明治学院百年史
著者 明治学院
発行年 1977‑11
URL http://hdl.handle.net/10723/1221
東京一致神学校 (明治10年〜20年)
明治学院正門から構内を見る (現在)
A.オルトマンス
都 留 仙 次
井 深 鶴之助
W.G.ホキエ
J.C.ヘボン
田 川 大吉郎
向って左より 矢野貫城、村田四郎、高橋源次、若林竜夫、和田昌衛、
武藤富男、円内は金井信一郎 (東京ヘボンクラフ提供)
刊行のことば
一九七七年︵昭和五十二年目十一月をもって︑明治学院が創立一〇〇周年を迎え得たことについ
て︑われわれは先ず神の御前に心からの感謝を捧げ︑その栄光をたたえねばならない︒学院百年の歴
史のさまざまな局面を担った者が︑学院に学び︑学院に働く人びとであったことはいうまでもない︒
しかし︑その歴史を動かし︑導き給うたのは︑主イエス・キリスト御自身にほかならず︑その生ける
キリストへの代々の学院関係者の献身こそ学院の歴史の中軸をなすものであった︒
しかしながら︑学院の歴史の現実は︑必ずしも神に生せられるものだけで満ちているのではない︒
過誤︑失敗︑不一致︑非力︑無為など︑主の御旨に沿い得ないものも少なからず見られる︒それ故︑
創立一〇〇周年を迎えてのわれわれの祈りは︑神への感謝とともに悔改めであり︑主のとりなしを切
実に願うものとならざるを得ないのである︒
明治学院一〇〇周年記念事業のひとつとしてここに刊行するに至った本書は︑右に述べたような祈
りの心をもって編纂されたものである︒ともすると一〇〇周年記念事業というものは︑空虚で華美・
喧喚なお祭り行事に堕しがちである︒その点を考慮した時︑学院百年の歴史を学び︑懐古趣味に低回
することなしに︑過去の史実を踏まえながら︑新しい時代にふさわしい学院の在り方を探求すること
こそ︑最も内実ある一〇〇周年の迎え方といえるのではなかろうか︒そのために︑本書の稗益すると﹁
ころは︑きわめて大きいといえよう︒
もちろん︑明治学院百年の歴史は︑日本のキリスト教学校教育の歴史において︑さらに日本の.プロ
テスタント史において︑あるいは日本の近代史・現代史において︑きわめて重要な地位を占めるもの
である︒従って本書は︑右にあげた学問の専門分野に必ずや砂なからざる貢献をなし得ると信ずるも
のである︒殊に本書の編纂に当っては︑一定の学問的水準を維持することが心がけられてきた︒もち
ろん︑そこには学校史としての制約があったことは否定すべくもないが︑本書が︑学院関係者のみな
らず︑右にあげた歴史研究に従事する人びとをはじめ︑広く一般に読まれ︑積極的な批判と叱正の与
えられることを希望してやまない︒このことは︑本書のためのみならず︑明治学院が更に広く社会に
向かって開かれたものとなっていくことに役立つものとなるであろう︒
本書を一読して筆者があらためて印象づけられたことは︑工藤英一教授を中心とする数名の執筆者
諸氏が︑この百年史の執筆に大きな使命感をもたれ︑五年の長きにわたって困難な作業に精魂を傾け こ
られたことである︒淡々たる表現による行間に︑執筆者の沸々たる情熱と意欲を読者は感じとられる
ことであろう︒
なお本書の刊行とその他の一〇〇年記念事業の実施に先立ち︑去る七月三十日に開かれた学院理事
会︵構成員は後記︶は︑一九七四年三月武藤富男前学院長の退任の後︑三年半にわたって空席となっ
ていた学院長を︑島村亀鶴理事長が兼務することを決定した︒遅きに失したとはいえ︑新学院長を得
て百周年を迎え得ることを︑すべての学院関係者と共に慶びたい︒
最後に︑本書編纂の組織とそのプロセスの概略を示せば︑左記の通りである︒編纂のためにご尽力
頂いた方がたに対しては︑この場を借りて感謝申しあげる︒とりわけ︑執筆責任者の工藤英一教授を
はじめ︑・取材・執筆を助けられた方がた︑ならびにこの編纂事業に協力された百年史委員各位に心か
らの謝辞を呈したい︒.
! 一九七七年八月十日
明治学院創立一〇〇周年記念事業委員長
金 井 信 一 郎
付記︐現在︵一九七七年七月︶における理事会の構成員は左記の通りである︒︹︵︶内は理事会または学校での役職を示す︺
理事島村亀鶴︵理事長・学院長︶︑金井信一郎︵大学長︶︑新倉俊一︵文学部長︶︑渡辺栄︵社会学部長︶︑小池正二︵高校長︶︑宮崎道
弘︵東村山中・高校長︶︑阿部志郎︑小林義一︑G・J・ヴァン・ワイク︑R・8・ノードン︑遠藤永太郎︑望月克仁︑宮内俊三︑
矢野慎一︵財務理事︶︑村上和男︒
なお七断年五月より七六年六月まで松岡和生︑七五年三月の退職時まで佐藤泰生︵東村山中・高校長︶︑七三年四月より七七年三
且の退職時まで及川健︵高校長︶の三氏が理事に就任した︒
編集経過と委員会の構成
階和五十二年十一月一日の学院一〇〇周年記念を期して明治学院百年史編集事業は︑昭和四十八年三月より三回戦わたり同事業
に関する懇談会を開き︑理事︑同窓諸氏を始め学院内外の多数の人びとに意見を開陳していただき︑議を尽し︑論を重ねてきたの
低あった︒かくてこの懇談会をたたき台として︑ ﹁明治学院百年史編集企画﹂と﹁明治学院百年史委員会規定﹂を作成し︑同年十
二月三日に第一回の百年越委員会を開催し︑同企画と規定を承認し︑主たる執筆者に工藤英一教授を委嘱決定した︒第一回以来昭
和五十一年までの委員は次の通りであ惹︒︵アイウエオ順︶
青木博 秋元徹磯部浩一 伊藤毅 稲川昌生 ヴァン・ワイク 及川健 大井上灘 大河原忠蔵 大場建治 大山正春 岡村
長徳 尾形健 金井信一郎︵第二次委員長︶ 久世了 工藤英一 桑田秀延 阪柳豊秋 佐藤謙 佐藤泰生 繁尾久 渋谷一郎
島村亀鶴 杉本敏夫 鈴木春 園部不二夫 高田章 竹中治郎 津田一路 徳永清 中村仁一 畑井義隆 畠山龍郎 長谷川仁
原田昂 平林武雄 広瀬善男 福田垂穂 前田薫 宮崎道弘 武藤富男︵第一次委員長︶ 望月克仁 吉岡立滋 鷲記憶三郎 渡
辺栄 和田昌衛 秋山繁雄
なお︑昭和五十畦年十一月︑明治学院一〇〇周年記念事業の発足によ軌編成替兄があり︑百年史委員にも移動が生じ−金井信
一郎第二次委員長は一〇〇周年詑念事業全体の委員長となったため平林武雄教授が第三次委員長となった︒
現在の委員は次の通りである︒
ヴァン・ワイク 大河原忠蔵 大場建治 大山正春 小野忠信 久世了 工藤英一 久保山昌弘 佐藤謙 園部不二夫 高田章
津田一路 徳永清 畠山龍郎 平林武雄︵第三次委員長︶ 前田薫 吉岡立滋 鷲山第三郎 秋山繁雄
明治学院百年六八目次﹀
刊行のことば
序章 三ミッションの日本伝道⁝⁝⁝−1明治学院前史一⁝︐ ︒⁝−
第一節 東洋への伝道⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝−⁝−⁝⁝・⁝⁝−⁝⁝⁝⁝⁝−.−⁝⁝・i
▽はじめに⁝⁝1 ▽東洋伝道⁝⁝2 ▽聖書の翻訳⁝⁝3 ▽来日宣教師と東洋伝道⁝⁝6
第二節 アメリカ長老教会の日本伝道⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝⁝..8
▽アメリカ長老教会と日本⁝⁝8 ▽ヘボンの文書活動⁝⁝9 ▽ヘボンの医療奉仕:⁝・10 ▽ヘボ
ン塾⁝⁝12 ▽タムソン⁝⁝16 ▽カロゾルス⁝⁝18
第三節 アメリカ・オランダ改革派教会の日本伝道⁝−⁝⁝⁝.・⁝・・⁝⁝・⁝−⁝.・⁝⁝⁝⁝21
▽S・R・ブラウンと聖書翻⁝訳⁝⁝21 ▽ブラウンの教育活動⁝⁝24 ▽ブラウン塾⁝・:29 ▽バラ
塾と日本基督公会⁝⁝32 ▽長崎におけるフルペッキ⁝⁝33 ▽H・スタウトとスタウト塾⁝⁝36
第四節 スコットランド一致長老教会の日本伝道⁝・ ⁝⁝⁝認
▽スコットランド一致長老教会の東洋伝道−
オールズ⁝⁝46 ▽パーム⁝⁝48 ・⁝38 ▽ワデル⁝⁝40 ▽ダヴィッドソン⁝⁝43 ▽フ
第一章 築地時代・−⁝・i明治学院の招餌十一⁝:・:::・:・:・::・脇
第二節 日本基督一致教会の成立⁝ ⁝⁝⁝⁝53
▽無教派主義の破綻⁝⁝53 ▽三ミッション協議会⁝⁝56 ▽教会合同の問題点⁝⁝58 ▽日本基督
一致教会の創立⁝⁝61
第二節 東京一致神学校の創立⁝⁝⁝⁝−し⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝⁝⁝−⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝磁
▽東京一致神学校の誕生⁝⁝64 ▽築地居留地十七番⁝⁝66 ▽神学校教育の内容⁝⁝69 ▽アメル
マン教授⁝⁝73 ▽インブリー教授⁝⁝75 ▽マクラレン教授とワデル教授⁝⁝77
第三節 東京一致神学校の群像⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・⁝⁝⁝⁝−⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝.⁝⁝㎎
▽開校時の神学生たち⁝⁝78 ▽神学生の社会的出自⁝⁝80 ▽改革派教会系の神学生たち⁝⁝83
▽長老教会系の神学生たち⁝⁝86 ▽スコットランド一致長老教会系の神学生⁝⁝89 ▽松村介石⁝
一91 ▽その他の神学生−背教∴離教一⁝⁝93
第四節 東京一致英和学校と英和予備校⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝%
▽ヘボン塾の東京移転⁝⁝98 ▽築地大学校⁝⁝㎜ ▽先志学校とワイコフ⁝⁝m ▽明治十六年頃
の社会状況とキリスト教⁝⁝鵬 ▽東京一致英和学校⁝⁝斯 ▽一致英和学校に学んだ人びと⁝⁝㎜
▽英和予備校⁝⁝m
第二章 草創期の明治学院⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・血
第一節 歴史的背景⁝⁝く⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝斯
▽欧化主義とキリスト教⁝⁝m ▽自由民権運動とキリスト教⁝⁝m ▽憲法発布と教育勅語:ぺ:皿
▽暗い谷間の時代⁝⁝m ▽日清戦争とキリスト教⁝⁝価
第二節 明治学院の開設と整備⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝搬
▽三校の合併⁝⁝珈 ▽明治学院創立案⁝⁝撚 ▽私立学院設置願⁝⁝胤 ▽白金移転⁝⁝塒 ▽ヘ
ボン総理と井深総理⁝⁝燭▽明治学院﹁憲法﹂と﹁職制﹂⁝⁝窟
第三節 神学部と伝道活動⁝⁝⁝⁝壕⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・㎜
▽神学部の制度的変遷⁝⁝鵬 ▽献身的伝道的気運の充溢⁝⁝蜘 ▽高知伝道⁝⁝圏 ▽本山伝道と
小倉脩吉⁝⁝幽 ▽小倉脩吉の殉職⁝⁝螂
第四節 初期普通学部の師弟たち⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・蜘
▽当時の学制と普通学部⁝⁝励 ▽米人教師とその授業⁝⁝m ▽日本人教師⁝⁝搦 ▽二十四年九
月の卒業生i島崎春樹1⁝⁝卿 ▽島崎の学友たち⁝⁝鵬
▽川井運吉⁝⁝卿・▽自営館⁝⁝瑚 ▽桜井鴎村⁝⁝慰 ▽一色届児⁝⁝獅
第五節 動揺と反動⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝珊
▽インブリー事件の意義⁝⁝珊 ▽キリスト教学校の衰退⁝⁝皿 ▽石本三十郎の死⁝⁝照 ▽ユニ・
テリアンの波紋一加藤覚1⁝⁝粥 ▽プリマス・ブレズレンと乗松雅休⁝⁝切
第三章 明治三︑四十年代の明治学院・:⁝⁝::::⁝:・⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝搬
第一節 社会的背景⁝⁝−⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝捌
▽条約改正・内地雑居⁝⁝搬 ▽日本資本主義社会の諸階級⁝⁝魏 ▽二十世紀大挙伝道⁝⁝囑 ▽
足尾銅山鉱毒事件⁝⁝鵬 ▽日露戦争⁝⁝鵬 ▽日露戦後の社会⁝⁝瓢
第二節 文部省訓令第十二号問題⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・ρ⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・窃
▽明治学院尋常中学部⁝⁝鵬 ▽私立学校令の制定と宗教教育の禁止⁝⁝獅
の発布⁝⁝鵬 ▽明治学院理事員会と訓令十二号⁝⁝㎜ ▽井深梶之助の行動⁝⁝鵬
教派伝道局の態度とインブリー⁝⁝鵬 ▽訓令問題の反響⁝⁝鵬 ▽文部省訓令第十二号 ▽アメリカ各
▽訓令問題の結末⁝⁝鋤
第三節 神学部と日木基督教会の伝道⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝−⁝⁝・⁝⁝⁝⁝腿
▽神学部の変遷⁝⁝盟 ▽日本基督教会の伝道と神学部⁝⁝騰 ▽川添万寿得と佐久伝道⁝⁝脚 ▽
東山学院神学部の廃止と合併⁝⁝拗 ▽植村正久と神学部⁝ ㎜ ▽東京神学社とその影響⁝⁝㎜
第四節 学院生の社会的関心と進路﹂⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝・⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝..掬
▽学生の新しい生活と関心⁝⁝鵬 ▽鉱毒視察修学旅行⁝⁝蹴 ▽学生路傍演説⁝⁝㎜ ▽匹田順と
下津卯一⁝⁝獅 ▽運動のゆくえ⁝⁝蹴 ▽教師としての富尾留雄⁝⁝鵬 ▽和田三郎と革命思想⁝
⁝脚 ▽詩人・革命家・池亨吉⁝⁝脇 ▽河野安通志一野球のための生涯一⁝⁝蹴
第五節 日露戦争と明治の終末⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝.脚
▽戦争の反映⁝⁝脚 ▽反戦の主張⁝⁝蹴 ▽桂・インブリー会談⁝⁝漏 ▽井深総理の欧米渡航:・
⁝蹴 ▽明治天皇の死⁝⁝脚
第四章 大正期の明治学院−⁝猫
第一節 明治から大正へ⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝⁝⁝⁝−⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・・−⁝⁝⁝−⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝.鰯
▽拡張への道⁝⁝獅 ▽拡張案⁝⁝蹴 ▽募金運動と校舎建設⁝⁝蹴 ▽学院の変化⁝⁝脚 ▽大学
への構想⁝⁝三
三二節 中学部の膨脹⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝.⁝⁝⁝⁝⁝・⁝鵬
▽普通学部から中学部へ⁝⁝鵬 ▽膨脹の軌跡⁝⁝箔 ▽中学生像の変化⁝⁝π ▽中学生の社会的
関心⁝⁝捌
第三節 中学部の同盟休校⁝−⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝三⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝矧
▽膨脹の波瀾⁝⁝謝 ▽明治学院教会の設立⁝⁝脇 ▽村田中学部長の就任・三:捌 ▽第一回同盟休
校事件⁝⁝蹴 ▽第二回同盟休校事件⁝⁝鵬 ▽田川理事長による収拾⁝⁝獅
第四節 高等学部の合同と拡張⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝.㎜
▽高等学部の合同⁝⁝鵬 ▽キリスト教大学設立と合同運動の終焉:::獅 ▽高等学部の拡充へ・.・:.
蹴 ▽高等学部拡充案⁝⁝餅 ▽商業科の設置⁝⁝㎜ ▽神学部の状況⁝⁝㎜ ▽神学部の移転と合﹁
併問題⁝⁝瓢
第五節 関東大震災と総理交迭⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・・⁝・⁝....・⁝錨
▽井深総理辞任と田川理事長⁝⁝論 ▽関東大震災の被害⁝⁝珈 ▽流言輩語と朝鮮人学生⁝⁝細
▽田川総理の就任⁝⁝麗 ▽大正末年の諸問題⁝⁝祖 ▽﹁社会問題研究会﹂⁝三讃
第六節 卒業生の社会活動⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝−⁝..・ゼー⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝鎚
▽服部綾雄とアメリカ排日移民問題⁝⁝認 ▽島崎藤村と明治学院⁝⁝謝︑▽賀川豊彦⁝⁝蹴 ▽神
学部教授たちと中山昌樹⁝⁝謝 ▽文学者特に島田清次郎⁝⁝謝 ▽紀州グル:プの人びと⁝:・謝
▽社会の各界へ⁝⁝謝
第五章 昭和前期の明治学院・
第一節昭和初年の諸問題⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝
▽軍事教練問題の再燃⁝⁝脚 ▽高等商業部の独立⁝・:鵬
⁝⁝謝 ▽東山学院の閉鎖と合併⁝⁝蹴 −謝
:︒:::・::・:︒:訂 3
▽社会科の設置⁝⁝蹴 ▽神学部の分離
第二節 学生0動向⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝⁝⁝﹂⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・⁝謝
▽消費組合運動一ふたつの組合一⁝⁝謝 ▽学生セッツルメント⁝⁝鰻 ▽児童夏期学校⁝⁝珊 ▽
課外活動への傾倒⁝⁝謝 ▽中学部同盟休校⁝⁝譜
第三節 十年代の学院教育の変化⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・謝
▽凪川院長の辞職⁝⁝謝▽統制と戦時色⁝⁝獅▽﹁御真影﹂の下付⁝⁝蹴▽矢野院長の就任⁝⁝脚
▽ミッションとの関係⁝⁝論 ▽勤労作業・勤労動員⁝⁝論 ▽学校統合・明治学院専門学校⁝⁝脚
第六章 学徒出陣と明治学院⁝ ⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝謝
第一節 学徒出陣i学徒兵・長谷川信1⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・・⁝⁝⁝⁝・謝
▽徴兵猶予停止⁝⁝謝 ▽繰り上げ卒業⁝⁝魏 ▽出陣学徒⁝⁝謝 ▽﹃きけわだっみのこえ﹂1学徒
兵・長谷川信−⁝⁝謝
第二節 長谷川信の精神的遍歴⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝謝
▽おいたち⁝⁝珊 ▽同志社への道⁝⁝謝 ▽人道主義⁝⁝説 ▽購罪としての奉仕一広木信也宛手
紙一⁝⁝謝 ▽喜多方中学編入⁝⁝説
第三節 明治学院時代の長谷川信⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・姻
▽明治学院厚生科へ⁝⁝姻 ▽共同生活への夢⁝⁝姐 ▽明治学院の状況⁝⁝魏 ▽明治学院生活⁝
⁝姐
第西節 軍隊生活における長谷川信の日記⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・三鄭
▽入隊⁝⁝鰯 ▽軍隊での日記:⁝.娚 ▽死との対決:::姻﹂▽満州へ⁝⁝姐 ▽戦死の意義⁝⁝魏
▽特攻隊⁝⁝姐 ▽最期⁝⁝三
里七章 戦後の明治学院⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・−狙
第一節 教育の復興⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・−⁝螂
▽戦時色の払拭⁝⁝姻 ▽ミッションとの関係⁝⁝螂 ▽戦後教育の方向⁝⁝螂 ▽矢野院長の辞任
⁝⁝卿
第二節 新学制への適応⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝伽
▽新制中学の発足⁝..禦▽英語学校⁝⁝姻▽新制高等学校の開校⁝⁝蝦▽新制大学の設置⁝⁝娚
第三節 ﹁理想教育﹂と建築計画⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝姻
▽巾・学・高校一体化の体制⁝⁝蜥 ▽﹁理想教育﹂⁝⁝娚 ▽中学・高校の分離⁝⁝蜘 ▽﹁理想教育﹂
の成果⁝⁝娚 ▽建築計画の進捗⁝⁝幽
第四節 戦後学生の諸相⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝姫
▽敗戦直後⁝⁝姫 ▽アルバイト⁝⁝鰯 ▽点領下の問題と宣教師⁝⁝娚 ▽学生運動⁝⁝婿 ▽女
子学生⁝⁝娚 ▽課外活動の復活と発展⁝⁝姻
第八章 高度成長期の明治学院⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝.⁝⁝⁝⁝猫
第一節大学の膨脹⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝.姫
▽戦後の終焉と大学の大衆化⁝⁝鰯 ▽大学の整備と充実⁝⁝螂 ▽学生数の増大⁝⁝姻 ▽アドバ
イザー制度⁝⁝柵 ▽教育の問題i一般教育と体育実技一⁝⁝妬
第二節 明治学院の発展と軋礫⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝.・⁝⁝⁝・姫
▽﹁明治学院発展方策素案﹂⁝⁝蝟 ▽軋蝶と歪み⁝⁝姻 ▽移行試験の問題⁝⁝鰯 ▽学部増設のた
めの中学移転⁝⁝鰯
第三節 学生の諸活動⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝・⁝・⁝.⁝⁝⁝・.⁝.捌
▽六十年安保とその後⁝⁝蜥 ▽運動部の活動⁝⁝姻 ▽クラブ活動の隆盛⁝⁝姻 ▽クラブ活動の
意義⁝⁝鰯 ▽学生自治会とクラブ活動⁝⁝娚
第四節 紛争と改革⁝−⁝・⁝・.⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝・⁝..﹁⁝−⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝−⁝−⁝⁝⁝⁝..瓢
▽創立九十周年記念式典⁝⁝阻 ▽本館・ヘボン館封鎖⁝⁝鵬 ▽封鎖解除まで⁝⁝鵬 ▽紛争処理
⁝⁝鵬 ▽大学改革⁝⁝鵬 ▽武藤学院長の辞任⁝⁝謝
第九章 明治学院教育の現況⁝⁝⁝
第一節 学校法人明治学院⁝⁝⁝⁝⁝
525 525
▽﹁学校法人明治学院寄附行為﹂⁝⁝晒 ▽法人の目的・教義の基準−ゲ⁝謝 ▽理事長・理事・理事会
⁝⁝枷 ▽学院長⁝⁝謝 ▽評議員・評議員会⁝⁝謝 ▽法人事務⁝⁝謝 ▽明治学院同窓会⁝⁝珈
第二節 明治学院申学校⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝−⁝⁝謝
▽新制中学の発足⁝⁝謝 ▽馬絹における分校⁝⁝蹴 ▽﹁理想教育﹂の実施⁝⁝謝 ▽中・高の分
離⁝⁝鵬 ▽制服・制帽の改定⁝⁝講 ▽生徒数の変遷と教師の移動⁝⁝脚 ▽大川校長の退職と佐
藤校長の就任⁝⁝珊 ▽校舎の建築⁝⁝鵬 ▽申学校の移転︵東村山︶⁝⁝脚 ▽移転の背景︑白金に
おける中学・高校の分離と︑移行テスト⁝⁝盟 ▽学部増設による大学拡張政策⁝⁝蹴 ▽臨時職員.
会議⁝⁝鵬 ▽移転計画⁝⁝鵬 ▽移転計画案⁝⁝謝 ▽中学校の歩み⁝⁝鵬 ▽移転期の苦悩⁝⁝
脇 ▽武蔭⁝校長の教育改革⁝⁝珊 ▽創設⁝期の十年⁝⁝鵬 ▽学校組織の改正︵副校長制︶⁝⁝細 ▽
宮崎校長の教育精神⁝⁝鵬 ▽教育の現況−宗教教育の実践i⁝⁝脚 ▽宗教日⁝⁝鵬 ▽英語教育
の実践⁝⁝鵬 ▽中学寮の生活ーライシャワー館の思い出1⁝⁝鵬 ▽井深寮の生活⁝⁝鰯 ▽寮監
制度の廃止⁝⁝珊 ▽学校行事について⁝⁝脚
第三節 明治学院高等学校⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝−⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝臓
第一項 高等学校の充実・:⁝・:::・⁝::⁝::::⁝::::・⁝::・:・:⁝⁝・:・.:・:・:⁝:・:⁝:⁝:・::鵬
▽高等学校の教育体制⁝⁝麗 ▽礼拝とアッセンブリー⁝⁝鵬 ▽教育の場づくり一校地と校舎i⁝
⁝謝 ▽明治学院高等学校の教育問題iカリキュラムと一貫教育i⁝⁝麟 ▽おわりに⁝⁝説
第二項 生徒指導の原則・.・
▽山中夏網期学校の指導⁝⁝鵬▽校外ホームルームの意味⁝⁝鵬 ・:.:・::⁝::・:・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝:鵬
▽修学旅行・白金黒廃止の理由⁝
⁝蹴 ▽生徒指導の核心と展開⁝⁝町
第四節 明治学院東村山高等学校⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝−⁝⁝・.⁝−⁝.. ・⁝⁝.・価
歴史の概要⁝−冗⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・.・⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝ ⁝・⁝価
▽序⁝⁝価 ▽設立の過程⁝⁝鵬 ▽設立の趣旨と教育理念・:.:㎝
e 草創期︵昭和三十八年〜昭和三十九年︶⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝−⁝−⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝.・.・⁝・・⁝⁝⁝.棚
▽ω武藤院長の奮﹇戦と矢作教頭の苦悩⁝⁝㎜ ▽ω生徒の質の低下と教師集団の膨脹⁝・.・枷
◎ 模索期︵昭和四十年〜昭和四十三年︶⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝. ⁝㈱
▽ωキリスト教教育と民主教育⁝⁝脳 ▽ω予約四年制⁝⁝鰯 ▽㈲学校組織と諸条件の整備:⁝.謝
▽ω中高一貫教育の問題・ド・⁝撚 ▽㈲生活指導の突破口としての学年会⁝⁝㈱
日 形成期︵昭和四十四年〜昭和四十九年︶・.⁝・.⁝.⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝.・⁝−⁝.⁝・⁝⁝棚
▽ω学年会方式運動の変遷⁝⁝鵬 ▽㈹生活指導の基礎の確立⁝⁝圓 ▽㈲申高機構の問題・・⁝艘
四 整備期︵昭和五十年〜昭和五十二年︶.・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝.−⁝⁝⁝−⁝・.・..⁝⁝⁝⁝⁝⁝・鰯
▽ω教育方針の確立⁝⁝脚 ▽ω教育共同体としての職場⁝⁝㈱ ▽㈲生徒会活動⁝⁝働 ▽ω合
宿︑ホーム・ステイなど⁝⁝鰻 ▽おわりに⁝⁝鰯
第五節 明治学院大学⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝.⁝⁝・.・・⁝・⁝⁝⁝−⁝−⁝・⁝鰯
▽大学の現状⁝⁝鰯 ▽各学科の特徴⁝⁝脇 ▽ω英文学科⁝⁝鰯 ▽ωフランス文学科⁝⁝棚 ▽
㈲経済学科⁝⁝鵬 ▽ω商学科⁝⁝脚 ▽㈲社会学科⁝⁝㎝ ▽⑥社会福祉学科⁝⁝鰍 ▽ω法律学
科⁝⁝脱 ▽一般教育⁝⁝㎜ ▽キリスト教学⁝⁝㈱ ▽教育職員免許状その他の取得⁝⁝脳 ▽図
書館⁝⁝晒 ▽附属研究機関⁝⁝㌫ ▽ω明治学院大学キリスト教研究所⁝⁝鯉 ▽ω明治学院大学
言語文化研究所⁝⁝脇 ▽㈹明治学院大学産業経済研究所⁝⁝㈱ ▽ω明治学院大学社会学部附属研
究所⁝⁝㎝ ▽㈲明治学院大学法律科学研究所⁝⁝㎝ ▽㈲明治学院大学外国語教育研究所−恥ボ:糀
ω明治学院大学一般教育部附属研究所⁝⁝腋 ▽情報処理教育・研究センター⁝⁝脳 ▽学術研究団
体・定期刊行学術雑誌⁝⁝粥 ▽ω文経学会⁝⁝晒 ▽㈹経済学会⁝⁝粥 ▽㈹仏文学会⁝⁝旙 ▽
明治学院社会事業夏期大学⁝⁝研 ▽宗教活動⁝⁝㎝ ▽教授学生交流計画⁝⁝晒 ▽主なる諸施設
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終 二丁 i明治学院第二世紀への展望一⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・−⁝⁝⁝鰯
▽基本的姿勢⁝⁝晒 ▽建学の精神と現代⁝⁝鰯 ▽教会の肢体としての学校教育⁝⁝㌫ ▽﹁受け
る﹂立場から﹁与える﹂立場へ⁝⁝柵 ▽学院教育のレベルアップ⁝⁝柵 ▽真理をめざす学院教育
⁝⁝㎜ ▽共同体としての明治学院⁝⁝鋤 ▽奉仕と和解の共同体⁝⁝蹴
注釈⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝鰯
年表⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝枷
既刊明治学院史一覧⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・−⁝価
あとがき⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・.⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝初
索引︵人名・件名・引用参照文献︶⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝鵬
凡 三
一、
{書は︑既刊の明治学院史で十分にとりあげられている事項については︑叙述を簡略にし︑在
来の誤謬を訂正するととも忙︑これまで触れられなかった事項をできるだけとりあげるように努
めた︒二︑用字・用語は︑ ﹁当用漢字﹂ ﹁現代かなつかい﹂によったが︑引用文や歴史用語.キリスト教
用語等については︑必ずしもその限りではない︒
三︑人名については︑すべて敬称をはぶいた︒主要な人名には︑原則として生年・没年を西暦で示
し︑西洋人名には初出の箇処で原綴りを.のせた︒
四︑書名・雑誌・新聞名などは﹃ ﹄をもってあらわし︑論文の題名などは﹁ ﹂をもってあらわ
した︒英文書名などはイタリックであらわした︒
五︑引用文の出典は︑文中の︵︶の中に小活字をもって示した︒
六︑文中の注の標記については︑注の字を略して︑番号のみを︵︶の中に入れた︒注の番号は各
章毎の一連番号としたが︑注記はすべて巻末に一括してのせた︒
序 章 三ミッションの日本伝道 i明治学院前史1
第一節東洋への伝道
ノ 明治学院どいう名称のもとに提出ざれた私立学院設置願が︑東京府によって認可されたのは明治二はじめに 十年一月のことである︵﹃資料集・1﹄一五五ページ以下︶︒しかし︑明治学院の歴史は︑その起点を明治十年の東京高
致神学校の創立においている︒後に詳しく述べるように︑この神学校こそ明治学院の母体をなすものにほかならない
からである︒ところでこの神学校は︑幕末︑明治初年以来わが国にキリストの福音を伝えることを開始していた三つ
の外国ミッション︵外国伝道局︶が合同・一致して開設したものであった︒その三ミッションとは︑アメリカ長老
﹂︵プレスビテリアン︶教会︑アメリカ・オランダ改革派︵リフォームぎ︶教会︑スコットランド一致長老︵ユナイ
テッド・プレスビテリアン︶教会の各ミッションである︒
従って︑明治学院の歴史的源流をきわめるには︑これら各ミッションの日本における伝道開始の時期にまでさかの
ぼらねばならない︒しかも︑それらのミッションが︑日本伝道を企図するに至った契機や状況にまでさらにさかのぼ
1
〆
第一節 東洋への伝道
って考察bようとするならば︽十八世紀以来の欧米プロテ.スタント教会の東洋伝道の歴史にまず触れざるをえない︒
.十八世紀後半から十九世紀初頭にかけての時代は︑近代自由主義思想や合理主義思想の出現によっ東洋伝道 て︑ヨーロッパにおけるキリスト教信仰が衰退した時期とされている︒理神論やユニテリアンの拾
頭︑発展は︑そのことを裏書きしている︒しかレその反面︑この時期はまた信仰復興の時期でもあった︒特にプロテ
スタント教会においては︑宗教改革当時に立ちかえる福音主義的信仰への復帰が強調された︒教会内部にみられたこ
の傾向は︑一方では︑キリスト教徒に福音的信仰の覚醒を促がすリバイバル運動となり︑他方︑異教的地域に対する
宣教をめざす海外伝道の運動となった︒K・S・ラトゥレット教授のいう..↓討ΦONo簿O︒口言種︑とは♪この時期を
さす︒︑プロテスタント諸教会によるアジア・アフリカへの伝道の展開は︑このようにしてはじめられた︒
二身のプロテスタント宣教師による東洋伝道の嗜矢は︑ウィリアム・ケアリ︵黒白貯§O鴛︒ざ罵OH点Q︒︒︒戯︶のイ
ン載伝道であったが︑インドの伝統的な宗教・文化や共同体的社会との対決やそれらへの対応は︑その後の国国や日
本への伝道においても共通の︑キリスト教宣教のための最大の困難であった︒このような状況のもとで︑インドや東
マスコム ヴメント南アジアでとられた集団伝道の方法は︑日本のプロテスタント伝道においては採用されなかった︒それは︑ひとしく
アジア的社会の特徴をそなえていたとはいえ︑日本社会固有の歴史的状況によるものであった︒
東洋伝道にまつわる困難な問題として︑︑東洋各地に伝道活動をおこなう宣教師たちの母国が︑いずれも東洋への植
﹂民活動をおこなう国であり︑このことは土着の民族主義のキリスト教への反発を強めた︒この点は︑アヘン戦争前後
の中国において特に顕著なものがあった︒日本においても︑この点は或る程度共通する問題であった︒
2
序章 三ミッシ訟ンの日本伝道一明治学院前史一
東洋伝道が︑このような困難を伴ったこともあって︑インド︑中国へのプロテスタント伝道が︑特定の教派による
ものとしてよりも︑超教派的な運動として展開された点は注目すべきである︒一七九五年イギリスに創立されたロン
ドン伝道協会︵日︒巳︒口罎諺δ富蔓ωo︒一︒蔓︶と︑一八一〇年創立のアメリカ伝道協会︵諺日払8き切09︒a亀Oo目・
巳ω︒・ざ口ω︷自周oH臥σq昌寓一ψωδ昌︶は︑右の最も典型的な例である︒このふたつの団体は︑多くあ宣教師を東洋に派遣
し㍉東洋伝道を推進する車の両輪の役割を果たした︒ロンドン伝道協会によって派遣されまたこれに属した宣教師と
しては︑ぞリソン︵幻︒ぴ︒臣事・ζo塁尻oP嵩G︒N山◎︒G︒癖︶︑メドハースト︵妻巴け興昌寓Φ窪げロ屋自差O心一H◎︒零︶︑ギュツ
ラフ︵国電昌周・︾●O痒匡9鉾H︒︒O︒︒占︒︒蟄︶等の名があげられ︑アメリカ伝道協会の宣教師としては︑ウイリアムズ
︵ω9︒・日信鉱詔・三三趙巨ωL︒︒HN占G︒G︒蔭︶︑疋ーカー︵国Φ8同町霞パ︒♪目○︒O阜担Q︒Q︒○︒︶等の名があげられる︒
東洋伝道におけるこの超教派的伝統は︑日本伝道にも強い影響を与え︑初代の教会形成に特質を与えた︒しかし︑
一方において︑アメリカ諸教派において︑それぞれ外国伝道局を設け︑独自の立場から東洋伝道に乗り出す傾向もみ
られた︒その結果︑超教派主義と教派主義との交錯が︑日本の初代教会に生じ︑︑明治学院の揺盤期にひとつの問題を
投じることはのちに触れることとなろう︒
聖書を︑それぞれの伝道地の言葉に翻訳するブ〜とは︑東洋伝道上のきわめて重要なしかも困難な仕聖書の翻訳 事であった︒インドでは︑ベンガル語をはぜめ︑四十余の各種族の言語に聖書を訳すことに︑ケア
リは尽力した︒聖書の中国語訳は︑中国伝道に不可欠のことであり︑一八一〇年モリソンによって着手されている︒
かれが︑.ミルン︵零巳貯ヨζ菅ρ嵩︒︒?ド︒︒b︒b︒︶の協力をえておこなった旧新約聖書の全訳は︑﹃神言聖書﹄としてマ
8
r ﹂
第一節 東洋への伝道
ラッカで刊行された︵一八二三年︶︒モリソンは︑中国語文法書や英語と中国語の辞典の編纂をおごなっているが︑
かれは当時のヲーーロッパにおける中国研究の最高水準をいく研究家であり︑一八二五年英国学士院の特別会員に選ば
れている︒このことが示すように︑聖書翻訳に従事する宣教師は︑すぐれた語学者でもあった︒
なお︑漢訳聖書は︑中国伝道のみならず︑広くアジア地域の伝道にとって必要且つ有効であった︒しかも︑日本の
知識階級には漢学の素養が豊かでみり︑漢訳聖書をつうじて入信の契機を与えられる例は少なくなかった︒その意味.でも︑日本伝道にとって︑聖書の漢訳に尽くした宣教師の貢献は大きい︒
モリソンの抱いていた広大なガンジス以東のアジア伝道計画のなかには︑日本も含まれていた︒それゆえ中国に派
遣ざれ虎宣教師によって︑日本語の習得や日本踏査の努力が始められた︒一八一八年には︑モリソンは帆船ブラザー
ス号の船長ゴルドンに託して︑漢訳聖書と小冊子とを江戸湾で配布した︒メドハーストは︑一八三〇年︑世界で最初
の日英両国語に関する手引書である﹃英和・和英字彙﹄をバタビヤで出版した︒これはのちに︑J.C..ヘボンを介
して聖書の日本語訳に役立つこととなる︒
モリソンの伝道計画のために︑一八三一年以降︑三回にわたって極東地方に踏査旅行をおこなったギュツラフは︑
一八三二年琉球の那覇港で日本船と出合い︑持参したキリスト教文書を日本人に手渡した︒その後かれは︑マカオで
日本人漂流民から日本語を習得し︑ヨハネによる福音書とヨハネ書翰とを︑片仮名の日本語に訳した︒一八三七年五 紛月︑﹁新嘉披堅夏書院﹂から木版刷りで出版された﹃約翰福音之伝﹄と﹃約翰上中下書﹄がそれである︒これは世界
最古の和訳聖書である︒ ︵次ページ写真参照︶
一八三七︵天保八︶年︑七人の日本人漂流民の送還を目的として︑オリファント商会の快速帆船モリソン号が日本
4
序章 三ミッションの日本伝道一明治学院前史一
を訪問した︒同船には︑パーカー︑S・W・ウイリアムズ︑ギュツラフの仏名の宣教師がそれぞれ医師・植物学者・
通訳として搭乗したが︑一冊の中国語のキリスト教書をも持参しなかった︒それは︑この企画を慎重に進め︑日本開
教の機会をとらえようとしたからであった︒それにもかかわらず︑日本の鎖国の壁は固く︑江戸湾および鹿児島湾で
砲撃を受け︑雄図むなしくモリソン号はマカオに帰った︒
帰国の夢を果たしえず︑マカオに戻った日本人のうち︑或るものはギュツラフのもとで︑逸るものはウイリアムズ
のもとで︑宣教師たちの日本語習得を助け︑聖書和訳にも協力した︒かれらのなかの力松︑音松はのちに上海に住
み︑信仰を告白してキリスト者としての生涯を送った︒
その後︑一八四一年︑S・W・ウイリアムズは︑創世記の和訳を果たし︑また天草漂流民の協力によってマタイ伝
をも和訳したといわれる︒さらに︑聖書の和訳をおこない︑琉球において直接伝道をしたべッテルハイム︵切︒旨霞餌
匂.切9什Φ年︒巨導ドQ︒置占G︒刈O︶は︑日本開国の直前︑日本本土に最も近 ﹄
ギュツラフ纂『約翰福音之伝
ついた宣教師であった︒かれは︑一八四六︵弘化三︶年琉球海軍伝道
会の宣教師として那覇に上陸した︒英国籍をもつハンガリー生まれ
のユダヤ人医師であったかれは︑語学的天分に恵まれ︑香港でギュ
ツラフからえた日本語の予備知識を生かして四福音書・使徒行伝・
ロマ書を琉球語に訳し︑ルカ福音書については︑漢訳に日本語を付
したものを作った︒これらの訳業はかれが琉球を去ってから︑香港
その他でつぎつぎ出版された︒滞在八年︑一八五四︵安政元︶年ぺ
5
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第一節『.東洋への伝道
リー艦隊の来航を機にベッテルハヒイム夫妻は琉球を去った︒那覇の護国寺跡に琉球訳聖書記念碑が建てられている︒
明治学院と深い関係をもつに至るアメリカの長老教会およびオランダ改革派教会が︑来日宣教師と東洋伝道 日本に最初の宣教師を派遣したのは︑一八五九︵安政六︶年の秋であった︒アメリカ
聖公会の宣教師に僅かにおくれて︑同年十月十七日には長老教会のJ・C・ヘボン︵冒日ΦωO・国薯び霞Pド◎︒嵩−
ド㊤Hド︶が神奈川沖に︑十一月一日には︑改革派教会のS・R・ブラウン︵ω§︒日β色肉●bd8零p﹁H︒︒HO占︒︒︒︒O︶とD・
B・シモンズ︵一︶仁9昌O bd・ ω一日間口O︼poo導 HQ◎Q◎艀一HooooO︶が神奈川に到着した︒改革派のG・H・F・フルペッキ︵O仁崔︒出.
国●<霧びΦoぎHQ︒◎︒O占◎︒OQ︒︶は︑十一月七日長崎に着いている︒
このうちブラウンとヘボンとは︑中国において宣教師としての経験をもつ人物であった︒もっとも︑フルペッキの
来日も東洋伝道と無関係ではなかった︒すなわち︑かれは少年時代に︑オランダのザイストの学校で︑ギュツラフの
東洋伝道に関する講演を聞いておゆ︑このことが︑フルペッキに日本伝道の志を立てしめた原因のひとつとなったの
である︒ ブラウンは︑モリソン教育会が経営する学校の指導者として︑一八三九年二月十八日︑マカオに赴任した︒そこで
かれは︑午前中にはみずから中国語を学び︑午後と夜問に中国人生徒に英語を教えた︒アヘン戦争の結果︑南京条約
により香港がイギリスに譲渡されるや︑一八四二年十一月︑モリソン記念学校は同所に移り︑ブラウンもそこに移っ
た︒一八四七年︑夫人の健康上の理由でプラウン一家は来遊をよぎなくされたが︑その時三人の中国の青年をアメリ
カに伴い︑高等教育を受ける機会を与えた︒かれらはのちに中国に帰り︑実業界・経済界にすぐれた貢献をした︒・
6
序章 三ミッションの日本伝道一明治学院前史一
ブラウンは︑このように中国において専ら教育伝道の面で働き︑その経験はそのまま日本においても生かされた︒
いまひとつかれについて特記すべきは︑教派にとらわれないかれの活動である︒かれは︑ニューヨークのユニオン神
学校を卒業し︑長老教会に所属しながら︑アメリカ伝道協会の一員となって中国に渡った︒帰米後は改革派教会の牧
師となった︒モリソン記念学校も元来超教派的なものであった︒しかし︑中国における伝道が自由になるにつれて︑
教派的事業が増加し︑そのためモリソン記念学校のような事業の支持層が減退し︑その経営は不振におちいった︒こ
のことは︑ブラウン駐米後のことではあるが︑このことを知ったブラウンは︑教派主義の弊害を思わざるをえなかっ
たであろう︒かれは︑後述するように︑日本において無教派主義の立場を強く貫いた︒ レイマン 一八四一年︑ブラウンはシンガポールを訪れ︑そこで長老教会の平信徒である宣教医師ヘボンど出会った︒それは
このふたりの宣教師のその後の四十年間の親交のはじまりであった︒ヘボンの主たる業務は医療伝道であり︑それは
アジアのどの地域ででもきわめて歓迎された宣教事業であった︒かれは︑シンガポール・マカオ・アモイで医療に従
事したが︑夫人の病気のため一八四五年十一月︑アモイを出て帰米した︒
ヘボンは︑・シンガポール在任中の一八四一年︑アメリカ伝道協会の印刷所︵シンガポール堅夏書院︶で︑ギュツラ
フ訳の協約翰福音直伝﹄ 一冊を発見し︑これをニューヨドクの長老教会ミッション本部に送った︒後年︑ヘボンは︑
.〜の本を携えて日本に赴き︑ブラウンとともに聖書和訳に取り組むことになるのである︒この一冊の本との出会い
は︑ヘボンの生涯にとって大きな意味をもった︒ヘボン本来の使命は︑シャム伝道にあったが︑これを変更し︑シン
ガポール時代かれは中国語の習得に努めた︒このこともまた︑かれの日本伝道や聖書和訳に大きなプラスをもたらす
ものであった︒
7
第二節 アメリカ長老教会の日本伝道
第二節 アメリが長老教会の日本伝道
アメリカ長老教会に外国伝道局が設けられたのは一八三七年であるが︑.同局の東洋での宣教活動アメリカ長老 は︑主として中国・シャム・インドにおいてであった︒その活動のなかで注目すべきもののひと教会と日本 つは︑宣教医師の活動であった︒たとえば︑J・G・カーは︑パーカー創立の広東の眼科病院に
おいて医療奉仕をおこなうとともに︑中国人に対する近代的西洋医学の普及に貢献した︒多方面な活動を展開した
D・B・マッカーティもまた︑本来は宣教医師であった︒医療伝道こそ︑中国のみならずアジアの各地域の切実なニ
ードに答える宣教のわざにほかならなかったのである︒アメリカ長老教会が︑医師ヘボンをまず︑日本に派遣したの
も︑右の事情にもとつくものであったといえよう︒
いまひとつ︑長老教会の中国宣教師の活動分野において︑日本伝道に大きな貢献を与えたのは︑中国語キリスト教
書の著作︑翻訳である︒中国在留のプロテスタント宣教師によって中国語に翻訳され︑また中国語で書かれたキリス
ト教関係書は︑切支丹禁制下の日本に大量に﹁移入密行﹂し︑その種類は百をこえていた︒それらの著作の五割近く︑は︑長老教会派遣宣教師によるものであった︒そのなかでも︑W・A・P・マーチィン︑マッカーティ︑J・L・ネ
ヴィウスのものは特に多い︒しかも︑これらの著作は︑日本でも訓点をほどこして出版され︑幕末・明治初年におけ
る文書伝道に大きな役割を果たレた︒マーチィンφ﹃天道六原﹄やマッカーティの﹃真理易知﹄は最竜有名であ
み︒三三旧知﹄は︑ヘボンにより︑日本訳が最初になされている︵撒薫鷺礫瑚主脳史︶︒
8
㌧
序章 三ミッションの日本伝道一明治学院前史一 ヘ
ボン
の 文 書
活
動
Eタ築Dた は・ム地・ 。中、
Rソ付タ従 国サ
・ン近ムっのン ミとでソて寧チ
ラとのンへ波・ヨ
1も蒸がボに・、に汽来ンいパ
ジ東馬脳こたン
ヘボンが︑一八四一年以降約四F年間特中国医療伝道に従事し︽夫人の健康のために帰米のやむなきに至ったこと
は︑すでに述べた︒その後かれは︑ニューヨークで病院を開業し︑多大な成功を収めた︒しかし︑東洋における宣教
師たらんとする念願は︑かれの心から消えていなかった︒折しも︑ペリーの日本遠征と日本開国を伝える情報やS・
W・ウイリアムズたちが長崎から送りた日本への宣教師派遣の勧告状に接して︑ヘボンは日本への渡航を決意し︑一
八五九年一月六日︑長老教会外国伝道局に対して︑日本への宣教師志願を書面で申し出た︒同月十二日︑ヘボンの申
し出は受理され︑在中国宣教師のJ・L・ネヴィウスを協力者として︑ヘボン夫妻の渡日が決定した︒十三年間開
業医として築きあげたいっさいを惜しげもなく放棄し︑親族︑知友の反対を押し切り︑最愛の息子とも別れて︑夫妻
は︑サンチョ・パンザ号で︑四月二十四日ニューヨークを出帆した︒
中国の寧波にいたネヴィウスは︑一八六〇年日本へ赴任し︑神奈川の宗興寺に宿泊していたが︑翌年中国にもどっ ㈲た︒従ってヘボンこそ長老教会派遣の唯一の在日宣教師となった︒その後︑同教会宣教師として︑一八六三年五月︑
D・タムソンが来日し︑ついで一八六八年にはエドワード・コーンズが来日︑大学南校で教えたが︑明治三年八月︑
築地付近での蒸汽船の爆発事故で夫君︑長男とともに即死した︒一八六九年七月には︑C・カロゾルス夫妻が来日︑
タムソンとともに東京に長老教会ミッションの新しい拠点を開いた︒さらに一八七︐二年には︑H・ルーミス夫妻︑
E︑・R・ミラー︑ジョン・バラの来日がつづいた︒
4
ヘボンが日本赴任に際して携行したギュツラフの﹃約翰福音之伝﹄は︑船中での日本語習得
に役立った︒日本到着後八年にして︑ヘボンは﹃和英心算集成﹄︵畷購荒脚︶を完成した︒当時
9
第二節 アメリカ長老教会の日本伝道
の原稿の一部は︑今もなお明治学院大学図書館に保存されている︒この仕事は︑田本に粗ける文書伝道とりわけ聖書
和訳に寄与するものであったが︑ミッションでは︑これをヘボンの私的な仕事として︑その出版費の援助をしなかっ
た︵高谷道男著﹃ヘボン﹄一一六ページ︶︒
辞典の出版を終えた後︑ヘボンは伝道用小冊子や聖書和訳に尽力した︒ヘボンの活動はそのまま長老教会ミッショ
ンの文書活動でもあった︒・特に一八七三︵明治五︶年︑アメリカ聖書協会からヘボン訳ヨハネ伝のローマ字版︵英文
対照︶が刊行された︒ヘボンの名を広く日本人の間に弘めたヘボン式ローマ字は︑かれが﹃和英語林集成﹄の編纂に
あたって工夫︑考案したものであった︒
聖書翻訳に関しては︑ヘボンは個人訳をなるべく避けて︑各派宣教師の共同委員訳によって統一する方針を堅持し
た︒従って︑改革派のブラウツとは︑明治三年から共同の作業を進めた︒同五年九月の在日宣教師会議において聖書
翻訳の共同委員の選定が決議されたこともあって︑同七年以降は︑ブラウンを長とする新約聖書翻訳委員会の一員と
して︑ヘボンは協力した︒なお︑この新約聖書の委員会訳は︑明治十三年︵一八八○年︶に完成をみた︒その後︑同
十五年以降ヘボンは︑旧約聖書翻訳委員会の委員長となり︑同二十年その翻訳を完了させている︒
10
ヘボンは︑申国時代の経験と開業医として磨きあげた医術を︑日本人にむかって十二分に発ヘボンの医療奉仕 ドr 等した︒文久元︵一八六一︶年の春︑かれは神奈川の宗興寺を借りて︑施療所兼病院を開
いた︒最初患者は少なかったが︑漸次増加し︑その後面ヵ月間に三千五百人の患者のために処方箋を書いたという︒
ヘボンの専門は眼科であったが︑外科手術や内科の治療にまで手をひろげねばならなかった︒余りにも多くの日本人
序章 三ミッションの日本伝道一明治学院前史
患者がヘボン切もとを訪れるので︑幕府の役人は︑約五ヵ月で施療所を閉鎖させた︒しかし治療を求める患者は︑宿
舎の成仏寺を訪れ︑ヘボンみずから往診に出かけることも早れではなかった︒特に︑文久二︑︵一八六二︶年夏のコレ
ラの流行に際しては︑いっそう献身的な奉仕がなされた︒
その年の暮︑横浜居留地三九番館に︑新しく施療所を設け︑改めて医療活動が開始された︒居留地内での施療活動
には︑幕府の干渉は及ばず︑患者の数もいっそう増加した︒ミッション本部宛ヘボン書簡によると︑開所当初は︑一
日平均五︑六人であった患者数は︑一八六四年九月には三十名に︑翌年十月には三十五名になっている︒ただしこの
施療事業は︑ミッションの費用による部分はきわめて少く︑大部分は外国人や外国商館からの援助や寄付に負うてお
り︑ヘボンが私財を投じた部分も少なくなかった︒
医師ヘボンの名は︑当時のジャーナリズムが︑沢村田之助の脱疽の手術や義足のことをとりあげたため︑広く知れ
わたった︒ ﹁ヘボンさまでも︑草津の湯でも⁝⁝﹂といった俗謡にまで︑ヘボンの名が出る始末であった︒しかしヘ
ボンは︑明治十二年︵一八七九年︶︑健康上の理由で︑医療事業を廃止した︒すでにヘボンは六十四歳の老齢に達し
ていた︒十八年間の施療をつうじて接した患者は﹁約六千から一万人﹂に及んだ︒このことのみでも宣教医師として
大きな貢献であるが︑ヘボンは患者に伝道用の小冊子を配付することに努めた︒禁制下における貴重な伝道であっ
た︒後年︵明治十年四月︶︑創立をみた品川教会の初代信徒のひとりである医師・菅沼立台も︑横浜のヘボンのもと
で与えられた伝道用文書を契機として入信した︵脂幡羅区便酢樋硬騙圷巻.︶︒このように︑ヘボンのもとで近代医学を学
ぼうとした青年たちへの伝道もおこなわれたのである︒
11
幕末・明治初年における長老派宣教師の諸活動のなかで︑すでに述べた文書活動や医療活動以上欄ヘボン塾履直接的に明治学院の歴史に華つらなってい嘱礒その警活動で箋義文久
・加 三︵一八六三︶今秋創始のヘボン塾をもって囑矢とするとされている︒その申心は︑ヘボン博士よりもむしろ夫人
齢であった・ヘボン夫人には・結言前・アメリカ.ペンシルベニア州のノリスタウン・アカデミ乏おいて︑教師と
張して働いた経撃あった︒その経験が.﹂.庭活かされた.﹂とはい・つまでもない︒すなわち︑.﹂のヘボン塾とは︑蒔 老
刈 帰米していた夫人が博士のもとにもどり︑横浜居留地三九番館の施療所において︑日本人に対する英語教授をはじめア たものである︒しばしば・明治学院の歴史は︑このヘボン塾までさかのぼるといわれるが︑この塾は︑独立の校舎も
櫛ない・文字通りの私摯あ拠時にはヘボン夫妻の宣教活動の都合で中断されることもあった︒ただ︑この私塾の開第 始は日本における蘭学から英学への転換期にあたってひとつの意義をもったが︑キリスト教学校教育の日本における
さきがけとして︑最も注目すべきものであった︒
ヘボン塾開始の直接的な契機鳳︑ヘボン夫人が医師林洞海から︑その養子桃三郎︵勤簿渤琳︶への英語教授を依頼され
たことにある︒林董が︑その後幕府留学生として英国に渡り︑帰国後榎本武揚とともに函館五稜郭の戦闘に参加して
.投獄され・のち明治政府に仕えて英国大使︑外務大臣︑逓信大臣を歴任したことは︑広く知られている︒ヘボン夫人
が入獄中の林を訪ねて慰め︑その釈放を政府に働きかけたというエピソードは︑林がいかにヘボン夫妻に寵愛されて
いたかを物語るものである︒なお︑林は︑﹂・S・ミルの﹃経済学原理﹄の最初の翻訳者として︑明治経済学史上重
.要な人物でもある︒かれは︑伺書の初篇第一巻から第五巻までを訳して︑ ﹃弥児経済論﹄全六冊︵明治八i十年︶を
出版した︒そのあと第三篇までの翻訳は︑︑鈴木重孝祖よっておこなわれたが︑林は校閲者としてその名をつらねてい
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序章 三ミッションの日本伝道一明治学院前史一
る︵罐毒棚粕講償吐︶︒
林とほぼ同時代にヘボン塾に学んだ生徒としては︑林の実兄佐藤桃太郎や︑日本の政界・財界の最高指導者となっ
た高橋是清︑三井財閥の指導者益田孝などがおり︑その他佐賀藩派遣の青年やヘボンの医学生も夫人から英語を学ん
でいた︒しかし︑慶応二︵一八六六︶年︑ ヘボン夫妻の上海渡航のために︑同塾は一時中断され︑高橋是清その他
の生徒はバラ夫人のもとに託されたという︒翌年五月︑夫妻が横浜に帰るとともに︑ヘボン塾は再開されたが︑漸次
生徒数は増加し︑明治二︵一八六九︶年ごろには女子が入塾し︑女子クラスが設けられた︒
明治三年九月二十一日︑ブラウンの紹介で︑メアリー・キダー︵霞鋤越国.囚達餌①びH︒︒鍵占OHO︶がヘボン塾の教師に
就任した︒ミス・キダーは︑明治二年八月二十七日︑ブラウン夫妻の再来日に伴われて横浜に着いた改革派教会の婦
人宣教師である︒同年十月︑ブラウンの新潟英学校赴任に同行して新潟に滞在レたが︑翌三年七月︑博士が修文館教
師として横浜にもどった際︑かの女もまた横浜に帰り︑山手一二一番のブラウン宅に同居しつつ︑ヘボン塾に通勤す
ることになったのである︒
キダーが教えた当初のヘボン塾について︑かの女は次のように書き記している︒
﹁わたしのクラスは七人で︑女子が三人︑男子が四人でした︒もっと女生徒がふえる見込みです︒生徒たちは学校で勉強するのが
楽しいらしく︑欠席する者はほとんどありません︒みな頭がよく︑親切で︑教室で行儀がよく︑勉強も一生懸命にし︑わき嘉した
りせず︑わたしの教えることは一言も聞き洩らすことがありません︒生徒はリーダー第二巻を読んでおります︒以前からヘボン夫
人は︑.生徒たちを集めて立派に学校を経営しておられました︒読み書き︑算術もできます︒唱歌は教えていませんでしたが︑女生
徒だけを教えるようになったら︑音楽も教えたいと思っています︒
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﹂