明治学院百年目委員会
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資料 ﹃福音新報﹄明治学院関係記事
明治四十二年⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝一⁝⁝・⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・・⁝⁝⁝⁝︵一︶
明治四十三年⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝︵三︶
明治四十四年⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・r:⁝⁝⁝:⁝⁝●⁝⁝⁝⁝︵竪︶
明治四十五年︵大正元年︶::・:⁝⁝・⁝:・⁝::・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝︵空︶
大正二年⁝⁝⁝⁝⁝:隔:・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:亀⁝⁝⁝⁝⁝:鴇:9⁝⁝⁝口・⁝⁝⁝.⁝⁝⁝⁝⁝:⁝●⁝⁝⁝︵ご二︶
大正三年⁝⁝⁝・⁝・⁝:⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝:︵芙O︶
.大正四年⁝・.⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝:・⁝⁝:::⁝・::⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝︵一三︶
大正五年⁝三⁝::⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:9⁝⁝⁝⁝⁝:⁝.⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝.⁝⁝⁝⁝・︵天O︶
大正六年::・::.......⁝・⁝ぜ⁝..・⁝⁝⁝:⁝:.:.:・:・:::⁝⁝⁝⁝⁝⁝●⁝⁝:⁝⁝⁝⁝●:三⁝⁝・:︵一九四︶
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資料 .福音新報﹄明治学院関係記事
一自明治四十二年 至大正六年f
明治四十二年
︵四lM4211︶ 井深による日本基督教会の信仰的回顧
日本基督教会の信仰的回顧︵上︶
井深梶之虎屋談
︵去る十四日芝教会にて開かれし信徒修養会に於ける同氏の演
説の大意︶
今年は我国に伝道開始第五十年中相当す︒然れば日本基督教会
の信仰上の沿革を考ふるは有益なるべし︒特に個人としては実に
感慨に堪へざるものあり︒只教会の沿革を述べて自ら省みるとこ
ろあらんと欲す︒其の沿革を尋ぬるに︑三期に区別するを便利と
す︒第一は明治五年三月十日始めて横浜に於て横浜耶蘇公会の設
立せられしょり︑明治十年日本基督一致教会の設立に至る五年問︒
第二は日本基督一致教会の創立より明治二十三年の教会政治改正
に至る十三年間︒第三は教会政治改正より現今に至る十年間なり︒
第一期に於ける信仰の情態を考ふるに︑横浜耶蘇公会創立の際
は別に信仰箇条と称すべきもなく︑単に聖書を以て標準とせしに 過ぎざりし如し︒不幸にして当時の事は記録に徴すべきもの甚だ 乏し︒然れども創立の際親しく其の局に当りし先輩の言によれば 右の次第に外あらざりし様なり︒一千八百七十四年一月十六日の 日誌を以て横浜公会が日本在留の諸宣教師に与へたる書に曰く︑ ﹃耶蘇降世一千八百七拾二年三月日本横浜に会合せる同国耶蘇 の信者︑即ち我輩総員一致の協議に依り始めて日本国に耶蘇公会 を確定せり︒是れ外国諸師の各宗師に毫も関渉することなく︑単 に聖書を以て標準となし︑唯我等の主耶蘇基督の名に依る上巳︒ 故に聖書に適合︵を要︶するものは皆傾れ基督の僕我等の兄弟な り︒我等初実公会の未熟を懲み宗派に拘ることなく︑聖書純全の 真理を教訓する者は皆是れ我等の教師なり︒云々﹄ 此は最初の日本基督信者の信仰的立場を表明せしものなり︒固 より彼等は神学上の知識は云ふに及ばず︑聖書の智識に於ても幼 稚なりしに相違なし︒然れども聖書は即ち神の言にして信仰及び 行為の標準たるを深く信ずると同時に︑宗派を樹立することを最
も深く縛みたり︒当時の彼等の有せし親愛一致の精神は真に美は
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しきものにてありぎ︒かくて欧米より諸宗派の宣教師渡来し︑各
々己が宗派を樹立せんとする趨勢あるを見て︑彼等は慨嘆に堪へ
ず︑右に掲げし如き書翰を草して諸宣教師に勧告歎願したるなり︒
然れども少数の宣教師を除くの外は大抵此の意見に耳を傾くるも
のなく︑己が属する宗派を遠慮なく立てんと欲し︑又日本の信者
中にて其の説に賛同するもの起り始めり︒鼓に於て横浜耶蘇公会
の信者は責めて同志のものだけにても外国の宗名の下に属せざる
教会を糾合せんと欲し︑横浜︑東京︑築地︑神戸︑大阪等にある
教会に於て実施すべき規約を定めたり︑日本基督公会条例群れな
り︒而して此条例に採用せる信仰の箇条は︑即ち万国福音同盟会
の九箇条にてありき︒其の九箇条に曰く︑
﹃一︑聖書は神の黙示に出で神の権威を有し︑完全具足せるもの
なり︒ 二︑聖書を解釈するに自己の判断を用ふるは我等の権利︑我等の
義務なり︒
三︑神は唯一にして其のペルソナ三つあり︒
四︑始祖の堕落に由りて人性を尽く敗壊せり︒
五︑神の子肉体を取りて人類の罪を蹟ひ仲保の祈りを為し且万物
を統御し給ふ︒
六︑罪人は唯信仰に由りて義とせらる︒
七︑其の心を改め聖潔にするは聖霊の働なり︒
八︑霊魂は死ぜず︑肉体は復活るべく︑我等の主イエスキリスト さば は世を審判きて畏き者に永福を与へ悪者に書籍を与へ給ふ︒﹁ 九︑宣教の職は神の制度にしてバプテスマと主の晩餐の礼典は我 等の守るべぎもの︑又永く保存すべきものなり︒﹄ 当時横浜及び東京築地等に伝道せる宣教師は︑米国ダッチ︑リ フォルムド派及びプレスビテリアン派の宣教師なり︒然るに彼等 に依りて建設せられたる最初の教会は︑何故彼等の属する米国教 会の信仰箇条を採用せずして︑直接関係なき福音同盟会の信仰箇 条を採用したるか︒流れ説明を要する所なり︒ 察するに其の原因は一にして足らざらん︒
︵第一︶当時の宣教師諸氏は日本に自己の教派を立るよりは寧ろ
日本人に基督の福音を宣伝するを主眼とせしに因るものの如し︒ よ ︵第二︶仮しや本国の信仰箇条を採用せんとするも聖書さへ当時
は未だ翻訳せられざ.りし位なれば︑況んや信仰箇条をや︒又俄か
に之を翻訳するは容易の業にあらざりしなり︒且つ︵第三︶日本
人の側より観察すれば︑日本に外国の宗派を立つることを大いに
忌み嫌ひ︑成るべく単純に且つ寛容なる箇条を採用せんと欲した
るも其の一理由たるべし︒ ︵第四︶彼等は何の宗派に関せず︑単
に聖書を以て標準として立てり︒然れども彼等は之と同時に聖書
中の教義の要点を簡単明瞭に表示するものの必要を感じたり︒然
れども自ら其の箇条を選定するは彼等の企図せる所に請ず︒恰か
も善し︑当時プロテスタント諸教派聯合の同盟に於いて採用した
る比較的単純なる信仰箇条を得たり︒依て直ちに取って以て之を
教会の信仰箇条とは為したるなり︒ ︵第五︶最初の教会は我国に
於ける始おての靱週祈祷歌調明治五年旧暦の正月の警告︑今日の
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債浜海岸教会内に存在する石造り分会堂にて催ほぜる祈祷会な
り︶に於て聖霊の恩化著しく顕はれたる結果なり︒而うして其の
初週祈祷会なるものは万国福音同盟会の主唱に係る︒然れば此の
事実も之が遠因となれるやも知る可らず︒ ︵第六︶更に他の原因
あり︒即ち最初の教会は主としてゼエムス︑バラ氏及びタムソン
氏の伝道の結果なり︒然るにバラ氏はダッチリフォルムド教会の
宣教師にしてタムソン氏はプレスビテリアン教会の宣教師なり︒
故に或は相互に自己の教会の信仰箇条をもって日本教会の其れと
為すべしと提供するを論りたるところあらんか︵植村正久氏其の
席上語って曰く︑宣教師たちが伝道を開始せしは今より五十年前
なり︒而うして教会の設立されしは三十八年前なり︒其の十二年
間に於て数名の信者起らざりしにあらざれど︑要するに伝道の効
果の見るべきものなかりしなり︒弦に於てか彼等は伝道を中止し
て引き上げんかとの試練もありしなり︒斯る事情の間に信条の設
けられたることを記憶せざる可らず︒又曰く当時バラ氏はプレマ
スブレズレンの感化を受け居られたり︒米国軍艦アラスカに乗込
める同派の信者等を招きてバラ氏地面内の会堂に集会を開き︑其
の説に耳を傾け居たることあり︒タムソン氏は不在にして︑ヘボ
シ氏は医師たり︒フルペッキ氏は日本政府に関係多くして伝道の
局に当ること少なく︑ブラオン氏は自由なる人にして八かましく
論ぜざりしなり︒点れ最初の教会が宗派的の信条を採用せざりし
理由の一なるべし︒又曰くバラ︑タムソン着着は日本の教会の無
宗派的なるを保護する嘗めに︑本国の伝道会社と衝突し︑一時其 の俸給をも辞したるごとありレバラ氏は堂校を教ヘトタムソン比 は米国公使館の通訳となりて自給ぜり︒此は諸氏の為めに記憶す べきことなり︒︶ 兎に角此等の事情綜合して最初の教会は創立の際複雑厳密なる信 仰箇条を身に纒はず︑単に聖書を以て信仰及び生活の標準となす といふ基礎の上に立ち︑而して後比較的単純なる九ケ条を以て其 の解釈となすの主義を執りたり︒ 此の事実は日本基督教会の信仰的発展に少なからざる影響を及ぼ したり︒篠崎桂之助氏︵最初の教会の創立者の一人なるが早く病 残せり︶の意見書に曰く﹃各宗の教師我が国に来るを要ぜざる時 かな に当り︑此の会衆只主の名に依るは主の意に合ひ聖書に適合し︑ 且つ国に宜しきの意を懇勲に宣べ︑全国一致の会を結合するを勧 むべし︒此の任後来の信徒にあり︒故に今我等が此独立会の原因 を公会の記録に記し︑子々孫々をして此の意を固く注著せしむべ し﹄と︒教会中篠崎氏の意見書を知るものは恐らく二三に過ぎざ るべし︒然れども我が教会は最初より此精神を以て今日まで継続 し来れりと思はる︒即ち日本基督教会が二回までも組合教会と合 同を謀りたるは即ち此の精神に原因すと云ふべし︒然して襲きに 組合教会との合同其の終を全うせずして更に基督一致教会を設立 するに至れるも亦同一の精神に出づ︒然るに其の結果として日本 基督教会の信仰箇条の上に少くも形式上には一大変更を生じたり︒ 黙れ即ち日本基督教会信仰箇条史に於ける第二期なり︒ 日本国基督一致教会政治規則の冒頭に曰く︑ ﹃日本国基督一致教
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会の条例は︑信仰の箇条︑政治の規則︑懲戒の条例︑礼拝の模範
是なり︒ 基督一致教会に受けたるドルトの大会に於て定めし教法及びウエ
ストミンスチルに於て定めし信仰の箇条︑又耶蘇教略問答及びハ
イデルブルグに於て作りし問答此の四は教法に満て引受けたる規
矩なれば︑凡ての会吏︑此規矩に反せる教は之を主張することを
得ず︒又之を教ふることを得ざるなり﹄と︒
日本基督公会及び日本長老教会が合同して日本国基督一致教会を
設立し︑最初の流会を横浜に開きたるは明治十年秋なりと記憶す︒
是より先き米国プレスビテリアンミ3ション︑同リフォルムドミ ッション︑及び蘇国ユナイテッド︑プレスビテリアンミッション
の間に合同の議行はれ其の基礎条件たる信仰箇条及び教会政治等
に就き協議あり︑其の草案を両立会員に示して其の熟考を求めら
る︒是れ同年夏なりき︒当時余は尚ほ横浜にありしも父大病の故
を以て暫時帰省せしかば︑其の評議に与からざりき︒然れども当
時基督公会側に煽ては激論ありしと伝聞す︒即ち此の如き複雑な
る且宗派的の信仰箇条を採用するは教会創立の素志に反すとの議
論なり︒然れども当時の宣教師の勢力中々強く︑終に反対論も無
効に帰せしが︑其の反対の結果として前に引用せる如き消極的の
文言を採用することとなれり︒ ﹃凡ての会吏此規矩に反する教は
之を主張することを得ず︑又之を教ふることを得ざるなり﹄と云
はば︑公然之を主張せざる限りは之に反する教義を信ずるも妨げ
なしとの意義に了解せらる︒山桜に奇経なる卵生にあらずや︒ ︵熊野氏日く余は基督公会側の一人として激論せるものなり︒井
深氏の言の如く奇怪極まれるものとなりしは︑激しき反対の結果
なり︒始めは之に反する教は信ずるを得ずとありを主張するを得
ずと改めたることなれば奇怪なるは当然なり︒︶
此の二種の信仰箇条及び問答書中︑耶蘇教略問答のみは和訳ぜら
れたれども︑其の他は未だ翻訳もせられざる重なるに︑教会が之
を受容れたるは全く形式上に止まれりと云ふべし︒恐くは日本の
教師牧師中にてもドルト大会の教法︑ウエストミンスチル信仰告
白を熟読したる人は極めて少数なりしならん︒此の如き事情なる
を以て余は其の後の中会に於て此の二つの信仰箇条を教会政治よ
り駆除することを動議したるに︑莫宣教師の如きは若し中会が之
を刷除するに嘗ては余は直ちに帰国するの外なし︑何となれば余
は本国より派遣せらるる時ウエストミンストルの告白に従ひて伝
道すべきことを誓約したるものなればなりと断言せり︒此の如ぎ
反対論の薄めに余の動議は否決の運命に逢ひたり︒然れども其後
ミッションに煮てはフルベツキ博士に托して俄かにドルトの教典
とウエストミンストルの箇条とを翻訳ぜしめたり︒翻訳は出来上
りたるも之を用ひたる竜のは恐らく皆無ならん︒
附記︑ドルト大会とは一千六百十八年十一月十三日開会︑翌年
五月九日閉会す︒エピスコピウス及び其他十二名のアルミニウ
ス派の人.を排斥したる後カルビン主義の予定説を可決す︒但極
端の予定説は取らざりき︒
ウエスト・︑・ンストル信仰の告泊濾千六否四十三年より五十二年
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まで継続せるカルビン主義及びピウリタン主義の教師牧師の会
議に於て定められたる者にして聖書を以て信仰及び行為の唯一
の標準とする事より始め凡て三十三章を以て成り立つ︒カルビ
ン主義の神学に基きたる最も有力なる講述たるは疑なし9ウエ
ストミンストル問答書は大小二種あり︒︑大は牧師が講壇より教
理を説く時の為め︑小は少年に教理を教ふる時の為めに作れる
ものなり︒耶蘇教略問答と云へるは即ち是れなり︒
ハイデルベルグ問答書は一千五百六十二年の頃選書フレデリヒ
第三世の命を奉じウルシヌス及びオレビアヌスの二人が編纂し
たるものなり︒欧洲大陸のリフォルムド教会に嘗て広く行はる︒
即ちルウテルの小問答書及びウエストミンスチル小問答書と共
に最も広く行はるる教理問答書なり︒ ︵七〇八号・明治四十二
年一月二十一日︶
日本基督教会信仰的回顧︵下︶
斯くの如くにして出来上りたる信仰箇条なれば其の甚だしく不自
然不健全なりしは云ふまでもなし︒故に我等は其の後議に教会政
治改正の必要を唱へて終に大会に於て︑数名の改正委員を撰揺す
るに至れり︒詣れ明治十八九年のことなり︒然るに其の頃日本基
督教会と組合教会との間に合同の議起り︑其の基礎として信仰の
箇条及び教会政治に関する協議を開きたれば改正委員の事務は自
然中止の姿となれり︒
而して日本基督教会と組合教会との合同の基礎として︑双方より
撰出せる協議委員が採用せる信仰の告白は左の如くなのき︒曰く ﹃旧新附約聖書に記されたる神の言は信仰及び行状に係る無二の 誤なき法則なり︒是故に教会は往時より屡ば聖書に示されたる要 理を陳述したることあり︒ 斯の如く古への世より伝はりたるものの中には使徒信条及びニカ や信条あり︒日本基督教会は此等の信条と福音同盟会の条款とを 以て信仰箇条となす︒ ︵使徒信条︑ニカや信条︑福音同盟会条款の本文を接ぐ︶ 梢近き世に至り我等に伝はりたる信仰箇条の中よりウエストミン スチル問答︵即ち略問答︶ハイデルベルグ問答︑プレマス告文あ り︒此等も日本基督教会の貴重する所︑皆曽て高尚なる目的を成 就したるものなり︒今日に託ても信徒を教へ導き︑其の徳を建て しむるに於て大いに価値あるものなり﹄ 日本基督教会は合同の基礎として此等の信仰箇条及び之に附随せ る文言を可決したり︒組合教会側に於ても信仰箇条に対しては然 まで議論なかりしが︑教会政治の規定に対して激烈なる反対あり︒ 合同の協議は終に不調に了りたり︒ 此に於て大会は更に教会政治改正委員を挙げて︑政治及び信仰箇 条の改正案を提出せしめたり︒此の委員は種々調査の上当時英国 のプレスビテリアン教会が改正したる信仰箇条︵ウエストミント ルの信条よりも簡短なるものなり︶を以て最も適当なるものと認 め︑之を翻訳して大会開設六ケ月前に各教師及び各教会に配布し たり︒ 然れども明治廿三年十月大会の開かるるに及びて︑此の信仰箇条
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﹃福音新報﹄明治学院関係記事
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