修士論文概要一八九
紀 貫 之 論
荒 井 洋 樹
紀貫之は︑﹃古今和歌集﹄の撰者として中心的な役割を果たし︑以降の和歌文学の基礎を築いた人物である︒当修士論文は︑﹃古今集﹄以降の貫之を中心に論じた︒歌人としての貫之は︑﹃古今集﹄以降約四十年も活動を続け︑晩年に至っても﹃土佐日記﹄を著したり﹃新撰和歌﹄を編纂したりと精力的に活動している︒その足跡は﹃古今集﹄によって公的な地位を得た和歌をはじめとするかな文学が︑その地位を継続させてゆく様態を取り押さえる上で無視できない︒当該論文は︑特に屏風歌に着目しながら貫之の軌跡を辿った︒構成は本編全六章と資料編である︒以下︑各章ごとにその要旨をおさえる︒
第一章﹁﹃貫之集﹄の本文﹂では︑﹃古今集﹄以降の貫之の活動を伝える最重要資料である﹃貫之集﹄の伝本状況を概観した︒﹃貫之集﹄は貫之の個人家集で︑約九百首の和歌を収める一類本と約九十首を収める二類本に分けられる︒当該論文では︑一類本を取り上げる︒一類本の主要伝本には︑西本願寺本︑承空本︑素寂本︑陽明文庫本︑正保版本などがある︒現在主に用いられる陽明文庫本や正保版本は︑錯簡欠落がない点で他本より優れているとされる︵田中登﹃校訂貫之集﹄和泉書院 昭和六二年︶︒また︑本文的にも藤原定家の手を経たものであることが指摘されている︵杉谷寿郎﹁歌仙家集本系貫之集の本文の成立﹂︵上村悦子編﹃論叢王朝文学﹄笠間書院 昭和五三年︶︶︒本章では︑平安期の撰集との本文比較を行い︑ 定家以前では西本願寺本や承空本の本文のほうが流布していたことを確認した︒また︑定家が編纂に関わった﹃新古今集﹄及び﹃新勅撰集﹄所載の貫之歌とも比較したが︑陽明文庫本や正保版本とは必ずしも一致しなかった︒今後は西本願寺本や承空本を視野に入れて研究する必要があることを述べ︑本修士論文の資料編として承空本と素寂本の翻刻を附した︒
第二章﹁﹁内裏屏風﹂について﹂は︑屏風歌のうちで﹁内裏屏風﹂と呼ばれるものを取り上げ定義を示しつつその性質を考察した︒﹁内裏屏風﹂は次章で検討する延喜六年内裏月次屏風を嚆矢とし︑天皇の権威を示す装置としての意味づけがなされている︒定義は︑当時の私家集を中心にその詞書で天皇の依頼であると判別でき︑算賀屏風でないものとした︒その条件のものを抽出し重複を除くと全二十六の﹁内裏屏風﹂が認められる︒詠歌の題材としては四季の歌がほとんどで︑中でも年中行事に関するものが注目される︒年中行事を取り込むことには︑四季の運行の掌握を目指す古代的発想がある︒これによって︑手中に収めることのできる擬似的な世界を構築していると考えられる︒
第三章﹁延喜六年内裏月次屏風﹂では︑前節を受けて具体的に検討した︒この屏風について高野晴代は﹁貫之による新しい歌材の提示﹂があったと述べる︵﹁大和絵屏風と歌材の開拓﹂﹃国文学﹄四〇
神仏との関わりの上で捉えられる︒また︑四季の運行は農業が中心の当時 的な意味ではなく︑国土掌握は実効支配の領域を象徴し︑神事仏事では︑ た題材が︑政治的な意味を強固に持つものであると指摘した︒それも一面 越︶の四つに分類した︒﹁内裏屏風﹂として見直すことで︑取り上げられ のけち︑田返し︑三月尽︑灯射︑鵜飼︑擣衣︶︑それ以外︵七夕︑志賀山 ︵稲荷︑わすれぐさ︑水無月祓︑神楽︑臨時祭︑仏名︶︑四季の進行︵ゆみ 検討の結果︑国土の掌握︵子日︑駒迎へ︑小鷹狩︑大鷹狩︶︑神事仏事 八月︶︒本章では︑歌材が取り上げられた背景に力点を置いて考察した︒ −一 〇平成七年
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の社会において欠くべからざる要素である︒こうした複数の側面を持つ屏風を内裏に置くことは︑内裏に居ながらにして掌握できる世界を仮構したものと理解できる︒
第四章﹁子日攷﹂は︑子日を取り上げて年中行事が屏風歌の題材とされてゆく過程を検討した︒﹃万葉集﹄にみられる子日の行事は﹁玉箒﹂を取り上げており︑平安期のものとは内実が異なる︒ここから平安期の形態への転換は宇多朝においてなされる︒菅原道真は﹁聖主命小臣︑分類旧史之次︑見有上月子日賜菜羹之宴﹂と述べている︵﹃菅家文草﹄︶︒﹁分類旧史﹂は﹃類聚国史﹄を指すが︑ここに言われるような記事はない︒さらに﹁予亦嘗聞于故老︑曰︑上陽子日︑野遊厭老﹂とも言っており︑明確な典拠があったわけではないと考えられる︒結局のところ︑平安期に行われる形を示すのは寛平八︵八九六︶年の子日行幸である︒ここにおいて﹁野遊﹂﹁菜羹﹂が登場し︑小松引きとはいえないものの﹁松樹﹂も見出される︒そして︑これが和歌に詠まれるようになるのは︑前章で取り上げた延喜六年内裏月次屏風である︒この屏風では﹁君がためおもふこゝろの色にいでゝまつのみどりをおりてけるかな﹂﹁ゆきてみぬ人もしのべと春の野にかたみにつめるわかななりけり﹂の二首が子日詠として見出される︵﹃貫之集﹄︶︒前者は﹁松﹂に着目しているが︑﹁お﹂るといっており︑小松引きとは径庭がある︒後者は︑宇多の子日行幸を彷彿とさせる詠で︑﹁かたみ﹂と都に残った人々を意識しており︑内裏に置く屏風としてふさわしい︒それ以降の貫之の子日詠を追うと︑依頼者の状況を考慮して題材を選び詠み分けていたことが知られる︒また︑十世紀前半において小松引きの歌は僅少である︒史実として確認できるものは村上朝の例であることを指摘した︒
第五章﹁朱雀天皇と和歌﹂では︑屏風歌を取り巻く社会状況の一つとして︑天皇に焦点を当てた︒朱雀天皇は︑醍醐村上という大きな文化的足跡 を残した天皇に挟まれ︑在位中に承平天慶の乱が起こったこともあり︑文化事績に注目されることはほとんどなかった︒しかし︑﹁内裏屏風﹂を六度も製作しており留意される︒本章では﹃朱雀院御集﹄を取り上げ︑朱雀天皇と和歌との関わりを中心に検討した︒﹃朱雀院御集﹄は︑宮内庁書陵部蔵本が孤本である︒同本は江戸初期写で︑親本は万治四年禁裏焼失本と目され︑由緒ある本である︒全十六首のうち︑朱雀本人の作は十三首︑勅撰集への入集は十首である︒検討の結果︑本集が公儀・恋・雑の部類形式の歌集である可能性を指摘した︒従来︑年代順とされてきたが︑それでは煕子哀傷と退位との時間的逆転を説明できず︑四番歌五番歌の子日の贈答も朱雀退位後のである蓋然性が高く︑この点でも不合理で︑少なくとも年代順の歌集ではない︒最後に︑朱雀の和歌以外の事績にも触れた︒在位中には屏風を六度も製作したものの退位後は皆無であり︑京城外への御幸がみられるようになる︒これは承平天慶の乱の終結がもたらしたものであろう︒朱雀は文化事業に積極的であったと評価できる︒
第六章﹁﹃土佐日記﹄の再吟味﹂は︑貫之晩年の作品である﹃土佐日記﹄を貫之の詠歌史の中で捉え直した論である︒まず︑一月九日条の﹁見渡せば松の末ごとに住む鶴は千代のどちぞと思ふべらなる﹂を取り上げ︑﹁末﹂﹁千代のどち﹂のことばの使用例を検討し︑貫之自身が培ってきた表現を相対化していると指摘した︒また︑二月十六日条では︑﹁生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ﹂﹁見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別れせましや﹂において﹁松﹂と﹁かなし﹂という異質のことばを邂逅させることで深い悲嘆を表していることを述べた︒最後に一月二十九日条の﹁おぼつかな今日は子の日か海人ならばうみまつをだに引かましものを﹂を俎上に上せた︒当該歌は四章で触れた小松引きとの関わりでも見逃せない歌で︑屏風歌以外ではもっとも古い例である︒詠み方も︑﹁ミル﹂の漢字が﹁海松﹂であるのを利用して﹁うみまつ﹂を引くと
修士論文概要一九一 いっており︑漢字表記を媒介にしながら詠出しているところに表現のおもしろさがある︒以上の点において︑﹃土佐日記﹄が先行する和歌世界を引き受けながらもそれに縛られない新たな地平を模索した作品であると述べた︒
以上のように︑第一章から第四章は﹃貫之集﹄を中心に︑第五章は当時の社会状況を知るべく朱雀天皇を取り上げ︑第六章では﹃土佐日記﹄を論じ︑﹃古今集﹄以降の貫之の活動を立体的に捉え得た︒
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初 期 松 本 清 張 研 究
││媒介という創造││
吉 野 泰 平
本修士論文においては︑松本清張の初期短篇をとりあげてその異同を丁寧にたどるとともに︑それらにえがかれた媒介するモノ︑さらには媒介する者について論じた︒それはしばしば﹁人間タイプライター﹂や﹁盗作﹂という言葉で片付けられてしまう部分でもある︒しかし︑清張が史料の扱いにおいて﹁反対訊問﹂︵﹃両像・森鷗外﹄︶を重視したように︑電話交換手の接続ミスや史料と史料の衝突といった︑媒介が単なる透明な媒介で終わらないところへ着目した︒それは︑清張文学の方法を明らかにすることへもつながるはずである︒さらに︑これまで研究者や批評家に全く言及されることのなかった短篇を発掘し︑戦時期や占領期の言説を参照しながら︑どのような言説圏において清張文学が生成されていったのかをも明らかにした︒松本清張はデビュー以後︑長らく短篇を書き連ねていた︒その集大成となるのが自選の﹃松本清張短編全集第一巻〜十一巻﹄︵光文社 一九六三・一二〜一九六五・二︶である︒この時期は﹃眼の壁﹄︵一九五八・二︶︑﹃ゼロの焦点﹄︵一九五九・一二︶︑﹃砂の器﹄︵一九六一・七︶以降︑長篇へ重心が移動していった時期でもあった︒その他にも︑自伝的な﹁回想的自叙伝﹂︵﹁文芸﹂一九六三・八〜六四・一︑のちに﹃半生の記﹄として刊行︶の執筆︑﹃陸行水行﹄︵﹁週刊文春﹂一九六三・一一・二五〜六四・一・六︶以降の生涯にわたる古代史への傾倒︑単行本にして全十三巻におよぶ﹃昭和 史発掘﹄︵﹁週刊文春﹂一九六四・七〜七一・四︶の連載開始などを鑑みると︑﹁初期﹂の終わりが一九六〇年代前半にあることは間違いない︒清張の活動に関する時期区分の定説はないものの︑本論文では一九五一年のデビューから一九六二〜六三年までの十年余りを﹁初期﹂と位置づけて検討した︒﹁初期﹂は特に﹁短篇の時代﹂としての色合いが濃い︒従来︑研究の基礎となる﹃松本清張全集 全六十六巻﹄︵文藝春秋 一九七一年〜一九九六年︶では︑短篇にわずか六巻分があてられているのみであり︑研究においても﹃砂の器﹄︑﹃ゼロの焦点﹄といった有名長篇へ論が集中する傾向がみられる︒近年になって初期短篇についても研究が進みつつあるが︑本稿では︑今後の研究の基盤ともなる短篇の本文整備や発掘といった︑これまでほとんどなされてこなかった作業を積極的に進めた︒また︑松本清張の研究はそれぞれの論者の関心に応じて多様なアプローチがなされているが︑初期清張の特徴として﹁推理小説﹂・﹁時代小説﹂・﹁現代小説﹂といったジャンルを越境した連関が認められることを見逃すことはできない︒例えば︑﹁時代小説﹂と区分される﹃無宿人別帳﹄中の一篇である﹁海嘯﹂︵﹁オール読物﹂一九五七・一〇︶と︑﹁推理小説﹂的な面がありダム工事の労働者をえがいた﹁脅喝者﹂︵﹁オール読物﹂一九五四・九︶は︑水害にまぎれて脱走した受刑者が流れ着いた家屋で女性と出会うという点で共通している︒ジャンルにとらわれず︑初期短篇がもつ相互の連関に目を向け分析を進めることが︑膨大な資料を再構築し︑独自の視点からモチーフを切り取る清張文学の総体を明らかにするうえでも重要であろう︒第一章﹁﹃無宿人別帳﹄の典拠をめぐる戦略││﹃日本近世行刑史稿﹄と田村栄太郎﹁江戸伝馬町牢獄生活﹂││﹂では︑﹃無宿人別帳﹄が﹃日本近世行刑史稿﹄と︑田村栄太郎﹁江戸伝馬町牢獄生活﹂を媒介すること
修士論文概要一九三 で︑仮構された﹁歴史﹂をとらえかえす様相を論じた︒﹁徳川時代から明治時代に監獄の作法が受けつがれ︑それが軍隊の内務班に持ちこまれたのではないかとさえ思っている﹂という清張の言葉は︑﹃無宿人別帳﹄が単なる時代小説ではなく︑封建時代の制度とアジア・太平洋戦争下の制度をつなぐ視座を与えてくれることを示している︒第二章﹁﹁記憶﹂における﹁原稿﹂のゆくえ││小説として︑あるいは手紙として││﹂では︑まず﹁記憶﹂という小説が﹁火の記憶﹂として改題改稿される際の異同を精密に分析した︒両作の共通項のひとつとしては﹁手紙﹂が重要な位置を占めている点が挙げられる︒﹁記憶﹂では二部構成の後半部分がすべて﹁ある雑誌の編輯長畠中善一が青枝伸一に与えた手紙﹂という形になっており︑﹁火の記憶﹂においては作中に頼子の﹁兄の手紙﹂が挿入されるほか︑﹁死亡通知のハガキ﹂が推理の鍵となる役割を果たす︒本章では︑﹁記憶﹂について﹁手紙﹂をめぐる物語としても考察する︒そして︑この小説は︑全編が書簡体のみで構築されているわけではないものの︑物語構造の一部に手紙がとりいれられているという点において︑広い意味での書簡体小説である︒青枝伸一の原稿が手紙化されていく様相を明らかにすると同時に︑二つのドキュメントからなる小説として︑﹁記憶﹂と清張が私淑していた芥川龍之介﹁二つの手紙﹂との類似をめぐって考察した︒前半と後半を合わせると︑﹁記憶﹂は︑明治から大正にかけて流行した﹁書簡体小説﹂を転倒させ︑ある雑誌に投稿した青枝伸一の原稿と︑松本清張自身が書いた﹁記憶﹂の原稿という︑ふたつの水準で小説の手紙化を試みた小説だったと結論づけられる︒第三章﹁一九五〇年代における﹁中間小説﹂読者共同体││﹁赤い籤﹂のおかれた場││﹂は︑﹁引揚げ﹂を中心に︑雑誌に設けられた﹁読者と編集者﹂︵﹁週刊朝日﹂︶と︑﹁小説新潮サロン﹂という読者と作者を媒介 する場に着目した︒﹁引揚げ﹂をえがく﹁中間小説﹂が︑読者によって求められており︑そういった︵編集者によっても選択的に方向づけられた︶﹁中間小説﹂誌という媒体の言説圏のなかで生成していった小説として︑清張の他に橘外男︑森山啓の小説を取り上げた︒そのなかでも特に﹁赤い籤﹂は読者を意識しつつ︑﹁中間小説﹂読者の共同体が欲望する﹁引揚げ﹂物語の想起を機能不全に陥らせ︑そこで切り捨てられてきた記憶を再び想起させる読者への積極的な仕掛けが施されていたことを示した︒第四章﹁﹁電話交換手﹂の系譜学││﹁声﹂におけるメディア・労働・ジェンダー││﹂では︑﹁電話交換手﹂という声と声を媒介する職業がどのように表象されてきたのか︑その系譜をたどった︒電話はその当初から二人の通話者を純粋に接続するメディアであったわけではない︒日本においてこの職業が明治二十三年に誕生してから今日にいたるまでの文学との関わりを考察していくなかで︑一方では女性ジェンダー化へ寄与してしまった側面を指摘しつつも︑他方ではジェンダー・労働・メディアに関する問題を提出してきた歴史を国木田独歩﹁二少女﹂などを中心にして明らかにした︒その上で明治から今日までを繋ぐ結節点に位置する松本清張﹁声﹂が︑﹁電話交換手﹂をえがいた小説の系譜のなかでも特異な位置を占めるものであることを論じた︒第五章﹁﹁筆記原稿﹂をめぐる三重の自己検閲││忘却の覚書の忘却││﹂では︑これまで全集をはじめ単行本には全く収録されず︑研究や批評も皆無であった﹁筆記原稿﹂︵﹁小説公園﹂一九五七・九︶を発掘し︑その﹁不敬﹂性について︑戦時下・占領期・同時代の検閲をめぐるメディア︵﹁朝日新聞﹂・﹁小説公園﹂・カストリ雑誌︶の様相を参照しながら検討する︒原稿が書かれたということ自体が忘れられていく過程をえがいた小説が忘れられていった理由として︑この小説が同時代における天皇・皇族言説をめぐる記憶と忘却の複雑なせめぎあいのただなかにおかれていたことによ
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る﹁三重の自己検閲﹂が検討されなければならない︒この小説には表層のレベルで敗戦後に創出された規範に従いながらも︑﹁無意識﹂下では敗戦前と同じように天皇・皇族を奉じる力がいまだに人々を規定している様態がメディアと皇族の関わりを軸にえがかれている︒また︑敗戦直後のメディアと天皇・皇族の関わりをえがいたという点で︑清張文学だけでなく︑同時代の文学のなかでも独自の位置を占める作品であることは間違いない︒﹁筆記原稿﹂は︑想像力を奪いとる自己検閲の記憶が刻まれた装置を小説のなかで想像力を喚起する記号として反転させ︑天皇・皇族に対する議論が減少し︑︵自己︶規制されていく時代のなかで︑継続する自己検閲を前景化する装置として逆に利用してみせた小説なのである︒本修士論文において明らかにした︑媒体を意識しながら︑組み合わせ繋ぎ合わせ媒介する清張の小説作法は︑清張を﹁大衆文学﹂の枠へ閉じ込めることでは見えてこない︒本論文では︑主に︑徳永直︑貴司山治︑芥川龍之介︑森鷗外︑橘外男︑森山啓︑国木田独歩︑桜庭一樹︑江戸川乱歩といった小説家たちへも目を向けることで清張文学のもつ豊かさをえがきだそうと試みた︒本稿で論じた﹁赤い籤﹂が﹃ゼロの焦点﹄と︑﹁声﹂が﹃砂の器﹄とも連続した問題を含んでいるように︑こうした清張の小説作法は一九六〇年前後の﹃点と線﹄︑﹃ゼロの焦点﹄︑﹃砂の器﹄といった長篇へもつながっていくのである︒
修士論文概要一九五
パ ウ ル ・ ク レ ー の 矢 印
田 中 暁
本論文はスイスの画家パウル・クレーが好んで用いた矢印について論じたものである︒休止符︑感嘆符︑数字︑文字︑眼︑太陽︑月︑樹︑船など︑クレーの作品には多くの記号が登場する︒その中で矢印は画業全体にわたって常に用いられ︑少なくとも三七三点以上の作品に登場している︒数百という頻度で用いられた記号を矢印の他に見つけることは難しい︒矢印を用いた他の画家として︑ヴァシリー・カンディンスキー︑ジョアン・ミロ︑マルセル・デュシャン︑マックス・エルンスト等の名前を挙げることもできるが︑彼らの作品に矢印が登場するのは︑その生涯において僅か数点のみである︒つまり︑三七三点という矢印の数はクレーの画業のみならず︑同時代の画家の中でも極めて異例のことであった︒矢印に関する先行研究はすでに数多くなされている︒しかし︑その多くは作品の主題から矢印の意味を解釈するにとどまっており︑﹁なぜクレーの作品にこれほど矢印が登場したのか﹂という問題については明らかにされてこなかった︒本論文ではクレーの作品に矢印が登場していく過程を中心に取り上げ︑クレーの矢印がもつ特異性について考察した︒
第一章﹁古典美の超克﹂では画業初期に制作された︽女と獣︾︵一九〇四年︶から︑伝統的な美の規範に対するクレーの批判的態度を読み解いた︒初期の矢印は男性器の記号表現として用いられており︑その始まりは︽女と獣︾に求めることができる︒︽女と獣︾には娼婦のような女神と欲望を むき出しにした獣が描かれており︑神話の女神を肉欲の対象にすることでクレーは古典美を乗り越えようとした︒
この時期︑クレーに最も影響を与えた書物としてレッシングの﹃ラオコーン﹄が挙げられる︒一般的に﹃ラオコーン﹄は︑文学と絵画の差異について論じた古典として知られているが︑﹁美﹂と﹁醜﹂の関係についても言及している︒クレーはギムナジウムの学生であった時から﹃ラオコーン﹄について知っており︑イタリア旅行中にローマの博物館でラオコーン像を見た後には︑その卓越さを恋人リリーへ報告している︒その後も一九一二年に寄稿した雑誌﹃アルペン﹄の記事や一九二〇年に発表された﹃創造的信条の告白﹄など︑公に読まれる文章内でも再三言及しており︑クレーが芸術について思索する際の基盤にあった︒矢印の端緒である︽女と獣︾が画業全体の中でも特に重要であったことを︑本章では風刺という側面から考察した︒
第二章﹁ファルス的矢印﹂では︑日記や雑誌に発表された論文からクレーのエロス観を考察し︑それが実際の作品においてどのように反映されたのかを明らかにした︒造形の生成について説明する際︑クレーはしばしば交接の比喩を用いている︒例えば︑色彩表現の核心を掴んだチュニジア旅行後の日記には﹁物質的な意味でフォルムの成長としての作品は︑原女性的︒フォルムを規定する精子としての作品は︑原男性的﹂といった記述がみられる︒
クレーのエロス観は実際の作品にも反映されていく︒風刺画家として画業を歩み始めたクレーは︑得意の線描を活かして文学作品の挿絵を精力的に制作しており︑その際に交接の場面を好んで取り上げている︒いずれも世俗的な交接ではなく神話的な交接がテーマであり︑神話性を付与するためにクレーは天使の持物である矢を画面に描き込んだ︒その後︑天使の矢は女性の股に向かうことで男性器に見立てられていく︒矢と融合した男性
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器は次第に記号化していき︑男根を象徴化したファルス的矢印が登場することになったのである︒
第三章﹁破壊と墜落の矢印﹂では︑ファルス的矢印と並行して作品に登場した︑もう一つの矢印について考察した︒第一次世界大戦期︑クレーは戦争を主題にした作品を数多く制作しており︑その際︑矢印は墜落する飛行機と共に用いられた︒戦場に立たなかったクレーに戦闘機の墜落を実見する機会はなく︑勤務地である航空学校で目撃した墜落事故が着想源となっている︒この矢印の始まりは一九〇五年の作品︽片翼の英雄︾にまで遡る︒
イカロスの神話をもとにして描かれた︽片翼の英雄︾は︑古典美の表現に挫折したクレーの自画像でもあった︒芸術家の挫折を表わしていたイカロスの墜落は︑第一次世界大戦期になると墜落していく戦闘機ないし飛行士の姿に重ね合わされるようになる︒技術の進歩によって太陽に近づいた人間は︑イカロスの神話のごとく最終的に墜落する運命にあった︒芸術家の悲劇から戦争の悲劇へとイカロスの神話は変化していき︑その過程で矢印はクレーの作品に登場してくる︒﹁交接﹂とは正反対に位置する﹁墜落﹂や﹁破壊﹂の主題もまた︑クレーの世界観を特徴づける重要な要素であったことを本章では明らかにした︒
第四章﹁機能的矢印と複合的矢印﹂は︑矢印が最も多く用いられた一九二〇年代前半の作品について考察した︒この時期の作品には︑ファルス的矢印でも破壊と墜落の矢印でもない︑道路標識などに用いられる機能的な矢印が新しく登場する︒バウハウスに着任したクレーは構成主義を思わせる画面を描くようになり︑﹁方向を示す﹂矢印は画面内に一定の秩序を与える記号として頻繁に用いられた︒
この矢印の典拠は二つある︒一つはクレーがバウハウスの授業のために書いていた講義ノートの矢印である︒講義ノートの特徴は︑言葉だけでな く豊富な図解や矢印を用いて自身の理論を説明している点にある︒空間や形の問題で使用される時は運動エネルギーを示すものとして︑色彩の問題で使用される時はグラデーションの変化を示すものとして矢印が用いられた︒クレーはノートの図版をもとにして作品を制作することがあり︑その過程で機能的矢印は絵画でも使用されるようになっていく︒もう一つは︑ポスターなどの広告媒体で用いられていた矢印である︒二十世紀前半︑ポスターは現代生活を象徴するモチーフとして主にキュビスムやダダ︑シュルレアリスムの画家達が好んで描いており︑その際︑重要な情報に視線を誘導するために矢印も画面に描き込まれている︒一九一〇年代にクレーはエルンストを介してパリのシュルレアリスト達と知り合い︑一九二五年にパリで開かれた﹁シュルレアリスム絵画展﹂では︑ドイツの代表的なシュルレアリストとして紹介されている︒キュビスムやダダの画家達との交流を通して︑広告で使用されるような機能的矢印をクレーも用いるようになったのである︒第五章﹁世界観を象徴する矢印﹂では一九二〇年代後半︑様々な意味を示していた矢印が︑クレーの世界観を特徴づける中間領域の象徴として用いられていく過程を考察した︒クレーにとって中間領域とは︑あらゆる二項対立の境界︑全ての現象が生成する場を意味している︒その場としてクレーは﹁人工的につくられた自然﹂という両義的な意味をもつ庭を好んで描き︑そこに矢印も描き込まれたのである︒第六章﹁ナチスの迫害と矢印﹂では︑ナチスの迫害を受けたクレーがドイツからスイスへと亡命する一九三〇年代の作品を中心に考察した︒クレーに対するナチスの政治的圧力は矢印として視覚化され︑︽不安︾︵一九三四年︶では画面右端から波を思わせるモチーフが画面を侵食しており︑その中に三つの矢印が配置されている︒他にも︑画面内のモチーフを画面外へと暴力的に追い出す矢印や︑画面上を闊歩する征服者や軍隊の
修士論文概要一九七 モチーフと共に矢印が用いられた︒絵画制作を禁じたナチスの暴力は︑そのままクレーが築き上げた絵の世界への暴力でもあり︑表象せざるを得なかったのだろう︒同じような暴力的性質をもった矢印として︑第二章で論じた破壊と墜落の矢印も挙げることができる︒確かに第一次大戦期に描かれた矢印もまた爆撃や墜落などの攻撃性を示していた︒しかし︑第一次大戦期の矢印が下向きであったのに対し︑迫害の矢印は常に右向き︑ないし左向きで描かれた︒クレーにとってナチスの暴力は︑遥か彼方の上空から落ちてくるものではなく︑地上で起こる身近なものであったため︑矢印は水平に配置されなければならなかったのである︒本論文では以上のように︑矢印がクレーの作品にどのような経緯で登場し︑変化していったのかを包括的に考察した︒第一に矢印は具体的なモチーフ︵男性器や弾丸︶の記号化として画面に取り込まれ︑第二にそれとは別の経路︵理論書や広告︶から機能性が導入された︒その上で両者の矢印は絵画の中で総合されたのであり︑言い換えれば異なる矢印を統合することで︑クレーは﹁意味﹂と﹁形﹂が渾然一体となった﹁クレーの矢印﹂を作り上げたと言える︒意味と形の統合は︑近代美術における主要な課題であり︑クレーが生涯にわたって取り組んだものでもあった︒それゆえ矢印がクレーの矢印に至る過程とは︑まさに意味と形の統合を目指したクレー芸術そのものを象徴的に表わしているのである︒
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上 村 松 園 の ︽ 四 季 美 人 図 ︾ に つ い て
││出光美術館所蔵本を中心に││
田 所 泰
出光美術館が所蔵する上村松園︵一八七五
行研究によっておおよそ明治三十三︵一九〇〇︶年から大正︵一九一二 風︾︑︽新秋︾︑︽初雪︾という題がつけられている︒本作の制作年代は︑先 季節の風物とともに女性がひとりずつ描かれ︑それぞれに︽花見︾︑︽涼 松園には珍しい四幅対の作品である︒各幅には花や屋根舟︑雪といった 図︾︵以下出光本と呼ぶ︶は︑春夏秋冬の四季を一幅ずつに分けて描いた︑ −一九四九︶の︽四季美人
−
一九二六︶初め頃までの間と想定されているが︑本作の内容や松園の画業における位置付けに関しては︑いまだほとんど考察されていない︒本稿では︑風俗史的な観点や制作当時の歴史認識を踏まえて出光本の内容を読み解き︑さらに他の松園作品との比較をとおして︑その位置付けについて考察した︒
第一章では︑出光本各幅に描かれた女性のよそおいについて子細に検討し︑その上で本作の制作年代についても改めて考察した︒︽花見︾の女性が着ている小袖や髪に差している櫛は︑いずれも浮世絵師・宮川長春︵一六八二
−一七五三︶が正徳︵一七一一
−一七一六︶から享保︵一七一六
−
一七三六︶初期の間に制作したと考えられている︽風俗図巻︾︵東京国立博物館蔵︶に描かれた女性に認められるもので︑松園はおそらく長春の作品を参考にこれらを描いたものと考えられる︒また︑︽花見︾の女性は天和︵一六八一
−一六八四︶から宝永︵一七〇四
−一七一一︶初め頃に見ら れた島田髷を結い︑髱は享保から安永︵一七七二
たかたちに描かれている︒さらに延享︵一七四四 −一七八一︶頃に見られ かれた女性は︑寛政︵一七八九 に見られたよそおいを組み合わせて描かれていた︒夏の幅︑︽涼風︾に描 ように︑︽花見︾に描かれた女性は︑江戸時代前期から中期の異なる時期 に見られるようになった振り分けによく似た垂れ髪が認められる︒この −一七四八︶前後以降
−一八〇一︶半ばから文化︵一八〇四
−
一八一八︶半ば頃に見られた大振りな丸髷を結い︑鬢を宝暦︵一七五一
−
一七六四︶から文化半ば頃に見られた燈籠鬢に結っている︒また︑前髪は正徳・享保の頃から文化初め頃まで見られたように額へ引き付けて結い︑明和︵一七六四
︵一九〇七︶年から四十二︵一九〇九︶年までの三年間にわたって︑新年 治四十一年から四十三年頃まで流行したものである︒さらに︑明治四十 たものであるが︑こうした派手な帯地に写生風の模様を施すことは︑明 配されている︒また︑帯は藍と金の鱗模様に写生的な若松模様を散らし 治三十八年から四十一年頃まで流行した元禄模様のひとつである葵模様が 年頃に流行した︑濃彩を施した江戸褄模様の着物を着ており︑着物には明 雪︾に描かれた女性は︑明治四十一︵一九〇八︶年から四十三︵一九一〇︶ 三十七︑八年頃のよそおいをしていると考えられた︒最後の冬の幅︑︽初 している︒こうしたことから︑︽新秋︾に描かれた女性は︑おおよそ明治 性は日露戦争中にもてはやされた菊花の意匠をほどこしたピンを髷に差 る︒小紋の流行自体は明治三十八年頃までつづいた︒さらに︽新秋︾の女 治三十五︵一九〇二︶年頃より流行しはじめた白抜きの小紋をまとってい ︵一九〇四︶年から翌三十八︵一九〇五︶年頃に見られた束髪に結い︑明 られた︒三幅目︑秋の幅である︽新秋︾に描かれた女性は︑明治三十七 の女性はおおよそ寛政末から文化初め頃のよそおいで描かれていると考え 降に用いられた布製の髷かけをかけている︒こうしたことから︑︽涼風︾ −一七七二︶・安永から寛政初め頃︑および寛政末以
修士論文概要一九九 に行われる歌会始の題に松が選ばれている︒こうしたことから︑︽初雪︾の女性は明治四十一年頃のよそおいで描かれていると考えられた︒以上の内容︑および先行研究を踏まえ︑出光本の制作年代は明治四十一年前後から大正初め頃と考えられた︒第二章では︽花見︾に見られる風俗上の混淆の理由を考えるために︑出光本が制作された当時の歴史認識について詳しく検討を行った︒とりわけ︑明治三十八年に三越呉服店が発表した元禄模様に端を発する元禄流行について詳しく見ていった︒三越呉服店︵以下三越と呼ぶ︶が明治三十八年春に発表した元禄模様は︑日露戦争後︑景気が向上し︑人々の好尚が派手なものへと変化していったのに伴い︑非常な流行を見せた︒三越はこの元禄模様を新橋の芸妓らに装わせるなどして積極的に売り出し︑さらにこうした芸妓らの姿は︑絵葉書や錦絵となって人々の間に広められた︒ただし︑ここでいう元禄とは︑明治期における認識︑すなわち五大将軍徳川綱吉︵一六四六 の女性にも加味しようとした結果︑描き加えられたものと考えられた︒し た垂れ髪は︑明治期に再現された元禄女性像に見られる装飾性を︽花見︾ であるということが出来る︒また︑延享前後以降に見られた振り分けに似 見︾を見てみると︑小袖や櫛︑髷︑髱など︑いずれも﹁元禄時代﹂のもの 加味されたものとなっている︒以上のことを踏まえ︑改めて松園の︽花 式であり︑その結髪については﹁元禄時代﹂のものに比べてより装飾性が は︑着物の模様こそ﹁元禄時代﹂風ではあるが︑着付けはまったくの明治 性像においても同様であった︒こうして再現された元禄女性像のよそおい ジ︑その精神を再現したものであった︒それは明治期に再現された元禄女 現ではなく︑むしろ﹁元禄時代﹂の派手で華やかなものといったイメー が発表した元禄模様というのも︑必ずしも元禄年間に見られた模様の再 とめて﹁元禄時代﹂とする見方に基づいたものであった︒そのため︑三越 −一七〇九︶の治世︑およびその前後を含めた数十年間をま 考えることが出来た︒なお︑明治期には十一代将軍徳川家斉︵一七七三 たがって︑︽花見︾において松園が設定した時代は︑﹁元禄時代﹂であると
−
一八四一︶の治世をまとめて﹁文化文政時代﹂と捉えていたものと考えられ︑︽花見︾同様︽涼風︾においても︑その時代設定は﹁文化文政時代﹂とすべきであると考えられた︒第三章では︑本作が制作された当時の歴史認識をもとに︑出光本の読み解きを行った︒︽花見︾において設定された﹁元禄時代﹂は︑明治期において江戸時代文化の春の時代という捉え方がされており︑さらに明治時代後期には︑花見の場を舞台とした元禄踊が各地で上演されていた︒こうしたことから︑︽花見︾の時代設定に﹁元禄時代﹂が選択されたものと考えられた︒二幅目の︽涼風︾に設定された﹁文化文政時代﹂は︑江戸における文化の最盛期として明治期には見なされていた︒三幅目︽新秋︾の時代として設定された明治三十七︑八年頃は︑日露戦争の最中にあたる時代であり︑人々の国民意識が高まりを見せた時代であった︒一方女性のよそおいに関しては︑︽新秋︾の女性が結っているような束髪が非常に流行していた︒︽初雪︾において設定された明治四十一年頃は︑着物の模様において復古的な模様の流行がつづいていた時代であった︒こうした復古的模様は︑明治の新しい模様をつくりだそうとする意識から生み出されたものであり︑同様の傾向は風俗全体についても見られた︒このように︑明治四十一年頃は新しい時代への過渡的な時代として捉えられており︑それゆえ松園は︽初雪︾にこの時代を選択したものと考えられた︒また︑︽花見︾︑︽涼風︾︑︽新秋︾にはそれぞれ︑女性の結髪において髱︑鬢︑前髪が著しく発達した時期が選択されており︑結髪における画期的な時代という点から︑︽涼風︾︑︽新秋︾の時代が設定されたものと考えられた︒以上のことを踏まえ︑改めて出光本を見ると︑本作では春から冬まで季節が流れ︑冬の幅においてはその時代設定から︑﹁元禄時代﹂に設定された春の幅への
二〇〇
方向性とともに︑まったく新しい春の時代への方向性も見て取れ︑自然界における四季のめぐりが再現されていた︒さらに各幅の女性の年齢は︑江戸時代と明治時代それぞれにおける文化的発展の様相に対応していることが読み取れた︒第四章では︑松園がその画業の最初期に描いた三点の︽四季美人図︾︵以下初期︽四季美人図︾と呼ぶ︶と出光本との比較をとおして︑松園の制作態度の変化について考察した︒初期︽四季美人図︾はいずれも一幅のうちに春夏秋冬を表す四人の女性を描いた作品であり︑女性たちは多くが花を生けていたり琵琶を弾いていたりとなんらかの所作を行う姿で描かれている︒こうした女性像は︑当時の﹁女礼式﹂と題された浮世絵や︑数々の礼儀作法書に多く見受けられるもので︑おそらく松園にとっては非常に身近な女性の姿であったと考えられた︒これら初期︽四季美人図︾と出光本とを細かく比較検討していくと︑前者においては松園の制作に対する素直な姿勢︑すなわち絵を描くことを純粋に楽しむ松園の姿が読み取れた︒一方後者では︑作品に多くの要素を組み込み︑いかにしてより内容の充実した作品に仕上げるかに苦心する松園のようすが想像され︑ひとりの画家としての意識の存在が読み取れた︒本稿では最後に︑松園の画業における出光本の位置付けを行った︒出光本は松園が自身の制作について新たな方向性を模索している時期に制作された作品のひとつであり︑その内容からは︑松園が当時︑具体的にはどのようなことを試み︑どういった方向を目指していたのか︑その一端を垣間見ることが出来る作品として位置づけられることを指摘した︒
修士論文概要二〇一
榮 山 寺 八 角 堂 内 陣 装 飾 画 に つ い て
萩 谷 み ど り
奈良県五條市小島町の吉野川沿いに位置する学晶山榮山寺には︑建立年代が天平宝字四年︵七六〇︶から同八年︵七六四︶の間と推定される八角堂が現存する︒承徳二年︵一〇九八︶の﹁榮山寺別当実経置文﹂によれば︑八角堂は藤原仲麻呂によって︑その父母の供養のために建立されたという︒また︑﹁正倉院文書﹂に収められ︑本八角堂の造営に関するものとみられる﹁造円堂所牒﹂の記述から︑その事業に造東大寺司が関わっていた可能性もうかがわれる︒なお榮山寺は︑仲麻呂の父で藤原南家の始祖である武智麻呂によって創立されたとの伝があるが︑明治四十四年︵一九一一︶に︑本堂の西︑七重石塔婆の北の田の中から︑本薬師寺跡出土の軒平瓦と同一の瓦型によるとみられる瓦片が出土したことから︑榮山寺あるいはその前身をなす寺院は︑藤原京の時代にさかのぼり得ると考えられる︵福山敏男﹁榮山寺の創立と八角堂﹂一九五一年︶︒
さて︑本八角堂の方一間の内陣は︑断面正八角形の四本の柱の各面︑隣り合う柱同士をつなぐように柱上部に渡された四本の飛貫の両側面および下面︑飛貫の上に置かれた天井の格間および格縁に︑剥落が甚だしいながらも数多くの装飾画が認められ︑それらは分光分析の結果から同時に描かれたことも明らかになっている︒柱は︑各柱共通の文様帯と自由な図様による絵様帯を交互に配するというもので︑上︑中︑下三箇所の絵様帯には供養菩薩や雲︑宝相華が描かれる︒飛貫の下面は中央と左右に菩薩や迦陵 頻伽︑神仙といった像を配し︑その中間と左右両端の四箇所に宝相華を表す︒両側面は︑中央の宝相華を挟んで対称的に︑鳥︑天人︑宝相華︑再び鳥を配する︒天井の各格間には団花形式の宝相華︑格縁には繧繝彩色が施されている︒なお現在内陣には︑南に阿弥陀如来︑北に地蔵菩薩︑東に釈迦如来︑西に梵天が背中合わせになるように安置されているが︑当初の本尊に関する史料は残されていない︒
本装飾画に関する主たる研究としては︑昭和二十三年︵一九四八︶に実施された調査の報告としての秋山光和氏による論考があり︵﹁八角堂内陣装飾畫﹂一九五一年︶︑本修士論文もこれに依るところが大きい︒秋山氏は本装飾画の詳細なディスクリプションを行ったうえで︑柱絵と貫絵の間には描法や様式に差異があること︑柱絵の供養菩薩は東大寺大仏蓮弁線刻画や二月堂本尊光背︑戒壇院扉絵図と親近関係にあり︑盛唐様式とみなせることを指摘している︒このように︑奈良時代にさかのぼる数少ない絵画作例として実に貴重である本装飾画であるが︑秋山氏の後は︑ほとんど研究がなされてこなかった︒ そのようななかで筆者は︑本装飾画の詳細な画像を︑榮山寺からご提供いただくことができた︒そこで本修士論文では︑確認できる装飾画を詳細に報告し︑同時代作品との比較を行ってその様式的特色を具体的に指摘した︒さらに特に注目すべき図様には︑やや詳しく検討を加えた︒そして装飾画の配置に認められる特徴にも触れ︑それらによって荘厳された内陣を︑どのような空間として捉えることができるのかについても言及した︒
さて︑内陣柱︑飛貫︑天井を子細にみていくと︑剥落がかなり進んではいるものの︑現在も多数の装飾画が残されていることが理解できる︒
まず柱絵において︑端を緩やかに巻き込む︑動きのある線を連ねて表された複雑な雲は︑墨線による雲形に赤色の線を引き重ねるなど︑色の表現にも特色がみられる︒雲を象る曲線は︑正倉院の鳥毛篆書屏風や鳥木石夾
二〇二 纈屏風にみられる雲のそれと近く︑色を重ねる点では︑唐招提寺金堂身舎支輪裏板に描かれる雲との類似が認められる︒また柱絵の供養菩薩の姿態は︑バランスをやや欠くものもみられるが︑天平盛期の作例として位置づけられる大仏蓮弁線刻画の表現を大きく離れるものではない︒そして供養菩薩を描き起こす線は︑全体的に勢いのある手慣れたもので︑肥痩によってふくよかな肉付きも的確に表されている︒その自由な筆致は︑麻布菩薩のそれとも共通し︑熟達した画師によるものと捉えることができる︒この他︑隈取り︑着衣︑装身具︑光背のいずれの表現にも︑秋山氏が指摘したように︑大仏蓮弁線刻画や二月堂本尊光背︑戒壇院扉絵図をはじめ︑東大寺金銅八角燈籠音声菩薩︑法華堂根本曼陀羅あるいは敦煌莫高窟唐代壁画といった同時代作品との共通性が認められた︒また特に︑宝冠の装飾や裳の形式に関しては︑本作例と戒壇院扉絵図の間に明らかな親近性が確認できる︒さらに供養菩薩について特筆すべきは︑眉および目の表現である︒本作例では︑同時代の他作例には多く認められる︑眉や上瞼の中央付近に表されるうねりや眼窩線が全く描出されず︑特に明朗な面貌として描かれているのである︒同様の特徴を示す同時代作品としては︑薬師寺吉祥天画像︑麻布菩薩︑戒壇院扉絵図が挙げられるが︑このような表現がなされた背景として︑正倉院の鳥毛立女屏風に代表されるような仕女図からの影響が想定される︒すなわち︑八角堂内陣を荘厳することをその役割とする柱絵の供養菩薩は︑大仏蓮弁線刻画や法華堂根本曼陀羅などの菩薩と比較して︑より副次的であるために比較的自由な造形が可能であり︑当時隆盛をみた仕女のイメージが重ねられたのではないだろうか︒続いて貫絵および天井絵をみていく︒貫絵の描線や隈取りの表現には︑柱絵と同様の特徴が認められ︑雲の上に降り立つ神仙や︑自由な姿勢で飛行する天人の姿態には動きが感じられる︒そしてそれらが帯びる天衣が翻 るさまは破綻なく表される︒また︑貫絵の宝相華について︑秋山氏も指摘しているところではあるが︑それを構成する要素は一定ではあるものの︑構図は全くパターン化されておらず︑文様というよりはいきいきとした植物として描出されている︒正倉院宝物にも類似する例が数多くみいだされ︑七世紀末から八世紀後半におよぶ一世紀間の文様を整理した小田誠太郎氏の分類によれば︑貫絵の宝相華は︑八世紀中葉以降の︑具象化傾向の強い様式の流れを受けたものとみることができる︵﹁東大寺天平彫刻の文様について﹂一九七三年︶︒天井の団花形式の宝相華も︑その外周に配された対葉形が大きく翻り︑両面をみせるよう立体的に描かれるさまは︑八世紀前半までの表現からは一歩進んだものとして捉えることができよう︒一方︑例えば貫絵の各像の手指や顔の輪郭といった部分には︑柱絵の供養菩薩と比較してやや簡略的な表現もみうけられ︑秋山氏が指摘した通り︑柱絵とは異なる画師集団が担当したという状況が想定される︒貫絵のうちで特に紙幅を割いて検討したのは︑東貫下面の南北に描かれた騎獅菩薩である︒獅子に乗る菩薩としては︑中国において七世紀後半頃から広く造像されるようになった騎獅文殊が想起されるが︑本作例は文殊菩薩というよりは装飾的なモチーフとして捉えられてきた︒ところが︑八稜鏡や東大寺灌仏盤︑西安碑林博物館所蔵の碑に表された︑神仙︑童子︑胡人︑崑崙奴が獅子に乗る例を検討すると︑獅子が異界の者や特別な能力をもつ存在を背に乗せる獣として機能していることが理解できる︒さらに本作例は︑正面観に近い構図︑菩薩の片足を踏み下げる坐法︑獅子の装飾的な巻毛といった表現に︑敦煌莫高窟唐代壁画にみられる︑初期段階から発達した騎獅文殊との類似が認められる︒このことから︑信仰そのものに関しては不明ながら︑八世紀後半の日本に少なくとも騎獅文殊の図像に近いものがすでにもたらされており︑本作例が当時としては最新のその
修士論文概要二〇三 図像に基づいて描かれた可能性が考えられる︒以上︑柱絵︑貫絵︑天井絵の各モチーフに検討を加えたが︑装飾画の配置に目を向けると︑そこには一定の法則性が確認できる︒まず柱絵の供養菩薩が向く方向について︑上︑中段絵様帯では︑柱の正面にあたる南面に︑正面観かそれに近い菩薩が配され︑さらにその東側の東南︑東︑東北の三面と西側の西南︑西︑西北の三面は︑南面を中心軸として緩やかな左右対称性を示している︒一方︑下段絵様帯は剥落が多く︑規則性をみいだすことは困難であった︒ただ︑多くが赤色の線によって描き起こされたうえ︑上︑中段のものよりひとまわり大きく表された下段絵様帯の供養菩薩は︑礼拝する者に最も近い位置において︑上方の供養菩薩と比較して︑より華やかで際立っていたことが想像される︒一方貫絵の両側面の天人および鳥は︑両端から中央に向かって飛行するという対称性を示しており︑下面に関しては︑先学によって指摘されているように︑東西貫には騎獅菩薩や迦陵頻伽といった仏教的図様が︑南北貫には非仏教的図様である神仙が︑対比されるように配されている︒さて︑ここまで柱︑飛貫︑天井の装飾画を別々に論じてきたが︑それらが一体となって荘厳する内陣を︑どのように位置づけることができるだろうか︒海野啓之氏は︑東大寺阿弥陀堂に安置されていた八角宝殿を例として︑仏堂の内部空間に安置された厨子の性格を考察しているが︑本八角堂内陣も︑堂の中央に置かれた大きな厨子として捉えることができ︵澤村仁﹁栄山寺八角堂﹂一九八一年︶︑八角宝殿と同様に仏菩薩の世界を表出する装置として機能したと考えられるのではないだろうか︵﹁﹃殿﹄へのまなざし│古代・中世における仏像安置と厨子│﹂二〇一四年︶︒今後の検討課題としては︑柱絵の供養菩薩にみられる仕女図からの影響および戒壇院扉絵図との親近性︑騎獅文殊の図像の受容といったことを手がかりとして︑具体的な制作状況を明らかにすることが挙げられる︒さ らに︑八角という堂宇の形や当初の本尊の問題も含め︑本八角堂がどのような信仰に基づき造立されたのかについても考察していきたい︒
二〇四
共 同 体 と 存 在 論
││ジャン=リュック・ナンシーの初期共同体論について
伊 藤 潤 一 郎
本修士論文は︑ジャン=リュック・ナンシーの共同体論を︑それがはじめて素描された﹃声の分有﹄︵一九八二年︶と︑その基本的な枠組みが完成した﹁無為の共同体﹂︵初出一九八三年︑単行本一九八六年︶に焦点をあてて論じたものである︒論文の全体を通して最終的には︑ナンシー共同体論における重要概念とされる﹁パルタージュ︵partage︶﹂が有するアポリアの構造を浮かび上がらせることを試みた︒以下︑各章の概要を記す︒
第一章 デリダにおける存在論
本章ではナンシーの共同体論とハイデガー解釈に大きな影響を与えていると考えられるデリダのハイデガー解釈を論じる︒とりわけ︑﹁擬似存在論的︵quasi-ontologique︶﹂次元︑ならびに存在論︵ontologie︶ならざる﹁詞華集︵anthologie︶﹂という二つの戦略素を主たる考察の対象とする︒これらの戦略素を用いてデリダが批判しているのは︑ハイデガー存在論がもつ純粋主義的︑否定神学的傾向である︒西洋存在論が思考してこなかった存在の出来事を炙り出しつつも︑そこへと立ち返ることを促すハイデガーの議論は︑一面で疎外論となり西洋存在論の体制をさらに強化することになりかねない︒それに対しデリダが提示するのは︑存在の出来事を アポリアとして︑汚染の構造において徹底的に思考することである︒ハイデガーが語る存在の出来事としての性起は︑それが非現前の出来事であるとしても︑現前の場からしか語ることができない︒つまり︑出来事の一回性︑特異性︑純粋性︑計算不可能性は︑つねに虚構性︑反復可能性︑計算可能性によって絡めとられているというアポリアの構造を︑デリダは執拗に提示するのである︒しかし︑デリダはハイデガーが見出した非現前の出来事を否定しているわけではない︒特異な出来事の抹消は︑現前の場の固有性に自閉することになってしまう︒だからこそデリダは︑一方で純粋な存在論的次元の不可能性を認めながら︑他方で存在論性をハイデガーとは異なる形で維持しなければならないと考える︒そこで提示される戦略素が﹁擬似存在論的﹂次元と﹁詞華集﹂である︒デリダはこれらを用いて︑存在論的な水準での批判の可能性を維持しつつも︑存在論的水準を特権的な水準とはせずに︑つねに存在者の次元へと送り返されるような次元︑端的に言えば︑存在と存在者が差延する次元を思考しようとする︒つまり︑存在論のもつ批判力を維持しつつも︑それがつねに存在者のレベルでの実践になるようなアポリア的関係をデリダは思考しようとするのである︒言い換えればそれは︑計算可能性の領野に立ちながら︑それを超えるものへと応答しようとすることによって両者の境界を進むことだといえるだろう︒ハイデガーが現前の場に収まらない出来事を剔抉したのに対し︑デリダは現前の場を越え出るものを絶えず現存の体制に突き返し︑体制から排除されているものへと応答しようとするのである︒特異性を非現前的なものとして否定的に実体化するのではなく︑現前の場との必然的な汚染関係にしたがって思考するデリダにおいて︑存在論の次元とは現前の場への介入における効果によってのみ維持される次元だといえる︒
修士論文概要二〇五 第二章 ナンシー共同体論の萌芽││﹃声の分有﹄について 本章では︑﹃声の分有﹄の極度に圧縮された議論を明確化することで︑ナンシーの共同体論がはじめて素描された時点でのナンシーとハイデガーの関係を整理する︒﹃声の分有﹄では︑近代解釈学に対する批判をコンテクストとして︑ハイデガーの﹃存在と時間﹄が分析される︒この分析から︑ナンシー共同体論の重要概念の一つである﹁有限性︵finitude︶﹂が導き出されてくる︒端的に言えば︑有限性とは出来事からの根源的な分離の関係のことである︒ナンシーはこの分離の関係を︑﹃存在と時間﹄における現存在の存在了解に見出す︒現存在は存在が贈与される出来事をそれとして把握することはできず︑つねにそこから分離されている︒しかし︑この分離は出来事へと絶対に回帰することのできないものであるため︑分離以前の純粋状態を前提するものではない︒出来事から絶対的に分離されていることがナンシーの言う意味での﹁有限性﹂であって︑それは有限に対する無限を設定するものではない︒
さらにハイデガーの議論から導き出された絶対的分離の関係は︑他者の到来という他者問題へとパラフレーズされ︑プラトンの﹃イオン﹄の読解を経て︑ハイデガー存在論は他者の特異性の議論として読み替えられる︒存在の出来事は他者の出来事へと読み替えられ︑それに従って︑存在の出来事との絶対的な分離は他者との絶対的な分離関係へと読み直される︒ここでパルタージュという語が登場する︒この語は第一義的には︑特異な他者との根源的な分離=分割の関係を表しているが︑特異性による分割の関係はつねに特異性の分有となる︒なぜなら︑特異な存在者は現前の場に現れない特異性をもつという点において平等だからである︒ここに分割=分有の共同性が成り立つ︒しかし︑パルタージュという語の射程を捉えるに は︑﹁分割﹂と﹁分有﹂というこの二重性に加えて︑﹁部分化﹂という意味もそこに見てとらなければならないと私たちは考える︒特異な存在者が特異性を分有する共同性は決して現前しない︒別の言い方をすれば︑いかなる現前的尺度によっても包含されない特異性は︑その定義からして現前の場に現れた途端に部分化されざるをえないのである︒ここからわかるように︑ナンシーもデリダと同様に︑ハイデガー存在論を受けて特異性と現前の場の間にあるアポリアの関係を思考しているのであるが︑ナンシーはこの関係性を共同体論として展開する︒ナンシーは︑特異性の分有による共同性をパルタージュという語に託して提示しているが︑そのような共同性はアポリアの構造のうちにしか存在しえない︒ナンシーが﹃声の分有﹄でパルタージュという語を駆使して素描した共同性は︑このようなアポリアの関係を軸として理解されなければならない︒
第三章 ナンシー初期共同体論の完成││﹁無為の共同体﹂について 本章では︑﹁無為の共同体﹂を二つの節に分けて論じる︒第一節ではバタイユとハイデガーにおける外の問題に︑第二節では死の問題に焦点をあてる︒第一節では︑並べて論じられることがほとんどないバタイユとハイデガーの間に︑ナンシーがいかなる共通点・相違点を見出しているかを解明する︒バタイユが追求した死や供犠︑濫費などの自己の外の経験︵至高な経験︶は︑つねに不可能なものとしてしか現れえない︒ナンシーは不可能なものとしての至高性をハイデガーの存在と結びつける︒自己隠蔽する存在の出来事と︑そこから滑り落ちざるをえない至高な経験が重ね合わされているのである︒それによりナンシーは︑存在者の場や有用性の場が存在や至高な経験という他なるものによって貫かれているということ︑しか
二〇六 し他なるものはそれとして現れることはなく︑存在者や有用性の場から出発せざるをえないというアポリアの構造を浮き彫りにする︒アポリアの構造は︑ここでもパルタージュという語によって語りだされる︵﹁無為の共同体﹂では︑私たちがアポリアと呼んでいる関係性は︑﹁限界︵limite︶﹂という語によって語られている︶︒
第二節では︑﹁無為の共同体﹂における﹃存在と時間﹄の死の分析を︑ナンシーによるハイデガーの翻訳の問題点というこれまでとは違った角度から読み直す︒ハイデガーの死の議論は︑死が私のものでしかないという私 4に焦点をあてたものであり︑したがって他者の死が語られる部分では他者一般の死が論じられていればよい︒それに対しナンシーは︑他者の死を特異な他者の死と解釈することで︵本節ではその傍証として︑﹃存在と時間﹄におけるder Anderenという複数形を︑ナンシーがl ʼautreと単数形で訳していることに注目する︶︑根源的な共同性が開示される場面として重視する︒この他者の死の経験こそパルタージュの経験である︒他者の死は︑決して我有化されえず︑意味づけたり所有したりすることのできない特異なものである︒したがって︑特異な他者の死の経験は︑他者との分離=分割の経験である︒前章で見たように︑特異であるがゆえの分割関係は分有の関係でもあり︑分割と分有は同時である︒しかし︑現前しない存在論的次元での分割=分有の共同性を主張するだけでは︑存在論を根源化する議論となってしまう︒したがって︑パルタージュという語をアポリアの経験として読まなければならないのである︒ 結論 共同体と存在論││抵抗としての共同性
特異であるがゆえに分有の関係にある存在論的次元での共同性︵無為の共同体︶は︑共約可能性の空間である現前の場には現れることがない︒しかし︑パルタージュという語には︑特異な他者が現前の場に現れえないものを潜ませつつ現れるという﹁部分化﹂の構造までが含意されている︒つまり︑存在論的次元は構造的に経験の次元へと関係せざるをえず︑また経験の次元は自閉することなく存在論的次元へと開かれている︒パルタージュという語によってナンシーが描き出す存在論的共同性は︑このようなアポリアの構造︑限界の構造のうちにある︒したがって︑現前の場が自閉して﹁内在﹂の論理に従おうとするのに対し︑無為の共同体は現前の場が他なるものに取り憑かれていることを明かしつつ︑既存の共同体を絶えず問い直す︒そのような無為の共同体とは︑抵抗の共同性に他ならない︒﹁内在﹂の論理に従おうとする場に対する抵抗として︑無為の共同体は保持されなければならない︒存在論的次元の共同性は︑現前の場に対する抵抗︑介入のために保持されなければならないのである︒
修士論文概要二〇七
ゲ ル ハ ル ト ・ リ ヒ タ ー ︽ ア ト ラ ス ︾ 論
││見ることの地図││
岡 添 瑠 子
旧東ドイツ出身のアーティスト︑ゲルハルト・リヒター︵GerhardRichter, 1932-︶の︽アトラス︾︵Atlas, 1964-2013︶は︑パネルに多量の写真図版やスケッチなどを並べて貼付し展示する作品である︒年々増殖するパネルは総数802枚に達し︑パネル上に添付された写真は8︑000枚を超える︒その多くは︑﹁フォト・ペインティング﹂と呼ばれる油彩画のモティーフ源だが︑︽アトラス︾には油彩作品の構想スケッチや展示イメージ図︑あるいは自らの絵画の細部を写した写真なども含まれており︑この作品はリヒターの制作の歩みの概観図ともなっている︒
本作はこれまで︑1960年代以降ヨーロッパで次々に登場した︑蒐集や集積などを軸にしたいわゆる﹁アーカイヴァル・アート﹂に位置づけられ︑記憶やアーカイヴ︑歴史といった問題から論じられてきた︒しかし︑フォト・ペインティングを中断し抽象画に移行した
経験は絵画よりもねじれたものとなる︒ てきた︒だが︑写真は撮影者の意図を越えたものまで写し込むため︑鑑賞 自身の作品の主題に関する言及を長らく控えてきた点も︑解釈を困難にし いる写真が﹁凡庸﹂という言葉でしばしば説明されることと︑リヒターが か︑詳細な検討がなされているとは言い難い︒また︑本作品に収録されて は︑︽アトラス︾を抽象画のイメージソースとして見ることが困難なため 70年代以降について
写真の内容や形式に注目する従来の見方に対し︑ゲルトルード・コッホ はリヒターの他の作品におけるズームや﹁ぼかし﹂の特徴から︽アトラス︾をとらえており︑﹁知覚﹂に重きを置いている点で示唆深い︒本論文ではこの議論をひろげ︑本作品における写真の﹁見え方﹂がどのように機能しているかを探った︒
第一章では︑︽アトラス︾の多くを占める写真について考える土台として︑フォト・ペインティングなど写真を用いた絵画作品の分析を通し︑リヒターの写真に対する批評性について考察した︒浮かび上がったのは写真の虚実の曖昧さに対する意識である︒写真は痕跡として被写体の存在を裏付けるが︑情報の搭載という面においては文字キャプションを必要とする不完全なメディアである︒フォト・ペインティングの﹁ぼかし﹂は︑この写真の相反する特徴を絵画によって顕在化させる︒描かれた/写された対象物がブレた画像の中に消えていき︑再び離れ難く浮上してくるという往復運動の中に︑画中の人物たちの存在が立ち上ってくるのである︒鑑賞者もまた二極の挟間に立たされながら︑写真の曖昧さについて逡巡を求められる︒写真や絵画が﹁再現表象するもの﹂とされることや︑人が見る慣習に問いを突き付けるのだ︒
次に︑︽アトラス︾における実験写真や抽象画の接写写真︑都市の航空写真︑海や雲といった自然現象のモティーフに共通する﹁不定形﹂の要素に注目し︑抽象と具象︑または近接と遠方の表現が抽象画への橋渡しとなっている可能性を見出した︒写真は機械による偶然性をもたらす一方で︑自然をはじめとする﹁現実﹂を別の方法で見るためのひとつの手段でもある︒ある対象を全く異なる描き方で複数の絵画に描く︑写真を絵画に拡大して描き︑さらに写真に撮影するといった実験的な試みは︽アトラス︾でも行われているが︑撮影を重ねてアップとズームアウト︑拡大と縮小を繰り返すことにより︑物質的なものと平板なもの︑具象と抽象など︑通常は別のものに見えるイメージは実際は見え方が異なるだけにすぎない