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博士学位申請論文審査要旨

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(1)

早稲田大学大学院社会科学研究科 

博士学位申請論文審査要旨 

 

申 請 学 位 名 称  博士(学術) 

申 請 者 氏 名  堀  巌雄 

専攻・研究指導  地球社会論専攻  社会思想研究指導  論 文 題 目  ロールズ  誤解された政治哲学 

Rawls:misunderstood  political philosophy―toward public reason   

審査委員会設置期間  自  2009年  4月16日      至  2009年11月12日   

受理年月日    2009年  4月16日   

審査終了年月日    2009年11月12日   

審査結果    合  格   

審査委員 

  所  属  資  格  氏  名 

主任審査員  社会科学総合学術院  教授  古賀  勝次郎  審査員  社会科学総合学術院  教授  東條  隆進  審査員  社会科学総合学術院  教授  後藤  光男  審査員  社会科学総合学術院  教授  厚見  恵一郎  審査員  政治経済学術院  准教授  谷澤  正嗣 

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    博士(学術)学位申請論文審査要旨 堀  巌雄

      『ロールズ  誤解された政治哲学』

       

[1] 本論文の主題

    アメリカの政治哲学者J・ロールズが、2002年11月に死去して既に7年が経つが、

ロールズの政治哲学をめぐる論争は全く止む気配にない。それだけ、ロールズの政治哲 学が世界の学問界に与えた影響が非常に大きかったということだけれども、しかし今な お行われている論争は、相変わらず同じテーマをめぐってなされているといってよい。

即ち、ロールズが1971年に出版した『正義論』(

A Theory of Justice

)と1993年に刊行し た『政治的リベラリズム』(

Political Liberalism

)との間の転向・非転向というテーマで あり、また正義の二原理、とりわけ格差原理をめぐるものなどがそれである。前者につ いていえば、『正義論』と『政治的リベラリズム』の間に転向を認めるものが多いが、そ の中で『正義論』にロールズ本来の思想を読むものは、『政治的リベラリズム』によって ロールズは「自死」したと説き、『政治的リベラリズム』の方を重視するものは、ロール ズは賢明な方向に軌道修正を行ったと評価する。後者については、例えば昨年出て話題 になっている『正義、政治的リベラリズム、功利主義』(

Justice、Political Liberalism、

and Utilitarianism

)は、そのサブ・タイトル「ハーサニーとロールズからのテーマ」

Themes from Harsanyi and Rawls

)からも窺えるように、かつてロールズの正義の二 原理をめぐって行われたJ・C・ハーサニーとロールズの論争を改めて取り上げたもので、

多くの著名な研究者が寄稿していて、相変わらず激しい論争を繰り返している。

  本論文は、このような従来のロールズ理解・解釈に異議申し立てを行い、新しい観点 から独自のロールズ論を展開したものである。その新しい観点を、本論文はロールズ自 身の著書、論文を徹底的に読み解くことによって得たのであるが、特に博士論文「倫理 的知識の基盤に関する研究」(A Study in the Grounds of Ethical Knowledge)に注目し、

同博士論文を厳密に検討した結果、これまでのロールズ解釈あるいはロールズ像は、ロ ールズのテクストの誤読によるものか、さもなければ論者の過度の思い入れによって作 られたものであることを明らかにしている。確かに、これまでロールズの博士論文は研 究者の間でも殆ど取り上げられたことはなく、ロールズ研究者で有名なS・フリーマンの 大著『ロールズ』(

RAWLS

, 2007)でも、同博士論文への言及は極く僅かで、内容には全 く立ち入っていない。ロールズの公刊された著作は、論文集や講義録を除けば、『正義論』

と『政治的リベラリズム』の二冊だけで、何れも大部のものではあるけれども、博士論 文も分量的には 200 頁を超えていて、論文として見てもロールズの論文の中でも最も長 大なものである。そうした博士論文が、何故これまで取り上げられてこなかったのか。

思うに、『ロールズ論文集』(

John Rawls

Collected Papers

、1999)の最初に収められ

(3)

ている論文「倫理的決定手続きの概要」が、博士論文の要約ということであるので、博 士論文全体を読む必要はないと、ロールズ研究者を含めて判断したということであろう。

だが、同論文は博士論文の要約とはいえ、博士論文がどのような思想家や哲学者の議論 を踏まえて、どのような構成の下に論じられているのかは見えてこない。しかも同論文 には、博士論文に付されていた詳細な注や参考文献が削られていて、博士論文の内容が 一層見えにくくなっている。しかし、博士論文を厳密に吟味すると、そこには従来のロ ールズ像を導いた議論とは非常に違ったものが浮かび上がってくる。「議論の理論」がそ れで、議論が収束するための条件を明らかにする手続きのことである。本論文は、博士 論文から、『正義論』、そして『政治的リベラリズム』に至るまで、この「議論の理論」

が通底しているとし、従来のロールズ理解・解釈に修正を迫るものである。「議論の理論」

によって一貫してロールズのすべてのテクストを読み解いたのは、ロールズ研究史にお いて本論文が初めてであり、その意味でも本論文はロールズ研究において画期的な業績 と評価できる。

[2] 本論文の構成

    本論文の構成は以下の通りである。なお、本論文の分量は、1頁42字×19字=798 字で、全503頁(脚注を含む)、約40万字である。

目次

ロールズの「死」  序にかえて 第一部  初期ロールズ

1  『正義論』以前に光をあてる 2  議論の理論

      (1)「倫理的決定手続きの概要」を博士論文まで巻き戻す       (2)倫理学説批判  権威主義について

      (3)権威主義でない議論のあり方       (4)倫理学説批判  懐疑論について       ( 5 ) 行為についての立論

      (6)倫理学を社会学的に説明する       (7)帰納法と倫理学との関係 3  理論形成の過程

(1)序

(2)理論「発見」のためのルール

(3)理論の定式化=「解明」

(4)理論のためのデータ選抜法

(5)ロールズの説く「解明」はトートロジーか

(4)

(6)循環論法の問題  原理がデータをコントロールする

(7)道徳の反省はいつ生じるか

(8)正当化の三類型とその実例

(9)三つの正当化の特徴とその比較 4  解明と正当化の実例

(1)博士論文の構成

(2)総論

(3)道徳言明とその正当化 5  コンセンサス擁護

6  「倫理的決定手続きの概要」

(1)「決定手続き」を要請する文脈

(2)倫理学の「決定手続き」

第二部  『正義論』

7  奇妙な書物 8  反省的均衡の虚実

(1)ロールズによる説明

(2)含蓄のありすぎる解釈群

(3)反省的均衡とはなにか 9  語用論の視点

(1)語用論の影響

(2)哲学・倫理学における語用論  エイヤーとオースティン

(3)ロールズにおける語用論の視座 10 社会契約論

(1)総論

(2)社会契約論の歴史的・法理的意義

(3)日本と英米では「契約」の概念が異なる

(4)人格の区別と社会契約論

(5)自然権理論と構成的ルール

11 二元比較という議論構造  『正義論』の論理

(1)正義の二原理とその他の道徳原理のリスト

(2)公正としての正義と功利主義の比較 12 善理論  倫理学説批判

(1)自然主義への批判

(2)直覚主義への批判

(3)正の善に対する優位の登場 13 功利主義との比較

(5)

(1)功利主義批判の文脈

(2)古典的功利主義と人格論

(3)古典的功利主義と平均効用学説

(4)平均効用学説の変遷 14 原初状態からの正当化

(1)マクシミン・ルール

(2)三つの鍵概念  公共性・互恵性・安定性 15  正義の二原理の比較による正当化議論

(1)第一の比較  「正義の二原理」対「功利主義」

(2)第二の比較  「正義の二原理」対「混合構想」

16  財産所有民主主義という制度論

(1)格差原理は道徳の一元主義か

(2)格差原理は帰結主義か

(3)財産所有民主主義

(4)福祉国家資本主義と財産所有民主主義の比較

(5)格差原理と社会保障制度

(6)財政活動の機能

(7)格差原理とはなにか

17『正義論』から『政治的リベラリズム』への経緯 第三部  『政治的リベラリズム』

18 政治的リベラリズムと戦後アメリカリベラリズム

(1)リベラリズムという言葉の変遷①  アメリカ以前

(2)リベラリズムという言葉の変遷②  アメリカにおいて

(3)ロールズのいう「リベラリズム」は「戦後アメリカリベラリズム」か

(4)「政治的リベラリズム」が登場した文脈 19  コミュニタリアニズムとの論争

(1)論点①  「政治的リベラリズム」の哲学的表現

(2)論点②  道徳の主体論

(3)人格論 20  政治的構成主義

(1)直覚主義批判

(2)自明性批判

(3)カントの構成主義と政治的構成主義 21 重なり合うコンセンサス

(1)二つの視点

(2)四つの批判と応答

(6)

22 正の善に対する優位

(1)誤解された経緯

(2)「正の善に対する優位」という概念の歴史 23 公的理性/理由

(1)公的理性とは

(2)公的理性と司法審査 終章  ロールズとは何者か

  [3]  各章の概要

    各章何れも、膨大な文献を厳密に読解した上で、簡潔にまとめられており、しかも独 創的、先駆的見解が多々見られる。

第一部

    第一部はロールズの博士論文「倫理的知識の基盤に関する研究」の検討を行っている。

同博士論文は、三部から構成されていて、第一部では、倫理学諸説を検討、更に理想的 議論における規約やその思考プロセスを提示、第二部では、規範的な議論の実例を示し、

第三部では、議論の成功やその合理性を論証している。

    第1章では、これまでロールズ研究の空白地帯だった初期ロールズ研究の意義につい て述べられている。具体的には、1958年以前の博士論文、その要約版「倫理的決定手続 きの概要」、「二つのルール概念」などがこれに含まれる。こうした初期ロールズの研究 を行うことによって、『正義論』以降のロールズ政治哲学における議論の手続きの意義が はじめて明らかにされると説かれている。

    第2章では、博士論文の第一部が取り上げられる。先ず、二十世紀前半の倫理学の潮 流を、権威主義と懐疑論の倫理学に分け、前者は議論の終点を探求することを課題とす るもの、後者は共有されるべき原理など存在しないと説くもので、ロールズはそれぞれ に批判を加え、そして対案を提出する。それが、「議論の理論」(Argumentation Theory)

であって、司法の議論がそのモデルである。即ち、倫理的知識の成立根拠は複数人の間 における行為の相互調整としての議論プロセスに求められ、理由付けの下に暫定的に共 有されるもので、終点はなく常に改良や廃棄の可能性が存在するものとされる。

    第3章では、ロールズの理論形成過程について説かれている。科学哲学では、「発見」

と「正当化」の文脈に区別されるが、ロールズは「ヒューリスティック」、「解明」、「正 当化」に分ける。ヒューリスティックは、個別具体的な判断データから理論を思いつく 時の思考過程、それに続く段階が解明で、理論の表現方法の工夫、とりわけ概念を明晰 化することである。この解明によって案出された道徳原理が正当化に成功すれば、倫理 的知識として確立される。正当化には、「形式的」、「直覚的」、「実質的」の三つあるが、

  前二者は理論家の任務ではないとし、実質的正当化の意義を説く。

    第4章は、博士論文の第二部で扱われている「解明」と「正当化」の実例を忠実に要

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約している。正当化対象の原理である内容は、人格の道徳的価値に関する判断基準で、

刑法や宗教から取られていて、ロールズはそれぞれについて、どのように社会において 機能しているかを明らかにし、正当化となしている。例えば、義務感から正しいことを なす人は、他の動機からなす人より道徳的に価値があるということでは、義務感・義務 知識と愛・ケアが比較され、両者は共に必要で相補い合うものだという結論が導かれて いる。

    第5章は、博士論文の第三部を取り上げ、正当化の後のコンセンサスの存在を意見の 多様性に過ぎないという反論に対するロールズの議論を扱っている。ロールズはコンセ ンサスと意見の多様性に折り合いをつける説明のバリエーションとして、1、無関係な 判断におけるもの、2、新しい概念や原理が現実に発達したことによるもの、3、信念 の変化によるもの、4、条件の変化によるもの、5、価値の比較が不可能ともいえるも の、という5種類提示し、それぞれについて論じている。そこからロールズは、原理へ のコンセンサスの存在と、具体的判断の次元における多様性は、整合的に共存できる現 象であるという結論を導いている。

    第6章は、博士論文を要約した論文「倫理的決定手続きの概要」を取り上げている。

内容的には殆ど変更はないが、タイトルに「決定的手続き」という名称が使われている のが注目される。「決定手続き」は論理学の用語で、ロールズはそれを倫理学に用いたわ けだが、それは、数学、経験科学とも区別される倫理学固有の知識妥当性基準の存在、

さらにその合理性を論証するためである。つまり、倫理学にも「決定手続き」が存在す るという主張は、倫理学でも「合理的議論」がされているということを裏付けていると いうことだからである。

第二部

    第二部では、大著『正義論』が取り上げられる。先ず、思想史的なコンテキストの把 握から始め、次にそれを手懸りにロールズのテクストの理解に進み、その後、先行研究 の検討を行っている。

    第7章は第二部の序文で、『正義論』はロールズの名を一躍高からしめたものだが、誤 読と誤解によってさまざまに解釈され、ロールズの意図から遠く離れてしまっているの で、それを以下で本来の『正義論』に復元しようというのである。

    第8章は、「反省的均衡」(reflective equilibrium)の概念を吟味している。同概念はこ れまで、とかく「帰納+演繹」の新しい論理だとか、「基礎付け説/整合説」の枠組みの 中で位置づけるといった拡大解釈がなされてきた。しかし、ロールズ自身の言説に従え ば、反省的均衡は伝統的に使われてきた「弁証法」とか「問答法」に近い概念である。

それは、究極的には止むことない知識正当化プロセスを、心理学的用語で表現したもの で、新しい方法論ではないしそれ自体論理でもない。当時の科学哲学界の懐疑的見解を 受け入れ、正当化プロセスの不可避性を説いたため、理解に苦しむような誤解を導いた のである。

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    第9章では、「語用論」(pragmatics)の視点から『正義論』の哲学的背景が論じられ ている。注目されるのは、同著第62節の「意味についての覚書」で、博士論文にもそれ に似たタイトルの節(第三部第四節「倫理用語の意味」)があり、問題意識の継続性が認 められる。そこでロールズは、言説の意味を「発話内効力」の次元で捉えているという が、それは発話者の置かれた行為文脈において捉えようとする立場である。これを当時 の記号論でいうと語用論で、ロールズはそれをオクスフォード大学の日常言語学派から 学んだ。

    第 10 章は、ロールズが何故『正義論』において社会契約論(the theory of social

contract )を採用したのかを論じている。ロールズ自身言っているように、『正義論』は

社会契約論の現代版とされるが、どういう意味でそうなのかに関しては決して自明では ない。本章は、それを哲学的意義と法理的意義の二面から整理している。社会契約論の 意義の一つは、「人格」の問題に関連している。『正義論』では、対等な市民間における 関係を諸制度の基底に置くことが説かれているが、これは思想史上の社会契約論と親和 的で、統治者の視点を暗黙の内に前提としている功利主義と著しく異なる。また、市民 間関係の具体的あり方にも意義が認められる。それは、古典的功利主義の利他主義に対 し、互恵的な利益の配分を含意する。この考え方は、日本人にはいささか奇異に思える が、英米法における契約概念(バーゲニング理論)を踏まえると理解できる。

    第 11 章では、『正義論』に見られる二元比較とその意味が明らかにされている。同著 は、功利主義と「公正としての正義」の比較から成っているが、「公正としての正義」の 二原理は、比較に先立って最初から提示されている。その二元比較は、原理の文言に即 した事例比較の質的研究である。比較による正当化は、J・S・ミルの帰納法のカノンで言 えば「差異法」(methods of difference)に当たる。功利主義と「公正としての正義」の 間に差異を見出し、その差異が後者の優位を意味する時、正当化となる。しかし、それ は正当化の在り方としては限定的で、ある基準において功利主義に勝ったというに過ぎ ない。

    第12章では、20世紀前半のメタ倫理学に対するロールズの批判と、「正の善に対する 優位」の意味について論じられている。ロールズが批判したメタ倫理学は、自然主義と 直覚主義である。自然主義には広義と狭義の二つあって、広義の自然主義は、道徳が事 実によって正当化できる対象と捉える立場、狭義の自然主義は、非道徳的事実のみによ って正当化されるべきとする立場であるが、ロールズは前者を受け入れ後者は拒否する。

本論文は、ロールズの立場を狭義の自然主義としたのは合理的選択理論だとする。道徳 が事実によって正当化されることを否定し自明だとする直覚主義は受け入れない。また、

正(right)の善(good)に対する優位は、博士論文でも『正義論』でも、道徳原理の正 当化根拠の最終審判者は善だが、その善には何らかの制約が掛けられているという意味 である。

    第 13 章は、「公正としての正義」と二つの功利主義(古典的功利主義と平均効用学説)

(9)

の比較を論点ごとに整理し論じている。古典的功利主義(シャフツベリーやハチスンな ど)の「共感」や「普遍的慈善」に対して、「公正としての正義」の「互恵」が置かれる。

前者の問題は、相互に利己的で対立的な状況下にある人格間において、安定的に存続し 得る動機付けでないところにある。平均効用学説(エッジワースやハーサニーなど)は、

古典的功利主義の共感心理学を普遍的立場交換の仮定の下での利己的選択に改造してい る点で、「公正としての正義」の利己的な人格に親和的である。だが、ロールズは平均効 用学説が立っている均等確率と普遍的立場交換の仮定を不適切として批判する。モデル としてエレガントな仮定ではあるが、歴史的な制度の正当化には適用できない。

    第14章では、先ず「マクシミン・ルール」について、次に正当化の鍵概念である「公 共性」、「互恵性」、「安定性」が論じられている。ロールズが「平均効用最大化」に対峙 させたのがマクシミン・ルールで、最悪の帰結を想定し、それを最大限改善する選択肢 を選べというルールである。しかしロールズはそれを狙って同ル−ルを持ち出したので はなく、原初状態における発話が、予測でなく約束ないし契約することであることを特 徴づけるためである。公共性は原理が市民間の共有知識であることを指し、功利主義の 普遍性とは区別される。互恵性とは与えられたものを返すこと、そして安定性はある役 割が社会や自我において他の役割と整合的に存続する状態をいう。

    第 15 章は、それまでの諸前提を踏まえ、「公正としての正義」の正当化議論を、1、

第一の比較:「正義の二原理」対「功利主義」、2、第二の比較:「正義の二原理」対「混 合構想」としてまとめている。

    第16章では、財産所有民主主義という制度論が扱われている。アメリカでは、ロール ズは福祉国家を正当化する思想家と見なされているが、それは誤りで、「公正としての正 義」が想定している経済体制は「財産所有民主主義」(property-owning democracy)であ る。それは、経済学者の J・E・ミードの議論を踏襲したもので、「福祉国家資本主義」

と対峙される。後者が、資本主義経済を前提にし、各期の終わりにソーシャル・ミニマ ムを保障すべく福祉支給が行われる制度であるのに対し、前者は、各期の最初に生産資 本と人的資本の広範な所有の確保を目標に置く制度である。そうして前者は、もともと 社会民主主義者などが唱える福祉国家体制に対抗するため、保守主義者や新自由主義者 によって打ち出されとものであった。その根底には、社会主義的な集権化に対し分権化 を強調し、市場経済の正当化があった。続いて、同制度論と密接に関わるものとして問 題にされてきた格差原理について言及し、ロールズにおいては、同原理は「互恵」を顕 揚し市民の「協働」を促進する限りで肯定されているという。

    第 17 章は、『正義論』から『政治的リベラリズム』への経緯を追い、両著の間に「転 向」や「哲学から政治への変化」を認める議論を批判する。転向とは普遍主義から文化 相対主義に変ったということだが、博士論文にも文化相対主義は唱えられていたし、ま た同論文には包括的理論や多元ということが言われていたので、そうした議論は妥当で ない。そして「『正義論』も包括的教説」というロールズの発言は、比較対象の功利主義

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がそうだと解釈すべきだという。

  第三部

    第三部では、『政治的リベラリズム』が取り上げられる。

    第 18 章では、「リベラリズム」の歴史的変遷とロールズの「政治的リベラリズム」の 由来と意味が述べられている。リベラリズムの起源は、16 世紀スペインまで遡れるが、

アメリカではニュー・ディール期の社会改良主義的意味である。以後、リベラリズムは 民主党の思想のように見なされてきたが、ロールズはそうした現実政治に対応して使っ てはいない。事実、『正義論』にはリベラリズムという用語は見られない。ロールズの政 治的リベラリズムは、J・シュクラーや C・ラーモアーらの先行研究に負っていて、共和 主義の復活に呼応し対案として出てきたものである。リベラリズムは、ギリシア、ルネ ッサンスを経て近代に継承されてきた共和主義の人間本性論に対し、宗教改革以降の宗 教多元をその根拠とするようになるが、ロールズの政治的リベラリズムもそうした動向 から生まれた。

    第 19 章では、コミュニタリアンとの論争が分析されている。1980 年代に行われた論 争で、ロールズに向けられた批判は、自我のあり方をめぐるもので、その急先鋒が M・

サンデルだった。サンデルは原初状態に描かれているロールズの自我を「負荷なき自我」

と表現し、その奇異性と矛盾を指摘した。だが、ロールズがテクストで描いているのは、

自我ではなく「人格」である。人格はギリシア演劇の仮面に由来するもので、今日の「役 割」に近く、ロールズも人格に「共同体のなかの社会的生活における知的役割を含めた い」といっている。このように、ロールズのいう人格は共同体における位置付け=負荷 を前提にしているのである。そのような人格の束が自我である。ロールズが人格と自我 を区別した上で、その関係を安定性という概念で改めて問うたところ、サンデルは誤解 したのである。

    第20章は、「政治的⁄カント的構成主義」(political⁄Kantian constructivism)につい て論じている。政治的構成主義は、『正義論』から『政治的リベラリズム』への過渡期に おいて「カント的構成主義」と唱えられたもので、合理的直覚主義との対比で明らかに されていく。カントの構成主義とロールズの政治的構成主義の相違は、1、心理的相違 として、前者の合理的心理学に対して、後者はその経験論的解釈となっている、2、理 論の目的の相違として、前者は理性信仰の擁護にあり、後者はそれを共有しない、3、

適用対象の相違として、カントの理性があらゆる問題を処理する能力とされるのに対し て、後者では多元社会の政治的正義の正当化という極めて限定された論点にのみ適用さ れる、といったところにある。そうした違いは、自律(autonomy)の解釈の相違からきて いて、カントの構成的自律に対して、ロールズのは学説的自律とされる。

  第 21 章は、「重なり合うコンセンサス」(overlapping consensus)の概念が取り上げ られている。『政治的リベラリズム』は包括的教説の多元のもとで共存は可能かという問 題に答えようとするものだが、この概念がこの答えである。包括的教説―あらゆる問題

(11)

に対して解答を用意している学説―の萌芽的形態(=包括的理論)は、既に博士論文の中 に見出されていた。博士論文では、そうしたことは近代の実証主義的な態度の中で自ず と淘汰されると予測されていたが、リベラリズムの下では、良心・思想の自由などによ って、「多元性の事実」が永続的なものとして承認される。しかし、共通の政治構想の下 での共存が可能となるには、発話の様式として共通了解可能な政治的概念への立脚が要 請される。それ故に、重なり合うコンセンサスは、コンセンサス不在の懐疑論や暫定協 定とは区別される。

    第 22 章では、「正の善に対する優位」概念をめぐる議論が取り上げられ、次いで同概 念の思想史的位置付けが明らかにされている。同概念に対する批判は、コミュニタリア ンや功利主義者が行っているが、right を権利、good を価値一般と解し、ある種の権利 は価値判断を超越し正当化を不要とするものー権利直覚主義―である。しかしロールズ

はrightやgood をより詳細に論じ、同概念の意味を公的正当化における「包括的教説に

対する共存の枠組みへの拘束」へと特定していく。また、ロールズは同概念の歴史的位 置付けを、近代の道徳哲学を古代ギリシアのそれと対比することによって明らかにする。

古代ギリシアでは善が最も重んじられるが正はそれほどでなかった。これに対して、近 代では、善はひとまず保留され正が重要視される。それは、近代が多元的社会であって、

その共存の枠組みはあらゆる目的に対して拘束的に働かざるを得ず、この縛りのことを、

「正の善に対する優位」と表現するのである。

    第23章は、「公的理性(理由)」について論じている。ここでも『政治的リベラリズム』

は博士論文の「議論の理論」を受け継ぎ発展させたものとされる。博士論文では、議論 の理論のモデルである倫理学者(実は法曹)と一般社会の関係を問題にしていたが、『政治 的リベラリズム』でも、民主社会における公的理性の役割が明らかにされている。即ち、

1、R・ドゥウォーキンを念頭に置き、最高裁を高次法の最終解釈者ではなく最高次の司 法的解釈者に限定する、2、B・アッカーマンの「二元主義」に呼応して、司法における 解釈の特有の意義を強調して、人民に対して公的理性の模範=人民に対する教育を示す、

といった点を明らかにしている。これは、博士論文の道徳命題の「命法効果」、『正義論』

の「教育効果」を改変したものである。ロールズおいては理性のモデルはアメリカの司 法審査だとされる。

         

  [4]  分析と評価     <各章の分析と評価>

  第一部

    サブ・タイトルについて。サブ・タイトルは「誤解された政治哲学」になっているが、

その場合の「哲学」は、「包括的教説」ではないとしても、倫理学、論理学、科学哲学な ど他の学科を包摂するものか、少し説明がほしかった。

第1章.博士論文と初期論文「二つのル−ル概念」との関係はどうなのか明瞭でない、

(12)

また同初期論文と『正義論』との関係についてももっと議論があってもよかったのでは ないか。

    第2章.ロールズによれば、「is からoughtを導けない」という単なる事実をもって、

道徳に関する議論に欠落感を覚える心性の背後に隠れているものこそ「権威主義」だと いっているが、そんなに簡単にいえるのか疑問である。但し、これはロールズの問題で あろう。

    第3章.「道理的」(reasonable)と「合理的」(rational)というロールズの区別は、

博士論文まで遡れること、「道理的」の方が使用頻度が高いこと、しかもそれが法学用語 であることなどが指摘され、評価できる。

    第4章.ロールズの転向は1985 年の論文「公正としての正義:政治的正義であって、

形而上学的正義ではない」においてなされたといわれることが多いが、ロールズは既に 博士論文で「メタフィジーク・フライ」という考えをもっていたので、その通説は当た らないとしている点、また、その言葉を現象学のF・ブレンターノから借りたものであ ることを明らかにしている点などで評価できる。

    第5章。本章の議論は、後年の『政治的リベラリズム』における「重なり合うコンセ ンサス」を髣髴とさせ、説得力がある。

    第6章.博士論文と同年に出版されたR・カルナップの『確率の論理学的基礎』との関 連で、博士論文の議論を論じていて評価できる。ヒュームとK・ポパーの帰納法めぐる 違いについてはもっと議論がほしかった。

  第二部

    博士論文から『正義論』にいたるロールズの思想形成についての論述が余り見られな い。その間に、ロールズは十本近い論文を書いている。確かにロールズにとって論文は

「実験的作品」であるが、思想研究には形成史の研究は不可欠である。例えば、1958年 の論文「公正としての正義」に一般的状態(general position)という概念が出ているが、

その後この概念はどういうことになったのか、そうしたことを追うこともロールズの原 初状態の正確な理解に資するのではないか。   

第7章.『正義論』に対してこれまで、「政治論争における座標軸」、「稚拙な大間違い の宝庫」といった評価がなされてきたといっているが、具体的には誰がどのような文脈 の中で言っているのか述べられていない。

第8章.「反省的均衡」という概念は、H・シジウィックに既に見られたもので、ロー ルズはそれを多少補っただけだとした上で、いま一度、ロールズのテクストを読み直し、

正当化による知識の生成発展プロセスを描いたものだとして、「反省的均衡」の意義を明 らかにしていて評価できる。

    第9章.『正義論』の哲学的背景としての語用論について詳しく論ぜられていて、本論 文の中の圧巻である。

    第10章.本論文には、日本のことがしばしば引き合いに出されて議論されているとこ

(13)

ろがある。例えば、「日本人からみてロールズの発想が奇異に思えるのは、日本と英米で

『契約』概念が異なることに由来する」(175頁)といわれている。しかし説明は極めて簡 単で十分でない。

    第 11 章.『正義論』の基本ロジックを功利主義との二元比較に認め、その含意を明ら かにしていて大いに評価できる。

    第12章.「道徳幾何学」( moral geometry)について。第20 節に「道徳幾何学」と いう用語が出ている。例えば、「われわれは、・・・完全な厳密性を持った一種の道徳幾何 学を求めて努力すべきである。」、また、「初期状態のバリエーションは無限に数多くあり、

従って、道徳幾何学の定理も無限に数多く存在することは、疑い得ない」、とある。ロー ルズにおいて、道徳幾何学は一体どのような位置を占めていたのか。スピノザの倫理学 のようなものをイメージしていたのか。ともかく、かなり重要な概念だと思うが、本論 文では取り上げられていないようである。

    第13章.本論文でK・アローについてもっと詳しく取り上げてもよかったのではない か。アローはロールズと基本的価値を共有していたにも関わらず、ロールズの正義論を 批判しているので。

    第14章。語用論とのアナロジーで、原初状態における契約を論じているが、説明が少 し足りない。

  第 15 章.「生産過程と分配過程の分離」はスミスやリカードといった古典派経済学者 の前提であったと述べられているが、果たしてスミスにそういう考えはあったか、両過 程の分離はJ・S・ミルあたりから始まるのではないか。リバタリアンのR・ノージック への言及がなされているが、もう少し詳しく扱ってもよかったのではないか。

    第16章.財産所有民主主義の概念がミードに由来すること、そして英国の保守党がそ れをマニフェストに掲げていることも間違いないにしても、ミードの財産所有民主主義 の内容と保守党のそれとの間にはかなりの違いがあるのではないか。保守党のそれは持 ち家制度に重点が置かれていて、生産資本には及んでいないのではないか。

    第17章.『政治的リベラリズム』(ペーパーバック版)に付されている長い二つの序説 も、『正義論』から『政治的リベラリズム』への経緯を考える上で重要なテクストと思わ れるが、殆ど言及されていない。

  第三部

    第 18 章.「共和主義の復活」はどのような意味でロールズのリベラリズムの呼び水に なったのか。アリストテレス的な人間本性論には距離を置き、Q・スキナーのネオ・ロー マには好意的というロールズのスタンスは確かであるのは分かるが。

    338 頁の注 53.シヴィック・ヒューマニズムや共和主義は「近代の異教」としてもた

らされたのであり、「近代の異教」が召還された背景には宗教対立があるという趣旨の記 述があるが、一体何に対する「異教」か、共和主義・ニュートン物理学といった啓蒙思 想が「近代の異教」であるとはどのような意味か、その背景に宗教対立があるとはどう

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いった意味か、ロールズの政治的リベラリズムは、「近代の異教」の子孫なのか、それと も「近代の異教」をもたらすもととなった多元性の再現なのか、いま少し説明がほしか った。

    ロールズの政治的リベラリズムは、リベラリズムを「ロックとはべつの思想史的基盤 に乗せることにある」とし、宗教改革とその後のカトリック対プロテスタントの対立に 思想の淵源を求めると述べられている。ロックは「プロテスタント的一元論」に立って いるということだろうが、しかしロックの思想も宗教改革とその後の宗教対立を踏まえ て形成されたのではないだろうか。

    第19章.358頁の注8でサンデルはトックヴィルとルソーとを対比して論じていると いうことだが、そこのところをもっと詳しく追っていけば、サンデルのコミュニタリア ニズムの特徴がより明らかになるのではないか。例えば、H・アーレントはトックヴィル には肯定的だが、ルソーには否定的で、それによってアーレントの立場が明らかになる ように。格差原理と政治的リベラリズムの関係について、ロールズも「矛盾するとは考 えていないし、私も同感だが、さりとてそれらが必然的に結びつくとも思わない。」と書 かれているが、これは極めて重要な問題であるので、もう少し詳しく論じてほしかった。

    第20章.ロールズは「構成主義」という名称を数学から示唆を受けたといっているが、

実際カント自身その考えを数学においても使っているので、その点をもう少し詳しく論 じてほしかった。そうするとカントの構成主義とロールズのそれとの違いがよりはっき りしたのではないか。

    第21、22章.ロールズはカントやJ・S・ミルの学説を包括的教説としていて、本論文 でも取り上げているが、その説明だけではよく理解できない。ミルでは、その功利主義 があらゆる領域を支配しているということであろうが、カントの場合はどうか。「自律」

の概念が包括的にしているのだろうか。

    第23章.ルソーも「私的理性」と区別される「公的理性」という概念を展開している が、ロールズの「公的理性」とはどのような関係にあるのか、議論してほしかった。ロ ールズの司法審査についての議論は抽象的レベルに止まっているようだが、判例などを 取り上げて具体的には論じていないのか。そうすればより説得的になるだろう。

  <全体の分析と評価>

今年公刊された『罪と信仰の意味についての研究』(

A BRIEF INQUIRY INTO THE 

MEANING OF SIN AND FAITH,  WITH “ON MY RELIGION

”)は、当然ながら本 論文では扱えなかったものだが、同著と本論文との間に全く齟齬は見られず、寧ろ本論 文の主張の妥当性を補強しているといえる。フリーマンが同著に収められている二つの 論文を同著が出る前に読んでいたことは、その『ロールズ』―ロールズ研究では最も緻 密で体系的な研究書―からも窺えるが、そのフリーマンもロールズの博士論文は厳密に は読んでいなかったようである。本論文は、その博士論文を厳密に読み解き、「反省的均 衡」ではなく「議論の理論」が、『正義論』にも『政治的リベラリズム』にも通底してい

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ること、博士論文の第二部が『正義論』に、第三部が『政治的リベラリズム』にそれぞ れ相当していることを明らかにしている。これは、『正義論』と『政治的リベラリズム』

の間には、少なくとも「転向」というものはなかったということを明示している。こう したことは、ロールズ研究史においては初めてのことであり、今後のロールズ研究に新 しい地平を拓いたものとして極めて高く評価できる。

また、言語哲学やメタ倫理学とロールズの関係を取り上げ、前パラダイムについてど のような問題意識を持ち、何を修正したかを明らかにしたことも、本論文の大きな成果 である。言語哲学に関しては、ロールズは記号学の分類でいう語用論の立場に立ってい るが、『正義論』は語用論の創成期に位置するため、今日の語用論からすれば、意外なル ーツである論理実証主義への警戒を示している。また、メタ倫理学においては、自然主 義と直覚主義を問題視している。しかし、道徳言説の語用論的分析は、広大な未開拓分 野である。創成期に位置するJ・L・オースティンやJ・サールなどのテクスト解釈や議論 に閉じこもるのではなく、無数に存在する具体的な言明を一つ一つ積み上げていくこと は、非常に有望なプロジェクトである。本論文はその土台を築いたという点で大いに評 価できる。

更に本論文では、それぞれの議論を先ず思想史的・理論史的に論述し、それからロー ルズの議論の理解へと進みロールズを思想史・理論史の中で位置づけ、その後ロールズ の議論をめぐって行われている今日の論争を取り上げ論じているので、論旨が極めて分 かり易くかつ説得的である。勿論、それぞれ数多くの先行研究を踏まえながら論じては いるが、しかしそれらに囚われずに、あくまでテクストを厳密に読み解くことに意を用 いているため、独自の解釈がいたるところに見出される。

ロールズの政治哲学はカントの影響が最も大きいといわれる。ロールズ体系を築いて いる重要な概念、例えば、理性、構成主義、自律といった概念は、何れもカントから来 ていて、これからだけでもカントの影響がいかに大きいかが窺われる。それ故、これま でのロールズ解釈はカント理解を通して行われることが多く、そのため誤解も多々見ら れた。しかし本論文では、カントとロールズは合理的直覚主義批判では同じ側に立つも のの、両者の使う理性、構成主義、自律といった概念の違いを指摘することから、両者 の体系がかなり相違していることを詳細に論じ、独自の解釈を提示していて評価できる。

ただ気になるのは、ロールズの体系が余りにもカントに依拠していることである。カン トの場合には、(実践)理性に非常に大きな能力が付与されているので、道徳的秩序は(実 践)理性によって「構成」される、従ってカントの方法を構成主義というのは何ら問題な い。だが、ロールズの理性(理由)はかなり限定されており、自律の概念もカントとは 異なっているのであるから、構成主義という概念までをカントから借りてくること自体

―勿論、本論文のロールズ解釈が正しいということを前提にしていうのだがー少し無理 があったのではないか。ロールズに対する誤解もそうしたところから起こったのではな いか。ロールズのテクストをとにかく忠実に読むことに専ら務めている本論文だが、ロ

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ールズに対する誤解の理由の一半が、ロールズ自身にもあったのでは、という意識でロ ールズを読解することも必要であったかとも思う。

いま一つ指摘しておきたいのは、これまで喧しく論争されてきた、そしてロールズの 名を高からしめた正義の二原理、とりわけ格差原理が、政治的リベラリズムの下ではど ういう位置付けになるかということである。確かに、1993年刊の『政治的リベラリズム』

でも、1999年の改訂版『正義論』(但し、序文は1990年に書かれている)でも、正義の 二原理についてはそのまま維持されていて変更は殆ど認められない。そのため本論文も、

正義の二原理と政治的リベラリズムとは必然性はないが矛盾もない、と論じている。し かしロールズは、「公的理性の観念:再考」(“The Idea of Public Reason Revisited”、

1997)の最後のところで、『正義論』と『政治的リベラリズム』は、公的理性によって論

じられていることでは同じだが、前者の公的理性が包括的教説によって、後者のそれが 政治的リベラリズムによって、それぞれ与えられているので、上の二著は「非対称的」

(asymmetrical)だと述べている。また、ロールズ最後のメッセージともいわれる書簡 の中で、「公正としての正義は今や小さな役割しか担っていない」(増補版『政治的リベ ラリズム』所収、2005)といっている。これらの文章が示すのは、正義の二原理も『正 義論』と『政治的リベラリズム』との間で若干の変化があったことを示唆してはいない だろうか。それは、「転向」というものではないが、ロールズ体系の中で強調する度合い が幾分柔らかくなったということであろう。それはともかく、本論文で政治的リベラリ ズムの下での正義の二原理の問題が余り論じられなかったのは、本論文が博士論文から

『政治的リベラリズム』まで一貫した議論によって説き明かそうとしたものだけに、物 足りなさが残る。

このように、本論文には若干物足りなさも残らないではないが、ロールズ研究史上に なした貢献は非常に大きく、また、ロールズ研究、広くいえば政治哲学に対して切り拓 いた新しい研究方法は、これから着実に成果を挙げていくものと期待される。

以上を総合的に判断した結果、我々は本論文が「博士(学術)早稲田大学」の学位に 値するものと認め、ここに推薦する次第である。

      2009年11月5日

主任審査員    早稲田大学教授    古賀  勝次郎    経済学博士      早稲田大学 審  査  員    早稲田大学教授    東條  隆進      経済学博士      神戸大学 審  査  員    早稲田大学教授    後藤  光男

審  査  員    早稲田大学教授    厚見  恵一郎    博士(政治学)  早稲田大学 審  査  員    早稲田大学准教授  谷澤  正嗣

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