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明治学院百年目委員会

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資料 ﹃福音新報﹄明治学院関係記事

明治四十二年⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝一⁝⁝・⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・・⁝⁝⁝⁝︵一︶

明治四十三年⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝︵三︶

明治四十四年⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・r:⁝⁝⁝:⁝⁝●⁝⁝⁝⁝︵竪︶

明治四十五年︵大正元年︶::・:⁝⁝・⁝:・⁝::・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝︵空︶

大正二年⁝⁝⁝⁝⁝:隔:・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:亀⁝⁝⁝⁝⁝:鴇:9⁝⁝⁝口・⁝⁝⁝.⁝⁝⁝⁝⁝:⁝●⁝⁝⁝︵ご二︶

大正三年⁝⁝⁝・⁝・⁝:⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝:︵芙O︶

.大正四年⁝・.⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝:・⁝⁝:::⁝・::⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝︵一三︶

大正五年⁝三⁝::⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:9⁝⁝⁝⁝⁝:⁝.⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝.⁝⁝⁝⁝・︵天O︶

大正六年::・::.......⁝・⁝ぜ⁝..・⁝⁝⁝:⁝:.:.:・:・:::⁝⁝⁝⁝⁝⁝●⁝⁝:⁝⁝⁝⁝●:三⁝⁝・:︵一九四︶

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資料 .福音新報﹄明治学院関係記事

一自明治四十二年 至大正六年f

明治四十二年

 ︵四lM4211︶ 井深による日本基督教会の信仰的回顧

  日本基督教会の信仰的回顧︵上︶

      井深梶之虎屋談

 ︵去る十四日芝教会にて開かれし信徒修養会に於ける同氏の演

 説の大意︶

 今年は我国に伝道開始第五十年中相当す︒然れば日本基督教会

の信仰上の沿革を考ふるは有益なるべし︒特に個人としては実に

感慨に堪へざるものあり︒只教会の沿革を述べて自ら省みるとこ

ろあらんと欲す︒其の沿革を尋ぬるに︑三期に区別するを便利と

す︒第一は明治五年三月十日始めて横浜に於て横浜耶蘇公会の設

立せられしょり︑明治十年日本基督一致教会の設立に至る五年問︒

第二は日本基督一致教会の創立より明治二十三年の教会政治改正

に至る十三年間︒第三は教会政治改正より現今に至る十年間なり︒

 第一期に於ける信仰の情態を考ふるに︑横浜耶蘇公会創立の際

は別に信仰箇条と称すべきもなく︑単に聖書を以て標準とせしに 過ぎざりし如し︒不幸にして当時の事は記録に徴すべきもの甚だ 乏し︒然れども創立の際親しく其の局に当りし先輩の言によれば 右の次第に外あらざりし様なり︒一千八百七十四年一月十六日の 日誌を以て横浜公会が日本在留の諸宣教師に与へたる書に曰く︑  ﹃耶蘇降世一千八百七拾二年三月日本横浜に会合せる同国耶蘇 の信者︑即ち我輩総員一致の協議に依り始めて日本国に耶蘇公会 を確定せり︒是れ外国諸師の各宗師に毫も関渉することなく︑単 に聖書を以て標準となし︑唯我等の主耶蘇基督の名に依る上巳︒ 故に聖書に適合︵を要︶するものは皆傾れ基督の僕我等の兄弟な り︒我等初実公会の未熟を懲み宗派に拘ることなく︑聖書純全の 真理を教訓する者は皆是れ我等の教師なり︒云々﹄  此は最初の日本基督信者の信仰的立場を表明せしものなり︒固 より彼等は神学上の知識は云ふに及ばず︑聖書の智識に於ても幼 稚なりしに相違なし︒然れども聖書は即ち神の言にして信仰及び 行為の標準たるを深く信ずると同時に︑宗派を樹立することを最

も深く縛みたり︒当時の彼等の有せし親愛一致の精神は真に美は

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

しきものにてありぎ︒かくて欧米より諸宗派の宣教師渡来し︑各

々己が宗派を樹立せんとする趨勢あるを見て︑彼等は慨嘆に堪へ

ず︑右に掲げし如き書翰を草して諸宣教師に勧告歎願したるなり︒

然れども少数の宣教師を除くの外は大抵此の意見に耳を傾くるも

のなく︑己が属する宗派を遠慮なく立てんと欲し︑又日本の信者

中にて其の説に賛同するもの起り始めり︒鼓に於て横浜耶蘇公会

の信者は責めて同志のものだけにても外国の宗名の下に属せざる

教会を糾合せんと欲し︑横浜︑東京︑築地︑神戸︑大阪等にある

教会に於て実施すべき規約を定めたり︑日本基督公会条例群れな

り︒而して此条例に採用せる信仰の箇条は︑即ち万国福音同盟会

の九箇条にてありき︒其の九箇条に曰く︑

﹃一︑聖書は神の黙示に出で神の権威を有し︑完全具足せるもの

なり︒ 二︑聖書を解釈するに自己の判断を用ふるは我等の権利︑我等の

義務なり︒

三︑神は唯一にして其のペルソナ三つあり︒

四︑始祖の堕落に由りて人性を尽く敗壊せり︒

五︑神の子肉体を取りて人類の罪を蹟ひ仲保の祈りを為し且万物

を統御し給ふ︒

六︑罪人は唯信仰に由りて義とせらる︒

七︑其の心を改め聖潔にするは聖霊の働なり︒

八︑霊魂は死ぜず︑肉体は復活るべく︑我等の主イエスキリスト    さば は世を審判きて畏き者に永福を与へ悪者に書籍を与へ給ふ︒﹁ 九︑宣教の職は神の制度にしてバプテスマと主の晩餐の礼典は我 等の守るべぎもの︑又永く保存すべきものなり︒﹄  当時横浜及び東京築地等に伝道せる宣教師は︑米国ダッチ︑リ フォルムド派及びプレスビテリアン派の宣教師なり︒然るに彼等 に依りて建設せられたる最初の教会は︑何故彼等の属する米国教 会の信仰箇条を採用せずして︑直接関係なき福音同盟会の信仰箇 条を採用したるか︒流れ説明を要する所なり︒ 察するに其の原因は一にして足らざらん︒

︵第一︶当時の宣教師諸氏は日本に自己の教派を立るよりは寧ろ

日本人に基督の福音を宣伝するを主眼とせしに因るものの如し︒     よ ︵第二︶仮しや本国の信仰箇条を採用せんとするも聖書さへ当時

は未だ翻訳せられざ.りし位なれば︑況んや信仰箇条をや︒又俄か

に之を翻訳するは容易の業にあらざりしなり︒且つ︵第三︶日本

人の側より観察すれば︑日本に外国の宗派を立つることを大いに

忌み嫌ひ︑成るべく単純に且つ寛容なる箇条を採用せんと欲した

るも其の一理由たるべし︒ ︵第四︶彼等は何の宗派に関せず︑単

に聖書を以て標準として立てり︒然れども彼等は之と同時に聖書

中の教義の要点を簡単明瞭に表示するものの必要を感じたり︒然

れども自ら其の箇条を選定するは彼等の企図せる所に請ず︒恰か

も善し︑当時プロテスタント諸教派聯合の同盟に於いて採用した

る比較的単純なる信仰箇条を得たり︒依て直ちに取って以て之を

教会の信仰箇条とは為したるなり︒ ︵第五︶最初の教会は我国に

於ける始おての靱週祈祷歌調明治五年旧暦の正月の警告︑今日の

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債浜海岸教会内に存在する石造り分会堂にて催ほぜる祈祷会な

り︶に於て聖霊の恩化著しく顕はれたる結果なり︒而うして其の

初週祈祷会なるものは万国福音同盟会の主唱に係る︒然れば此の

事実も之が遠因となれるやも知る可らず︒ ︵第六︶更に他の原因

あり︒即ち最初の教会は主としてゼエムス︑バラ氏及びタムソン

氏の伝道の結果なり︒然るにバラ氏はダッチリフォルムド教会の

宣教師にしてタムソン氏はプレスビテリアン教会の宣教師なり︒

故に或は相互に自己の教会の信仰箇条をもって日本教会の其れと

為すべしと提供するを論りたるところあらんか︵植村正久氏其の

席上語って曰く︑宣教師たちが伝道を開始せしは今より五十年前

なり︒而うして教会の設立されしは三十八年前なり︒其の十二年

間に於て数名の信者起らざりしにあらざれど︑要するに伝道の効

果の見るべきものなかりしなり︒弦に於てか彼等は伝道を中止し

て引き上げんかとの試練もありしなり︒斯る事情の間に信条の設

けられたることを記憶せざる可らず︒又曰く当時バラ氏はプレマ

スブレズレンの感化を受け居られたり︒米国軍艦アラスカに乗込

める同派の信者等を招きてバラ氏地面内の会堂に集会を開き︑其

の説に耳を傾け居たることあり︒タムソン氏は不在にして︑ヘボ

シ氏は医師たり︒フルペッキ氏は日本政府に関係多くして伝道の

局に当ること少なく︑ブラオン氏は自由なる人にして八かましく

論ぜざりしなり︒点れ最初の教会が宗派的の信条を採用せざりし

理由の一なるべし︒又曰くバラ︑タムソン着着は日本の教会の無

宗派的なるを保護する嘗めに︑本国の伝道会社と衝突し︑一時其 の俸給をも辞したるごとありレバラ氏は堂校を教ヘトタムソン比 は米国公使館の通訳となりて自給ぜり︒此は諸氏の為めに記憶す べきことなり︒︶ 兎に角此等の事情綜合して最初の教会は創立の際複雑厳密なる信 仰箇条を身に纒はず︑単に聖書を以て信仰及び生活の標準となす といふ基礎の上に立ち︑而して後比較的単純なる九ケ条を以て其 の解釈となすの主義を執りたり︒ 此の事実は日本基督教会の信仰的発展に少なからざる影響を及ぼ したり︒篠崎桂之助氏︵最初の教会の創立者の一人なるが早く病 残せり︶の意見書に曰く﹃各宗の教師我が国に来るを要ぜざる時        かな に当り︑此の会衆只主の名に依るは主の意に合ひ聖書に適合し︑ 且つ国に宜しきの意を懇勲に宣べ︑全国一致の会を結合するを勧 むべし︒此の任後来の信徒にあり︒故に今我等が此独立会の原因 を公会の記録に記し︑子々孫々をして此の意を固く注著せしむべ し﹄と︒教会中篠崎氏の意見書を知るものは恐らく二三に過ぎざ るべし︒然れども我が教会は最初より此精神を以て今日まで継続 し来れりと思はる︒即ち日本基督教会が二回までも組合教会と合 同を謀りたるは即ち此の精神に原因すと云ふべし︒然して襲きに 組合教会との合同其の終を全うせずして更に基督一致教会を設立 するに至れるも亦同一の精神に出づ︒然るに其の結果として日本 基督教会の信仰箇条の上に少くも形式上には一大変更を生じたり︒ 黙れ即ち日本基督教会信仰箇条史に於ける第二期なり︒ 日本国基督一致教会政治規則の冒頭に曰く︑ ﹃日本国基督一致教

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

会の条例は︑信仰の箇条︑政治の規則︑懲戒の条例︑礼拝の模範

是なり︒ 基督一致教会に受けたるドルトの大会に於て定めし教法及びウエ

ストミンスチルに於て定めし信仰の箇条︑又耶蘇教略問答及びハ

イデルブルグに於て作りし問答此の四は教法に満て引受けたる規

矩なれば︑凡ての会吏︑此規矩に反せる教は之を主張することを

得ず︒又之を教ふることを得ざるなり﹄と︒

日本基督公会及び日本長老教会が合同して日本国基督一致教会を

設立し︑最初の流会を横浜に開きたるは明治十年秋なりと記憶す︒

是より先き米国プレスビテリアンミ3ション︑同リフォルムドミ ッション︑及び蘇国ユナイテッド︑プレスビテリアンミッション

の間に合同の議行はれ其の基礎条件たる信仰箇条及び教会政治等

に就き協議あり︑其の草案を両立会員に示して其の熟考を求めら

る︒是れ同年夏なりき︒当時余は尚ほ横浜にありしも父大病の故

を以て暫時帰省せしかば︑其の評議に与からざりき︒然れども当

時基督公会側に煽ては激論ありしと伝聞す︒即ち此の如き複雑な

る且宗派的の信仰箇条を採用するは教会創立の素志に反すとの議

論なり︒然れども当時の宣教師の勢力中々強く︑終に反対論も無

効に帰せしが︑其の反対の結果として前に引用せる如き消極的の

文言を採用することとなれり︒ ﹃凡ての会吏此規矩に反する教は

之を主張することを得ず︑又之を教ふることを得ざるなり﹄と云

はば︑公然之を主張せざる限りは之に反する教義を信ずるも妨げ

なしとの意義に了解せらる︒山桜に奇経なる卵生にあらずや︒ ︵熊野氏日く余は基督公会側の一人として激論せるものなり︒井

深氏の言の如く奇怪極まれるものとなりしは︑激しき反対の結果

なり︒始めは之に反する教は信ずるを得ずとありを主張するを得

ずと改めたることなれば奇怪なるは当然なり︒︶

此の二種の信仰箇条及び問答書中︑耶蘇教略問答のみは和訳ぜら

れたれども︑其の他は未だ翻訳もせられざる重なるに︑教会が之

を受容れたるは全く形式上に止まれりと云ふべし︒恐くは日本の

教師牧師中にてもドルト大会の教法︑ウエストミンスチル信仰告

白を熟読したる人は極めて少数なりしならん︒此の如き事情なる

を以て余は其の後の中会に於て此の二つの信仰箇条を教会政治よ

り駆除することを動議したるに︑莫宣教師の如きは若し中会が之

を刷除するに嘗ては余は直ちに帰国するの外なし︑何となれば余

は本国より派遣せらるる時ウエストミンストルの告白に従ひて伝

道すべきことを誓約したるものなればなりと断言せり︒此の如ぎ

反対論の薄めに余の動議は否決の運命に逢ひたり︒然れども其後

ミッションに煮てはフルベツキ博士に托して俄かにドルトの教典

とウエストミンストルの箇条とを翻訳ぜしめたり︒翻訳は出来上

りたるも之を用ひたる竜のは恐らく皆無ならん︒

 附記︑ドルト大会とは一千六百十八年十一月十三日開会︑翌年

 五月九日閉会す︒エピスコピウス及び其他十二名のアルミニウ

 ス派の人.を排斥したる後カルビン主義の予定説を可決す︒但極

 端の予定説は取らざりき︒

 ウエスト・︑・ンストル信仰の告泊濾千六否四十三年より五十二年

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 まで継続せるカルビン主義及びピウリタン主義の教師牧師の会

 議に於て定められたる者にして聖書を以て信仰及び行為の唯一

 の標準とする事より始め凡て三十三章を以て成り立つ︒カルビ

 ン主義の神学に基きたる最も有力なる講述たるは疑なし9ウエ

 ストミンストル問答書は大小二種あり︒︑大は牧師が講壇より教

 理を説く時の為め︑小は少年に教理を教ふる時の為めに作れる

 ものなり︒耶蘇教略問答と云へるは即ち是れなり︒

 ハイデルベルグ問答書は一千五百六十二年の頃選書フレデリヒ

 第三世の命を奉じウルシヌス及びオレビアヌスの二人が編纂し

 たるものなり︒欧洲大陸のリフォルムド教会に嘗て広く行はる︒

 即ちルウテルの小問答書及びウエストミンスチル小問答書と共

 に最も広く行はるる教理問答書なり︒ ︵七〇八号・明治四十二

年一月二十一日︶

  日本基督教会信仰的回顧︵下︶

斯くの如くにして出来上りたる信仰箇条なれば其の甚だしく不自

然不健全なりしは云ふまでもなし︒故に我等は其の後議に教会政

治改正の必要を唱へて終に大会に於て︑数名の改正委員を撰揺す

るに至れり︒詣れ明治十八九年のことなり︒然るに其の頃日本基

督教会と組合教会との間に合同の議起り︑其の基礎として信仰の

箇条及び教会政治に関する協議を開きたれば改正委員の事務は自

然中止の姿となれり︒

而して日本基督教会と組合教会との合同の基礎として︑双方より

撰出せる協議委員が採用せる信仰の告白は左の如くなのき︒曰く ﹃旧新附約聖書に記されたる神の言は信仰及び行状に係る無二の 誤なき法則なり︒是故に教会は往時より屡ば聖書に示されたる要 理を陳述したることあり︒ 斯の如く古への世より伝はりたるものの中には使徒信条及びニカ や信条あり︒日本基督教会は此等の信条と福音同盟会の条款とを 以て信仰箇条となす︒  ︵使徒信条︑ニカや信条︑福音同盟会条款の本文を接ぐ︶ 梢近き世に至り我等に伝はりたる信仰箇条の中よりウエストミン スチル問答︵即ち略問答︶ハイデルベルグ問答︑プレマス告文あ り︒此等も日本基督教会の貴重する所︑皆曽て高尚なる目的を成 就したるものなり︒今日に託ても信徒を教へ導き︑其の徳を建て しむるに於て大いに価値あるものなり﹄ 日本基督教会は合同の基礎として此等の信仰箇条及び之に附随せ る文言を可決したり︒組合教会側に於ても信仰箇条に対しては然 まで議論なかりしが︑教会政治の規定に対して激烈なる反対あり︒ 合同の協議は終に不調に了りたり︒ 此に於て大会は更に教会政治改正委員を挙げて︑政治及び信仰箇 条の改正案を提出せしめたり︒此の委員は種々調査の上当時英国 のプレスビテリアン教会が改正したる信仰箇条︵ウエストミント ルの信条よりも簡短なるものなり︶を以て最も適当なるものと認 め︑之を翻訳して大会開設六ケ月前に各教師及び各教会に配布し たり︒ 然れども明治廿三年十月大会の開かるるに及びて︑此の信仰箇条

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

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・『

汢ケ新報﹄明治学院関係記事

に反対の意見を懐くもの多く︑到底通過の見込なきの如くなりき︒

︵当時井深氏は米国留学中にて大会には出席せられざりき︒︶此

に嘗て或る教師は使徒信条を以て我が教会の信条と為さんとの動

議を提出したり︒然れども単純なる信条を好む人の中にも単に使

徒信条のみにては現代の教会には不十分なり︑例へば瞭罪のこと︑

信仰に由りて義とせらるること︑又聖書は神の言たることなど現

代の教会に於て重要なる教義を含有せずとの議論あり︒此に於て

大会は更に調査委員を挙げて研究せしめたるに委員は翌日に至り︑

現在日本基督教会が有するところの序文を加へて使徒信条を採用

すべきことを建言したり︒然して大会は更に討論審議したる上︑

深厚なる感謝の念を以て之を採用したり︒是に於て日本基督教会

の信仰的立場は︑恰かも最初横浜に於て日本基督公会の設立せら

れたる時の其れに立ち返りたるの観なきを得ず︒

今後日本基督教会は信仰上に於て如何なる発展をなさんとするか︒

之を預言するは容易の業にあらず︑只だ其の現在の信条に就きて

記憶すべき数ケ条を挙げん︒

第一此は極めて単純なるものなり︒由緒ある信仰箇条にして︑恐

らく之よりも単純なるものあらざるべし︒

第二此は歴史的信仰箇条なり︒歴史的と云ふうちに二の意義あり︒

即ち︵一︶此は由緒あるものにして︑晩くも第六世紀の始めより

東方教会を除くの外は基督教会一般に遵奉せられたる信仰箇条な

り︒又︵二︶之に列挙せられたるは歴史的の事実其の過半を占め

たり︒即ち耶蘇の受肉︑受苦︑復活︑昇天等の事実是なり︒此は ニカや信条には独り主耶蘇基督を信ず︑即ち凡ての世界より温き に父より生れ︑神より出し神︑光より出し光︑真の神より出し真 の神︑父と一体にして造られたるに非ず︑生れたるなり︒﹄云々 の文言あり︒然れども使徒信条には此の如き哲学的又は神学的の 文言あるなし︒ 第三︑此は平和的なり︒由来信仰箇条なるものは反対の意見に対 して︑其の信仰を発表せるもの多しとす︒ニカや信条の如きは即 ちアリウスの異説に対する宣言たること論を侯ず︒然れども使徒 信条に嘗ては此の如き痕跡なし︒単に基督信者が其の信仰の綱領 を自由に告白したるのみ毫も争論的の語気あることなし︒ 固より此の信仰箇条たるや︑乱数百年春往時に成りたるものなれ ば︑現時代の教会の要求に対しては不備なるを免れず︒基督の教 会は爾来千三百年問に驚くべき発展をなしたり︒且つ現代の要求 と第六世紀の要求とは同日の論にあらず︒量れ即ち此の歴史的信 条に簡易なる序文を加へたる所以なり︒然して其の序文も亦文学 の撰択に就ては或は遺憾の点なきにあらずと錐も︑其の趣意に於 ては簡にして能く其の要を得たりと去はざる可らず︒若し其の辞 句に適当なる修正を加へなば蓋し遺憾なきに至らんか︒ 日本基督教会の信仰的立場は概略此の如し︒其の信仰箇条は単純 にして歴史的なり︒一面に於て複雑狭隣なる教派的の箇条に束縛 せられず︑他の一面に於ては之に由りて極端なる非歴史的の神学 説に陥るの弊を至るることを得ん︒数年前所謂新神学の流行した るときも︑日本基督教会にして若し狭隣なる信仰箇条を有し居ら

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んには︑其の結果如何なりしゃも知る可らず︒新神学によりて同

教会の信仰が然程動揺せざりしは︑之を指導せし人の尽力に由る

こと固よりなりと錐も︑其の信仰箇条の自由にして単純なりしに

も由るならん︒現在日本基督教会の信仰上の立場は︑進歩的正統

派とも称すべきか︒加之︑他日時機至りて他の教会と合同せんと

することあらんも︑我等は此の信仰箇条の為めに其の合同を妨げ

らるること万々是れなかるべしと信ず︒所謂死せる正統派とは此

の如きものを云ふならん︒只だ如上の信仰箇条ありといふ事実に

安心して︑実際各自の信仰を怠る如きことあらば不幸是より大な

るはなけん︒沸くは我等をして既往を回顧して神の優渥なる恩寵

を感謝すると同時に初実の教会の責任を自覚し既に据えられたる

基礎の上に益す健全なる信仰を発展せしむるに勉めしめよ︒ ︵七

〇九号・明治四十二年一月二十八日︶

 ︵四一M42−2︶ 伝道開始五十年回顧談

   伝道開始五十年

    日本伝道の踏査

外国との条約締結せられ︑愈よ開国と定まって後間もなく︑日本

に於ける基督教伝道の踏査が行はれた︒其の事に当った人はエス

・ウエルス・ウヰリアムス博士とイ・ダブリユウ.サイル氏とで

ある︒何れも支那に在住した宣教師で︑前者はアメリカン・ボオ

ルドに属し︑外国人の為めに引き易い支那語の辞曲ハを作った人で

ある︒後者は米国長老教会の伝道局に属したものである︒二人は 先づ長崎に上陸した︒彼等は其の時丁度入港せる米国軍艦パウん タンの乗組員と知り合って居たので︑一日其の軍人︵其の中には 軍艦付の牧師ウウド氏も加はる︶之共に長崎市の奉行を訪ふた︒ 其のときの奉行の談話のうちに日本は己に外国との貿易を始めた ことであるから人民は外国人の齎らし来るものは何ものでも喜ん で受けることである︒然かし只だ二つだけ輸入せらるるを好まぬ︒ 即ち其れは鴉片と基督教とであると云った︒此の言は件の三人の 牧師の好き参考となりまた商議する題目となった︒当時の日本の 役人は︑基督教を以て鴉片と同列に置かれるほどに国を害するも のと心得て居たのである︒勿論是れ所謂切支丹邪宗門てふ誤解な り︒また実際我国には以前誤りたる形式の下に基督教の伝へられ たる歴史あり︒蝕に於て牧師たちは評議の結果︑真正の基督教を 宣伝するの必要を認め︑日本に宣教師を派遣するやう︑米国に於 ける監督派︑長老派︑及びリフオルムド派の伝道局に書翰を送る ことに同意した︒ 其の書翰によりて前記三教会に於ては外国伝道に着手することに 決したのである︒而うして最初に日本伝道の誉めに足跡を印する の名誉を得たるものは監督教会である︒即リギンス︑ウヰリアム ス︵今の老監督︶両長老は千八百五十九年︵安政六年︶の夏長崎       ︵ラ︶ に上陸した︒是より数ケ月の後十一月七日︑米国リフォルムド教 会から派遣されたフルペッキ博士は長崎に上陸した︒同氏と同行 して日本伝道の警めに来たブラウン及びシムモンス両博士は︑其 の数日前に神奈川に上陸したことである︒

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

    和歌山霊とタムソン氏

宣教師タムソン氏は維新の際和歌山藩に聰せられて同地に赴かれ

た︒同氏当時の記憶を語って日く﹃余が和歌山に行ったのは︑奥

野昌綱氏の親類の周旋で︑大参議と云ふ役人から依頼を受け西洋

の国政や︑英米の憲法などを話して聞かせたのである︒余が横浜

から行ったのは一二月頃であった︒丁度維新の戦争のときで︑官

軍が勝利を得たと云ふ噂さの盛んな頃であった︒当時和歌山藩に

は長崎の天主教徒が数百名も捕へられて御預になって居た︒此の

外金沢の方にも御預けになって居たが︑後ち放免せられて︑故郷

に返された︒又和歌山には独逸人カッピンと云ふものが招聴され

て居て︑五千人ばかりに兵隊の調練をして居た︒其の少し以前に

北独逸は填太利と戦争して︑当時発明せられた元込の鉄砲で大い

に敵を悩ましめたといふので︑和歌山に於ても此の鉄砲を使用す

ることを教へて居た︒然かし其の後程なく明治政府が出来て和歌

山の練兵所は廃せられた云々﹄と︒

    大学南校

明治の初年︑大学南校と称せられた最高等の教育を授ける処が出

来た︒薄れ即ち今の帝国大学の前身である︒其の雇外国教師のう

ちにはフルペッキ︑タムソンの両博士も加はって居た︒タムソン

氏当時の大学南校の情態を語って曰く︑ ﹃余が大学南校に聰せら

れたのは千八百七十年︵明治三年︶である︒之より先きエドワル

ド・コオンスと云宣教師が一年間の約束で同校の教師となり︑毎

日横浜から通って居た︒趨る日横浜の家に帰らんとして築地から 川蒸汽に乗ったところが︑其の機関が破裂して乗組んだ船客は四 五十人も死んだ︒不幸にしてコオンス氏夫婦も其の災に艶れたの である︒それで余はフルペッキ氏の紹介にて同年八月より六ケ月 間大学に教へることとなった︒学校は一橋御門の外にあって︑始 めは築地から通って居たが︑後には校内の教師館に住むこととな

った︒余の往来するときは二人の武士が護衛してくれた︒.当時雇

外国教師といふもののうちには︑随分無学な人も少なくなかった︒

横浜に居た水夫上りのものも教師に雇はれたのである︒然かし後

に至り次第に教師を精選するやうになった︒外国教師のうちに夜

遊びに出かけ︑日本橋辺で暗殺されたものもあった︒岩倉︑木戸

の諸氏が欧米から帰ってから学者を膀するやうになった﹄と︒

かくてタムソン氏は大学南校に教師たるの契約書を記者に示して

曰く︑ ﹃世間では余が同校に教師となるときに基督教を教へない

と契約したと云ふものがあるけれど︑然る箇条は更にない︒故に

余は斯る誤りを正す為めに其の契約書を大切に保存して居る﹄と︒

其の契約書は徳大寺大納言︑副島参議︑加藤大学大丞︵弘之︶︑町

田大学大婚︑小倉処平の豊野が署名︵加藤︑町田︑小倉三氏の姓

名の下には花押あり︶し︑九ケ条より成立って居る︒宗教の点に

射ては一言も書いていない︒俸給は三百弗とある︒然し当時の弗

はメキシコ弗で︽今日の弗の価に比すれば余程低いといふ︒

    我国最初の世界周遊者

其の後タムソン氏はシベリヤを経︑欧洲を廻って囲米せんことを

計画して居られた︒すると丁度大東義徹︑伴︑津田︑山本︑香川

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丹羽などといふ十三人の同志が世界周遊を企てたので︑タムソン

氏に其の案内者たらんことを依頼した︒其の宝船を同じうして洋

行したもののうちには片岡健吉氏あり︑また徳川家の若君もあっ

た︒多分江原素六氏も其のうちに居られたことであらうとタムソ﹂

ン氏は語られた︒船中には日本人五十名ばかりもあったさうであ

る︒彼等十三人は先づ米周に赴き次で英国に渡り︑和蘭から独逸

を経て露西亜まで歴遊した︒其の問には随分珍談も多いやうであ

るが二三を挙ぐれば︑一行の桑港に到着するや︑新聞紙は逸早く

世界周遊の日本人を紹介し︑其のうちには殿様も加はることを書

き立てた︒到着の翌日一行はオオクランドの大学の卒業式に招待

された︒一行中丹羽といふ人は身の丈け最も高く︑洋服︵桑港に

て一行は皆な洋服に着替へた︶も着ず︑日本の服装で︑陣笠を冠

って其の式に臨んだ︒之を見た米国人は其の異様な姿を珍らしが        ハママ  り︑.必定集れが日本の殿様ならんと想像した︒翌日の新聞氏は其

のやうな記事を掲げたことである︒

一行は白人の会堂に行くことを余り好まなかった︒儀式の嚴かな

ところや︑規律の正しいところを喜ばず︑却って米国土人の為め・

に開く天幕的集会には好んで出かけたとタムソン氏は笑って話し

て居た︒彼等が最も熱心に見物したものは練兵や武器庫などであ

った︒伯林に行ったときには普仏戦争の後のことで︑国旗が数等

流も陳列してある︒彼等は非常な興味を以て之を見た︒又クルッ

プ大砲を製造する有様をも見物に行った︒戦争に関することが最

も多く彼等の注意を惹いたものであった︒勿論政治的のことも視 察せぬではない︒裁判所に行きて︑開廷中の光景を見たり︑又国 会の模様を見たこともある︒ 然かし彼等は古物とか絵画とか彫刻とかには一向趣味がなかった︒ タムツン氏は博物館や美術館に這入て名高い絵画や彫刻などの前 に立ち十分に其の技巧や風韻を味はんとするも一行は一瞥を与へ たのみで直ぐ過ぎ去って直った︒当時の人々がまだ学術とか芸術 とかに対する趣味が甚だ乏しかったことを知るに足る︒楽みの好 きなものは芝居などにも出かけた︒五十余人の日本人中片岡健吉 氏は最も温厚の人であった︒船中に於て已に洋服を着て居た︒船 員どもは同氏を以てζ器↓2と叫んで居たさうである︒同氏はタ ムソン氏の案内した一行でなかったから︑独り英国に留まった︒

一行が伯林に居たとき日本に於て廃藩置県を実行したとの報に接

し︑・大会議を開いた︒半ばは直ぐ帰国するといふ︑半ばは予定通

りに歴遊すると主張する︒其所で遂に半ばは伯林に留まり︑半ば

はマルセイユに行き︑タムソン氏も一緒に其所から郵船に乗って

帰朝せられた︒

    東京に於ける最初の教会

タムソン氏は十数名の日本人とともに欧米を漫遊して帰朝せられ

たのち︑暫らく横浜に滞在せられた︒其頃同地に於て宣教師の集

会があった︒其の席上で若し日本に教会を建てるならば宗派に関

らずロハだ基督の名に於てのみ設立すべしと云ふ意味の決議をなし

た︒此は明治五年の春のことである︒其の八月頃タムソン氏は再

び東京に移って伝道に従事せら湿た︒其の年横浜に始めて設立せ

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﹃福音新報﹄明治学続関係記事

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

られた日本耶蘇公会の会員中東京に移り住ふものが其の後次第に

多くなり︑遂に翌明治六年九月二十日を以て築地小田原町新栄橋

際に新たに忍会を建設するに至った︒埋れ即ち新栄教会の前身な

り︒其の創設に与った人は︑粟津高明︵明治元年バラ氏より受洗︶︑

竹村耕鶴女史︵明治五年ブラウン氏より受洗︶︑小川義緩氏︵明

・治二年タムソン氏より受洗︶︑書きん子︵義縷貝母︑明治四年バ

ラ氏より受洗︶︑深沢きよ︵明治六年バラ氏より受洗︶︑北原造次

 ︵今改めて義道︑明治五年バラ氏より受洗︶︑桃江正吉︵明治五

年バラ氏より受洗︶︑高橋亨︵後年安川と改姓︑明治六年タムソ

ン氏より受洗︶の諸氏であった︒

    禁制高札の撤去

切利支丹邪宗門禁制の高札の除られたのは如何なる事情であった

らうか︒タムソン氏之に就いて語って曰く﹃宣教師どもは此の事

について直接に政府に願ったことはない︒只英米の福音同盟会に

当てて屡ば此の撤去の為に尽力せられんことを願った︒余が欧洲

に赴いたときにも願書を携へて行った︒一方に於て在日本外国公

使また此のことに尽力した︒かくて岩倉︑木戸︑伊藤などの諸氏

が欧米から帰へらるるや︑遂に何日となく撤去されるやうになっ

た﹄と︒タムソン夫人傍から﹃私が千八百七十三年︵明治六年︶

日本に来たときには己に其の高札はありませんでした﹄と云ひ添

へられた︒

    米国公使ビンハム氏

タムソン氏は前にも云へる如く︑日本の教会の独立に賛成せられ た慰め︑一時本国の伝道局より俸給を受けるごとを辞ぜられたこ とがある︒其の問は米国公使館の通訳となられた︒其の時の公使 はビンハム氏と云ひ︑積極的に事を遣る人でハ日本人には多大の 同情を有して居た︒該公使の功績の重なるものは︑治外法権を廃 止する臨めに尽力したことださうである︒英国が之を承知する以 前にビンハム氏は已に之に関する条約を定めて居た︒然るに日本 の政府は欧羅巴諸国との条約の模様を見て後に締結せんとして︑ 之を握りつぶして居た︒其の酌め遂にビンハム氏の起草したもの が無効になったのは気の毒であったとタムソン氏は語って居られ た︒又切利回丹宗門禁制の高札を撤去せしむる為めにも大いに力 を尽されたといふ︒ ︵七=一号・明治四十二年二月十八日︶  ︵四一M4213︶ スタウト博士の事蹟   九州伝道の発端スタウト博士︵上︶ 始めて新教宣教師として長崎に渡来せるはフルベツキ博士なり︒ 然れども時に遠く維新の以前にあり︒此の地に於ける同博士は広 運館の教師たりしのみ︒未だ直接伝道に手を下すの機を得ずして 去ぬ︒同博士に踵いで渡来せる宣教師を︑ヘンリィ︑スタウト博 士と為す︒九州の伝道は同博士によりて始めて其の基を置かれた         ママ  り︒今や博士は古国に老を養はる︒在留当時︑事に際して折々門 下の青年に語られたる所と︑長崎一致基督公会の一人瀬川浅学の 伝へらるる所とを綜合して同地方に於ける伝道開始の次第を略叙 せんかな︒

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スタウト博士曽て上陸当時の事情を追懐して曰く﹃私が始めて長

崎に参りましたのは明治二年であります︒お侍が刀を指して羽織

がピンと後ろに突き出し居たのや︑赤毛布を被って往来する人や︑

税関の役人が畳にキチンと座って小さな机を前に事務を執って居

たのは何よりの奇観でした︒此の時には既に知事が居ましたが︑

名を野村と言って非常に親切にしてくれました︒同氏は自分の別

荘に私を住まはせ︑長州から二人︑薩州から一人︑都合三人の侍

を傭ひ入れて︑私の番をさせました︒私が外出すると二人が警護

して︑一人は宅を護るのです︒自由な米国に育った私は窮屈で溜          そっと まらない︒或るとき密然裏手の高い石垣を飛び降りて市内を一人

でぐるく廻って帰って見ると︑侍は三人で大騒ぎをしてゐまし       ま た︒危険を冒しても束縛せられるよりは等しだと思ったのです︒

然しずっと後の事でしたが︑或る日妻と二人で散歩して居ると二

人の侍が行先に立塞がって︑刀の鯉口を一尺ほども抜いたことが

ありました︒幸ひと無事で済んだ︒此様な状態ですから伝道も公

然とは出来ない︒梅ケ崎の波打ち際には﹃切支丹宗門禁制之事﹄

と高札が建てられて馬浦上の旧教徒は続々検挙せられる︒或る日        ママ  私は浦上に参って四千余人ばかりも珠子綴ぎにせられて︑役人が          ママ  老人でも婦人でも用捨なく︑所嫌はず撲り散らすのを見ました︒

乳飲み児を寝床に置いたまま捕はれた婦人もあったと申します︒

残虐な迫害の有様を目撃して心を痛めつつ帰って来る途中︑此れ

も老幼を混じた五十人ばかりの一団が泣きながら雪の中を追ひ立

てられて行くのに逢って︑失礼ながら御国にまだ文明の空気が少 しも通って居ないことを心の底から悲しみました云々﹄ 斯る事情の下にスタウト博士は志急なれども容易く邦人に道を説 くの便を得ず︑フルペッキ氏の東京に去れる後を承けて時の官立 校広運館に教鞭を執れり︒相前後して熊石に学び博士の薫陶を受 けて現に世に著はるる人々には︑伯爵大隈重信︑兵庫県知事服部 =二等の諸氏あり︒明治六年に及び気運僅かに至らんとするを見 たる博士は︑其の私邸を以て教場に当て︑聖書講義の傍ら英語の 教授を開始せり︒来りて学べるもの七八名︑漸次基督教の一班に 通じぬ︒後幾も無く博士は市の有志に議り︑一私立学校を設立し︑ 男女上級を置き︑博士夫妻自ら教授の任に当り︑一時其の盛運隆 々たる有様なりしも︑博士が聖書の講義を為すこと明かなるに至 り異論百出︑遂に閉校の止なきに満せり︒愛に煮て博士は断然独 立して其の邸内に一校舎を建築し︑男女の学生を集め公然課する に聖書を以てし︑安息日学校を開き︑鋭意伝道の基礎を据ゆるに        ママ  努めたり︒今の梅香崎女学校々堂の地位は即ち其の校舎の跡にし て︑其の富里を給するものあり男校を分割し︑東山学院の前身た るスチイル紀念学校を設立することとなりぬ︒ 明治七年制札は撤去ぜられたるが︑之より先に既に学生のうちに 信仰を告白するもの起り︑明治六年九月上旬其の三等は意を決し て博士より受洗せり︒撲れ博士が九州伝道の初穂にして︑山口藩 士山田某︑柳河藩士櫛部某︑中津藩士瀬川浅の三蔵即ち渋れなり︒ 瀬川氏は現に九州伝道区巡回教師たり︒当時の事なりけり︒大村

の僧侶某︑始め舷天主教の宣教師に徒ひて道を学べるもの︑一旧

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

博士を訪ひ︑突然受洗を求めたり︒博士は怪みっつ教理を試問ぜ

しが︑彼は言窮して︑うろ覚えの物語の中より洗礼ヨハネの事実

を思ひ起して之を信ずる旨を答弁せり︒蓋し身親しく信徒の団体

に投じて其の内情を探らんと撫せるなり︒博士はいち早くも其の

胸中を看破し︑妄を遅き真理を戒むべきを説けるも彼は遂に救ひ

を得ずして去れりと云ふ︒憶いで清水某︑淵川某両氏亦受洗せり︒

此の時に当りて博士は尚ほ邦語に通ぜず︑信徒亦英語に詳かなら

ず︒聖書の如きも未だ僅かに馬太︑馬可二巻の翻訳成れるのみ︒

伝へ聞く︑一日博士は讃美歌を編纂せんとして日本固有の音楽を       ま 知らんと欲し︑之を学生に議かる︒学生は多く武家の出にして舞

楽に通ずべくもあらず︑適ま瀬川伎量が国都々逸の存するを答ふ

るや︑博士は切に聞かんことを求めて止まず︒学生相顧みて互に

譲る︒発言者たる瀬川氏は衆と博士とに迫られ︑止むなく譜頗る

怪しき都々逸を教場に演じたりと云ふ︒又当時の事情を髪吊せし なるに足らずや︒蓋し斯かる不便の下に信徒を教養するに嘗めた

る博士の苦心は到底今日の宣教師の夢想だも及ばざる麗なるべし︒

明治七年制札の撤去と共に市内に伝道を開始せんとせしも治外法

権の制は外人に土地の譲与を禁ぜるを以て己むなく居留地中最も

市・街に近接せる梅ケ崎の一角を択びて其所に約五十坪の質素なる

会堂を建築せり︒十月初旬工事竣成と共に始めて公開説教を試み

たり︒九州に減て新教の公然発表せられたる実に此の日にあり︒

爾来ニケ年会堂を開く毎に聴衆の蝟集するもの二百名を超えたり︒

斯くて旧教徒に対する伝説を信じて基督教を否める市民も漸く新 教の何物たるかを理解し求道者亦陸続趨らんとするの気配を示め せ︑0︒之を感知せる市内の僧侶神官は或は市民の疑催を醸すべき    はな 流言を縦ち︑或は会堂の内外に来りて集会を妨げ︑百方其の伝道 を阻害せりしを以て一時は市民を風靡せんとしたる博士の伝道も 髪に一面壁を来すに至り︑日曜日の来会者は俄かに十五六名に減 じ︑博士を崇めて﹃先生﹄と尊び︑到る処に歓待したる市民は︑ 途上に相逢ふも冷然路傍の人を以て博士を目することとはなりぬ︒ 集会の前疾くに来りて寂寛なる会堂の隅に脆き︑泣卸しつσ祈祷 せる博士夫妻を目撃せしも少なからず︒ 然れども真面目なる求道者︑学生等は此れに屈せず︑八九両年に は数名の受洗者あり︑九年の春に至り︑市内酒屋町に民家を購入 し︑同年十二月廿五日男子八名︑女子数名の会員を以て︑長崎一 致基督公会を建設し︑翌十年春︑瀬川浅氏を長老として東京築地

一致教会に催ふされたる中心に出席せしめ︑東京︑横浜︑長崎の

三教会は正規の一致教会中会を組織するを得たり︒斯くて瀬川浅

氏︑留川一路氏相前後して東京築地一致神学校に学び︑帰来各博

士を扶助して其の任に当るに及び九州伝道の基礎漸く輩罪なるに

至たれり︒︵此項日高善一氏の筆に成る︶︵七一五号・明治四十二

年三月十一日︶

    九州伝道の顯末1ースタウト博士︵下︶

十九年博士の理想たりし東山学院神学部の建設成り︑神学生を教

養することとなりぬ︒九州伝道の今日あるは一つに博士の努力に

拠ると云ふも過言に非らざるべく︑珊年に至り︑本国ミッション

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の議に由り細雪学部は廃せられたりと難も︑現に同地方の分野に

活動しつつある教役者にして直接博士の薫陶を受けざるものは僅

かに二三の外に出でざるべし︒去って他の教区に在るもの其の数

亦少なからざるなり︒

博士は体脇豪壮︑堂々として英雄の風姿あり︒意志堅実軽々しく

動かず︑然かも奇才縦横能く人を服す︒質朴筍も街はず気品を尚

び︑卑劣を憎み︑或は我が国古武士の面影あり︒膝下にあるや学

生は其の厳に堪へずして往々怨みを奏すことなきに非らずと錐も  た 一回び其の許を辞し︑思想梢や熟すれば等しく博士の徳を追慕せ

ざるはなし︒

中途博士に代り東山学院に長たりし一宣教師は労働を鼓吹し︑雨

天体操場を以て其の作業室に充て︑西洋洗濯を営ましむ︒博士再

び任に回るや︑悉く之を撤去して臼ふ﹃校舎は学生を養成する所︑

慢りに商佑の世才を授く可らず﹄と︒事の当否は知らず︑博士が

﹁気品を尚ぶ斯くの如し︒其の米人なるが故に殊に博士の特徴と為 すを得べし︒博士又曽って門下の一青年を夏期伝道に遣はさんと

して切に勧む︒青年は自ら経験なきを楯とし︑堅く執って動かず︑

博士莞爾として日く﹃さらば卿は妻を悟るにも経験を要すべし﹄

と︑峻厳なる博士の言として人の意表に出づ衆大に笑ふ︒青年は

   ママね 蝦然維々として其の命に服しぬ︒青年の気を干して之を制する斯

くの如し︒又一生あり︑ ﹃神若し罪悪をも行ひ得ずば能はざる所

あるなり︒既に能はざる所あり︑焉ぞ全能と云ふぺけんや﹄と論       さしまね じ︑基督教の真理を罵る︒博士は言下に彼を鷹き︑ストウブの 前に停立せしめ其の戸を開く︒而して炎々たる焔を指して日ふ

﹃卿の手を此の火中に置け︑距離僅かに尺に満たず︑卿に能はざ

る理由なし﹄と︒彼暫く沈思せしが自ら深く悦ぢ︑後遂に受洗せ

り︒更らに一日米国より来遊せる若ぎ婦人の団体あり︑一生は隈

々校舎を案内して食堂に及ぶ︒団体中の女丈夫其の食器に盛りた

る総菜を験し︑此れを屋外に待てる友人等に携へ行き︑疇々之を

嘲ける︒ ︵不幸にして一行は東山学院に対する出資者に縁故ある

人々なりき︒︶案内者たりし学生大いに渾り︑矢庭に全校の学生

を講堂に集め︑涙を揮って米婦人の妄戻を論じ︑ ﹃斯かる屈辱を

被るも畢童彼の輩が出資せる学院に学べばなり︒須らく袖を連ね

て不祥の地を去るべし﹄と︒満場之に和す︒博士は頗る憂色あり︒

臆て学生の降るを待ちて自ら壇に上り︑博士が渡来当時邦人に加

へられたる侮.辱の態を手真似もて演じつつ其の独特の譜諺を弄す︒

全員どっと笑ふ︒又婦人の行跡を追ふものなし︒博士が血の沸き

易き青年を牽ゆるの才斯の如し︒

然れども博士は譜講子弟を弄んで喜ぶ人に非ず︒一学生あり︑乱

暴生々宛然無頼の徒に同じ︑博士之を室に捕へ来りて其の不堵を

詰り︑罪跡を露きて悔改を促す︒言悪青年の肺肪を裂く︑然かも

彼れは尚ほ服せず︑猛然其の懐中に呑めるヒ首を抜き放ちて博士

に迫る︒袋に於て博士は従容厳かに放校を命じぬ︒適ま傍ら人影

なし︑されど流石の悪青年も博士に一指だも加ふるを得ず︑威能

く人を圧する事斯くの如し︒

一回び発したる命令は如何なる事情あり如何なる不便あり︑済し

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

て之がため自ら如何に損失ありとも断乎として之を遂行せしめざ

れば止まず︑又自ら好く約を履んで卿かも惇らず︑然れども亦決

して忍なき人にあらず︒

老年に及びて夫人の起居自由ならざるに至るや︑博士は百方之が

慰籍に努め︑晴天を択び夫人を車に扶け乗らしめつつ自ら其の傍

らに附き添ひて市中を遊覧せしめたるを見ては︑其の友愛に厚き

を感ぜざるものなし︒以て博士が家庭を窺ひ運べきなり︒

伝道の計画︑実行に関する博士後年の方針と其の主義とは一層博

士の人格を発揮したるものあり︑型物に後輩宣教師と相容れず︑

本国ミッション亦博士を財けたるは︑局外者の与り得ざる所なり

と錐︑其の不抜の精神は薫陶せられたる門下の諸生に之を記銘す

るもの薄れならざるべく︑九州の伝道界又博士を紀念すべきもの

少なからざるなり︒

博士が我が国を去る数年前︑夫人は遂に長崎に於て死去せり︒制

服制帽の学生百余名︑交るく其の枢を負ひ︑恰⁝然として進む︒

花環を腕に捧げたる数十名の女学生は鳴咽しつつ之に続く︒市民

は同情の眼を側てて此の類少なき葬儀を送迎せり︒翌朝の新聞紙

は宗教学校の他に求むべからざる美談と為し︑競って之を報道し︑

又之を論ぜり︒言ふを止めよ︒宗教学校と錐も量に容易く此の挙 .あるを得んや︒人は播かざるものを騰りに刈るを得ず︒二百の男

女各生当時の意識は押れ前後して其の薫陶を受けたる人々の意識

ならんのみ︒

博士今や去って故国に老を養はる︒遥かに伝道開始五十年祝賀の 風説を聞かば︑其の今昔の感懐果して如何︒思ふに門下の諸生博 士の衷情を汲むもの必らずしも之なきに非ざるべし︒然れども親 しく博士を知ると否とを問はず九州の伝道界は永しへにヘンリイ︑ スタウトの名を其の記憶より拭ふを許されざるなり︒ ︵此の項は 日高善一氏の筆に成る︶ ︵七=即吟・明治四十二年三月十八日︶  ︵四lM42i4︶ 明治学院第二十四回卒業式 ◎明治学院第二十四回卒業式 去る廿七日午後二時明治学院高等 学部及び普通学部の卒業式挙行せられたり︒内外の来賓及び学院 生徒等二百余名会堂に相会し先づ絃楽の合奏あり︑熊野雄七氏聖 書を朗読し︑ワイコッフ博士の祈祷あり︑再び奏楽の後︑高等学 部卒業生中村普選氏の﹃進化に於ける勢力と叡智﹄と題する英語 演説ありて合唱あり︑賞品並に褒状を授与せられ︑次いで卒業証 書を授与せらる︒卒業生は普通学部五十九人︑高等学部七人︑当 別弓張恵淳︵韓人︶氏なり︒かくて総理井深博士は今年は世界の 偉人にして誕生第百年を紀念せらるべきもの多し︑諸君が斯く祝 すべき年に卒業することを祝すとて︑簡単なる告別の辞を述べら れ︑普通学部卒業生総代石塚喜智二郎氏︑高等学部卒業生総代中 原剛三氏答辞を述べ︑山田某氏の独唱あり︑伯爵林董氏は明治学 院の前総理ヘボン氏と師弟の関係ありしことを語り︑ヘボン氏の 性状につき学ぶべきことどもを述べられたり︵別欄に其の概略を 掲ぐ︶︒次いで米国大使オブライエン氏の演説あり奏楽の後ジエ ムス︑バラ博士の祝祷ありて散会せり︒ ︵七一八号・明治四十二

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年四月一日︶

 ︵四一M42−5︶ デビドソンの逝去

ムロバアト・デビドソン氏逝く 同氏は明治七年童画長老教会伝

道局より宣教師として来朝し︑両国教会の創立に関係し升四年病

に罹りて帰国せるが去る三月十一日午前六時死去せられし由︒

︵七一九号・明治四十二年四月八日︶

 ︵四lM4216︶ リフォームド・ミッションの五十年

  伝道開始五十年

    ︑米国ダッチリフォルムド教会外国伝道局の事業︵上︶

a本基督教会は已に記した如く︑元来外国の宗派に関係せず日本

の伝道は日本人自ら之に当らねばならぬといふ精神であった︒横

浜に日本基督公会の創立せられたときも此の主義であった︒然る

に其の後︑外国のミッションと伝道上の関係を生じ︑其の他色々

の事情に纏はれ︑両者協力の問題は今日尚ほ十分の解決を見るこ

とが出来ない有様となった︒其の辺の事情は他日説くこととして

先づ日本基督教会に関係のある外国宣教師たちの事業の経過を掻

摘んで記して見よう︒

其の日本伝道に着手した順序から云へば米国リフォルムド教会外

国伝道局が最も古いものの一つである︒即ち今より五十年前に来

朝したブラウン博士夫婦︑シモンズ博士︵宣教医︶夫婦︑フルペ ッキ博士夫婦︑ミス・アドリアンスの如き何れも此の伝道局に属 して居る︒ 此のミッションの日本に於ける伝道区域は南北に別れて一つを北 日本ミッシ召ンと云ひ︑東京︑横浜︑長野県︑岩手県︑青森上等 に伝道し︑他は九州方面の伝道に当って之を南日本ミッションと 称して居る︑便宜の畳め先づ北日本ミッションの事業を記す︒ 此のミッションの宣教師として日本に来た者は︑前記の諸氏を筆 頭として︑千八百六十一年︵文久元年︶にジェムス・バラ氏夫婦 来り︑千八百六十九年︵明治二年︶ミス︑キダア︵今のミロル夫 人︶来り︑千八百七十一年︵明治四年︶ウォルフ氏夫婦来り︵病 を得て明治九年回米︶其の翌年即ち明治五年にミス・ヘクエムボ ルグ︑明治七年にミス︑ホヰットベック来る︵此の二人は間もな く帰米された︶︒かくてミロル氏千八百七十五年即ち明治八年に 来たり︑アメルマン氏夫婦其の翌年を以て来り︒ ︵明治二十六年 帰米︶明治十一年にハリエット・ウィン︑エリザベス.ファリン トン︑マミィ・ファリントンの諸嬢来る︒現に横浜フエリス女学 校戸長たるブウス氏夫婦は千八直射.十九年即ち明治十二年に来り︑ ミス︑バラ千八百八十一年に来りて数年間留り︑同年に明治学院 のワイコフ氏夫婦来る︒其の翌年ミス︑ウィン来り︑明治十七年 ハリス氏夫婦来り︑其の後続々男女の宣教師が来た︒最初から日 本の伝道に従事した同派の宣教師は総計三十四人に及び︑現今在 住して居るものは十五人である︒ 横浜の最初の教会はブラウン・バラ諸氏の尽力に負ふところが多

いのであるから矢張り此のミッションに関係を有して居る︒暗黒

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﹃福音新報﹄明治学続関係記事

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﹃福音新報﹄明治学院関係記事

会は明治五年三月十日に設立せられたのであるが︑頗る急速な発

達をなし︑其の翌年にに其の会員が東京に来て新栄教会を起すに

至った︒明治八年今の会堂の出来たときには百六十六名の男女と

十九名の小児との会員を有して居たのである︒

其の頃同派の宣教師たちが伝道して居たところは︑バラ戸外の他

の人々が上総に伝道し︑ピヤソン夫人が函根から三島あたりに伝

道し︑バラ︑ブラウン諸氏も之を助けた︒

同ミッションは信州の上田に伝道を始めた︒其の由来は日本基督

公会の会員鈴木親長氏が明治八年の夏親戚を上田に訪ね其の頃出

来た四福音書の翻訳を携へて之を売り弘めんとした︒其の頃稲垣

信氏は長崎から帰って居られ︑同氏は東京及び長崎にて基督教を

聴かれたことがあるので其の後数名の友人を集め聖書研究会を開

き︑また上田禁酒会なるものを起された︒同年の十二月︑押川方

義氏が新潟に赴かるる途次同地に立寄られ︑図らず稲垣氏と解遁

し︑其の家に終夜語り明し︑クリスマスを守られた︒押川氏の勧

めにより稲垣氏は翌年一月横浜に出てバラ氏からバプテスマを受

けた︒而うして同年の夏ミロル氏夫婦は真木重遠氏を伴ひて避暑

をかね一ケ月滞在し︑真木氏は更に一ケ月留り︑其のとき十六名

の受洗者が起った︒其の後バラ氏がグリイン︑ギユ刃ッキニ氏と

ともに東北に行く途次立ち寄られし際更に十七名受洗し︑三十余

名の信徒が出来たので︑明治九年十月八日上田基督公会なるもの

が設けられた︒稲垣氏は其の長老に挙げられたのである︒

かくて同地は信州に於ける同ミッションの伝道の中心となった︒ ミス・プロッカゥ始め︑ミス︑デョオ︑ミス︑ワイコフなどが同 地に居住して伝道に力を尽した︒かくて千八百九十五年即ち明治 二十八年日本基督教会伝道局と関係することとなり︑同三十二年 自給独立して今日に至った︒ 同ミッションから伝道を開始したところは北信州に於ては上田の 次ぎには長野である︒同地には千八百九十年から着手し︑千八百 九十七年スカッダア氏夫婦が定住して伝道することとなった︒其 の外小諸︑春日︑臼田︑野沢等にも伝道した︒南信州に於ては松 本を中心とし︑坂下︑諏訪︑飯田等に伝道した︒其のうちに臼田︑ 春日︑野沢等の伝道は後に日本基督教会伝道局で引き受け︑今日 では独立教会となって居る︒ 此の外麹町教会︵明治十年設立︶難壁教会︵明治十一年設立︶三 島教会の如き同ミッションと関係がある︒下谷教会にも亦縁故が あった︒且つ名古屋には植村正久︑山本愛煙二氏が同ミッション から伝道に着手せられた︒其の後阪野嘉一氏は同地に赴かれ︑又 山本秀煤氏は岡崎に赴かれた︒然かし此の地方の伝道は後に南プ レスビテリアン︑ミッションの管轄に譲ることとなった︒名古屋 教会は独立教会となって居る︒︵此項続く︶︵七一二号・明治四十

二年四月二十二日︶

    米国ダッチリフオルムド教会

   .外国伝道局の事業︵二︶

日本メソヂスト教会︑殊に旧美以教会の重なる教役者は︑本多庸

一氏を始め︑弘前教会の出身者が甚だ多い︒さて其の弘前メソヂ

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(19)

スト教会は其の姶め︑又米国ダッチリフォルムド教会外国伝道局

に関係して居ったのである︒千八百七十三年即ち明治六年︵或は

其の翌年であったかも知れぬ︶︑横浜に於ける日本基督公会の創

立者の一人なる本多庸一氏から︑其の故郷弘前に学校を開く為め︑

誰か適当の教師を送って呉れまいかと熱心に同ミッションに依頼

した︒然かし恰ど其の時日本に居る宣教師には此の依頼に応ずべ

き適当の人がなかったので︑米国の本部に言合った︒然るに其の

返事の達せない前にメソヂスト伝道局からイングと云ふ宣教師が

其の学校の教師として赴任することとなった︒之を東奥義塾とい

ふ︒其の後間もなくイング氏の尽力によりて十五人の悔改者起り︑

何れも遂に受洗するに至った︒此等の信者は横浜の日本基督公会

に向ひ︑一教会を組織することと︑礼拝の為めに牧師か若しくは

長老を送られんこととを請求して来た︒かくて其の請求は容れら

れ︑本多庸一氏に長老の按手礼を授け︑明治八年十一月を以て弘

前基督公会なるものが組織せられた︒然かし其の後事情ありて同

教会は美以教会に加入することとなった︒

明治十一年に及び︑外国宣教師と日本の教役者及び長老とによっ

て成立せる伝道委員なるものが設けられた︒其の翌年更に中会に

属する伝道局なるものが設けられた︒而うして各外国ミッション

は之と相提携して其の事業を経営するに至り︑種々の便宜を得︑

其の事業も大いに進歩したことである︒

其の頃から今日まで米国ダッチリフォルムド教会外国伝道局北日

本ミッションが直接に伝道して居るところは︑横浜市内及び其の 附近︑安房︑伊豆︑信阻へ南北の二教区に分つ︶等を始めト盛職 及び青森を中心として陸中及び陸奥地方に伝道して居た︒ 安房の伝道地は余り多望でなかった︒伝道者も第一流の人でなく︑ 随て著しき発達を見ることが出来なかった︒ 伊豆の伝道地は三島︑神山︑御殿場︑柏久保等富士山麓の諸悪を 含んで居る︒一時は余程盛んに進歩したこともあったけれど︑熱 心なる信者が他に転じたりなどして今日では余り思はしくない︒ 信州のことは記事の都合で長野上田を中心とせる北信州の伝道の 概況を述べたから︑此には松本を中心とせる南信州の模様を記す︒ 同地方にては松本︑諏訪︑坂下︑飯田等に伝道して居る︒何れも 伝道音響以来十数年になるけれど︑未だ一個の独立教会をも出し 得ない︒ 岩手青森両県の伝道は同ミッションの経営する所である︒第一に 着手したのは盛岡で︑明治二十年林作太郎氏が其の任に当ったの である︒其れから宣教師ミロル氏や三浦徹氏が伝道の衝に当り︑ 其の後数名の伝道者が代った︒其の附近の伝道は︑明治二十一年 花巻に着手し︑同二十七年一関に着手し︑宣教師ハリス氏夫婦が 定住して伝道したこともある︒青森は明治二十四年真木重遠氏に よって伝道を開始せられ︑ミス︑ウインも此所に住って力を尽さ れた︒盛岡及び青森には何れも立派な会堂が建てられている︒然 かしまだ独立教会とはなって居ない︒     同ミッションの教育事業

        ︵フェリス女学校︶

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