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明治学院八十年史

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(1)

明治学院八十年史

著者 渡辺 勇助

ページ 1‑206

発行年 1957‑11

URL http://hdl.handle.net/10723/1224

(2)

執筆者 渡辺勇助

明治學院八十年史

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白金村玉弓台の頃

三論春樹(藤村)と学友〈左端が藤村〉

(11)

明治学院八十年史

 わが明治学院は明治十年︑即ち一八七七年の創立であって︑今年正に︑その八十周年に

当るのである︒われわれはこの久しきに亘る年月︑学院を守り育てた神の恩寵を深く感謝

すると共に︑・その鮒立の精神を確かと汲み取り嘱その歩んで来た路を点検し︑進んでその

尊い伝統を現実の社会に生かす任務を遂行しなければならぬと思う者である︒

 学院はごの記.念ずべき年の記念事業としで明治学院八十年皮を出版し︑一つには︑旨この

貴重な記録を親しい同学の士達に頒って︑喜を共にし︑また一つには将来への大切な資料

と%て後世に遺す事とした︒

・歴史に生命の流れの記録である︒それは客観的事実の集録であると共に︑学院の生態の

投映であレ︑.学院の性格の露呈︑生命的躍動の表現である︒

 この歴史の編纂事業には数名の委員及び顧問たちの賛助を煩らわしたが︑これが取り纒

一1一

(12)

め︑整理︑執筆の衝には渡辺勇助氏に当って貰うことにした︒

 この明治学院八十年史は︑生育の途上にある学院の一時期を物語る記録である︒過去八

十年忌歩みに於て︑学院が偉大なる成長を遂げたことに煮ては︑之を否む者はないでおろ

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 しかし学院が今現に向上発展しつつある事実は︑さらに顕著な事である︒そしてまた︑

将来に於て格段の驚くべき進歩充実を達成すべき約束のもとにあることは︑われわれの衷

心からの希願であり︑また信念である︒

 この明治学院八十年史は上記のような︑学院の生命的脈動を如実に伝えるものである︒

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明治学院にて

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(13)

明治学院沿革第一章創始者の⁝佛・⁝−⁝−⁝・⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝・⁝⁝−⁝・⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝・⁝・⁝.葛

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二︑神奈川に於けるヘボン氏の事業⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝−⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝:三〇

三︑横浜のヘボン治療所とヘボン塾⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・−⁝⁝⁝−⁝・.⁝−⁝・⁝⁝⁝⁝⁝−⁝⁝⁝⁝︼三

四︑ブラウン氏と井深氏⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝−⁝⁝⁝⁝﹁⁝・⁝−⁝︸三

五︑長崎に於けるヴァベック氏⁝⁝⁝⁝:⁝−・⁝・⁝⁝・⁝:⁝︐・転⁝⁝⁝⁝⁝:−⁝:⁝⁝⁝⁝・.・二六

六︑聖書の蘇訳⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝:・::⁝⁝:・:・:⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝:・云

七︑ブラウン氏の略歴⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝::⁝⁝:・::::::⁝:・⁝::一:・:・三〇

八︑ ヘボン氏の略歴⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・・:・⁝::・:・⁝⁝::⁝⁝:三二

九︑ヴァベック氏の略歴⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝:::・::・::⁝:⁝⁝⁝::⁝:秀

十︑ワイコフ氏の略歴⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝::⁝⁝⁝:⁝・⁝・::・::⁝・⁝:::⁝⁝・⁝・⁝::聖

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三︑東京一致英和学校及び神田予備校⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝四く

第三章 明治学院の創立と最初の順調期⁝⁝⁝⁝L⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝ぎ

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O校合併問題⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・−⁝⁝

二︑建築と移転⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・⁝⁝

一ご︑ 一二唱三期︵而明二二二十年一二十山ハ年︶::

四︑明治学院の憲法及職制の制定⁝⁝・⁝

五︑ ﹁藤村学びし頃﹂より⁝⁝・⁝⁝⁝⁝

六︑植村正久氏と神学部⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・・

第四章 一︑憂

 二︑興

 三︑変 ⁝⁝⁝:・:・⁝::・⁝⁝::⁝:⁝:・⁝⁝:・:::・:・﹂:遷五二::::::⁝・:⁝⁝・⁝︑⁝・:⁝::::・::::::・::::識酉⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝じ垂⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝:⁝⁝・:宇老::・⁝・:⁝⁝⁝⁝:・:::⁝・:::・::・::::・:・::・:・説九⁝:.⁝:::・:::⁝:::・⁝⁝⁝:・:・⁝⁝・:・:・::・:夫六

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易隆難 第五章 丁 年⁝⁝⁝⁝⁝三・・⁝⁝−麹⁝⁝・::・:::・::・::菊⁝:・:・::::::⁝・::

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二︑功労ある二丁の永眠⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝:⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝八三

三︑申学部の膨脹⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝⁝航::.⁝⁝⁝⁝⁝⁝:.⁝⁝⁝⁝⁝⁝:.⁝⁝⁝⁝へ四

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四︑関東大震災⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・:⁝・⁝:八へ五井深総理の辞任⁝⁝⁝⁝⁝−−・⁝−⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝:⁝八九六︑ラソデス教授の永眠⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝⁝::・::・:⁝:::・::.:::空七︑高等学部の拡張⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・::⁝⁝:⁝:⁝﹂⁝⁝⁝⁝・:・:⁝:⁝:・::沁三八︑学院創立五十年記念式⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・−⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝−⁝⁝⁝:⁝⁝:−⁝⁝:⁝・⁝.・突

 九︑高等学部の進展⁝⁝⁝︑⁝:・::・⁝:

 十︑田川総理︵学院長︶の退陣⁝⁝⁝⁝      ・⁝・⁝⁝⁝・.⁝⁝・⁝⁝

第六章戦時下の学院⁝⁝⁝⁝⁝・⁝−⁝・.・

 一︑六十年記念式⁝⁝⁝⁝⁝:⁝⁝.

 二︑時局への協力・−⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

 三︑憲法及職制の改正⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝−

 四︑基督⁝教諸学校の戦時色⁝⁝⁝⁝⁝⁝

 五︑戦況の推移⁝⁝⁝:⁝::・⁝転・:::・

 六︑ 七︑今次戦争の応召者戦死者共他⁝⁝⁝

 .八︑学院功労者の永眠︵事変以降︶::⁝ ::.::●::::.:::.:::・:●:⁝::::・:::::::・:・:九く       ⁝⁝⁝::⁝・一9

学院の勤労動員⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:・:⁝:・  ⁝⁝::・:::::⁝:::・::・⁝⁝・:・:⁝:⁝

第七章⁝戦後の躍進・⁝−⁝隔⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝・⁝−⁝・⁝・⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝..

 一︑戦後十二年間の変遷概観⁝:::・⁝⁝::・::⁝::・:::⁝:⁝・⁝ δ三・δ欝

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 二︑戦後の学院の変遷と矢野氏の辞任⁝⁝・

 三︑創立七十周年記念式⁝・⁝⁝⁝⁝⁝・・⁝:

 四︑六・三・三制の発足⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝:

 五︑新制大学発足⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝:

 六︑大学共後の発展⁝⁝⁝⁝:⁝・⁝⁝⁝⁝:

 七︑同  窓  会⁝⁝⁝⁝⁝:⁝●⁝⁝⁝:

 八︑校地の変遷について⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・:::

 九︑学院の建築計画⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝:

 十︑募金活動⁝⁝:⁝⁝:⁝●::⁝⁝:

 十一︑八十周年記念式典計画⁝⁝⁝−−⁝・・−

第八章 将来の学院一⁝⁝⁝⁝⁝

 一︑学院の自由教育⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝⁝:

 二︑思想あり信仰ある学府⁝⁝⁝⁝⁝:−・・−

 三︑大学南⁝校と学院の成立⁝⁝・⁝⁝:⁝:・⁝

 四︑礼拝の問題⁝⁝⁝⁝・・⁝⁝・⁝⁝⁝⁝

 五︑理 想教育⁝⁝⁝⁝⁝⁝.・::⁝⁝⁝

 六︑自由と塀敏虞が永遠に⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝

 七︑明治学院大学の特色⁝⁝⁝⁝⁝⁝:・⁝⁝

 八︑学院を恩寵の家に⁝⁝:⁝・⁝⁝・:⁝⁝⁝ ⁝:⁝⁝⁝⁝.::::⁝::::.::.⁝・::⁝::・:・一三〇

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 明治学院の歴史は︑書けには明治十年九月S・R・ブラウン博士の﹁ブラウン塾しから

一致教会教育機関として発展した﹁東京一致神学校﹂に始まる︒しか七その淵源は更に遠

く丈久三年︵一八六三年︶横浜に開設されたJ・C・ヘボン博士の英学塾に遡ることがで

きる︒この時からすれば︑実に九四年の歴史を有し︑わが国において最も古い歴史を誇る

学府の一つである︒ここに学院の穿けの歴史を略述すれば次の通りである︒

一八七七年  ︵明治十年掛九月︑一致教会の教育機関として︑東京築地明石町に東京築地

      一致神学校設立さる︒

一八八○年  ︵明治十三年︶九月 横浜のヘボン塾︑東京築地明石町に移され︑築地大学

      校と改称す︒

一八八一年 ︵明治十四年︶十月横浜に先遣学校設立さる︒

一八八三年  ︵明治十六年︶九月 築地大学校横浜先志学校の二校を合併して︑東京一致

      英和学校と改称す︒

・一 V一

(18)

一八八四年

一八八六年

一八八七年

一八八九年

一八九〇年

一八九一年

一八九四年 ︵明治十七年︶九月 東京一致英和学校の予科として︑神田淡路町に︑東東

英和予備校設立さる︒

︵明治十九年︶四月 明治学院創立案制定のため︑第一回理事会開催さる︒

九刀 東京一致神学校︑東京一致英和学校および神田英和予備学校の三校を

合併して︑明治学院と称す︒十月現在地︵当時白金村︶に校地を求む︒

︵明治二十年︶一月 私立明治学院設立認可さる︒修業年限は︑普通部予科

二年︑本科四年︑専門学部︵神学︶三年と定めらる︒

九月 普通学部を新校地に移転す︒      ・

︵明治二二年︶ 十月 医学博士・法学博士﹂・C・ヘボン初代総理に︑井

深梶之助副総理に就任す︒

︵明治二十三年︶九月 専門学部を神学部と改称し新校地に移転す︒ 紅

︵明治二十四年︶十月 総理J・C・・ヘボン︑その職を辞し︑副総理井深梶

之助第二代総理に就任す︒十二月 明治学院憲法および職制制定さる︒

︵明治二十七年︶一月 普通学部の本科予科制を改めて︑高等学部︵二年︶

および︵普通学部︶五年とす

一8・一

(19)

明? 台学院》合ゴ声二

一八九八年

一九〇〇年

一九・〇二年

一九〇三年

一九一四年 ︵明治三十一年︶六月 普通学部は中等学校令による尋常中学校の資を受

け︑明治学院尋常中学部と改称す︒

︵明治三十三年目三月 尋常中学部を改めて普通学部とす︒

七月 普通学部は専門学校入学者検定規定指定に関する規則により中学校と

同等以上と指定さる︒

︵明治三十五年︶四月 高等学部の修業年限を三年に改む︒長崎東山学院神

学部を明治学院神学部に合併し︑その生徒を受入れる︒

︵明治三十六年︶十一月 高等学部および神学部︑専門学校令により許可さ

るQ十二月 日本基督教会の信仰箇条を明治学院の教義の標準とす︒

︵明治三十八年︶三月 財団法人明治学院認可さる︒

︵明治四十四年︶四月 工部省令により普通学部は各高等学校に優等卒業生

無試験入学の特典を得る︒

︵大正三年︶十二月掛普通学部は丈官任用令の規定による認可を受く︵ただ

し効力は明治三十三年七月に遡る︶

一9一

(20)

一九二五年

一九二七年

一九二八年 ︵大正四年︶二月 普通学部を中学部と改称す︒︵大正六年︶七月 高等学部を分科制︵丈学科・英語師範科・商業科︶とし

修業年限を四年に改む︒ ︵翌七年発足︶

︵大正九年︶七月 高等学部竪琴科および商業科の修業年限を三年に改む︒

︵大正十年︶三月 総理井深梶之助辞任し︑神学博士アルバート・オルトマ

ンス総理事務取扱に就任す︒四月 神学部を東京淀橋に移転す︒

︵十正十四年︶ 一月 総理事務取扱アルバート・オルトマンス辞任し︑田川

大吉郎第三代総理に就任す︒四月 高等学部商業科卒業生に対し︑商業およ

び簿記の二科目につき︑中等教員無試験検定の取扱を受く︒

八月 高等学部は丈部省令︵高等試験令により︑高等学校高等科もしくは大

学予科と同等以上と認定さる︒十月 高等学部のうち︑沈静科︑英語師範科

の二科を合併して落胆科と称し修業年限を四年とす︒

︵昭和二年︶九月 高等学部商業科は計理士法により大正十二年以後の卒業

生につき無試験計理士登録の資格を認めらる︒

︵昭和三年︶四月 高等学部のうち商業科を独立せしめ高等商業部と二目称

10肖

一鱒

(21)

一九三〇年

九九

四 一 年 年

革 一九四二年

  一九四四年沿

す︒高等学部に社会科を置く︒

︵昭和五年︶三月 神学部は日本神学校の設立に伴い本学院より分離す︒四

月 高等学部首丈科卒業生に対し︑英語科中等教員無試験検定の取扱を受く︒.

︵昭和六年︶四月 高等学部および高等商業部に研究科を置く︒

︵昭和九年︶四月 高等学部の社会科を社会事業科と改称す︒

︵昭和十年︶四月 高等商業部に第二部︵夜間︶を置く︒

七月 総理の名称を学院長と改む︒十二月 学院長田川大吉郎辞任し︑神学・

博士ウィリス・G・ホキエ学院長事務取扱に就任す︒

︵昭和十四年︶九月 矢野貫城第四代学院長に就任す︒

︵昭和十五年︶四月 明治学院憲法および職制を改正し︑新たに明治学院学

制を定む︒高等学部に東亜科を設く︒

︵昭和十七年︶三月 高等学部社会事業科を厚生科と工む︒

︵昭和十九年︶ 高等商業部は青山学院丈学部同高等商業部および関東学院

高等商業部を統合し︑.明治学院専門学校と改称し新たに経済科︑経営科︑東

亜科︵大陸分科および南方分科︶および経済科第二部を置く︒

】、

11ρ

一﹂

(22)

一九四五年

一九四六年

一九四七年

高等学部は専門学校に統合さる︒︒

︵昭和二+年︶+二月経済科卒萎に対し︑中学校ならびに高等女学校実

業科のうち商業︑東亜科南方分科︵英語を第一外国語とするもの︶卒業者に

対し同外国語のうち英語科教員無試験検定取扱継続の件承認さる︒

︵昭和二±年︶四月東亜着姿科と改称して南方分科を萎科・大陸分

科を多野とし︑経営科を社会科︑経済科第二部を商経科と改称し・新たに︑

夜間に英語科を置く︒転科は英語につき無試験検定叢扱を継承す・五月

華丈科︵旧東亜科次陸分科︶に対し︑外国語科のうち支那語につき昭和二十・

年九月以降の卒業者に限り中学校︑高等女学校教員検定規定第七条第二号の

取扱を為すの件許可さる︒六月英語学校を設く︒

︵昭和二十二年︶四月︑新学制により中学部は明治学院中学校とするρ八月

学院長矢野貫城辞任す︒

︵昭和二十三年︶四月.村田四郎学院長に﹁就任す︒新制高等学校設置さる︒

︵昭和二十四年︶四月 新制大学設立認可され丈経学部第一部︵英丈学科︑

社会学科︑.経済学科︶および第二部︵夜間同前︶開設され︑神学博士村田四

一娼一

(23)

明治学院沿

一九五〇年

一九五一年

﹈九五二年

一九五四年

一九五五年 郎学長に就任す︒

︵昭和二十五年︶三月 専門学校社会科は国民科のうち修身︑英語科は外国

語科のうち英語につき教員無試験検定の取扱を異く︒六月 日本商科大学を

併合す︒

︵昭和二十六年︶四月 学校法人明治学院に組織変更さる︒

︵昭和二十七年︶四月 文暦学部第一部および第二部の名称を変更して.丈学

部︵英丈学科︑社会学科︶および第二部︵同前︶とし︑別に経済学科を独立

して︑経済学部および同第二部とし︑経済学科のほか新たに商学科を開設︑

丈学部長事務取扱に神学博士村田四郎︑一経済学部長事務取扱に経済学博士服

部丈四郎就任す︒

︵昭和二十九年︶四月 明治学院大学学長に神学博士村田四郎再任︑下学部

長に全学博士高橋源次︑経済学部長に経済学博士服部文四郎就任す︒明治学

院大学第一部および第二部の教育職員免許課程についてそれぞれ中学校教諭

一級普通免許ならびに高等学校教諭二級普通免許授与の認定を受く︒

︵昭和三十年︶二月 経済学部長服部文四郎死去す︒学長村田四郎経済学部

一13一

(24)

一九五六年

一九五七年 長事務取扱に就任す︒四月 明治学院大学大学院文学研究科英丈学専攻︵修士課程︶を設置す︒

︵昭和三十一年︶四月 丈学部長に若林竜夫経済学部長に斎藤茂夫就任す︒

明治学院大学大学院の教育職員免許課程について高等学校教諭一級︵英語︶

普通免許授与の認定を受く︒

︵昭和三十二年︶三月 学院長吉学長村田四郎辞任す︒

四月 神学博士都留仙次学院長に就任す︒

一14一

(25)

 学院創立八十周年に当り﹁明治学院八十年史﹂編纂執筆の任に当るようとの命を受けた

が自信がないため大に迷っていた︑しかし数名の方々の激励により決心して影響をも顧

みずお引受けしたのであった︒昭和二年学院五十周年に当り鷲山弟三郎氏が五十年史を編

泰されたが其後に於ける三十年間の日本の歩みを振り返って見ると︑その大部分が戦争の

歴史で︑結局日本は太平洋戦争の失敗により未だ曾て経験したことのない敗戦の苦杯を嘗

め︑国民全体が言語に絶する惨禍に遇ったのである︒学院自体もこの間にあって戦争の嵐

に巻き込まれ長い苦悩の年月を過したが︑平和回復と共に学院本来の姿を取り戻し︑漸く

輝かしい発展の新時代を迎えた︒

 とはいうものの︑学院の将来に平々坦々たる大道が開かれているという訳では決してな

い︒その過去に於いて絶えざる辛苦があった如く︑今後といえども尚棘の道は続くものと

思わなければならない︒

 科学の進歩の目覚ましい時代は信仰に立つ者にとって悩み多き時であるが現代はまさに

一15一

(26)

其の時である︒原子力は恐るべき兵器であると共に人類に幸福をもたらす第二の火となっ

た︒死者を甦らせ或は生命を人工的に創り出す研究が進められている︒多年懸案の人工衛

星は遂に打上げに成功した︒やがて月或は遊星への旅行が実現されようと云われている︒

かかる時代にあっては科学の力が如何にも大きく感ぜられ︑宗教は太陽の前の朝霧の如く

雲散霧消するのではないかとさえ疑われる︒

 しかし此のような経験を人間は過去に於て幾度かくり返した︒進化論が唱道され始めた

時がそうであり聖書に対する高等批評の盛んなりし時代がそうであった︒しかしその完奮

が過ぎ去った後に聖書の権威と価値は厳然としてゆるがなかった︒       セキユラリズム もし学院が現代の物質力と世俗主義の嵐に目がくらみ︑世の光︑地の塩たるの味を失う

ならば後は用なし人に踏まるのみであろう︒

 如何なる困難の時にも神は必ず荒野をさまようイスラエルの民を助けた如く雲の柱︑火

の柱を以って我学院を導き給う.ことを信じて疑わない︒

  昭和三十二年十月

       執筆者渡辺勇助

一16一

(27)

第一章創始者の悌

帽 ヘボン︑ブラウン︑ヴアベツク三博士の渡来

第一章創始者の

 西暦一八五九年︵安政六年︶北米ニューヨークのダッチ・リフォームド.ミッシ・ン

は︑在米オランダ人と協力して日本への宣教師派遣を企てた︑オ財バソ町の南︑オワスコ

湖畔のアウトレット町にあるサンドビーチ教会の徳望高き牧師︑サムエル・濤ビソ・ブラ

ウン氏は︑︑︑ッシ・ンの求めに応じ︑オランダ生れの青年学徒︑ギドウ・エフ・ヴアベック

氏及び有能の医師シモンズ氏と共に各々良妻を伴って同年五月七日︑サーブライズ号とい

︐う小船でニューヨークの埠頭を出帆した︒この三夫妻は皆其の残る生涯の凡てを目本の為

に捧げようとの決心を以って︑基督教禁制下︑接夷論沸騰する黎明期の日本を望んで鵬程

万里の壮途に上ったのである︒この時ブラウン氏は四十九歳︑ヴアベック氏は二十九歳で

ブヲウソ氏の教会に於ける外国伝道志望の三婦人の一人マリヤ・マンヨンと結婚したばか

一17一

(28)

らであった︒埠頭には大勢の親戚友人が涙にくれて︑この再会を期し難い別れを惜しんだ

.が︑その中の一人で後にブラウン氏の跡をしたって来日し︑最初の日本基督公会を創設

し︑日本基督教会の基をなす重要な人物の一人となったジェームズ・バラ氏は

  コ八五九年の五月にニューヨークの埠頭から︑記念すべき船サーブライズ号が船出し

た事は到底忘れられない︒植頭には国旗がひるがえり︑陸には緊々たる砲声が轟いて居

た︒それは従来ジパングと称ばれて居た国に︑恩籠の使節なる菊名の男子と其の妻達を送

・るべく放たれた砲声であった︒しと語っている︒

 しかし日本の情勢があまりに険悪であった為三人は途中上海に妻をのこしハオラソダ人

であるヴアベック氏は長崎へ上陸する方が得策と考えられたので︑僚友に別れ単身長崎へ

向つた︒同年十一月一日︑半歳に亘る長い航海を経てこの偉大なる我国二化の開拓者ブラ

ウン氏は︑江戸湾内なる神奈川に上陸した︒浜辺にはブラウン氏より約半月程前の十月十

↓八日に︑プロテスタント宣教師としての最初の足跡を我国に印したプレスビテリアン.ミ

ッション派遣の﹁第一日本宣教師﹂ジェームズ・カーテス・ヘボン氏が夫人と共に出迎え

ていた︒ヘボン氏とブラウン氏は嘗て中国伝道の折︑シンガポールで相識り親交を結んだ

間柄であったが︑此の異国の涯なる神奈川の還遁が︑どれ程彼等を感激せしめたかは想像

一18一

(29)

舞一章創始者の佛

に余りがある︒ジモンズ氏は別れて宗興寺に落ち治き︑ブラウン氏はヘボン氏の仮寓する

・成仏寺に居を定め︑ヘポソ氏は本堂に︑ブラウン氏は庫裡にあって互に廊下伝いに往き来

して旧交を温め︑日本語の研究︑聖書の下訳︑伝道に関する将来の方針等に協力する事と

なった︒当時は未だキリシタン禁制の高札が孫々に掲げられ︑基督教の伝道は固く禁ぜら

︐れて居たが外人の礼拝は許されていたので︑ブラウン氏の渡来と共にヘボン氏は長老とし

て︑ブラウン氏に牧師として日曜礼拝及び共他の集会を行い︑米領事館員を始め各教派の

外人が来り会した︒

 ブラウン氏は又可成の危険を冒して長崎︑神戸︑大阪等を踏査して︑将来に於ける日本

全土の伝道の劃策をしたが氏は米国ミッションに対して次のような意見書を送っている︒

﹁筍くも宣教師として日本に派遣さるべきものは信仰に於いても学識に於いても第一流の

人物たる者︑特に度量が大きく快活︑温和︑平等観念の強い者でなければならぬ︒何とな

れば日本人は礼節を重んじ︑喜怒哀楽を面に表わさず︑仇敵に対しても微笑を以って語る

と言う国民である︒一方他人の威嚇や︑圧迫には決して甘んじて居ない云々﹂

 初代の宣教師達が日本の至る所で尊敬の的となったのは一つにはこのブラウン氏の意見

にミッションが聴従したからではあるまいか︒

一19一

(30)

こ 神奈川に於けるヘボン氏の事業

 当時我国に於ける庶民の生活状態は甚しく非衛生的且つ非盆明的であったが︑ヘボン氏はシモンズ氏が横浜へ移ったあと︑宗興寺を借りて治療所に充て施療を行った︒籔医の葛

鑑も服用し兼ねる多い人々が︑西洋の名医ヘボン先生の治療を受けたのであるから其

の効果はすばらしく︑忽ち門前市をなす有様となり︑﹁平癒した人々は泣いてヘボン氏の恩

を謝した︒しかし当時の役人には︑無料で治療を施し而も乞食非人に至るまで何等差別す

ることなく親切を尽すヘボン氏の真意は了解出来ず︑徒らに日本人に好意を寄せて人々を

若⁝き着けようとする怪しい人物としか受け取れなかったらしい︒

 神奈川奉行は治療所の閉鎖を命じ浪士の危害から護ると云う口実の下に寺の門に両刀を

帯びた四人の見張りをつけ﹁キリシタンの邪宗が日本人に伝染する﹂のを防ごうとした︒

 ヘボン氏は止むなく寺に閉じこもりブラウン氏と共に日本語の研究を進め︑世にヘボン︐辞書と称ばれる﹁和英辞林集成﹂の編纂に没頭した︒しかし求むる者があれば貧富の別な

く治療を施し患者の中には中老︑大名︑役人︑浪士等もあった︒

 この間幕府から遣わされた日本語教師が探偵であったり︑下僕として住み込んだ男が刺

(31)

第一章創始者の悌

客であったり︑まるで捕虜のような不自由な生活をしたが此の様な中でも両氏の海の如く

広い心は之等の人々をよく感化し︑刺客定治郎は罪を謝して暇を取り︑日本語教師の一人

矢野隆山窟は後元治元年に至り死の床でヘボン氏立合の下にバラ氏から洗礼を受けプロテ

スタント信徒の初穗となった︒矢野氏は元幕府からブラウン氏の日本語教師として遣わさ

れ︑後にバラ氏の教師となった人である︒

 しかし幕府や奉行の警戒は頗る厳重で︑一日ヘボン氏を訪問した奉行に十字架上の基督

の聖画を発見された︒ヘボン氏はこの時役人の質問に答えて十字架の意味を説き︑彼等に

基督を紹介する機会を得たのであったが事面倒になるを恐れた米公使ハリスはヘボン︑ブ

ラウン両氏を︑夫々米公使館附の医師及び牧師なりとして僅に事無きを得た︒

 一八六一年︵丈久元年︶米本国に於ては南北戦争が勃発して容易ならぬ事態となり︑脚

本では生麦事件を始め外人殺傷の不祥事が各所に頻発して物情騒然︑両氏の前途は暗雲に

閉されるの思いがあった︒

 この様な苦難の重なって居る時前記ジェームズバラ氏夫妻が丈久元年十一月ブラウン氏

を慕って神奈川に来り成仏寺に同居してヘボシ︑ブラウン両氏に協力する事となったが︑

この篤信熱誠︑稀に見る傑出した青年伝道者の参加は︑両氏に取ってまさにこの暗雲を破

・一一 Q1n}

(32)

つて差し込んだ光明の様な善きおとずれであった︒

三 横浜のヘボン治療所とヘボン塾

 丈久二年十二月末ヘボン氏は神奈川を去って横浜居留地三十九番地谷戸橋畔の新居に移

り開業したが患■者は又もや氏の門に殺到した︒名医平編先生の名は江戸共の他の地方へも

響き渡り浪士︑侠客の患者も多かったが︑日本武士の長所をよく理解し敬愛の念を以って

接するヘボン氏の玉の如き温容に接しては︑流石頑固な接夷論の浪士達も心から敬服して

後には氏を称ぶに聖人君子を以ってする者もあるに至った︒

 丈久元年夏鳥から米国に帰って居た夫人が丈久三年三月再び横浜に帰り︑治療所の一部

に男女共学の英学塾と安息日学校を開き︑青少年の教育に着手した︒明治三年前至り女生

徒はミス・キダー︵後述i一五頁参照︶に託されて後0フェリス女学校の基をなしヘボン

塾は男子・のみとなった︒

 明治十三年築地大学校として東京に移転するまで十七年の長きに亘りヘボン塾は宗教界       〆学界︑政界︑官界︑実業界に多くの人材を送り出した︒

 この様にわが明治学院はその源を遠く丈久三年の昔にまで遡り得るもので実際は九十数

一22一

参照

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『言語文化研究』 (松山大学) 一五・再刊六八巻→ 二九号 一円号三三号三三号二〇号

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九九二一  一四七九九  一六二 六五  一六三〇〇  12  『定家十体』 (一首) 一三八  13  『歌枕名寄』 (二首) 一五四六  六九六七  14

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