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(1)

-_-_―-―—―—―—―—―—―-―---―-―—―-―—―—―_-_-—―ー---

論説::

'----c———————-—-—_-_-___—————-—————: ——_-_:-_——

ボリンジャーの 「マスメディアの自由」 論

マスメディアの公的規制の論拠と

自主規制機関の役割一__

.LU

忠 司

は じ め に

I.  FCCの公正原則廃止論 II.  ボリンジャーの公的規制論

III.  ボリンジャーの公的規制論の位置づけと自主規制機関の役割 お わ り に

は じ め に

制限国家を理想とする近代立憲主義の意義を現行憲法において強調する ならば,確実な根拠のない,論争の種となっているような存在理由しか説 明できない公的規制は,それだけでマイナス評価を受けても仕方がなく,

憲法学者ならば,真っ先にその規制の廃止を訴えるべきであろう。

だが公的規制を課すあらゆる領域でそうなのだろうか。公的規制が人間 の多面性・多重性・両面価値性を反映しているとすれば,常に論争的な公 的規制がそれとして存在する価値のある領域もないとはいえないのではな そして,私には,表現の自由という法領域がそのような論争的な存 いか。

0

(2)

ボリンジャーの「マスメディアの自由」論(池端)

在理由でしか説明できない公的規制が, まるで怪物のように闊歩している 領域のように思われる。わいせつ規制,名誉の保護,プライバシーの保護,

そして, ここで問題にする放送メディアヘの公的規制などがその怪物の名 前である。

それだけではない。 この領域は,戦争などに影響されやすく, 飛び入り の公的規制が現われては消えていく。

(1) 

法が横行する。

また平時でさえも, いわばパニック つい最近もアメリカではインターネット上の表現の自由を

{2) 

めぐり,連邦品位法

( t h eCommunications Decency Act  =  CDA)

が 活 躍 す る 前 に 裁 判 所 に そ の 効 力 を 停 止 さ れ , 最 終 的 に 連 邦 最 高 裁 に よ っ て 違 憲

(3) 

判 決

(Renov .  ACLU}

が下されている。 この法案は, 子どもの虐待や子ど

一面を表現している。

もを巻き込んだ犯罪や人権侵害に直面して手を棋いているアメリカ社会の このようなパニック法の登場とその矯正を繰り返す 領域で,表現の自由の法理なるものが存在し, それが規則性を持って進歩 し発展しているなどとは到底望めないとあきらめるべきかもしれない。

そのような社会のあらゆる生活空間に開かれている表現 の自由の法領域ゆえに,規則性のなさという規則性を生みだし,表現の自 時代を超え,地域的相違も超越した普遍性や真理性を帯びる して, 皮肉にも,

由の法理は,

法理として,したがって,ジョン・ミルトンの時代から

J . S .  

ミルやホームズ

裁判官の時代まで, 強 靱 で は

(4) 

あるが望みの低い法原理として,崇め奉られる運命にあるのかもしれない。

さらに第三世界から先進諸国まで通用する,

たしかに, パニックは問題だが, パニック法はパニックそれ自体よりも ましであろう。パニックが起きたとき,表現行為や表現物やメディアをい けにえにして,それらに公的規制を課す方法が閉ざされていたならば,我々

0

は,感情の行き場を失い, さらにひどいパニックが生じるであろう。 した がって, パニック法は,決して無意味なものではなく,我々の不安の

1

つ の吸収剤の役割を果たす民主的な装置ということになる。

さ て こ こ で 取 り あ げ る 放 送 メ デ ィ ア の 領 域 だ け に 課 せ ら れ た 公 的 規 制 それは確かに論争的な存在理由しか は, やはりパニック法なのだろうか。

18‑1‑305 (香法'98) ~72~

(3)

たとえば,放送事業の免許制自体違憲という主張もあるし,内容規

(5) 

制などもってのほかだと唱える論者もいる。マスメディアに公的規制を行 当然すぎる主 ない。

この自由な社会のどこに存在すると言うんだ,

張がなぜ通らないのかと,首をかしげる良識ある人々も少なくないであろ う理由など,

う。

そのような反対論の中で,

かの主張がなされている。 たとえば,

ローチをとるものやドイツ法的な制度的アプローチをとるもの,

マスメディアの公的規制を正当化するいくつ アメリカ法の議論のような市場アプ

さらに,

その中間に日本の放送の自由を位置づけ,公的規制を肯定するものまであ

(6) 

り,市場アプローチの中でも公共政策的な判断に依拠する見解は,情報と その配分におけるマスメディアの役割を いう公共財の市場論理を踏まえ,

(7) 

強調するものであり,制度的アプローチは,マスメディアの果たす民主的

(8) 

政治過程における制度的な重要性を強調するものである。 そして不思議な ことに, マスメディアの自由や公的規制のそういった理解の違いがあるに

(9) 

もかかわらず,ボリンジャーのいわゆる部分的規制

( p a r t i a lr e g u l a t i o n )

(のちの

I I

で若干説明する)に依拠して最終的には放送に限って公的規制を

(IO) 

肯定する論者がいる。それをみると,

規制の論拠の議論全体とは切りはなして,

な役割をそれに与えている。

ボリンジャーのマスメディアの公的

もちろん,

自説を補うための接ぎ木のよう そのこと自体否定されるべきこと ではないが,私としては,

その前提となるマスメディア全体の規制根拠を示す部分に魅力 ボリンジャーの部分的規制論の意義を認めるだ けでなく,

を感じる。 そして部分的規制論も彼の全体の主張の中で捉えられることに よってその意味が正確に理解されると思うため,本稿では,彼のマスメデ ィアの公的規制の論拠の議論全体を紹介し,その理論の意義を確認し,続 いてそれに関連した日本の議論(自主規制機関の役割論)を素材として,

間接ながらポリンジャーの唱える公的規制の論拠の説得力を吟味し,日本 の議論に一石を投じることができればよいと思っている。

0

(4)

ボリンジャーの「マスメディアの自由」論(池端)

I  .  FCC の 公 正 原 則 廃 止 論

ボリンジャーは, ア メ リ カ 合 衆 国 の 連 邦 通 信 委 員 会

( F e d e r a lCommuni‑

c a t i o n s  Commission  =  FCC)

の公正原則

( F a i r n e s sD o c t r i n e )

廃 止 論 を 素 マ ス メ デ ィ ア の 公 的 規 制 の 論 拠 を 検 討 し て い る 。 公 正 原 則 と は , 連 材に,

邦通信法の一般条項を根拠に,

FCC

の放送行政の原理として,第

1

に公的 に 重 要 性 の あ る 争 点 を 積 極 的 に 提 供 す る 義 務 と , 第

2

にその論争的な争点 に つ い て 対 立 する見解に発表の機会を公正 に提供 す る義務 を 放送事 業 者に 課すものである。

FCC

は,言うまでもなくアメリカ合衆国における放送メ

ディアの公的規制の推進役であり,育ての親のような存在でありながら,

1 9 8 5

年の「放送の被免許者の一般的な公正原則義務に関する報告書」にお い て , 思 想 の 豊 饒 な 交 換 市 場 を 確 保 す る た め の 唯 一 の メ カ ニ ズ ム と し て 自 由市場システムヘの回帰を公然と主張した。その中で,

FCC

は,連邦最高

裁の裁判官で表現の自由の絶対的な保障を説いてきたウイリアム •O. ダグ ラ ス 裁 判 官 の 書 き 物 や 判 決 意 見 に か な り 依 拠 し な が ら , 公 正 原 則 の 廃 止 を 求めた。 こ の 報 告 書 に よ っ て 公 正 原 則 は ア メ リ カ 合 衆 国 に お い て マ ス メ デ

(10 

ィアの公的規制一般の是非をめぐる論戦の最前線となった。

(1)  公 正 原 則 廃 止 の 3つの理由 通常,

(12) 

公 正 原 則 は 3つのレベルから反対の主張がなされている。

1

に,公正原則が言論を促進するよりも萎縮させると主張される。 の原則は,放送事業者に, 反 対 す る 見 解 を 放 送 す る コ ス ト や 公 正 原 則 に 基

︱ ︱ 1

0

づ く 訴 え に 応 答 す る コ ス ト を 課 す た め , 放 送 事 業 者 は , 放 送 で 取 り あ げ る 公 的 な 争 点 の 総 数 を 少 し で も 増 や す と い う よ り も 減 ら す で あ ろ う と い う 見 解である。

2

に,

と言われる。何が「公的に重要性のある論争的争点」

公 正 原 則 は , 本 来 的 に 原 則 的 な 方 法 に よ っ て は 執 行 さ れ 得 な い で あ る か , 所 与 の 放 送 事 業 者 の 番 組 編 成 が そ の よ う な 争 点 の 一 面 だ け を 提 供 し て い る か ど う か

18‑1  303 (香法'98) 74 

(5)

の決定は,不明確な前提や一貫性のない決定へと導くであろうし,実際に そうだったというものである。

第 3に,これまで公正原則の存在理由と考えられてきた周波数帯の稀少 性が存在しなくなったので,廃止されるべきであるという主張である。周 波数帯の稀少性は確かに非常にわずかな数の放送局という結果をもたらし たが,電子・印刷の両メディアの市場への参入機会の変化は,本質的に寡 占的な市場でなければならない要素を取り除き,政治の情報や思想の配分

自由市場に依存することを可能にした。

ボリンジャーは,これらの主張に説得力の強さを感じるが,

張には深刻な欠陥があり,公的規制の再評価の主張を正当に扱っていない イデオロギー的な動 の唯一の手段として,

それらの主

と考える。 それらの主張は,不完全であるばかりか,

機から唱えられており,それゆえ,真剣に取り組むべき争点を過度に単純 化しがちである。彼は,公的規制に反対する立場の知的前提が正しくなく,

不完全であり,公共政策の問題としてそれらの廃止を結論するまえに,

正原則のような規制についての他の選択可能な理論的な視点を検討すべき

03) 

であるという。

以上,「萎縮効果」の主張,「主観性」の主張,

3つの論点をさらに詳しく検討するため,ボリンジャーは,

力ある考えを述べているとみなす

FCC

の公正原則廃止論を論戦相手とし て利用する。したがって,まず,

FCC

の廃止論の内容を確認してから,

「伝統的論拠の不存在」の もっとも説得

そ れに対するボリンジャーの評価と彼自身の見解をみることにする。

(2)  「萎縮効果」の主張=逆効果

FCC

は,報告書の中で,放送事業者が不服申立てや対応のコストのため に公的争点に関する報道を選択しなくなるという主張の根拠として,放送 事業者自身の証言をあげている。

FCC

がその証言を信じる理由はそれが自 己に不利な発言だからであった。ボリンジャーはこの

FCC

が全面的に依

(14) 

拠する放送事業者の証言に疑いをもつ。

0 ニ

(6)

ボ リ ン ジ ャ ー の 「 マ ス メ デ ィ ア の 自 由 」 論 ( 池 端 )

また,公正原則の第

2

の義務(対立する双方の見解を取りあげること)

か ら 生 じ る 萎 縮 効 果 を 克 服 す る た め に , そ の 第

1

の 義 務 ( 公 的 に 重 要 性 の ある論争的な争点を取りあげること) だ け を 使 う 可 能 性 を

FCC

が 否 定 す る理由として, 「編集上の意思決定過程への政府干渉を生む」 とか, 「政府 公 務 員 が 党 派 的 な 政 治 目 的 の た め に そ の 原 則 を 濫 用 す る 機 会 を 拡 大 す る お それ」 とか, 「放送事業者や

FCC

の 双 方 に よ っ て 生 み 出 さ れ る 経 済 的 な 費 用を増大させる」などがあげられる。 しかし,

縮 効 果 の 主 張 は こ れ ま で ジ ャ ー ナ リ ズ ム ヘ の 政 府 規 制 案 に 放 送 事 業 者 が 異 ボ リ ン ジ ャ ー に よ れ ば , 萎

議 を 唱 え て き た こ と か ら 発 す る も の に す ぎ な い 。 放 送 事 業 者 が ま ず 第 一 に 萎縮効果をあげ,政府干渉の問題を取りあげない理由も,

FCC

が 公 正 原 則 に 好 意 を 持 っ て い な い の で 政 府 機 関 に よ る 報 復 の お そ れ が な い こ と を 察 知

(15) 

した結果である。

ボリンジャーは, この萎縮効果の主張のもう一つの問題点をあげる。

れ は

FCC

が そ の 実 際 の 問 題 の 半 分 し か 扱 っ て い な い と い う 点 で あ る 。 そ つ

まり,公正原則がかりに放送事業者を萎縮されてきたとしても, その原則 に 従 う こ と に よ っ て 増 大 し た 争 点 や 意 見 の 数 と 比 較 検 討 さ れ な け れ ば な ら ない。これが

FCC

が無視した調査である。公正原則の第

1

の義務を執行す る可能性についても,我々がそのより厳格な執行からどんなベネフィット が得られるかを検討したあとでなければ, 公正原則のもつ潜在的なコスト が 決 定 的 と は い え な い 。 我 々 が 現 実 に 知 る 必 要 が あ り , 知 ら な い の は , 公 正 原 則 の よ う な 規 制 か ら 引 き 出 し た い ベ ネ フ ィ ッ ト と は 何 で あ り , そ の 望

(16) 

みが実際に実現される限界である。

0

1

(3)  「主観性」の主張=原理的な執行の不可能性

1 9 6 0

年代後半のたばこコマーシャルを放送した放送事業者に,反喫煙の メッセージのための放送時間を提供することから始まり, その他のコマー シャルについて数多くの公正原則に基づく異議申立てを検討し,

ャ ル の 茂 み に ま で 公 正 原 則 が 及 ぶ 結 果 に な っ た こ と を 過 ち と 認 め た

1 9 7 4

コマーシ

18‑1 ‑301 (香法'98) ‑ 76 ‑

(7)

年 の 判 例 ま で の

FCC

が実際に公正原則を適用した事例を観察するとき,

公正原則に反対する

FCC

の委員や裁判官に出会う。ある論者によれば,こ の こ と は , 公 正 原 則 が そ れ に 固 有 の 問 題 と し て 原 理 的 な 執 行 が 不 可 能 で あ

(17) 

ることを具体的に示すものである。

公正原則は,「公的に重要性のある論争的な争点」の均衡のとれた報道を 要求する。ある番組がどの争点を扱っているかを判断するとき, そ の 番 組 の「明示的な」メッセージだけに公正原則を適用するならば, その執行の そ の 反 面 , そ の 原 則 が 無 意 味 に な る ほ ど 適 用 を 回 避 す る 機 会 を 広 げ る と い う 代 償 を 払 わ な け れ ば な ら な い 。 他 方 , 番 組 の 中

の見解の微妙な表現にも公正原則を適用する余地を残すとすれば,

則に目的の実効性を与える反面,「現実の」番組の視聴者に与えたインパク トがどれほどであったかについて予測できない「主観的な」評価に頼らざ

(18) 

るを得なくなる。

明確さを達成できるが,

そ の 原

さ ら に は , 公 正 原 則 が 「 公 的 に 重 要 性 の あ る 争 点 」 だ け に 適 用 さ れ る の で , 政 府 機 関 が 裁 判 所 も 含 め , あ る 争 点 が 他 の 争 点 よ り も 重 要 で あ る か ど うかについての価値判断に巻き込まれることが避けられない。 それは,

論 お よ び プ レ ス の 自 由 を 保 障 す る 修 正 第 1条 が 許 さ な い も の で あ る と 言 わ れ

) t

こ の 主 観 性 の 主 張 に 対 し て ボ リ ン ジ ャ ー は つ ぎ の よ う に 反 論 す る 。 以 上 の 公 正 原 則 に 反 対 す る 主 張 は , 新 し い 法 領 域 の た め の 実 際 に 使 え る 指 導 的 な 原 理 を 選 り 分 け る こ と の 難 し さ を あ げ る も の で あ り , こ の 主 張 は , 妥 当 な 視 点 か ら 評 価 さ れ る こ と が 重 要 で あ る 。 つ ま り , 他 の 修 正 第

1

条 の 法 原 理をみると,公正原則と同様に,無制限で原理づけられない「主観的な」

判断に開かれており, さらには, 公 的 な 争 点 と い う 領 域 で の 争 点 相 互 の 価 値 序 列 化 と そ の 利 用 に 依 存 し て い る 。 た と え ば , 名 誉 毀 損 の 法 領 域 に お い て,公的な人物の事例で同様の決定に直面する。つまり,どの公的論争が,

も っ と も 禁 止 さ れ な い 議 論 に 値 す る か を 決 定 し て い る 。 ま た , 同 じ 名 誉 毀 損の領域で,意見の陳述を事実の陳述から区別する問題で,

00

一 般 の 受 け 手

(8)

ボリンジャーの「マスメディアの自由」論(池端)

に ど ん な 全 体 的 な イ ン パ ク ト を 与 え た か を 決 定 し て い る 。 不 確 実 性 と い う 特 徴 と 判 断 を 明 確 に 表 現 す る こ と に 困 難 を 伴 わ ざ る を 得 な い こ と は 決 し て

(20) 

公正原則に特有のことでない。

九九

(4)  「マスメディア状況の変化」の主張=「市場の失敗」の原因の解消 第

1

も,第

2

の 論 拠 も 規 制 目 的 を 問 わ ず , 公 的 規 制 の も つ 手 段 と し て の 善 し 悪 し を 問 題 に し た の に 対 し て , 第 3の 論 拠 は , 公 的 規 制 の 目 的 自 体 に 関 わ る 論 拠 で あ る 。 ボ リ ン ジ ャ ー は こ の 論 拠 の レ ベ ル を 明 ら か に す る た め に,つぎのような問いかけを行っている。「どんな懸念が放送メディアに公 正 原 則 を 適 用 す る よ う に 求 め る の か 。 社 会 が こ の 原 則 を 用 い て 何 を 達 成 し よ う と し て い る の か 。 社 会 は ど ん な ベ ネ フ ィ ッ ト を そ の よ う な 政 策 か ら 導

(20 

き出すことを合理的に期待しているのか。」

FCC

の 答 え は 一 般 に よ く 聞 く , ま っ た く 単 純 な 論 理 の 線 に 沿 っ た も の で あ る 。 つ ま り , 修 正 第

1

条 は , ア メ リ カ 社 会 の つ ぎ の よ う な 基 本 的 な 価 値 を 具 現 す る と と も に 反 映 す る 。 そ の 価 値 と は , 我 々 が 真 理 や 知 恵 の 追 求 ヘ のコミットメントを分有し(とりわけ民主的意思決定に関して),この目標 を 達 成 す る 最 善 の 道 は , 誰 も が 入 手 可 能 な 豊 か な 情 報 や 思 想 の 貯 水 池 を も つ こ と で あ る と い う も の で あ る 。 し か し 放 送 メ デ ィ ア に 関 し て は , 可 能 な 放 送 局 の 数 に 物 理 的 な 制 約 が あ り , 少 な く と も 過 去 に お い て は , あ ま り に も 限 ら れ た 者 が 思 想 の 自 由 市 場 へ の 非 常 に 重 要 な ア ク セ ス の 道 を コ ン ト ロ ー ル で き る こ と を 意 味 し た 。 し た が っ て , 政 府 規 制 に よ る 抑 制 が な い な ら ば , 放 送 事 業 者 は 概 し て 一 面 的 な 偏 見 の あ る 番 組 編 成 を 提 供 し , そ れ に よ っ て 世 論 が 操 作 ・ コ ン ト ロ ー ル さ れ て , 不 健 全 な 状 況 に 直 面 す る こ と に な る 。 し た が っ て , 公 正 原 則 は , 電 磁 気 的 な ス ペ ク ト ル の 物 理 的 な 制 約 に よ っ て 生 み 出 さ れ た 市 場 の 失 敗 を 矯 正 す る た め に 考 案 さ れ た と い う こ と に な る 。 と こ ろ が , 印 刷 メ デ ィ ア と 同 様 に , 放 送 メ デ ィ ア も , 放 送 局 の 多 産 化

(ケーブル,低出カテレビなど)のために,放送メディアの異例の集中化 の お そ れ は , か つ て 政 府 干 渉 と い う 異 例 な 救 済 策 を 招 い た が , い ま で は も

18‑1 ‑299 (香法'98) ~78

(9)

(ll,) 

はや合理的とはいえない。

ボリンジャーの分析では,この

FCC

の第

3

の見解に対して,公正原則の 支持者から通常,

2

つ の 反 論 が 用 意 さ れ る 。 第

1

に,そこで主張されてい る 放 送 局 の 利 用 可 能 性 の 増 大 は い ま だ 実 現 さ れ て い な い と い う も の で あ る。第

2

に , 放 送 は 他 の メ デ ィ ア よ り も そ の 視 聴 者 に か な り 大 き な 「 影 響 カ 」 を も つ の で , た と え そ の 他 の メ デ ィ ア が ( 印 刷 メ デ ィ ア は 顕 著 に ) 開 か れ , 抑 制 さ れ て い な い と し て も , 我 々 は 放 送 市 場 や そ こ へ の 参 入 の た め の 機 会 に だ け 我 々 の 目 を 向 け る べ き で あ る と い う も の で あ る 。 つ ま り , こ の 影 響 力 の 強 さ と い う 主 張 が , い ま で も 存 在 す る 放 送 メ デ ィ ア の 物 理 的 な 制 約 と い う 追 加 さ れ た 事 実 と と も に , 放 送 を 他 の メ デ ィ ア と は 区 別 さ れ た

⑳ 

独特のメディアと考えるように我々を強いることになる。

し か し ボ リ ン ジ ャ ー は , 公 正 原 則 の 支 持 者 か ら の 反 論 を つ ぎ の よ う に 評 価し,その不十分さを示すことになる。「端的に言って,公正原則の支持者 た ち は , 放 送 メ デ ィ ア だ け を 見 て お り , 放 送 メ デ ィ ア の 特 徴 で あ る と 伝 統 的に考えられてきた市場の失敗という特有の状況に注意を促しつづける。」

「それらの反論は,私には,公正原則に反対する立場の中心となる欠陥を見 過 ご し て い る よ う に 思 わ れ る 。 そ の よ り 致 命 的 欠 陥 は , 一 つ の 仮 説 , つ ま

り こ の よ う な 公 的規制を正当化する唯一の論 拠 が,あ る 種の市 場 の失敗 を 内容とするという考えから生じる。委員会の立場は,別の言葉で言えば,

放 送 メ デ ィ ア に お い て 局 の 現 在 の 数 と 可 能 な 数 の 総 数 が 一 定 限 度 を 超 え さ え す れ ば , 人 民 が 公 正 原 則 の よ う な 公 的 規 制 を 行 う こ と に 正 当 な 利 益 を 持 た な い と 想 定 し て い る よ う に 思 わ れ る 。 情 報 や 思 想 の 浅 瀬 が , 消 費 者 の 需 要 を 満 た す ほ ど 十 分 に 貯 え ら れ て い る か ぎ り , 我 々 は 干 渉 の た め の 合 理 性

(2

をもたない。私はこの考えが正しくないと思う。」

こ こ で , ボ リ ン ジ ャ ー は , 他 の メ デ ィ ア と 異 な る 影 響 力 の 強 さ や , 今 で も放送メディアに限ってみれば物理的な制約が存在することを根拠とする 公 正 原 則 支 持 論 が , 市 場 の 失 敗 を 理 由 と す る 公 正 原 則 反 対 論 の よ り 根 本 的

な 問 題 点 を 捉 え 切 れ て い な い こ と を 指 摘 し た 。 つ ま り , 影 響 力 の 強 さ と い 九八

(10)

ボリンジャーの「マスメディアの自由」論(池端)

う 主 張 を 別 と す れ ば , 公 正 原 則 の 反 対 論 も 賛 成 論 も と も に 市 場 の 失 敗 を 唯 ーの公的規制の論拠だと想定していることである。

I I .  

ボ リ ン ジ ャ ー の 公 的 規 制 論

(1)  市 場 へ の ア ク セ ス を 支 配 す る 権 力 へ の 懸 念

そ れ で は , な ぜ 市 場 へ の 参 入 度 や 市 場 に お け る 情 報 ・ 思 想 の 需 給 関 係 を 見 て , 公 的 規 制 の 必 要 を 論 じ る こ と が 誤 り な の か 。 通 常 考 え ら れ て き た 市 場 の 失 敗 以 外 に マ ス メ デ ィ ア の 公 的 規 制 を 正 当 化 す る 論 拠 が 別 に あ る の だ

ろうか。

ボリンジャーはこの問いに答え,つぎのように述べている。「議論の出発 点 は , 修 正 第

1

条 が 前 提 と す る 命 題 か ら し て , わ ず か な 人 や 集 団 が 思 想 の 自 由 市 場 へ の ア ク セ ス を コ ン ト ロ ー ル す る だ け で も , 我 々 は , 彼 ら が そ の 地 位 に あ る た め に 行 使 す る こ と に な る 権 力 に つ い て 懸 念 を 抱 く 十 分 な 理 由 があるということである。そのようなコントロールできる地位にある者は,

他 の 争 点 よ り も 注 目 に 値 す る 争 点 に つ い て の 議 論 を 軽 視 で き , 書 き 落 と す こ と が で き , ま た , 彼 ら が 議 論 し た 争 点 に つ い て の そ の 意 見 ま た は 見 解 に 対 し て も , 同 じ こ と が で き る 。 ま さ に こ の 彼 ら に よ っ て な さ れ た ど ち ら の 行 為 も , お そ ら く 公 的 な 議 論 及 び 意 思 決 定 を 歪 め , 社 会 に と っ て 不 幸 な 結

(25) 

果を招くだろう。」「これが真実だとすれば,我々の懸念は,権力 つま り 多 少 な り と も 独 占 的 に 視 聴 者 に 命 じ る こ と の で き る 能 力 に関するも の で あ る と す ぐ に 認 め な け れ ば な ら ず , こ の 懸 念 は , そ の よ う な 権 力 が 獲 得される仕方によって,減じるようなものではない。別の言葉で言えば,

そ の よ う な 権 力 は , メ デ ィ ア の 利 用 に 関 わ る 物 理 的 制 約 ( 放 送 に つ い て の 伝 統 的 な 前 提 ) の 結 果 で あ ろ う と も , 経 済 シ ス テ ム の 制 約 ( 日 刊 新 聞 の 市 九 場 に お け る 権 力 集 中 に つ い て の 伝 統 的 な 前 提 ) の 結 果 で あ ろ う と も , あ る 七 いは こ れ は 一 般 に 承 認 さ れ て い な い 点 で あ る が コ ミ ュ ニ テ ィ の 一

部 ま た は 多 数 派 に 十 分 に 訴 え る と い う 意 味 で 明 白 な 市 場 の 成 功 の 結 果 で あ ろ う と も , 我 々 に と っ て は 何 ら 違 い は な い と 言 う べ き で あ る 。 不 安 の 感 覚

18‑1  297 (香法'98) ‑ 80  ‑

(11)

を引き起こすのは,市場へのアクセスを支配する権力にかかわるリスクで あり,その権力が生じる原因ではない。したがって,メディアヘの実際の 参 入 者 あ る い は 潜 在 的 な 参 入 者 の 膨 大 な 総 数 が , そ れ 自 体 で , 不 安 の 感 覚

復j)

を抑えるのに十分と仮定するのは重大な誤りである。」

以上のように,ボリンジャーの見解では,公的規制を正当化する論拠は,

市場の失敗それ自体ではなく,その結果生じる「権力」への懸念であった。

複 数 あ る よ う に み え る 論 拠 も , 実 は そ の 「 権 力 」 を 生 じ さ せ る 一 原 因 に 過 ぎない。たとえば,印刷メディアにおいてその権力の集中が,経済システ ムによってもたらされたものであっても,我々はその権力集中に懸念を抱 くし,我々の市場での情報選択の一票が忠実に市場に反映され,多数派や 社会のセグメントにマッチした「市場の成功」がありえ,その結果,マス メディアが市場へのアクセスを支配したとしても,その権力に対して懸念 を抱かないわけにはいかない。

しかしボリンジャーは公的規制を正当化する我々のもつ懸念が,この「権 カ」への懸念だけではなく,さらに広範囲な懸念が公的規制を正当化する 論拠になると理解する。それは「人間性」への懸念である。

(2)  人 間 性 ( 人 の 自 然 ) へ の 懸 念

ボリンジャーは,前述の権力に対する懸念さえも,我々の潜在的な懸念 の全領域を十分に把握してはいないとし,「人間性」への懸念に言及する。

我々は,どんな仕方で権力が獲得されようとも,その権力について懸念を 抱 く の も 当 然 で あ る が , 我 々 が 公 的 な 問 題 の 議 論 で 我 々 自 身 の 行 動 の 自 然 またば性格について,懸念を抱くのも当然である。この後者の懸念は,ま さ に 本 質 的 に 市 場 で の 我 々 の 需 要 = 欲 求 の 自 然 に つ い て の 懸 念 を 意 味 す る。我々は,我々自身のなかに問題のある傾向を認めることができる。っ まり,その傾向とは,相手の立場からの意見を聞いたり読んだりすること を待てずに自分の立場の不公平な説明から結論に飛びつくこと,我々が信 じやすいものだけを聞きたがること,さらには,我々自身がもつ政治的価

九六

(12)

ボ リ ン ジ ャ ー の 「 マ ス メ デ ィ ア の 自 由 」 論 ( 池 端 )

値 と は 異 な っ た り , そ れ に 異 議 を 唱 え た り す る 思 想 や 意 見 か ら 我 々 の 注 意 を 逸 ら す こ と な ど で あ る 。 こ の よ う な 傾 向 は , 単 に 誤 っ た 情 報 を 与 え ら れ た 市 民 や , こ こ ろ を 閉 ざ し た 不 寛 容 な 市 民 を 生 み 出 す だ け で は な く , 排 除 さ れ て い る と い う 疎 外 感 を も っ た 社 会 内 の 小 集 団 ( サ ブ グ ル ー プ ) を 生 み

(27) 

だ す と い う 点 で , 社 会 に と っ て か な り 明 ら か に 悪 い 影 響 を 及 ぼ す 。

ボ リ ン ジ ャ ー に よ れ ば , こ の 一 連 の 懸 念 を ほ と ん ど の 人 が 抱 く と い う 現 実は(唯一のありうる状況でないと理解することが重要だとしても),多く の 人 が 今 日 の マ ス メ デ ィ ア の 世 界 を 公 正 に 描 い た と き の 現 実 で あ る 。 全 国 的 な レ ベ ル で 数 百 万 人 に 伝 達 で き る , 数 の 少 な い ネ ッ ト ワ ー ク や , そ れ ぞ れ の コ ミ ュ ニ テ ィ に お い て そ の ほ と ん ど の 住 民 に 伝 達 で き る 日 刊 紙 は , 莫 大 な 人 数 か ら な る 市 民 の 多 数 派 の た め の 全 国 的 及 び 地 域 的 な 情 報 の 第 一 位 の 情 報 提 供 者 で あ る 。 ま た , ニ ュ ー ス や 情 報 の 提 供 者 が 決 し て 他 の 参 入 者 の参入の可能性を汲み尽くすことがないことも明らかである。というのも,

あ る 意 味 で , ま さ に 情 報 提 供 者 は 視 聴 者 や 読 者 に , 彼 ら が 市 場 で 行 っ た 選 好 の 表 明 行 為 を 介 し て 彼 ら の 「 望 ん で い る 」 も の , 需 要 を 単 に 提 供 し て い

るだけだからである。

このように我々の需要を忠実に反映する市場において,我々の懸念は,

ま さ に 市 場 の ア ク セ ス を 支 配 で き る メ デ ィ ア の 権 力 だ け で な く , そ こ を 流 れ る 情 報 の 内 容 を 左 右 す る 我 々 の 需 要 で あ り , そ の 需 要 が , 先 に 述 べ た 社 会 に 悪 影 響 を も た ら す 傾 向 を 反 映 し て い る こ と で あ る 。 だ と す れ ば , 我 々

は , マ ス メ デ ィ ア の 公 的 規 制 を 考 え る 場 合 , マ ス メ デ ィ ア の 行 動 に 影 響 を 与 え る 市 場 で の 受 け 手 の 問 題 に も 考 慮 す る 余 地 が あ ろ う 。 ボ リ ン ジ ャ ー は その点をつぎのように説明する。「そのうえ,我々の市場で手に入れたもの に 票 を 投 じ る 『 我 々 』 と 同 一 人 物 の 我 々 が , こ の よ う な 市 場 シ ス テ ム に お 九 い て 我 々 が ど の よ う に 行 動 し て い る か , そ の 行 動 が ど の よ う な 選 択 な の か 五 に つ い て 非 常 に 懸 念 を 抱 い て い る だ ろ う と 想 像 し な い わ け に は い か な い 。

し た が っ て , 我 々 は , あ る 限 度 ま で こ の 自 由 市 場 と い う 場 で , 気 づ い て み る と 抱 い て い た 需 要 を 変 え た い と か , 部 分 修 正 し た い と か 思 う こ と も , 公

18‑1 ‑295 (香法'98) ‑ 82  ‑

(13)

⑳) 

的規制を通じて決定できる。」

そ し て , マ ス メ デ ィ ア の 公 的 規 制 は , 我 々 が そ の 属 す る 社 会 の 意 思 決 定 を す る 場 合 に 当 然 開 催 す る 共 同 の 集 会 と 同 じ 意 義 が あ る と ボ リ ン ジ ャ ー は い う 。 つ ま り , 市 場 は あ く ま で も 個 人 の 選 択 の 集 積 に す ぎ ず , 全 体 の た め の 選 択 で は な く , し た が っ て , 市 場 に お け る 我 々 の 一 人 一 人 の 情 報 の 選 択 という投票結果によって,我々の公的な問題について重要な公的な争点と は 何 か あ る い は 重 要 な 意 見 と は 何 か を 最 終 的 に 決 定 す る こ と は あ ま り に 危 険であるということになる。「ここで述べられた考えは,決定が共同の集会 と い う 場 で の み 行 う と 判 断 す る よ う に 集 団 や 組 識 を 動 機 づ け る も の と 同 じ も の で あ る 。 も し も 集 会 が 開 か れ ず , そ れ に 代 っ て , ど の 特 定 の 争 点 に つ い て 自 分 自 身 を 啓 発 す る か , ど の よ う に 啓 発 す る か に つ い て 我 々 自 身 に よ る 自 由 な 選 択 に 任 さ れ る な ら ば , 我 々 の う ち の か な り の 者 が 自 己 教 化 の 責 任 を 引 き 受 け る こ と を 怠 り , そ れ に 代 っ て , よ り 楽 し い こ と を 追 求 す る 選 択 を 行 う で あ ろ う し , あ る い は , す で に 我 々 に 賛 同 す る 人 々 だ け を 探 し 出 す 自 然 な 性 癖 の た め や あ る い は 十 分 な 情 報 を 手 に 入 れ る と い う 可 能 性 と は 何 の 関 係 も な い 他 の 多 く の 理 由 の た め に , 選 択 的 に の み 自 己 を 啓 発 す る で

(30) 

あろうというのが我々の認めるところである。」

ボリンジャーは,以上述べてきた自己の見解をつぎのようにまとめている。「こ のように,我々は意義のあるどんな見解も手に入れる機会

( o p p o r t u n i t y )

を 持 つ に も か か わ ら ず , 問 題 を 決 定 す る た め に 意 見 を 一 致 さ せ る 制 度 な い し 手 法 が 存 在 し な い 場 合 に は , 別 の 場 面 で 我 々 が 行 う 決 定 よ り も , 最 終 的 に はより出来の悪い決定をしてしまうのも無理からぬことである。それゆえ,

重 要 な の は 我 々 が つ ぎ の こ と を 認 め る こ と で あ ろ う 。 つ ま り , あ る 状 況 下 で メ デ ィ ア に ア ク セ ス を 与 え ら れ る こ と を 要 求 す る 公 的 規 制 は , 市 場 に お け る 構 造 的 欠 陥 を 正 す た め だ け に 考 案 さ れ た と 考 え る 必 要 は な い 。 ご く わ ず か な 者 が 公 的 な 討 論 に 対 す る 非 常 に 絶 大 な 権 力 を 行 使 す る と い う こ と

は , 規 制 を 正 当 化 す る 申 し 分 の な い 理 由 で あ ろ う が , そ れ は も ち ろ ん 規 制 を 行 う た め の 不 可 欠 な 条 件 で は な い 。 そ の 理 由 が な い 場 合 で も , そ れ 以 外

九四

(14)

ボ リ ン ジ ャ ー の 「 マ ス メ デ ィ ア の 自 由 」 論 ( 池 端 )

の十分な懸念が前面に出ることができ, そ れ ゆ え , 我 々 は 公 的 規 制 が 一 つ の あ り 得 る 理 由 づ け だ け に 左 右 さ れ る と 考 え て し ま う 過 ち を お か さ な い よ

うに注意しなければならず, も ち ろ ん 伝 統 的 に 表 明 さ れ て き た 市 場 の 失 敗

(31) 

という理由づけには左右されない。」

(3)  放送メディアのみの公的規制肯定論(部分的規制論)

ところで, 前述した公的規制の論拠が正しいとして, こ こ で 重 要 な 問 題 が生じる。 そのような規制を基礎づける懸念が, 印 刷 ・ 放 送 の 両 メ デ ィ ア で生ずる一般的な懸念だからである。 ボ リ ン ジ ャ ー は こ の 理 論 上 の 窮 地 か

ら脱するために,部分的規制論を展開する。

ボ リ ン ジ ャ ー は か つ て 憲 法 の 問 題 と し て つ ぎ の よ う に 主 張 し た 。 同 じ 目 的 の た め に は , 放 送 と 印 刷 を 区 別 す る 理 由 が な い に も か か わ ら ず , 放 送 メ ディアだけに公的アクセス規制を許すことに意味がある。 もしも双方のメ ディアについて共通の権力の集中という懸念があるとしても,

問題のためには,

このような

(32) 

全面的ではない,部分的な規制を許すのが適切である。

憲法論としては, これ以上ここでは言及せずに, ボ リ ン ジ ャ ー は 公 共 政 策 の 問 題 と し て , 放 送 メ デ ィ ア だ け に パ ブ リ ッ ク ・ ア ク セ ス 規 制 を 課 す 選 択が正当化されるべきかどうかを検討する。 ボ リ ン ジ ャ ー は イ エ ス と 答 え る。 その理由はつぎのように説明される。部分的な救済は, 多 く の 利 点 を 提供する。 そ の 企 て に よ っ て 生 じ る 可 能 性 の あ る コ ス ト や リ ス ク は も ち ろ ん抑制される。 そしてメディアの公的規制という場において, そ の こ と は とくに重要である。政府が権力を濫用するリスクが今でも存在し, したが って,政府の権力の射程範囲を制限し, そ れ と と も に 権 力 の 濫 用 に 対 抗 す 二九三 る 防 波 堤 と し て 効 果 的 に 役 立 っ た め に 規 制 さ れ な い セ ク タ ー を 提 供 す る こ

とは賢明のように思われる。 したがって, このようなリスクは単に抑制さ れるだけでなく減少する。 そ し て , 規 制 さ れ な い 圏 域 が 標 準 で あ る 環 境 の

も と で 規 制 者 が 継 続 的 に 働 か な け れ ば な ら な い よ う な 新 し い メ デ ィ ア に 規

(33) 

そのリスクの減少はさらに促進される。

制を限定することによって,

18‑1 ‑293 (香法'98) 84  ‑

(15)

また, ボリンジャーは放送メディアの公的規制のそのメディアヘの直接 の効果だけなく,他のメディアとりわけ印刷メディアにあたえる象徴的な 効果を指摘する。つまり,「部分的救済の有効性を検討するならば,もちろ んその公的規制は排除された集団や見解に,少なくとも何らかのアクセス を提供する。しかしおそらくそれと同じだけ,

を持つのは,公的規制がバランスを象徴する役割を引き受ける可能性であ る。公的規制は 実際に私の考えでは公正原則がそうだったと思うのだ あるいはより大きな重要性

が—市場において何が適切な需要であるかの表現だけでなく, 一般的に ジャーナリストのための妥当な専門的な標準に対する公的な承認を表明す

o

(4)  自由市場至上主義者からの疑問

ボリンジャーは自由市場至上主義者からの予想される疑問を取りあげて その内容はつぎのようなものである。すなわち,かりに市場の失敗 がないと仮定し,さらに人民が,必要としかつ望む情報を手に入れるうえ いる。

で,何が問題なのかの認識をもつと仮定したとき,

通じて彼らの欲求を実現することが完全に可能であると判断するならば,

ましてや政府の権力濫用についての懸念が高くなる修正第

1

条の領域にお なぜ政府規制を許すべきなのか。もしも人民が公的な争点のバラン スのとれた議論を望むならば,そのときは,彼らにそのような議論を強く

もしもそうしないならば,今度は,彼ら自身の判断に 人民が市場システムを

いて,

求めるままにさせ,

属する尊重すべき選択を,彼らが欲しなかったのだと我々は考えるべきで 色

あろっ。)

ボリンジャーは,

には当てはまらず,

このパターナリズムの批判がマスメディアの公的規制 その批判によって真の争点を見失わないようにすべき

『他者』つまり少数派か多数派の であると忠告する。「問題は, 『我々』が,

二九二

どちらかにアクセスまたはバランスの要請を課すべきかどうかではないと いうことを思い出さなければならない。なぜなら,我々は,少数派も多数

(16)

ボ リ ン ジ ャ ー の 「 マ ス メ デ ィ ア の 自 由 」 論 ( 池 端 )

派 も 法 的 矯 正 を 必 要 と し て い る と 理 解 す る か ら で あ る 。 我 々 は , 真 の 争 点 か ら 注 意 を そ ら す 手 段 と し て , パ タ ー ナ リ ズ ム の 亡 霊 に 訴 え る の を 許 す べ き で は な い 。 む し ろ , そ れ に つ い て す で に 述 べ た よ う に , そ の 問 題 は , 多 数 派 が 開 か れ た 市 場 に お い て 図 ら ず も 行 っ て い た 選 択 を あ る 程 度 ま で 変 更

する手段として,公的制度や規制に賢明にも頼るかどうかである。」

ま た , ボ リ ン ジ ャ ー は , こ こ で 集 会 の 意 義 と の 類 似 性 か ら , 公 的 規 制 を マスメディアの一部の市場に課す意義を説明する。「この論文で私がすでに と り あ げ た , 個 々 人 に よ る 投 票 と い う 方 法 に 代 わ る , 集 会 と い う 場 で の 問 題 解 決 の 選 択 と い う 実 例 に 助 け ら れ て , 前 述 の 主 張 の 正 し さ が 示 さ れ る よ

う に 思 わ れ る 。 実 際 に 集 会 は ど ん な 決 定 の 投 票 の た め に も 必 要 と さ れ る 情 報 の 収 集 と い う 点 で 時 間 と 労 力 を 節 約 す る と い う の も 事 実 で あ る が , そ の 利 点 は , 私 の 考 え で は , そ れ を は る か に 超 え る も の で あ る 。 さ ら に , 我 々 は 殿 名 や あ る い は 私 的 な 役 割 の ま ま に 放 っ て 置 か れ る な ら ば , 自 分 自 身 を 啓 発 す る こ と を 怠 り , も っ ぱ ら 不 公 平 に 自 分 自 身 を 啓 発 す る こ と が , 人 間 の 自 然 の 回 避 で き な い 特 徴 で あ る こ と を 理 解 す る 。 我 々 は , 互 い に 異 な る 選 択 を 行 う で あ ろ う し , そ の 選 択 が な さ れ る 場 に 左 右 さ れ , 別 々 の 行 動 を と る で あ ろ う 。 そ の 要 点 は , あ る シ ス テ ム 内 で の 我 々 の 行 動 に 対 す る 我 々 の失望に左右されるとは限らないということである。つまり,我々は,我々 自身の中に互いに異なる立場があること,互いに異なる選好があること,

そ の 各 々 の 立 場 が 互 い に 異 な る 組 識 の 中 で の み 意 を 満 た す こ と を , 容 易 に 感 じ る こ と が で き る 。 そ こ で の 決 定 的 な 争 点 は , 人 々 が 選 択 を 行 う 場 を 変

え る こ と に よ っ て , 自 分 た ち が 持 っ て い る と 理 解 す る あ る 種 の 傾 向 に 対 し て 自 分 た ち を 守 り た い し , そ の 傾 向 を 加 減 し た い と 当 然 思 う と い う 命 題 を

受け入れる準備があるかどうかである。」

っ ま り , ボ リ ン ジ ャ ー は , 放 送 メ デ ィ ア に お い て 市 場 の メ カ ニ ズ ム で は な い 行 動 を 人 々 に 期 待 す る た め に は , 行 動 を 行 う 場 の 変 更 の た め に 公 的 規 制 が 重 要 で あ る と 主 張 し た 。 そ れ は , 集 会 と い う 場 が 情 報 の 収 集 と い う 点 で 時 間 と 労 力 が 節 約 す る と い う 効 率 性 の 利 点 だ け で な く , 集 会 と い う 共 同

18‑1 ‑291 (香法'98) ‑ 86 ‑

(17)

の 場 の 設 定 が 同 じ 個 人 で も 市 場 で 行 う 個 人 個 人 の 独 立 し た 行 動 と は 異 な る 行 動 を 可 能 に さ せ る と い う 利 点 に 着 目 し た 結 果 で あ っ た 。 そ し て , そ の 場

の 変 更 に よ っ て , 我 々 が 自 分 た ち の 自 然 な 傾 向 か ら 自 分 を 守 り 加 減 し た い と 合 理 的 に 思 う と い う 命 題 を 受 け 入 れ る 準 備 が あ る か ど う か が 大 事 な 争 点 であるとし,その命題が受け入れやすいことをつぎのように説明する。

「修正第

1

条の理論的基礎のうえに立ち,メディアの公的規制に反対する ほ と ん ど の 人 に と っ て , 前 述 の 命 題 は , 簡 単 に 否 定 で き な い も の で あ る と 私 は 思 う 。 と い う の も , 彼 ら 自 身 も , 最 終 的 に は ま さ に 同 じ 命 題 を 当 て に し て い る か ら で あ る 。 彼 ら に と っ て の 争 点 と は , 社 会 的 意 思 決 定 の 他 の 何 らかの方法によって,実際の価値よりも低く評価されがちと思われるいく つ か の 諸 価 値 を 促 進 す る と い う 目 的 の た め に , 他 の 異 な っ た あ る い は 特 別 の 社 会 制 度 を 立 ち あ げ る こ と が , 社 会 に と っ て 賢 明 で あ る か ど う か で は あ りえない。というのも,それこそが修正第

1

条 と 連 邦 最 高 裁 の 役 割 に つ い

(38) 

ての共通の認識だからである。」

最後に,全体のまとめとしてボリンジャーは,言論の自由やマスメディ ア の 自 由 の 概 念 の 発 展 段 階 に 触 れ , 国 家 か ら 言 論 を 保 護 す る こ と か ら 始 ま り,言論の機会の創設という役割を経て,現在では,我々の自然な傾向を ど の よ う に コ ン ト ロ ー ル す る か と い う 問 題 に 議 論 が シ フ ト し て き た こ と を 説明するためにつぎのように述べている。「言論及びプレスの自由のオリジ ナ ル な モ デ ル は 検 閲 の 権 力 や 脅 威 に 対 抗 し て 言 論 や プ レ ス の 活 動 を 保 護 す る こ と の 重 要 さ を 強 調 す る も の で あ る が , そ の モ デ ル は , も は や そ の モ デ ルのために戦った者を根源的に駆り立てていた今日の時代の生活のリアリ テ ィ ま た は 望 み を 取 り 扱 う た め に は , も は や 十 分 で な い と 何 十 年 間 も 言 わ れ て き た 。 主 と し て , メ デ ィ ア の 成 長 を 理 由 に , ま た , あ る 者 が 他 者 に 対 し て 享 受 す る 言 論 の 権 力 と い う 点 で の 特 に マ ス メ デ ィ ア ヘ の ア ク セ ス を 持 つ か ど う か と い う 点 で の 不 均 衡 を 理 由 に , 多 く の 者 が 修 正 第

1

条 の 積 極 的 な側面の承認を求めてきた。その側面は,弾圧に対する保護だけではなく,

言 論 の た め の 機 会 を 創 設 す る も の で あ る 。 我 々 は , い ま で は , こ の 目 的 の 九〇

(18)

ボ リ ン ジ ャ ー の 「 マ ス メ デ ィ ア の 自 由 」 論 ( 池 端 )

達 成 で さ え も 我 々 が そ の 望 み を 失 っ た ま ま に し て お か な い と い う こ と を 悟 る べ き で あ る 。 と い う の も , ア ク セ ス の 十 分 な 平 等 と い う 状 況 は , 人 間 性 を 前 提 と す る か ぎ り , 我 々 の 最 善 の 行 動 あ る い は 最 善 の 決 定 を 必 ず し も 保

(39) 

護しないからである。」

八九

I I I .   ボリンジャーの公的規制論の位置づけと自主規制機関の役割

(1)  プ レ ス の 自 由 委 員 会 の 批 判 的 後 継 者

それでは,ボリンジャーの考え方の意義を整理してみよう。

ま ず , 彼 の マ ス メ デ ィ ア の 公 的 規 制 の 論 拠 に つ い て 特 徴 的 な の は そ の 論 拠 の 複 数 性 で あ る 。 一 つ は , 権 力 集 中 に よ る 世 論 操 作 の 可 能 性 で あ り , ボ リンジャーの言葉で表現すれば,「市場へのアクセスを支配する権力」への 懸 念 と し て あ げ て い る も の で あ る 。 こ の 指 摘 は 日 本 の 議 論 で も よ く 見 る も

の で あ り , た と え ば 「 マ ス メ デ ィ ア ヘ の ア ク セ ス 権 」 の 法 的 承 認 の 問 題 が

1 9 7 0

年代から

8 0

年 代 前 半 に か け て 議 論 さ れ た と き , 多 く の 論 者 に よ っ て

(40) 

す で に 指 摘 さ れ て い た 。 放 送 の 領 域 の よ う に , 周 波 数 帯 の 稀 少 性 と い う 物 理 的 な 制 約 に よ っ て 権 力 の 集 中 が 生 じ る に せ よ , 印 刷 メ デ ィ ア の 分 野 の よ

う に , 経 済 シ ス テ ム の 結 果 と し て 生 じ る に せ よ , あ る い は 完 全 な 市 場 が 仮 に 成 立 し た 結 果 で あ る に せ よ , 比 較 的 限 ら れ た 数 の 人 々 に よ っ て 行 使 さ れ る 自 由 は , 放 送 に 限 ら ず , 我 々 の 懸 念 を 引 き 起 こ し , マ ス メ デ ィ ア に 公 的 規制を課す論拠となる。

ところが,ボリンジャーのもう一つの論拠,つまり人間性(人間の自然)

の う ち の 悪 し き 傾 向 へ の 懸 念 は な じ み が な く , 日 本 の 憲 法 学 に お い て 同 様

(4U 

の 主 張 を み な い 。 こ れ ま で の 表 現 の 自 由 一 般 の 法 理 や 表 現 の 自 由 を 保 障 す

(42) 

る理由を問う原理論を前提とするとき,非常に違和感を覚える議論である といえよう。もっとも彼はすでに表現の自由の原理論の分野でこれまでと

(43) 

は前提を異にする「寛容の一般理論」 (theGeneral Tolerance Theory)を 提 唱 し て お り , そ れ を 前 提 と す る と き , そ の 主 張 に 一 貫 性 が あ り , 他 の 主 張 よ り も 説 得 力 を も つ と い う こ と に な る の か も し れ な い が , こ こ で は そ れ

18‑1 ‑289 (香法'98) 88 ‑

(19)

(44) 

を考察する余裕がないので,あくまでもマスメディアの自由の理解に絞り,

彼 が ど の よ う な 議 論 の 流 れ に く み し て , そ の よ う な 主 張 を 行 っ て い る か を 確認するだけにとどめたい。

ア メ リ カ に お け る マ ス メ デ ィ ア の 自 由 を 考 え る 場 合 , 現 在 で も 影 響 力 を もっているといわれるものに, 1947年のプレスの自由委員会(別名ハッチ

(45) 

ン ス 委 員 会 ) の 報 告 書 が あ る 。 そ の 公 表 当 時 の 評 判 の 悪 さ か ら 考 え る と 信 じ ら れ な い ほ ど の 一 定 の 評 価 を 確 立 し て い る 。 通 常 , こ の 報 告 書 の 読 解 か

(46) 

ら 導 き 出 さ れ た , い わ ゆ る 「 プ レ ス の 社 会 的 責 任 論 」 が , プ レ ス の 自 由 委 員 会 の 正 統 な 後 継 者 で あ る と 一 般 に 理 解 さ れ て い る 。 だ が ボ リ ン ジ ャ ー の 立 場 は , マ ス メ デ ィ ア の 自 由 に つ い て こ の プ レ ス の 社 会 的 責 任 論 よ り も さ

らに複雑な理解をしているように思われる。

よ く 知 ら れ て い る よ う に , 通 常 , そ の 報 告 書 は , プ レ ス つ ま り マ ス メ デ ィ ア の 自 由 の 法 的 な 保 障 に つ い て は 大 き な 変 革 を 求 め ず , た と え ば 名 誉 毀 損 の 救 済 方 法 と し て の 反 論 権 の 法 的 承 認 ぐ ら い に と ど め , マ ス メ デ ィ ア の 自 主 規 制 の 重 要 性 を 指 摘 し た と 理 解 さ れ る 。 だ が , ボ リ ン ジ ャ ー の 分 析 に よ れ ば , そ の 報 告 書 の ヴ ィ ジ ョ ン ( 事 実 認 識 ) は , さ ら に 込 み 入 っ た こ と を 議 論 し て お り , ま ず , マ ス メ デ ィ ア の 理 解 に つ い て , 経 済 的 な 寡 占 ・ 独 占 状 況 に 対 す る 危 惧 を 述 べ る と と も に , 過 熱 し た 商 業 主 義 に よ る 弊 害 が 危 機 的 な 状 況 に あ る こ と を 指 摘 し た あ と で , マ ス メ デ ィ ア の 聞 き 手 で あ る 聴 衆 に つ い て の 認 識 を 披 露 し て お り , 特 に 公 的 な 問 題 の 議 論 に お い て マ ス メ

デ ィ ア の 流 す 思 想 ・ 報 道 に 対 す る 態 度 と し て 聴 衆 が 常 に 受 け 身 で あ り , マ ス メ デ ィ ア に よ っ て 聴 衆 の 情 報 ニ ー ズ が 作 ら れ , 操 作 さ れ て い る と い う 聴

(47) 

衆 観 を 採 用 し て い る と 思 わ れ る 記 述 が 多 く 散 見 さ れ る 。 そ う で あ る に も か か わ ら ず , そ の さ ら な る 分 析 , つ ま り 聴 衆 の 視 聴 行 動 の 心 理 学 的 分 析 な ど は な さ れ て お ら ず , ボ リ ン ジ ャ ー は , そ の よ う な 分 析 の 省 略 を 行 っ て し ま っ た 原 因 を , プ レ ス の 自 由 委 員 会 が エ リ ー ト 主 義 で あ る と 思 わ れ る こ と を

(48) 

回 避 し た か っ た か ら で は な い か と 推 測 す る 。 そ し て , 結 論 と し て は , 報 告 書 は も っ ぱ ら マ ス メ デ ィ ア の あ り 方 を 問 う こ と に な り , マ ス メ デ ィ ア の ジ

¥1

J J  

(20)

ボリンジャーの「マスメディアの自由」論(池端)

ャーナリズムとしての専門性・プロ意識を確立することが重要で,そのた めのマスメディア自身の自己改革やそれを支える他の社会制度(ジャーナ リストの養成学校やジャーナリズムの研究組識など)や国家の支援を求め ることになった。ボリンジャーは,聴衆の情報ニーズの質の低さ・俗物趣 味 を 指 摘 し た 報 告 書 の 聴 衆 観 に 見 合 っ た 提 言 が な さ れ て お ら ず , 勧 告 内 容 は,正直とも言える聴衆蔑視の見解にもかかわらず,非常に消極的なもの

(49) 

になっていることを問題にする。

したがって,聴衆である我々の悪しき傾向に焦点をあて,マスメディア の公的規制の問題を議論するボリンジャーの理論に,我々は,ハッチンス 委 員 会 の 批 判 的 で は あ る が 正 統 な 後 継 者 に な る 可 能 性 を 見 る こ と が で き る。そして,これまでの正統な流れは,たしかに,シュラムやピータスン などのマスコミュニケーション論の学者によって,プレスの社会的責任論 として理論的にまとめられ,権威主義理論,自由主義理論,社会主義理論

(50) 

と対比されるプレスの四つの理論の一つとして精緻化していった流れであ るが,それとは異なり,ボリンジャーはその勧告内容の控えめさを感じさ せるほどの,マスメディア状況や聴衆に対する辛辣でかつ絶望的な分析を 重視し,その現実の課題にとりくむことを少なくとも目指していると言え る。聴衆の心理に分析のメスを入れ,ハッチンス委員会の本来のヴィジョ ンに相応しい提言を行うためには,ボリンジャーは,マスメディアの公的 規 制 の 論 拠 と し て , 言 論 市 場 へ の ア ク セ ス を 支 配 す る マ ス メ デ ィ ア 権 力 へ の懸念とともに,情報の受け手である我々の人間性の悪しき傾向に対する 懸念をあげたことになったと推測できる。

八七

(2)  自主規制機関の役割

ボリンジャーが言うように,マスメディアの公的規制を

2

つの理由から 正当化でき,放送に限って公的規制を課す理由を部分的規制論で克服する ことができるとすれば,アメリカでは,

1987

年に廃止された公正原則も,

我々の自然な傾向に対処する一つの手段として,さらに市場へのアクセス

18‑1‑287 (香法'98) 90  ‑

(21)

を支配するマスメディアの権力をコントロールする手段として,再び評価 される可能性がある。そして,日本にも公正原則に対応するもの,つまり 番 組 編 集 準 則 の 規 定 が 放 送 法 に あ り , 同 法 第

3

条 の

2

1

項 第

4

号 は 「 意 見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明ら か に す る こ と 」 と 規 定 し て お り , こ れ が 内 容 規 制 で あ る と い う こ と で , 否 定的に解される必要もないという結論になろう。だが,はじめにで述べた

ように日本の学説は対立している。

す で に , ボ リ ン ジ ャ ー の 見 解 の 紹 介 の と こ ろ で 公 正 原 則 に つ い て の 賛 否 両論にかなり触れたので,ここではこのような公的規制をマスメディアに 課 さ な く て も 別 の 有 効 な 選 択 肢 が マ ス メ デ ィ ア の 権 力 性 や 我 々 の 人 間 性 の 悪しき傾向に対処できるという主張を検討してみたい。

自主規制機関の役割とは何かという問題を取りあげる。というのも,マ スメディアヘのアクセス権の法的承認を否定し,その運動論としての意義 を評価する議論や,日本の公正原則の役割を果たす放送法の番組編集の準 則の規範的性格があくまでも倫理的な要請にすぎず,法的な制裁を前提と

していないと主張する議論などは,最終的に,現代社会のマスメディアの 自由のドンチャン騒ぎによる人権侵害事件が多発している現状に対処する ためには,マスメディアの自主規制機関としての苦情処理委員会を提案し たり,あるいは,マスメディアという強大な組識内の従業員であるジャー ナリスト個人が,経営権から独立してどれだけジャーナリストの専門性を 尊 重 さ れ た 取 材 ・ 執 筆 活 動 の 自 由 を 与 え ら れ て い る か と い う い わ ゆ る 内 部 的 自 由 の 問 題 あ る い は 編 集 権 の 所 在 の 問 題 を 解 決 し な い う ち は , 人 権 侵 害

(51) 

はなくならないという主張がなされているからである。

したがって,これは,公的規制の前にマスメディア自身がやるべきこと が た く さ ん あ る と い う 主 張 で あ り , 確 か に そ れ が 実 際 に 意 義 の あ る 提 案 で あるならば,あえて公的規制を課す必要はないであろう。後者の内部的自 由の問題は別の機会に取りあげるとして,ここでは,前者の自主規制機関 についてボリンジャーの見解を見てみることにしたい。

八六

(22)

ボ リ ン ジ ャ ー の 「 マ ス メ デ ィ ア の 自 由 」 論 ( 池 端 )

八五

この問題は日本において非常にホットな話題でもある。 N H Kと民放が 協 力 し , 放 送 に よ る 人 権 侵 害 に 対 処 す る た め に , 自 主 規 制 機 関 と し て 「 放

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送 と 人 権 等 権 利 に 関 す る 委 員 会 (BRC)」という放送苦情処理委員会を設立 し,

1 9 9 7

6

月 に 活 動 を 開 始 し た 。 そ の 第

1

号 と な っ た 申 立 人 が 日 本 人 教 授 娘 射 殺 事 件 の 被 害 者 の 夫 人 で あ り , 放 送 被 害 者 か ら の 救 済 申 し 立 て に つ

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い て の 初 の 審 査 結 果 を 公 表 し た 。 政 府 か ら の 独 立 の 委 員 会 設 立 の 勧 告 は す でに

1 9 4 7

年のプレスの自由委員会の報告書の中にもあったが,日本もその 実験をここに来て始めたことになる。

し か し , 多 く の 国 の 実 験 を 振 り 返 る と , そ れ は 決 し て 人 権 侵 害 の 有 効 な 救 済 や 予 防 に つ な が る と は 言 い が た い も の が あ る 。 ア メ リ カ で は 全 米 プ レ ス委員会

( N a t i o n a lPress C o u n c i l )

1 9 7 3

年に発足し

8 4

年 に 廃 止 さ れ て

(54)  (55) 

おり,ドイツでもこのような委員会は危機的な状況のなかで存続しており,

(56) 

イ ギ リ ス も 同 様 と い う 。 そ の よ う な 苦 渋 に 満 ち た 道 の り が 見 え て い る に も か か わ ら ず , そ れ を こ れ か ら 行 お う と し て い る こ と を ど の よ う に 評 価 す べ

きなのだろうか。それが,人権保障に積極的なポーズをとっているという 放 送 事 業 者 の ア リ バ イ に す ぎ な い と か , 編 集 権 が 経 営 者 に 専 属 す る と い う 原 則 の も と で , マ ス メ デ ィ ア 企 業 内 で の ジ ャ ー ナ リ ス ト の 内 部 的 自 由 の よ う な 他 に 重 要 な 問 題 を 隠 蔽 す る た め の 倫 理 の 召 喚 に す ぎ な い と い う 批 判 も 昇 。 そ れ と は 反 対 に , メ デ ィ ア 関 係 者 を 委 員 の メ ン バ ー に 入 れ る と か , 一 般 視 聴 者 が 参 加 で き る よ う に す る と か , い ず れ は 印 刷 メ デ ィ ア を 含 め た 全 メ デ ィ ア を 射 程 に 入 れ た 委 員 会 に す べ き で あ る と い う 前 向 き な 主 張 も あ

そ れ で は , ボ リ ン ジ ャ ー の 考 え を み る こ と に し よ う 。 ボ リ ン ジ ャ ー は こ のような自主規制機関の存在意義を認めるが,その機能は苦情を受け付け,

そ れ を 調 査 す る こ と で は な い と 考 え る 。 と い う の も , 苦 情 を 調 査 す る に は メ デ ィ ア に 命 令 で き る 調 査 権 限 か あ る い は 調 査 に 不 可 欠 な メ デ ィ ア の 自 発 的 な 協 力 が 不 可 欠 で あ る が , 双 方 と も 非 現 実 的 だ か ら で あ る 。 ま た , 常 設 の 委 員 会 は , 非 常 に 急 速 に 陳 腐 化 す る 傾 向 が あ り , そ う な っ た と き に , 誰

18‑1‑285 (香法'98) 92~

参照

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