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中国の「国境文化」の人類学的研究

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(1)

中国の「国境文化」の人類学的研究

著者 塚田 誠之

発行年 2013‑03‑31

その他のタイトル The Culture of Ethnic Groups in Border Areas of China

URL http://hdl.handle.net/10502/5668

(2)

中 国 ・ミ ャ ン マ ー 国 境 地 域 に お け る

流 動 人 ロ ・ネ ッ トワ ー ク ・ロ ー カ ル 権 力

雲南省徳宏タイ族ジンポー族自治州の事例を中心に

長 谷 川 清(文 教大学)

1  は じめ に

  雲 南 省 は ミャン マ ー 、 ラオ ス、 ベ トナム と国 境 を接 し、 自然 地 理 や 多 民 族 的 構 成 にお いて 連 続 性 が あ る。 社 会 主 義 体 制 をとる中 国 が 改 革 開 放 政 策 に転 じる と、 これ らの 東 南 ア ジ ア大 陸 部 に連 続 した 国 境 地 域 で は 、 国 境 を跨 いで 展 開 され るロー カル な 人 的 交 流 や 日常 的 な 諸 民 族 問 の相 互 関 係 は 、 集 団 化 政 策 の も とで の 社 会 経 済 システムや ロー カル な権 力 関 係 を基 盤 とした 閉 鎖 的 な それ とは大 き く相 違 す るもの とな り、 開 放 的 な 関 係 性 へ と転 換 を遂 げて い った 。 市 場 経 済 メカ ニズ ムの 段 階 的 な 導 入 により、

国 境 を越 え る様 々な 社 会 文 化 現 象 や 新 た な地 域 間 関 係 が 出 現 してい くの で あ る。1980年 代 後 半 の 移 行 期 を経 て1992年 に全 方 位 の 対 外 開 放 体 制 が 始 動 す ると、その 傾 向 はい っ そう顕 著 な もの にな った 。

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地 図1:徳 宏 州 及 び瑞 麗(勧 卯)の 位 置

中 国 ・ミ ャン マ ー 国 境 地 域 にお け る流 動 人 口 ・ネ ッ トワ ー ク ・ロ ー カル 権 力   79

(3)

地 図2:瑞 麗 市街 区 の概 略 図

80  中国の 「国境文化」の人類学的研 究

(4)

碗 町 、 瑞 麗 、 河 口 な ど、 国 境 地 域 に位 置 す る主 要 な 地 方 都 市 は 開 放 地 区 に指 定 され 、 沿 海 部 と同 等 の 経 済 的 な優 遇 措 置 や 政 策 を受 けるように な り、 「口岸 」(国 境 貿 易 拠 点)が 建 設 されて い く。 その 結 果 、 雲 南 省 の 国 境 地 域 で は、 開 放 的 な フロンティア空 間 へ の 質 的 転 換 がp  カル な 政 治 権 力 に とっ て も重 要 な 課 題 とな って い く。 多 くの 口 岸 で は、 国 境 に跨 った局 地 経 済 圏 や 経 済 合 作 区 の 建 設 が 推 進 され て い くことにな った の で あ る。

  本 報 告 は、タイ族 とジ ンポ ー 族 に よる連 合 自治 の形 式 に よって1956年 に成 立 した徳 宏 タイ族 ジンポ ー 族 自治 州 の 瑞 麗 地 区(県 、 後 に市 に改 称)を 対 象 に、 国 境 貿 易 や 経 済 開 発 を推 進 す るな か で 顕 著 な 現 象 とな って きた 、 国 境 を跨 い だ 入 口移 動 の 実 態 や 漢 族 移 民 の ネ ットワー ク、 定 住 によ る都 市 的 コ ミュニテ ィの 形 成 、 ロー カル 権 力 との 関 係 等 につ いて、 現 地 調 査 で 得 られ た知 見 や 資 料 を もとに、 初 歩 的 な整 理 を試 み るもので あ る。 こうした視 角 か らの考 察 は、 お そ らく外 来 の 移 民 集 団 とエ スニ ック集 団 との 交 錯 過 程 の 中か ら今 日生 成 しつ つ あ る異 種 混 交 的 な様 相 を一 つ の 属 性 とす る 「国 境 文 化 」 の あ りようを 明 らか にす る上 で 有 益 で あ ろう。 少 な くとも、 筆 者 が これ まで 現 地 調 査 を通 じて 関 わ って きた 雲 南 ・ミャンマ ー 国 境 地 域 の ロー カ ル社 会 で は、 個 別 村 落 を 対 象 とした ミクpレ ベ ル の 社 会 文 化 動 態

を解 明 してい く上 で 、 そ の前 提 作 業 として 不 可 欠 で あ る。

  以 上 の よ うな 問 題 関 心 か ら、 小 論 で は徳 宏 タイ族 ジ ンポ ー 族 自治 州(以 下 、 徳 宏 地 域 ・徳 宏 州 と す る)の 瑞 麗 で の 現 地 調 査 の 知 見 をも とに、 同 地 区 にお け る人 口動 態 、 漢 族 移 民 のネ ットワー ク、 都 市 へ の 定 住 化 や コ ミュニテ ィ形 成 、 ロー カル 権 力 との 関 係 な どに関 係 す る基 礎 資 料 の 整 理 を行 うもの と

した い。 勘 卯 盆 地(ム ン ・マ ー ウ)は 南 西 タイ諸 族 の 一 派 で あ るタイ ・マ ー ウ(Tai  Mao)の 主 要 拠 点 で あ り、動 卯 土 司 の 拠 点 で あ った。 早 くタイ 系 王 国(ム ン ・マ ー ウ)が 台 頭 し、雲 南 省 か ら ミャンマ ー ・ シャン州 にか けて 支 配 を広 げ た とされ 、 その 意 味 で 動 卯 とい う地 名 は 同 地 の タイ族 に とって特 別 な 意 味 を帯 びて い る。 中 国 側 とミャンマ ー側 に分 け られ る盆 地 空 間 は 、 彼 らの 伝 統 的 な 地 理 的 観 念 にお いて は 国 境 によって 境 界 づ け られ る近 代 的 な 国 家 空 間 とは 異 な っ た位 相 の なか にあ る。

ll フ ロ ン テ ィ ア と境 域 社 会 の動 態

1.土 司 社 会 の 形 成 と変 容

  徳 宏 地 域 は 雲 南 省 の 西 南 部 に位 置 し、 ミャンマ ー と国 境 を接 して い る。 歴 史 的 に は、 早 くか ら内 陸 交 易 ル ー トの 中 継 地 として、 多 様 な エス ニ ック集 団 が 交 錯 しあ う中 で、 ロー カル 社 会 が 形 成 され て きた 。 中 国 内 地 か ら移 住 して きた 漢 族 も相 当 数 居 住 して い るが 、 タイ族 や ジ ンポ ー 族 、 ア チ ャン族 、 リス族 、 ドァン族 な どが 土 着 の 集 団 で あっ た。 特 に、タイ族 は中 国 王 朝 の 土 司制 度 の もとで 土 着 の 政 体(ム ン) を形 成 し、 山 間 盆 地 を基 盤 とす る封 建 的 な政 治 体 制 を形 成 した(i}。

  徳 宏 地 域 に対 す る間 接 統 治 が 本 格 化 す るの は13世 紀 以 降 で あ り、 元 朝 による雲 南 行 省 の設 立 が 重 要 な 契 機 とな って い る。 元 朝 は   施 、 平 緬 、 麓 川 各 路 を 設 置 し、 南 旬 地 域(梁 河)に 軍 民 総 管 府 を 置 い たが 、 タイ族 の 首 長 に土 司 官 職 を与 え 、 中華 帝 国 の政 治 秩 序 の なか に組 み 込 ん だ 。 明 朝 もこの制 度 を踏 襲 し、た びた び 軍 事 制 圧 を試 み る一 方 、3宣 撫(南 旬 、干 崖 、朧 川)、2副 宣 撫(蓋 達 、遮 放 〉 2安 撫(動 卯 、芒 市)を 設 置 した 。 また 、辺 彊 防 備 のた め に八 関 九 隆 を設 置 し、屯 田 を各 地 に築 い た。

清 朝 は 明 代 の統 治 体 制 を継 承 した が 、 さらに2長 官 司(騰 撒 、 戸 撒)と 勘 板 土 千 総 を置 い た。 こうし た徳 宏 地 域 の10土 司 体 制 は民 国 期 に至 るまで 存 続 し、 ロ ー カル な権 力 政 治 の 中核 を形 成 した。 これ に 対 し、 中華 民 国 にな ると、 雲 南 省 政 府 は騰 越 道 を 騰 沖 に設 置(1914年)し 、 さらに各 地 に 弾 圧 委 員 会 を置 き、 農 業 生 産 、 開 墾 、 商 業 、 交 易 、 司 法 、 教 育 な どを扱 うようにな っ た。 この 統 治 機構 は行 政 委 員 会(1915年)に 改 め られ 、 雲 南 省 第 一 殖 邊 督 辮(・.年)を 経 て設 治 局(1934年)へ 変 更 され た。 その 後 、瀦 西(芒 市 、遮 放 、動 板)、 梁 河(南 旬)、 盈 江(干 崖)、 蓮 山(蓋 達)、 朧 川 、 瑞 麗(動 卯)か らな る6つ の 設 治 局 が 置 か れ た が 、 旧 来 の 土 司 統 治 と漢 族 地 域 に対 す る直 接 統 治 を 組 み合 わせ た政 治 権 力 を形 成 す るもので あ った[徳 宏 州 政 協 文 史 和 学 習 委 員 会(編)1997](2)。

中国 ・ミャンマー国境地 域における流動人口 ・ネ ッ トワー ク ・mカ ル権力 81

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2.漢 族 移 民 の 諸 相

  雲 南 省 は土 着 の エ スニ ック集 団 が 多 数 居 住 し、ローカル 社 会 が 形 成 され てい るが 、もう一 つ の側 面 は、

漢 族 移 民 の 波 状 的 な進 出 が 展 開 され た 「国 内植 民 地 」 で もあった。 中 国 内地 か らの 漢 族 移 民 は、ロ ー カル 社 会 の 複 合 的 な編 成 をもた らした の で ある。 明 代 以 降 、こうした地 域 の住 民 集 団 は 「軍 戸 」 「民 戸 」

土 戸 」 に 区分 され、 別 々に管 理 され た 。 管 理 体 制 は錯 綜 してい た の で あ る。 タイ系 土 司地 域 で は15 世 紀 に大 規 模 な 軍 事 遠 征(三 征 麓 川)が 展 開 し、 民 族 間 関 係 を大 きく変 容 させ た が 、 漢 族 移 民 の 流

入 が 屯 田 政 策 や 改 土 帰 流 政 策 の もとで 進 行 し、 入 植 地 域 は拡 大 の 一 途 を辿 った[方 鉄 ・方 慧1997]。

  徳 宏 地 域 へ の 漢 族 の 移 住 は商 業 ・交 易 の進 展 と深 く関 わて きたが 、 辺 彊 防 衛 の た め の軍 事 移 民 も 看 過 で きな い。 防 衛 上 の重 要 拠 点 に は軍 屯 が 置 か れ 、 中 国 内 地 か らの 漢 族 を 入 植 させ た。 彼 らは 防 衛 の任 務 を果 た す 一 方 で 、 土 地 の 開 墾 や 農 業 生 産 に従 事 し、 移 民 村 落 を形 成 した 。 こうした 移 民 村 落 は徳 宏 地 域 に分 布 して い るが 、 乾 隆 期(1711‑1799年)を 境 に増 加 した 。 彼 らは 「痒 属 」 か ら身 を守 るた め に、 タイ族 の 集 落 が 多 く分 布 す る海 抜 高 度 の 低 い盆 地 を避 け、 生 活 に適 した気 候 の 山地 や 丘 陵 地 に居 住 す る傾 向 が あ った[周 王京2007]。

  清 代 の 光 緒 期(1875‑1908年)に は 、 開 発 が 進 ん だ 騰 沖 とバ モ ー の 間 で 交 易 路 が 発 展 した。 その 沿 線 には漢 族 商 人 や 各 種 の 手 工 業 者 が 進 出 し、 しだ い に集 鎮(街 市)を 形 成 して 「漢 夷 雑 処 、 街 市 繁 盛 」 とい う状 況 を出 現 させ るに至 った[蒼 銘2004:47‑49]。 馬 の 隊 商(馬 蓄)の 往 来 で 繁 栄 した の は 、① ミッチ ー ナー 騰 沖 一 永 昌 、② ミッチ ー ナー バ モ ー(八 莫)一 盈 江 一 騰 沖 、とい う路 線 で あ った。

ミャンマ ー か ら騰 沖 に運 ば れ た商 品 は 多 種 多 様 だ が 、 その 中 で 輩 翠 交 易 は きわ めて 重 要 で あっ た。 輩 翠 の原 石 は 騰 沖 に 運 ば れ 、 そ こで 装 飾 品 な どに加 工 され たが 、 一 部 は大 理 、 昆 明 に運 ばれ た。 輩 翠 交 易 は漢 族 商 人 に 巨 額 の 富 をもた らした。 日中 戦 争 が 開 始 され る前 、 騰 沖 には 多 くの 輩 翠 商 人 が 集 ま り、 「百 宝 街 」 とも称 され るほ どで あ った(3)。

  交 易 ル ー トとタイ系 土 司地 域 の関 係 を見 て お こう。 盈 江 はタイ系 土 司 の 重 要 な拠 点 で あ り、 刀 安 仁 の 出 身 地 として 知 られ る。1894年 、イギ リス は盈 江 の芒 允 口岸 に領 事 館 と税 関 を創 設 した が 、1909年 、ミャ ンマ ー か らバ モ ー を経 て 盈 江 へ と至 る道 路 を整 備 した 。 交 易 者 の 往 来 は盛 ん にな った。 新 城 街(土 所 在 地)、 旧城 街 、 弄 璋 街 、 小 辛 街 、 姐 冒街 、 団 披 街 、 蓮 花 山 街(蓋 達 街)、 太 平 街 、 芒 允 街 な ど は当 時 、 漢 族 移 民 が 多 く居 住 した 拠 点 で ある[盈 江 県 志 編 纂 委 員 会(編)1997:562]。

  ミャンマー との 交 易 ル ー トの 整 備 で発 達 したの は章 鳳 で あ る。章 鳳 は 朧 川 土 司 の 統 治 地 域 で あった が 、 騰 沖 一 梁 河 一 朧 川 一 バ モ ー とい うル ー トの 重 要 拠 点 とな った 。1885年 、 イギリス人 が バ モ ー を占拠 して 以 後 、 章 鳳 か らバ モ ー に至 る中継 ル ー ト上 に は洋 人 街 が 形 成 され た。 ミャンマ ー 側 か らの 外 来 物 資 はか な らず 洋 人 街 か ら章 鳳 に入 って きた と言 わ れ るが 、 当 然 の ことなが ら、 同 地 で は 漢 族 商 人 の進 出 が み ら れ た[徳 宏 俸 族 景 頗 族 自治 州 商 業 局(編)1991]。

3.動 卯 土 司 の 状 況

  上 に見 て きた盈 江 や 章 鳳 で は清 代 末 期 か ら中 華 民 国 期 にか け て 交 易 ル ー トが 整 備 され 、 漢 族 の 商 人 や 移 住 者 の居 住 地 が 形 成 され て い た の に対 し、 動 卯 土 司 の 統 治 拠 点(写 真1)は どの ような 状 況 で あった の だ ろうか 。 動 卯 土 司 の 官 署 が あ った 勧 卯 街 、 ナ ムカ ム に 隣 接 した 弄 島 街 が 当 時 の 主 要 な集 鎮(街 市)で あった が 、 山地 を 除 き、 漢 族 移 民 の進 出 は ほ とん ど見 られ なか った。 同 地 区 にお いて 漢 族 の 移 住 は、 明 代 の 軍 事 制 圧(三 征 麓 川)以 後 で あ る。 軍 屯 を設 置 して 漢 族 の 兵 士 を駐 留 さ せ た とされ るが 、 しか し、 民 国 期 の 時 点 で の 漢 族 人 口 は 、 梁 河 や 盈 江 な どと比 べ ると、 多 くはな か っ た[長

川2010:54]。 その 数 は 千 人 ほ どで あ った とされ 、 総 人 写真1:旧 劫卯 鎮(老 城子)

82  中国の 「国境文化」の人類学的研究

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写 真2:瑞 麗 口岸

口の1%に も達 して お らず,1950年 代 に 「解 放 」を迎 え るまで 、漢 族 人 口 は多 くな か った 。1950年5月 瑞 麗 が 「解 放 」 され 、18代 続 い た動 卯 土 司 の 統 治 体 制 は 解 体 した。 動 卯 土 司 官 署 の 「老 城 子 」(動 卯 街)は 、 「解 放 」 を迎 えた 時 点 で は今 日あ るような 状 況 の 住 民 構 成 で はな か っ た。 ロ ー カル な 交 通 体 系 も他 の 土 司 地 区 に比 べ れ は未 整 備 で あ った[雲 南 省 瑞 麗 市 志 編 纂 委 員 会(編)1996:689]。

Ill国 境 を跨 い だ交 流 の 変遷

1.瑞 麗 地 区 の 多 民 族 構 成 と社 会 概 況

  1932年 、 雲 南 省 民 政 庁 は 中 国 領 の部 分 を 動 卯 か ら瑞 麗 に名 称 を改 め た 。 行 政 的 な 区 分 は 大 き く み れ ば 、 民 国 期 以 降 、 何 度 か の 変 更 が あ った 。2008年 度 の 時 点 の 行 政 区 域 は、 ①3区:瑞 麗 市 姐 告 辺 境 貿 易 区 、 瑞 麗 市 辺 境 経 済 合 作 区 、 碗 町 経 済 開 発 区 、 ②3鎮:動 卯 鎮 、 弄 島鎮 、 碗 町 鎮 、

③3郷:戸 育 郷 、 姐 相 郷 、 勘 秀 郷 、 ④29村 委 会 、 ⑤283村 民 小 組 、 とい う編 成 で あ る。 国 営 瑞 麗 国 営 農 場 実 業 集 団 総 公 司 の 管 轄 下 、 動 卯 、 賀 臆 、 弄 島 、 雷 允 、 雫 蘭 、 莫 里 に6っ の分 公 司 が あ る。 碗 町 経 済 開 発 区 は1999年5月1日 に成 立 し、 後 に瑞 麗 市 区 に編 入 され た 。2005年10月 に姐 勒 郷 を廃 止 し、 動 卯 鎮 に編 入 した(4)。

  瑞 麗 は ミャ ンマ ー との 国 境 地 域 に 位 置 し、 タイ族 、 ジ ンポ ー 族 、 ドア ン 族 、 リス族 、 アチ ャン族 、 漢 族 な どが 居 住 して い る。1980年 代 以 前 と比較 した 場 合 、 瑞 麗 江 沿 い に開 けた 平 地 部 に急 速 な 人 口 集 中 が 進 行 し た 点 が 顕 著 で あ るが 、 それ は後 述 す るように、1990年 か らミャンマ ー との 貿 易 拠 点 とな り国 家 級 の 国 境 貿 易都 市 (辺 境 口岸 城 市)と して 都 市 区 域 が 拡 大 され 、 大 規 模 な 都 市 建 設 が 進 め られて きた 結 果 で あ る(写 真2)。

  瑞 麗 の ロ ー カル都 市 としての 発 展 は、1985年2月 、 徳 宏 州 人 民 政 府 が 徳 宏 州 全 域 を国 境 貿 易 によって発 展 させ るとい う開 発 戦 略 を 打 ち 出 し、 州 レベ ル の 対 外 開 放 政 策 に積 極 的 に推 し進 め た ことが もた らした 。 この 政 策 転 換 に よって、 国 境 を跨 い だ 経 済 活 動 が 加 速 され 、 徳 宏 州 は中 国 全 土 で も有 数 の 貿 易 額 を誇 る都 市 へ と発 展 して い くの で あ る[畢 世 鴻2010]。

  貿 易 活 動 は、 国 境 貿 易 、 辺 境 小 額 貿 易 、 辺 民 互 市 の 3つ の タイ プ に 区 分 され るが 、 瑞 麗 は 国 務 院 の 批 准 を受 けたL類 口 岸 」 にランクを上 げ られ 、 それ にふ さわ しい 基 盤 整 備 と都 市 建 設 が 進 め られて い く。 その 象 徴 ともいえ る開 発 プ ロジェク トが 姐 告 貿 易 区 の建 設 で あ る。 この 点 につ いて は後 述 す る。 ミャンマ ー 政 府 は 中 国 側 にお ける姐 告 貿 易 区 の 都 市 整 備 の進 展 とあ わせ て、1998年3月 珠 宝 玉 石 」(斐 翠 な どの宝 石 類 を指 す。 以 下 「珠 宝 」 と表 記 す る)の 中 国 側 へ の 貿 易 拠 点 をムセ ー(木 姐)だ け に限 定 した。 これ は瑞 麗 の発 展 をさ らに促 す 結 果 とな った 。 「珠 宝 」 貿 易 の 従 事 者 を 瑞 麗 に集 結 させ た か らで あ る。 瑞 麗 市 政 府 は2000年 、 「東 方 珠 宝 城 」 とい う地 域 ブ ラン ド化 戦 略 を策 定 し、 「珠 宝 」 産 業 の 育 成 を地 域 経 済 の 中核 に位 置 づ け、 輩 翠 の 集 散 地 として の機 能 の整 備 と拡 充 を図 って い る[何 春 一・11.]。

  細 か な 検 討 は後 で 行 うとして、 人 口構 成 の 変 遷 を確 認 して お こう(表1参 照)。1980年 代 に入 り、

瑞 麗 にお け る住 民 構 成 の 状 況 は 流 動 人 口 が 加 わ ることに よって質 的 に も大 き く変 容 して い く。 そ れ は 国 境 貿 易 ブー ムに よって 引 き起 こされ た 外 来 移 民 の 流 入 現 象 で あ る。2007年 度 の 統 計 資 料 で は総 人 口 167046人 、 漢 族49104入 、 タイ族55779人 、 ジ ンポ ー 族13745入 、 ドアン族1788人 だ が 、 特 に 注 目 した い 点 は 漢 族 が 動 卯 鎮 に集 中 して い るとい う点 で あ る(表2参 照)。 後 述 す るように、 四 川 、 湖

中 国 ・ミ ャ ン マ ー 国 境 地 域 に お け る 流 動 人 口 ・ネ ッ トワー ク ・ロ ー カ ル 権 力   83

(7)

表1:瑞 麗 地 区 の民 族 別 人 口 の変 遷

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表2:瑞 麗 市 の 人 口構 成(2008年 度)

囲 團 圏 圃 圖 囲 圏

漢族 2406 4660 27027 30527 31797

タイ族 ..: 9228   ::. 35161 37005 55779

ジ ンポー族 8250 4368 .. 9764 10272 13745

ドア ン族 391 300 646 99 1039 ..

リス族 36 62 139 .: 378 904

アチ ヤン族 243

その他 779 1041 壌148 4516

漢族 タイ族 ジ ンポー族

ドアン族 リス族 ア チャン族

その他 38039 49065

・11・

457 2100

622 13

22 1745 14379 28

::

9669

:・

1880 31 4816

563 67 30

5494 10 4578

558 208

13

..

3990 714 404 35 37

総 人Q      28751    :.    62133  77711  81639  76975      (出 所)[徳 宏 州 史 志 弁 公 室(編)2009:145]に 基 づ き、 筆 者 が 作 成 。 姐 告 区 (出 所)瑞 麗 市 志 編 纂 委 員 会(編)1996:101、 中 共 瑞 麗 市 委 ・瑞 麗市 人 民 政      につ いて は・2005年 の人 口 統 計 で あ る[郭 家 朧2010:242]。

府2008:654に 基づ き、 筆 者 が作 成 。

南 、 河 南 、 広 東 、 漸 江 、 福 建 な ど全 国 各 省 か ら移 住 して きた 人 び とが 多 く居 住 し、 瑞 麗 を構 成 す る 主 要 な 移 民 集 団 とな って い る。 流 動 人 口 を め ぐる諸 問 題 の解 決 は ロ ー カル ・ガバ ナ ンス の あ り方 を左

右 す る政 策 課 題 で ある。

2.国 境 の 画 定

  国 境 線 の 存 在 は、 瑞 麗 を特 徴 づ ける重 要 な地 政 学 的 要 素 の 一 つ で あ る。 勘 卯 盆 地 は瑞 麗 江 によっ て南 岸 と北 岸 の 行 政 地 区 に分 か れ ると同 時 に、 平 野 部 に 中 国 とミャンマ ー の 国 境 線 が 引か れ 、 地 政 学 的 に複 雑 な形 勢 とな って い る。ミャンマ ー との 間 に は全 長 に して169.8kmの 国 境 線 が あ り、「界 碑 」(国 境 を示 す 碑)が 要 所 要 所 に立 て られ て い るが 、国 境 の存 在 を可 視 化 す る役 目を果 た して い る。 河 川(瑞 麗 江 、 ナム ワン河)が 国 境 とな って い る部 分 とそうで ない 部 分 に分 け られ る。 後 者 は瑞 麗 江 北 岸 の平 野 部(多 くは タイ族 の 聚 落 と水 田地 帯 で あ る)が 該 当す るが 、姐 告 地 区 だ けが 瑞 麗 江 の 南 岸 で 「飛 び 地 」 とな ってい る。

  申 国 と大 陸 部 の 東 南 アジ ア諸 国 とを 区 分 す る国 境 の 画 定 は 、 同 地 域 にお け る植 民 地 体 制 の成 立 と 直 接 的 な 関 係 が あ り、19世 紀 後 半 にイギ リス、 フランス と清 朝 との 外 交 交 渉 の 結 果 、 実 体 化 して きた もの で あ る。 ミャンマ ー に対 す るイギ リス の植 民 地 統 治(1885年)が 始 まると、 辺 彊 防 衛 や 少 数 民 族 地 域 の直 接 統 治 化 が 為 政 者 に とって 重 要 な政 治 課 題 に な った。 歴 史 上 、 中 国 とミャンマ ー の 間 には 、 王 朝 時 代 で は領 土 をめ ぐって 明 確 な境 界 が あった わ けで な い。 ミャンマ ー の 植 民 地 化 は、 それ まで 政 治 的 な 緩 衝 ゾー ンの 役 割 を果 た して きた タイ族 土 司 の 統 治 地 域 に、 国 境 画 定 を通 じて 国 家 空 間 へ の 帰 属 とい う問 題 を持 ち込 む ことにな った 。 徳 宏 地 域 か らミャンマ ー の シ ャン州 へ と広 が る多 民 族 的 な 地 理 的 ゾー ンに対 し、 当 時 の イギ リス人 は ミャンマ ー ・シ ャン州(Burmese  Shan States)と 中 国 ・シ ャ ン州(Chinese  Shan States)と い う地 域 区 分 上 の 見 取 り図 を 描 い て いた が 、 イギ リス と清 朝 との 問 で タイ族 土 司 地 域 は係 争 地 とな ってい く。 勧 卯(ム ンマー ウ)盆 地 もこうした係 争 地 の1っ で あ った。 す な わち、 動 卯 盆 地(ム ン ・マ ー ウ)の 中央 を流 れ る瑞 麗 江(シ ュエ リー 江)と 南 碗(ナ ムワ ン)河 の 合 流 す る一 帯 は歴 史 上 、 動 卯 土 司 に よって 管 轄 され て きた 。 しか し、 イギ リス はバ モ ー ・ナムカム(南 攻 〉 間 の 道 路 建 設 に着 手 し、同 地 区(「 動 卯 三 角 地 」と呼 ば れ る)の 永 代 借 地 権 を清 朝 側 に要 求 した 。 この 問 題 を め ぐる紛 糾 は、 イギ リス が ミャンマ ー か ら撤 退 し、 ミャンマ ー が 独 立 した後 も境 界 未 定 地 域 は 中 国 ・ミャンマ ー 両 国 の領 土 問 題 として 引 き継 が れ た。 周 恩 来 や ウー ・ヌらの両 国 首 脳 は会 談 を重 ね 、1961年7月 、 中 国 ・ミャンマ ー 間 で の 、 この 「動 卯 三 角 地 」 を含 む 、 すべ ての 国 境 画 定 を完 了 させ たの で ある。 動 卯 盆 地 に 関 して は、 勧 卯 三 角 地 の 領 有 権 を 中 国 側 が 放 棄 し、 ミャンマ ー へ 割 譲 す ることで 決 着 を みた[朱 昭 華2007、 長 谷 川2009a:138‑140]。

  国 家 間 の 国 境 画 定 とい う問 題 は 、 この 地 域 に あって ロー カ ル 社 会 を生 きる人 び とにも関 わ って くる。

往 来 の要 所 に は、 舟 着 き場 渡 口 」(舟 着 き場)や 通 道 」(陸 路 によ る流 通 ・往 来 の 拠 点)が 地 中 央 部 を蛇 行 す る瑞 麗 江 に面 して 、 あ るい は隣 接 しあ う村 落 問 にお いて 制 度 化 され ることにな るが 、

84  中国の 「国境文化」の人類学的研究

(8)

写 真3:瑞 麗 江 沿 い の舟 着 き場(金 炊 村 の 渡 口) 写 真4:中 国 ・ミ ャン マ ー間 の 通 道(姐 告)

交流拠点 (中国領 村落)   劫晃

表3  中 国 ・ミ ャン マ ー間 の 交 流 形態(瑞 麗 地 区)

1施設瑚 施設建訓 移動手段1所 在地1

渡口 不詳 河川(瑞 麗 江) 莫里農場

往来区間

屯洪 賀派 賀悶 棒蛙 允井 劫卯 広拉 弄臓 景次(金攻)

姐告 姐勒 芒胴 丙午 大等賀

賀吟 広拉 姐相 銀井 養撒 丙冒 弄双 広臓 南溝 雷允 芒漆 武旬 河辺街 南多渡 景湾

渡口 渡口 渡口 渡口 渡口 渡口 渡口 渡口 渡口 渡口 通道 通道 通道 通道 通道 通道 通道 通道 渡 口 渡 口 渡 口 渡 口 渡 口 渡 口 渡口 渡口 渡口 渡口 渡口

1979 1979 1980 1985 1970 不詳 1980 1980 不詳 1979 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 不詳 1975 1978 不詳 不詳 不詳 不詳

河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗 江) 河川(瑞麗江) 陸路 陸路 陸路 陸路 陸路 陸路 陸路 陸路 河川(瑞麗江) 河川(瑞麗江) 不詳 河川(南碗河) 河川(南碗河) 河川(南碗河) 河川(瑞麗江) 河川(南碗河) 河川(南碗河) 河川(南碗河) 河川(南碗河)

姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐告特区 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐相郷 姐相郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 戸育郷 戸育郷 劫秀郷 劫秀郷

(区 間)劫 晃 一 莫 里 (区 間)屯 洪 一 賀 双 (区間)賀 派 一 飛 洪 (区 間)賀 悶 一多 来 (区間)棒 蛙 一木 姐 (区 間)允 井 一 芒 令 (区間)碗瑞橋東岸一西岸 (区間)広 拉 一弄 莫 (区 間)弄 職 一弄 秋 (区間)姐 告渡 口 (区間)姐告橋両岸 不詳 (ミ ャンマー 側)賀 乱 通 道 (ミャン マー側)小 弄 門通 道 (ミャンマー側)弄 馬通 道 (ミャンマ ー側)大 掌通 道 (ミャンマー側)大 掌通 道 不詳 (ミ ャンマー 側)芒 秀 通 道 不詳 不詳 不詳 不詳 (区間)弄 島 一文徳 (区間)雷 允 一 締 林 (区間)姐 勒 一 芒 弄 (区 間)武 旬 一 董 崩 堀 (区 間)戸 育 一 芒 那 (区 間)南 多一 龍 崩 不詳 (出 所)雲 南 省 瑞 麗 市 志 編 纂 委 員 会(編)1996:281‑284、234、 郭 ・刀1993:97、 徳 宏1泰族 景 頗 族 自治 州 編 纂 委 員 会(編)1997:405、 徳 宏 俵 族 景 頗 族 自治 州 志 編 纂 委 員 会(編)1994:655‑672に づ き、筆 者 が 作 成 。 行 政 区 分 は1980年 代 後 半 を 基 準 とした。 村 落 の 位 置 にっ い ては 「瑞 麗 県地 図(瑞 麗 県 人 民 政 府 地 名 弁 公 室 ・雲 南 省 測 絵 局 作 成 、1986年 再 版)で 確 認 した 。な お、 景 攻 渡 口 は 姐告 大 橋 が 開通 後 、 使 用 停 止 。

それ は起 源 的 には 人 び との 中 国 ・ミャン マ ー 間 にお け る日常 的 な 往 来 活 動 が 生 み 出 した 生 活 空 間 の 地 理 的 な結 節 点 で あ る。 正 確 な数 は は っ き りしな い が 、 瑞 麗 江 、 南 碗 河 に 沿 っ て 分 布 す る渡 口、

通 道 は30ヶ 所 余 りで あ る(写 真3・ 写 真4)。 その 中で 比 較 的 大 き な渡 口 は姐 告 、 屯 洪 、 賀 悶 、 芒 漆 、 弄 双 、 河 辺 街 な どで あ る(表3参 照)。 中 国 ・ミャ ンマ ー 国 境 地 域 に お け る地 域 住 民 の 日 常 的 な往 来 や 物 資 交 換 な どが 行 わ れ る 際 の 拠 点 で あ った 。 か つ て は竹 の 筏 で 河 を横 切 った が 、 後 に1、2ト ンの 木 造 舟 に変 わ り、1980年 代 に は エ ン ジ ン付 きの小 舟 にな っ た[雲 南 省 瑞 麗 市 志 編 纂 委 員 会(編)1996:281]。

3.国 境 管 理 の 変 遷

  伝 統 的 に動 卯 盆 地 は 国 境 に よって 二 つ の 国 家 空 間 に 区 分 され た 存 在 で は な か っ た こともあ り、 国 境 をは さん だ 住 民 の往 来 は 日常 的 に 頻 繁 に行 わ れ て きた 。 中 華 人 民 共 和 国 が 成 立 した 後 もこの 点 に それ ほ ど明 確 な 断 絶 が 生 じるこ とはな く、1950年 初 期 か ら1966年 ま で、 辺 民 互 市 と国 営 の 外 貿 公 司 が 経 営 す る 小 額 貿 易 が 行 わ れ て きた。 これ に 対 し、

文 化 大 革 命 の 開 始 か ら1979年 まで の 期 間 は 、 国 境 間 の 交 流 に 大 き な 制 限 が 加 え られ 、 閉 鎖 に近 い 状 況 で あ った。

とは い え、 地 域 住 民 によ る 日常 的 な 辺

中 国 ・ミ ャ ン マ ー 国境 地 域 に お け る流 動 人 口 ・ネ ッ トワ ー ク ・ロー カ ル 権 力   85

(9)

民 互 市 だ け は 制 約 が あ るな かで も続 け られ た 。 こう した 状 況 に大 きな 転 換 が 起 きた の は第11期 三 中全 会 の 開 催(1978年12月)以 後 で あ る。 辺 民 互 市 、 小 額 貿 易 、 国 境 貿 易 の い ず れ もが 再 開 され 、 活 況

を呈 す るに至 るの で あ る。 表4と 表5は1979年 らの1988年 まで の 徳 宏 州 に お ける辺 民 互 市 、 小 額 貿 易 の 取 引 額 の 変 遷 を 示 して い るが 、1884年 か ら

急 速 に伸 びて い る ことが 確 認 で きよう。 こうした貿 易 額 の 急 速 な 拡 大 は 国 境 を跨 いだ 人 的 交 流 の拡 大 を 意 味 して い る。

  以 下 で は、 関 連 資 料 に よって その 前 後 の 状 況 も含 め、 この 問 題 につ いて検 討 して みた い(5)。1958年3 月、私 営 の小 額 貿 易 は停 止 とな った。 それ は大 躍 進 、

表4:徳 宏州辺民互市 の変遷

・ 曙          LP        覆;̀≡    ≡ ■.1.a:

1980年 .;年 1982年 1983年

.;.年

1985年

・:.年 1987年

・::年

2700 3760 2086 3272 5038 22000 25000 30000 40000

135Q 1880 1043 1636 2519 iiaaa i25aa 15000 2aooa

1350 1880 1043 1636 2519

≫aaa i250a 15000 20000 (出所)郡 承 文1993:18

表5:徳 宏州における少額貿易の    変遷      単位:万 元

・'≡       糟      ≡繧       L:

1979年 1980年 .;年 1982年 1983年

.;.

1985年

・:.年 1987年

.;;.

61.5 1125 1450 831.9 1191.7 1766 5990.1 9570

:..:

42666 280 1450 2874 1315.7

1143.噛

2022

..;  .

7649 20992 25926

341.5 2581 4324 2147.6 2334.8

  ::

10972 17239 39660 78592 (出 所)郡 承 文1993:17‑18

合 作 化 の影 響 で あった 。 商 業 従 事 者 は減 少 したが 、1958年 、 社 会 主 義 改 造 以 前 に勘 卯 街 で 商 売 をし て いた の は24戸 で ある。彼 らは国 営 に加 わ るか 、合 作 小 組 を形 成 す るか の 選 択 を した。その後 、中 国 ・ミャ ンマ ー 両 国 間 で は 「辺 民 」(国 境 地 域 の 土 着 住 民)同 士 の 出入 国 の 手 続 きを簡 略 化 した。 この 時 期 の 状 況 を示 す 以 下 の 資 料 が あ る。 す なわ ち、1961年10月 下 旬 に3つ の 市 場 街(街 子)で 調 査 結 果 で あ る。

それ によれ ば 、10月25日 には2820人 、11月4日 には2300人 、11月9日 に は1850人 が 集 まった とい う。

その 内訳 をみ ると国 内 の諸 民 族1878人 、 国 外 の辺 民445人 で あ った が 、 民 族 的 には タイ族1120人 ジ ンポー 族320人 、 小 売 商 人(小 商 販)328人 で あった 。 小 売 商 人 の 内訳 は国 内156人 、 国 外172 人 で あった 。 また 、自分 で生 産 した産 晶 を売 りに来 た農 民 は382人 で あ る。 国 内 の農 民 が363人(95%) を 占めた。 別 な 状 況 を示 す1961年 末 の 税 務 所 の 統 計 資 料 によると、納 税 者 は50戸 で あった 。 内訳 は、

国 営14戸(工 業 と商 業)、 集 体8戸(主 に手 工 業)、 個 人 経 営 者29戸 で あった。

  以 上 の 資 料 か ら社 会 主 義 化 の もとで も1960年 代 初 期 に は 国 境 を跨 いだ 貿 易 活 動 が 存 続 して いた こ とが 明 らか で あ るが 、 同 時 期 にお け る1960年 代 の 国 境 地 域 の 渡 口 を経 由 した貿 易 活 動 に関 す る資 料 も見 て お こう。 それ は1961年10月31日 の 状 況 を示 し、 棒 蛙 、 頓 洪 、 賀 門 の3地 点 の 渡 口 を経 由

した貿 易 晶 に関 す る資 料 で あ る。 当 日、ミャンマ ー 側 の ムセ ー で 市 が 立 ったが 、出 境 者 は454人 で あ っ た 。 そ して、 この3ヶ 所 の 渡 口 を通 過 した 貿 易 品 は総 額1608元 、18種 類 の 物 資 が 中 国 側 か ら運 ば れ た 。その 大 半 は副 食 品 で あ り、全 体 の63.8%を 占 めた。 その うち農 産 物 が32.7%で あった 。また、ミャ

ンマ ー 側 か ら運 ぼ れ た 物 資 は総 額3615元 、97種 類 で あっ た。 日用 の 工 業 製 品 が 多 く、40.8%を め た。 そ の他 で は 副 食 品類22.6%、 農 産 物20%、 刻 み タバ コと雑 貨11.5%で あ る。 また、 手 工 業 品

には トタン、 漏 斗 、 石 油 ランズ 水 瓶 、 飯 盒 な どの1.1%、 その 他4%で ある。

  1962年6月 、県 政 府 はムセ ー 、ナムカム鎮 区 の 役 入 を瑞 麗 側 に 招 い て この 点 につ いて協 議 を行 った 。 その結 果 、屯 洪 、芒 漆 、登 撒 の3ヶ 所 の 渡 口を 除 いて 、銀 井 、棒 蛙 を単 独 運 営 とした 。1963年 以 後 、 ミャンマ ー 側 の 市 場 で は 商 品 が 不 足 し、 瑞 麗 側 にや って くるミャンマ ー 側 の辺 民 が 増 加 した。 しか し当 時 は中 国 側 で も物 資 は多 くな か った の で、 多 くの 商 品 は 計 画 的 に配 分 した とい う。1963年 、 小 額 貿易 を専 門 に扱 う利 民 商 号 が 成 立 した 。 しか し、1965年 には 国 営 の小 額 貿 易 が 停 止 とな った 。

  これ に 対 し、 辺 民 互 市 にっ いて は、 制 限 され た範 囲 内 で 参 加 で きた が 、 辺 民 互 市 の 範 囲 に 関 す る 規 定 が 作 られ た 。 徳 宏 州 政 府 は、 国 境 線20㎞ 以 内の 鞭 にあ る10地 点 の市 場(集 市)を 互 市 に 指 定 したの で あ る。 その対 象 とな った 互 市 に は 、腕 町 、混 板 、姐 勒 、姐 相 、弄 島 、動 卯 、章 鳳 、拉 線 、 昔 馬 、璽 独(洞 壁 関)が あ るが 、瑞 麗 に関 して は4地 点(姐 勒 、姐 相 、弄 島 、動 卯)で あ る。1968年 辺 民 互 市 は 閉 鎖 され た。 しか し、 民 間 の 私 的 な 貿 易 は禁 止 で きなか った 。1968年12月 、 雲 南 省 軍 管 会 、 昆 明 軍 区 は 口 岸 検 査 の 関 連 規 定 を決 め た。 また 、 ミャンマ ー 華 僑 の 入 境 に 対 す る管 理 条 項 を 制 定 し、 ミャンマ ー 側 の地 域 住 民 が 親 戚 の訪 問 、 市 場 で の 取 引(互 市)、 医 療 な どの 目的 の た めに 入 境 す る場 合 、 慣 例 に した が って 便 宜 を図 るとした 。

86  中国のr国 境文化」の人類学的研究

(10)

  1971年 、 辺 民 互 市 は 復 活 した 。 中 国 側 の 辺 民 に対 して ミャンマ ー 側 にお け る物 資 購 入 を制 限 した が 、他 方 、 国 外 か らの 辺 民 は増 加 の 一 途 をた どった 。 国 外 の 辺 民 は 糧 米 、豆 類 、油 脂 、 油 料 、 肉類 、 そ の他 の 副 食 品 を持 参 して 販 売 した が 、 それ らの価 格 は中 国 側 の 互 市 より安 か った 。1974年 、 雲 南 省 革 命 委 員 会 は辺 民 互 市 にっ いて の 規 定 を作 った 。 それ は 、 互 市 を 国 境 線20㎞ 以 内 の 範 囲 とし、

貿 易 活 動 が 許 され る人 び とをこの範 囲 内 に居 住 して い る者 に制 限 し、 国 家 幹 部 や 職 工 は互 市 に参 加 で きな い とす るもの で あ る。 互 市 市 場 の物 資 も辺 民 が 自分 た ちで 生 産 した もの に限 り、 工 業 製 品 の 持 ち 込 み や 持 ち 出 しを禁 止 した。 互 市 で の販 売 は1人 当 た り5元 を超 えな い範 囲 とした。 人 民 元 が 国 外 に 流 出 す るの を避 けるため で あ った 。 しか し、 国 境 線 は 出 入 りが 容 易 で あ り、 その 管 理 は難 しか った 。   1978年 、 瑞 麗 県 政 府 は小 額 貿 易 を専 門 に扱 う利 民 商 号 を再 開 し、 辺 民 互 市 も1人 当 た り5元 か ら20元 に 引 き上 げ た。 民 貿 公 司 門 市 部 が 緩 和 策 を出 した こともあ り、 国 内 外 か らの 商 人 は 増 加 した。

1985年 、 州 人 民 政 府 は辺 民 互 市 の 限 度 額 を1人 当 た り20元 か ら100元 に引 き上 げ た。 国 営 、 集 体 の 単 位 は 小 額 貿 易 を専 門 に 扱 う商 号 として の 認 可 を受 け、 納 税 戸 が678戸 に 増 加 した 。 内 訳 は 国 営57戸 、 集 体23戸 、 個 体598戸 で あ る。 国 営 、 集 体 の 納 税 戸 の うち、 小 額 貿 易 を扱 う商 号 は20 戸 ほ どで あった[徳 宏 俸 族 景 頗 族 自治 州 商 業 局(編)1991:106‑110]。

4.貿 易 空 間 の 制 度 化

  中 国 ・ミャンマ ー 間 で 未 解 決 状 態 で あった 地 点 の 国 境 画 定 が 完 了 し、 両 国 政 府 の 合 意 が 成 立 した 1961年 以 降 、 中 国 とミャンマ ー との 問 の 国 境 紛 争 は解 決 され て い る。 これ 以 後 、 国 境 に 跨 って生 活 圏 を構 成 す る瑞 麗 江 地 区 とミャンマ ー 側 の 村 落 住 民 は 、 日常 生 活 用 品 や 食 料 晶 な どの 取 引 を行 うこと を認 め られ た が 、 計 画 経 済 を軸 とした農 村 経 済 にお いて、 村 落 住 民 の 問 で 交 換 され る物 資 はきわ めて 限 定 され た 内 容 で あ った。 だ が 、1979年 以 降 こうした 状 況 に変 化 が 生 じ、 しだ い に 中 国 とミャンマ ー 間 の 交 流 は活 発 化 して い くことにな った 。1978年3月 、 雲 南 省 人 民 政 府 は 国 境 を 管 理 す る瑞 麗 辺 境 工 作 姑 を設 置 した が 、それ は 国 境 管 理 事 務 を扱 う部 署(証 検 科)と 金 攻 、屯 洪 、賀 悶 、賀 派 、流 動 、 群 工 か らな る組 織 で あっ た。 翌 年4月 、 この 組 織 は瑞 麗 辺 防 検 査 姑 に 改 め られ た 。1980年4月 、 こ の 瑞 麗 辺 防 検 査 靖 は 「関 於 加 強 対 出 入 国 境 通 道 口岸 的 管 理 弁 法Jを 制 定 し、 以 下 の地 点 を 正 式 な 通 道 、 渡 口 とした 。 す なわ ち、 ① 銀 井 一 芒 秀 通 道 、 ② 芒 臆 一 賀 乱 通 道 、 ③ 丙 午 一 小 弄 門 通 道 、 ④ 大 等 賀 一 弄 馬 通 道 、 ⑤ 賀 恰 一 大 掌 通 道 、 ⑥ 広 拉 一 弄 莫 渡 口、 ⑦ 弄 城 一 弄 央 渡 口、 ⑧ 金 攻 一 姐 告 渡 口 、 ⑨ 屯 洪 一 賀 双 渡 口、 ⑩ 賀 派 一 非 紅 渡 口 、 ⑪ 賀 悶 一 多 来 渡 ロ、 ⑫ 棒 蛙 渡 口、 ⑬ 引井 渡 口、 で あ る。 同 年10月 、 辺 民 互 市 の 制 限 額 が5元 か ら20元 に緩 和 され た 。1985年3月 、 出 境 手 続 きが 簡 略 化 され 、 同年7月 に は徳 宏 州 の全 域 が 開 放 とな って、 辺 民 互 市 の制 限 額 が100元 に 引 き上 げ ら れ 、 国 内 外 の工 業 製 品 を辺 民 互 市 で 売 買 す ることも許 可 され た 。 こうした 国 境 管 理 の 制 度 化 とともに、

中 国 とミャンマ ー 間 の交 流 は 活 性 化 して い くの で ある(6)。

iv  漢 族 移 民 と帰 国華 僑 、 流 動 人 口の 諸 相

1.国 営 農 場 と漢 族 移 民

  瑞 麗 で は 、 漢 族 移 民 は どの ような 経 緯 をた どって 入 って きた か を確 認 して お こう。 移 民 が 入 植 して き た 最 初 の 重 要 な 契 機 は、1950年 代 か ら60年 代 に お け る国 営 農 場 の 建 設 で あ る。 瑞 麗 に お いて 国 営 農 場 の 建 設 は1956年 に始 ま った。 同年2月 、 瑞 麗 に最 初 の 国 営 農 場 を設 置 したが 、59年5月 に は 弄 島 農 場 、 次 蘭 農 場 も創 設 され た。 その 後 、1960年 に瑞 麗 農 墾 局 が 設 置 され 、1963年1月 には 国 営 農 場 瑞 麗 総 場 へ と変 更 した 。1970年4月 、 雲 南 生 産 建 設 兵 団 第11団 を組 織 し、1980年10月

国 営 瑞 麗 農 場 農 工 商 聯 合 企 業 公 司 に改 めた 。 表6は 、 瑞 麗 に お ける国 営 農 場 の 成 立 年 代 を示 して い る。 多 くの 分 場 が あ り、 ほ とん どは 山 地 地 区 に設 置 され た ことが 確 認 で きる。

  この 時 期 の 漢 族 移 民 は 以 下 の ように 区 分 で きる。 す な わ ち、 ① 中 国 人 民 解 放 軍 の転 業 、 退 役 兵 士

中国 ・ミャンマー国境地域における流動人 口 ・ネ ッ トワーク ・mカ ル罐力 87

(11)

表6  瑞麗農場の分布地点

農場直属二隊 農場薩属三隊 勧卯分場一隊 1963

  ニ 隊 1960

〃  三隊 ≦960

〃  四隊 喋960

〃  五隊 1965   六 隊 1966   m 1966

〃  八隊 1970

〃  九隊 1960 攻蘭分場一隊 1959

〃  二隊 1959

〃  三隊 1959   四 隊 1960

〃  五隊 1959

〃  六隊 1977   七 隊 1970

〃  八隊 ・.:

〃  九隊 1970

賀臆分場一隊 1960

〃  二隊 1960   三隊 1960   四隊 1963

〃  五隊 1963

〃  六隊 1963

〃  七隊 蓬960

〃  八 隊 1961

〃  九隊 1960   十 隊 ・.:

ノ 十 一 隊 .;

115 134 54 211 204 164 190 136 95 56 141 108 145 240 113 134 123 171 83 141 250 149 187 105 154 95 120 105 130 101 55

不萌 覇区 山披 丘陵地 山披 小丘包 山丘 山披 平台 山披 不明 鰯区 煽区 煽区 覇区 覇区 覇区 不明 煽区 覇区 煽区 覇区 鰯区 f区 覇 区

山披 山岐 f区

f区 鰯区 半山竣

劫卯鎮 動卵鎮 勧秀郷 勘秀郷 と姐勒郷の境 動秀郷 劫卯鎮 動秀郷 劫秀郷 姐勒郷 戸育郷 勘秀郷 と姐勒郷の境 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 娠勒郷 姐勒郷 娼勒郷 勧秀郷 姐勒郷 姐勒郷 姐相郷 戸育郷 姐相郷 戸育郷 姐相郷 姐相郷 戸育郷

弄島分場一隊

〃  二隊

〃  三隊

〃  四隊

〃  五隊

〃  六隊

〃  九隊

〃  八隊

〃  九隊

〃  十隊

〃 十 一 隊

〃 十二隊

〃 十三隊

〃 十四隊

〃 十五隊 雷允分場一隊

〃  二隊

〃  三隊

〃  四隊

〃  五隊

〃  六隊

〃  七隊

〃  八隊 莫里分場m

〃  二隊

〃  三隊

〃  四隊 1960 1959 1960 1959 1960 1971 1960 1960

・.:

1964 1960 1960 1971 1971

・.:

1966 1971 1971 1969 1970 1971 1971 1971 1971 1971 1972 1977

:・

26◎

205 130 193 147 209 326 132 134 97 175 97 110 98 栂4 86 174 205

35 96 212 63 254 145 193 136

平台 覇区 丘陵台地 覇 区 山注 山披 山披 山披 山披 山披 平煽 平鰯 山披 山披 山凹 平煽 山城 山披 山披 平覇 m 平煽 山披 莫里山脚 山脚 m 小山丘

弄島郷 姐相郷 戸育郷 姐相郷 戸育郷 戸育郷 弄島郷 戸育郷 戸育郷 戸育郷 姐相郷 姐相郷 戸育郷 戸育郷 戸育郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 弄島郷 戸育郷 弄島郷 弄島郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐勒郷 姐相郷

姐相郷

(出所)徳 宏 僚 族 漿 頗 族 自治 州 志 編 纂 委員 会(編)1994:672‑675に 基 づ き、 筆 者 作成 。 立 地 状 況 の分 類 は原 資 料 にあ る説 明 をそ のま ま用 いた 。 姐相郷

戸育郷

出 身 者 、 ② 「開 発 辺 彊 、 保 衛 辺 彊 」 の掛 け 声 に応 じてや って きた湖 南 、 保 山、 施 旬 、 昌寧 、 龍 陵 、 騰 沖 な どの 青 年 、 ③ 北 京 、 上 海 、 成 都 、 昆 明 な どの 都 市 部 出 身 の 知 識 青 年 、 ④ 国 営 農 場 の職 工 の 子 女 、 で あ る。 国 営 農 場 は6っ の 分 場(莫 里 、 攻 蘭 、 賀 臆 、 弄 島 、 動 卯 、 雷 允)と84の 生 産 隊 か らな って い たE雲 南 省 瑞 麗 市 志 編 纂 委 員 会(編)1996:364](7)。

  別 な 資 料 に よれ ぼ 、1956年 か ら1978年 まで の 期 間 に、 北 京 、 上 海 、 成 都 、 昆 明 な どの 都 市 部 か ら徳 宏 の 各 地 に送 り込 まれ た 下 放 青 年 は3◎702人 で あ る。 その うち、16◎00人 が 農 業 生 産 隊 に 、14702人 が 農 場 に送 られ た。1956年 か ら翌 年4月 まで に693人 が 昆 明 か ら徳 宏 に派 遣 され た 。

1956年 の 時 点 で の462人 の 配 属 先 は 、 蓮 山98人 、 盈 江98人 、 朧 川89人 、 遮 放97人 、 芒 市 79人 で あ る。 さ らに、187人 の 配 属 先 として 盈 江29人 、 朧 川78人 、 芒 市80人 が 軍 墾 農 場 に送 ら れ た。1957年 、 瑞 麗 地 区 の遮 相 墾 殖 場 にも配 属 され た。1965年12月 、 四 川 省 成 都 市 か ら支 辺 青 年227人 が 各 地 に派 遣 され た 。1968年 、 北 京 、 上 海 、 成 都 、 昆 明 か らの13782人 が 各 地 の 農 場 に配 属 され た。 翌 年 、 北 京 か らの1450人 。 昆 明 か らの2275人 が 各 地 の農 村 に送 られ 、1971年 は成 都 か ら91a2人 が 送 り込 まれ た[中 共 雲 南 省 委 党 史 研 究 室(編)2011:120]。

2.帰 国 華 僑

  帰 国 華 僑 と存 在 に も着 目して おか ね ば な らな い 。1953年 、49人 の帰 国 華 僑 が あ ったが 、 翌 年 に は

88  申国の ギ国境文化」の 人類学 的硯 究

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