(1 )
︵2
)
近時︑高見勝利教授は﹁民の義務から個の人権へ﹂という論考の中で︑拙稿﹁法実証主義的自然権説について﹂を
とりあげられ︑私の蒙を啓かれようとされている︒私の立てた問題は︑
侵であると規定していることを根拠にして︑
るかというものであった︒それを肯定する学説を﹁法実証主義的自然権説﹂と呼び︑主唱者である宮沢俊義先生の学
は じ め に
9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 .
‑ 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9
●
9 9 9 9 9 9 9 9
‑
論説ーー
•999999999999,
.,'
•99999 9 9 9 9
量
﹁ 止
ま れ
︑ お前はいかにも美しいから﹂と呼びたい︒
ゲーテ﹃ファウスト﹂
日本国憲法の基本的人権を︑憲法が永久不可 それが国家自身をも拘束する自然権であるという結論を導くことはでき
己は﹁刹那﹂に向つて
高 見 教 授 に お け る 宮 沢 的 応 答 に つ い て
高
橋
正
俊
説を検討した︒その結果は︑自然権であるという帰結を導き出すことはできないというものであった︒
高見教授の論考は︑宮沢先生を自然権論者とみることはできないとしたうえで︑仔細に拙稿を検討・批判しておら れる︒その労は多とするが︑私としては了解に苦しむところがないでもない︒そこで︑本稿では︑教授の疑問にでき
るだけ答え︑また当方の疑問をも添え︑更なる教えを請うこととしたい︒
なお︑教授の論考は二種公になっているが︑拙稿に対する批判内容に重要な変更はないようなので︑引用は
問題の背景
高見教授はまず︑宮沢先生の基本的人権論が問題とされるのは︑次のような観点から当然であるとする︒すなわち︑
﹁﹃人権﹄が立法権のみならず︑憲法制定権もしくは憲法改正権をも拘束するものだとすると⁝⁝それは︑宮沢憲法学
が﹃絶対主義﹄として排斥したはずの﹃自然法﹄を肯定することになりはしないか︒そうした疑問は︑当然のことな
(4 )
がら︑提起されうる﹂というのである︒
しかしながら︑
その例とされている私の立場は︑教授の想定とは全く異なる︒拙稿が問題にしたのは︑宮沢先生の 見解がもととなって成立し︑今日でも基本的人権解釈のさまざまな局面で大きな影響を与えつづけている﹁法実証主 義的自然権説﹂である︒それに疑義を呈するには︑原型たる先生の解釈を分析して︑本当にその証明が成功している かどうか検討するのが早道と考えたためである︒そもそも価値絶対主義は排斥すべしとか︑自然権などありえないと
決め込んでのことではない︒説得的な根拠さえあれば︑承認するに吝かではないという立場なのである︒ 俊義の憲法学史的研究﹄によることとする︒
﹃宮
沢
21‑1‑2 (香法2001)
高 見 教 授 に お け る 宮 沢 的 応 答 に つ い て (高橋)
ところで︑宮沢先生は︑夙に﹁ル・フュウルの自然法論﹂︵昭和一三年︶
﹁法学者は︑しかし︑単なる法の科学者ではない︒またそうであってはならぬ︒彼は同時に法の哲学者でなくてはな
らず︑またもっともしばしば法の解釈者でなくてはならぬ︒この意味において︑法学者は決して自然法をー│ーしかも
︑︑︑ヽ
(6 )
この種の自然法を1欠くことは許されぬであろう︒﹂
この記述からすれば︑戦前から︑先生は法の解釈に際しては︑少なくともある種の自然法・自然権を考慮に入れる
べきことを認めておられたようである︒拙稿で展開したのは︑
教授のような疑問を持つ必要はないのではないか︒教授は︑
もちろん︑法の科学の立場からすれば︑価値相対主義を採る場合︑問題が起こることはいうまでもない︒
お教え願いたいことがある︒それは︑高見教授がいずれの立場から論じられているのかという点である︒引用部分を
(7 )
その後の議論の展開のなかで憲法解釈の﹁実定法上の実益﹂を
みれば法の科学としての立場からのようでもあるし︑
もっぱら憲法の解釈にかかわる事柄であるから︑高見
そこ
で︑
問題にされているところからすれば法の解釈の立場によっているようでもある︒この点を明らかにしていただければ
教授のもたれる疑義に︑より適切に私なりの立場を示すことができるように思われる︒
以上︑拙稿の意図と方法が高見教授の考えておられるものとは︑少しく異なっていることを明らかにした︒
さておき︑以下では教授の指摘される拙稿の内容上の問題点について︑若干の検討を試みることにしたい︒ 開の中で変更されたと考えておられるのであろうか︒
それは
この先生の見解が誤っている︑あるいは以後の研究の展
で次のように説かれている︒
︵一︶私の理解
にもつているべきものであり︑
記述を根拠に︑その﹃人権﹄が﹃自然権﹄ 高見教授は︑宮沢先生が自然権論者であるとする根拠について︑﹁高橋は⁝⁝﹃基本的人権は人間が人間として当然
0 0
0 0 0 いわば天賦の人権であるから︑それは国家や憲法に論理的に先立つものである﹄との
(8 )
であるとされる﹂と紹介されている︒
そのうえで︑それは高橋の不十分な理解の結果であると指摘される︒まず︑宮沢先生のそこでの主要関心事は︑旧
憲法の基本権が﹁﹃国家によって︑あるいは憲法によって与えられ︑または少なくともみとめられたものであつて︑決
して国家や憲法に先だって存在するものでな﹄
ことにもとずいてもつている基本的な権利﹄
は﹁新憲法の﹃人権﹄ かったのに対して︑新憲法で保障される人権は﹃人間がただ人間たる
( 9 )
であることを明らかにすること﹂にあったというのである︒
また︑先生の原文には﹁いわば天賦の人権﹂とあり︑高橋は不用意にもいわばを読み落としたのであり︑その文意
( 1 0 )
の精神史的な由来ないし背景を示したもの﹂であると教示される︒すなわち︑宮沢先生は︑日
本国憲法の基本的人権は自然権論から生まれた︑
法の﹃人権﹄
というに止まるとされるのである︒
高見教授の言われるとおり︑確かに高橋の論証は不十分なように思われる︒いわばを見落としたというのは大目に
みるとしても︑﹁天賦の人権﹂という文言に拘泥した議論といわなければならない︒また︑これだけであるなら﹁新憲
( 1 2 )
の精神史的な由来ないし背景を示したもの﹂に止まるという可能性も否定できない︒
ただ︑私にとっていささか不審なのは︑﹁基本的人権は人間が人間として当然にもつているべきものであり︑いわば
宮沢先生は自然権論者か
四
21‑1‑4 (香法 2001)
高見教授における宮沢的応答について (高橋)
唆するものではなかろうか︒ かることができる﹂
とい
うの
は︑
先生はその議論に引き続いて︑アメリカ独立宣言の
すことのできない櫂利を典えられている﹂という部分を引用され︑
憲法の保障しようとする基本的人櫂が右にのべられたような意味の天賦の人櫂を意味することは︑
( 1 3 )
と述べられているのである︒
次に︑高見教授が基本的人権の由来・背景をいうにすぎない証拠として引かれる文章があるので︑
われ
る︒
い抽象レベルでの基本的人権の議論においては︑誤解をまねき易い言葉を使わざるをえないという事情があることは
了解事項といわねばならない︒宮沢先生の使われた﹁天賦の人権﹂
用部分においても使っていない︒この高橋なる人物は私とは別人ではなかろうか︒
ところで︑問題となった宮沢先生の論述は︑高見教授の意見のように︑単に新憲法の基本的人権の精神史的な由来 ないし背景を示したにすぎないのであろうか︒私には︑基本的人権は自然権に他ならないと主張されているように思
そもそも︑拙稿では
﹁天
賦の
人権
﹂
権論者であると主張した覚えがないことである︒ o
c o o o
天賦の人権であるから︑
*
五
ここからも推しは さらに日本国憲法の一三条との関係を強調し︑
﹁ 新
﹁すべての人間は紳から一定の他人にゆずりわた
それは国家や憲法に論理的に先立つものである﹂という記述を根拠にして︑宮沢先生は自然
といった憲法規定に現れない言葉を切り札にしたりしていない︒このような高
という言葉もその︱つであると考え︑拙稿では引
これは﹁由来ないし背景﹂を越えて︑
その性格が自然権であると示
それを検討して
なるのではないか︒
* みよう︒教授は断片的に引用されるが︑関係する部分を煩を厭わず引用すれば次のようなものである︒
﹃ 普
﹁天賦人櫂という考えは自然法の考えにもとづく︒新憲法は自然法的な法原理の存在を承認し︑前文でも﹃國政は國
民の厳間な信託によるものであつて︑その櫂威は國民に由来し︑その櫂力は國民の代表者がこれを行使し︑その祗利
︑︑
︑︑
は國民がこれを享受する﹄という原理をもつて﹃人類普遍の原理﹄だとしているし︑また﹃政治道徳の法則﹄が
遍的﹄なものであることを言明している︒こうした考えから︑人間がただ人間たることにのみもとずいてもつている
( 1 4 )
櫂利ー天賦人櫂—|という概念が生れたのである。」
教授は︑最後の一文︑特に生れたという言葉に着目して︑この文章は新憲法の基本的人権の精神史的﹁由来ないし
( 1 5 )
背景﹂を示すものにすぎないと判断されたのである︒正直にいえば︑この文章の意味を捕捉するのはなかなか難しい︒
思うに︑新憲法が自然法的な法原理の存在を承認していることの証拠として︑憲法における国民主権・民主主義の原
理の人類普遍性︑
および政治道徳の普遍性の言明を挙げているのであろう︒そのように新憲法は自然法的な法原理にもとづいているのだから、基本権の部分も人権ー'~天賦人権—_'という自然法原理にもとづいていると考えるべきだ
という主張なのではないか︒このように解するときには︑高見教授の理解とは異なり︑言葉遣いに幾分の違和感はあ
るものの︑生れたというのは単なる由来や背景を示すものではなく︑自然権だとする主張を含むと考えるべきことに
では︑私は何によって宮沢先生の考える基本的人権が自然権であると同定したのか︒私はその素材として﹁日本国
I~
ノ
21‑1‑6 (香法2001)
高 見 教 授 に お け る 宮 沢 的 応 答 に つ い て (高橋)
ここで︑何故にこの記述をもって基本的人権は自然権であるとの表明と考えたか説明しておきたい︒自然権の本質 として︑論者により若干異なるが︑①人為のおよびえぬ
n a t u
r e にもとづく権利であること︑②︵人為のおよびえぬ
すぎぬ︶実定法を越える効力をもつこと︑ n a
t u r e にもとづく以上当然の帰結たる︶永久性・不可侵性・普遍性をもつこと︑③自然権とされる権利は
( 1 8 )
の三要素を挙げるのが普通であろう︒そこで︑
えて
みる
︒
まず︑基本的人権は人間が人間たることにだけ根拠をおく権利というのであるから︑
である︒これはいわゆる人の内なる
n a t u
r e に基礎を置く自然法論の一バージョンと考えられる︒また︑それが永久性・
不可侵性・普遍性を備えていることも認められる︒さらに︑基本的人権は憲法改正︑さらには憲法制定権をも制約す
( 1 9 )
る権利であるとされるのだから︑超憲法的な法的効力をもつ存在である︒以上のことからして︑私はこれは世にいう るものであったからである︒ すことが許されないことを意味するほかに︑ 憲法が宣︱︱︱口し︑保障する権利が︑﹃侵すことのできない永久の権利﹄だということは︑
その
理由
は︑
七
これに照らして宮沢説を考
︵人
定法
に
それらを国家の権力をもって侵 それらの権利が︑人間が人間たることにのみもとづいて当然に享有すべ
きものであることを意味する︒⁝⁝それらの権利は︑
かように︑国家や憲法に論理的に先立つものであるから︑国家
( 1 6 )
の権力によって││盆荘i改正によってすら1それを侵すことはできないとされる﹂という記述を用いた︒
こうした説明が代表的な著作に非常に類似した形でしばしば現れるので︑先生の基本的人権論のエッ
( 1 7 )
センスと認めてのことであった︒この引用には自然法︑自然権あるいは天賦人権といった言葉が用いられていないが︑
議論のためにはそのほうが適切であると考えたのである︒蓋し︑文字論に拘泥する危険を避けるとともに︑前述のよ
うに宮沢先生に対する批判が拙稿の本来の趣旨ではなく︑
それを原型とする法実証主義的自然権説をとる論者に対す
それは人為のおよびえぬ権利
自然権であると判定したのである︒
( 2 0 )
実は︑宮沢先生が自然権論者であることは︑学界の周知事項と考えていたので︑拙稿では説明をしていない︒高見
教授のような立場を執筆当時予想していなかったのである︒ここで私の論拠を説明して議論の公正を期したい︒
︵二︶高見教授の理解
高見教授が︑宮沢先生は自然権論者といえないとする論拠はどこにあるのだろうか︒その一っとして教授は︑宮沢
先生の憲法名分論と自然法の関係から︑先生が自然権論者といえない所以を説かれている︒しかし︑この点について
は菅野喜八郎教授による詳細な批判にゆずり︑ここではもう︱つの論拠とされる点を問題にしてみたい︒
教授は︑慎重な先生にしてはかなり踏み込んで自説と自然法︵権︶の関係を示そうとされた草稿を発掘され︑それ
﹁問題は︑自然法の意味である︒もし中世の自然法のように︑絶対主義的な自然法のみが自然法であるならば︑相対
主義は自然法とは無縁かもしれぬが︑自然法にも︹は︺相対主義的な自然法もある︒
つまりそれである︒中世的自然法が︑政治真理の内容的不変を主張するのに対して︑
治的真理の形式的不変性︵真理を見出すための手続・方法の不変性︶を主張する︒
アメリカ革命︑
フランス革命⁝⁝
これらが援用した自然法はすべてこれだ︒この種の︽自然法︾は︵それを
N a t u r r e c h t と呼ぶ呼ばぬは別の問題だが︶︑
( 2 3 )
相対主義に
b e g r i f f s n o t w e n d i
g に
伴う
もの
であ
る︒
﹂
高見教授はこの記述をふまえ︑﹁宮沢は︑自然法には﹃内容的不変﹄を主張する絶対的なものと﹃手続・方法の不変
性﹄を主張する相対的なものとがあり︑後者は宮沢のよって立つ功利主義的な﹃人間主義﹄ないし﹃個人主義﹄に通 法
は︑
一八世紀的自然法は︑政 一八世紀以来の啓蒙主義的自然 を論拠とされている︒宮沢先生の草稿は︑
曰 く
︑
/¥
21‑1 ‑8 (香法2001)
高 見 教 授 に お け る 宮 沢 的 応 答 に つ い て ( 高 橋 )
るのであろうか︒興味深いところである︒ この﹁真理を見出すための手続・方法の不変性﹂という主張は︑
るという証明には繋がらないのではないかという疑問を呈しておきたい︒
結論が導かれるのではないか︒というのは︑
定とは考え難い︒そうではなく︑基本的人権はその不変の手続・方法により導出された﹁内容﹂であるとするなら︑
むしろ可変的・相対的なものという帰結になるはずだからである︒ここから︑基本的人権が憲法改正権︑更には憲法
制定権まで制約するなどという結論を導くことは︑
と通底するという功利主義的な﹁人間主義﹂ないし﹁個人主義﹂においては︑どのようにしてこの問題に解決を与え
ま た
︑
は信じられない︒
私は︑少なくともこの文章に接する限り教授とは異なる感想︑すなわち宮沢先生は自らを自然法論者であることを 自認されているらしいという思いを持つ︒というのは︑この種の︽自然法︾がアメリカやフランスの革命で援用され
( 2 5 )
たものであるとされるからには︑われわれが通常自然法と呼ぶものに相当するはずだからである︒したがって︑それ
が相対主義に
b e g r i f f s n o t w e n d i
g に伴うものであろうとなかろうと︑そこから導かれる権利は︑自然権と呼ぶにふさわ
( 2 6 )
しいものといわねばならない︒さらに︑前述の宮沢先生のアメリカ独立宣言と日本国憲法の基本的人権との関係の説明
を考
慮す
れば
︑ それは先生自身の立場の表明であると考えるのが自然であろう︒通底する別の考え方を持っていたと
いたとされるわけである︒
( 2 4 )
底するものと解しているのである﹂とコメントしている︒宮沢先生は自然法論者ではなく︑
主張する﹁相対主義的な自然法﹂論と通底する別の考え方︵功利主義的な﹁人間主義﹂ないし﹁個人主義﹂︶を持って
日本国憲法の基本的人権は︑
九
﹃手続・方法の不変性﹄を
日本国憲法の基本的人権規定まで不変であ むしろ︑基本的人権は可変的であるという その内容からして不変の﹁手続・方法﹂規
とうていできないであろう︒﹁手続・方法の不変性﹂という考え方
ところで︑高見教授は︑宮沢先生が自然権論者ではなく︑功利主義的な﹁人間主義﹂ないし﹁個人主義﹂によって
( 2 7 )
立つ立場であると考えておられる︒しかし︑この見解にはいくつか不審と思われるところがある︒第一は︑教授の自
然権という言葉の捉え方である︒私が自然権というときには︑前述のような特性をもつ観念について︑伝統的な縮約
表現として使っている︒それが功利主義的な人間主義とか個人主義と呼ぶべきかどうかにかかわりはない︒教授自身
は自然権をいかなる観念として捉えているかを明らかにしたうえで︑議論にとりかかるべきではなかったろうか︒
第二は︑高見教授の︑宮沢先生が﹁功利主義的な﹃人間主義﹄ないし﹃個人主義﹄﹂を採用されていたという主張に
かかわる︒この裏づけとして︑教授は︑憲法名分論に関する論考における宮沢先生の記述︑﹁国民の一人一人に対して︑
かような意味の最小限度の幸福を保障する﹃はたらき﹄をもつ憲法は︑﹃名﹄に適合する憲法であり︑正当性をもった
憲法である︒⁝⁝この意味において︑功利主義者の言葉を借りて︑﹃最大多数の最大幸福﹄を保障する憲法がもっとも
( 2 8 )
﹃名﹄に適合する憲法だということもできよう﹂を引用されている︒
しかし︑もしそれが宮沢先生の基本的人権論を︑功利主義的とする根拠であるなら︑先生の学説の性格を誤認させ
る表現ではなかろうか︒ここで問題になっているのは﹁国民の一人一人﹂に対する最小限度の幸福の保障であり︑最
( 2 9 )
大多数の最大幸福を標榜する功利主義とは全く異なる︒また︑先生が﹁功利法学﹂と自然法論が対立することについ
( 3 0 )
て認識しておられたことを軽視すべきではなかろう︒要するに︑この記述は﹁言葉を借りて﹂ということであり︑単
にイメージ喚起の手段として使われたと見るべきではなかろうか︒
第三は︑功利主義的な人間主義・個人主義に連動する憲法名分論に対する評価である︒教授は︑この名分論におけ
*
1 0
21‑1‑10 (香法2001)
高見教授における宮沢的応答について(高橋)
ので︑私は踏み込まないことにする︒
﹃ 名 ﹄ 評されている︒
は︑もとより︑形而上学的・自然法的色彩を帯びたものではなく︑
( 3 1 )
すぐれて功利主義的である﹂と
しかし︑私にはそのように考えることができない︒世界観・人生観から出発し︑憲法の正当性を個々
の人間を幸福にする﹁はたらき﹂に求める先生の論法は︑形而上学と呼ぶにふさわしい内容と構造を持つように思わ
れる
︒ま
た︑
る﹁憲法の
これまで述べてきたように︑自然法的色彩どころか端的に自然法論というべきものではなかろうか︒
ところで︑憲法名分論が論証に成功しているかどうかについては︑教授は不思議なことに全く吟味しておられない︒
( 3 2 )
ほとんど疑う余地がないとでも考えられてのことであろうか︒この点についても︑菅野教授が詳しく検討しておられる
基本的人権の永久性・不可侵性
高見教授は︑拙稿で宮沢先生が基本的人権を永久・不可侵とするのは問題であるとした点をとりあげ︑批判してお
( 3 3 )
られる︒そこで私が試みたのは︑基本的人権が﹁侵すことのできない永久の権利﹂であるという憲法規定から︑自然 権の一般的属性としての永久・不可侵性をとりだすことは︑憲法の当該規定の解釈からしても無理ではないかという
( 3 4 )
主張であった︒
高見教授は︑これに対して宮沢先生の意図は︑旧憲法の﹁外見的人権﹂との違いの摘示にあるにすぎないとされる︒
言われる意味は明らかではないが︑おそらく︑宮沢先生の意図からすれば︑
( 3 5 )
は︑無用の詮索であるということであろうか︒ そこで具体的に憲法規定の解釈を行うの
しかし︑私も︑宮沢先生がそこで旧憲法と新憲法の基本権規定のあり方の違いを論じていることを否定する気はさ
四 人 間 性 に よ る 基 礎 づ け
らさらない︒前者が法律の留保型の保障︑後者が実質保障型の保障を原則とするという対比であるなら全く異存がな
い︒問題としたのは︑
そこから後者の基本的人権規定が憲法改正権・憲法制定権をも制約するという重大な結論を導
く論証についてである︒教授が︑なにゆえに私の議論を無用な詮索と考えられるのか不審に思わざるをえない︒
高見教授は︑私が﹁宮沢が﹃人間性﹄のみならず︑﹃自然法﹄とか﹃神﹄まで登場させている点を問題﹂にしたこと
を批判されている︒それによれば﹁要するに︑宮沢は︑人権とは﹃人間が人間たることにのみもとづいて﹄享有すべ きものと考えるのであり︑自然法論者やキリスト教徒ならば︑これを﹃自然法﹂または﹃神﹄を援用して基礎づける
( 3 6 )
であろうというにすぎない﹂と理解すべきで︑特に自然法とか神という言葉を問題にする必要はないというのである︒
︑︑
︑︑
︑
まず︑私が何を問題としたのか確認しておこう︒それは︑宮沢先生が︑憲法に﹁﹃現在及び将来の国民に与へられる﹄
︑︑
︑︑
︑
とか、『現在及び将来の国民に対し••…·信託されたもの』とかいう言葉があるが、それは、これらの権利が憲法によっ
て与えられたという意味ではない︒いわば﹃人間性﹄によって︵もし欲するならば︑﹃自然法﹄または﹃神﹄によって︶︑
( 3 7 )
与えられたという意味である﹂とされた点である︒それに対して私は︑憲法によって
て︶与えられたという素直な解釈を排除し︑﹁かわりに﹃人間性﹄とか︑﹃自然法﹄とか︑さらには﹃神﹄まで登場さ
( 3 8 )
せている点に﹂問題を感じたのである︒ここから分かる通り︑私は自然法ないし神だけではなく︑﹁人間性﹂自体も問
題にしていることに注意していただきたい︒端的にいえば﹁人間性﹂を問題にしたのである︒
高見教授は︑人間性による基本的人権の基礎づけは︑自然法や神による基礎づけとは違う自明の真理とでもお考え
︵すなわち憲法制定権者によっ
21‑1‑12 (香法2001)
高見教授における宮沢的応答について(高橋)
なのであろうか。少なくとも私の意図が、t~文章の拙さにもよろうがー~理解されなかったのは残念である。なお、
( 3 9 )
この議論においては︑私の人間に関する理解が極めて不十分であることもあり︑人間性そのものを直接扱っていない︒
間接的に具体的な憲法規定との不整合性や︑主権との抵触関係を取り扱うことによって疑問を呈したのであった︒こ のような迂回路をとったことも誤解を生んだ理由かもしれないが︑要するに宮沢先生の想定する人間性による基礎づ ここで私の高見教授に対する希望は︑宮沢先生が人間性ということをいかに考えておられたか︑あるいは教授自身
はどのように理解しておられるか知りたいということである︒
て︑なにを人間性として抽出したのか︒それは憲法の基本的人権規定といかなる関係にあり︑
定権の制約に関していかなる意味を持つのか︒宮沢先生が自然権論者であるなしにかかわらず︑この探求こそが宮沢
人権論の最大の課題であると考えられる︒にもかかわらず︑
対象とされている高見教授の研究に期待するところ大である︒
基本的人権の人間起源性
どのような事実にもとづいて︑
﹃人間起源﹄説と宮沢の どのような論理をもっその改正権ひいては制
ほとんどその実体が見えてこない︒未刊論文をも考察の
この点については︑高見教授によれば﹁高橋の
( 4 0 )
認められない﹂とされる︒これが本当であれば喜ばしい︒しかし︑残念ながら︑違いがないというのには同意できな
い︒私がいう人間起源とは︑憲法九七条で﹁基本的人権﹂が人間の努力の成果であるとされていること︑つまり︑当
然に存在するものではなく︑人間が作り出した操作可能な観念とされていることを指して使ったものである︒そのよ
五
けの可能性について検討を試みたのである︒
﹃いわば人間性﹄説との間に特段の径庭は
視するのは難しいのではなかろうか︒ うな観念であってみれば︑その歴史被拘束性はいうまでもないことになる︒﹁基本的人権﹂は憲法によって作り出され︑
先生によれば﹁人権の概念は︑人間の社会においては︑すべての生物学的意味における人間は︑当然に社会的意味
における人間でなくてはならず︑
もとづく︒⁝⁝それがほぼ確立したといえるのは︑
る︒ここでは︑人権は確かに歴史的時間のうちにあり︑人間起源である︒しかし︑
ば︑それはいわば﹃人間﹄
*
しかも︑社会的意味における人間は︑人間社会における最高価値だという考え方に
( 4 1 )
ルネサンスおよび宗教改革にはじまる近世のことである﹂とされ
それはたちまち論理の世界に置き
換えられる︒すなわち︑﹁人権の概念がかように﹃人間性﹄とか︑﹃人間の尊厳﹄とかによって根拠づけられるとすれ
( 4 2 )
の存在ということから論理必然的にうまれるものだと考えられる﹂とされるのである︒
宮沢人権論の核心は後者にもとづいて構成され︑前国家的とか前憲法的という論理的時間を問題にすることを通し
源の
痕跡
は︑
て︑さまざまな帰結が導かれることになるのである︒そこでは
E w
i g
e G
e g
e n
w a
r t
が語られている︒そこに残る人間起
︑︑
︑︑
︑︵
叩︶
せいぜい﹁人権宣言の中味の歴史性﹂に残されるに止まっている︒もちろん日本国憲法の﹁基本的人権﹂
も論理的時間レベルでの議論として構成されていることはいうまでもない︒それを私の使った意味での人間起源と同
次に︑高見教授が︑宮沢先生は基本的人権を歴史的時間のなかで見ておられたとして挙げられた証拠をみることに 私は宮沢先生の議論を次のように理解している︒ 変更され︑滅ぼされうる存在なのである︒
一 四
21‑1‑14 (香法 2001)
高見教授における宮沢的応答について(高橋)
したい︒すなわち︑教授は︑宮沢先生の未刊資料である
w
.ゲルホーンのIミd i g i
思
dlF re ed om
ミi
d G o v e r n m e n t a l
( 4 4 )
R e s t r a i n t ,
1956の部分訳に付されたコメントを示され︑そこに﹁自由ないし人権が︑
( 4 5 )
多の試練を経つつ︑獲得された成果であることが示されている﹂旨主張される︒
民に保障する基本的人権は︑人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて︑
を保持しなければならない﹂︵︱二条︶ に耐え⁝⁝たものである﹂︵九七条︶︑﹁この憲法が国民に保障する権利及び自由は︑国民の不断の努力によって︑これ
( 4 6 )
と記したものであった︒
高見教授の主張が導きだせるか調べてみよう︒ゲルホーンの部分訳の主旨は︑自由は極めて
f r a g i l e
なものであるか
ら︑人は細心の注意をもって保持してゆかねばならない︑場合によっては闘争を辞すべきではない︑
うで
ある
︒
が︑自由は極めて
f r a g i l e
なも
ので
あり
︑ というものではなかろうか︒九七.︱二条の引用で示そうとしたものを歴史的時間の推移とするのは︑説得力がある
とはいえない︒歴史的時間の推移について︑ゲルホーンの文章に対応する部分がないし︑
条にも関係がないことからしても︑
さら
に︑
宮沢先生のコメントは︑ここで憲法の次の条文をおもい出すべきだろう﹂として﹁この憲法が日本国
とすれば︑九七条と︱二条の想起を求める先生のコメントは︑
したがって﹁国民の不断の努力によって︑
そのように考えられよう︒
たとえ高見教授の推測が正しいとしても︑
線を経つつ︑獲得された成果﹂にすぎない︒私の主張は︑
﹁わ
れわ
れは
︑
一 五 というにあるよ
﹁過去幾多の試練に耐え⁝⁝たものである﹂
そこで証明されたのは﹁﹃歴史的時間の推移﹄のなかで幾多の試
その成果が今も歴史的時間のなかにあるということであっ
た︒それに対して宮沢先生のコメントは何か答えているのだろうか︒教授の意見が聞きたいところである︒ コメントで引用された これを保持しなければならない﹂ これらの権利は︑過去幾多の試練 ﹃歴史的時間の推移﹄のなかで幾
しかしながら︑私はこの議論が腑に落ちない︒まず︑教授はそこでは主権のうちで国民主権がすでに選択されてい
ることを前提にしている︒私がノモス主権ではないかとしたのは︑例えば君主主権も選択肢でありうる一般的な主権
を考えていたのである︒したがって︑ノモス主権でないというには︑主権には国民主権以外ありえないという証明が
( 5 0 )
必要となる︒たしかに︑時代の流れとして日本にそれ以外の政治的選択肢があるとは想像し難いことは否めない︒し
か し
︑
それが学問上の要請であるとされるのなら承服しかねるといわねばならない︒
では︑国民主権であればどうか︒宮沢先生が主張され︑高見教授も同意された︑国民主権は個人主義の原理・基本
( 5 1 )
的人権尊重の原理をコロラリーとするという主張は︑成り立ち難いと考えられる︒国民主権にいう国民を﹁統一体と
しての国民﹂を指すとし︑個人主義における個人を﹁個々の人間﹂であるとするなら︑
ある︒このことは︑個々人を問題にする基本的人権についても同様であろう︒この架橋の困難性を高見教授はどのよ ている︒国民主権の内在的要請であるとされるわけである︒
一
✓,基本的人権の憲法改正権・制定権制約の根拠
私は︑宮沢先生の基本的人権が憲法改正権・制定権を制約するとの主張は︑ノモス主権論をとった︱つの帰結では
( 4 7 )
ないかという見解を述べた︒これに対して高見教授は︑宮沢説はノモス主権ではないと主張されている︒
( 4 8 )
高見教授の説明によれば︑国民主権とは﹁国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威が国民にある﹂とい
うことである︒ゆえにそれは個人主義の原理に由来し︑個人主義の原理は当然に基本的人権の尊重の原理を要請する
( 4 9 )
という︒すなわち︑﹁宮沢においては︑国民主権の原理と基本的人権尊重の原理とは不可分一体のものとして観念され﹂
その間には断絶があるからで
一 六
21‑1‑16 (香法2001)
高 見 教 授 に お け る 宮 沢 的 応 答 に つ い て ( 高 橋 )
教授のいわれる実定法論上の実益の内容をご教授願いたい︒︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑これに対して︑宮沢先生のいわれる実益についてなら私にも一案がある︒ そうであるとすれば︑宮沢先生の議論は︑国民主権すなわち国民の憲法改正・制定権力を制約する︑換言すればそれを越える個人主義の原理・基本的人権尊重の原理という法ルールの存在を認めるものである︒このルールはこの世の主権者である国民を越える存在であり︑を決める実益は︑
まさ
に︑
先生
は︑
一 七
この点に関し次のようにいわれ それをノモス主権論と呼ぶのも不当とはいえないように思われる︒
ところで︑私が理解に苦しむのは︑高見教授が︑宮沢先生の考え方に従えば基本的人権は憲法改正権だけでなく憲
( 5 2 )
法制定権をも制約するはずであるという私の見解に同意した後で︑﹁宮沢にとって︑実定法論として重要な問題は︑む
しろ︑基本的人権が憲法改正の限界を画する点にある︒憲法で保障されている権利が基本的人権に含まれるかどうか
( 5 3 )
この点に求められるからである﹂といっていることである︒
理論的には基本的人権が憲法制定権を制約するなら︑当然に憲法改正権をも制約するはずであるから︑前者の制約 の方がより根本的で菫要に思える︒なぜ実定法論としては憲法改正の限界の方が重要であるのか︑実益があるのかが 理解できない︒基本的人権の憲法制定権力に対する制約性を実定法上のものとして肯定されるらしい高見教授の見解 からすれば︑不思議であるといわざるをえないのである︒まさか︑実社会での効用という意味で実定法論上の実益と
いっているわけではないであろう︒ うに考えておられるのであろうか︒
いずれにせよ︑私への批判の一環として述べられた意味が了解できかねる︒高見
*
﹁人権宣百で保障されている権利が基本的人権に含まれるかどうかをきめることの実益は︑基本的人権が憲法改正権
( 5 4 )
に対する限界とされる点にある︒﹂
﹁憲法改正権に対しては︑なんらの限界がないとする見解がある︒この見解をとれば︑憲法で保障されている権利が
( 5 5 )
基本的人権の性格を有するかどうかをきめることに︑別段の実益はない︒﹂
﹁基本的人権に関する人権宣言の規定がその限界を構成すると考えないとすれば︑やはり︑憲法で保障されているあ
( 5 6 )
る権利が基本的人権に含まれるかどうかをきめることは︑実益をもたないことになる︒﹂
( 5 7 )
つまり︑ここで実益とは憲法改正権を制約するという法的効果があることを意味しているにすぎない︒先生が憲法
制定権に対する制約に言及しなかったのは︑いうまでもなく当然と考えられ︑またそこまで大上段に振りかぶる必要
高見教授は︑私が宮沢先生の基本的人権論の構造自体を問題にした点に触れて︑
﹁宮沢が﹃論理の出発点﹄を憲法規定自体に置き︑﹃憲法典を超越する自然権が存在し︑妥当していることの証明を︑
憲法典がそのように言っているということに求め﹄
であるとする︒ を認めなかったからであろう︒ て
いる
︒
曰 く
︑
曰 く
︑ るという﹃自己言及に陥っている﹄とし︑⁝⁝右の証明は不可能
( 5 8 )
宮沢は自然権論者とは考えられないとの私見の立場からすると︑上述の批判は︑根拠のないものと思われる︒﹂
七 基 本 的 人 権 論 に お け る 自 己 言 及 性
一八
21‑1 ‑18 (香法2001)
高 見 教 授 に お け る 宮 沢 的 応 答 に つ い て (高橋)
宮沢先生が自然権論者でないことは︑私の議論を無意味にするであろうか︒私は問題を総括的に扱うために︵また︑
宮沢先生は自然権論者と信じるがゆえに︶自然権という言葉を使ったのであるが︑次のように言い換えても私の問題 存在し︑妥当していることの証明を︑憲法典がそのように言っているということに求め﹄
高見教授も︑基本的人権が憲法改正権や憲法制定権を制約する︑
拠を憲法自体の規定に求めるのは可能かという問題はやはり残るといわねばならない︒
はりその成否が示されねばならない︒教授はそれは成り立ち︑
さらに︑宮沢先生が﹁自己解明﹂という名称で法文自体がもつ自己言及の問題性を指摘していることをあげ︑
( 5 9 )
宮沢が︑条文の文言のごときに幻惑されたとはとうてい考えられない﹂と結んでおられる︒しかし︑私のここでの問
題提起は︑文言ではなく思考構造を問題にしているのであり︑
ここで私が疑問としたのは自己言及ということ自体ではない︒自己言及の問題性は古くからの話柄で
︵当たり前の話であるが︑自己言及には︑承認しうる場合もあればそうでない場合もあるにすぎない︒︶拙稿で
問題にしたのは︑
そこでなされている自己言及が︑構造上の問題を抱えていることである︒すなわち︑主権の発動の 結果である憲法典の文言を根拠に︑主権を越えてそれを制約するような法ルール 方に対する懐疑を示したものである︒この点が理解されなかったようなのは残念という他ない︒
それはともかく︑幻惑されたのではない︑ そ
もそ
も︑
( 6 0 )
ある
︒
しての責務を負うのではなかろうか?
すな
わち
︑
一 九
この批判にはいささか困惑を感じざるをえない︒
﹁そ
の
この問題が残るとすれば︑
や
るという﹃自己言及に陥っ
すなわち超越することは認めておられる︒その根 ゆえに私の見解が誤りであることを証明する批判者と
︵自然権︶を認める解釈構造のあり
むしろ承知のうえでのことだという示唆には啓発されるところがある︒
てい
る﹄
︒﹂
は成立するのではなかろうか︒﹁﹃論理の出発点﹄を憲法規定自体に憤き︑﹃憲法典を超越する基本的人権が
というのは︑自己解明に関する宮沢先生の見解は鋭い︒例えば︑﹁成文法は文章で自己を解明・説明するを例とするが︑
これがそれに対する客観的認識をまげることが多い﹂とされ︑また﹁かような自己解明は︑その本質上︑当然ながら︑
科学々説の場合よりは︑よりいつそう多
v
I d e o l o g i
e 的機能を営む﹂という指摘など深くその中核をついたものと考え
られる︒ところで︑このような理解を前提とするとき︑永久不可侵性とか︑普遍性とかの憲法規定上の﹁自己解明﹂
的文言を手掛かりに︑宮沢先生が基本的人権の超憲法性を証明しようとされるのは︑
のことであったのだろうか︒この点についても高見教授のご意見を伺いたい︒
以上︑高見教授の拙稿に対する批判に︑私なりに答えたつもりである︒日本国憲法制定以来半世紀︑残念ながら基
本的人権の本質をめぐる議論は驚くほど乏しい︒本稿による高見教授との意見の交換が︑今後︑この分野での一層の
*森林太郎訳︵岩波文庫・昭和三年︶第二部六七四ー五頁 ( l ) 高見勝利編﹃人権論の新展開j(北海道大学図書刊行会•平成一一年)三七頁以下(2)高見勝利「宮沢俊義の憲法学史的研究』(有斐閣•平成―二年)二八三頁以下(3)香川法学一四巻三•四号(平成七年)九七頁以下 ( 4 )
高見・前掲注
( 2 ) 三00
頁
( 5 )
高橋・前掲注
( 3 )
九九頁参照 議論がなされる呼び水となれば︑望外の幸せである︒
お わ り に
いかなる﹁機能﹂を予想されて 二
0
21‑1 ‑20 (香法2001)
高 見 教 授 に お け る 宮 沢 的 応 答 に つ い て (高橋)
( 2 1 ) ( 2 2 ) ( 2 3 )
( 9 ) ( 1 0 )
( 1 1 )
( 1 2 )
( 1 3 )
( 1 4 )
( 1 5 )
( 1 6 )
( 1 7 )
宮沢俊義﹃憲法の思想﹄︵岩波・昭和四一一年︶
高見・前掲注
( 2
) 三0六頁
高見・前掲注
(2
)‑
︱10
一頁
高見・前掲注
(2
︶三
0‑
頁
高見・前掲注
( 2
)
三0
二頁
宮沢先生は天賦の人権という言葉を象徴的に使われており︑いわばにそれほどの意味を込めているとは思えない︒
菅野喜八郎﹁高見勝利﹃宮沢俊義の憲法学史的研究﹄を読んで﹂日本法学六六巻四号︵平成一三年︶︱二六ー七頁参照
蠍山政道編﹃新憲法講座第二巻﹄︵政治教育協会・昭和︱︱二年︶二0八頁参照︵宮沢俊義執筆︶
蠍山・前掲注
( 1 3 )
二0八ー九頁
高見・前掲注
( 2
) 三0二頁参照
宮沢俊義﹃憲法︵改訂版︶﹄︵有斐閣・昭和三七年︶一〇六ー七頁
例えば︑蠍山・前掲注
( 1 3 )
二0七ー八頁︑宮沢俊義﹃憲法
ニー三頁︑宮沢俊義I I ﹄︵有斐閣・昭和三四年︶二0
1 1 芦部信喜﹃全訂
日本国憲法﹄︵日本評論社・昭和五三年︶一九四ー五頁︑参照
( 1 8 )
例えば︑尾高朝雄﹃法の窮極に在るもの﹄︵有斐閣・昭和三0年︶二八頁以下参照
( 1 9 )
憲法制定権に対する制約については︑拙稿では︑先生の議論からすればそうなるはずと
T h . M a u n z
によりつつ主張した︵高橋・
前掲注
(3 )‑
0九
‑ ‑ ‑ 1
0 頁参照︶︒しかし︑実はすでに先生自身が︑前掲注
( 1 7 )
﹃憲
法 I I ﹄ 二
0三頁で認めておられた︒調査不足
を反省している︒
( 2 0 )
例えば︑初宿正典教授は︑﹁宮沢の戦後の人権論には︑⁝⁝やはり﹃自然権﹄︵ないし自然法︶の承認とも受け取りうる︵少なくと
もそう受け取られてもやむをえないような︶表現があることは否定できない﹂と述べられている︵﹁ジュリスト書評﹂ジュリスト一
一八 二号
︵平 成︱ 二年
︶六 七頁
︶︒
高見・前掲注
( 2
)
三︱一頁参照
菅野・前掲注
( 1 2 )
一三一ーニ頁参照
高見・前掲注
( 2
)
三︱二頁
( 8 )
( 7
)
( 6 )
︱︱
七一
頁
︵傍
点筆
者︶
︵菅 野・ 前掲 注 ( 1 2 )
一三
三ー
四頁
参照
︶︑
︵岩 波・ 昭和 四二 年︶
につ
いて
は︑
七八頁 四︱二頁 そう述べられている以上︑宮沢先生が
渡辺康行﹁人権理論の変容﹂
﹃現
代国
家と
法﹄
(岩波•平成九年)
( 2 4 )
高見・前掲注
( 2 )
三︱二頁
( 2 5 )
菅野教授はこの記述の正しさを疑っておられるが
本文のように考えられていたこと自体は疑えない︒
( 2 6 )
蠍山・前掲注
( 1 3 )
二0八頁参照
( 2 7 )
高見・前掲注
(2 )‑
︱二二頁参照
( 2 8 )
宮沢俊義﹁憲法の正当性ということ﹂﹃憲法の原理﹄
( 2 9 )
菅野・前掲注
( 1 2 )
一三四ー五頁参照
( 3 0 )
宮沢・前掲注︵
6)
︱‑
五三
頁参
照
( 3 1 )
高見・前掲注
( 2 )
三0九頁
( 3 2 )
菅野・前掲注
( 1 2 )
︱二七ー一三七頁参照(33)高見・前掲注(2)三0二—三頁参照
( 3 4 )
高橋・前掲注
( 3 )
10 1‑ 10
五頁参照
( 3 5 ) よもや︑先生の主要関心事は別であるから︑記述の細部にまでは気が回らなかったといおうとされているのではないと思うが︒この不思議な論法は、天賦の人権についての議論などでも使われている(高見•前掲注(2)三01頁参照)。
( 3 6 )
高見・前掲注
( 2 )
三0
三頁 ( 3 7 )
宮沢・前掲注
( 1 6 )
10
七頁
( 3 8 )
高橋・前掲注
( 3 )
10
六頁 ( 3 9 )
基本的人権論の前提となる人間像論︵とその混迷︶
六五頁以下参照︒
( 4 0 )
高見・前掲注
( 2 )
三0三頁参照
( 4 1 )
宮沢俊義﹃憲法
I I
︹新
版︺
﹄︵
有斐
閣・
昭和
四六
年︶
( 4 2 )
宮沢・前掲注
( 4 1 )
七八頁
( 4 3 )
宮沢・前掲注
( 4 1 )
九八頁以下参照
21‑1‑22 (香法2001)
高見教授における宮沢的応答について (高橋)
高見•前掲注(2)三0四頁参照
高見・前掲注
(2
︶三
0 1 ︱ ‑ 頁
高見•前掲注(2)三0四頁参照
高橋・前掲注
( 3
)
︱
‑0
頁参照
高見・前掲注
( 2
) 三0五頁
高見・前掲注
( 2 )
三0五頁
高見教授は憲法名分論がなりたっという前提を閥かれているのかもしれない︒しかし︑その場合︑現世における﹁名﹂のない憲法
の実在をどのように説明されるのであろうか︒
( 5 1 )
一般的な議論については︑菅野・前掲注
( 1 2 ) 一三六ー七頁参照︒
( 5 2 )
高見・前掲注
( 2 ) 三0五頁参照︒このことはすでに宮沢先生が認めておられ︑
Sc he in pr ob le
であることについて前掲注m
( 1 9 )
参照
︒ ( 5 3 )
高見・前掲注
(2 )‑
︱1
(54)(17)『憲法II』一九八頁宮沢•前掲注 五頁0
( 5 5 )
宮沢・前掲注
( 1 7 )
﹃憲
法
宮沢•前掲注(17)『憲法11』一九九頁(56) ﹄一九八頁1 1
( 5 7 )
もっとも︑実社会における効用の意味で実益という言葉を使われているとおぼしい場合もある︵宮沢ー芦部・前掲注
( 1 7 )
﹃全
訂
本国憲法﹄一九四頁参照︶︒
( 5 8 )
高見・前掲注
( 2
)
三0六頁
( 5 9 )
高見・前掲注
( 2
)
=
1 0
六頁
( 6 0 )
最近の文献として︑N・ルーマン︵土方透訳︶﹃法の社会学的観察﹄
( 6 1 )
高見・前掲注
( 2
) 三0六頁参照
( 4 4 ) ( 4 5 ) ( 4 6 ) ( 4 7 ) ( 4 8 ) ( 4 9 ) ( 5 0 )
(ミネルヴァ書房•平成―二年)
ロ
10
頁以下がある︒ 日