃基督教新聞﹄
三︑ ﹃福音週報﹄
・︹解説︺
明治学院史の研究において︑新聞・雑誌関係資料は︑これまで
十分に活肘されてきたとはいえない︒特に︑キリスト教関係の新
聞類は︑学院や学院関係者に関してかなり豊富な資料を提供する
ものとして注目すべきものにほかならない︒このような点から︑
ここに明治期刊行のキリスト教関係の週刊誌である﹃七一雑報﹄
︑﹃基督教新聞﹄ならびに﹃福音週報﹄の記事を資料として紹介す
る︒それに先だちぎこれらの諸塚について若干の解説をおこなう
必要があろう︒
﹃七一雑報﹄は︑わが国最初のキリスト教定期刊行物とされて いるもので︑その創刊は明治八年十二月二十七日である︒創刊当時の本局は﹁神戸中山手通六丁目一番 新報社﹂︑社長兼印刷は今村兼吉︑編輯長村上俊吉であった︒米国組合教会宣教師0・H・ギューリックの援助があったという︒ ﹃七剛雑報﹄は︑キリスト教週刊誌であったとはいえ︑各種の
一般的記事を掲載した当時の啓蒙誌でもあった︒注目すべきは︑
全国各地の伝道の景況や教会の情報についての現地からの報告記
事を載せている点であり︑これは日本プロテスタント史の研究に
貴重な資料を提供している︒また︑この種の現地報告的記事は︑
その後のキリスト教新聞の踏襲するところとなった︒ただ︑ ﹃七
一雑報﹄の記事には︑教派的には比較的組合教会関係のものが多
く︑また地域的には近畿以西のものが多い︒それゆえ︑明治学院
関係の記事はそれほど多いとはいえない︒しかし︑ここに紹介し
た十五点の資料は︑東京一致神学校や築地大学校の内情や学生の
キリスト教関係新聞記事と明治学院
キリスト教関係新聞記事と明治学院
動向について触れた価値あるものである︒
﹃七一雑報﹄は︑明治十六年七月から﹃福音新報﹄と改題して
同十九年までつづいた︒ ︵明治二十四年の﹃福音新報﹄とは別の
ものである︒︶同誌には︑明治学院関係の記事を発見するところ
少なかった︒参考までに︑昌次の二点の資料をここに紹介しておく︒
O囚人福音を聞く 東京の原胤昭氏には昨十月の上旬不慮の過に
より軽禁鋼に害せられ同十二月三十日満期に注意なく出獄せられ
しが同氏には之によりて大に神の恩恵を受たりとて家号を天福堂
と名づけられたり而して同氏は入獄の難難中に図らざる神の誘導
と恩恵を受られし趣き其書翰中に見へたれば其一二を抜粋して左
に書さんとす
公判の終るや鍛冶橋監獄署に繋がる此に囚人七宝あり内二名は
最とも好悪者なり忽ち談話善悪の事に亘り此夜は仮面を得せず相
論じて主の道を説しが翌日に至り遂に此八事の暴論も挫け好みて デん道を聞たれば終日救の道を語れり然し此所は裁判決定までの日間
なれば十月五日石川島監獄署へ腰縄手錠馬車にて小生一名を送ら
れたり云々当初其濫に入や等長と副濫長の如き二人あり其一人小 やま生の面貌に目を止めて止ず暫時にして彼古時を思出で拍手軸重て
云けるは足下は先年逐年十字屋書舗の店頭に耶蘇教を説し人なり
と小生素より其事あれば答へて其所以を激しに計ざりき同人は一
端世に犯罪の者なれども其頃右説教場に立寄り︵小生等が書様の
演説なれども其言は主の聖語にして力あれば︶一聞の聖語大に感 ぜしむる所ありて爾来三回右説教所の前の群衆中に立て聴聞し且聖書をも購て倍々研究せんと欲したる際所用の為遠国に出で続きて旧悪発露し遂に今日の身の上となりしなりと同人は聖書を示し
︵支那語新旧聖書︶此の如く其書名前後︵新古日々十名位つつ入
換るなり︶あり其後は天道湖源などの質議講釈等を為を得たり故
に小生は三ヶ月の罹難中神恩の辱なきを慶こび勉励の外苦難は一
点も覚へず云々然のみならず聖教を教ふるの訳よりして濫内悉く
善ぎ待ひをうけ衣食住とも特別の取扱ひをうけたり是小生が身体
を養なひ虚弱の身すら全を得て今日諸兄に再会を得る所以なり若
も教外の者ならば何の彼等に善待を受べきや而して平常の囚人の
扱をうけしならば実に保身は机上に備ふれども不学と云ひ其意義
を解すること能はず空しく時を得たりしに計ざる賓客よ足下には
不幸なるべけれども予には幸の時至れり三ケ月の軽禁鋼精々聖教
を伝へ呉よとの事につき小生も神の導の辱けなきを謝し聖恩の普
ねきに感じ共に慶こびたり是より無識短才の小生なれども日夜聖
導を力に教諭したりしに大に外の囚徒も之を好する勢となり遂に
連夜一時間の勧善演説には艦長代理として主の道を説ことを得た
り濫内の囚徒は二百はおぼつかなく再会の期は此世にあるまじき
に鳴呼神の御恩の如何厚きそや又小生をして罪人が罪に溺れ罪よ
り罪に陥るの有様罪の恐るべき悔改めの要すべき云々有形人の活
劇場を見せ懲誠を与へ給ふものかと欣喜感謝只々流涕の外詞なく
相覚候云々︵二巻三号・明治十七年一月十五日︶
右は¥明治十六年十月一日︑原題昭が︑内乱罪の適丹をうけた
福島事件関係者六名の錦絵を発行したことで︑出版条例.新聞紙
条例違反として軽禁鋼三ケ月︑罰金三十円の刑をうけた際の逸話
である︒後に原が監獄改良︑釈放者保護に献身した契機となった
出来事にほかならぬ︒原はカロゾルスの築地大学の出身であるが︑
それが明治学院の前身の同名の学校でないことはいうまでもない︒
﹃七一雑報﹄の後身の﹄福音新報﹄掲載の記事のうち︑後に掲げる︵資料二一55︶のなかにあるドクトル・イビーの大学設立案
︵四五ページ参照︶に関連した記事をいまひとつ左にあげる︒
Oイビー氏伝道策
近頃東京のイビー氏は日本伝道策を建られ外国宣教師の集会に
於て陳述せられ其後数回の集会に略実行する事に決せられしと云
ふ其大略は第一日本在留の宣教師一致結合して基督教一致なる者
を組織すること第二此基督教一致は政府及び基督教世界に対し日
本の基督教を代表する者なり第三此一致は長老教会派監督教会派
メソデスト教会コングリゲーション教会派及びバプテスト教会派
の五より成立する者とす第四此各派宣教師八人に付一人の代人を
出し此代人は平常の事務を施行する者とす又東京横浜の宣教師の
集会より此基督教一致の集会に提出さるべぎ議案は即ち先にイビF氏が起草されたる日本伝道策に載せられたる第一百有余名の外
国宣教師を更に本国より招集ナること第二大なる基督教演説堂を
東京に建築すること第三基督教主義の大学校を起すこと是なり右 宣教師等の決議せる伝道策に付日本教師の意見を問合せられたるに付去月廿五日京橋新肴町会堂に東京府下諸教会牧師教師伝道士の集会を催ふされ伝道策に対しては第一条を除くの外敦も同意するに決し尚同廿八日に再議の筈なる趣き毎週新報に見へたり当地にても其事に付去一日京阪神の宣教師達大阪に集会を開かれたり委くは聞えざれども一も決定せざりし由︵二巻十号.明治十七年三月五日︶ ﹃基督教新聞﹄は︑明治十六年八月八日に小崎弘道・植村正久らが創刊した﹃東京毎週新報﹄の後身である︒すなわち︑同十七年七月十一日の第四七号をもって﹃東京毎週新報﹄は終刊となり︑
﹃基督教新聞﹄と改称した︒同新聞は︑三十三年に﹃東京毎週新
誌﹄とさらに改称されることになる︒ここには︑主として﹃基督
教新聞﹄の明治十八年以降二十三年までの分と同二十五年の分に
掲載されている明治学院関係記事を掲載した︒ただ︑ ﹃東京毎週
新報﹄の記事のなかに︑東京一致神学校出身の伝道者や神学生た
ちが︑各地の地方都市や農村において宣教活動に従事する状況を
報道したものがかなり見受けられる︒いまそのうちの幾つかを左
に紹介しておく︒
︵ママ︶○上州舘林には預ねて蘇国︵スコットランド︶伝道会社のワデル
氏が伝道せられたるに道を信ずるもの多く起り近頃会堂を新築し
去る十五日に会堂開きありしがワデル氏其他二三の伝道師之に赴
キリスト教関係薪聞事記と明治学院
キリスト教関係新聞記事と明治学院
かれ盛なる開会式ありし又同地の劇場にて基督教演説会ありし聴
衆凡そ五六百人にして同地に稀なる盛会なりしとそ︵二号・明治
十六年八月二二日︶
○事少しく陳腐に属すれども去る十月廿八日には上総佐倉教会に
於て青木仲英氏の按手礼式執行されたり当日は奥野昌綱氏の演説︑
戸田忠厚氏按手礼の祈祷︑石原保太郎氏新牧師への勧め︑戸田氏
教会への勧めありて後石原氏の祈祷︑青木氏の祝祷を以て此会を
閉ぢたり︵十七号・明治十六年十二月七日︶
○山口県下馬関教会に於て去る三日長崎教会の教師瀬川華氏より
一人の男受洗せし後ち同教会の長老撰挙会を開かれ其長老を踏直
せられたり又同県下豊浦には此頃新たに教会を設立せられたりし
と云ふ︵十九号・明治十六年十二月二一号︶
○朝鮮政府より送られたる当地留学の書生は三十余人にて其内音
名は昨年より築地一致英和学校に入塾せしが同校は基督教より組
織する学校なる故他の生徒中よりも常々暴露を受け殆んど別もの
の如く思はれ又本国にても官事に付彼是議論ありて一時は呼返の
上処刑にも逢んなどの風聞ありしが当時我邦在留の一紳士の活断
によりて其旨意一変し己に逸名の上に猶四名を同様に入塾せしめ
其中の優等なるものを選抜して米国に留学せしめらるる由︵二九
号.明治十七年三月七日﹀ ○信州上田の教会にては昨十六年十月東京小林格氏の伝道せられしょり万事好都合なりしが本年一月初めより上田近村常盤城村へ講義場を開設せしょり基督の恵みを知るもの多く出来去月光日小諸にある真木牧師より受洗せしもの九人なりと︵三四号・明治十七年四月十一日︶○去る五日中野南足立郡足立仮会堂に於て親睦労々説教会あり午前は親睦会にして午後二時に長老石鍋氏祈祷して開会し当間氏聖書朗読し次に讃美歌あり中川六三郎︵開会ノ主旨︶渡辺利兵衛︵真神ヲ拝スヘシ︶村田真吉︵三三ニヨリテ樹ヲ知レ︶タムソン︵キリストの謙遜︶三宮守重︵人種論︶中川六三郎︵基督教ノ勢力︶篠原銀蔵︵伝道ノ主旨︶桜井照恵︵基督教ト仏教ノ異同︶の諸氏の演述あり終りに小川牧師の勧と祈祷ありて六時頃に閉会ぜり聴衆は百二十名程ありて中々盛会なりと︑同上は愈々盛んに赴むく模様にて現今受洗志願者七名程あると云ふ︵三九号︑明治十七年五月十六日︶ 信州上諏訪伝道概報 留川一路︑古沢久治︑真木重遠の三訂は布教の為去月廿四日上諏訪に着されしに鼻聾は是まで誰も基督教を布たる者なき故︵或ひは誰人か一二度講ぜし人もありしとか︶土地の人は聖教のなにものたるを知ず其他種々の事故ありて何分願ふ如くならず三氏の志願を欄て尋来る人又助けんと為人あれども講義場に適する塚な
く稀にはあるも貸ことを肯んぜずロバ一所かす所ありしが如何にせ
ん家税不悉にて一夜に五十銭と三四十銭の諸費料なれば到底永続
の見込は立ねど三盆の内真木氏は長く忌地に留ることの出来ねば
一席の講義をも試みず空しく帰るは遺憾なりとて同月廿九日該場
にて講義せられしに聴衆は無慮五百名の余ありて頗る耳を傾けし
状景なりと然るに真木氏は同三十日に新地を発足し留川︑古沢の
二氏は尚留りて布教に尽力の積なれば各地の諸教友は為に聖霊の
下ん事を祈たまへと右は真木氏よりの報道の略なり︵四七号.明
治十七年七月十一日︶
注 ﹁朝鮮政府より送られたる当地留学の書生﹂の記事は︑後
掲の資料︵ニー2︶との関連からここに載せた︒
﹃福音週報﹄は︑植村正久によって明治二十三年三月十四日に
創刊された週刊伝道誌である︒同二四年二月二十日発行の第五十
号に掲げた﹁不敬罪と基督教﹂と題する社説のため﹁発行禁止﹂
となり︑福音週報は第五十一号をもってその命脈を断たれた︒右
論説は︑資料︵三149︶として掲載した︒
この﹃週報﹄は︑日本基督一致教会に関する記事が最も多く︑
同教会の機関誌の感があった︒それゆえ︑明治学院や同関係者に
関する記事が︑どのキリスト教関係誌よりも多く掲載されている︒
先にあげた﹃基督教新聞﹄掲載の記事と重複するものもあるが︑
﹃週報﹄掲載の記事五十一点をここに収めた︒なお右の﹃福音週 報﹄は︑発行禁止を命じられた後︑ ﹃福音新報﹄として発行された︒同誌の記事は︑改めて別の形で収録する予定である︒ ﹃基督教新聞﹄ならびに﹃福音週報﹄の記事をとおして︑明治十八年以降同二十四年号での学院︵その前身である諸学校を含めて︶の状況を曲る程度理解することができる︒ただ︑新聞記事という性格上︑学院内部の立ちいった事がらに触れられていないという点と︑学院にとっての主要事件が記事としてとりあげられていない点を考慮する必要はあろう︒しかしながら︑右の時期における学院内における諸行事︵たとえば卒業式︶や宣教師︑教員の消息等はほぼ網羅されているとみてよかろう︒ 以上の記事のなかには︑これまでの学院史の研究においてまったく知られていなかった事がらを報じているものもないではない︒たとえば︑資料︵二i8︶の﹁基督教主義の小学校設置広告﹂はその例である︒その広告は︑明治十九年十二月二十九日の﹃基督教新聞﹄のみならず︑翌二十年一月十二日前同紙一八一号にも掲載されている︒広告には﹁今般英和幼年学校の設置を府庁に願ひ﹂とあるが︑その設置願等は︑この種の文書をほぼ網羅的に掲載している﹃東京教育史資料大系﹄全十巻のなかにも発見することができず︑東京都公文書館所蔵の書類のなかにも目下のところ見当らない︒それゆえ︑この学校が︑服部綾雄個人の経営になるものか︑或いは明治学院またはミッションに関係したものであるかはまったく不明である︒当時の服部が︑創立構想の成った明治学院の幹事兼予科長であったことを考えると︑この小学校が明治
キリスト教関係新聞記事と明治学院
キリスト教関係新聞記事と明治学院
学院と無関係であったようには思われない︒今後の調査を要する
問題である︒
資料︵ニー27︶によれば︑明治二十二年五月一日︑明治学院教
会の創設式がおこなわれている︒この明治学院教会は︑大正七年
発足の同教会︵﹃明治学院九十年史﹄一五五〜一五七ページ参照︶
・とはもちろん別箇のものである︒日本基督一致教会の第六回大会
︵明治二三年十一月︶に石本長老を議員として送っている第一東
京中会の明治学院教会がそれである︒
この明治学院教会の状況をうかがい知りうる資料として︑ ﹃東
京第一中会所属 舌早教会監督委員記録 明治二十三年十月九日
ヨリ﹄という書類があるので︑左に引用する︒
一︑明治廿三年十月九日東京第一中三二於テ無官教会監督ヲ撰定
ス其人名左ノ如シ
教師 大儀見元一郎
宣教師 バラ
同 ワデル
教師 石原 保太郎
同 奥野 昌綱 ︵ママ︶一︑同年十月十一日午前八時半築地本神学校二品テ委員会ヲ開ク
開会祈祷 バラ教師
先ズ議長ヲ撰ブ 当撰者 大儀見教師
三二書記ヲ撰ブ 同 奥野 昌綱 次二各教会ノ長老ハ監督ノ為メ出張シタル其教会二面テ開ク委員ノ議席二参与スル者ト為スコトニ決ス次二委員ノ集会ハ便利ノ為メ毎月伝道委員ノ集会スル日ヲ以テ定日トス但シ午前八時半二築地本神学二集ルコトト定ム次二無牧教会黒点ス左ノ如シ但シ十九会ノ内界 日本橋区 元大工町教会 芝区愛宕町二丁目十五回転 芝 区教 会 北品川百四十七番 品 川教会 千葉県佐倉本町 佐 倉教 会 千葉県武射郡松尾町 九十九里教会 越後 村 上 教 会次二委員各自受持ヲ定ム左ノ如シ
佐倉︑九十九里
保田︑阿久和
元大工町︑中橋
明治学院︑品川
麹町︑芝区 日本橋区大鋸町十四番 中 橋 教 会芝区白金今里町 明治学院教会平川町二丁且九番前 麹 町 教 会千葉県平郡吉浜町 保 田 教 会神奈川県鎌倉郡阿久和村 阿久和教会
石原教師
大儀見教師
奥野教師石原教師
大儀見教師 ワデル教師バラ教師ワデル教師奥野教師バラ教師
村上 石原教師
次二様受持各教会ノ様子ヲ調査シ次ノ委員会二報道スルコトニ決
ス
次二委員各教会二出張ノ節路費及記者ノ負担スル諸雑爪弾会二男
テ定ルマデハ各立替置クベキコト但各教会ヨリ委員二説教ヲ依頼
スルコトアル時ハソノ教会ヨリ相当ノ車代ヲ受ルコトヲ定ム
次二委員各教会ヲ監督スルノ目的ハ各教会ヲシテ成ル可ク錯書ク
牧師ヲ依頼スルヤウニ奨勧スルニ在りトス
丸面右ノ各教会二記者ヨリ通知スルコト左ノ如シ
今回東京第一中会二於テ無牧教会監督委員ヲ撰定シ以テ無牧ノ
各教会ヲ監督スルコトヲ番卒ラレ候二付委員共ノ内近日出張貴
会ノ長老二名ト共二諸事可明哲相談烈烈此段御承知迄二君通知.申上候也
十月十一日 委員記者奥野昌綱
各教会長老宛
右ノ件ヲ議シ畢テ十時前大儀見教師ノ祈祷ヲ以テ閉会ス
一︑同年十月廿五日午前九時築地神学校二於テ委員会ヲ開ク
開会祈祷 石原教師
一︑委員各報告ヲナス左ノ如シ
○麹町教会ハ伝道者戸川安宅ノ説教ヲ満足スト難会員ヲ訪問スル
コト能ハザルヲ満足セズ且日曜ノ集りハ四十二番ノ女生徒来集
スルニ因テ少シク賑ハシク見ユレド該会ノ者ハ甚僅ナリ然シテ
キリスト教関係薪聞記事と明治学院 集金モ諸入費ヲ払フニハ毎月五六円ノ不足ヲ生ズト云フ○芝区教会ハ日曜ノ集り凡百二三十人響動ハニ十人バカリ集金ハ 三十三円ナリ当今牧師ヲ依頼スルノ見込ナシト云フ○阿久和教会ノ様子ババラ氏ヨリ書面ニテ大儀五重マデ報知アリ シ野島ヨレバ目下適当ナル常任伝道者ヲ得ンコト希望シ居ル由 右ハ大儀見氏ノ報告ナリ○佐倉教会ハ藤村太兵衛氏ノ働ヲ満足シ集ル者凡ソ三十人バカリ 別二困難モ見エズ〇九十九里教会別二困難ナク集りモ可ナリニテ当今伝道者ヲ求メ 居ル由ナリ 右ハ石原保太郎氏ノ報告ナリ○品川教会ハ頗ル困難ナリシモヤや調ヒタリ教会ノ負債モマクネ ヤー氏ノ尽力ニテ半バ片付ユニテリヤンプレモスノ徒二誘導サ レタル者モ目ヲ醒メ会堂二集ルニ至レリ○明治学院ハ不整頓ナルァリサマナリ○中橋ハデビソン氏ノ働キニ由リ会員ノ信仰ヲ維持スルマデニテ 著キ進歩ナシ 右ハ奥野昌綱氏ノ報告ナリ右報告畢テ来月第四ノ土曜日午前九時二集ンコトヲ決シ散会セり一︑同年土凋二日趨午前九時篭神学校二巴テ委臭広ヲ開ク 開会祈祷 奥野教師
出席員 バラ教師 ワデル教師
石原教師 奥野教師
キリスト教関係新聞記事と明治学院
一︑大儀見教師長崎へ赴任野付同氏ノ代トシテ石原教師議長ト定
一︑芝区教会麹町教会ハ大儀見教師ノ持場ニテ有之候前件ノ次第 ム
故以後右ノニ教会ハ奥野教師ノ持場ト定ム
右議事畢テバラ教師ノ祈ヲ以テ閉会ス
一︑明治廿四年四月九日東京第一中会二於テ昨年以来委員ノ為シ
タルコトヲ報告シタル後改テ無牧教会監督委員三名ヲ撰定ス左
ノ如シ バラ教師 石原保太郎教師 奥野昌綱教師
明治学院予科は︑明治二十二年十二月有楽町に移って明治英学
校となったが︑翌二十三年八月の同校の生徒募集広告によれば︑
同校は﹁麹町区中六番町五十二番地﹂にさらに移っている︒ ︵資
料二心ー29︶︒さらに︑同二三年十一月半募集広告には﹁無束脩
入学ヲ許ス﹂とある︵資料・三140︶︒短期間のうちにおこった
同校の変化がこのような点にうかがわれる︒
神学部講堂及び書籍室︵現在の記念館︶の建築については︑幾
つかの記事があるが︑それらによって︑その落成による奉堂式は︑
明治二十三年六月二十四日に開催されたことが明らかとなった︒
﹃九十年史﹄に三月とあるのは訂正されねばならない︒
明治二十三年七月︑第二回基督教夏期学校が明治学院において
開催されたことは︑学院にとっても大きな出来事であった︒周知
のように島崎藤村の﹃桜の実の熟する時﹄のなかでも第二回夏期 学校のことは大きくとりあげられており︑ ﹁外から流れ込んだ刺 な か戟は同じ学校の内部を別の場所のようにした﹂と藤村なりの評価がくだされている︒ ︵新潮文庫版・四三ページ︶それゆえ︑ここにもかなり多くの夏期学校関係記事を収録した︒特に︑夏期学校が学院に何をもたらしたかという点に役立つと思われる記事を掲載した︒ 藤村の﹃桜の実の熟する時﹄では︑文学会や共励会のことが触れられているが︑これらに関する記事も幾つかみられる︒特に共励会に関しては︑前掲︑新潮文庫版の注解︵三好行雄︶には︑次のように記されているが︑その誤りをただす意味でも︑資料︵二一11︶および︵ニー25︶を注目する必要がある︒共励会 当時の明治学院は芸術的雰囲気がつよく︑毎週文学会が催されて外国の近代詩や小説がそこで朗読されたりしたが︑その反面︑国粋主義の影響をうけた硬派の学生も多く︑文学会と対抗して神学や哲学を論じる集いを開いていた︒ここでいう共励会はそうした集会のひとつであろう︒ 明治二十三年の明治学院における特記すべき出来事として︑先に触れた第二回夏期学校のほかに︑インブリー事件と副総理井深梶之助の洋行をあげることができる︒前者については︑すでに本資料集・第一集にその資料を載せたので︑ここでは省略した︒井
深の留学に毒して︑ ﹃基督教新聞﹄がその社説として送別の辞を
掲げたのは︵資料・ニー50︶︑井深への期待が単に明治学院のみ
ならず︑日本のキリスト教界全般のものであったことを物語って
いるといえよう︒
ひとり明治学院のみではないが︑いわゆるミッション・スクー
ルや神学校に関する論評が︑いくつか収録されている︒それらの
論調にみられる共通の特徴は︑ミッション・スクールの衰勢とそ
の挽回策を求める点であり︑それらをつうじて明治学院の苦悩を
も察知しうるのである︒また︑神学校論における特色は︑伝道に
おける自主︑独立精神の強調であって︑神学生の自主性を損う貸
費制度その他に対してきびしい批判がなされており︑ミッション
の支援のもとにある明治学院にとっても︑以上の点は切実な問題
にほかならなかったといえよう︒
この時期なかんずく二十年以降の数年間における日本社会の諸
問題に対する明治学院の姿勢といったものを明確に捉えうる資料
は︑殆んど見いだされなかった︒日本のキリスト教会ないしはそ
の一部が︑対決的姿勢をもって臨んだ問題としては廃娼運動︑内
村鑑三のいわゆる不敬事件︑熊本県知事の発言をめぐる信教の自
由に関する声明等があったが︑それらについての明治学院プロパ
ーの動きについては資料は皆無であった︒ただ︑廃娼運動に関し︑
後に明治学院に合併するスティール神学校︵東山学院神学部︶の
活澱な動きを示す資料は注目すべきものである︒
また︑右のような教会外からもたらされた問題とは別に︑いわ
ばキリスト教会内部から生じて教会に矧ぎな動揺を与えたものと
キリスト教関係新聞記事と明治学院 して︑いわゆる新神学の問題がある︒加藤覚牧師︵明治二十一年神学部卒︶の一致教会除名問題は︑明治学院出身者の間に起こった右にあげた問題のひとつであった︒ ︵工藤英一︶
︹資料︺
一︑ ﹃七幽雑報﹄
︵一11︶ 東京築地六番神学校開始
○東京築地六番にて太月八日より神学校をひらかれ教員はフルベ
劉︑アメモン︑インブリ︑タムソン︑ミラル︑マクラレンの諸
氏にて生徒は差しあたり二十名ほどなりといふ︵二巻四一号.明
治十年十月十二日︶
︵一一2︶ 東京築地の耶蘇教師範学校
○今般建設になりし東京築地の耶蘇教師範学校にては生徒の学業
期限が三年にて其学課は基督を証する事︒旧約書につける歴史︒
聖書の註解︒聖書講義の仕方︒監督の事︒公会の歴史︒公会の法
則︒漢書を読こと等にて方今既に生徒の数三十名に及たるよし且
また現今は学業授受の問少しく英語を用みれども終には皆日本語
になざんと緊まるxよし何にしても喜ばしき事なり︵二巻四三号
・明治十年十月二六日︶
(一黷R︶ 築地神学校の休暇
キリスト教関係新聞記事と明治学院
σ東京築地の神学校は先月下旬に休校によりて三月間生徒は伝道
の至聖地方に追々派出さるるよし︵三巻二八号・明治十一年七月
十二日︶
.︵一一4︶ 築地神学生の教会除名
○下総大森教会員の宮島氏はしばらく東京の神学校にて修業せし
伝道者となるべき入なるに如何の事故にや近頃帰郷してグリー教
会に転じたれば該会にては除名せしょし︵三巻二九号・明治十一
年七月十九日︶
︵一一5︶ 神学生の伝道試補免許
○東京築地神学校の生徒を去四月中会にて試験されしが稲垣信伊
藤藤吉︵横浜海岸教会︶服部章蔵︑青山昇三郎︑北原義道︵東京
築地教会︶篠原閣三︑原眉作︵同芝教会︶井深梶之助︑植村正久
雨森信成︑山本三七︑藤生金六︵麹町教会︶瀬川浅︵長崎教会︶.の諸氏に左の通り伝道試補の免状を先月下旬神学校において附与
ぜられたりとそ
免状写し
明治十一年即一千八百七十八年四月三日東京築地新栄橋会堂二
於テ日本基督一致教会群峰会ハ﹁姓名﹂ノ品行方正而教会ノ聖.
餐二陪スル者ノ証書ヲ受ケ之ヲ准允セン為メ尋常ノ試験ヲ遂ケ
又神ノ道二鍛錬シ及ビ聖書ト神学二合シタル事ヲ充分著シタル
故二二中空窒息ヲ可トセシ又子ハ試補志願者ノ為二設クル定リ タル問雲際フル三惑ナリシカ故此中会二於テ子ハ聖役試補ニシテ此中会ノ域内又ハ規則二従テ短髪ル所二基督福音ヲ宣ル事ヲ准允セリ右二三三ノ記載ヲ以テ証トス 三会議長 サミエル︑ブランウン 記録抜葦 中墨記者 安川亨印 ︵三巻二九号・明治十一年七月十九日︶
︵一16︶ 東京築地一致神学校の概略
鼓二特筆セル一致神学校ハ明治十年十月二日本基督一致教会ト云
フ一派新二起リ弘ヨリ此中レフオムト︑米︑英長老三教会ノ伝道
社員が開キシ者ニシテアマモン︑︵レフオムト︶マクラレン︑︵英
長老︶エンブリー︑︵米長老会︶ノ三若江レが幹事タリ︵並二教
員ヲ兼ヌ︶ブルペッキ︑タムソン︑︵米長老会︶ワーデル︑︵英長
老会︶メルロン︑︵レフオムト︶等ノ諸氏之レが教員タリ大二伝
道志願者ヲ陶冶セリ故二本年四月ノ試験二於テ己一二人ハ教師十
二人ハ伝道試補ノ許可ヲ得タリ今ハ夏期ノ休校ナルヲ以テ現況如
何ヲ知ラザレドモ日ヲ追フテ隆盛二赴クベキヤ否やソバ幹事ト教
員が注意ト不注意ト勉強ト不勉強トニ由ルナルベシ︵該校尉生徒 ︵ママ︶ノ建議ニヨリ襲撃漢学ノ一課ヲモ設ク︶メンテスト︑エピスコパ ︵ママ︶ル︑五平メソテストノ国会ニチモ三二伝道志願者ノ為業神学ヲ教
授セリ然レドモ未ダ神学校ト称スベキ感量アラザリシが不遠三会
一致シテ神学校ヲ建築スルマデニハアラザルベケレドモ盛カンニ
教授スルコトニナルト云フ英国エピスコパル教会ニチモ田津去ル
五且ノ会議二由リテ不遠神学校ヲ築地二新築シテ大二伝道志願者
二教授スルコトニ決シタリト云フ︵三巻四一号・明治十一年十月
十一日︶ のノックス氏なり当地英女学校多しと錐も男子の学校は唯此一匹已なれば其盛大に至る期すべきなり︵五巻二一号・明治十三年五三.二日︶
︵一17︶ 神学生への賞金
近頃築地一致神学校にては講義の俗語にして明諒なる分へ賞金
を与ふることありて右講義士九名の内にて此賞金を得しは井深梶
之麹ぜ︑醸浦徹︒原感作の三白にして賞金を出せしはフオルス氏な
り鋤奨︑滋騨巻十六号・明治十二年.四月十八日︶
\三..
︵一18︶ 神学生の討論会
○東京築地一致神学校の生徒方は討論会を催.し毎月二四の土曜日
に銀倍旧原女学校を会場と定めて去月廿六日には吉田氏を議長と
して聖書翻訳文体論葬礼ヲ司ルハ教師ノ任ナルや否女子二英学ヲ
修メシムルノ利害といふ演題にて初会を開きしょし︵四巻十九号.
・明治十二年五月九日︶
︵一一9︶ 米国長老会男子英学校開校
○昨年中より築地明石町七番地之建築に掛りし米国長老会の男子
英学校は愈落成し去月廿六日より開校になりしが此の校は二階造
にて下に講堂四ツ並に書籍縦覧所等あり其余に生徒大凡七十名を
容るるの室あり現今既に入塾する者四十名計之を教授する先生は
ジョン︑バラ氏オ︑エム︑グリン氏イムブリ氏夫婦並に横浜在留 ︵一110︶ 神学生への懸賞論文○此度一致神学校にて其生徒に課したる文題は﹁最とも平易に基督教を不信者に勧むるの文︑真宗め教理及び其履歴﹂の二題にて最も優等には各々二十円次には各々十円の賞金を与ふるとそ但来三月一日を限るもののよし︵六巻二号・明治十四年一月十四日︶ ︵一一11︶ 築地大学校近況○東京築地大学校は現今寄宿生五十余煙中三十真名は耶蘇教信徒にて以前は該教に敵対せし者も少なからざりし由又一月置三日同校に於て民律博士鳩山和夫君は我国道徳の景況と云ふを演説せられたりと︵七巻五号・明治十五年二月三日︶ ︵一i12︶ 築地大学校演説会○東京築地大学校にて本月三日より毎金曜日諸士を来して演舌会を開かるる由去る三日は植村正久氏︵勇気の説︶十日には田村直臣氏︵主義︶の演舌ありしと︵七巻十二号・明治十五年三月二四日︶
︵一一13︶ 築地大学校の近況
キリスト教欄係噺澗記事と明治学院
キリスト教関係新聞記事と明治学院
○築地大学校 去る十一日築地大学校生徒の発起にて新栄教会の
会堂に於て全国学校の為に祈祷会を開かれ演舌などもありて大に
聴衆を感激せしめたる網場も東京英学校新栄女学校よりも来会せ
られて百旧名の聴衆ありしとまた是迄築地大学校の生徒中にて信
者となりし者は京橋新栄橋両国橋教会及び其他の教会に入会せし
ことなるが今般三校生徒中にて教会を設け会堂を建築せらるるこ
とに決し校長並に教師の賛成もありて遠からず建築に取掛らるる
由︵七巻十二号・明治十五年三月二四日︶
︵一114︶ 東京一致神学校学科改正広告
﹂今般本校ノ学科並校則左ノ通改正致候条此段広告ス一 学科ヲ分テ邦語英語ノニ科トナシ邦語無二於テハ邦語ヲ以テ モラなル 左ノ科目ヲ教授シ英語科二於テハ左ノ科目二心理︑論理︑道義
ノ三学ヲ加へ英語ヲ以テ教授ス
但英語科ト錐三二邦語二於テ適当ノ教科書アルカ若クハ英語二
於テ適当ノ教科書ナク新創ノ講義ヲナス時ハ邦語ヲ以テ教授ス
ルコトアルベシ 一
一 学科目
第一年・ イントロダクション 旧約史 着旧 聖経入門
・基督言行録 註解︵四福音ノ中一︶ ホミレチツクス ハイデルベルグ問答講義新約聖書神学説教学
第二年 旧約史 又ハ 聖経入門 基督言行録︵続︶註解︵四福音ノ中一︶ ハイデルベルグ問答講義︵続︶新約聖書神学︵続︶説教学第三年 アンテクイテユ カヌン 聖経古事 又ハ 聖経教曲ハ エビデンス 基督教徴証論 使徒此伝註解 シスタマチック ナチュラル リビカルド 組織神学︵自然並黙示︶ メストラル 牧会神学 説教学第四年 聖経古事 又ハ 聖経教相ハ 基督教徴証論︵続︶註解︵書信ノ中一︶ 組織神学︵続︶ 教会歴史 牧会神学 説教学右諸科目ノ外二漢学科ヲ置テ歴史経書並作文ヲ講窮セシム
一 入学生徒資格
邦学科二入学スル者ハ左ノ科目ノ試験二合格ノ者タルベシ
○漢学 日本外史︒史記︒八大家 ○作文 記事文︒論文片仮
名交り ○代数 ○万国地理 ○万国歴史 ○物理学大意 ○
化学大意 ○生理学大意︐○聖書大意
英語三二入学スル者ハ漢学作文ノニ科ヲ除クノ外ハ英語ヲ以テ
試験ヲ受ク可シ但築地英学校若クハ其他本校二丁テ可認スル所
ノ学校ノ卒業証書ヲ有スル者ハ試験ヲ経ズシテ入学スルヲ得ベ
シ
』
入学志願者直来八月十五日迄二申込アルベシ
明治十五年七月
東京築地明石町十七番地 東京一致神学校
︵七巻三十号・明治十五年七月二八日︶
︵一一15︶ 神学生と基督教毎月説教会 かねて○東京報知 五日噂のありし一致神学校生徒諸士の発起にて府下 いよいよにて毎年講鑓を開くことは弥来る一月一日夜より銀坐の農業雑
誌社を借受て開くことになり先この回は三ケ月を期して播種に尽
力の筈なるが其人員は神学校生徒のみならず府下の牧師伝導師も
亦これを賛成し人員六十余名にのぼり又之が為に多くの金額を得
たるよし会名を基督教毎月説教会と呼び会員を伝道会員と賛成会
員の二様に分てりといふ又去る十七日には新栄教会にて男四人の
受洗ありしが中三人は築地大学校の生徒なりと︵七巻五二号・明
治十五年十二月二九日︶
二︑基督教新聞
︵ニー1︶ 東京醐致英和学校入試広告
四月六日本校に於て入校試業候に付志願者同四日迄に申込あれ
但し三業課目は英歴史︑文法︑地理︑代数︑和漢文とす○志願
者にして本校に入の学力なき者は神田淡路町英和予備校に入学
を許す約定致置候併て此に広告す 築地 東京一致英和学校 七番︵八三号・明治十八年四月一日︶
︵ニー2︶ 英和予備校の韓国人学生
○韓客 神田淡路町の英和予備学校に在る三三金益昇︑朴命和の
両氏は日曜学校其他聖教の講義等あるときは必らず欠席さるるこ
となく当時は洗礼を受けて一致教会に入会し居らるる由なるが右 リケイヒツ両氏は来る六月下旬頃同じく一致教会信徒李景暦世と共に米国ニュー︑ヨークに留学の已め渡航せらるる筈なりと云ふ︵八五号・
明治十八年四月八日目
︵二一3︶ 一致神学校教科書
○東京一致神学校教科書目
新約聖書神学︵再版義解附属一冊四百十五ぺーヂ定価金弐円︶
旧約聖書神学︵上冊 四百六甲九ぺーヂ 定価金壱円弐拾五銭︶
福音史有神論
神性論
神之定旨
天地創造論
組織神学緒論
神学略説説教学大意
コ
全曲全盲全全全全 一一一一一一一冊前田冊冊冊冊冊Eヨ
六百四拾一ぺーヂ 定価金一円五拾銭︶
三四拾一ぺーヂ 定価三拾銭︶
百二十四ぺーヂ 定価五拾銭︶
五十六ペーチ 定価十二銭︶
百八十ペーヂ 定価四拾銭︶
十二ぺーヂ 定価四銭︶
四百二十ニペーヂ 定価八拾銭︶
二百ぺーヂ 定価五十銭︶
キリスト教関係新聞記事と明治学院
キリスト教関係新聞記事と明治学院
教会政治 ︵全一冊 百二十ぺーヂ 定価二十五銭︶
教会歴史 ︵上戸 三百七十九ぺーヂ 定価六拾銭︶
右ノ書籍ハ東京築地南小田原町八番地長坂氏︑大坂西区土佐堀
三丁目八番地福三社其他耶蘇教書騨二三テ購求スルコトヲ得ベ
シ︵一二八号・明治十九年一月八日︶
︵ニー4︶ 一致神学校の伝道夜学校
○伝道夜学校 今度一致神学校にては速成を旨とし夜学校を開き
伝道士を養成することを謀らるる由教師は大儀見井深ナックス等
の諸氏にて生徒たるべき人物は中年以上にして普通学に達する人
に限ると云ふ︵;二号・明治十九年一月二九日︶
︵二一5︶ ワデルとマクラレンの消息
○ワデル氏及びマクラレン氏 頃日再び日本へ渡来せられたるワ
デル氏はマクラレン氏の代りに築地神学校にて教授せらるること
となりたり又マクラレン氏と其家族は最早再び日本へ帰らるるこ.
と能はずアウストラリヤに移りて病気を保養せらるる由︵一五六
号・明治十九年七月二一日︶
︵二一6︶ 一致神学校の生徒募集広告
神学生募集広告
来九月試験ノ上入学ヲ許ス志願者ハ同廿日迄二履歴書ヲ添へ申込
ムヘシ 一 邦語科入学試験課目ハ左ノ如シ
○漢学︑史記八大家ノ類訓点○作文片仮名交リ○万国地理○万国
歴史○算術終迄○代数一次方程式迄○物理学○生理学○化学○聖
書各大意 但師範学校又ハ同等ノ学校ヲ卒業シタル者ハ聖書ヲ除クノ外試
験ヲ要セズ
一 英語科二入ラント欲スル者漢学ヲ除クノ外英語ヲ以テ右ノ課
目ヲ試験スベシ
但シ東京一致英和学校画論同等ノ学校ヲ卒業シタル魚屋試験ヲ
要セズ 明治十九年七月
東京一致神学校
築地明石町十七番地
︵一五七号・明治十九年七月二八日︶
︵二﹁7︶ 明治学院の成立
○東京彙報 一致教会にては此度一致英和学校神学校及び予備校
の三を合併せしめて明治学院と回ることになりしは嘗て我紙上に
報ぜしが此度府下荏原郡白金村旧九鬼邸の処一万坪を買ひ求め此
に右三校合併より成立一大校堂を建築することに譲りたる由︵一
七〇号・明治十九年十月二七日︶
︵ニー8︶ 英和幼年学校の設置広告
○三三小学校馨広告
今般英和幼年学校の設置を府庁に願ひ地を今川小路壱丁目壱番地
にトし幼童少女の薫陶に熟達せる米国婦人工1・ピi︑バラ氏文
業を外国人設立の英学校に卒へたる本邦人男女二名を聰し六歳以
上十二歳以下の男女三十名を限り親切省電に小学科及英語科を教
授せんとす有志の父兄は至急申込あれ
服 部 綾 雄
︵一七九号・明治十九年十二月二九日︶
︵二一9︶ 一致英和学校生と野球
○両校生徒合併運動 去る廿六日土曜午後一時より新橋鉄道局構
内ベースボール場にて東京一致英和学校生徒の催しにて東京英和
学校生徒を合併しベースボール会を開き赤白の二組に分れ運動を
なせしが内外人の見物は霧多ありし由︵一八九号・明治二十年三
月九日︶ ︵二i10︶ 植村正久︑明治学院嘱託講師に
○植村正久は︑明治学院の嘱托に由て同学産神学科︵旧東京一致
神学校︶の講師となり密会学並に基督教弁証論の講義をせらるる
事となれり︵一九六号・明治二十年四月二七日︶
︵二一11︶ 明治学院共三会の春期例会
○明治学院共励会 の春期例会を去十六日明治学院内に開き会長 杉森氏の奨励ありて後新役員を撰定せしに左の如し 会長石本三十郎︒副会長白洲文平︒書記藤木元吉︒会計加来栄 太郎︒商議員服部綾雄︑杉森此馬︑遠藤維熊︒ 議定の箇条は︵第一︶宗教拡張の為め神田区内へ一の場所を設 け毎月二回蘭島ら書生の為に演説する事︵第二︶当期には上演 説会を催さざること︵第三︶米国諸大学青年基督同盟会の請に 応じて共に盟約する承諾する事前期報告青螺青紫︶甦個条︵一︶毎回回内外の教師 一名を招聰し重に校内未信徒の為に演説会を開く事︵二︶本会 の目的なる伝道会社設立を改革し新に適当の目的を立つる事 ︵三︶規則を改正する事にて集会は祈祷会二十回︒休会一回︒
奨励会四回︒演説会二回︒議事会四回︒入会者九名なりと︵明
治学院内浜励会報︶ ︵一九六号・明治二十年四月二七日︶
︵ニー12︶ 明治学院英和文学会例会
○明治学院英和文学会 は各府県より出京せられたる同盟会の議
員諸氏を招待して去六日前七時半より例会を催し会頭白洲文平会
を司り吉岡弘毅氏祈祷開会英和両語の演説文章︑講演︑対話唱歌
等ありてアメルマン氏祝祷の後別室にて茶菓を虚し来客歓を尽し
て退会せられたるは十一時比なりき︵二〇〇号︑明治二十年五月
二五日︶
︵ニー13︶ 明治学院卒業行事
キリスト教関係薪聞記事と明治学院
キリスト教関係新聞記事と明治学院
○明治学院第二回卒業式 の順序は去廿六日午後七時半より築地
ユニオン会堂に於て海老名弾正氏の卒業説教を始とし廿七日は同
工より築地病院礼拝堂に重て普通第三年生の懸賞英語演説をなし
其翌日は体操運動の式を行ひ本日は午後二時より木挽町厚生舘に
於て愈々卒業証授与式を行ふと云ふ猶ほ詳報は次号に譲る︵二〇
五号﹂明治二十年六月二九日y
︵ニー14︶ 明治学院卒業式
○明治学院卒業式 去廿九日午後二時厚生舘に到るに早や既に殆
ど満堂︑暫時ありて教頭ヘボン氏を始め内外の教授及び客員等十
四五名壇上に整列せらるるや頓て海軍軍楽隊の奏楽始まり終りて
大儀見元一郎氏聖書朗読並に祈祷せらる︑次て第二回の奏楽終れ
ば教頭の紹介にて邦語神学卒業生北山初太郎氏使徒保羅と題して
演説せらる其主意明瞭言語絶美随分善出来しと思はれたり但し預
て文章に記列ねありしものと見え其演説自ら文章体に謀り蓋︑抑
則︑而︑なんどの言語を交へしゅえ聴衆を感動せしむる点に於て
は少く遺憾に思はしめたり︑次に同上生原沢紀強襲が朗読せられ
たる社会改良論の論文は現時世の外部に流るるを憂ひたる文章に
して首尾貫徹其意の存処を知らしめたり其勢力の抜て見えしは読
了までなるゆゑ是非もなし続いて普通科卒業生白洲文平氏が哲学
と政治の関係と題せる英語演説は其発音真に見事に殆ど外人と異
ならざるを覚えしめたり普通科卒業ほど位にては蓋し世間恥かし
けるまじ︑若それ細く出で太く乱れ急に高く急に低くなる声音の 調子に於ては演者の趣向妙なりと錐ども其反対より云ふときは則ち余り昼すぎて自然を失ひ従って其の議論の主意をして甚だ解りにくからしめたり︑最後には又邦語神学卒業生林竹太郎氏の国民の元気てう演説あり議論高尚に出で︑精神弥増しつつ終に基督教は国の元気なる点に帰着し終れり若夫れ強て其無ところの欠点を云はば少しく機械的にはあらざりしか︑斯て又奏楽の後教頭ヘボン氏の教育に関する演説を終り其より卒業生に卒業証書を授与したる姓名は左の如し 邦語神学部 江川勝信 古沢久治 秋葉 省像 原沢紀堂 林竹太郎 北山初太郎 児玉章吉 篠原松造 和知 牧太 普通学部 白洲文平編者旧く鳴呼今や収納大多忙の秋に看て九名の獲人を得たり一人の普通科を得たりけり我等の大慶何物か之に加へん唯だ諸氏よ之を記せ諸氏が卒業演説の出来不出来諸氏が試験の点数は将来の窮達に関せざるなり諸氏が将来をトするは今日の覚悟如何に在るのみ若夫れ細工的機械的の蕪範を脱し精神誠実的の天地に出で芸人とならず人物とならば則ち成功疑なからん兄弟の縁故無礼を冒す幸に請ふ之を恕せよ︵二〇六号・明治二十年七月六日︶
︵ニー15︶ 明治学院卒業生︑生徒の伝道地