明治学院百年史委員会
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目次︑
資 料﹃福音新報﹄明治学院関係記事
昭和九年:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝
昭和十年⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝
昭和十一年⁝:⁝⁝ご・ザ・⁝・⁝⁝・⁝⁝
昭和十二年⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・
昭和十三年⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝
昭和十四年⁝⁝⁝・⁝:⁝⁝⁝⁝三⁝
昭和十五年⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝・⁝
昭和十六年:::・:::::・::・::::4 ⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝●⁝⁝⁝⁝﹁⁝⁝・ひ⁝⁝⁝⁝⁝⁝:.⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝.⁝⁝:⁝⁝⁝⁝●⁝⁝⁝:し⁝⁝:.⁝r・⁝・:・:::︒::::・::::::::●:::・:︒:::︒.:::●::::::::::9:鼻::::◎⁝⁝:⁝⁝⁝⁝●⁝⁝⁝:航:⁝⁝.⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝ド⁝⁝:⁝:⁝・⁝⁝⁝:﹂⁝一⁝⁝:⁝.::.⁝.:.:.::::⁝⁝:::⁝.:::⁝::.:.::.:::︒:⁝.⁝⁝⁝⁝⁝⁝:.⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・:ゲ:⁝⁝⁝⁝⁝.⁝⁝⁝⁝:⁝⁝.⁝⁝⁝● ● ● ● ● O ● O ● ● ● ● ● O O ● ● ● ○ ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ● O O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● 9 ■ ● ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● O ・ ● ○ ● 0 . . ・ ● O O ・ ・ ● . ・ ・ ● O ⁝ ● ・
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章 料
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
i宮昭和九年 至昭和十六年1
昭和九年
︵四lSg11︶ 植村正久追悼座談会
故植村正久先生 追悼座談会︵下︶
時 昭和八年十二月七日午後二時半
所 東京神田 基督教青年会館
出席者 井深墨之助︑山鹿旗之進︑日疋 信亮ふ長田 時行︑山本
雀焼︑小林 格︑長尾 半平︑笹倉 弥吉か毛利 官治︑
貴山幸次郎
本社側︵イロハ順︶
幽原 戌吉︑多田 素︑日高善一︑川添萬壽得︑佐波亘 山本 奥野氏はドクター・ブラオンの許で月給十円︑ドクター・ヘボンの所で六円だったさうだ︒ 植村さんのお父さんが小鳥を飼って居た事は知らぬが︑裁判所の何か書きものをしてみた︒ 井深 植村君はお父さんの仕事をも探してゐ亮︒築地に居た頃︑お父さんは学校のライブラリィに来て働いてみた事もあるが普通の人だった︒自分でも植村君は伝道の傍色々な仕事をした︒・外務 ママ 省にみた上野影回と言ふ人が植村君に翻訳を頼んで︑大変望を嘱して馬其の翻訳原稿を届けたとぎ度々遊びに来給へと厚意を表はして見たが植村君は遠いからさう度々億来られませんと答へたさうだ︒︵笑声︶ 多佃 9﹃喜びのおとづ耽﹄の編輯をなすった事もおみきうだ
1
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
﹃福晋新報﹄明治学院関係記事
が︒ 井深・ドクター・ブラオンの居た所は横浜山手二百十一番地で
その隣︑今の女子共立神学校のある二百十二番にミス・マクリン
が居て月刊雑誌﹃喜びのおとつれ﹄を発行して居た︒初めは吉田
信好が編輯をしてみたが星亨の書生とな?て︑その後を植村君が
やった︒マクリンは気ままで勝気なオールド・ミスで屡々植村君
と悪魔問題で衝突した︒それで或時受取った報酬の札をマクリン
の顔に叩きつけて帰ρたさうだ︒ ︵笑声︶︑山本 植村さんの信用して相談相手だった人は吉田信好と言ふ
学生だった︒彼は伊予松山の人で︑押川氏と共に出た︑信仰厚い
男だρたが祈りをしないユニテリアンの様な所があったと言って
みた︒下谷で伝道する時も麹町から吉田氏を引っ張ってきて助け
させた︒彼は洋傘商をやったが失敗した︒植村さんが死ぬ前にク
ラス会をした時︑吉田氏を評して吉田君は若し官吏になって居た
なら成功しただらうに︑と言はれた︒併し晩年は余り振はない人
であった︒
雨森氏はブラオンが導けばものになったらう︒指導者の無かっ
た事は惜しい︒新潟で伝道した時は評判がよくなかった︒
井深 誠意の乏しい才気のかった人だった︒
山本 雨森氏は数学の冑題で黒板に出て苦しんだがモそんなとき植村さんは日本語で﹃やってきまぜんでした﹄と書いて悪戯し
たもんだ︒ ︺
汕本.雨森ば英語拡よく出来た︒ 也漉 私が植村先生を知った三三ずρと後で明治七年バラ疑⑫斡旋でH・H・ウォルフと云ふ人︵ダッチ・リフォムド︶が任期が終塑︑・帰国し充後ジ凋ン・イングといふメソヂス琉の人が当局 ベママ と意見合はず弘崎に来た︒若も此の人が来なかったち私も信本基 ヘママ 督であったらう︒弘崎の始めの教会は日本基督公会で地方では景 ママリ初のものだ︑つた︒︑植村先生の事砿本田先生よりよく承0て居た︒私の受洗は明治十年四月八日でもた︒明治十二年上京して初めて植村先生に会った︒その頃少年の心に先生鳳偉い人と思9てるた一然し会って見ると︑ざっくばらんで冗談を言ひ人の口真似をしたり︑すぐ人を懐に入れてしまふ︒先輩には優越感があっ・て︑隔りがあるものだが先生にはそれが無かった︒ カネコ ︐ ︵ママ︶ 最初の伝道所が神奈川の金子といふ所に出来て本田昏んがそζ
で説教された時に︑植村先生は前座をつとめたと言って居られた︒
植村先生は人々の一致の力を煉瓦をセメントでつなぐ事を例証さ
れた︒之を井深先生が聞かれて感服されたと言ふ事です︒ ヘママ ママ 井深 それは共立女学校の講堂で本田さんが三崎へ帰る集会の
﹂時の引例でした︒その時セメントで繋ぐ如く愛を以てつながねば−ならぬ事を言はれた︒セメントなどは当時の新語だった︒
山鹿 その後植村先生の第一回の洋行の折︑九段で送別会を開 ママ いた︒その時本田先生が話され洋行は大変結構だが母上の事をお.考へなさいと言はれたので多感な先生は首を上げてみるに堪えな
かったさうです︒情にもろく︑フランクな街はぬ人だった︒気に
喰はぬ人は面前で攻撃し罵倒したが決して陰では何も言はなかっ
たΦ後で考へて見るとその毒舌は一句一句首肯かれ大に得る処が
ありました︒先生は大きな人であると共によい意味の気の小さい
人であった︒非常に細かい所に気がつかれた︒
時に疸繕を起された︒私が嘗て訪ねた時︑奥さん相手に非常に
怒って︸それを沈める為に小鳥をあやして︑居られた︒私は帰るに
帰られず立場に非常に困った事があった︒先生に物を尋ねると非
常に丁寧に教へて下さった︒文章はただ書けばよいのだ︒名文を
読んで書くに如かずと言はれて居た︒白石︑西行︑太平記︑軒並
正統紀などを読むことを勤められた︒当時或文士が本を出版した
が其広告に﹃読まぬ者は馬鹿だ﹄と言ふ意味の事があった︒ ﹃此
奴自分で書いたのだよ﹄と私にも見せて驚いて居られた︒
植村先生にはいろくお世話になったが︑忘れられぬ一事は相
談申せば自分の事として考へて呉れ︑自分の教会の不利でもその
人のためにならねば打明けて注意してくれた︒植村先生も人間で
すから欠点もありましたが愛の人でそれらの欠点は帳消しになっ
た︒青年を引きつけたのもそれだった︒
山本 井深先生の就職式の時フルペッキが日本基督教会の憲法
や信条を簡単に作った事に反対の意向を塾して﹃米国で汽車の荷
札に余︑0簡単な書き方をした為荷物が行先に迷った﹄と引例した︒
すると植村君は﹃荷札が余り長ったらしく書いてあったので読ん
でみるうちに汽車が出てしまった﹄とやり返へした︒ ︵笑声︶或
時フルペッキの使の者を撲った事もあったとか︒とにかくフルペ
ッキに鳳植村さんはよく障れてみなかった︒ 山鹿 演説の時はよく眠らねばならぬと眠ることをすずめ玉旅行の時寒ければフランネルの布の中央に穴を明けて着れば着物一枚違って暖いと言はれた︒ 長田 私が植村先生を知ったのは文章からで明治八年頃築地に東京大学があり笈を負って其所に這入った︒原︑鈴木︑石原︑旺村などと共だった︒同年クリ︑スマスの時︑七一雑報が神戸から出たがその中に先生の名前があったと思ふ︒なかく文も思想も立派であった︒それは貧しかったので小遣銭取りのためやったらしい︒編輯長は村上俊吉であった︒先生の文も時々没書されたといふことだった︒七山雑報にはかなはぬと先生も云はれた︒直接には+三年東京YMCAが初めて興り委員は井深︑小崎︑植村︑鼠村の諸先生で︑私は小使役であったが一人の会員だった︒その時非常に先生に可愛がられた︒一度怒られた事もあった︒ ︵五厘で通用した時代の葉書を出し先生よりの叱責の通信を読む︒︶ 明治十五年七月ジョセフ・フックといふボストンで良い働きをしてみた人が夫妻で来朝した︒その時﹃歓迎﹄の会を開炉たが歓迎といふ字が此の時初めて吉岡氏によって用ゐられた︒歓迎の文字は之より逼る︒此のとぎの通訳が井深先生で筆・記したのが和田氏︒それを翻訳したのが植村先生だった︒之を六合雑誌に載せようとした事について叱責されたのです︒ もう一つは植村先生は祈の人であったことです︒当時自分の様なものが牧師になることはどうかと思って居り︑私のために祈っ ママ
て貰ふの人署名を求める帳面を造った︒植村先生に願ふと︑先生
3
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
は署名した上へ逆に﹁この姓名を一見せしものは余がために祈
れ﹂と書いた︒
・当時リバイバルがあり︑下谷の練塀町教会で説教をした︒私が
激烈にやったので話をきいて飛び出した人もあった︒私の激烈さ
は井深先生のところに行き﹁貴方はキリストを御信仰なさいます
か﹂と問ふた程だった︒
外に矢野︑石川︑北原︑鳥山︑内村︑和田︑津田︑新島︑吉岡︑
木村声岩本諸氏の葉書もあります︒
原 もう後二十分です︒
・多田 私が先生を知ったのは一八九〇年︑明治二十三年だった
と思ふ︒明治学院カレッジ時代でそれまでは先生の名前さへ知ら ほろばなかった︒井深先生が嶽・を顔一杯にはやして厚朴の下駄を穿き本
願寺の方から通学された︒それを恐ろしいと思ったが植村先生の
存在すら無関心だった︒その後教場で姶めて接した︒電報を打っ
てよく休まれたが講義は良かった︒オッカナイ顔をするし変な先
生だと思ってみた所論文を書いて来いと云ふことになり私は良い
加減﹁に二三枚書いて出した︒ところが一寸来いと云はれたので叱
られると思って行ったところ︑あれは中々見込がある︒しっかり
やり給へと言はれた︒何をやるのか私には解らなかったがこれが
まあ私の植村先生との最初の関係でした︒当時の先生の今でも忘
れられぬのは始終読むべき本を提供して下さった事だった︒一番
町に私が居たころ教会の集が済んで行くと︑居室に多くの本を持
って来て︑夜の白むまで論じ明した︒そのため下宿の附近で︑私が 吉原に行くとの噂まで立つた︑︵笑声︶この様にして今日に至ったコ 多田 長田さんはジョ﹁ン︑・バラとは関係ありませんか︑ ︵長田氏これに対して答へここらで談話混雑︶ 多田 私などが一番先生の活劇を見てみると思ひます︒ 山本 六合雑誌の原稿では植村さんは約束をたがへる︑又教会で頼むとよく説教などスッポラかむて仕様がなかった︒ 多田 教室で今か今かと先生の来るのを待ってみるとよく電報が来て休まれたものです︒ 山本 羽織の三方など気が付いてよく注意された︒然し﹁私は別だが﹂⁝⁝と云はれた︒ ︵笑声︶ 長田 植村先生は築地でアメルマンと云ふ人の処へ日本語教授に行って居り︑私も当時日本語を教へに西洋人のところへ行ってみた︒今は無帽の人も居るが当時は皆んな帽子を被って居た︒丁度築地の駆る所で出会ひ先生は無帽であったので私に帽子を貸ぜと云はれた︒私も今西洋人のところへ行かなければならないど云
っても先生はお前は良い俺に貸せと云ひ二人が町の真中で帽子を
奪ひやいをしました︒全く困った人でした︒ ︵笑声︶
多田 植村先生は角帯をしめてゐられた︒
山鹿 植村先生程キリスト教会で坊主の頭勧撲った人は居ない
でせう︒名古屋で坊主連が伝道の邪魔をして︑雲霞の如く押し寄
せて来たとき︑先生はこんな面白いことはないと云って拳固を振
った︒坊主の方では耶蘇教はソンナことはせぬと思って鉄馬の外
に坊主頭を並べたのだからたまらない︒地の利を得た此方はサン
み\撲った︒
多田 先生は随分直接行動をやられた汽車の中で隣の人が居ね
むりをして︑モタレて来ると︑肘で容赦なくコズイたさうだ︒
原 今日はお忙しいところをお出を戴きまして厚く御礼申し上
げます︒話はつきまぜんが定刻が参りましたのでこの辺で打ち切
ります︒最後に井深先生に御祈りを御願致します︒
井深氏立ちて祈を献げらる︑時に四時五十五分︒
︵一九七八号・昭和九年一月一日︶
・︵四一S9−2︶ 新年を迎え福音新報の再興を期す
謹賀新年
新なる年を迎へて潜めてここに福音新報再興の趣意を明にす
我福音新報は故植村正久先生遠大の抱負を以て創刊せられてよ
り四十余年︑三界の指導機関として︑又報道機関として︑其の顕
著なる功績は︑夙に有識者の間に︑周知せられた所でありました︒
大正十四年先生逝去の後は佐波亘君︑先生の遺業を継いで︑其の
続刊経営に力を致せるも︑寛に昨年八月ご十四日号を以て廃刊す
るの止むなきに至ったのであります︒ 廃刊の報伝はるや︑読者悉く之を惜み︑其の復興を迫まるの声
切りにして各種の提言を寄せらるる向も少くなかったのでありま
す︒社会の現状も亦︑我等をして福音新報再興の必要を痛感せし
め︑一月又権威あり信用ある報道機関を謂ふて不便を感ずること 是等各方面の要望に促がされ︑我等も亦一段と新報再興の志を励まさるるに至った次第で︑福音新報を再興するは︑我等の祖国に純正なる基督の福音と健全なる基督の教会を建設扶植する使命の為に止む可からざるものあると共に︑亦実に故先生の記念塔を建つる所以であることを信ずるからであります︒ 三年十月初旬日本基督教会の大会京都に開かるるや其の最終日閉会後︑三三の間に有志の者幾十名相会して新報再興の議発せられ︑下名等選ばれて其の創立委員となり︑神の啓導を祈りりっ熟議を重ねたる結果︑鼓に愈々福音新報社を再興し直ちにその事業に着手する事となり既に其の初刊クリスマス号を発行し委員等皆新なる希望に満され︑前途に大なるヴヰジョンを望見しつΣある次第であります︒響くは同志同感の諸兄姉︑此の挙を賛し熱心なる援助を賜はらんことを︒原戌吉.小野村林蔵川添万寿得多田素 山本忠興 山本五郎佐波亘 日高善一 ︵一・九七八号・昭和九年一月一日︶
︵四−Sg13︶ 田村直臣の死去
田村直臣氏の死去
予てより軽蔑血を患ひ静養中なりし日本基督教巣鴨教会牧師三
等直臣氏は七日午後一時巣鴨七一一六二三の自邸にて死去︑享年
七十七︑日本の基督教史にも其の啓蒙時代より経歴の豊なる老若
師であった︒晩年には頻りに﹃馬可伝﹄の権威を主張し︑且つ欧
少からず・同年の大会に隔ても︑之が対策変ずべしとの議あり︑米の神学にあらずして冒森学﹄を組織すべしなど唱導論
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
5
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
て居た︒謹で弔意を表す︒
(一
緕オ九号・昭和九年一月十
︵四コ69−4︶ 日本神学校校長村田四郎を語る
村田四郎氏を語る H日本神学校長H I・Y生
卜村田氏は︑明治二十年︑山口に生れたから︑当年とって四十八歳のはたらぎざかりである︒氏の本舞台はこれからだ︑校長とな
、つスことは︑氏にとっては生命をかけてもよいことを意味する︒
・村田氏は︑明治学院出身で︑アウボルン神学校では︑たしか原
始基督教史を専攻されたはずである︒大阪神学院教授明治学院教
会の牧師︑それから同学院の中学部長と転任されたが︑内部の改
革問題が紛糾して︑遂に辞職し︑断然身を伝道界に投ぜらるるこ
とになり︑而も思ひ切って︑朝鮮大呼の小さな教会に赴任された︒
この直接伝道への転身につきて︑私の記憶にあやまりなくば︑
村田氏の生涯に忘るることの出来ない︑画期的な経験があったは
ずである︒それは︑氏が明治学院中学部長どして︑大動揺の全責
任を負ふて辞職した時︑植村先生を訪有して︑その苦衷をうった
へた︒その時︑先生は氏を慰撫︑激励されて︑伝道界に立つこと
の光栄を示された︒その時村田氏は男泣きにないてしまった︒か
くて︑氏は翻然身を伝道界に投じ︑はるぐ朝鮮の大学の一田舎
牧師として︑主の召命に感激しつつ︑勇躍赴任したはずである︒.旧邸より九州の熊本に︑それより再び明治学院神学部の教授と して上京︑東京神学社と合併して︑日本神学校が開設せらるると
一日︶同時に︑氏も亦その教授として選ばれ︑学校ではたしか神学緒論︑
新約聖書神学︑新約釈義︑説教学︑基督伝︑原始基督教三等︑か
なり重要な講義を担当されて︑今日に至ったものである︒
しかし︑もはや氏は単なる教授ではなくなった︒そして氏にと
っては︑教授たる以上に校長たることに︑より大いなる使命と抱
負と感激と満足とをもってをらる玉であろう︒
◇
村田氏について︑各方面の批評を綜合して見ると︑氏はもとよ
り天才でなくて︑常識家であり︑詩人的な素質と理解とがなくて︑
散文家であり︑やxともすると律法的︑形式的になりやすいゆ文
典家が必ずしも名文の作者とはならぬ︒予言者の先見と洞察と︑
熱と力がなくて︑修辞学者であり︑予言者の解説者である︒氏は
説教学的の雄弁家である︒けれども︑人の魂をコンボルトさする
力︑人の魂の静かなるふかみにふれてくる迫真力が乏い︒強く響
く︒けれども余韻が少い︒造花は如何に美はしく完全でも︑時に
は自然の野菊の香気と美と力とが少い︒
学究としての村田氏は中庸である︒高倉氏の如くに不用意にも
危険線を突破して︑遂に引返すことの出来ない危機神学に躍進す
るやうなところは少しもない︒だから︑学的探究の冒険と︑その
結果としての危険がない代りに学究としての発展は︑将来大して
期待し得ないやうに思ふ︒しかし︑それだけ氏の歩みは健実であ
り︑確さをもってみる︒
◇
村田氏は学究といふよりは︑むしろ教師である︒教師といふよ
りは教育家である︒但し教育家としての村田校長は︑なお未知数
であるが︑今後よほど苦労と経験とをつみて︑聖霊の恩寵にみた
されなければならぬと思ふ︒そして︑それは必ず神がその選べる
器に対して︑必要なるものとして豊かに与へたまふことを︑氏自
身も︑また我らも確信してみなければならぬ︒ ママ V日本神学校の現状と将来を想ふ時︑何とはなしに︑私は松蔭の
松下村塾や植村︑柏井時代の神学社の昔を追想させられる︒
◇
校長としての村田氏には︑いろく実現したい理想︑断行した
い抱負もあるであらう︒しかしそれを実現することの容易でない
ことそれを断行するためには長き時日を要し︑多くの困難の伴ふ
ことは申すまでもない︒我らは氏が責任の重きを感ずると共に︑
そのもてる長所は︑神の恩寵によって益々拡大され︑その短所は︑
聖霊にみたさる玉機縁となり︑常に自己の微弱さを切回さるxと
共に︑いよいよ謙虚の魂をもち︑我弱き時に強ければなりとの確
信の上に立って︑その貴き使命を全うせられんことを祈る︒
︵一九八○号・昭和九年一月十八日︶
︵四一Sg15︶ 田村直臣の葬儀
田村直臣氏の葬儀
日本基督教界の元老として︑特に少年の宗教々育に特色を発揮 した人であるが︑既報の如く脳盗血のため人事不肖となり︑同巳午後一時五分逝去された︒其の葬儀は十□日午後一時︑巣鴨教会堂に於て教会葬として執行された︒小出小巻氏の奏楽︑椎名長老の聖書朗読︑日曜学校生徒の讃美歌に次いで井深氏葬儀の辞を述べられ︑森田長老︑松村介石氏の弔詞あり︑弔電百五十五電を披露し︑山本秀漣氏の祝祷にて閉会︒この日の会葬者三百名に近く︑ ママ 原胤昭佐波三韓三等の顔も見えた︒ 田村先生 井 上 活 泉 ニ ルコヲ ニル天資敏活早知レ機︒ 回向二白雲郷裡一三 ノハスノ キノ ハ︑ ナリ洋癖極通和癖極︒ 如レ君意気古来稀︒ ︵一九八○号・昭和九年一月十八日間
︵四−Sg16︶ 村田四郎論について桑田秀延
1・Y生の村田四郎氏論に対して 桑 田 秀延
凡そ人物評論に湿ては評者の主観や視点よりして多少意見の相
違の生ずるのはやむを得ない︒しかし導き頃本誌に掲げられた一
・・Y生の村田二尊には可成り事実から離れた﹁認識不足﹂が存し
てみる様に思ふ︒筆者は村田氏とは余りに近く︑この事をなすに
適任ではないが︑他にも筆者と同様の意見を懐く人々も多いので︑
敢て鼓に一筆する次第である︒三つの点に於て自分は一・Y生と
全く意見を異にする︑
7
﹃福音回報﹄明治学院関係記事
﹃福音新報﹄明治学院関︐係記事
あの論では村田氏が如何にも散文家で律法的な形式家であるや
うに出てみるが︑同君の本質は正にその反対で熱情的な詩人肌な
所︑繊細な感情の持主たる所に存してみると思ふ︒又あの文に村
田氏の説教に余韻がなく迫力がないやうに書いてあるが︑同君は
寧ろ我が教会に於けるごく少数の傑出せる説教家の一人に数へら
るべきではなからうか︒同君の説教は常によく準備せられてをり
熱がありそしてメッセーヂがある︒最後に一・Y生は村田氏の学
問的将来を弱く評価してみるが︑同君の近著﹁パウロ思想概説﹂
は専門家仲間で極めて高く評価せられたものであり︑自分のみる
所同君は正に研究の成熟期に達し之からと云ふ所であり︑新約の
神学︵新約の文学については他にも人があらう︶に関しては︑我
が国の神学界に於ける極めて強力なる学者だと思ふ︒
右貴重なる紙面を拝借して敢て馳=ゴロす︒
︵一九八三号・昭和九年二且八日︶
︵四一S9−7︶ 中島久万吉の竜池辞任
時事だより
▽商相の更迭 中島商相は十年も前に書いたと云ふ古証文を引
き出されて攻め立てられ到頭辞職することになった︒吾等には寧
ろ意外であった︒吾等のみならず政界の消息通の間にも意外だと
感じたものが大多数であったらう︒想ふに国民の最大多数も亦同
様の感を与へられたことであらう︒更に首相始め閣僚連中が彼の
地位を擁護しなかったことを意気地なき業と思ふ︒首相始め只内 閣の安全をのみ希ふてビクくもので事勿れとのみ祈って肚の据った所が見えぬ︒あんな事で商相を取更へねばならぬ様では︑モi斉藤内閣の腰は砕けて居ることを示して居る︒ 威力も無くなり信頼も薄らいだ事を明に示したものではないかり斉藤内閣の弾めに残念に思ふことを禁じ得ない︒ △貴族院の品位 中島商相を論難攻撃した人々の中︑子爵三室戸と呼べる一議員の言論は可なり毒舌で︑某新聞がその社説に於て﹃措辞立論に隔て貴族院の品位を高うするものにあらず﹄と云へ・るは如何にも当を得た評論である︒吾等は元来︑ ﹃尊氏論﹄の内容は承知しないが︑兎も角十年も昔の感想文のあNした事情で
一雑誌に発表せられ︑商相自身も自己の心境を語りて遺憾の意を
表せるものを問題として取上げ︑一国務大臣に︑強いて逆臣の︐礼
讃者たるの名を押付けるのは︑国民思想の上からも心ある者は餐
回するに余グある事である︒貴族院中に︑三室戸子爵の言議を以
て不穏当となし︑貴族院の品性を汚す者として取消さしめんとの
議が起って居たと云ふ事はさもあるべき事と思ふ︒それかあらぬ ママ か︑前の日には散々の毒舌を奮った揚句三相に対し﹃陳謝の実体
を示せ﹄とか﹃商相と云ふ地位を拝辞し︑男爵も拝辞し更に日本
人も辞職したらよいであらう﹄とまで極言した三室戸議員︑其の
翌日は如何にも神妙らしく中島商議の辞職したのは遺憾の事で自
分は商相の引退を目的としたのではない︑など弁解して居る︒新
聞紙で斯く報ぜられた記事を読んで国民の大多数は聯かアツケに
とられざるを得ない事であらう︒
△五・一五事件擁頭 政友会でも民政党でも︑五.一五事件に
対しては毒蛇か︑剃刀にでも触れるかの如くこわごわながら間接
に︑或は遠くから棒でつXつく様な態度であったが︑議会の形勢
が梢政党に有利になった勢に乗じたと云ふ訳でもあるまいが︑此
程︑同事件を本筋に取扱ひ︑政治問題又は社会問題として議会に
持ち出し︑指導的質問を為すべしとの意見が持ち上って居るとか︑
﹃喧嘩過ぎての棒かつぎ﹄に類した態度である︒さりながら其の
主張者の一人の言へる如く︑五・一五事件は臆に落ちぬと云ふ露
な次第で︑憾んだか軍部に対し腹の中にわだかまりがあり非常時
に際し︑挙国一致の出来ぬ憾があっては︑これに越した国家の憂
はない︒遅れながらでも此の事件が本筋に議会に持ち出され︑之
に厳正な批判を加ヘハッキりした見解を国民に与ふると共に︑此
の事件が軍部と国民との間の一致の障りとなる様な事があれば徹
底的に除去し︑凡てのわだかまりを明朗にする必要があらう︒さ
れど政友会が今更之を議会に持ち出す丈けの気力ありゃは疑問で
ある︒ △国交有害文書取締 国際親善を害する不穏出版物が大ビラに
出版せられ中に轍軍人の名でハラハラする様な物が新聞の広告欄
に幅を利かす︒日本ば好戦国の名を弥が上に高める︒両院でも是
等不穏出版物取締不徹底なりと非難の声高しとか︑内務省にても
厳密に是等出版物を防圧せん方針を立てん意向なりと伝べらる︒
国民は一日も速に其の実現を待ち望んで居らう︒ ︵原生︶
︵一九八四号・昭和九年二月十五日︶ ︵四一S9−8︶ヘボン博士の墓地
三度ヘボン先生の墓に詣ず
在紐育 小室篤次
﹃美嚢平文先生翻訳和英密林集成︑千八百七十二年︑日本横浜
梓行﹄これは︑有名なヘボン字書で︑明治五年壬申の歳の出版で
ある︒初代英学者が多大の恩恵を被たのは︑此ヘボン字書である︒
此他目薬で有名であるヘボン先生︑安政年間から明治の二十五六
年頃まで︑詳しく云へば︑三十三年問︑日本に在て︑医療︑伝道︑
教育の為め尽力せられた日本人の恩人である︒
余二十年計り前に︑小著﹃水先﹄に︑先生の伝記を書た時︑氏
の生涯を研究した事が有るが︑其後二十三年目の今日︑親しく師
の墓に詣つる機会を与へられた事を喜ぶものである︒
師を要するものが︑ ﹃ペリーは︑鎖国的日本を政治的に開いた
が︑ヘボンは︑日本人の心の戸を開いた﹄と云たのは︑至言で︑
グリフィスは︑氏の生涯を︑ ﹃愛の精力の発現﹄であると言て居
る︒師の九十歳の誕生祝に︑日本政府は高平公使をして︑祝意を
表せしめ︑勲三等旭日章を贈られた︒余は此書状の写しを見たが︑
極めて丁寧な︑贈呈の辞が記されてあった︒
﹃ヘボン先生の葬儀は︑東オレンヂ市のブリック・プレスビテ
リアン教会に営まれ︑葬列は教会を出で玉︑ローズデールの墓地
に到た﹄と云ふのを頼りに︑先生の墓を尋ぬべく︑紐育を出た︒
一時間計りにイーストオレンヂに着た︒彼地の古老へ神崎老翁を㌔
9
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
訪れ︑氏と共に︑先づブリツキチヤウチを訪れたが︑門は鎖さ︑れ︑ 翁の墓に詣でエ︑意外な事を発見した・尖れは・此墓の半側に・
番人も居ない︒電車に飛曾て︑一三ズデールセミタリーに向た︒ 三池を隔てエ︑日本人の墓を見出した事であった︒
広い墓地の表門ならぬ裏門に下車した︒時が遅いので︑事務所は 牧師奥野武之助千八百九十七年五月半日永眠
鎖されて居る︒二人は大胆にも︑雲を掴む様な尋ねもの︑を目当 享年三十歳
に︑ボツ︿探し始めた︒所が思ひがけず︑先頃逝た︑巨人エヂ 国Φ︿●↓鋤犀Φぎω鼻︒Oパ§︒
イソンの︑土新しいおくつぎに打つかった︒拾ひものをした様に U♂匹蜜ミら葭一︒︒⑩刈︑一世の巨人の霊に敬意を表した︒.墓掃除をするらしい一人に︑ ﹀σqΦG︒o零露︒︒●
墓地の乳人の住宅をたつねた︒ ﹃ア・ソーデスか︑此お墓の事な と︑刻である︒千八百九十七年と云へば︑明治三十年である︒ダ
ら︑何でも知って居る男があります︒丁度今頃︑仕事を済ませて ケノスケと云ふのは︑奥野昌綱先生の令息である・大志を抱た少
後の向の道を通で︑家へ帰る筈です﹄と云ふので締たと︑二人は壮気鋭の士︑静かに・iズデールの奥津城に眠る・彼とおなじ道
指示された街道に道を転じて彼の来るのを道に擁した︒此老人の を歩むものに取ては感慨実に無量であった・案内で︑ボツボツ狭い霧の道を辿る︒タ陽は西に落ちて︑淋し ×××さを増し棄た.暫く探し歩いたが︑﹁.﹂れだ一﹂と云ふ.近維新前後の七教︑呆宗教の事柄を研究して行くには・嘱目
ついて見重︑古い墓石﹁ヘボン﹂茎田てある.近づいて︑墓のを忠にして・百哩か二百哩位の範囲を漁れば・大概見崇附く表を読で見ると︑ のである.面白い史実は発見せらるあである・文献に史実に史
ジェームズ・カーチス・ヘボン 跡に︑興味は実に津々たるものが有る︒︐天百+五年三早三星︑千九百三年九月二+百逝 肇・イ亥タゐ事であった・余籔友の日志を促して颪
ク.フーフ.エム.リート.ヘボンの妻 変りな墓参会をやった・余は進で案内者となり・紐育附近の・.日
天百+八年七月二+巨星︑千九百六年三月習逝 本の恩人の墓箋配でた.笙は︑ゴ少ルとナサン・ブラゑ・.とある︒此墓の後ろに︑ 第二は提督ペリー︑第三は︑タウンゼンド●ハリス・第四は・力
記念の為めチャレス.エル・オルタール︑ジェ﹂ムス︑カi ーティス・ヘボンであった︒
チス ジニーカーチスとクララ.エム.ヘボンの需供等 此︑第二回のベボン先生の墓参は︑一行十五六名で︑自動車三
﹃幼児を我に来らせよ﹄ 台で︑イーストオレンヂへ乗込だのであったが︑第一回には︑.裏
門から入っヒたのが︑︐此度は表門から墓地に入ったので︑調子が違
ひ見当が違たので︑二﹁寸恩が分らず︑事務所も余り遅い.ので︑誰
も居らずハ以前の目じるしとした墓碑がきれいになって居た事と︑
奥野氏の墓が倒れて居たなどで︑なかく分らず︑領事をはじめ︑
十余人の有志が︑花輪を用意して廻て居る今日で︑﹂案内者の心配
は﹁ト通りではなかった︒漸く︑施人の家を見出し︑タ方の薄あ
かりに墓せ囲で︑花輪を先生の墓前に手向けて去た︒此時︑藤村
領事は︑一行と共に在たが︑かかる催しは︑結構の事︑同胞間の
年中行事の一つとしたいなどN語られた︒
× × × ×
明治学院とヘボン.先生は︑極めて深い関係が有る事は︑云ふま
でも無い︒昨年の冬︑石川林四郎先生が来ちれた時︑談ヘボツ先
生の事に及び︑直に相携へて︑墓参をする事になつ.た︒時は霜白
き師走の空廼あったρ墓参を終ワ︑﹁写真を撮りなどして︑﹁帰途︑ド
偶々ブ服ツキチャ﹂チの附近を通だので︑先生を勧めてハブリツ
キチャーチを訪れた︒幸︑牧師が居られたので︑来意を告げ︑ヘ
ボン先生の日本に於廿る仕事などを語た︒牧師は︑非常に感興を
催して︑﹂﹃あ低そんなに偉いでしたか︒何でもさふ言はれると︑
其ヘボン先生の額が︑何所かに懸て居ると思ひます︒﹄・吾輩達を4
連肌て︑教会内の薄暗いホールへ行く︒其壁に実に懐かしい三三
て猛からぬ老ヘボンの肖像が懸て居たのです︒ ﹃あエこれだ︑あ
浅先生だ﹄と︑轡同大喜で万腔の敬意を表した︒﹁此肖像は黒のタ
イを結だ︑極めて地味な写真であづた︒多分︑永眠前︑余り遠か らぬものと思はれたコ ﹃先生の御永眠は︑千九百十︸年の九月ですが︑教会の当年の旧い記録はありますまいか﹄ときいて見た︒牧師は書記を呼び︑\調べて見る︒古記録には︑師の功労を表彰した︑感謝の決議文が載て居た︒鼠落ッビーは︑石川先生が持ち帰られた︒︑ト ペー/iの肖像も建てられ︑ブラオン・コーブルの︑タブレッ漆も有り︑ハリスの称徳表もある︒貴慮で︑其精神的感化に於て彼等に優る︑吾がヘボン先生の︑墓を訪つれて見ると︑粗末な墓石
一本︑しかも︑先生自身の革めと云ふより︑家族の記念の為めと.
も見ゆる︒平凡な小さい石が一つ建て居る︒師は︑名を求めた人
でもなく︑富に活きた人でもない︒平凡な︑主の僕で︑満足した︒
地で行水の人であろふ︐然しA吾等日本の基督教徒が其功績を表
彰して︑永遠に伝ふる事は︑当然過ぎる程︑当然の事と思ふ︒石
川先生は︑国へ帰たら︑早速同志の間に相談して︑.ヘボン家にも
交渉し︑記念碑の様なものを建設すると︑約して去られた︒
寄稿者小室篤次氏は滞米三十余年現にニウヨルグ・日本人
メソヂスト教会の牧師であって﹂幾多の著作がある︒最近は
乱文館から﹃聖者ダミエン﹄を出版されてるる︒ ︵記者︶
︵一九八五号・昭和九年二月二十二日︶
︵四ヨsg19︶溝口悦次の﹁履歴
故溝口悦次先生履歴 ママ 故溝口悦次先生は明治五年働ち主要千八百七十二年二月五日大
11
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
︑ ﹃福音新報﹄明治学院関係記事
分県宇佐郡旧館村字上田溝口武八郎氏の長男に生る︒若年にして
・軍人たる事を志し︑又医術を修むることを望みたれども︑神許し
給はず︑乃ち夙に主耶蘇基督の僕として選ばれ︑明治二十六年六
月三日長崎市梅ケ崎教会に於て受洗し︑明治二十八年長崎市東山
学院を卒業するや︑.直に伝道に従事し︑先づ高知県下に遣鳳されゐ
田野及須崎に於て福音を宣べ伝ふ︒明治三十四年教師試補として
準回せらる︒之より四神は先生生涯の好伴侶として藤田ユキ姉を
定め給へり︒
明治三十六年五月亜米利加合衆国に渡り︑プリンストツ神学校
に学び︑七宗を重ね︑明治四十年八月神戸神学校経営の任務を頒
つために帰朝す︒爾来同校教授として学生の薫陶に当りたるのみ
ならず︑理事者として職責を完うし同校の中央神学校に改組せら
れ︑今日の隆盛を見るの基を礎えたり︒其間の功績は海外に於て
も認められ︑大正三年デヴィッドソン大学は神学博士の称号を贈
り来れり︒
明治四十年帰朝後間もなく日本基督神港教会牧師として銀魚せ
られ︑春風秋雨二十有七年の間伝道に︑教会に心血を尽し︑幸に
大戸の御導に依り︑数家族の小集団より起して︑二百を超ゆる現
住陪餐会員を擁する一個の独立教会を成すに至りしことは先生の
最も欣快とする所なり︒加之常に全基督教会の発達に寄与するこ
とを翼ひA日本基督教会大会︑同浪速議会︑神戸市基督教連盟等
の諸機関に干与せしこと枚挙に逞あちず︑尚著す所の主なるもの
には﹃隠れたる小聖徒﹄ ﹃基督の四肖像﹄ ﹃新生命の躍動﹄等あ り︒ 昭和八年四月病を発して静養に努むること一年有余︑昭和九年冊ち建暦千九百三十四年五月三十一日午前十一時七分神戸市自宅に於て天に召さる︒ ﹃︵二〇〇一号・昭和九年六月十四日︶
︵四IS9−10︶
◇井深三之助氏
難き由 井北斗之助の病状去る十二日深更発病平臥中老齢の為病勢楽観し
︵二〇〇二号・昭和九年六月二十一日︶
︵四ISg111︶︐基督教短歌資料集の編集 松本宗吉
奥野昌綱の歌
松本 宗吉
基督教短歌資料を私は集めてみる︒集まるに従って私の発行し
てみる雑誌﹃世の光﹄にそれを紹介してみるが︑十人程の歌集が
今集まりてるる︒この中から既に故人になってみるものを一人か
ら百首か百五十首位宛選んで︑基督教短歌資料第一集を編みたい
と思ってみる︒第﹂章に入れたいと思ふ人は池袋清風︑大西祝︑
奥野昌綱︑野口精子︑丸山芳良︑春田阿京︑高橋ナヰ子︑中村靹
等である︒それについて奥野昌綱の歌に不安がある︒今︑私の手
許にあるのは明治四十三年二月十五日発行の雑誌讃美之友に発表
されたもので花百首︑月百首︵実は百三首︶︑鳥五十首︑恩恵百
首︑道歌百首︑神の正義といふことを三十一首︑合計四百八十四
首である︒この雑誌を太田九之八潮から拝借し全部写し取ったの
であるが︑中には誤植ではないかと思はるものもある︒奥野昌綱
歌集が出るとか︑出てみるとか聞いた︑ので︑そちらこちら尋ねて
みるが未だ手に入らない︒どうかして今少し確実な資料を得たい
と思ふ︒右のやうな訳で福音新報読者に御助力を乞いたく此文を
記したのである︒
今︑私の持ってみる歌の中から三十二首を選び︑ここに掲げる
ことにする︒御覧の上もし誤りがあれば御教示下さると仕合せで
ある︒ 花
桜花またれまたれてさけはこそまたをしまれて散るときもあれ
因みなにまたれまたれてさく花をちらすは風のねたみなりけり
をしまれてちるこそよけれ桜花ちらすはつひにあかれもやぜん
さかりとはちる日なりけり花さかはこころゆるさて見るへかり
ける
月
月かげはか§みの如く晴にけりちりはかりなるくもものこらて
まとかなる月見ることに思ふかなみつれはやかてかくる人の世
さやかなる月の夜ころはいととしく雲のうへなるちぢそこひし
き
見る人もあらしと思ふ小夜中にひかりをしまててらす月かな
むらくものはれゆく時もあはれこそ月もすむなれすみかたき世
﹃福音新報﹄明治学院関係記事 に h長き世にねさめかちなる老か身をなくさめかほにてらす月かなうきくもをはらひのけつつゆく月のひかりやいかにはけしかるらん 鳥鳥すらもはるはたか木にヶつれるをいつまてひくき世にやすむ
へき 恩恵
物わすれしやすき老か心にも神の恵はわすれさ刀けり
ふりかへり見るそたのしき八十あまり八とせもうけし神のめく
みをみめぺみの物かたりこそ老か駁しひてもおほくきかまほしけれ
つかの間もおもひっつけぬ時はなし神のめくみをいかにいはん
と 幽ねかふことかなはぬ時もまた神のふかきめくみとおもひすませ
り千万の神の恵みをいかにしてみそひと文字の歌に作ちん
ゆたかなる神の恵みを頼めとや貧きことの身にせまるらん
我かかたる恵みを人に人も亦人に人にとかたりつたへよ
うたふより外なかりけりたとへてもいはんかたなきかみの恵み
は
道歌
世のすくひぬしとは聞けと我はわかすくひぬしとそ頼む基督
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﹃福音新報﹄明治学院関係記事
我心神にむかへりあらしにも北の方のみ指す針のこと
あまつ国あり之聞くたにうれし音を昇らはいかにたのしかるら
む神と七もにすめは此世も楽しきをうき世なりとてすつるおろか
さたることを知らぬ人こそ貧しけれゆたけき神のめくみわすれて
ゆたかなるめくみなりとはめくみとも知らて恵みをうけてこそ
知れ身も霊も為とより神のものなるをさ惑けた駐乏もおもひ砂るか
な丁 神の正義といふことを
也のみちのほかにゆくへぎ道はなしますくにゆかん神のまさみ
ち正みちをふみなたかへそわか神のきよきみふみのほかのふみ見
女:泌あっちをっ︽りし神のみちこそ億つちよりああにのぼるみち
なれつつしめよ神のまさみちゆく人のつまつく石はこころなりけり
︵二〇〇八号・昭和九年八月二日y
︑︵四iSg112︶ 永井直治の新約聖書翻訳について マヤス
永井氏の新約聖書翻訳に就いて
H・W︒マヤス 近年日本の教職並に信徒中にギリシャ語の新約聖書研究者が著しく増加し来った事は︑誠に慶賀すべき傾向である︒我々はかxる研究からこそ必ず新らしい光明が新約研究上に射し来る事を期・回するものである︒一九二八年東京の永井直治牧師に由って出版された新契約聖書の如意は日本の学界に於て一つの刮目すべき労作として非常なる歓迎を受けつ二ある︑殆んど全国的にギリシャ語老解し得ざる教職並に信徒方がこの書を購ひ読んで︑聖書の真意に全く新らしい内察を得る事が出来ると感じてみる由である︒この新訳聖書は既にホーリネス教会によって公然使用さる嘱に至ったときくが他にも尚あるかも知れぬ︒回る人によって﹃恐らく今日までになされた凡ゆる国語訳中の最良の翻訳也﹄とまで述べられてみるとか︑実に至極の讃辞である︒ 緒言 私はその﹃小引﹄を熟読して見て多くの奇異を覚えた︒ 第一ステハヌスがテキストともて用ひられた由であるが︑それは其後の凡てのテキストの基本となってみるからであると述べられてみる︒ かくて永井氏はステハヌスを原本と考へてそのテキストに帰到する噛めに其後の手によってなされた修正や変更を一切削除してをる︒こは原文批評学の見地上不可解な考へ方である︒ 次に永井氏は思ふ所あって英・和・三等の翻訳や註解書を一切退けて︑唯二三のラテン訳のみを参照したと言ってをる︒私はこの言葉によってこの新契約聖書が同氏の独力になる研究の成果で
あるとの意と解する︒氏は文法書や辞書類を使用されざりしや否
や憾明言されてるない︒とにかく我等はこの翻訳は直訳であって︑
出来得る根り各原著者の文体を日本語に再現し得たものと主張さ
れてるるのであると理解する︒
シ ノ ニ ム ﹂類意異語の取扱ひに就いては︑永井氏は各ギリシャ語の原語を
明確に表現する励めに︑=疋の訳語を撰定し︑如何なる場合にも
同一・原語のある所な出来るだけ同一日本語を当ててをられる企図
は正しい︒而も往々にして香しからぬ結果を生じてみる︒類意異
語の各単語に一定の別な訳語を無理に当馬めんとしたその不自由
な方針は遂に氏をして奇妙な失錯に落入らしめた場合がなしとし
ない︒
.︑巧なる訳の例二三 この訳を一読して私にも聖書協会刊行の現
行訳日本語聖書に比して確に大なる進歩改善であると認めざるを︐得ぬ巧なる翻訳箇所が少くない︒﹂々それを列挙する煩をさけて
旧例を記す︒ イシジ イワヂ 一︑マタイ伝︑=ニノ五︒ ﹃饒地﹄を﹃岩地﹄と改めてみる︒原
意は石の多い土地でなくて葺く広がってみる岩である︒ カゴ
一、齠︑マタイ伝﹁四ノニ十︒ ﹃箆﹄を﹃手本﹄と改め且つ一五ノ
三十九を﹃整﹄と区別せるは適訳である︒︐三︐ヨハネーノ一二︒ ﹃彼は己の物に来れり︑然るに己の者は
これを受けざりき︒﹄の使ひ分は誠に直戴であり且つ正確である︒
現行月本語聖書の﹃己の国に来りしに己の民﹄とあるに比し遥に
ギリシャ原語に近い︒
四︑■コリン添前書 一三ノニ︑ ﹃愛なくば我は無なり﹄は優れた 訳だ︒ 五︑ロマ書聖ノ一︒ ﹃汝言ひ遁る術なし﹄の古い訳より﹃汝弁明すべきなし﹄の方を私はとる︒ 目障りな誤訳に就いて この書に於てり番大きい誤りは小引に於て表現されてみる見地その竜のの誤りから誘導され来ったもの−である︒ 一︑・基本としてステハヌスを撰んだ事に就いて︒私は現行日本語聖書に当て﹃聖書原文でない﹄との見地より除去された等星で︑永井氏訳に再び聖書原文として復活せしめられてるるものが少く ママ とも十七節︵一節全体Yと他に短い句は回しくある事を発見した︒全等は凡て英語のキング・ゼイムスや︑旧訳の日本語訳には出て・をつたものであるが其後の研究の結果最古最良の原本に見当らぬ文句であるとの理由によって拒否されてるるのである︒ステハヌ⁝スは今日我等の手元にある四大原本は一つも手にしてみなかったのであるから此点正確を期し直訳を願ふ訳者に取っては軽視でき・ぬ問題である︒永井氏の意企は必ずしも其処にないとして現在この訳書をもって︑最も原文に近い聖書也と思ひ込んでみる読者には反省を促したい︒ 二︑次にギリシャ式の単語配列を直輸的に移入せんとする誤づ︑た努力の結果永井氏は又ギリシャ語としても日本語としても意味をなさぬ如き新語を配列する場合が少くない︒ 一例を挙げると︑マタイ伝三ノ一七と一七ノ五︒ ﹃此の者は我が子︑愛せらる&者なり﹄やヨハネ伝三ノ一六﹃そは神はその子独習を与へ給ふ程
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﹃福音新報﹄明治学院関係記事
﹃福音新報﹄明治学院関係記事
に﹄又マタイ伝二十一.一ノ=二﹃暗に︑外に投げ出だせ︒﹄の如ぎ イディオム此等は凡てギリシャ語に通常な慣用語を却って︑単に辞原的に直
訳した結果で︑全くの誤訳である︒
﹁三ハ次に﹃各ギリシャ単語に一定の日本訳語を出来るだけ撰定する﹄との同氏の青丹な努力に就いて︒
︐馳.もし未熟な英学生が﹃○︒o似ζo暮冒σq﹄なる英語を訳さんとし
て∵﹃善き朝﹄としたならば如何?彼こそ実に我永井式直訳の
標本でもあらうか︒マルコ伝一四ノ四﹃ある人々憤ほりて互に言
ふ﹄︵ωo唐Φ財巴写象σq昌讐ごけ︑三島冒暮①唐ωΦ一く霧・︶ を永井氏は
恰も自分に対し立腹したと解し﹃己自らに対ひて腹立てり﹄と訳
す︒マルコ伝一ノ九︑ニノニ十三︑四ノ四︑等々を見よ︒其処に
は﹃エゲネト﹄なる原語がある︒英文にて普通︵潔$馨①8冨−
器︶とするが︑同氏は之を﹃かくありき﹄と訳す︒これを英語に
再訳すれば文句なしに︵一↓零霧島臣︶とならう︒無理をして却っ
て不正に落ちた実例である︒四ノ四﹃かくて彼は播きたる時かく
ありき︒﹄
私は︑ ﹃即ち﹄の連発に閉口した︒全く不必要であり無意味で
あウ︑ギリシャ原文にそれに三三る単語を発見しない︒何方より
この奇態が生・じてるるかに苦心させられたが︑私の観ずる所同氏
は最も普通なる第三人称名詞を︵ホデ︑ホイデ︶接続詞を混同し
てみるのではないかと判断する︒
.マルコ伝一ノニr十四﹃我等は汝と何の関係あらんや﹄との悪霊
の叫びを﹃我等に砲撃に何ぞや﹄と訳してみるが不可解⁝な日本語 .窓はないか?ぎ・四︑大に不幸な又黙許出来ぬ誤謬を私は﹃至福の教訓﹄.中に発見した︒こxではギリシャ語特有の転倒法︵文字の配列順を逆にする事︶が誤解されてみるのである︒・﹃福なる者は霊に於て貧しき者なり︒﹄︵↓ゲ︒︒・Φミザ○霞①冨署団母Φ廿︒3一昌・ωい三δ以下同じ︒ 五︑杓子定規に訳語を.一︑定すると言ふ方針は多くの文章に於て全く笑ふべき誤謬を生んでみる︒例へばギリシャ語の︑.魁昌勉.
(げ?jは明に日本語で三様の別な意味を表はす単語である︒即ち︑
﹃唯︑却って︑されど﹄である︑永井氏は其原意を無視して殆ん
ど常に﹃されど﹄と訳してみる︒恐らく此種の誤りは二百回以上
に達してみよう︒ ママ ムヱつの著しい例に.︑℃ω葵α.︑を﹃魂﹄と定訳した如きである︒
所が同語は寧ろ普通には単に生命を意味するものである︒マ﹂ルコ・
伝八ノ三十五に於て主は永井氏訳の如く﹃豊艶を救はんと欲する
者はこれを失ふべく﹄ど言ふ程に意味ざれたとは考へられない︒ポ
マタイ伝六ノニ十五﹂﹃汝等の魂の為めに何を食ひ何を飲み云々﹄
はどう考へても過ぎた訳とならう︒. ママ ︐﹃見る﹄と言ふ普通の用語に︵げ︒暴α︶なるギリシャ語がある︒
之を永井氏は常に﹃目の辺り見る﹄と訳し︑単に語ると言ふ語
ママ
(一b8︶を﹃物語る﹄と訳してをる等もどうであらうか?
有名なギリシャ語の﹃愛﹄に対する二つの単語﹃アガパオ﹄︑と
﹃ブイレオ﹄を永井氏は唖然区別せんとの念願をもって︑後者を