明治学院九十年史
著者 武藤 富男
ページ 1‑382
発行年 1967
URL http://hdl.handle.net/10723/1223
題字武藤富男
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明治24年卒業生
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普通学部校舎レ
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あった校門
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<大正時代の 校庭
▼礼拝堂
田川大吉郎 A.オルトマンス
▼拡張後の礼拝堂 ▲大正末期の宣教師団 ▼大正末期の新校門
▼戦時中の中学部校舎建築 ▲校歌碑と永年勤続者 ▼中学部グライダー
▲中山文庫
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訳原
要
教綱
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▲窪地のセベレンス館と寮生
▼賀川文庫
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中山昌樹
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▼「死線を越えて」原稿睾
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▲大学図書館 ▼大学山中湖北寮
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理事長北村徳太郎 学院長武藤富男
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大学学長若林龍夫 く新ヘボン館
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文学部長平林武雄 経済学部長金井信一郎
社会学部長天達忠雄 法学部長片山金章
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▲現在の学院全景
高等学校長事務取扱原田昂 東村山高等学校長佐藤泰生 前高等学校長針谷松太郎
刊行のことぽ
横浜にヘボン塾が開設されたときから数えると︑今年は百五年であり︑学院の前身たる一致神
学校が設立されたときを起点とすれば︑今年は九十周忌である︒
過去一世紀にわたり先人が建設し︑蓄積したものは︑私たちに与えられた相続財産である︒し
ゅ竜この財産は︑神の国の嗣業であるがゆえに尊い︒
・神の国の嗣業の中核濾挙人のいだいていた信仰である︒学院を導き給う生けるキリストへの就
身である︒私えちはまずこれを受けついで︑深め︑高め︑広めて行かねばならない︒
神の国の営業の内容は先人が百年にわたって築きあげた教育事業である︒それは知育に限定さ
れた世の常の教育事業で訟︽︑神なさ国にあって︑人々の若き日に造り主を知らしめ︑その人生
観の変革を竜πらそうとすみ竜のである︒私たちはこうした教育を時代の変化と科学の発達ピに
対濾しつつ進拗て肴︽責務凌︑﹁祥リrス渉と風早とに対←謡うている︒
学院九+年史は・役員・庭焼学生生徒︑同直筆︑その他の関係者にこのことを明示する
ものである・そればさまざまな史実を;の史観をもって貫いている︒その史観とは︑学院の今
日あるは募経檜よる︑ということである︒学院の贋は人間だけがなしとげた仕事の記録で
はなく︑実に神が計画し︑神が遂行し給うた事業の記録であり︑人間がこれに参加協力したこと
のレコードである︒
この記録を読み・そして祈り︑そして考えるとき︑私たちは学院の現状はこれでよいのかとい
う思いにかられる︒学院創立の精神は︑新しい時代に適応した姿において復興されねばならない
からである・私たちは自分に問いかけるtさまざまな篶を克服し︑多くの犠牲を払いつつ︑
学院をここまで成長させてきた先人の労苦を︑いま私たちは無にしていると.≧はないか︑日本
宣教の使命を・私たちは教育を通して先人以上に︑深く広・︑遂行しつつあるであろうかと︒
一世紀にわたり学院のうちに立ち︑これを導き給うた主は︑私たちが建学の理想をめざし︑そ
の精神を保ちつつ努力するかぎり必ず私たちを助けてくださる︒しかしながら︑もしも私たちが
俗流に堕しこの道からはずれるならば︑学院がいかに見せかけの繁栄を誇ったとしても︑それは
神の審判をまぬがれることはできない︑この史観こそは︑学院九十年史が私たちに与えるところ
のものである︒
私たちは神の恩寵と先人の労苦に感謝しつつ学院九十周年をことほぐとともに︑粛然としてみ
ずから省みるところがなければならない︒そして先人以上に大いなる業をなすことによって︑将
来に備えるところがなければならない︒
これがこの書一万六千部を発行して広く頒布するゆえんである︒
終りに︑本書を執筆編集してくださった高谷道男︑杉本民三郎両氏に感謝するとともに︑これ
に協力された編集委員各位に謝意を表する︒
一九六七年十一月三目
明治学院長 武藤 富男
明治学院九十年吏編集委員
委員長 武藤富男
執筆者 高谷道男︵明治篇︶
委 員 斉藤茂夫︑平林武雄︑
桑田秀延︑若林龍夫︑ 杉本民三郎︵大正篇︑昭和篇︶ ソ園部不二夫︑工藤英一︑矢作弥寿久︵以上 実務委員︶
皆川三郎︑ヴァン・ワイク︑原田 昂︑佐藤泰生︵順不同︶
明治学院九十年史 目
次
刊行のことば
明 治 編
笙章日本プ・テスタント宣教の背景⁝−−−−−・−−−−・−−−⁝⁝⁝⁝︑⁝⁝.⁝︑.⁝二 ▽東洋伝道の起源⁝=▽モリソン号の来航・⁝三▽ペー艦隊と瀾甲⁝・毛▽日米通商条約
の締結と日本宣教の開始:ゲ:二九
第二章 神奈川︑横浜時代⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝−⁝⁝⁝−⁝⁝⁝−⁝⁝⁝・⁝⁝⁝・.ム一五 ▽S・ ▽神奈川成仏寺⁝三五▽ヘボン塾の起源⁝三九▽聖書の翻訳と﹁和英語林集成﹂⁝⁝ゴご
R●ブラグンのおいたちと日本宣教⁝−三六▽ブラウン摯⁝三八▽フルペッキのン芝ども⁝⁝里
▽長崎におけるフルペッキ⁝⁝四三 ▽フルペッキと日本政府⁝⁝四五
第三章 築地時代⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝−⁝⁝−兜
▽文明開化とキリスト教警の勃興⁝四九▽三⁝ッションの合同と東京豪神学校⁝五二▽築地
大学校の起源⁝:茜 ▽その当時の築地風景⁝⁝発 ▽築地大学校⁝⁝杢 ▽先志学校⁝⁝六四 ▽東
京一致英和学校⁝⊥ハ四 ▽英和予備校⁝⁝奎 ▽明治学院創立案⁝⁝七五 ▽東京一致神学校と東京一
致英和学校の合同卒血栗式⁝⁝七八 .〆
第四章 白金時代⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝益
▽明治学院の創立⁝⁝八一▽ヘボン博士の初代総理就任⁝⁝八七 ▽第二回基督教夏期学校⁝⁝八九 ▽
学院風景⁝⁝九〇 ▽井深総理の就任⁝⁝九六 ▽明治学院憲法の制定⁝⁝九八 ▽日本基督教会と明治学
院⁝⁝一9▽欧化主義に対する反動⁝⁝δ五▽文部省訓令第十二号⁝⁝δ六▽南長老派との合同と礼
拝堂︑講堂の建設:::δ九▽植村正久の辞任と東京神学社の設立⁝⁝二〇▽神学部の再編と専門学校
の認可⁝⁝コニ▽日露戦争時代の井深総理⁝⁝≡ハ▽財団法人寄付行為⁝⁝一天▽南長老派の離脱⁝
⁝三三▽井深総理の理想⁝⁝三四▽セベレンス館のノ建築⁝:三六▽山本秀燈の神学部教授就任⁝⁝ 三八▽井深総理の海外募金運動⁝⁝三九▽ワイコフ二士の死去⁝⁝三〇▽ヘボン館の焼失とヘボン博
士の死:⁝二三二
大 正 編
第一章 成長時代⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝9⁝⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝三九
▽中学部の復興と変動⁝⁝三九▽高等学部の合同運動⁝⁝西山▽サンダム館の焼失⁝⁝西四▽礼拝堂
および新サンダム館の建築:・:.西六▽憲法の改正⁝⁝三〇▽ライシャワー博士と高等学部の改革二⁝・
一五二▽明治学院教会の沿革:⁝⊥五五▽創立四十周年記念式⁝⁝一毛▽服部綾雄の客死⁝⁝一尭▽熊野
雄七の隠退⁝⁝一六一▽ランディス教授の面影⁝⁝一六五▽井深総理の辞任⁝⁝一六七
第二立早書鍵謙野鵬配難一審難襯総罷
昭 和 編
9:●::::.:::::.:::::・:: 一八九
マンス博士の隠退:::二二
の死去⁝三四六□石川林四郎・⁝三四六□多田素⁝一西七□必至村−−萸□中山最.:⁝二四九
第三立町瓢難∵婦選誇称 難壁癒難搾
任⁝⁝二杢▽英語学校の開設:⁝三六三▽新制度と大学の発足⁝:三六四▽中学部の分離⁝⁝毛O▽目本
商科大学の併合⁝⁝甚六▽財団法人から学校法人へ⁝⁝毛九▽田川大吉郎の永眠⁝⁝二三
第四章 再建時代⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝二天三
▽白金海軍墓地の買収:⁝三八三▽戦後の建築計画⁝⁝二空▽村田院長の辞任⁝・.三九三▽都留院長の就
任⁝:三九四▽創立八十周年記念行事⁝⁝二九四▽功労者の永眠⁝⁝二九六□里見純吉−⁝.尭六□賀川豊彦..
:三九七□富田満・⁝三充八口都留仙次:::ご三
遷五章 躍進時代⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝−⁝・⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝二三
▽理事長に北村徳太郎⁝⁝三9 ▽学院長に武藤富男就任⁝⁝三〇二 ▽東村山高等学校の開設⁝⁝三〇三
▽大学その後の発展⁝⁝三〇七 ▽中学校の変遷と高校の膨張⁝⁝三〇 ▽武藤院長の拡張政策⁝・.・三三
▽武藤院長の教育および宗教方策⁝⁝三四▽年金制度の復活⁝⁝三六▽その後のセベレンス館⁝⁝三七
▽建設拡張計画の躍進⁝・三三〇▽日米教授学生交流計画⁝⁝三一三▽大パイプオルガンの設置⁝⁝三二四
▽同窓会の移りかわり・⁝三三七▽校歌について⁝⁝三三〇
結 び⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・−⁝⁝⁝・・−−−・−・−−−−−・⁝⁝⁝︐⁝⁝⁝.⁝︐.三三七
付録および年表
付 録⁝⁝⁝⁝⁝三四五 年 表⁝−⁝⁝⁝.三杢
あとがき⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・⁝ザー−⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝⁝.⁝⁝⁝⁝:⁝⁝.⁝:⁝.⁝⁝⁝:⁝⁝⁝.⁝... 三七九
㌧凡 例
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三︑四︑ 記述の最終時点は一九六七年︵昭和四十二年︶六月一日とした︒文中の用字用語は原則として﹁当用漢字﹂ ﹁現代かなつかい﹂によった︒ただし引用文は原文のままとした︒外国人名︑地名は﹁外来語の表記﹂によることを原則とした︒一部の人名については︑達筆において慣用の固定したものもあって︑原則の適用をしていない︒
菊名は︑歴史的記述の場合には原則として敬称をはぶいた︒
第一章 日本プロテスタント宣教の背景
明治学院の歴史は明治十年十一月︑東京築地十七番に創設された東京一致神学校をもって東洋伝道の起源起点としている・しかし・それにいたるまでの歴史的背景は真わが国におけるプ・テ
スタント宣教の歴史に深く根ざし︑わが国の開国︑横浜の開港︑さらに宣教開始︑その発展と密接な関連をもつ
のである︒従って︑わが国の宣教の歴史的起源をさぐり︑これを明らかにしなければ︑本学院の歴史を知ること
ができない︒その意味において一応︑日本プロテスタント宣教の歴史的背景を記述し︑明治学院前史を述べてみ
たいと思う︒
わが国のキリスト教宣教は遠くカトリック宣教︑すなわち切支丹宣教とその禁教︑迫害︑殉教などの歴史には
じまるのであるが︑プロテスタント宣教は大体十九世紀にはじまったといってよい︒直接︑鎖国目本への宣教の
よびかげというよりも︑アジア地域における英米両ミッションの宣教にはじまったものである︒ .
+六世紀の宗教改革はドイツ︑スイス︑スコットランド︑オランダ︑英国︑北欧におよび︑+七世紀になって
11
ピューリタン運動が米大陸に波及しニュー・イングランドの建設となった︒ところが十八世紀はプロテスタント
教会がやや形式化し︑その神学が硬化した︒他方︑啓蒙思想やデイズムなどの合理的精神の影響によってプロテ
スタント教会の福音的精神と革新的気運が失われようとした︒そうしたときに新しくおこってきたのはドイツに
おける敬度派の運動で︑その精神をうけついだのがモラビア派の外国宣教の活動であった︒こうした外国宣教の
精神はジョン・ウエスレーによる英国のメソジスト派の運動においていちじるしくあらわれたのである︒ところ
が︑十八世紀の末から十九世紀にかけてインドの宣教にふみ切ったバプテスト派のウィリアム・ケアレーはイザ
ヤ書五四章二節﹁あなたの天幕の場所を広くし︑あなたのすまいの幕を張りひろげ︑惜しむことなく︑あなた.の
綱を長くし︑あなたの杭を強固にせよ﹂の一句に刺激されて大いなる幻をみ︑同信の友と外国伝道協会をおこす
ようになり︑目的地を印度ときめた︒当時︑英国は東印度会社の勢力をもってインドを支配していたから英国教
会以外の宣教団体の括動を許さなかったので︑デンマーク船で航行し︑デンマ⁝クの領地セランボーに宣教を開
始したのが︑ウィリアム・ケアレーとマーシマンとウオードの三人であった︒最初︑ケアレーが船中から書き送
った書簡の一節を︑ロンドンの各派合同の牧師会で発表したのが動機となって︑外国伝道を教派をこえて行なう
という動きとなり︑﹁倫敦会﹂︵い︒巳︒昌ζ誘δ器還ωo︒一①信︶が創設せられた︒その綱領は幕末︑明治初期︑横浜
における宣教の運動とやや関係演あるので︑ここにかかげてみたい︒その一節はこうである︒
﹁この会の根本原理は長老教会︑独立教会︑監督教会︑その他いずれの教会︑教派の主張にもよらず︑ただ神
の光栄ある福音を異教徒に伝えるにある︒﹂と︒ ︑
12
従って英国諸教派の名称や形式︑教会政治の相違などは︑より大きい︑より崇高な︑より有意義な﹁キリスト
教徒﹂なる名のもとに包まれるべきものであって︑われわれがもっぱら努むべきことは︑ある一つの特殊な教派
の見解を伝えることではなく︑キリストの入格の偉大さ︑キリストの大いなるみわざ︑キリストの恩寵の無限︑
その救いのめぐみを︑まだ福音を知らない遠い異教の人々に伝えるため共同の努力を払うべきであるとした︒
そのころ︑英国は商業資本主義のオランダをおさえ︑国内には産業革命がきざし︑国外では七つの海を支配し
たといわれたほどに世界の国々にその商船を送って︑外国貿易の覇権を握っていた︒また南洋方面の開発と貿易
にも特別の関心をもっていたので﹁倫敦会﹂はまずアフリカ︑南洋方面に宣教師派遣をこころみようとして一七九
六年福音船を信徒の祈りの中でテームズ河を下り︑タヒチに向かわせた︒しかし﹁倫敦会﹂のアジア伝道はやは
り偉大な宣教師ロバート・モリソンの中国宣教にはじまるといってよい︒モリソンが中国マカオに到着したのが
一入〇七年九月︒広東におもむき中国語の研究をすすめ︑中国語の聖書翻訳をはじめた︒さらにマラッカに英華
学堂を設立し︑教育を通じて宣教を計画した︒生前数名の中国人の信徒の篤信をみただけではあったが︑英華辞
典﹁五車韻府﹂と中国語の新約聖書﹁新天聖書﹂と︑華僑を中心としたマラッカにおける﹁英華学堂﹂とは中国
におけるプロテスタント宣教事業の三つの方向を示したものとして重要な歴史的意義をもっている︒
すなわち︑わが国の開港後の横浜における宣教活動が︑やはり上述の三つの宣教活動︑語学教育︑聖書翻訳︑
教会と神学教育の線にそって進展したことをみてもわかる︒モリソンについで中国に派遣せられた﹁倫敦会﹂の
宣教師には﹁日英語集﹂を著作したメドハーストがあり︑英華学堂の校長となったミルンやレッグなどがある︒
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とくにドイツ人でオランダ伝道協会かち派遣され︑のち﹁倫敦会﹂の一員となり︑英国東印度会社の通訳となり︑
また英国政庁の役人ともなり︑モリソンやメドハーストと協力して中国人の宣教につくした︑カール・ギュツラ
フのことも忘れてはならない︒
英国における﹁倫敦会﹂の成立後まもなく︑北米合衆国でも外国伝道の精神がおこった︒これは十八世紀のカ
ルヴィン神学のすぐれた学者ジョナサン・エドワーズの宗教思想に刺激されて米国の教会に大覚醒運動︵O目Φ餌轡
諺≦艮Φ下口σq︶がおこり︑それはさらにニュー・イングランドその他の大学︑神学校に波及し︑マサチュセッツ
州のウイリアムズ・ガレッジでおこった学生伝道団による外国伝道の動きから発展して︑ついに一八一カ年︑ア
ンドバー神学校におけるアメリカ伝道協会︵︾遷書し︐8巳︒8︒馨一・・δ霞・8村男︒・①お5墨⑦・︒一︒昌ωわが
国では一般にアメリカン・ボードとして知られている米国のミッションで︑同志社や組合教会の背景となった米
国宣教団体である︶の成立を見るにいたった︒一八=臼年に五人の青年宣教師が東洋に派遣された︒これが創立
されてまもなく︑一八一〇年六月十六日わが国の伝道と︑一致神学校の前身である横浜山手のブラウン塾の創立
につくしたS・R・ブラウンが生まれた︒その母フィベはブラウンを抱いて﹁このサムエルを外国伝道に献げた
い﹂と祈ったといわれる︒
おくれて一八一五年三月十三日J・C・ヘボンはペンシルバニア州ミルトンで︑スコッチ.アイリッシュ系統
のプレスビテリアン派の信徒の家でうぶ声をあげた︒ヘボンの母は外国伝道のため募金運動に熱心な婦人であっ
た︒これら二人の幼児が長じて中国の宣教に︑また開国後の目本の宣教と教育につくし︑はじめは神奈川の成仏
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寺で︑やがて横浜の居留地で︑のち山手で日本語の研究︑英学の教育︑聖書の翻訳に協力して︑明治学院創立の
基礎をすえるにいたったということは︑不思議な神の導きであるといわねばならぬ︒
さらにまた一八二八年ボストン近郊のブルックリンに住まった信仰あつい貿易商ウィリアム・ロープスの邸で
祈物会が開かれ︑外国伝道のために席上献金した︒そのとき用いた竹籠が日本製であったので︑一同は︑鎖国日
本︑切支丹迫害の歴史をもつ日本に宣教の門戸が開かれるためにその献金を用いたいと話しあった︒当時はまだ
異国人打払令など溝あって鎖国の門戸を開くことができず︑まして切支丹禁制の高札をとり除くことはむずかし
い時代であったから︑そうした志もむなしく︑一八六九年︵明治二年︶︑D・C・グリーン宣教師が二本に来航し
たとき︑その金額をもってきたということである︒
このほか目本宣教の端緒となったものは一八三七年︵天保
@
@ c潟¥ンロ写の来航八年︶茸中国マカオを出帆して目本に向かった米国商
船モリソン号の江戸湾来航の事情である︒モリソン号の来航は日本プロテスタン
ト宣教のきっかけを作ったばかりでなく︑日本開国についても︑国内に波紋をお
灘馨号よぼしたのである.霧の漂流民巨財久士只山至.の三人が遠州灘で譲同乗
翻灘の細口貝は漂流中に病没阪カナダ沖のクインス.シャー.ット島に漂着セアメ
羅.モリヵ・インデアンに捕えられていたところをコロンビア河口のハドソン湾毛皮会
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社の社員に救いだされロンドンにつれて行かれた︒そこから中国マカオに送還され︑ドイツ人カール・ギュツラ
フ博士の家で起居した︒ギュツラフはかれらから艮本語を学び﹁約翰福音近心﹂﹁約翰上中下書﹂の総片仮名の日
本語版をシンガポ;ルのアメリカン・ボードの印刷所に送り印刷し︑一八三七年に完成した︒その三人のほかに
またフィリピンに漂流した天草方面の日本入四書︑庄蔵︑寿三郎︑熊太郎︑力松恭マカオのギュツラフ博士のも
とに送られてきたが︑これら真名の目本漂流民を︑一八三七年の夏︑医師のピーター・パーカー︑マカオのS︒
W・ウイリアムズおよびギュツラフが︑モリソン号で米国貿易商のオリファント商会の支配人キング夫妻と同乗
して日本に送還することとなった︒この計画はきわめて私的な企てであった︒モリソン号が江戸湾に入り︑浦賀
に近い野比湾に投錨したのは一八三七年七月下旬であったが︑砲撃されてそこを去り︑鹿児島に立ち寄ったが︑
そこでもまた上陸を拒絶せられたので︑ついにむなしくマカオに帰った︒しかしキング氏は﹁モリソン費目本訪
問﹂なる一書を米国で出版し︑目本の開国の必要を訴えた︒これはや溝て一八五三年︵嘉永六年︶の.ヘリー来航
という歴史的遠征となって実現した︒さらにわが国においてモリソン号事件は渡辺畢山の﹁慎機論﹂となり高野
長英の﹁夢物語﹂となって蘭学者の問に開国論を刺激した︒ついで米国海軍のビッドル提督は二隻の米墨を江戸
湾に派遣し︑﹂ついでグリン提督のひきいるプレブル号が長崎に入港し︑目本海岸で難破したアメリカ水兵十六名
の釈放について談判し︑この解決を行なった︒
しかし開国という重大な交渉は容易でなかった︒米国がロシアと英国に先んじて写本の開国をせまり︑武力に
訴えても鎖国の夢をさまし︑太平洋をはさんで日米両国の友交的関係をとり結ぶのは今であると考え︑大統領フ
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イルモアーはペリー提督に命じ︑軍艦数隻をひきいて江戸湾に入らせ︑
将来に大なる光栄をもたらすものであるとの国際外交の先手を打った︒
アメリカ外交の画期的な計画のほど渉理解される︒ 開国をせまる︒へきであり︑これが目本の
﹁︒ヘリーの目本書征記﹂を読んで当時の
罫∵
ヌ
.二,匪繕 ていたべッテルハイムとその家族の上海送還をはかり︑翌一八五四年︵安 は日本を去り︑那覇にもどった︒ペリー提督は同地護国寺に居住伝道をし 策に窮して︑ついに明年回答する旨をもって会見を打ちきり︑ペリー艦隊 た︒黒船来航の報が伝わって国内は驚天動地の混乱となり︑幕府はその対 鈍し︑七月十日安息日︑堂々と軍楽隊による讃美歌を奏し︑礼拝を行なつ 早朝ペリー提督は米艦四隻をひきい︑浦賀沖に投 魏ペリ薩艦隊と開国天五三年︵嘉永六年︶背八難旧六月三目︶
憲政元年︶二旱三日︑羅養をもって江戸湾に入り饗をすぎ金沢沖にの投錨した︒ついで横浜沖に進み三月三十一日︵安政元年三月三目︶横浜応
鞭接所で首席林大学羅をはじめ︑幕府側袋と合衆国全権マシュ●カルブ
レース︒.ヘリーは英文で署名調印し︑ここに日本国アメリカ合衆国の修好
彰米条約﹁下米和親条約﹂十三か条が締結された︒そして下田︑函館の両港を
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、
蘭冒することとなり︑五月十八日から二十二日にわたり下田の了仙寺で︑ペリーと林大学頭との問に﹁日米条約
附録附則﹂十三条が調印された︒この︒ヘリー艦隊来航にあたり二つの事件・があった︒
一.つは漂流民仙太郎の上陸に関することである︒仙太郎は瀬戸内海瀬戸田の生れで大阪から江戸への船﹁栄力
丸﹂の船員であった︒同僚には後年︑横浜で米国領事館の通訳となり︑転じて新聞事業にもたずさわった浜田彦
蔵Qoω①づゲ缶Φooo︶ がいた︒栄力丸は暴風にあい︑漂流中︑船員二同が米国の捕鯨船に救われ︑サンフランシ
スコに連行され︑そこから香港に護送されたものである︒︒ヘリ⁝艦隊がその一人仙太郎を乗船させて目本に送還
を試みたのであったが︑上陸後の幕府のさばきを恐れ︑甲板で上陸をこばんだため.水兵の一人ジョナサン・ゴ
ーブルというバプテスト派の熱心な信者が身許引受人となった︒この仙太郎は万延元年︵一八六〇年︶ゴーブル
とともに神奈川成仏寺に住まい︑ゴーブルからジェームズ・バラの家庭に引き渡され︑コックや子供のもりなど
をしていた︒明治になってからエドワード・クラークにともなわれ︑静岡に居住︑さらにクラークに従って上京
し︑明治七年没した︒中村敬宇の祖先の墓地︑大塚本伝寺に葬られ︑ペリー里中︑そのよび名ω鋤巳勺簿畠をとり
﹁三八君﹂と記された︒今もなおのこっている︒
もう一つの事件︑吉田松陰の黒船乗船の事実は松陰の自伝に記され︑またペリーの目本遠征記もくわしくその ち間の消息を伝えている︒吉田松陰と金子重輔とはひそかに下田柿崎村にやってきて︑夜陰に乗じ︑米艦に乗船し
て米国に連れて行くよう嘆願した︒通訳S・W・ウイリアムズはアメリカン・ボードの中国派遣宣教師でモリソ
ン号来航のときにも同乗していたし︑漂流日本人から日本語を学び﹁馬太宰﹂や﹁創世記﹂の一部を和訳した目
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本通でもあった︒ウイリアムズは二人の日本武士にあい︑その志を聞き︑驚き心打たれたが︑日米外交交渉の重
大時期であったのでこれを拒絶した︒二人は帰還して幕府の手に捕えられ︑牢に入れられた︒陸上散歩の一米国
士官がこれを認め︑吉田松陰の志を聞き吉田松陰が木片に漢詩を書いて渡したのを軍艦にもち帰り︑これを英訳
し朗読した︒さすがのべリ!提督も感銘に打たれ︑東洋のストイックの哲人と吉田を称揚した︒ ン
.ヘリーの艦隊が去ってから三年目にアメリカ総領事タウンゼツド日米通商条約の締結と日本宣教の開始 ・ハリスがヒュースケンをともない︑米艦サン・ジャシント号で︑
上海を出発︑一八五六年︵安政三年︶八月十一目︑下田に到着︑九月三日︑柿崎村の玉泉寺に入り︑ここを米国
領事館として幕府と日米通商条約の交渉を開始した︒まず︑ペリー提督のとりきめた日米和親条約の不備を修正
し︑翌年江戸にのぼり将軍家出と会見︑国書を奉呈し︑一八五八年︵安政五年︶七月二十九日︵旧六月十九日︶早
朝︑神奈川沖に碇泊中のポーハタン号の艦上で︑幕府の全権井上信濃守︑岩瀬肥後守との間に日米通商条約を締
結した︒それは十四条からなり︑下田︑函館のほか神奈川︑長崎︑新潟︑兵庫を開港場とし︑一八五九年七月四
日︑神奈川開港より六か月後︑下田港をとざすことに決定した︒以上十四条のうち宗教画に関する規定は第八条
であった︒それは︑
第八条︑日本に在るアメリカ人形ら再臨の宗法を念じ︑礼拝堂を居留地の内に置くも障りなし︑並に其建物を破壊し︑又は
アメリカ宗法を自ら念ずるを妨ぐることなし︒アメリカ人︑日本人の堂宮を殿傷することなく又決して日本神仏の礼拝を妨
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げ・神体・仏像を段つことあるべからず︒双方の人民互に宗旨に付ての争論あるべからず︒日本長崎役所に於て踏絵の仕業
.
iしきたりYは既に廃せり︒ ︑ .
この一条は一八五八年一月二十五日に江戸において︑ハリスが通商条約を結ぶにあたり︑ハリス自身も︑それ
が承認せられるという希望をほとんどもたずに︑条約文に挿入したものであったが︑意外にも他の条約文に難色
を示したにもかかわらず︑第八条には何らの疑問もはさまれず︑同意されたのである︒ハリスもその日記に﹁ア
メリカ人が適当な礼拝堂をたてる権利と︑アメリカ人がその宗教を自由に行使しうること︑ならびに︑日本人が
踏絵の風習を廃止することを規定したものだ︒私が驚き︑そして喜んだことには︑この個条が承認されたことで
ある﹂と記している︒日本宣教の第一歩はこれで確保されたのである︒さらにまた︑これより少しまえ︑一八五
七年十二月六日の目曜日︑江戸においてヒュースケンと二人で祈疇書をよんで礼拝をした︒日記に次の一節があ
る︒ ﹁それは疑いもなく・英語の聖書が・この市でよまれた最初のものであった︒この事を思うと万感︑胸にせ
まる﹂と・そしてさらに切支丹迫害の累層をかえりみ︑﹁今こそ目本人の残酷なキリスト教の迫害に対して最初
の打棒が加えられるのだ︒今度私が日本人との交渉に成功するならば︑私はアメリカ人のために神の祝福によのノ
て︑目本に教会を設立する権利と︑キリスト教の勤行の自由を敢然として要求するつもりである︒私はまた︑踏
絵の慣習の廃止をも要求するであろう︒この踏絵についげ︑は︑オ・フツダ人は卑劣にも.あ二百三+年間︑;口の
抗議をも行なわずに看過してきたのだ︒::私はキリスト教の福音を再び日本に弘める謙譲な媒介者となること
ができるなら︑光栄かつ幸福に思うだろうしと︒最後にこう記している︒ ﹁私の聖書と祈断書とは︑この事件の
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貴重な記念物である︒そしていっか日本が再びキリスト教の禁をとく時には︑江戸における今日の出来事は意義
深いものとなるであろう﹂とつけ加えている︒S・R・ブラウンが万延元年の日曜礼拝を︑麻布善福寺の米国公
使館でハリスといっしょに礼拝を行ったとき︑手にして読んだ聖書はここに記した英語の聖書であったとブラウ
ンの書簡に記している︵﹁S・R・ブラウン書簡集﹂三三︒へージ︶︒
ハリスはさらに上海にいた聖公会の教職に書を送って︑目本宣教の方策を説いた︒その一節に﹁日本宣教の将
来の成功は派遣せらるる初代宣教師の性行︑態度︑人物によるものである︒宣教師が目本語を習得したならば︑
容易に目本人に近づくことができるし︑どの程度まで印刷物を公布することが許されるか︑今のところはっきり
言うことはできないけれども︑私見をもってすれば︑学校を興し︑英語を教え︑貧民に施療するが如きことは最
も伝道のために有益な働きとなるであろうしと︒このように今や日米通商条約は単に貿易の開始ばかりでなく︑
キリスト教の開教の第一歩でもあった︒
すでに中国にはカトリックはいうまでもなく︑英米プロテスタント宣教事業が一八〇七年以来︑急激な発展を
示し︑中国語のキリスト教文献や︑欧米の地理︑歴史︑医学︑文学︑政治︑社会︑各般にわたる中国語の翻訳文
献がプロテスタント宣教師の驚くべき努力によって出版︑刊行され︑それらの一部は長崎出島のオランダ東印度
会社や︑中国人の居留地﹁唐人屋敷﹂から︑さらにまた外国船から︑ひそかに長崎に送られてくるもの数知れぬ
ほどで︑明治維新の当時︑多くの先覚者がそれらによって世界の知識を学び︑新しい政治のあり方なども︑ひそ
かに研究しつつあった︒いよいよ日米通商条約によって︑キリスト教宣教の門戸が間接的ではあるが︑開かれた
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のであった︒従って宣教師の来目がまずその第一歩であった︒たまたま一八五八年の秋︑長崎港に停泊中の米艦
上で.ヘリーの通訳をしたS・W・ウイリアムズ︑米艦付牧師ヘンリー・ウッド︑聖公会の教職E︒W・サイルの
三人が集って目本宣教の問題を語りあい︑米国の聖公会︑長老教会︑ダッチ・リフォームド教会の外国伝道局に
おのおの手紙を送り︑日本宣教の急務を訴え︑宣教師派遣の件を勧告することとなった︒
これより先︑北米長老教会の本部では︑.ヘリー提督の日本遠征の報が伝わってから︑中国派遣の宣教師に日本
宣教の準備をするよう命じていた︒それで添筆で働いていたマカルテ;博士も来日の計画をたてていたが目黒通
商条約以前のことで︑その実現をみることができなかった︒ところが︑ニューヨークで開業していたヘボン博士
は︑かって一八四二年から四五年まで︑中国アモイで医療伝道を行なっていたが︑夫人の病気のため一八四五年
帰国しニューヨーク市で開業していたものの︑ひまのあるたびに外国伝道局で働く親友とその父︑ラウリー父子
を訪れて︑外国伝道の使命について語ることを忘れず︑わずかにそれによって憂さを⁝散じていた︒のみならず︑あ
まりに多忙のために生まれてくるわが子の世話もできず︑ついに三児を病のために失ってしまった︒弟のスレタ
ー・ヘップバーン牧師に送った手紙によると﹁ああのろわれよ︑ニューヨーク﹂とまでいっている︒そうしたと
き.ヘリこの目米和親条約締結︑ハリスの日米通商条約成功の情報を聞いて︑外国伝道−以前は中国に︑こんど
は目移に一の精神は︑もはや胸中におさめておくことができなくなった︒プリンストン大学を卒業︑.ヘンシル
バニア大学医学部で研究をおえ︑M・D・の学位をうけ︑クララ・リート嬢と結婚早々に海外宣教の旅に出発す
るとき博士の志に共鳴したのは︑ひとりクララ夫人のみであった︒.そして今や富と栄達の途にあった博士は︑二
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ユーヨークのゆたかな生活を弊履のごとくすてて切支丹禁制︑鎖国壌夷の日本に向かおうと決意した︒中国宣教
に旅立ったときは青年の壮途として送ってくれた親族友人も︑多くの知人も極力反対した︒人生の半ばをすぎ年
令不惑の域に達し︑富と名声とを得て︑大都市に安住できる病院長が家をたたみ財産を整理し︑老父母や一人息
子までも故郷に残して︑行きて再び帰らじとの悲壮な決心をもって開国まもない︑まだ物情騒然たる目本に宣教
の十字架を負って出て行くのである︒
一八五七年末︑ニューヨーグ市の長老教会の会員で中国貿易に従事していたオリファント氏宛にS・W・ウイ
リアムズから手紙が届いた︒それには﹁長老教会は目本に宣教をはじめるよう︒そしてその宣教師は医師である
ことが望ましい﹂どあった︒すでにヘボン博士は島本宣教を志し︑その旨を伝道協会に申し出ていたので委員会
は前記ウイリアムズの書簡とヘボン博士の申し出とを検討した結果︑満場一致︑博士夫妻を日本に派遣すること
に決定した︒それは一八五八年正月のことであった︒博士が弟のスレター・ヘップバーン牧師に書き送った書簡
の中に次のような言葉がある︒ ﹁一八五八年はまさにおわらんとしている︒実に神のめぐみと愛とはわが生活の
すべてである︒これまでわたしはめぐみ深い神に仕えてきた︒しかしもっと神を愛し︑神に仕え︑日々︑神のみ ドこころに従いうるように働きたい︒わたしはいま伝道協会の指示によって︑宣教師として日本に派遣されんこと
を申し出た︒β本のどこに派遣されるか︑まだわからない︒けれども神のみこころならば︑いずくなりとも喜んで
行きたい︒日本に行って暗きに迷う手々の霊性に光を照らし︑その帝国にキリストの騰馬を建てる役割をはたした
い︒それのみがわたしの唯一の望みである︒もし神がわたしを派遣し︑わたしとともにいまし給うならば︑わた
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しの喜びはこれにしくものはない︒わたしは神の導くままにわが天の父の命ずるところに行き︑そこで働くこと
がわたしの唯一の志である︒神はこれまでいつもわたしを宣教のわざに導いて下さったと信ずる溝ゆえに︑わた
しは日本の宣教にふみ切ったのである︒いまわたしは一切を神にゆだねて悔いない︒クララはすべてこれらの点
で︑わたしと一つ心である︒故郷の人々には︑わたしの決心を知らせていないから︑すべてがきまるまではそっ
としていて下さい﹂と︒もう一つ弟に送った手紙には﹁息子のサムエルと別れることは身を切られる思いであ
る︒こんな悲しいことが外にあろうか︒いずれ日本に行ってから呼びよせたいが︑しかし将来のことはわからな
い︒あるいはこれが最後となるかもわからない﹂と︑父としての人間的な苦悩を弟に訴えている︒
たしかにヘボン博士が目溢宣教の使命に旅立つまでには友人や知.人の反対があり︑ことに故郷にある老父の反
対と息子のざびしさには︑温容な心と豪毅な精神をもった信仰の人でも堪え難いところであった︒郷里の人々は
博士の日本行きを聞いて︑むしろ嘲笑の言葉さえ発したほどであった︒しかしヘボン博士の決意は堅かった︒開
業医時代ユダヤ人からヘブル語を学んでいたほどの深謀遠慮であったから︑今やとききたれりとニューヨークの
病院を閉鎖し家財道具を売り払い︑十分の伝道資金を用意した︒一八五九年四月二十四日︑サンチョ・パンザ号
で︑ニュ﹂ヨークを出帆︑八月二十九日上海に到着︑病気のためしばらく静養︑さらに汽船で上海を出帆︑途中
長崎に寄港し︑聖公会宣教師のリギンスとC・M・ウイリアムズとに会い︑十月十七日神奈川沖に着いた︒翌十
八日に上陸し︑米国領事館にドール氏をたずねた︒領事の好意で神奈川の成仏寺に住まうこととな﹁つた︒本堂を
改造して住居とし︑隣接の庫裡︵住職の住居︶をS・R・ブラウンのために指定しておいた︒
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第二章神奈川︑横浜時代
ヘボン博士夫妻が到着してから二週間後︑十一月一日にダッチ・リフォームド派の宣教師S・神奈川成仏寺 R・ブラウンと︑同宣教医シモンズとが神奈川に着いた︒かれらは夫人や子供を上海にとどめ
居住が安定してから家族をよびよせることとした︒ヘボン博士とS・R・ブラウンとは︑かってシンガポールで
会った旧知の間柄であったばかりでなく︑長く横浜にとどまって聖書翻訳の偉業を完成すべき協同の使命をもっ
ていた︒さて十一月七目にはフルペッキが長崎に着いた︒ブラウンとシモンズとフルペッキとの三人はいずれも
ダッチ・リフォームド派の宣教師としてニューヨークから︑サーブライズ号で上海まで同船︑そこで二人は神奈
川に︑一人は長崎へと宣教地を定めた︒そして十二月二十九目にはブラウン夫人と子供たち︑サンド・ビーチ教
会の会員ミス・アドリアンスそれにシモンズ夫人たちが神奈川に︑フルペッキ夫人は長崎に着いた︒ついで一入
六〇年︵万延元年︶四月一日にはブリ⁝・バプテスト派の宣教師ジョナサン・ゴーブルとその家族︑家僕として
漂流民仙太郎をともない神奈川成仏寺に来た︒それから翌年一八六一年︵文久元年︶十一月十一日には若い宣教
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