中国の「国境文化」の人類学的研究
著者 塚田 誠之
発行年 2013‑03‑31
その他のタイトル The Culture of Ethnic Groups in Border Areas of China
URL http://hdl.handle.net/10502/5668
現 代 中 国 にお ける少年 の洗 脳方法
絵本小児書が描 く辺境新彊の歴史と文化
楊 海 英(綱 大学)
i は じめ に 小 児 書 とは何 か
日本 の 子 供 たち は漫 画 を読 んで 育 っ の に対 し、中 国 の 子 供 たち は小 児 書(シ ョー アル シュ)に 親 しむ。
小 児 書 は また 連 環 画 ともい う。 多 少 の 違 い は あ って も、 だ いた い は幅IOcm、 長 さ14、15cm前 後 の もの が 多 い。 小 児 書 は子 供 に とって 、 貴 重 な 財 産 とな る。 子 供 た ちは小 児 書 か らさまざ まな知pを 吸 収 して、 その 人 生 観 が 形 成 され て い く。
小 児 書 の ジ ャンル は 歴 史 の 故 事 か ら革 命 の物 語 、 外 国 の 有 名 な文 学 作 品 や 科 学 知 識 の 普 及 を意 図 した もの な ど、 多 岐 にわ た る。 な かで も特 に歴 史 故 事 や その ときどきの 国 内 国 際 情 勢 を反 映 した もの が 、 人 気 で ある。
個 人 的 な 経 験 で 恐 縮 で あ るが 、内 モ ン ゴル 自治 区 生 まれ の 私 も子 供 の ころは無 類 の小 児 書 狂 い だ っ た。 文 化 大 革 命(1966‑1976)期 問 中 だ っ たた め に、 「偉 大 な 中 国 共 産 党 」 を 宣 伝 す るご く少 数 の 革 命 故 事 の ほ か に、 ソ連 の 文 芸 作 品 しか なか った 。 『三 国 志 演 義 』 や 『水 濡 伝 』 な ど、 評 判 の 歴 史 物 語 はす べ て 「封 建 社 会 の 毒 草 」 とされ 、 入 手 と閲 覧 が 固 く禁 止 されて い た 。 それ で も、1950年 代 に 出 版 され た60巻 本 の 『三 国 志 演 義 』 は人 気 が 高 く、 民 間 には 政 府 の 禁 止 令 を無 視 して 秘 匿 す る者 もい た 。 私 はそれ を読 み た くて何 回 も馬 を 飛 ば して 数 十 キ ロもの 草 原 の 道 を走 って行 って は貸 出 を頼 み こん だ ことが あ る。 子 供 にr封 建 社 会 の毒 草 」 を貸 した ことで 「反 革 命 分 子Jに され る危 険 性 もあ る 状 況 の 下 で 、 小 児 書 を 私 に 密 か に読 ませ て くれ た 人 たちの 御 蔭 で 、 私 は 中 国 の 古 典 に関 す る知 識 を少 しず つ 増 や して い った 。
文 化 大 革 命 が 終 わ った後 、 小 児 書 の 多 様 性 は 少 しず っ 部 分 的 に復 活 した。 古 典 の 復 刻 が 認 め られ るようにな り、 近 年 で はむ しろ 「中 華 民 族 の 優 秀 な伝 統 」 だ と評 して 、 青 少 年 に対 す る 「愛 国 主 義 教 育 の 素 材 」 として 利 用 され るようにな った 。 また、 革 命 故 事 の な か で も、 特 に 「抗 日もの 」 は以 前 にも ま して 共 産 党 政 権 の 正 統 性 と 「侵 略 者 の 日本 」 批 判 の キャンペ ー ンに 活 用 され るようにな った 。 小 児 書 は い わ ぼ 、 「人 間 の 愛 国 主 義 的 な 政 治 教 育 は幼 少 期 か ら」(愛 国 主 義 的 政 治 教 育 従 娃 娃 瓠 起)と い う洗 脳 政 策 の 道 具 に利 用 され るように変 わ って きた ので あ る。 日本 の 少 年 漫 画 に政 治 色 が 希 薄 で あ るの に比 べ て、 現 代 中 国 の小 児 書 は強 烈 な政 治 的 な イデ オ ロギ ー を有 して い るの が 、 特 徴 的 で あ る。
この 小 文 は洗 脳 教 育 の 道 具 に 変 質 した 中 国 の 小 児 書 が もつ 政 治 性 に注 目 して、 そ の 具 体 的 な 内 容 の 一 環 を 紹 介 したい 。 材 料 として は 、西 部 の 国 境 地 域 の新 彊 ウイグル 自治 区 を描 いた 「新 彊 歴 史 画 叢 」 を 取 り上 げた い。60冊 の 小 児 書 か らな るこの シ リー ズ は新 彊 人 民 出 版 社 か ら2006年5月 か ら2008 年9月 にか けて 、 継 続 的 に国 営 新 彊 人 民 出 版 社 か ら刊 行 され た もの で ある。 大 きさはす べ て13.5cm
×lO.Ocmで ある。 なお、 絵本 の文 章 の執 筆 者 は中国 人 すなわち漢 人 が圧 倒 的 に多 く、 モンゴル人 と ウイグル 人 と思 わ しき人 物 が それ ぞれ 一 人 ず つ い る。
同 シ リーズ は強 い 政 治 的 な 目 的 を もって 刊 行 され た こ とを全 絵 本 の 巻 頭 に あ る 「出 版 の説 明 」 が 示 して い る。 それ は 以 下 の 文 で あ る。
新 彊歴 史 画叢(と いう小 児書 シリーズ)は 、 新彊 ウイグル 自治 区社会 科学 界 聯合 会 が編 集 し、
現代中国におけ る少年 の洗脳 方法 9
新 彊 の歴 史 を正 しく宣伝 する主 旨で刊 行 する、大 型 の社会 科 学 の一般 向けの書 物 である。 叢 書 は企 画 か ら編集 、 そして出版 に至 るまで、 自治 区 党委 員会の指 導 者たちによる指導 と指 示 を受 け た。 新彊 社 会 科学 院 と自治 区共 産 党 史研 究 室 をはじめ、 自治 区精 神 文 明建 設 指導 委 員会 事 務 室 と新 彊 人民 出版社 、 多 くの専 門 家たちの力で出版 した もので ある。
この ように、 同 シ リーズ はた だ 単 に児 童 や 少 年 に 向 け た娯 楽 用 の 絵 本 で は ない ことが 明 らかで あ る。
共 産 党 政 府 が 肝 煎 りで 宣 伝 して い る 「新 彊 は古 くか ら我 が 国 の 固 有 の領 土 」 で 、 ウイグル 人 な どの 民 族 も 「我 が 国 の 多 民 族 の 大 家 庭 の 一 員 」 だ とい う政 治 的 な理 念 を少 年 たち の 頭 に 叩 き こむた め で あ る。 つ ま り、共 産 党 の 洗 脳 用 の イデ オ ロギ ー 的 な道 具 で ある。 この ような絵 本 を読 ん で 育 つ 少 年 たち は、
中 国 の 「愛 国 主 義 者 」 にな って い くことが 期 待 されて い るので ある。
い うまで もな く、 同 シ リーズ が 出 版 され た 背 景 に は 、 「我 が 国 の 固 有 の 領 土 」 に住 む 「幸 せ な 多 民 族 の 大 家 庭 」 の成 員 た ちによる不 満 と抵 抗 が あ る。 新 彊 ウイグル 自治 区 で は1989年5月 にイス ラー ム 教 徒 た ち に よる大 規 模 な抗 議 集 会 が 首 府 ウル ムチで 開 か れ た ことが あ る。 ム ス リムた ちの 風 俗 習 慣 が 尊 重 されて い な か った ことへ の 意 思 表 示 で ある(堀1995:203‑204,535)。1990年4月 には キズ ル ス ・ キル ギ ス 自治 州 で 「東 トル キス タ ン共 和 国 」 の 建 国 を求 め る 「聖 戦 を 目的 とした テ ロ組 織 」 が 摘 発 さ れ た(楠 木1995:925)。2008年 にな ると、ウルムチ や カシ ュガ ル な ど各 地 で 「テ ロ行 為 」 が 報 告 され 、 つ い に翌2009年7月5日 に 「ウル ムチ 暴 動 」 が 発 生 した 。 同 シ リーズ は こうした環 境 の な かで 、 大 急 ぎ で 世 に送 り出 され た もので あ る。 い わ ぼ 、 少 年 た ちを洗 脳 して 、 緊 張 感 が 続 く 「愛 国 の 前 線 」 に予 備 軍 として 送 り出 そ うとい う国 家 任 務 を帯 び た 絵 本 で あ る。
私 は60冊 か らな る新 彊 画 叢 を大 き く三 つ の 部 分 に分 けた 。第 一 部 分 は神 話 の 古 代 か らティムー ル 朝 (中 国 で は明 朝)に 至 る。 っ つ い ての 部 分 は 中 国 とは ほ ぼ無 関 係 の モ ン ゴル の ジ ュンガ ル ・ハ ー ン国 時 代 か ら清 朝 末 期 まで の 時 期 で あ る。 そ して、 中 華 民 国 や 中 華 人 民 共 和 国 が 如 何 に ソ連 と拮 抗 して 諸 民 族 を中 国 領 内 に組 み こん だ か の 時 代 で あ る。 以 下 で は 各 巻 の 内 容 を簡 単 に紹 介 し、 その 性 質 を 示 して お く。 た だ 、描 か れ てい る内 容 が 「事 実 」か どうか を検 証 す る迷 宮 入 りの 作 業 は基 本 的 に しな い。
ll描 か れ た 「古 くか らの我 が 国の 領 土 」:新 彊
2.1西 域 諸 国 時 代 か ら テ ィ ム ー ル 朝 ま で この部 分 は17冊 あ る。
1.『周 穆 王 西遊 記』、銭 伯 泉 撰文 、李 虎 林 絵 画 、2006年5月 物語 のあ らす じ:
紀 元281年 に今 の 河 南 省 にあ た る汲 県 に住 む 不 准 と い う男 が 盗 掘 で 大 量 の 竹 簡 を発 見 す る。 この 竹 簡 の なか に2300年 前 の 魏 国 が 編 ん だ 『穆 天 子 伝 』 が 入 って い た 。 そ れ に よる と、 穆 天 子 は 紀 元 前1001年 前 に 即 位 し た賢 い 王 だ った。 彼 は前984年 に 四 頭 の 駿 馬 に 引か れ る 馬 車 を造 って 、 一 日千 里 を走 るス ピー ドで 各 地 を回 った 。 周 の 北 にあ る犬 戎 国 を回 り、 黄 河 を祭 って か ら西 へ 進 む 。 途 中 に珍 獣 を狩 りな が ら、 赤 烏 国 や 羽 陵 国 、 そ れ に郵 韓 国 を経 て 西 王 母 の 国 に着 く。 西 王 母 の 国 は 「極 楽 の 世 界 」 で(図1)、 「歓 迎 」 され た 穆 王 と西 王 母 は 謡 池 の ほ とり で 会 い 、 連 日、 宴 に耽 る。 二 人 は 再 会 を誓 い あ って か ら 別 れ るが 、 その 際 に穆 王 は 山 に 「西 王 母 之 邦 」 との 字 を
62 周 穆 王 継 躾 西行,先 后 鑑 這 玄 池 、苦 山 、黄 鼠 山,到 迭 西 王 母 国 。 逮 里 是 西方 的"扱 牙 世 界",山 清 水 秀,百 花盛 升,風 風随翔 。居 民炊 迎 周 穆 王 的 到来 。
図1:西 方 の 「極 楽 世 界 」 で地 元 の 民 に歓 迎 さ れ て いる周 の穆 王
刻 ん だ 、 とい う。
この 物 語 は 穆 王 が 現 地 にお い て 「歓 迎 」 され た こ とと、 最 後 に 穆 王 が 西 王 母 の 国 の 山 の 岸 壁 に刻 辞 した 点 を 強 調 し、 周 穆 王 が 西 遊 した ところを今 日の 新 彊 に特 定 しようと、 企 図 して い る。
2.『 古 代 古 昌』、醇 宗 正 撰 文 、劉 芸 中絵 画 、2007年12月 物語 のあ らす じ:
今 日の トル ファン盆 地 は古 代 にお い て高 昌 国 と称 され て い た。 アス ター ナ 古 墳 か ら出 土 した漢 人 の ミ イラや 漢 文 資 料 が この 地 は漢 代 や 唐 代 か ら漢 人 の 居 住 地 だ った ことを証 明 しいて い る。 紀 元 前102年 に漢 の 将 軍 李 廣 利 が 大 宛(今 日の ウズベ キス タンの フェル ガー ナ地 域)遠 征 の帰 りに トル ファン盆 地 に 城 を築 い た。 その 際 に動 員 され た の が 敦 煙 の 高 昌 里 の 漢 人 た ちだ っ たか ら、 この 地 も高 昌 壁 と呼 ば れ るようにな った 。 後 漢 にな って か らは旬 奴 の攻 撃 を 度 々 受 け、 亀 薙 な ど西 域 の諸 国 も漢 朝 へ の帰 属 と 離 反 を くりか え した。 それ で も、前 涼 や 前 秦 、西 涼 、北 魏 な どの 時 代 にお いて も漢 人 の 居 住 はつ づ い た (図2)。 北 方 か ら柔 然 、突 豚 が 現 れ ると、多 民 族 化 が 進 む が 、終 始 、階 唐 へ の 帰 順 が 主 流 だ っ た(図 3)。 反 乱 が 起 こるたび に 、 中原 の 王 朝 が 鎮 圧 し、 それ も人 民 に支 持 され た とい う。
この よ うに、 漢 人 も古 くか ら新 彊 の住 民 の 一 っ で あ ることと、 新 彊 で 反 乱 が 起 これ ば、 「中 央 政 府 は 人 民 に支 持 されて 鎮 圧 す る」 場 面 が 謳 歌 され て い る。 その ような 歴 史 を示 す 石 碑 類 が 今 日に伝 わ って い るとい うことに も触 れて い る。
47 高 昌 国共 存 在198年,先 后 更 替 了沮 渠 氏 、岡 氏 、張 氏 、耳 氏 、 麹 氏,息 汁 五 氏 王 朝 。 境 内 居 民 由 双 人 力 主 的 多 民族 組 成,通 行 汲 活 汲 文 。
図2:計198年 間 も 存続 した 高 昌 国 の 居民 は主 と して 漢 人 か らな り 、漢 語 が 用 い られ てい た
88 窟 朝 炭 師 之 后,高 昌 国 中俊 唱 着 一首 民謡:"商 昌兵 葛 如箱 雪,双 家 兵 葛 如 日月,日 月 照 霜雪,回 首 自消 天 。"充 分 反 映高 昌 人旧 属 唐 朝
的心 情 。
図3:唐 の軍 隊 が出 発 した と聞 き、 高 昌 の人 々 は 唐へ の 帰順 を表 す 歌 を う た った
3.『佛 国 干 聞 』、醇 宗 正 撰 文 、姜 浩 林 絵 画 、2006年12月 物語 のあ らす じ:
今 日の ホー タ ン地 区 は 古 代 にお い て は西 域 大 乗 仏 教 の 中 心 地 の 一 つ だ った 。19世 紀 末 か ら20世 紀 初 頭 にか けて 、 イギ リス 国 籍 の ハ ンガ リー 人 ス タインが ホ ー タ ンにや って きて 「盗 掘 」 を し、 出 土 し た カ ロシ ティ文 字 と佛 教 壁 画 を発 見 して 世 界 を驚 か せ た。 この 地 に は イン ドか らや って きた シ ャカ族 の 一 部 族 と 「黒 い 眼、 黒 い 髪 」 の 莞 族 系 との 混 血 が 進 ん だ 。 一 時 は旬 奴 に支 配 され た もの の 、74年 に漢 朝 の 班 超 が 親 匂 奴 の 王 を斬 殺 した ことで、 親 漢 にな っ た(図4)。8世 紀 には漢 人 系 の 王 女 が 髪 の 毛 の な か に蚕 の 幼 虫 を隠 して別 の 系 統 の 王 族 に嫁 いで 、 養 蚕 の技 術 を伝 えた。 さまざ まな地 方 政 権 が 興 った もの の 、 み な 中原 の 王 朝 と通 婚 し、 「義 父 と婿 」 の 関 係 を結 んで いた(図5)。 美 しい 仏 教 王 国 の ホ ー タ ンはイス ラー ム を信 仰 す るカラハ ン朝 に滅 ぼ され た。
多 民 族 同 士 の 混 血 が あ った として も、 その な か に は漢 人 の 血 も混 ざって い る点 と、 地 元 に誕 生 した 政 権 は漢 人 の 婿 を 自認 して い た とされ る ことが クロー ズ ア ップ され て い る。 この 点 は 旬 奴 に王 昭 君 を、
現代 中国における少年の洗脳 方法 11
31 74年 双 使班 超釜iま干 閲,刺7]大 巫 。自此干 圓巫 教全 面衰 落 。 徳 由依 附 旬 奴 特 力 景汲,也 力佛 教 的友 展 拍 清 了 障 碍 。
図4:74年 に漢 朝 の 使者 、 班 超 は ホー タン の シ ャマ ンを殺 害 した こ とで 、ホ ー タン も親 旬 奴 か ら親 漢 に 転 じた
83 李 釜 天ヌ寸中原 王 朝 皇 帝 称"阿 舅",自 称 力"甥",与 河 西 沙 州旧 叉 軍 和 衆,南 結好 吐蕃 、泥 婆 夢 、北 印度 渚 邦,麩 鎮恢 弘佛 法,以 沙 海緑 洲 中 的佛 i'法神 自居 。
図5:ホ ー タン の王 は中 原 王朝 に対 し、婿 と称 した
チ ベ ットの 王 に文 成 公 主 を派 遣 して 結 婚 させ た 事 例 を挙 げ て、 相 手 を 「我 が 国 の 古 代 少 数 民 族 」 と主 張 す るの と 同 じレ トリック(Bulag 2002:63‑102)が 使 わ れて い る。
4.『 鳩 摩 羅 什 』、醇 宗 正 撰 文 、劉 剣 鋸絵 画 、2006年12月 物語 の あらす じ:
今 の 新 彊 葬 城 県 にあ るキ ジル 千 佛 洞 の 前 に クマ ラジュ の 銅 像 が 立 って い る。 彼 は ここ、 古 代 亀 薙 国 が 生 ん だ偉 大 な宗 教 改 革 家 に して 翻 訳 家 だ 。 この 亀 藏 国 が 古 代 に ト カラ文 字 を使 って いた ことをつ き とめ た の は、 イギ リス 人 の 中 尉 だ った(図6)。 クマ ラジュの母 は亀 薙 国 の 公 主 だ っ た。 幼 少 の 時 か ら西 域 各 国 の 言 葉 に精 通 した クマ ラジュ は22歳 で 亀 藏 国 の 国 師 に な る。 激 動 の 歴 史 の な か 、 亀 薙 国 に もまた 中 原 王 朝 の大 軍 が 現 れて い た(図7)。 クマ ラジュ は404年 に長 安 に拉 致 され 、 後 秦 国 の 国 師 の ポ ス トにつ く。 彼 は さまざ まな 仏 典 を漢 語 に 翻 訳 した。 それ ま で の 漢 語 仏 典 は 「旧訳 」 とされ て い た が 、 クマ ラジ ュの 訳 は新 訳 と呼 ぶ 。 今 日、 漢 伝 佛 教 の ほ とん どの 典 籍 はす べ て 彼 の 翻 訳 だ 。 その 影 響 は 日本 と朝 鮮 に も伝 わ って い る。
一 見 、 仏 教 典 籍 が 翻 訳 され る とい う素 朴 な プ ロセ ス を 紹 介 して い るようだ が 、 漢 軍 が 亀 薙 国 に入 っ た行 為 を 絶 賛 して い ることと、イギ リス人 による発 見 をマイナス的 なニ ュ ア ンスで 表 現 して い る描 き方 に、 中 国 人 中 心 の 愛 国 主 義 の 匂 いが す る。
9 1889年,一 全 名 力 鉋ホ 的英 国 中 尉赴' li游,杁 文 物 販 子 手 中 冥 了一 部樺 樹 皮 古 唱,首 次,. 古 吐 火劉 吾文 。吐火 劉 吾文分A、B丙 秤 方 言,A方 盲 力古 焉 誉 沼,B方 言 就 是 古亀 弦 培 。
図6:1889年 、 トカ ラ語 の 古文 書 を現地 か ら買 い付 けた イ ギ リス 人 の中 尉
5.『統 一 西域 英 雄譜 』、醇 宗正 撰 文、賀 軍 絵画 、2006年5月 物 語の あらす じ:
漢 朝 の 時 代 の 李 廣 や 窪 去 病 、 趙 破 奴 、 甘 延 寿 、 陳 湯 らが 西 域 を征 服 して、 漢 の 版 図 に入 れ た 「活 躍 ぶ り」 を 描 い て い る。 西 域 の 楼 蘭 王 朝 な ど は、 「奴 隷 制 の 旬 奴 」
55 当 年,符 堅 任 命 佐 命 功 臣 昌婆 楼 之 子 、氏族 名 将 昌光 カ リ巾,率歩 兵10万 、鉄 騎7000西 伐亀 舷 及 其,;r.;国焉.a。 迭 是 汲 朝 以 来我 国 中央 王 朝 大軍 再 次 出現 干 西域 。
図7:わ が 国 の中 央 王 朝 の大 軍 が初 め て 西 域 に現 れ る
23 麸 破 奴 兵 力 不 多,却 行 軍 神 速,一 路 徒捷,在 牟 師 大 敗 旬 奴,初 次 在 西 域 昼 示 了 汲朝 強 大 的軍 事 力 量 。
図8:車 師 国 で 旬 奴 を 打 ち破 り、 漢 朝 の軍 事 力 を 西域 に見 せ つ け た シ ー ン
74 傅介 子 出帳,郷 告 同来 的楼 蓋 官 員:"天 子令 我 必 死 弥 伯 的 国王,
・a:大軍 昌 上 到 来,祢伯 不要 妄 劫 。"干 是 楼 竺 遂重 新 旧 附 汲 朝 。 図9:楼 蘭 の 大 臣 た ち を処 刑 し、漢 朝 に服 従 させ た
131 汲 朝 任命 郊 吉 力 首 任 西 域都 炉,授 市 杖 、印袈,封 安 近侯 。 西域 都 炉 府 的 創 立 梅 志'1=」mil正式 納 人 中 国版 圏 。
図10:西 域都 護 府 の 設 置 に よ り、新 廻 は 正式 に中 国 の 版 図 に編 入 さ れ た
190 公 元 前33年,汲 朝 正 式 褒 奨 甘 、隊二 絡,甘 延 寿 被 封 文 成 侯, 隊 湯 封 美 内侯,r:一.:士 鉄 鳥金 丈 的英 雄 事 迩 整 干 被 銘 刻 在 厨 史 妃 功 碑 上 。
図11:漢 軍 の英 雄 的 な 事績 は歴 史 に刻 まれ た
の影 響 下 にあった。 奴隷 制 と異 なる封建 王 朝 の漢 朝 は先進 国である。 漢 朝 は強 い軍事 力で旬 奴 を破 り、 楼 蘭 を征 服 して帰 属 させ た(図8、 図9)。 紀 元 前 60年 に は鄭 吉 を西 域 都 護 に任 命 した ことで 、 新 彊 が 中 国 の 版 図 に正 式 に組 み 込 まれ た(図10)。 漢 はイ リ河 まで 屯 田 を拡 大 し、その 英 雄 た ちの 行 動 は歴 史 に 刻 まれ た(図 ll)。
この 話 は い わ ぼ 「旬 奴 の 右 腕 た る西 域 を絶 っ 」 歴 史 を 演 繹 して い る。 漢 は 善 、 旬 奴 は悪 として 描 い て い る。 漢
軍 は 勇 ま しく格 好 良 く、 旬 奴 は醜 悪 の 姿 で 登 場 して い るの が 特 徴 的 で あ る。
48 双 軍 在 寓 郵支 城60里 的地 方 安 菅,牙 塵 猪 猪,軍 弓 囎1婚,十里 達 菅,刀 光 劃 影,好 不威 夙!
図12:威 風 堂 々た る漢 軍
6.『 陳湯 』、銭 伯 泉 撰 文 、李 鴻 絵 画 、2006年5月 物 語の あらす じ:
先 進 的 な 漢 王 朝 と奴 隷 制 の 勾 奴 が 西 域 をめ ぐって 争 う な か で、 漢 側 で 「活 躍 」 した 将 軍 、 陳 湯 の 一 生 を 描 い て い る。 貧 しい 家 に 生 まれ 、 旬 奴 を撃 退 して立 身 出 世 に成
現代 中国における少年の洗脳方法 13
功 す るもの の 、 政 争 に 巻 き込 まれ て 流 刑 に され る最 後 で 終 わ る。特 に強 い 漢 軍 の 威 風 ぶ りを前 面 に押 し出 して い る
(図12)。
7.『 常 慧 』、銭 伯 泉 撰 文 、高 捧 絵 画 、2006年5月 物語 の あらす じ:
常 慧 は 太 原 の 出 身 だ 。 この 地 の 漢 人 た ち はつ ね にモ ン ゴル 高 原 の 旬 奴 に侵 略 され 、 苦 しめ られて い た(図13)。
その ような 環 境 の な か で 育 っ た 常 慧 は 漢 王 朝 の た め に働 い た。 彼 は蘇 武 とともに旬 奴 に出 使 し、 抑 留 され た 経 験 か らか の 地 を熟 知 して い た。 の ち に漢 王 朝 に帰 って か らは そ の 経 験 を 生 か して 旬 奴 を 打 ち破 った だ けで な く、 西 域 の 烏 孫 や 亀 薙 国 を漢 王 朝 に帰 順 させ る時 も、容 赦 な く 「反 乱 分 子 」 を処 刑 した(図14)。 常 慧 は偉 くな ってか らは 漢 王 朝 の た め に、 「外 交 と辺 境 に住 む 民 族 事 務 」 を管 理 運 営 して い た(図15)。
古 代 の 話 を現 代 の 用 語 で 語 って い るの が 、 その 特 徴 で あ る。亀 薙 や 烏 孫 の地 を漢 の 「辺 境 」とし、漢 人 以 外 の 人 々 を 「少 数 民 族 」 とし、 彼 らの 活 動 を 「民 族 事 務 」 と呼 ん で い る。 そ して、 反 乱 す れ ば 、 「正 義 の ため に処 刑 」 され た ことも賛 美 され てい る。
2 太 原 地 赴 長 城 以南 不 逃, .:的 北方 逸境 地 区。 蒙古 高 原 的 旬 奴 人 経 常 在 秋 高 昌 肥 日寸侵 入 長 城,焼 奈 拾 掠,太 原 一 帯 的 汲 朝逸 民 深 受 其 害 。
図13:秋 に な る と 、 モ ン ゴル高 原 の 飼奴 た ち は 侵 入 し、 漢朝 の辺 民 を殺 害 し、 略奪 した
8.『 班 超 』、醇 宗 正 撰 文 、肖天 絵 画 、2006年5月 物語 のあ らす じ:
今 の ハ ミ市 に一 つ の 銅 像 が 立 って い る。 彼 は 漢 の 明 帝 時 代 の 班 超 とい う英 雄 だ。 班 超 は 西 域 の 親 旬 奴 の 都 善 国 や 干 聞 国 を征 服 し、 凶 悪 な匂 奴 の 勢 力 を排 除 して、 漢 朝 に服 従 させ た 。 漢 朝 に帰 順 した ことで、 西 域 各 国 は繁 栄 し、 シル クロー ドも開 通 した(図16)。
班 超 が 武 力 で 各 国 の 内 政 に干 渉 し、 残 忍 な 方 法 で 幻
72 常 恵 当 着 西 域各 国将 士 之 面,将 姑 翼斬 首,戸 怨 了逮 企 西域 叛 乱 的首 悪 分 子,回 朝夏 命 。
図14:漢 の 常慧 は 西域 諸 国 の将 校 た ちを 前 に、 反乱 分 子 を処 刑 した
43 干1'sl是西 域 南道 最 大 的地 方 政 杖, 徳 王 的 降双 引起 一 達 串 的 政 治 反』立,打弥 、錯 差 等 國 也紛 紛 重新 降 汲 。自此双 朝 升 始 穂定 地控 制 了 鍾 路南 道 。
図16:ホ ー タ ン の広 徳 王 の 降伏 に よ り、西 域諸 国 は こぞ って 帰順 し、 漢 朝 は シル ク ロー ドを コ ン トロー ル で きる よ う に な った
131 汲 朝 任 命 郊 吉 力首 任 西 域都 炉,授 芋 杖 、印 綬,封 安 近 侯 。西 域 都 炉 府 的創 立 梅 志着 新 麗 正 式納 人 中 国版 圏 。
図15:西 域 都 護府 の成 立 に よ り、 新 盟 は正 式 に 中 国の 版 図 内 に収 め られた
41 島 弥 国地 域迂 蘭,奈 接飼 奴,北 抵 康 居,西迭 大 宛,南達 城 郭渚 国 。 図17:烏 孫 とそ の 諸隣 国
90 解 慌 公 主在 烏 弥 生 活 了50年,力 抗 缶 旬 奴,加 彊 島 跡 与 汲 朝 的 和 睦美 系,促 遊 爾地 之 向 的 鐙 済 、文 化 、軍 事 交 流倣 出 了重 要 貢 献 。 図18:漢 の解 憂 公 主 は烏 孫 に50年 間 も暮 ら し、 旬奴 を排 して 、 漢 朝 と の和 睦 促 進 に貢 献 した 。
奴 や 各 国 の 王 を殺 害 した 行 為 を正 義 として 描 き、 旬 奴 と 共 に 漢 の 侵 略 に抵 抗 した 行 為 を 「反 乱 」 だ と決 めつ けて い る。
93 作/一//t̀¥出的 外 交 家,猪 野 昆弥 宙 吋 度 勢,枚 衡 利 弊,打7r了 与 汲 朝 結 盟 的大f],也 力 中 国 版 團 的完 Jヨー 徹 出了 不 朽 的貢 献 。 図19:烏 孫 との 結 盟 に よ り、 中国 の版 図の 統 一 が 実 現 で きた
9.『猟 驕W弥 』、吟依 夏 ・塔 巴 熱 克 撰 文 、苑 積 瑞 絵 画 、 2006年5月
物 語の あらす じ:
烏 孫 は 紀 元 前 よ り敦 煙 か らイリ渓 谷 にか けて 現 れ た 遊 牧 部 族 だ 。 飼 奴 と月 氏 、それ に西 域 諸 国 と隣 り合 って いた (図17)。 その 国 王 は昆 弥 と呼 ば れ て いた 。 漢 王 朝 は 「旬 奴 の 右 腕 を絶 つ 」 た め に細 君 、解 憂 な どの 公 主 を嫁 が せ 、 中 国 の版 図 の 完 全 性 を維 持 す るた め に 努 力 した 。 古 代 の 烏 孫 の 王 も中華 民 族 で あ る(図18、19)。
この 絵 本 は漢 朝 の 文 化 を 先 進 的 だ と決 めつ け、匂 奴 や 西 域 諸 国 は 立 ち遅 れ て い るとして い る。しか し、
一 方 で は 西 域 か らさまざ まな 文 化 が 漢 土 に伝 わ って いた とも記 してお り
、 自己 矛 盾 に 陥 って い る箇 所 が 多 々 ある。 漢 と通 婚 した 烏 孫 の 王 は 「愛 国 的 な 中華 民 族 」 で 、 それ と敵 対 して いた 旬 奴 は悪 人 だ とさ れ て い る。
1 回偶,是 現 代f吾 ホ 族ail廿粛 裕 圃族 的共 同祖 先 。南 北 朝 吋期 悸 力 弔鉋,階 至 唐 初 澤 力 回乾,元 代悸 力畏 兀 兀 。
図20:唐 の 回鴫 は今 日の ウ イ グル 族 や 甘粛 の ヨ グル 族 の祖 先 だ
10.『 古 代 回鵤 』、醇 宗 正 撰 文 、李 冬 絵 画 、2007年12月 物 語 のあ らす じ:
古 代 の 回 鵤 は 今 日の ウイグル 族 や 甘 粛 の ヨグル 族 の 祖 先 だ 。752年 に突 蕨 を打 ち破 ってハ ー ン国 を 建 て、 唐 と も度 々 和 親 政 策 を取 っ た(図20)。 ウイグル は一 時 、 唐 の 内 乱 を鎮 圧 す るの に も援 軍 を出 動 した 。 チ ベ ットの 吐 番 王 朝 との 対 決 を経 て 衰 弱 して い った。
単 純 に古 代 ウイグル の 歴 史 を 年 代 順 に 述 べ て い るが 、 唐 の 公 主 を迎 えた シ ー ンが ユ ニ ー クで あ る。 ウイグル の 王 が 腰 を曲 げ て、 謙 った 姿 で 堂 々 として い る唐 の 公 主 に お辞 儀 して い る。
現代 中国における少 年の洗脳方法 15
48 同年,栃 冑所 銃唐 朝 大 軍 也兵 逼 亀 蔽,系 掲猪 顛,占 領 亀 蔽 。安西 都 排府 晋 級 力 大 都 炉府,移 治亀 厳,以 栃 冑力 首任 安 西 大都 耕 。 図21:反 乱 分子 を処 刑 し、安 西 都 護 府 を設 置 す る
94 唐 朝安 西 都 排 府(640四808♪是 麩 双 西 域 都 排 府 之 后 第 二介 中 央 政 府 宜 接 管理 西 域 的 政枚 机 杓,自640年 初 建 安 西都 炉 府干 交 河 、658 年 升格 力 安 西 大都 炉 府,号 令 西 域168年 。
図22:安 西 大 都護 府 の 命令 は全 西 域 に行 きわ た った
11.『安 西 都 護 府 』、醇 宗 正 撰 文 、肖天 絵 画 、2006年12月 物語 のあ らす じ:
安 西 都 護 府 は640‑808年 の 間 に 存 在 した 、 唐 に よ る 西 域 支 配 の 出 先 機 関 で あ る。 漢 朝 に次 いで 、 二 回 目の 西 域 統 治 の 政 府 で あ った 。強 い唐 は何 度 も反 乱 を鎮 圧 し(図 21)、 大 食 す な わ ちア ラブや 吐 番 とも戦 って、 西 域 経 営 に あ た って きた(図22)。
唐 に よる侵 略 に抵 抗 した 西 域 各 国 の 人 物 を醜 く描 き、 唐 側 の 人 物 を美 しく、 勇 ま しく描 写 して い るの が 、 特 徴 的 で あ る。
12.『 玄 』、醇 宗 正 撰 文 、劉 剣 鋸 絵 画 、2006年5月 物 語 のあらす じ:
唐 の 玄 が イ ン ドに経 典 を学 び に い く途 中 、 当 時 西 域 と呼 ば れ て い た 今 日の 新 彊 領 内 を通 った 時 の 話 で あ る。
亀 薙 国 や 突 蕨 の ハ ー ン 国 は華 や か な 文 化 を 有 して い た (図23)。 玄 は イ ン ドか ら帰 った 後 は、 今 日の 西 安 市 内 に あ る大 雁 塔 の 下 で 翻 訳 に携 わ って い た。
豪 華 絢 燗 な 西 域 諸 国 の 文 化 と唐 との 繋 が りを 強 調 し、
「我 が 国 の 文 化 の 多 様 性 」 を示 そ うとしてい る
。
67 亀.z ̀宴 款 待 法 師,席 上 飲 用 了 鮮 葡萄 汁,演 奏 了 亀 益 尿 。 暴 臥 由琵 琶 、笙篠 和各Tl;打缶尿 姐 成,亀 舷 尿 是西 域 最 著 名 的尿 和 。 図23:亀 弦 楽 は西 域 で も有 名 だ った
13.『 北 庭 都 護 府 』、醇 宗 正 撰 文 、尤 山絵 画 、2007年12月 物語 の あらす じ:
清 朝 の 乾 隆 年 間 に一 人 の 地 理 学 者 が 今 日の 新 彊 に 流 刑 で 来 て い た 。 彼 の 名 は徐 松 だ っ た。 彼 は今 の ジムサ ー ル 県 で 一 つ の 石 碑 を 発 見 し、 それ に唐 代 の 金 満 県 に 関 す る 内 容 が 記 され て い た ことを突 き止 めた 。 彼 の 発 見 は 世 界 に衝 撃 を 与 え、 ス タイ ンや 日本 の 橘 瑞 超 らの 探 検 家 の 活 動 を 招 い た(図24)。 この ジ ムサ ー ル 県 に 唐 代 の 北 廷 都 護 府 が 置 か れ 、 安 西 都 護 府 とな らんで 「古 代 新 彊 」 を統 治 して い た。
4 徐 松在 他的 名 著 《西域水 道 妃.中 将 逮 一 重 大 誓古1現 公 布 干 世, 虐 陳了 全世 界 。1g世 妃末20世 鱈 切,斯 坦 因 、橘 瑞 超 等 探 瞼家 都 曽斐 程 到此 考 察 。
図24:徐 松 の 発 見 は諸 外 国 の探 検 活 動 の き っか け とな った
突 豚 側 の 人 物 を極 力 、 醜 悪 な 姿 に仕 立 て、 唐 側 の 漢 人 を格 好 良 く描 いて い る。 また 、 突 豚 側 が 働 い た とされ る残 虐 行 為 を 強 調 し、 異 民 族 へ の 憎 しみ を 引 き立 てて い る(図25)。 その 手 法 は、 日本 軍 の 空 爆 で 中国 人 民(特 に女 性 と子 供)が 惨 殺 され た とされ るシ ー ンに似 て い る。
28 651年 哩 這 率 領赴 月 、姫 蜜等 西 突 荻 奈 方 属部 攻 陥 庭州 金 満具 、 蒲 美 具,城 外 居 民数 千 人都 惨 遭 ゑ 害 。
図25:西 突 腰 に殺 害 さ れ た庭 州 の 居 民
14.『 王 廷 徳 出 使 高 昌』、李 樹 輝 撰 文 、侃 澤 玄 絵 画 、2007 年12月
物語 のあ らす じ:
宋 の 時 代 、 お よそ981頃 に、 王 廷 徳 が 高 昌 国 に使 者 と して派 遣 され た時 、 途 中 で 「古 代 新 彊 の さまざ まな部 族 」 に 出会 っ た。 宋 と通 婚 関 係 にあ った高 昌 の 王 は 「宋 の甥 」 の 立 場 だ ったか ら、 高 貴 で 優 位 に 立 つ 王 廷 徳 も高 昌側 に は お 辞 儀 を しな か っ た(図26)。 高 昌 国 の 人 々の 間 に は 暑 い 季 節 に互 い に 水 をか け あ う習慣 が あ り、 今 日で は、 「雲 南 省 の 我 が 国 の タイ族 」 が その 風 習 を維 持 してい る(図27)。
宋 側 を中 国 の正 当 な 王 朝 とし、当 時 併 存 して い た 契 丹 や 西 域 諸 国 をその 属 国 として 位 置 づ けて い る。
宋 の 使 節 が 「属 国 」 に脆 拝 しな い 「高 潔 な人 格 と礼 節 な 振 る舞 い 」 を強 調 して い る。
31 阿 多 干 越 派 人:{王 延 徳一 行 安 排 住下 后,帯 活 悦,"我 是 国王 的 舅 舅,使 者 是 不 是 要 先 拝 児 我?"王 延 徳 回答悦:"我 是 奉 宋 朝 皇 帝 之命 而 来,按 照 礼 情 不 座 当拝 晃 。"
図26:宋 王 朝 の 使 者 は西 域 の 王 に踵 か ない
47 高 昌 回 鵬人 的"潰 寒 胡 栽"是 我 国文 献 中有 美波 水 游 戒 的 最 早 氾 載,至 今 遠 一 活 劫03力 云南 的俸 族折 保 持 。
図27:高 昌 か ら雲 南 に 伝 わ った 水 か け 祭
88 汲 人 在西 迂 帝 国 中 占有 挙 足軽 重 的地 位 。到 妊都 有 汲 人 聚居,也 有 土 著 人 与 当 地人 借 居 。
図28:契 丹人 が建 て た西遼 帝 国で も 、漢人 は 重要 な地 位 を 占めて いた
15.『 耶 律 大 石 』、醇 宗 正 撰 文 、羅 羅 絵 画 、2006年5月 物語 のあ らす じ:
契 丹 人 の 遼 王 朝 は1126年 に女 真 人 の 金 王 朝 に滅 ぼ さ れ た後 、 王 族 の 一 人 、 耶 律 大 石 は契 丹 人 や 漢 人 か らな る部 隊(図28)を 率 いて モ ンゴル 高 原 を通 って、 西 域 の エ ミリ(今 日の 新 彊 の 額 敏 県)に 着 き、 西 遼 王 朝 す な わ ちカ ラキ タイを 建 て た。耶 律 大 石 は 遼 の 再 興 を 目指 したが 、 な か な か 成 功 せ ず 、 結 局1218年 に チ ン ギス ・ハ ー ン の 武 将 によって 滅 亡 させ られ た 。
一 見 、 契 丹 人 を主 人 公 に据 えて 、 遼 と宋 、 それ に 金 と い う三 国 鼎 立 の 歴 史 を描 い て い る ように見 え るが 、 極 端 に漢 人 の 活 躍 ぶ りや 、 西 域 に 住 む漢 人 の 「重 要 な 役 割 」
現代 中国にお ける少年の洗脳方法 17
を謳 歌 しようとして い るの が 、 最 大 の 目 的 のよ うで ある。
16.『邸 処 枷 、醇 宗 正 撰 文 、苑 積 瑞 絵 画 、2006年12月 物 語の あらす じ:
道 教 は 「我 が 国 の 土 着 の 宗 教 」 で あ る。 邸 処 机 (1148‑1227)は 道 教 の 全 真 派 の 指 導 者 で 、 モ ンゴ ル の チ ンギス ・ハ ー ンに召 集 されて 、 今 日の 山東 省 か らモ ン ゴ ル 高 原 を通 って、 西 域 の 至 るところを 旅 した。 彼 は 途 中 で 各 民 族 の 風 習 に つ い て 記 録 し、 チ ン ギス ・ハ ー ン に漢 地 支 配 の 方 策 を提 示 した(図29)。 その 行 動 を記 録 した
『長 春 真 人 西 遊 記 』 は 中 央 アジ ア に関 す る重 要 な 地 理 学 の 著 作 で あ る。
「我 が 国 」 の 地 理 学 的 な著 作 を紹 介 し、 チ ンギス ・ハ ー ン も 「我 が 国 の 知 識 人 」 の ア ドバ イ ス を受 けて い た、 と 暗 示 して い る。
87 自此 以后,成吉思汗垂洵 的同題笈生了重大変化,升始 由宗教変 力世俗 。邸赴机 以戒兼 、安民等近干儒学的全真派教文解答了憲祥安 定双地銃治 的向題n成 吉思汗非常満意。
図29:チ ンギス ・ハーンに満足の答えを示す邸処机
17.『 陳 誠 』、醇 宗 正 撰 文 、李 冬 絵 画 、2006年5月 物語 のあ らす じ:
陳 誠(1363‑1457)は 「明 代 初 期 の 著 名 な外 交 家 」 だ 。 当 時 、 明 朝 は 中 央 ア ジア の トル コ化 した モ ンゴ ル人 テ ィムー ル による遠 征 の 脅 威 に さらされ て いた(図30)。 陳 誠 は 明 朝 の 使 者 として ティム ー ル 朝 に出 向 いて、 平 和 関 係 を結 ん だ(図31)。 明 朝 はハ ミあた りまで を実 行 支 配 して い た。
明 軍 と対 峙 して い たモ ン ゴル 軍 な どを醜 悪 か つ 凶 暴 な 姿 に し、 文 人 の 陳 誠 らの行 動 を典 雅 な姿 勢 に して い る。
12 1395年,明 朝 派 遣 使 臣 傅 安 、郭 躾 前 往 結 好,被 帖 木 兀 拘 留 。 1404年 帖 木 兀 率 兵20万,各7年 根,炭1庫撒 島 ホ竿,透 征 明 朝 。 図30:明 朝 遠 征 を 目指 すテ ィム ー ル
76 帖 木/L汗 国是 突 恢悟 化 的 蒙 古后 商 所 建 的伊 斯 蓋汗 国 。帖 木 兀 汗 在 世 吋 期,与 明 朝 本来 互 相.ỳ,通 赴 隊減 的 出使,化 解 了双 方 的 美 系 。隊 減 成 功 地 完成 了和平 出使 任 劣 。
図31:陳 誠 の 出使 に よ り、テ ィム ール と の間 で 平和 関 係 が結 ば れた
2.2 解 釈 が難 しい ジ ュ ン ガ ル ・ハ ー ン国 と清 朝 時 代 この 部 分 は計18冊 あ る。
1.『哨 雅 班 第 達 』、吐 梛 撰 文 、黄 大 連 絵 画 、2008年9月 物語 のあ らす じ:
ザ ヤパ ンデ ィダ ことナ ムハ イジ ャムソの伝 記 を描 いて い る。 彼 は1599年 に遊 牧 す る西 モ ンゴル(図 32)の ホ シ ュー ト部 の 名 家 に生 まれ 、 時 は 「国 内 にお い て は満 洲 貴 族 が 東 北 で 勃 興 し、 国 際 的 には
41 由 干 西 蒙古 人 以游 牧 力 生,随 季 布 変 化 術 迂 移,他 佃一 生 一 世 都 居住 在 可 以搬 迂 、保 暖 的毬 房 。
図32:遊 牧 生 活 を 送 る 西 モ ン ゴル
62 喧雅班第迭生活的年代,国 内恰逢奈北地 区的満洲 貴族勢力堀 起,影 鳴着J̀古各 部;強郁沙皇俄国不断使用武力ザ 張和 政治 誘騙等 手段企圏使蒙古各部 臣服。
図33:満 洲人の勃興 と帝政 ロシアの侵略にさらされたモ ンゴル各部
帝 政 ロシ アモ ン ゴル 各 部 へ の 影 響 を強 めて い た 」 頃 だ とい う(図33)。 ザ ヤパ ンディダ はチ ベ ットの ラ サ に 留 学 してチ ベ ット仏 教 をモ ン ゴル 各 部 に伝 えた が 、 それ は 「封 建 的 な 王 公 た ち」 が 人 民 を 支 配 す る道 具 で もあ った 。 ザ ヤパ ンディダ は 知 識 を用 い て モ ンゴル 各 部 間 の 対 立 を 和 解 させ 、 独 特 の モ ンゴ ル 文 字 を創 成 して 、1662年 に亡 くな るまで 活 躍 した。
ジュ ンガル ・ハ ー ン 国 や モ ンゴル 高 原 の 各 部 、 そ れ に新 興 の 満 洲 人 の 清 朝 につ い て 述 べ る時 な ど、
す べ て 「国 内 」 や 「我 が 国 」 としてい る。 また、 モ ン ゴル 社 会 を 「封 建 的 」 とし、 暗 に 「後 進 的 」 だ と言 わ ん としてい る。
2.『 巴 図爾 琿 台 吉 』、吐 梛 撰 文 、賀 軍絵 画 、2007年12月 物 語 のあらす じ:
ジュンガ ル ・ハ ー ン 国 の 指 導 者 バ ー トル ・ホンタイジ の 治 世 中 は満 洲 人 が 東 か ら強 くな り、 ロシ ア人 が 西 か ら中 央 ア ジア 征 服 を は じめ て いた 時 代 で あ る。 バ ー トル ・ホ ンタイジ はモ ンゴル 高 原 の ハ ル ハ 部 との 関 係 を改 善 し、 ロシア の侵 略 にも抵 抗 した(図34、35)。 「我 が 国 の各 民 族 の 人 民 が ロシ アの 侵 略 を撃 退 した 事 績 は 素 晴 らしい 」。
西 モ ンゴル の オイラー ト各 部 が 清 朝 に よる併 合 に も抵 抗 して いた 歴 史 に は触 れず ひた す ら 「モ ンゴ ル も我 が 国 の 各 民 族 の 一 つ 」 だ とい う点 ば か りが 強 調 されて い る。
82 他 伯 尭 借 要 塞 的軍 事 力f7,強 征 当地 人 民 的宴 物 税,肋 迫他 佃 屈 服 沙 皇 的統 治,同 吋 遊 行 武装 移 民,以 肌 固 和ザ 大 侵占 的地 域 。 図34:モ ン ゴル 人 た ち を 帝 政 ロ シア に服 従 さ せ よ う とす る風 景
94 巴團ホ琿 台吉及其后鑛者堆炉祖 国銃一 、反抗 沙俄ザ張的英雄 豊績,在我 国各族 人民反抗外激入侵的斗争史上写下 了光7的 一頁。
図35:祖 国の統一と帝国主義 の侵略撃破に貢献 したモンゴル
現代中国における少年の洗脳方法 19
3.『 吐 爾 雇 特 蒙 古 東 帰 』、奥 其 爾 巴特 撰 文、楊 世 新 絵 画 、 2006年5月
物語 の あらす じ:
新 彊 は 古 くは西 域 と呼 ば れ た。13世 紀 か らはモ ン ゴル 人 の 居 住 地 に もな った。 西 モ ンゴル の 一 つ 、 トル グー ト部 は1629年 に放 牧 地 が 狭 くなっ たた め に、 中 央 アジ アの ボ ルガ 河 下 流 域 に移 った。 しか し、 東 侵 して きた ロシア は彼 らを ロシ ア正 教 に 改 宗 させ ようとした り、 他 の 民 族 との 戦 争 に 動 員 した りして 、 過 酷 な 生 活 を 強 い られ た 。 そ こで 、 耐 えか ね た トル グー ト人 たち は1771年1月5日 にっ い に ロシ アの 圧 政 か ら脱 出 して 「太 陽 が 昇 る方 向 にあ る祖 国 」 を 目指 した。 途 中 、 ロシ ア な どとの 戦 い で10万 人 もの 犠 牲 者 を出 して帰 って きた トル グー ト人 を乾 隆 帝 の 清 朝 は熱 烈 に歓 迎 した(図36)。
92 土 ホ雇 特 人 民受 到 清 政 府 的熱 烈 炊 迎 。乾 隆 皇帝 命 令 政 府 負 責 接 待安 量,炭 放 衣 食,披 給 牧 場 和 耕地,又i,・cE1万 丙,胸 叉 物 資 遊 行 接 済 。
図36:祖 国 に帰 還 した トル グ ー ト人 を 清 朝政 府 は 熱烈 に歓 迎 した これ は い わ ば 、 新 彊 に住 む モ ン ゴル 人 た ちが 古 くか ら
祖 国 を熱 愛 し、 帝 政 ロシ ア に抵 抗 した とい うフィクシ ョンの 焼 き直 しで あ る。 トル グー ト人 は 同胞 の ジ ュ ンガ ル ・ハ ー ン国 の モ ンゴル 人 たち が 清 朝 の大 量 虐 殺 に遭 い、 その 仇 を取 るた め に遠 征 して きた性 質 に は触 れて い な い。
4.『清 代 伊 摯 維 吾 爾 人 』、吐 梛 撰 文 、劉 増 頑 絵 画 、2006年 5月
物 語の あらす じ:
「新 中 国 」 が 成 立 す る前 の ウイグル 族 は タランチ 人 と呼 ば れ て い た。17世 紀 の ジ ュン ガ ル ・ハ ー ン 時 代 の 彼 ら は 「封 建 的 な モ ンゴル 人 」 の 奴 隷 だ っ た(図37)。 タラ ンチ とは 「耕 作 人 」 を意 味 す る。 彼 らは 新 彊 各 地 か ら移 住 させ られ て、 イ リ渓 谷 に 住 み つ いた 。1871年5月 に帝 政 ロシ アが 侵 略 して きた 時 に ウイグル 人 は抵 抗 し、 勇 敢 に 戦 った 。 しか し、1881年2月 に結 ば れ た 『イ リ条 約 』 に よ り、 「中 国 」 は7万 平 方 キ ロの 領 土 を失 い 、 多 数 の タ ランチ 人 が ロシ ア に拉 致 され た。 解 放 後 、 党 と政 府 は彼 らの 意 思 を尊 重 して、 ウ イグル 民 族 として 認 定 した(図 38)0
これ は ウイグル 人 の 歴 史 を愛 国 主 義 とい うラインで 再 構 成 した もの で あ る。 とくに 「中 国 」 の た め に ロシ ア と戦 っ た ウイグル 人 の 事 績 が 褒 め られ て い る。
7 堆吾ホ人毎年秋后要 向准鳴ホ統治者緻納貢賦,服 各神苗役,社 会地位低下 。其 中被俘后童属干封建主介 人的地位相当子奴乗,被迫 迂移 的力衣奴 。
図37:モ ンゴル人に奴隷あつかいされていたウイグル人
5.『香 妃 』、紀 大 椿 撰 文 、黄 大 連 絵 画 、2007年12月 物 語 のあ らす じ:
カシ ュガル に 「アパ ク ・ホ ー ジ ャの 墓 地 」 が あ る。 ここ に 香 妃 が 眠 って い る とい う伝 説 が あ る。 香 妃 とは、 乾 隆 帝 の た だ 一 人 の ウイグル 人 の 妃 だ っ た。 彼 女 は カ シュガ ル の イス ラー ム指 導 者 ホー ジ ャ家 の 娘 だ った らしい が 、 詳 しい 生 活 は分 か らない 。 た ぶ ん 、 『清 史 稿 』 に 登 場 す る 容 妃 の ことだ ろう(図39)。
94 新 珊解放后,党 職人 民政府根据屠言 、夙俗 及宗教特 征,対塔圭 奇透行 民族枳別,将塔竺奇杁定力堆吾ホ族。
図38:中 国共産党と政府 はウイグル人の風俗習慣を尊重 した
この 絵 本 は香 妃 が 実 在 した とい う前 提 で 、 さまざ まな伝 説 を 紹 介 しな が ら、 カ シ ュガ ル の ホ ー ジ ャ家 の 対 清 朝 反 乱 を 悪 だ と決 め つ け、 清 朝 の 中 央 政 府 に よる鎮 圧 行 為 を 擁 護 して い る。
93 作 力 厨 史 人 物 的 容妃,是 乾 隆皇 帝 傘 多 妃 子 中 的 一 員,史 実 泥 載 十 分清 楚,不 容 歪 曲 和"浅 悦"。
図39:乾 隆 帝 の ウイ グル 人妃 につ い て は諸 説 が あ る
6.『 錫 伯 族 西 遷 』、柊 克 力 撰 文 、王 暁 玲 絵 画 、2006年5月 物語 のあ らす じ:
新 彊 に は豊 か な 草 原 が 広 が り、 「古 くか ら我 が 国 の 遊 牧 民 諸 部 族 」 が 生 活 して きた。17世 紀 末 にジ ュンガ ル の
「モ ン ゴル 人 貴 族 」 が 清 朝 に 対 して 反 乱 を起 こした。 清 朝 は 「祖 国 の 統 一 」 を 図 るた め に鎮 圧 し、勝 利 を収 めた 。
その 後 、 「祖 国 」 の 辺 境 を 守 る 目 的 で1764年 か ら東 北 の 盛 京 か らシ ベ族 をイリへ 移 住 させ た。 彼 らはモ ン ゴル高 原 を通 って 新 彊 に到 着 して駐 屯 した 。 それ 以 降 、 新 彊 の 反 動 的 な人 た ちの 反 乱 を鎮 圧 し、 ロシ アの 侵 略 者 たち を 撃 退 した 。 彼 らの子 孫 は 今 や 国 家 の 主 人 公 とな り、 社 会 主 義 社 会 で 幸 せ な 生 活 を送 って い る(図40)。
清 朝 とは まった く別 の 国 家 だ った ジ ュンガ ル ・ハ ー ン国 の 存 在 を無 視 し、 ハ ー ン国 の モ ンゴ ル 人 たち を 最 初 か ら
「我 が 国 の 遊 牧 民 」 だ と決 めつ け て い る。 清 朝 に よるモ ン ゴル 併 合 と鎮 圧 を 称 賛 す るた め に 、 清 朝 の 兵 士 た ち を 勇 ま しく描 き、 モ ンゴル 兵 を不 格 好 に仕 立 て て い る。
94 世 世 代 代受 圧 迫 、被 剥 削 的錫 伯 族 人 民 翻身 倣 了 国家 的 主人,杁 此 遊 入 了 社会 主X社 会,升 始 了 新 的生 活 。
図40:社 会 主 義 制 度 の下 で 、 国 家 の主 人 公 とな った シベ 族
7.『図 伯 特 』、柊 克 力 撰 文 、曾 多 源 絵 画 、2008年9月 物 語の あらす じ:
1755年 に盛 京 こと今 日の 沈 陽 市 に 一 人 の 男 の 子 が 生 まれ た 。 シ ベ 族 の トゥベ トだ 。 彼 は10歳 の 時 にみ ん な と 一 緒 に新 彊 の イリへ 駐 屯 して きた。 その 後 は苦 学 して 軍 の 指 導 者 に な って い き、 シ ベ 族 の駐 屯 軍 の リー ダー にな っ た 。 イリ河 の 治 水 工 事 を進 め、 辺 境 の 安 定 に貢 献 した 。
1806年3月 に はそ の 功 績 に よ り、 チ ベ ッ トへ の 巡 礼 も許 可 され た(図41)。
特 に大 きな軍 功 を立 て た わ けで は な い が 、 「祖 国 の 辺 境 建 設 」 に力 を尽 くした功 臣 の一 生 を淡 々 と描 いて い る。
70 1806年3月,医1伯 特 因 功 被 清 政 府 授 命 派 往 西 茂 向 蔵 佳 佛 教 寺 院友 放 布 施(称"蒸 茶"),干1807年10月 返 回 錫 伯 菅 。 図41:清 朝政 府 の 命 令 で チベ ッ トに巡 視 す る トゥベ ト
8.『伊 摯 将 軍 松 筍 』、紀 大 椿 撰 文 、楊 世 新 絵 画 、2008年9月 物語 のあ らす じ:
松 笏 はモ ンゴル 正 蘭 旗 の 出 身 で、 クー ロ ン弁 事 大 臣 や チ ベ ットに赴 任 す る駐 藏 大 臣 な どを 経 て イ リ(伊 黎)将 軍 の ポ ス トに長 くつ き、 祖 国 の 辺 境 経 営 に 貢 献 した。 彼 は ウイグル 人 の 生 活 を改 善 し、 西 域 の 地 理 に 関 す る書 物 も編 纂 した(図42)。
松 笏 の多 才 を示 す と同 時 に、 チ ベ ットを奴 隷 社 会 だ とす るな ど、 発 展 段 階 論 に基 づ い て、 少 数 民 族 を立 ち遅 れ た人 々だ として い る。
現代中国における少年の洗脳方法 21
9.『清 代 新彊 察 胎爾 営』、吐梛 撰文 、侃 澤 玄絵 画 、2006年5月 物 語 のあらす じ:
モ ン ゴル の チ ャハ ル 部 は清 朝 の 征 服 に もっ とも激 しく抵 抗 した 部 族 だ 。 しか し、 征 服 され た 後 は清 朝 に忠 実 で あ りつ づ け た。1762年 あ た りか ら、 チ ャハ ル ・モ ンゴル 人 は二 度 に わ た って徴 収 され て 新 彊 へ の 駐 屯 を 命 じ られ た (図43)。 彼 らは 新 彊 につ いて か ら、 天 山 南 北 を転 戦 し、
各 地 の 反 乱 を お さ め 中 央 アジ ア や ロ シ アか らの 侵 略 者 た ち を撃 破 した(図44)。 チ ャハ ル ・モ ンゴ ル 人 は 「祖 国 の 西 北 辺 境 」 を守 るの に大 きく貢 献 した。
清 朝 の 駐 屯 軍 で あ るチ ャハ ル ・モ ン ゴル 人 を 美 しく、 反 乱 者 や 侵 略 者 を卑 狸 に描 いて い る。
64 徐 松将 杵 多 新 資 料 、新 情 況 充 実 到 需 稿 中,字 数 ナ曽加 一倍 逐 多 。 松 翁 根満 意 將 需名 改 力《伊 翠 恵統 事 略 》。
図42:イ リに関 す る 地理 学 の 著作 を編 集 す る
9 1762年5月9日 111多 名 察 恰 ホ 官 兵 江 集在 察 吟ホ 八 旗 中心, 他 佃 背 負 載箭,腰 袴 域刀,騎 着 哉 耳,携 帯 妻/L,告 別 家 多,陪 防躾 鎮 出
炭 了 。
図43:新 胆 を 目指 す チ ャハ ル ・モ ン ゴル
78 1865年,中 並地 区 的浩 竿 汗 国利 用 清 政 府 忙 予鎮 圧 内地 各 族 人 民起 叉 、元 力 西 願 之 隊,乗 机 派 将 領 阿古 柏 帯 匪 徒 侵人 南弱 。 図44:中 央 ア ジ アの コー カ ン ド ・ハ ー ン国 の 侵 略者
10.『清 代 新 彊 厄 魯 特 営』、吐 梛 撰 文 、張 永 和 絵 画 、2006年5月 物 語 のあ らす じ:
清 朝 政 府 が 新 彊 を統 一 してか ら、1762年 に天 山 南 北 を管 轄 す る軍 政 府 を設 置 し、 「中 央 政 府 によ
1 清 朝 政府 統 一 新 覗 以后,1762年 建 立 了銃 轄 天 山 南 北 函 路 的 軍 政 合 一 的 軍府 制,行 使 中 央政 府 対 逗1珊地 区 的国家 主枚 。
図45:清 朝 政 府 は 新彊 を統 一 し、 国家 主権 を行 使 した
る辺 境 へ の 国 家 主 権 」を行 使 した(図 45)。 そ うした なか 、 ジ ュンガル ・ハ ー ン国 の モ ン ゴル 人 の 後 喬 で あ るウ ー ル ト(厄 魯 特)の 人 たち も清 軍 として 各 地 を転 戦 し、ウイグル 人 の反 乱 を抑 え、
帝 政 ロシア の侵 略 を打 ち破 った。 新 彊 の 各 民 族 の 人 民 は ロシ ア の 利 益 誘 導 に も動 じず に、 いっ も 「祖 国 」 を愛 し た(図46)。 ウー ル ト ・モ ン ゴル 人 た ち は 「祖 国 の辺 境 建 設 」 に大 き く貢 献 した(図47)。
ウー ル ト ・モ ンゴル 人 の 「功 績 」 を 語 りなが ら、 帝 政 ロシア に 「国 土 」 が
81 沙 俄 侵 略 軍 采 取 桐 圷誘 騙 等和 紳 手段,強 迫 伊 牽 各 族 人 民 旧順 和 屈 服,伊 摯 各 族 人 民熱 愛 祖 国,守 死 不 屈,使 侵 略 者一 簿 莫 展 。 図46:イ リの ウイ グル 人 は祖 国 を愛 し、 ロシ ア に屈 服 しな か った
94 新 中 国 成 立后,厄 瞥特 蒙 古 后 密 与 新 盟 各 族 人 民一 起,力 祖 国逸 藪 的建 没 事 並 貢 献着 自己 的力 星 。
図47:祖 国 の 辺境 建 設 に貢 献 した ウー ル ト ・モ ン ゴル 人
占領 され た とい う屈 辱 を大 々的 に強 調 し、 「祖 国 」 が 蒙 っ た被 害 ぶ りを前 面 に押 し出 してい る。
10 当 吋,伊 牽将 軍管 轄 的地 域 比現 在 要 大 根 多,巴 ホ 疇 什 湖 以.,̲.;,以 南 的几 十万 平 方 公 里 41u都属 中 国 的領 土萢 圃
図48:バ ル ハ シ湖 以 東 も か つ て は 中 国の 領 土 だ った
11.『伊 摯 索倫 営』、柊 克 力 撰 文 、黄 大 連 絵 画 、2006年12月 物語 のあ らす じ:
ソロン(索 倫)と は もともと黒 龍 江 省 あ た りに住 む 「土 着 民 族 」 に 対 す る呼 称 だ。 彼 らは 勇 猛 だ っ た ことか ら、
ソロン軍 営 を形 成 し、1763年 か ら新 彊 に派 遣 され て、 「祖 国 の 辺 境 防 衛 」 に あた った 。 当 時 、 バ ルハ シ湖 以 東 の 地 域 もす べ て 「中 国 の領 土 」 だ っ た(図48)。 ソロン 営 の 人 た ち は新 彊 の 天 山 南 北 で 起 こっ た ウイグル 人 の 反 乱 を 平 定 し、 ロシ アの侵 略 者 たち と戦 った。
ソロ ンの後 喬 は今 日の新 彊 に住 む シベ 族 や ダ ウー ル 族 だ として 、 現 在 との 繋 が りを示 して い る。
12.『 伊 摯 満 営』、柊 克 力 撰 文 、侃 澤 玄 、2006年12月 物 語 のあ らす じ:
1755年 と1759年 に 清 朝 が 「新 彊 を統 一 」 して か ら、
満 洲 人 を 派 遣 して イリに駐 屯 させ た。 彼 らが イ リで 建 て た 慧 遠 城 は北 京 を真 似 して造 られ た もので あ る(図49)。
ロ シ アの 侵 略 者 た ちが イリの 各 民 族 の 人 民 を植 民 地 に 陥 れ た 際 に も、 満 営 の 兵 士 たち は勇 敢 に抵 抗 した 。 辛 亥 革 命 の 際 に保 守 的 な満 人 は 清 朝 の 皇 帝 の た め に 忠 誠 を尽 く そ うとした が 、 今 や 歴 史 の 表 舞 台 か ら退 い た。
ウイグル 人 の 反 乱 と帝 政 ロシ アの 侵 略 、とい う 「二 大 悪 」 を軸 に して ス トー リー を織 りな して い る。
13 伊 翠 憲 透城 在 城 建布 局 上,是 彷 北 京 的 形 式建 立 的,所 以坊 史 上 有"小 北 京"之 称,当 吋 成 力 新魏王北 部 最 繁 隼 的都 市 。
図49:イ リの小 北 京 城 13.『 伊 摯 将 軍 明 瑞 』、斉 清 順 撰 文 、賀 軍 絵 画 、2008年9月
物 語 のあ らす じ:
清 朝 の初 代 イ リ将 軍 で 、 乾 隆 帝 の甥 、 明 瑞(?‑1768) の 生 涯 の 「貢 献 」 を描 いて い る。 モ ンゴル の ジ ュンガ ル ・ハ ー ン国 の 「貴 族 の反 乱 」 を鎮 圧 して新 彊
現代中国における少年の洗脳方法 23
を 「祖 国 」 に 編 入 させ た ことや(図50)、 ウイ グル 人 の 反 乱 を平 定 した事 績 が 並 べ られ て い る。
明 瑞 は最 後 に ビル マ との 国 境 地 帯 に住 む人 た ちの 反 乱 を抑 え ようとして戦 死 して い るの で、 これ を 「祖 国 の 西 南 辺 境 の保 衛 戦 」 だ として い る。
14.『 喀 爾 葬 阿』、柊 克 力 撰 文 、曾 多 源 絵 画 、2007年12月 物語 のあ らす じ:
清 代 の イ リに駐 屯 す るシ ベ 営 の 指 導 者 、 カ ラマ ン ガ (1816‑1882)は 長 期 に わ た って 大 清 帝 国 の 領 土 を守 り ぬ い た が(図51)、 最 後 は不 運 に も刺 客 に暗 殺 されて 殉 職 した 。
カラマ ンガ を 「民 族 の 英 雄 」 だ として 称 賛 し、 今 日にお いて も諸 民 族 に愛 され つ づ け てい る と紹 介 して い る。
5 1755年 秋,遊 人 伊翠 的清 朝 軍 臥 主力 撤 出伊 禦 。原 丑 拉 特 蒙古 輝 特 部 台吉 、已投 減 清 朝 的 阿 睦ホ 撤納 炭劫 叛 乱,天 山北 部 重 又 陥 入 故 乱 之 中。
図50:モ ン ゴル の 反 乱 で、 天 山 南北 は動 乱 に 陥 った
15.『葉 爾 莞保 衛 鞠 、斉 清順 撰 文 、李 虎 林絵 画 、2008年9月 物語 のあ らす じ:
19世 紀30年 代 か ら中 国 は 西 欧 資 本 主 義 列 強 の 侵 略 を受 け、 半 植 民 地 ・半 封 建 社 会 に入 った(図52)。 西 か らは 帝 政 ロ シア が 「中 国 のバ ルハ シ 湖 以 東 の 領 土 」 を 占領 した。 そ うした な か 、1830年 に は 中 央 ア ジ ア の フェ ル ガ ー ナ盆 地 に住 む ウズベ ク系 の コー カ ン ド ・ハ ー ン国 も
新 彊 南 部 の ヤ ル カ ン ド(葉Xx )に 侵 入 した(図53)。
ヤル カ ン ドの 各 民 族 は 「祖 国 」 を愛 し、保 衛 戦 に勝 った 。 帝 国 主 義 の侵 略 を誇 大 に強 調 しな が ら、 ウズベ ク系 の
人 々が 何 故 、 新 彊 に入 った か につ いて の 説 明 が な い 。 あ たか もウズベ ク人 も 「西 欧 列 強 」 の ように扱 わ れ てい る。
63 喀広 葬 阿7:出 清 政 府 的 任 命'"」J,文正洞 戸 地 回答:"大 清 国皇 帝 委 托 我 管 理 伊 梨 事 宜,再 悦 伊 皐 夙 来 就 是 大 清 国 的領 土,所 以我 有 理
由管 理伊 牽!"
図51:イ リは我 が 大清 の領 土 だ 、 と主 張 す る大 臣
1 19世 妃30年 代,国 詠 国 内形 勢 正 炭 生重 大変 化,中 国 即將 遊 人 各 受 西 方 資 本 主 文列 強 侵 略 和欺 侮 的半 殖 民地 半 封 建 的近代 社 会 。 図52:帝 国 主義 に虐 め られ て 、半 殖 民地 ・半 封 建社 会 に 入 った 中 国
37 侵 犯 叶 ホ 莞 的浩 準軍 臥万 余 人,首 先 向新 城,:..了 攻 缶,妄 国一 挙 寺 取 咳 城 后 再攻 老 城 。
図53:ヤ ル カ ン ドに侵 略 して きた ウズベ ク人
16.『 一 炮 成 功 』、買 玉 華 撰 文 、許 剣 絵 画 、2008年9月 物 語 のあらす じ:
1864年 に新 彊 の ウイグル 人 農 民 は 搾 取 に耐 えられ な くな って蜂 起 したが 、 まもな く蜂 起 軍 の 指 揮 権