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明治学院百年史委員会
隆型・岡薫 鍵田悔 悟腿瞬ヨ 髄訓ミ馴 髄疑期哩懲 麗楓痙廻 蓮盤壇恒 弦楓田瞳 職獣田牒 嶽唱測照 量川喪瞬景 △︑く㌫斌︵肝へ︶加胆鳳隅田 ︵献へ︶駆血﹁コ丹 駁纏貝器︵献へ︶気さ融鴇 量川止旨煮 選多謝仔︵膠忌︶ ︵匪画影膿﹃禦礁楚隠﹄蝋瀧︶礫匝籠愛縁爪蝋U一穂蹴負 .颪温 .颪仔 .颪巡
目 次
資 料 山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄⁝−:・:・⁝⁝⁝−⁝⁝⁝: ⁝:−解説平林武雄..︵一︶
全国中等学校優勝野球大会明治学院中学部戦績⁝・・⁝⁝ ・⁝・⁝解説 工藤英一⁝︵一三︶
﹃福音新報﹄明治学院関係記事⁝−⁝⁝⁝⁝−⁝⁝.. ⁝⁝ ⁝−⁝.⁝⁝・・⁝−⁝⁝・⁝・︵一天︶
1自昭和二年〜至昭和八年1
資料︵−︶
山野虎市遺稿﹃詩集 私は魚だ﹄
解説 平 林 武 雄
︻解説︼
ここに収録する短詩三十五篇は︑日本基督教会牧師・山野楽市
(一
ェ八一−一九二五︶の遺稿である︒
山野と同じく和歌山県に生まれ︑明治学院神学部に机を並べた
沖野岩三郎︵一八七六−一九五六︶は︑山野の死後︑その遺品の
内からこれらの詩稿を見つけ︑これに﹃私は魚だ﹄という標題を
添え︑自ら序詞を綴って︑雑誌﹃子供の教養﹄昭和十年一月号か
ら十二月号までに依頼掲載した︒詩の総数を︑沖野は三十八篇と
記したが︑事実は三十五篇を数うるにとどまる︒山野は生前一再
ならず原稿手控日誌など個人的文書を焼却し︑死後一片の記録す
ら残さなかったほど潔癖な人であった︒今︑この作品群を︑この
時点で︑この形式で公にすることが作者の意に適うか否か︑甚だ 疑わしい︒然し山野の生涯と業績とが忘却の淵に深く没している ことを営む声あるは事実なので︑当時の﹃子供の教養﹄・編集者
︵現在日本キリスト教団小金井教会牧師︶武南高志氏の了解を得︑
同氏所蔵誌から再録して︑敢てここに転載することとした︒因に︑
﹃子供の教養﹄主筆故高崎能樹は︑阿佐ケ谷教会牧師兼阿佐ケ谷
幼稚園長だった人で︑山野︑沖野と同様︑明治学院神学部卒業生
であり︑共に青年時代より相識の間柄であった︒︵写真参照︶
*
山野虎市︵青年時代には五聖と号した︒また涙川と号した時期
もあったらしい︒︶は︑和歌山県那賀郡西貴志村岸宮の農家に生
まれた︒父秀吉は後取り息子であったが︑酒好きのため親の気に
入らず︑結局弟に家を譲る仕儀となり︑妻つねのと長男虎市とを
1
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
し
山野虎市遺稿﹃詩集蝋私ば魚だ﹄
伴い和歌山市に出て食掌を経営するようになった︒秀吉は生来温 に妻ハルと共に青木牧師から洗礼を受けたばかりで信仰に燃えて
和な人で︑ ﹁漢籍に親しみ小説を耽読するといった傾向﹂もあっ いた︒こうして山野は和歌山教会に接近し︑県農会技手杉山元治
たが︑幸い店は繁昌した︒それは﹁妻つねのの勝気でテキパキし 郎や粉河の名門の次男児玉充次郎そして中学の俊秀加藤一夫ら教
た気性がこの商売に合った﹂からであった︑という︵長谷部俊一 会の青少年と交わった︒沖野は意を決し︑三十六年八月限り教員
郎氏の文に拠る︶︒ を辞してこの教会の宣教師ヘレフォドの伝道助手となり︑山野は
虎市も幼時から勉強好きで︑和歌山市の尋常小学校を卒業して 三十七年二月七日︑この教会で﹁洗礼﹂を受け直し日本基督教会
高等小学校に学び︑なお進んで同市の徳義中学校に編入し︑ここ﹂の信徒に転じ︑この教派に属して終生かわることがなかった︒
に三年間在学した︒明治三十三年︑両親の期待を負うて東京に上 ・山野が洗礼を受けた二月というのは︑日本がロシアと戦端を開■
り︑青雲の志を胸に︑明治法律学校の門をくぐった︒ここで法律 いた月であった︒当時︑教会の中心的動力であったのは沖野・児・
を学ぶうち︑たまたま一義︑本郷の通りを歩いている時︑当時高 玉・杉山・加藤・山野のほか︑三田村篤志郎・徐昌道.玉置真吉
名の文学者宮崎湖処子こと宮崎八百吉の熱烈な伝道説教の声にひ らの青年で︑彼らは予てトルストイに傾倒していた人々であった 2
かれ会堂に入ったことが転機となり︑忽然信仰を表白し︑﹁浸礼﹂ から︑教会の内側で反戦論議をするだけではあき足らず︑街頭演
を受けて基督教会︵クリスチャン・チャーチとも呼ばれる教派︶ 説や︑演劇活動で戦争反対の運動を盛りあげた︒戦時体制下︑こ ノ の信徒となった︒それは明治三十五年五月三十一日のことであっ れは当然衆目をひき︑ ﹃和歌山新報﹄は︑記者三木甲子郎の筆に
た︵和歌山教会の記録による︶︒その後︑和歌山市に帰省したお よってセンセーショナルな記事を書き立て︑ついに県議会の問題
り︑彼は三木町橋詰八の日本基督教会に寄って見た︒そこは米国 となり︑結局︑杉山は県農会技手の職を剥がれ︑中学三年の加藤
帰りの滝本幸吉郎が牧師で︑当時小学校教員であった沖野岩三郎 は放校処分一歩手前まで追いつめられることになった︒むろん︑
が青年たちを牛耳っていた︒ ︵青木仲英という明治学院出身の前 和歌山教会はごうごうたる非難を浴び︑温厚な滝本牧師はろうば
任の牧師ば三十五年六月に京都市に転出し︑時たま聖礼典執行の いし︑ ﹁長老三田村忠国を中心とする宗教裁判は山野虎市を除名
時だけ出張して来た︒︶ある日︑青年会が有田屋町南ノ町の図書 した︵沖野︶﹂︒山野の除名は三十七年十一月二十四日︑と和歌山
館で開かれるから︑と誘われて行ったところ︑それは沖野が町の 教会の記録に見える︒年長で指導者格の沖野は逸早くこれより先
若者めために創設︵三十五年十二月ごろ︶した図書館だと知った︒初夏六月︑妻を伴って東京へ走り︑明治学院神学部別科に入学し︑
二人はそこで名乗り合い親しくなった︒沖野も三十五年七月六日 妻も近くの聖書学館に入ってウェスト女史の指導のもと牧獅の妻
どしての教科を学んでいたα山野の純情と︑沖野の墨池とが㌔ま
ざまざと眼前に見えるようである︒
教会除名という致命的処分を一身にひっかぶったスケレプ・ゴ
ート山野は挫折するどころか︑いやが上にも確信に燃え︑法律を
学んで家名をあげようとした素志をかなぐりすて︑敢て伝道者の
道に飛込み弱者の友になろうと︑下宿の庭先に所蔵の法律書一切
を積み︑石油をかけて焼却した︒そして先に神学校入りした沖野
を東京芝白金猿町の住居に訪ね︑共に熱い祈祷を重ねた上︑沖野
の斡旋により︑自らも同じ神学部の別科に編入学した︒教会の除
名者を容れた井深総理の寛大さには驚く︒ともあれ山野はかねて
婚約していた野上たみゑという人を和歌山市から呼び︑学院に近
い大崎町に新生活をはじめた︒ ︵野上家は東田中町に在り山野の
生家に近く︑瓦製造業を営み︑二人は幼時から相親しんだ仲であ
った︒︶やがて長女が生まれた︒﹁快活で︑経済観念のとぼしい彼
は絶えず金銭に事欠き︑そのたびに若い夫人の着物をかついで質
屋通ひをした︒あ玉悲惨なる滑稽かな︑彼はかう言ひながらいと
も朗かであった︵長谷部氏に拠る︶﹂︒山野の神学生生活はどのよ
うなものであったか︒彼自身の記述が全く無いので︑例えば︑賀
川豊彦の日記︵﹃明治学院百年史資料集第2集﹄所収﹁矛盾録﹂︶
や同時代の神学生の追憶などを参照して一端をしのぶほかない︒
*
明治四十年六月一日︑山野は明治学院神学部を卒業した︒この
日︑沖野岩三郎・児玉充次郎すなわち相前後して風神学部に入学 した二人も共に卒業したか ︵卒業式の慎様は前出資料集第3集一 五〇ページに詳述あり︒因に杉山元治郎は免職処分を受けたのち 仙台の東北学院神学部に学んでここを卒業し︑加藤一夫と玉置真 吉とはやや遅れて明治学院神学部に入り︑ここを卒業した︒三田 村は帝大に入り後年東京帝大医学部教授となった︒︶ 山野は神学部卒業と同時に︑妻と長女とを伴って佐賀県唐津の 日本基督教会に赴任し︑翌四十一年三月まで在任︒四十一年三月 より四十二年三月まで米人宣教師ローガンに協力して徳島県小松 島に伝道︒四十二年四月より大正八年三月まで福島県川俣の教会 に在って伝道に従事した︒.この教会で彼の説教を聴いた長谷部俊
一郎氏の回想ほど確実な資料はない一
﹁彼は当時川俣に伝道して深く世にかくれ︑近郊農村にもその
感化を及ぼし︑己が衷に躍然と燃えてみた芸術の天稟に目醒め
かけてみたやうだ︒私はその四二か二年に満たない間でありた
が︑中村に転ぜられる重心の薫陶を受けた︒杉山元治郎氏が相
馬小高に農村伝道を試みてみた頃で︑杉山氏が時折たつねて来
たり︑東京から沖野氏がたつねて来たり︑年少の私にとっても︑
様々の波瀾が精神的に起って来た時代であった︒よく彼はロシ
ア文学殊にトルストイを熟読してみたらしい︒集会の後や︑そ
の他の会合の折に︑トルストイやドストイフスキイのことをき
かせられ︑またツルゲネイフの﹁猟人日記﹂の自然描写を激賞
してみた︒彼はこの期間が貧しくまた孤独であったが︑よく信
者に敬愛されて︑郷土の持つ雰囲気にひたって居たやうだ︒
3
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
︵﹁山野虎市のことども﹂より︶﹂﹁広い額に明晰な叡智を蔵し︑
口元に微笑を漂はせた坐談に長けた彼の風貌を私は思ひ浮べる
ことが出来る︒浮世小路と称する駄菓子屋︑機屋︑芸者屋の軒
並ぶところに小さな借家の教会があり︑そこから広瀬川端の工
場を改造した所へ移転して小名浜から婦人伝道者の田丸よねを
招いて休養所と名づけ︑伝道の傍ら女工のための手芸や裁縫を
教へたりした︒信者にはよき牧師として十年に余る日子を平静
に過したのであるが︑この期間に彼は詩人としての自己の天分
を真に認識したのである︒︵﹁大正時代の宗教詩人の群﹂より︶﹂
大正八年三月︑十年間奉仕した川俣を去って相馬郡中村に転任し
た︒中村時代は不幸つづきであった︒長谷部氏に拠れば︑ ﹁腸チ
ブスに罹って殆んど絶望視され加藤一夫は平の牧師中村月城を煩
はして最後の祈祷をと決意して相談をした程であったが︑奇蹟的
に恢復した︒つ怪いて無理な読書がたΣって眼病を患った︒仙台
に出て堀内真澄の厄介で︑暫く治療に時日を費し伝道に身を入れ
ることが出来なかった︒さうして右眼が辛くも助かって失明を免
れた︒﹂このような健康状況では︑機微な社会対応︑体力を要す
る説教口演︑複雑な信仰指導の煩に堪えないのは当然である︒四
年足らずの牧会伝道ののち︑大正十一年十二月︑山野は中村教会
を辞し︑中村町大手先の家をたたみ︑家族を連れて上京した︒
この年︑旧友沖野は東京市外下落合一五一〇にゆとりある新居
を構え︑﹃金の船﹄︵この年六月﹃金の星﹄と改題︶という児童雑
誌を零墨かりとして︑主として童話執筆と講演とκ活躍していた︒ 特にこの年は五月から九月︵?︶まで鮮満諸都市を講演視察に廻
って来たという油の乗った時期であった︒軽井沢に山荘もあった︒
山野は手負いの鹿の如き身を沖野の家近く︵隣家かどうか︶に休
め︑年が明けると︑沖野のすすめにより︑児童書出版・金の星社
の社長斉藤佐次郎氏に面会した︒こうして︑山野は大正十二年二
月からこの社につとめるようになった︒ ﹁取敢ず校正などの事務
に当たってもらったが︑眼が大分不自由のように見受けられ︑ρ毎
日の出勤は無理と思い︑かたがた筆の立つ人と見て︑自宅で出来
る翻訳の原稿書きをしてもらうことにした︒私が丸善で適当な物
語などを手に入れてとどけた﹂︑と斉藤氏は回想する︒こういう
いきさつで︑金の星社から︑ ﹃小戸キリスト伝・新約物語︵世界
少年少女名著大系13・大正一四・二・五︶﹄﹃こども旧約聖書物語
︵同大系16・大正一四・五・一七︶﹄﹃アラビヤン・ナイト・航海
の巻︵世界名作童話大系5・大正一五・=一・一七︶﹄﹃ジーグプ
リード王子物語︵世界少年少女名著大系35・昭和二・二・一〇︶﹄
が次々と出版された︒このように著述に熱意を示したけれども︑
﹁伝道の意思をなくし聖職を放棄したとは思われない︒最期まで
神の摂理を疑わなかった︵山野騰夫氏︶﹂︒
大正十三年十二月二十七日︑彼は銭湯に行ったあと風邪をひき
こみ床に就き︑そのまま起たず︑急性肺炎のため︑一週間に満た
ぬ病床生活ののち︑翌大正十四年一月二日︑枕頭の家族と友人と
に懇ろに別れを告げ︑自宅︵東京府北豊島里長崎村字火の見下一
九四0︶で永眠した︒四十三歳であっ允︒葬儀は︑紳野の司式龍
4
より︑数人の友人参列のもと︑キリスト翠蓋で簡素に行われ︑遺 ト ワ コ 骨は故郷岸宮の大日寺に埋葬された︒たみゑ夫人は︑長女永遠子
︵当時女子学院に在学︶をひとり東京に残し︑幼い子たちを伴っ
て実家に帰り︑言い尽し難き辛苦に克って遺児の養教育を全うし
た︒その子たちは︑ ﹁善人になって︑自活する人間になれ﹂との
遺言を固く守って今日に至った︑という︒夫人は昭和四十年一月
十三日東京中目黒に永眠した︒八十四歳︒令息はこの時父の遺骨
を大日寺より移し︑改めて両親ともに富士霊園に埋葬した︒現在
長女永遠子︑三女秋江︑三男蔑夫︑四女久子の諸氏が健在である︒ ショウ ︵長男佐賀君は三歳で︑次男幹夫︑次女謹子君も幼くして他界︶
*
山野は何時ごろから詩作を始めたか︒山野の親友加藤一夫は︑
大正四年九月︑雑誌﹃科学と文芸﹄を創刊し︑トルストイの影響
を強く受けたキリスト教的宗教思想を唱え︑進んで民衆芸術運動
を展開した︒この雑誌に山野は創作詩を寄せたが︑恐らくこの頃
が彼の詩作活動の開始期であろう︑と長谷部氏は推定している︒
とすれば︑それは山野の川俣時代に当たる︒それ以前に習作時代
があったであろうとも想像されるが︑本人が全く記録を残してい
ないので︑それを探る手がかりはない︒長谷部氏はまた︑ ﹁私は
魚だ﹂と題する詩を︑ ﹁大正十一年四月の作で︑同年六月の基督
教新聞﹃神と人﹄誌上に載った作である﹂と確定している︒そう
すれば︑この詩は中村時代の作となる︒従って︑川俣・中村の両
時代にかけて︑連続的に詩作したものと推定してよかろう︒東北
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄ の僻村ーキリスト教に対して偏見が強く︑教勢なかなか振るわ ぬところで︑しかも︑とりわけ独立自給の理想を固守する日本基 督教会派所属の伝道者・牧師として︑山野の嘗めた生活上の辛酸 は甚だしいものであったろう︒そうした状況下で︑彼は忠実に伝 道した︒﹁米屋さんと表具屋さんと繭屋さんと﹂︵﹁三ツの顔﹂︶を 集めて福音を説き︑ ﹁農夫や僧侶にも知己が多く︑頓智頓才があ り︑誰とでも気軽に話す﹂︵山野騰夫氏︶︑ ﹁純情︑快活︑開放的 の人であった︒座談のうまいところは沖野氏によく似ていた﹂
︵斉藤氏︶とも伝えられる︒さればこそ︑無限に深い神の愛と︑
自由自在な人間の跳躍とを歌い︵﹁私は魚だ﹂︶︑あるいは︑人間
の運命よりもなお強い神の強さを歌う詩に︵﹁うちなるいのち﹂︶︑
この人独特の平安大悟の心境が︑遺憾なく流露したのである︒
コ赦してやれ﹂と題する詩一
︵略︶
見よ! かの絶対者は一切を赦してみるではないか!
かれは 星と︑山と︑河と︑淵と
鷲と︑雀と︑小鼠と︑獅子と︑
善人と︑悪人と︑智者と︑愚者とを︑
受け容れ 押し包み︑悠々と流れてみるではないか︒
彼は かしら この人間の屑︑罪人の首︑たわけの魁をも
5
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
いだき︑つ﹂み︑温めてみるではないか
赦してやれ
私自身をも赦してやれ
下劣で︑浅薄で︑倭少なる私自身を赦してやれ︒
︵略︶
この作品を評した長谷部氏の次の言葉は︑彼の本領を伝え︑彼
の詩を︑その最善の相に於いて評価して︑きわめて適切と言えよ
ζノー ﹁このやうな思想詩が︑このやうな清澄なひびきをもって我々
の教界の内部から曽て歌はれたか︒虎市の詩にはトルストイア
ンとし七︑の三三が深い良心の根抵をもつて貫かれて︑彼の内気
な性質は外面に気鋭を放たしめず︑自己の良心と神の前に真撃
な一路を辿らしめたものとなったと考へられる︒﹂︵長谷部俊一
郎氏﹁大正時代の宗教詩人の群﹂︶
ただし㍉この三十五篇の詩群には︑沈痛な自己批判︑辛辣に過
ぎる自嘲の色が余りに濃く︑世俗に挑む風刺詩が支配的である︒
そうじて︑社会詩・風刺詩は︑思想が先行し︑表現が性急となり︑
用語が洗練を欠き易い︒この種の欠点が︑彼の作品にも露呈され
ているのは惜しい︒同時に︑ここに大正時代の逼塞した社会相と︑
混迷したキリスト教界の実相とが反映している︑とも見られよう
し︑あるいは彼を教会から追った酷薄な状況に対する反発が見ら
れる︑とも解されよう︒洒脱な面とはうらはらに︑ ﹁自己の主張 をまげない︑頑固なところもあり︑又ひとにお世辞のいえない人 で︑この点から敵も多かった︵山野賎夫氏︶﹂といわれる作者の︑ 別の性格面が現れているのかも知れない︒ 山野の技法については︑同時代の牧師詩人山村暮鳥︵土田八九 十・一八八四一一九二四・聖公会︶の﹁山上にて﹂を︑ ﹁私は魚 だ﹂と併置・対比して見るがよいであろう︒
山上にて 山村暮鳥
自分は山上の湖がすきだ
自分はそのみなそこの青空がすきだ しろがね その青空には白銀の月がでてみる
ひるひなか
その月をめぐって
魚が二三尾およいでみる
ちょうど自分達のやうだ
おお人間のさびしさは深い
暮鳥は︑きびしく冗語を削り落とした︒斧鍼のあとに残る一握り
のことばの間隙に︑暗示と象徴とが浮かび上がってくる︒山野の
詠嘆は︑やや饒舌に過ぎ︑読者に余情補完の隙を残さないうらみ
がある︒ なお︑この作品群から推すと︑山野には︑長い田園生活にも拘
らず︑自然詩がとぼしいようである︒この時期︑生活上の急迫感
6
が彼に自然誠詠の余裕を与えなかったのか︒その中で︑ ﹁家鴨﹂
などは好箇の旧情小詩として読者の心に好ましい印象を残す︒
山野には小説の試作もあったらしい︵山野騰夫氏︶︒沖野に長
篇小説﹃生れざりせば﹄ ︵大正一三︶.の作があり︑その主人公川
田和志雄は山野をモデルにした︑と生前沖野が斉藤氏に語ったと
いう︒その小説は︑筋の展開がいかにも沖野流で︑多分に虚構と
思われる部分が見えるので︑もし山野が小説を試作したことが事
実ならばそれは山野の告白的自伝であり︑それを沖野が自作の原
型として自由に利用したのではあるまいか︑というのが私の想像
である︒ 山野には︑また絵こころがあり︑子供の凧に絵など描いてやっ
たという︒
*
キリスト教詩人としての山野虎市を論じたものに︑長谷部俊一
郎氏﹁山野虎市のことども﹂︵﹃新興基督教﹄昭和一〇年八月号・
日独書院︶︑同﹁現代基督教詩人名詩鑑賞・山野虎市の巻﹂ ︵﹃基
督教家庭新聞﹄昭和=一年四月号・日曜世界社︶︑同﹁大正時代
の宗教詩人の群﹂︵﹃新興基督教﹄昭和一四年一月号・日独書院︶
がある︒沖野岩三郎︑児玉充次郎の著書にも山野への言及がある︒
拙稿は︑それらの文献と︑山野賎夫氏︑斉藤佐次郎氏の個人的教
示に頼りつつ︑管見を綴ったものである︒︵一九七七・一二一=︶
付記 本資料集とびらの写真は山野家提供のもの︒写真中の人
物の氏名は専ら鷲山・松尾両先生のご記憶にたよった︒
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄ ︻資料︼ 詩集 私は魚だ 山野虎市遺稿 序詞︵沖野岩三郎︶ 親友山野虎儲君が︑明治法律学校を卒業したのは︑明治三十六 年の春であった︒その頃私は和歌山市の日本基督教会で︑牧師が はりをしてみた︒そして二つの魂は︑神によって結ばれ︑遂に無 二の親友となった︒ 明治三十七年の六月︑私は山野君に別れて上京した︒それは明 治学院神学部に入学せんが為であった︒ その頃山野君は︑郷里和歌山市に在って︑弁護士試験に応ずべ く法律書を山と積んで必死に勉強しつつあった︒私は俊才山野君 が唯一挙にして弁護士試験に合格することを信じてみた︒ 然るに︑芝白金の寓居に私を訪ねて来た山野虎市君は︑私に意 外な事を告げた︒それは︑数年間勉強し来った法律書を悉く焼き はらって伝道界に身を投ずる決心をしたといふのであった︒実際 彼は︑児玉充次郎︑杉山元治郎の言論と共に︑涙と共に祈りなが ら︑法律書に石油を濃いでこれを焼払ったのであった︒そして異 常な決心を以て私を訪ねたのである︒ 私は彼と共に祈った︒祈りに祈った末︑遂に私は彼を明治学院 神学部に入学するやう斡旋の労を取った︒ 在学三年間︑私は毎日彼と共に語り︑共に祈った︒そして卒業 後︑私は紀州に︑彼は九州に赴任した︒その後︑彼は四国に転任
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山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
し︑次いで福島県川俣町に赴任して︑大正十一年まで︑そこにる
た︒ 彼は熱情家であった︒彼は宗教家であると同時に詩人であった︒
彼の友人加藤一夫君が東京で﹁科学と文芸﹂を発刊するや︑彼は
同誌に詩を投じて︑その詩才を認められた︒
大正十一年に職を辞して上京した︒そして︑私の隣家に居を構
へて専ら翻訳に従事した︒その間にも︑絶えず作詩を発表してみ
たが︑大正十三年︑彼は突如として此世を去った︒
私は彼の筐底から︑その作詩三十八篇を集めて︑これに︑ ﹁私
は魚だ﹂と題して︑これを﹁子供の教養﹂誌上に発表することに
した︒ 読者諸君が此の詩を読んで︑彼山野虎市単が︑如何に澄徹した
人生観をもってみたか︑如何に悲惨な境遇を心的に経過して来た
かを知って下さるならば︑それは取りも直さず︑此の熱情と信仰
に富む詩人山野虎市君に対する︑此上もなき追悼供養である事を︑
私は信じて疑ひません︒
…游 「で居る 一尾の 魚だ
海は深い 愛の海は深い
私の上には 青い水が 無限の層を なしてみる
で 私は 跳ねても 躍っても 飛んでも
水の外に 出ることが できない
が 何と云ふ 自由だ! お1漁師よ ぎょさ がぎ お前の 魚技も 網も 鉤も
もう この まん中の 底に
達することが できないのだ
私は 今 かぎりなき愛の 海の まん中で
ひれ 鰭を振って
およ …游
ャ くぐり はね 飛び をどる!
8
私は魚だ
底だ まん中だ おΣ深い!
私は 今 深い まん中の 底に 居るのだ
さうだ 私は 神の愛の海の まん中の 底で 鳥の御殿 私が五年前あなたを訪れた時 あなたは貧しい生活を︑しみム\と私に訴へた︒ 成程︑其時のあなたの生活は随分苦しそうであった︒ あなたは其時︑年とったお母さんと︑良人と︑一人の小さな娘 とで︑たった八畳一室の小さな家に棲んでみた︒
だが︑あなたの小さい家の周囲には︑廻書へもあるやうな
大きな木が五六本巨大な枝を︑八方に拡げてみた︒
そして時は丁度︑タ暮であったから︑いろくの鳥がねぐらを
求めて帰って来て
きまざまの声を出して暗いた
それは微妙な︑此の世のものならぬ自然の音楽として私の耳に
聞かれた︑
私の耳はこの音楽にきき惚れ︑
私の霊は神秘の殿堂に引き入れられた︑
私は天啓に打たれたやうに
﹁ここは鳥の御殿ですね一
そしてあなたは鳥の御殿の女王ですね一﹂と云った︒
あなたも啓示に接したやうに
﹁ああほんとにさうですね一!﹂
と叫んだ︒そしてあなた.の貧にやつれた︑
然し白い美しい顔に︑幸福らしい微笑が漏れた︒
おお其時のあなたの微笑は︑貧しい人の微笑ではなかった︒
たしかに女王のもらす微笑であった︒
私は何時までも︑
﹁鳥の御殿の女王﹂と云った私自身の言葉と︑
其言葉に打たれ︑驚き︑よろこんだ輝やかしい微笑を忘れない
であらう!
アアそれから五年が経つた
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄ その鳥の期節が︑また廻って来た︒ 今も今とて︑塒に帰るタベの鳥が 私の屋根の上を飛んで行った︒ おお鳥の御殿の女王よ︑健在なりや! あなたは今! ソロモンのそれよりも立派な宮殿で︑ 小烏の大オーケストラに 女王らしい微笑をもらしてるるであらう? 寂しさ 美人が来た! 水色のパラソルを斜にして︑ 丈すらりとした︑容子のよい美人が 前方からやって来た︒ 私は何と云ふことなしに︑一種の期待を以て︑ 出逢ひさま︑彼女の顔を見た︒ 彼女の顔には
﹁無知﹂及び﹁下劣﹂が刻印せられてみた︒
私は︑ 物を失ったやうな寂しさを
心の一隅に感じながら︑
9
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
夏の暑い裏道を︑歩いて行った︒
雲
引き裂かれた金欄の慢︑
風にふくらむ紫の法衣︑
赤い冠をかむって︑口を開いた獅子︑
踊る猿︑ 投げつけられた銀縁の泥︑
南の方より静かに︑迫り来る
未来派の騎兵の一旅団︒.
今︑タ陽に彩られたる︑これらの不可思議の物象
須更にして︑同一の灰色に化せんとす︒
蜻
谷川が 浅い銀色の沙の上を
銀の小鈴のやうな
静かな︑ささやかな音をたてて
走ってゐます︒
くさむら 三三の叢から
ただ一本の 真紅な︑毒草の花が 垂れ下がってゐます︒ 其尖端が 流れに触れて居るが故に︑ 時計の振子の如く︑ たえず頭を振ってゐます︒
1丁度︑銀の小鈴の拍子忙合はせてダンスをしてみるやうに︒
この︑頸をふって︑ダンスをしてみる毒草の花の上に︑
大きな納が一匹︑
静かに︑安らかに︑眠ってゐます︒
犬の児
犬の児 黒い犬の児
この闇の夜に
ふりしきる大雨に
びっしょり濡れて
悲しげに︑鼻鳴らしつつ歩み行く
小さき黒犬
もう時の鐘は十二時を打ち
家々の戸は閉され
10
雨はいよいよ降りしきるに
お前は今から︑何所へゆく?
びっしょり濡れた黒犬︒
.・﹂本の雑草
蔵の陰に育つた一本の雑草
若芽の時から︑ふみにじられ
幹になっても︑ふみにじられ
やせた穂をつけてからも︑ふみにじられ︑
つづけざまに︑ふみにじられて来た一本の雑草︑
アア︑日陰に育った︑青白い一本の雑草!
それでも︑
お前は生きてみる︑生きてみる!
家鴨︐
タ暗に
少年二人 何事か談らひつつ
一群の家鴨を追ひて
帰り行く︑
かなた霧につつまれし家︒
寺の壁白く浮び︑
仙三三市遺稿﹃詩集.私は魚だ﹄ ぎ ぼ し ほのかに光の橋の擬宝珠︒ 家鴨の群︑足をそろへ また首をそろへ 鳴きもせず ふりむきもせず うごめきゆれつつ 見えずなり行くータ暗に︒ 長き影 うつろなる心を いだき よろくと 歩む うすぐらき 横町︑ 年老ひし 男按摩と はす 斜にならびしわが 長き影 赤 はつ夏の 若葉かほる 並木道 城に入る 真直ぐなる 並木道 その道を あかくと てらす その道を行く 赤馬一匹︒・ ひ 太陽あかく 朝の太陽︒
11
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
道 あかく
馬 あかし︒
わかめ売り わかめ わかめ買へ と若布売りは いへり
わかめ買ふ と 我れは いへり
わかめ買はずと 我が妻は いへり
わかめうり は ためらひて 黙して .去れり
はつ夏の朝
狂女
若布のやうな袷着て
白粉こってり塗りつけて あたま 蓬のやうな頭髪には︑一寸リボンを挿み
尻切草履を引き摺って
恋に狂ふたお龍さんが
何かぶっく独り言
秋のタ日を背にうけ
細い野路をただ一人︒
恋に狂ふたお龍さんが 秋の野路をただ一人︒ 空蒼々 俺は うち虫 掃き溜の犬 腐れ肉 清め給へとは祈るまい ア・宿世の因果 だが 日はらんくと か黛やき 空蒼々 く︑と笑へり くエと笑へり のみち 秋の野路の独り歩きに︑くΣと笑へり くるしみの焔に坐して 鳥羽絵の如き人の世の姿に くΣと笑へり 独り笑へり︑秋の野路の︑独りあるきに︒ 田舎の停車場にて うつく 露まって︑つぶれた煙管で︑ 煙草を吸ってみる鼻の曲った︑ゴ
12
リラに似た百姓︒
短か﹁い半纏を着て︑きたない腰巻を脛まで垂らした︑嬰児を背
負った年増女︒ はらみ 眼の赤く︑くさった受胎女︒
鼻のとがった︑笈摺を負うた︑やせこけた山伏︒
白粉をこてくと塗って︑思ひ切り襟を後につき出した あかえび 顔の平べたな︑赤蝦に似た女︒
鼠顔の番頭︒
赤ら顔の豚のやうに肥った四十男︒
⁝⁝これら奇怪なる生き物が︑発車時間を待ってるる︒
俺は︑醜怪な世界を見た!
俺は︑この醜怪な世界を
笑ってよいのか
憎んでよいのか
憐んでよいの﹁か
シャートルの友へ
昨日君の兄上と二人で
あの山の上の神社の廊に
腰かけて1実は人が居ないから丸裸体になって−
杉の葉の間から
深碧の大空を飽かず︑ながめた︒
吾妻山には
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄ 雲の峯が︑起り︑伏し︑崩れてみた︒ 帰途には 小さい池に蓮の花が咲いてみた︒ 貧家の藁屋根に いくつ 南瓜が幾個︑︑昼寝してみた︒ 畑に茄子が下黒い顔を磨き上げて つΣましくτ黙ってみた︒ 胡瓜が馬鹿にした様に︑ぶらりと下がってみた︒ 里芋の葉が一列に 頸をふってみた︒ 自然の世界は 神秘な不可思議国だ! 僕は帰って︑ 清新な︑うっとりした気持で 静かに茶を賢つた︒ 昨夜 蛙が 一匹悠然と︑坐敷に はい 這込んで来た︒ 君の住むシャートル︐の中央街には 蛙は居まい!
13
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
僕は今︑秋を待ってるる︑
清冷の秋を待ってみる︒
風にすれ合ふ玉蜀黍の葉音! も つ 痛烈な百舌鳥の声!
稲の穂の香!
累々たる紅の柿!
月夜の虫の音!
想ふと身うちが打ち震ふ!
石屋 石碑を刻む石屋等が︑障子の陰で
手を叩き︑歌をうたって︑飲んでみる︒ .私は︑眉根をひき寄せ︑暗い顔をして︒
神と罪に就て︑考へなが砂歩いて行く︒
石屋が不幸なのか⁝ぎ
私が幸福なのか⁝⁝
集蓉 会著
は三 て ツ
鴇 馨
畠 ≧
人 の 大蒼 人な
米屋さんと︑
繭屋さんと︑
小橋の秩で 表具屋さんと まんまるい︑大きな月を︑ 云ひ合はしたやうに︑顔を並べて︑ 眺めてみる︒
﹁よい月だナi﹂
﹁大きい月です﹂
﹁ほんとに︑よい月だ﹂
正直な三つの顔が︑ちっと月に見入ってみる︒
踊れ 踊れ︑踊れ︑
踊り子︑踊れ︒
手を揃へ︑足をそろへ︑
活濃に踊れ︒
もつど︑しっかり足をふん張れ︒
もっと︑つよく手を挙げよ︒
君等の踏んでみる大地も︑.
三等の戴いてみる丸い月も︑
公転自転の踊りを続けてみるのだ︒
海も踊る︒
河も踊る︒
星も踊る︒
萬有は踊る︒ ﹁14
踊らぬものは︑かのモーラルや教育や︑
因襲によって化石した心だけだ︑
踊れ︑踊れ︑
踊り子︑踊れ︒
釣り 動かぬ濠の水に う ぎ 私の釣りの浮子が︑浮んでみる グツ︿と浮子が動くと
私は︑それを引きあげる! さ 糸の尖きに小鮒が躍る!
私の心の面も躍る!
だが︑私の心の奥に
鉛のやうに︑重い悲哀が
ちっとしてみる
私は人生の調歌者だ
清い家庭と︑日曜学校で成長し︑
豊富な学費で︑大学を卒業し︑
遊び半分に︑会社に通ひ︑
美しい妻君と
讃美歌を合唱する
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄ オー我が友︑品性の高雅なるS君︑ 君に比べる︑私の運命は︑いかにも残虐であった︒ 貧民の家庭に育って︑親と自分の虚栄から︑ 私立学校に通って︑学問の真似をし︑ ニつかい 不足勝ちな小遣で︑いつもガツ︿ おでんの立ち食ひ︑ 二銭の牛飯︑ 支那の留学生が捨てた煙草の吸ひ殻を拾って︑吸った私︒ 今も︑妻は背中に︑赤ん坊を縛りつけて︑ 洗濯してみる1 其醜い横顔の痩せ! 今でも時々︑切手代さへなくなる私︒ が︑これ以上は云ふに忍びない︒ だが︑S君 かるが故に︑私が君を羨んでみる︑と 君が思ふなら︑夫れは君の間違ひと云ふものだ︒ ままごと 君等の人形の飯事のやうな生活が 何で羨ましからう! 私は︑私を打ちのめした残虐な運命に対して︑ むしろ︑苦痛の讃歌を捧げてみるのだ︒ 私は人生の謳歌者だ︑ 残虐の讃美者だ︑
15
.山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
S君︑ 君は︑苦悩の底を流るΣ甘露の味を知るまい︒ ママ 悲哀の中に︑陰るΣ渋い法悦を知るまい︒︐
困難によって︑償ひ得た勝利の歌を知るまい︒
だが︑誰が運命を批難し得やう︑
誰が︑君の幸福を批難し得やう︒
菜の花の咲いた春の野を行く君の上に
祝福あれ︑
寒風に晒らされて︑荒野を走る私の生活の上に
祝福あれ
私ば君と共に
人生の謳歌者だ︒
葉ッパの不思議
真白な布をかけた机の上の
赤いつΣぢを挿した小さな花瓶︒
その花瓶から落ち散った青い葉ッパに
鼻を押しあて工
吸ふやうに︑嗅いで見たー
オー葉ッパの不思議よ! 何も云ふまい 何も云ふまい 何も云ふまい た黛よい加減な挨拶をして置かう︒ 朽ちた木には彫刻はできない・⁝: とかう思ひつ二も ウッカリ︑大切なことを話すと﹁ あいつは︑直ぐ︑.︐受け入れて︑感心して︑ そして自分も夫れを知ってみたやうに︑べらノYと饒舌する! 何と云ふ悲惨なことだ! 寂しいことだ! 鳥羽画 ものみな烏羽画のごとく見るかな︒ いとをこそかなる事も 何者にか︑あざむかれ︑弄ばれてする 猿の芝居とのみ︑見ゆる今日かな︒ 流れよ 水よ流れよ 浅瀬にはさらくと︑軽快な音を立て︑ 滝には急転直下して 淵にはゆるやかに︑黙って
水よ︑流れよ
16
水よ︑自由に︑其儘に流るΣのがお前の方則だ
無理をしないで︑そのまΣに流れてお呉れ︑
私よ︑水よ
溝 大空のみどり
ア・雲もなき九月の空 みどり 深く︑且つにごりなき大空の碧
その淵の如く︑透き通る深さこそは
我が心のあこがれ・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝
だが どぶ 我が心は腐った溝!
俺は俺だ
鳥は烏だ
魚は魚だ 俺は俺だ
君等の教会主義
君等の宣伝する教理教条
君等の信ずるモーラル
君等の修養論
それは皆︑ほんとうであらう︒
山野虎市遺稿﹃詩集︒私は魚だ﹄ だが箪もう沢山だ︑ 君等の︑立派な論理で︑俺を束縛してくれるな︑ ひからびた教理︑教条で 湧きあがる俺の生命を抑えてくれるな! 俺は俺だ︑ 君等の何物よりも︑俺の﹁俺﹂が強いのだ︑ 俺は俺自身を生かずより外に︑途がないのだ︒ 低能児だ! 私は明らかに低能児だ! 今︑走馬燈のやうに︑私の過去の︑愚行と︑痴態が︑ 朝の澄んだ私の心の中を︑乱雲のやうに︑過ぎり去る︒ 私は︑今︑はっきりと︑自分の低能児であることを︑明鏡にか けて見る1 何之いふ悲しい自覚! A牧師は私を﹁仕方のない人間だ﹂と云って廻った︒ B君はわざく手紙で︑私の親しい女の所へ︑ ﹁あいつは莫迦 だよ﹂と私のことを書いて送った︒ 私は︑私を惨酷に批評した彼等を憎んだが︑ 私は︑今彼等の批評の正しいことを認める︒ 私は正に︑﹁仕方のない馬鹿だ︒﹂\ 私は今︑一人の女を思ひ出す
17
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
1私の子供の時に︑私の家に居った︑斜視で︑低能な飯炊き
女が︑何時もの通り︑
若者達に︑弄ばれ︑からかはれた後︑
そっと︑裏の畑に出て︑顔を被ふて︑泣いてみた姿を思ひ出す︒
私は︑今︑彼女が泣いた︑悲しい心持ちに同感する︒
オー斜視にして︑低能の飯炊き女よ
お前が︑かつて︑畑で泣いてみた姿こそは
私が今︑秋の朝︑書斎で泣いてみる姿なのだ︒
電車の中で
省線電車の中で
折目のない餓だらけの古洋服を着た
下級サラリーマンらしき男︑
延びた願ひげにも︑垢の滲んだカラーにも 生活の苦悩が読まれる一
が︑彼はポケットから
和綴の謡曲の本を出して低声に
謡ひはじめた︒
赦してやれ
赦してやれ
一切を赦してやれ
全ての人周を赦してやれ かの背恩者︑裏切者をも赦してやれ︒. 見よ! かの絶対者は︑一切を赦してみるではないか! かれは 星と︑山と︑河と︑淵と︑ 鷲と︑雀と︑小鼠と︑獅子と︑ 善人と︑悪人と︑智者と︑愚者とを︑ 受け容れ︑押し包み︑悠々と流れてみるではないか︒ 彼は かしら この人間の屑︑罪人の首︑たわけの魁をもいだき︑つΣみ︑温 めてみるではないか︒ 赦してやれ 私自身をも赦してやれ 下劣で︑浅薄で︑綾小なる私自身を赦してやれ︒ 私は︑残酷な主人が︑奴隷を鞭うつやうに︑ 私自身の醜い姿を︑にくみ︑きらひ︑嘲笑し︑鞭配した︑ 1今朝も今朝とて私は︑私自身の頭をゲンコツで三ツなぐっ た一 だが私は︑私自身に︑あやまる
﹁私はお前を余り︑むちうち過ぎた︑赦してくれ﹂と︒
或朝のいの夢
18
見えざる曙い世界の底で
私の為めに傷けられた幾十の魂が泣いてみる︒
見えざるわたしの魂の奥底で
わたし自身で傷けた︑わたしの生命が泣いてみる︒
︵人を傷けたのはうわたし自身を轟けたのだ︶
オー十字架がなければわたしは滅ぶる!
わたしは︑わたしが傷けた人を︑いやし度い︑
わたしは︑わたしの純潔を︑とりかへし旧い︒
︵罪に対する最重の刑罰は︑純潔を失ふことだ︶
わたしは︑わたしが直接に傷けた一個々々の魂にできるだけ賠
償しよう︒
愛の油をそΣいでやらう︒
わたしは︑私が間接に傷けた社会全体に対して謙譲な心で︑
奉仕しよう︒
(一
ツを傷けたのは社会を傷けたのだ︶
そしてオー神よ!
あなたの愛で︑私を潔め︑癒してください!
弱い俺も
﹁彼﹂は孤独であった︒
彼は敵からは悪魔と呼ばれ
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄ 親類三者からは狂人扱ひにさ江 彼の愛弟子さへも︑遂には﹁彼﹂ 歩まなかった︒ 彼は寒風を切って 荒野の途を︑たった一人で 勇敢に突き進んで行った︒ と共に︑
﹁彼﹂・は裸体にされ
鞭でひつばたかれ
青啖をひっかけられ
王冠を戴くべき頭に棘の冠をのせられた︒
だが けふしゅ ﹁彼﹂は生ける臭首の如く
黙って一切の屈辱を受けた︒
十字架! 大きな釘が彼の手と足に ガン︿と
打ち込まれた︑
だが︑麻酔剤を拒んだ彼は
苦痛の一滴々々を
甘露のやうに嘗めっくした︒
19
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄
オーかくて﹁人の子﹂は孤独と屈辱と︑
十字架を打ち貫いて勝つたσ
ア︑弱き﹁人の子﹂よ
強き先駆者よ
弱い俺も.
孤独と︑屈辱と︑十字架をつらぬいて
強くく生きて行かう!
鏡に向って
引き締まってやx大きい口元には たちよ ﹁皮肉﹂と﹁嘲笑﹂が漂うてみる︒ わ たえず﹃貴様達に何が分かるものか﹄
と云って居るやうだ︒
穴の大きい︑小鼻の張った︑高い団子鼻は粗野で
狂暴で我執が強くて︑情慾の烈しい事を
示してみる︒
強度の近視鏡の中に光る糸の如き細い眼は
柔弱と細心と臆病とを語ってみる︑
縦横に乱れた濃い眉毛は
思想の矛盾︑混乱を表はして居る︑
眉と眉との間が狭くて ほくろ 細かい毛が生へて黒子さへあるのは 痴愚と狭量を物語ってみる︑ やΣ長い白い額には高尚な貴人的な所と 下劣な非人的な所がある︒ 顔全体としては寂しい顔だ︒出家の相だ︒ ころも 法衣を着せたら︑よい小坊主に なるだらう 俺の顔は悲惨だ︑ それ故に俺の運命も悲惨だ︒ 然し俺は俺の顔を大切にする如く 俺の運命をも愛せねばならぬのだ︒ うちなるいのち 悪しき遺伝よ︑悪しき境遇よ︑ 悪しき家庭よ︑悪しき教育よ︑ お前達のお蔭で俺の霊魂はこんなに曲って︑傷ついて︑ ちぢ 縮まった︒ 然し俺は生きて来た︑死なないで生きて来た︒ 不思議な力で生きて来た︒ さうだ︑ 俺のうちに潜在する神の生命はll神は1 俺よりも強いのだ︑全世界よりも強いのだ︑ 還命よりも強いのだ︒
20
は ﹁巌に松さへ生へるぢやないか⁝⁝﹂
ヘ ヘ ヘ へ 巌をつんざいて成長する樹木の生命の力と同じ生命の力で
俺は生きて来たのだ﹂勝って来たのだ︒
ヘロデの暴虐は嬰児キリストを殺し得たか︒
強権と好智は﹁生命﹂の主を十字架に懸けた︒
然し生命は運命を突破した!
﹁主﹂は墓の石よりも強かった!
残虐の運命よ!
お前は此後も俺の為めに棘冠を縮むだらう︒
十字架を立てるだらう︒
そして傷める葦のやうな俺は
お前の前に脆いて
煙れる麻のやうにさめざめと泣くであらう︒
然し お前よりも強い俺のうちなる超自然はー キリストは一 生命は一
お前を嘲笑して︑つき切って進むだらう︒
蛙 日の光かすかに︑もるΣ
ほの暗き森1一
山野虎市遺稿﹃詩集・私は魚だ﹄ その森の落葉にうづまる 古き井戸i その古井に浮ぶ一つの蛙 かて くろく大なれども︑糧足らぬか いたく痩せ まなこ 眼のみあやしく光れる︒ ア︑蛙よ かくて︑ひとり 友もなく た黛打ち黙だして 空をのみにらみ 幾年をか経たる︒ 1かくて汝は
なほ幾春秋を生きんとはする︒
21
全国中等学校優勝野球大会明治学院中学部戦績
資料︵2︶
全国中等学校優勝野球大会明治学院中学部戦績
解説 工 藤 英
一
22
︻解題︼
現在の全国高校野球大会の前身である全国中等学校優勝野球大
会において︑明治学院中学部野球部員が︑甲子園をめざして毎夏
の予選をいかに戦ってきたかを振り返ったのが︑この資料である︒
﹃全国中等学校優勝野球大会史﹄ ︵昭和十八年︑朝日新聞社︶か
ら︑明治学院の試合戦績を抽出し︑若干の誤りを東京朝日新聞の
記事によって訂正し︑この資料を作成した︒
大正四年以降昭和十七年までの二十七回にわたる大会のうち︑
大正七年の第四回大会は米騒動のため全国大会が中止となり︑最
後の第二十七回大会が︑文部次官通牒をもって全国大会開催が中
止となり︑各府県大会の形で開催されたことは︑周知のとおりで
ある︒ 明治学院中学部は︑第二回大会に初出場し︑第七︑八回大会に 不出場であった以外は︑毎回出場している︒そのうち︑最も優秀 な成績を残したのが︑昭和六年の第十七回大会であることは︑資 料の示すとおりである︒この年の大会から︑東京予選は︑新たに 設立された東京府中等学校野球聯盟によって︑トーナメント式大 会として開催されることになった︒それまでは︑東京府下の中等 学校野球界は︑東京︑東都の両中等学校野球聯盟に二分され︑互 いに対立していたのである︒明治学院は︑慶応商工︑慶応普通部︑ 青山学院︑豊島師範︑立教中学︑大成中学︑目白中学︑早稲田中 学︑成城中学とともに︑東京中学野球聯盟を結成していた︒ この年の東京予選出場校は三十二校を数え︑全国随一の激戦区 であった︒早稲田実業︑日大三中︑早稲田中︑慶応商工の三校が
シード校とされたひ学院中学部は︑七月二十四日東京中学に五回
コールドゲームで大勝したあと︑翌二十五日︑青学中と対戦︑八
回裏逆転して勝利を収め︑さらに二十六日成城中︑二十七日慶応
商工を連破して︑決勝戦に進んだ︒準決勝戦でトップ・バッター
の関根が足の骨折で出場不能となったため︑明学チームは︑オー
ダーを大幅に変更し︑五日連投の永山投手を立てて︑宿敵早実と
甲子園出場を賭けることとなった︒ ﹃東京朝日新聞﹄昭和六年七
月二十九日号︵朝刊︶は︑この試合について︑次のように報じて
いる︒ 早稲田実業対明治学院の決勝戦は二十八日午後三時から神宮球
場で堀場︵球︶川添︑津田︵塁︶三極審判︑早実先攻で開始し
七対零で諸芸優勝し三年振りで東京代表となる︒
︵中略︶
明学は早実投手島津の好投に完封せられて振はず全く得点の機
を迎ふるに至らざるに対し▽早実は毎回走者を出して得点し一
回は星野四球後島津の安打で三回も島崎の二塁打︑五回忌星野︑
島津の連安打︑六回は金子の安打︑七︑八九回にも尽くタイム
リー︑ヒットを放って各一点つつを得七対零で写実の勝となっ
た︒
筆者は︑当時捕手をつとめた藤島則夫氏と︑対早実戦に二安打 もがロみや を放って気を吐いた最上谷富男氏から︑当時の野球部についてさ まざまな回顧談を聞く機会をえた︒両氏はいずれも昭和七年の中 学部卒である︒藤島氏の語るところによれば︑決勝戦の試合前に ブルペンで永山投手のボールを受けて︑五日間の連投の疲労がは
っきりとわかったという︒果たして︑得意のシュート・ボールが
きまらず︑早態打者にカーブをねらわれる結果となった︒最上谷
倉の語るところでは︑崇重の島津投手は︑その後早大に進んでレ
ギュラー選手として活躍し︑学習院大学監督を勤めたという︒
当時の学院中学部野球部︵部長︑荒井惟俊教諭︶は︑成岡省吾
主将以下六名の最上級生を中心にして︑堅いチヨムワークを形成
し︑都留中学部長はじめ学校当局からも︑その活躍が大いに期待
されていた︒とりわけ都留中学部長は︑熱心に部員を鼓舞激励し︑
しばしばグランドまで応援に駈けつけたという︒
野球部では︑大会開始前の二週間︑川崎の安田生命グランドで
合宿をおこなった︒グランド付近の貸家を二軒借りて監督︑コー
チ以下全部員起居を共にし︑早朝に練習をおこなってから登校し︑
下校後再び練習をした︒このような合宿練習をおこないえたのも︑
学校側の理解と信頼があったからであろう︒監督は︑中学部卒業
の諏訪小四郎︑コーチは同じく対馬謙太郎であり︑みずからの生
活を犠牲にして献身的な指導にあたった︒
昭和六年のこの好成績を最後にして︑学院中学部の東京予選に
おける成績は振わず︑昭和七年八年に第三回戦まで勝ち進んだ以
外は︑辛くも一勝を博するか︑一回戦で敗退するのみであった︒
23
全国中等学校優勝野球大会明治学院中学部戦績
全国中等学校優勝野球大会明治学院中学部戦績
︵資料︶
全国中等学校優勝野球大会
明治学院中学部戦績
第一回︵大正四年︶
出場せず︒
第二回︵大正五年︶
関東大会第一次試合
対青山学院 10114 負
第三回︵大正六年︶
関東大会 第一次試合
対慶応普通部 Oi19 負
第四回︵大正七年︶
京浜大会 第一次試合 対神奈川師範 O12 負
第五回︵大正八年︶
京浜大会 第一次試合 対横浜商業 514勝
同準々優勝試合 対早稲田実業 0レ3 負
第六回︵大正九年︶
京浜大会 第一次試合
対成城中 η111 勝 同 第二次試合 対早稲田中0112負 第七回︵大正十年︶ 出場せず︒ 第八回︵大正十一年︶ 出場せず︒ 第九回︵大正十二年︶ 層東京大会 夏期リーグ試合 対早稲田実業 対麻布中 対豊島師範 対目白中 対早稲田中 対大成中 第十回︵大正十三年︶ 東京大会 対早稲田実業 対早稲田中 対目白中 対大成中 対豊島師範 対麻布中
705140 111111
6662012
勝負負負勝負
春夏両リーグ試合成績 三勝九敗
夏期リーグ試合
267290 111111
4963611
負負勝負勝負
第六位︒
24
春夏両リーグ試合成績 五勝七敗
第十一回︵大正十四年︶
東京大会 春期リーグ試合
対目白中 対麻布中
対成城中
対東洋商業
対慶応普通部
149647
!Ill11233013
勝直直勝負
同 夏期リーグ試合
対慶応商工
対大成中
対早稲田実業
対豊島師範
対早稲田中
68391 11111
157102