• 検索結果がありません。

近年のわが国における貨幣需要関数の安定性について : 共和分分析を中心として

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "近年のわが国における貨幣需要関数の安定性について : 共和分分析を中心として"

Copied!
133
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)2010年度 関西学院大学大学院商学研究科. 博士学位論文 学位. 博士(商学). 論文提出者. 澤 田. 吉 孝. 論文題目. 近年のわが国における貨幣需要関数の 安定性について. 一共和分分析を中心として一. 審査委員会. 主査. 今 井. 譲. (関西学院大学商学部教授). 副査. 福 井 幸 男 (関西学院大学商学部教授). 副査. 岡 田 太 志 (関西学院大学商学部教授).

(2) 博士学位論文. 近年のわが国における貨幣需要関数の安定性について 一共和分分析を中心として一. EstimatingJapanese MoneyDemand Function by CointegrationAna1ysis. 平成22年度 (2010年9月). 関西学院大学大学院 商学研究科 澤田吉孝.

(3) 目次 4. はじめに. 第1章わが国の貨幣需要関数の安定性. 8. I.はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 8. n.近年の金融政策と日本経済・・……………・・・・………・・……・・・・・・・・・…11 1.バブル崩壊前・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…11 2.バブル崩壊後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…25. 皿.貨幣量と経済活動の長期的関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…33 1.データについて・・’’’.’’’’’’’......’..’..’.’’’’’’’’’’’’’’’’.’’’.’’’’’’’’’’33. 2.定常性の検定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… ...’’’’’’’’’.’’.’’’...’’’’’’’’’.’’’’37. 1V.共和分検定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…39. V.短期貨幣需要関数の推定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…45 W.まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 49. 第2章金融不安要因の定量化に関する一考察_企業及び家計の両観点より_. 52. I.はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 52. ■.金融不安要因に関する先行研究とその問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…53 1.企業サイドに関する先行研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…53. 2.家計サイドに関する先行研究・・・……・・・・・・・・……・・・……・………・・…55 3.先行研究の問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…55. 皿.ボラティリティ変動の非対称性とGJRモデル,EGARCHモデル・・・・・・・・・・・・・・・・…61 1.GJRモデルについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…62. 2.EGARCHモデルについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… ’・’’・・・・・…64 1V.金融不安要因の定量化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…65 1.データの性質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…’’・・・・・…65. 2.企業サイドからの定量化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…66. 3.家計サイドからの定量化・・・・・・・・・・・・・・・・・・………・………・…………・69 4.企業サイドと家計サイドの比較・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…76.

(4) V.まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… .・・・・・・… 77. W.神論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…77. 第3章平成不況における金融政策の有効性. 79. I.はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 79. 皿.共和分検定(1)一事前検定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…81. 皿.金融不安要因の定量化一企業サイド・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…82. 1V.共和分検定(2)一金融不安による予備的需要の推定と流動性の罠・・・・・・・・・・・・・・・…85 V.まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 92. 第4章貨幣需要における構成要素間の代替関係についての一考察. 94. I.はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… ’’’’’’.・・・… 94. n.先行研究とその問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…94 皿.単位根検定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…...・・・・・・・・…’.’’’.’’’...’.’..’’’’.’’’96. 1V.共和分検定(1)一事前検定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…g7. V.共和分検定(2)一構成要素間の代替関係を考慮したモデル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…105 W.M2+CDとしての解釈・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…109 V皿.まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… ’’.・・… 110. おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 118. 3.

(5) はじめに. わが国は1973年10月に第一次オイル・ショックを経験し、1974年には物価水準が30%(卸 売物価で30%、消費者物価で20%)を超える高いインフレーション(In且ation,以下、インフレ)が 生じた。この経験により、安定したマネーサプライ(Mloney Supp1y)1を維持することの重要性を理. 解した日本銀行(以下、目録)は、1978年12月の第二次オイル・ショックに対して、適切なマネー サプライの増加率に保つことで、物価の上昇を抑えた。. 2度のオイル・ショックを経験したにもかかわらず、その後の日本経済のパフォーマンスは良好 であった。その背景には、適切な金融政策に加えて、オイル・ショック後の国内市場の伸び悩みに 対応して、日本産業界が積極的に輸出を促進させていったからであった。しかしながら、その結果、 日本の経常黒字は増加し続け、しばしば他国(特にアメリカ)によって非難されるようになった。こ. の貿易摩擦に対し、当然、強力な国際協調が必要とされた。そのため不幸にも目録は、オイル・シ. ョックで得られた経験を忘れ、2度の国際会議で決定した合意(1985年のプラザ合意と1987年の ルーブル合意)に基づいて、マネーサプライを急速に増やして行ったのである。. このマネーサプライの増加は、土地、株式といった資産価格の急速な上昇を生み、バブノレ経済. を発生させた2。バブル経済の下で、豊かな資金力を手にした金融機関は、おりからの金融自由 化の影響もあり、貸出事業に対し非常に積極的になっていた。バブル経済を懸念した目録は、 1989年から急激な金融引き締めを行った。この引き締めによって資産価格は大きく下落し、バブ ル崩壊が起きた。当時、積極的に貸し出しを行っていた金融機関は多額の不良債権を抱え、さら. に未曾有の金融危機の発生にまで至った。1994年12月の東京協和信用組合と安全信用組合 の破綻に始まり、不動産融資に傾倒していた住宅金融専門会社(住専)、1997年には大手20都. 市銀行の一つであった北海道拓殖銀行、4大証券会社の一つであった山一護券、1998年には 日本長期信用銀行、日本債券信用銀行とわが国を代表する金融機関が次々と破綻していった。 その後、日本経済は混迷を続け、戦後前例のない長期不況を経験することになったのである。. この長期不況の間に、目銀は積極的な金融緩和政策をとり続けた。1999年2月にはコールレート を事実上0%にするという「ゼロ金利政策」を実施し、さらに2001年3月からは「量的緩和政策」. 1目録は、2008年6月に通貨保有主体や各指標の通貨発行主体および金融商品の範囲の見 直しを行うとともに、マネーサプライ統計の名称もマネーストック統計に変更している。しかし、本. 稿で用いたデータ、分析期間共に定義範囲変更前のものであるため、本文中の名称は、マネー ストックではなくマネーサプライを用いていることに注意されたい。. 2資産価格の高騰を招いた原因としては、土地などに対する税制面での影響も少なくない が、本稿では特に金融政策の役割を重視する。. 4.

(6) に金融政策の方式を変更することを決定した。コールレートという金利目標から目録当座預金残 高を政策目標として、金融機関の所要準備額を大きく超える水準まで増額し、極めて大きな政策 転換を行った。. この日本経済の長期不況の原因に対し、内外の経済学者の間で、さまざまな議論が交わされ た。それらの議論は、2つのグループに大別できる。一方は、日本経済の低迷の原因が実物的な 要因(例えば、高齢化社会や、アジア諸国から輸入される安価な商品、国際的に集約された技術 レベルなど)によって引き起こされたものである、という供給サイドを重視する論者である3。こうした. 問題に対して彼らは、コーポレートカバテンスの変化を促すようなミクロ経済政策が必要であり、 「構造改革なくして、経済成長はない」と考えていた。他方は、需要側を重視する論者である4。彼. らは、総需要・総供給曲線の考え方(ADムS分析)を使って、財・サービス市場の価格が低下し合. わせてGDPも減少する状況はAD曲線の左方へのシフトによる需要不足が起きているとし、マク ロ経済政策(例えば、政府支出、減税、金融緩和など)が必要であると考えていた。. これらの議論は、我々に1930年代のアメリカ大恐慌を思い起こさせる。当時、不況の初期段階 には、経済システムが非効率であるとして、清算が必要であると考える人達がいた5。つまり、需要. サイドは無視されたのである。これに対し、近年の研究では、清算主義の考え方は景気後退を深 刻化させ、単なる不況を大恐慌へ発達させた、と説明している6。市場が非効率であるというだけで. は、上昇する失業率を説明することはできない。他方、Fisher(1933)は、物価水準の下落(デフ レーション:De且ation,以下、デフレ)が不況を招き、不況が更なる物価の低下を招くという悪循 環(デフレ・スパイラル:De且ationary Spira1s)を引き起こしたと主張した。この考えに沿うと、リフレ. ーション政策等で物価水準の下落を食い止めることが重要である。デフレはインフレと同じく貨幣 現象であり、マネーサプライをコントロールする金融政策が要諦となる。にもかかわらず、目録はマ ネーサプライの重要性を認識していなかった。金融システムショックが1997年に起こった後でさえ、 目録はコーノレレートを目標にした従来の金融政策を続けたのである。. 2003年に目録は、マネーサプライと実体経済変数との間に、もはや安定的な関係が存在しな 3野口[悠1(2002)、HayashiandPrescott(2002)、日本経済研究センター(2003)、宮川[努1 (2003)等。. 4岩田(2001)、深尾(2002)、野口[旭1(2002)、野口[旭1・岡田(2003)、Hamada(2004)等。. 5フーバー大統領に助言をしたアンドリュー・メロン財務長官の格言は、有名である。「労働者を 清算し、株式を清算し、農民を清算し、不動産を清算せよ。そうすれば、この世から腐敗は消え、 高い生活費と贅沢な暮らしぶりはなくなるであろう。人々は一生懸命に働くようになり、もっと堅実. な生活をするようになるであろう。価格は調整され、やる気のある者が競争力を失った者を救済 するであろう」[Parker(2002)p.9,宮川[重1訳(2005)10頁を参照1。.. 6岩田(2001)、Bemanke(2002)およびParker(2002)を参照。. 5.

(7) いと発表した7。さらに、コールレートがゼロ付近になったことで、日本経済は「流動性の罠」に陥っ. ている、と主張する経済学者も現れた8.Keynes(1936)が述べたように、非常に低い金利水準の. 下では、貨幣と債券が完全代替となり、人々は債券を保有する事を望まず、代わりに貨幣を保有 することを選好する。このためマネーサプライの増加は、すべて遊休残高として吸収され、経済に. 影響を及ぼさない。言い換えれば、「流動性の罠」の下では金融政策は効果的でなく、中央銀行 が不況に対して責任を果たせなくなる。. そこで本稿では、マクロ経済政策においてのマネーサプライと実体経済の関係を統計的に分 析し、マネーサプライと実体経済との間には未だなお長期的に安定した関係が存在することを明 らかにし、さらに日本経済が「流動性の罠」に陥っていなかったことを示す。そのうえで、日銀が長. 期の不況に対して大きな責任を有していることを示す。本質的には、不況は不良債権を含む資産. 価格の急速な下落によって特徴づけられる。不良債権の増加に伴い、金融部門の金融の仲介機 能が機能不全に陥り、日本経済は金融システムショックに至った。この金融システムショックは、経. 済活動に非常に大きなマイナスの影響を及ぼし、人々の間に金融不安を引き起こした。金融不安 は、マネーサプライと実体経済の関係に重要な影響を持つと考えられる。そこで、本稿では、金融 システムショックによって引き起こされる金融不安の定量化(以下、金融不安要因)に焦点を当て、. 金融不安要因を考慮した場合のマネーサプライと実体経済との関係の分析を行う。そして、マネ ーサプライは、もはや実体経済と明確な関係を持ち得ないとする目録などの主張に対して反証を 行う。. 具体的には、まず、第1章では、近年の日本経済の動向を考察しつつ、マネーサプライ重視政 策をとる上で重要な前提となる「貨幣需要関数の安定性」について実証分析する。近年の日本経 済の動向を、バブル崩壊前と崩壊後の2期間に分けて分析する。金融危機とデフレの原因は、日. 本経済が資産価格の過大な上昇を経験した1980年代後半の、いわゆる「バブル経済」に根ざし ている、と考える。そこで「バブル経済は、どのようにして起こったのか」、また「バブル崩壊以降、ど. のように不況に陥っていったのか」、そして「政策当局(特に目録)は、どのように不況に対応したの. か」、に焦点をあてる。貨幣需要関数の推定に際しては、Johansen(1988)とJohansen and Juse1ius(1990)タイプの誤差修正モデル(Error Correction Mode1:ECM)を用いて実証分析 する。ただし、ここではまだ金融不安要因を具体的なデータとしては用いていない。. 7日本銀行企画室は2003年の「金融政策運営に果たすマネーサプライの役割」で、(1)目録の 金融政策運営におけるマネーサプライの位置付けや、(2)近年、わが国においてマネーサプライ と経済活動との関係が不安定になっている背景について、説明している。 8Krugman(1998a,b,c)が有名である。. 6.

(8) 第2章では、1997年、1998年の金融不安の高まりに焦点を当て、分析される。この時期を境 に、マネーサプライと実体経済との間に共和分として知られる長期均衡関係が存在しなくなったと. 思われる。大きな金融不安が発生すると、企業や家計といった民間主体の資金制約に関する不 確実性を拡大させ、貨幣の予備的需要(将来の不確実に備えた貨幣需要)を増大させ、貨幣需 要を大きく変化させる可能性があるからだ。そこで金融不安要因の先行研究の紹介およびその問 題点を指摘すると共に、定量化をさらに推し進める。その際に、新たな観点、特に家計サイドに焦. 点を当てて分析を行い、その手法としては統計的に精度の高いEGARCHモデルを用いる。 第3章では、[調整マネーサプライ、GDP、金利]の3変数間に長期均衡関係が成立することを 示す。加えて、「流動性の罠」の有無を統計学的に示すことによって、目録がマネーサプライの役. 割を軽視すべきではない、と結論付ける。金融不安に基づく予備的需要の推定を行う際、予備的 需要が金融不安要因に比例するとみなし、その比例定数を推定する。具体的には、「調整マネー サプライ」:「マネーサプライ」一κ×「金融不安要因」と定義し、調整マネーサプライとGDP、金利. の間で多変量誤差修正モデル(鴨。torErrorCorrectionMode1、以下VECM)を構築し、共和 分検定を行いつつ、金融不安要因の係数であるκを推定する。 第4章では、貨幣需要関数の実証分析に際して、「説明変数に、どのような変数を用いるのか」、 という点に焦点を当てる。貨幣を金融資産の一つとして見なした場合、金利変数としては、自己資 産利回り(0wnRate)と代替資産利回り(Riva1Rate)を用いるのが一般的である。しかしながら、. M2+CD需要の場合、金利変数として金利スプレッド(=代替資産利回り一自己資産利回り)を用 いて実証分析を行えば、その中に含まれるM1需要もまた金利スプレッドで回帰することになり、. その推定結果が信頼できなくなる可能性がある。そこで、M2+CDの構成要素に十分な注意を払 い、具体的には、[M1、準通貨十CD、所得、短期金利、金利スプレッド1の5変数からなるVECM を作り、共和分の成立に関して分析を進める。. 7.

(9) 第1章わが国の貨幣需要関数の安定性 I.はじめに. マネーサプライがマクロ経済政策において重要な役割を持っていることは論をまたない。これま で、欧米の多くの中央銀行もマネーサプライを中間目標変数として見なしてきた9。しかしながら. 1980年代に入り、以前と比べてマネーサプライと経済活動の関係は曖昧なものとなったといわれ. ている。1993年7月にグリーンスパン連銀議長は議会報告の中で、「マネーと所得、マネーと物 価の間の歴史的な関係は大きく崩れており、政策運営上の指針としての有用性が失われている。 少なくとも、当分の間、M2に関しては政策運営上の位置づけを引き下げる」と明言した1o。. そもそも、アメリカの金融政策において、マネーサプライに関心が示されるようになったのは、 1970年代になってからである。その背景には、70年代に入りアメリカはインフレと失業に悩まされ. るようになったが、当時の伝統的経済学の教義であったケインズ経済学では有効な政策を打ち出 すことが出来ず、フリードマンを中心とするマネタリスト(Mlonetarist)が台頭してきたことにある11。. 9金融政策の運営に関して、多くの国で二段階アプローチ(Two−stage Approach)が取られて きた。その際の金融波及プロセスは、次のように示される。. この波及プロセスにおいて、政策手段から操作目標の間に金融調整方式の問題、つまり何を操 作変数とするかという問題があり、制度の相違、短期金融市場の相違があるので自ずと国によっ て操作方法も異なってくる。しかし、この問題は本質的には操作目標から中間目標の間のどの 操作目標を狙ったら最も的確に中間目標を達成できるかというコントローラビリティの問題と絡ん でおり、金融自由化の進展の影響を大きく受けている部分である[今井(1994)193頁より引 用1。. 二段階アプローチによる政策運営のさい、採用される変数が中間目標として適切であるために は、次の条件が必要であると考えられる[上掲論文,195頁より引刷。 ①データ収集の速報性、正確性。 ②政策手段によるこの変数のコントローラビリティが大きいこと。. ③この変数から最終目標変数への安定した因果関係。 10Greenspan(1993)p.852rを参照。. 111970年代以前の連邦公開市場委員会(Federa10penMarketCommittee,FOMC)は、中 間政策指標として、①自由準備(=超過準備一借入準備)、②フェデラル・ファンド・レート (Federa1FmdsRate)、③借入準備等、短期金融市場の指標を中間目標としてきた。. 8.

(10) こうした中で、71年には中間目標としてM1が選ばれ、操作目標としてフェデラル・ファンド・レート. (Federa1Funds Rate:以下、FFレート)が据えられた。78年8月には「1978年完全雇用・均. 衡成長法:Fu11Emp1oymentandBa1anced GrowthActof1978(通称、ハンフリー・ホーキン ズ法:Humphrey−Hawkins Act)」が制定され、アメリカの連邦準備制度理事会(Board of Govemors ofthe Federa1Reserve System)はマネーサプライの伸び率の目標値と経済見通 しの関係を毎年2回議会で報告することになった。さらに、79年10月から操作目標をFFレート から非借入準備に転換することによって、M1の伸び率の厳密なコントロールを目指す「新金融調 節方式」を採用した。. その際、M2よりもM1が中間目標として望ましいと考えられていた背景には、次の二点が挙げら. れる。第一にM1の増減の方がM2よりも経済全体の支出と密接な関係を持つと当時考えられて いた。事実、M1を用いた貨幣需要関数は安定しており、マネーサプライと主要な実体経済変数 の間に安定した関係が成立していた。第二に中央銀行はM1の動きの方を容易にコントロールで きる、つまりM1は民間金融機関によってその増減が左右されることなく、金融政策当局の意図に したがって増減が可能であると考えられていた。. なぜこの2点が成り立つかというと、レギュレーションQ⑭egu1ation Q)によって要求支払い預. 金には金利がつかないという事実がある12.M1は現金通貨と要求払い預金によって構成されて おり、M1に金利が支払われないことは、M1には貯蓄性の機能を有していない。したがって、M1 は決済性が強く、その変化は経済の取引額と密接な関係を持つと考えられる。 また、連銀によるコントローラビリティに関してであるが、M1に金利が支払われないため、連銀が. 金利変更を行っても、民間金融機関はそれに対応してM1に金利をつけることはできなかった。こ. の場合、金利変更が即貨幣保有の機会費用の変化につながり、M1を変化させた。. しかしながら、80年代に入って規制緩和と金融新商品の出現は、M1と実体経済の関係を曖昧 なものとした。その理由は、NOW勘定(Negotiab1e Order ofWithdrawa1A㏄ount:譲渡可能 支払意図勘定;要求支払預金に近い預金勘定)等の登場により、当座預金にも金利が支払われ るようになったからである。更に新たな金融商品の開発によって、M1以外でも小切手を切ることが. 121933.1935年銀行法(G1ass−Steaga11Act:グラス=スティーガル法)は、利益相反間題を重 視し、銀行業務と証券業務の明確な分離を定めたものである。預金者の取り付け騒ぎを回避す るために公的預金保険制度が導入され、預金獲得目的の過当金利競争と付随するハイリスク・ ハイリターン志向の資産運用を防ぐために預金金利規制(要求支払預金の付利禁止、貯蓄・定. 期預金の金利上限規制)が連邦準備制度理事会(Board of Govemors of the Federa1 Resewe systemまたはFedera1Resewe Board,FRB)のレギュレーションQによって実施 されていた[舘編(1994)280ノ買を参照1。. 9.

(11) 可能になった13。そこで、個人の資産保有においてM1かそれ以外かは問題ではなくなり、人々 は金利の変化によってM1残高を大きく変化させるようになったが、それはもはや経済支出の変. 化をもたらすものではなくなっていた。この変化に対応して、NOW勘定およびATS口座 (AutomaticTransferService:ATS)を除外したM1−A、それらを含むM1−B,M1以外からの振. 替のインパクトを考慮したシフト調整M1−Bが登場したが、1982年10月にM1の短期的目標と しての役割を一時停止した。そして連銀は、貨幣計数につながる総準備及び非借入準備を算出 して、貨幣集計量の目標からの乖離に伴って動く借入の水準を引き出す方法に加えて、直接借. 入準備の水準を目標とした14。連銀は、1980年代のほとんどの年で、M1の代わりにM2(及び M3)を重視していった。M2需要の短期的な変化は著しかったが、名目所得との関係は、長期的. に安定していたからである。中間目標としてM1は87年2月に目標として廃止され、連銀はM1 に代わりM2を中間目標として用いるようになった。しかしながら、1990年代に入ってM2と実体 経済との関係が曖昧になったことから、グリーンスパン議長の前述の発言になったのである。. わが国においては、1978年7月にマネーサプライ見通しの公表を始めた。これは、1973年の. 13規制が誘発した金融新商品は以下の通りである。 ①1970年代初頭に、レギュレーションQを回避するために、マサチューセッツ州とニューハ. ンプシャー州の相互貯蓄銀行(Mutua1SavingsBank:MSB)によってNOW勘定が開発 された。NOW勘定は、貯蓄預金勘定(Saving A㏄ount)が利付であるが小切手を使用で きない点を改良したものである。. ②1970年代末、貯蓄金融機関及び商業銀行の利子率がレギュレーションQによって人為 的に低く抑えられていたため、証券会社によってMMMF(MoneyMarketMutua1Fund: 短期金融資産投資信託)は生みだされ、急成長していった。当時、世界市場で金利が大幅 に上昇し、銀行及び貯蓄金融機関は大口のCDを高金利で発行するようになっていた。証 券会社は、このようなCD預金勘定、コマーシャル・ぺ一パー(Commercia1Paper:CP)、 財務省短期証券(Treasury Bi11s:TB)等の流動性の高い短期証券で運用する投資信託. を扱い始めlllになったのであ/。1の㎜1には、限定的ではあるが小切手振出機能 が付け加えられていた。. ③1982年預金金融機関法(Depository Institutions Act of1982:D岨通称ガーン=セ ソト・ジャーメイン法,Gam−StGermainAct)によって、金融機関はMlMMFに対抗できる MlMDA(MoneylMarket DepositA㏄ount:短期金融市場金利預金勘定)の提供が認め られた。. ④1983年に預金金融機関規制委員会(Depository Instituti㎝s Deregu1ation Committee:DIDC)は、自由金利のスーパーNOW(Super−NOW)勘定の提供を認めた。. スーパーNOW勘定はNOW勘定の金利上限規制を取り払ったもので、NOW勘定を越え たものという意味から名付けられた。特徴としてはNOW勘定と同様に個人および非営利法 人に限定された金融商品であるが、金利上限規制がなかったことと、導入当初は2,500ド. ルという最低預入残高制限が課されていた。しかし、1986年1月にはNOW勘定の金利 上限規制及ぴスーパーNOW勘定の最低預入残高制限の撤廃によって、スーパーNOW 勘定とNOW勘定の差はなくなっている。 14Meu1endyke(1998)P.53,立脇・小谷野訳(2000)60頁より引用。. 10.

(12) 第一次オイル・ショックにおいて過剰なマネーサプライが、年率30%にもいたるインフレを引き起こ. したことを教訓としたからである。にもかかわらず、残念なことに1985年のプラザ合意以降、金融 政策においてマネーサプライは、ほとんど無視されるようになった。それが、バブル発生の重要な. 一要因と考えられる。1990年代に長期不況に陥った時点においても、目録の主たる関心はマネ ーサプライではなくコールレートの動向にあった。しかしながら、長期に持続する不況に悩む目録. は2001年3月19目の政策決定会議において、それまでの政策金利を目標とするゼロ金利政策 から量的緩和政策に金融政策の方式を変更することを決定した。コールレートという金利目標から. 目録当座預金残高を政策目標にすることになったのである。質的目標から量的目標という、大き な政策転換である。. マネーサプライというストック変数が金融政策において重要になるのは、実質貨幣需要が実質 所得や金利のような経済変数と安定的な関係が有することが前提条件になる。つまり、貨幣需要 関数の安定性は有効な金融政策を行うために極めて重要な必要条件である。. このため本章では、近年の日本経済の動向をみつつ、マネーサプライ重視政策をとる上で重 要な前提となる貨幣需要関数の安定性について実証分析する。近年の日本経済の動向をみる際 には、バブル崩壊前と崩壊後の2期間に分けて分析を進める。金融危機とデフレは、日本経済が 資産価格の過大な上昇を経験した1980年代後半の「バブル経済」に根ざしている、と考える。そ こで「日本経済にバブルが、どのように発生したのか」、また「バブル崩壊以降、日本経済はどのよ うに不況に陥っていったのか」、そして「政策当局(特に目録)は、そのような不況にどのように対応. したのか」に焦点をあてる。その際、貨幣需要関数の安定性を考察するのには、Johansen (1988)とJohansen and Juse1ius(1990)タイプの誤差修正モデル(Error Correction Mode1、. 以下ECM)を用いて実証分析する。実証分析に進む前に、まず、わが国のこれまでの金融政策 とマネーサプライの役割について考える。. n.近年の金融政策と日本経済. 1.バブル崩壊前 目本経済は、1950年代後半から1970年代前半まで大幅な景気変動を伴いつつも、年率平均 10%の高度成長を遂げたが、1971年8月のニクソン・ショックと1973年10月の第一次オイル・ ショックによって急速に減速することになった。この2つの事柄は、金融の世界に大きな変化をも たらした。. 第1に、ニクソン・ショックである。1965年夏以降、ベトナム戦争の拡大による軍事費支出からア. 11.

(13) メリカはドルを増発し続け、この過剰流動性を背景に、物価の上昇、経常収支の一層の悪化 (1968年から赤字に転落している)が繰り返され、悪循環に陥っていた。そこで1971年8月15 目(アメリカ時間)、当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン(Richard Mi1hous Nixon)が. ドルと金との免換停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制は崩壊した。アメリカは、日本と西欧主要国 に対して対ドル為替レートの引き上げを迫り、その結果、同年12月のスミソニアン会議において、 日本の対ドノレ・レートが1ドル360円から304円へ引き上げられた(スミソニアン体制)。しかしなが. ら、この為替レートの調節にもかかわらず、アメリカの経常収支には改善が見られず、1973年2月. から3月にかけて主要国の為替相場は変動相場制に移行することになった。 第2に、第一次オイル・ショックを契機とする、スタグフレーション(Stag且ation)の問題である。第. 一次オイル・ショックは、1973年10月に第4次中東戦争を契機として起こった。世界的なインフ. レ傾向の中で、0PEC(石油輸出国機構)は、主要国の作る工業品価格に対して比較的に値上 がりの遅れていた石油価格を一挙に4倍引き上げた。この原油価格の引き上げは、世界の物価 水準を大きく上昇させ、戦後最大のハイパー・インフレ(Hyper In且ation)をもたらした。さらに、こ. のインフレの追加的特徴として、高率の失業を伴う経済不況の状況においても高いインフレ率が 同時に進行する、所謂スタグフレーションの性質を帯びるようになった。. 第3に、スタグフレーションの問題を発端とした、各国中央銀行の政策に対するマネタリズム (Monetarism)の影響である。スタグフレーションの問題は、第二次世界大戦後にマクロ経済学の 主流派の地位を占めるようになったケインズ経済学では、扱ってこなかったものである。当時のケ. インジアンの特徴は、①大型マクロ計量モデルを作成し、経済予測や政策立案のツールとして活 用すること、②インフレの原因として「コスト・プッシュ型(Cost Push)」を重視しており、インフレ対. 策としては所得政策を主張する、③右上がりの安定的なフィリップス曲線(Phi1ips Cu町e:インフ. レと失業の間に長期的なトレード・オフが存在する)を想定していたこと、④総需要管理政策を裁. 量的に運営することによって経済を完全雇用成長経路上に維持することが可能であると考えてい たこと、に要約することができる15。前記のように、ベトナム戦費の増大による超過需要インフレが 発生した時に、アメリカのケインジアンの政策当局者は、総需要増加政策(ドルを増発し続ける)を 維持しつつ、4%付近で推移していた失業率をさらに引き下げようとした。この背景には、フィリップ. ス曲線に沿ってインフレ率が加速する程度は低いと考えられていたからであった。さらに、現実の インフレ率がフィリップス曲線のそれを上回った場合、コスト・プッシュ・インフレであるとして、賃金・. 15加藤(1982)26−27頁を参照。. 12.

(14) 価格ガイドポスト政策16によって、インフレを抑制することができるとみなしていた。しかし、この政. 策は失敗に終わり、有効な解決策を提示・実現することができなかったケインズ経済学は、批判さ. れるようになっていた。Friedman(1968)は、①インフレは、産出高に対する貨幣量の相対的膨 張によって引き起こされるのであり、「インフレは、何時でも何処でも、貨幣的現象である」ということ、. ②賃金・価格ガイドポスト政策の基にあるコスト・プッシュは、市場支配力による一時的かっ部分的. な賃金・価格上昇と経済全体の継続的な物価上昇であるインフレを混同していること、③賃金・価 格ガイドポスト政策という価格形成の政府介入は、価格機構の働きを阻害する、と批判した17。こ のような状況から、フリードマンを中心とするマネタリストが台頭し、アメリカに続きヨーロッパの先進. 諸国が中間目標を金利からマネーサプライに切り替える動きが一般化してきた。マネタリストの特. 徴は、①市場経済では、完全雇用均衡へ向かう自動調整メカニズムが働くスミス主義、②物価の. 長期的変化および生産量と物価の短期的変化の原因は、貨幣量の変化であるという貨幣数量説、. ③経済安定化政策として、長期的な潜在経済成長率および流通速度変化率に見合った固定率 で貨幣量を増加させるK%ルーノレに従う貨幣政策、④経済学の目的は、現実分析のツーノレとして. の経験的モデルの構築であり、モデルは絶えず経験的証拠によってテストされなければならない という経験主義の4点に要約できる18。. 一方わが国では、1960年代後半から始まる世界的なインフレ傾向に対して物価を安定させるた めに為替レートを引き上げる必要があったが、当時は固定為替制度であったために日本の経常 収支は黒字を続けた。固定相場制を維持するために、ニクソン・ショック前のブレトン・ウッズ体制. 下では黒字の累積が黙認され、金融緩和が続いた。また、1972−73年に、いわゆる「日本列島改 造論」の掛け声のもと、政府は財政支出を大幅に増やした。この状況の下、第一次オイル・ショック. に見舞われ、その結果、卸売物価で年率30%を超えるハイパー・インフレを経験することになった. 19。更に1974年には実質GNPがマイナスに転じ、深刻な不況とハイパー・インフレが同時に発 生する典型的なスタグフレーションに陥った。この1973−74年のインフレの原因をめぐって、日本 経済新聞社編(1973)『インフレ論争』をはじめとして、活発な議論がなされた。その中で多くの経. 161962年初めの大統領経済報告(ケネディー政権)で賃上げを生産性上昇の枠内におさめ、賃 金上昇にブレーキをかける、いわゆる「ガイドポスト」が発表された。しかしこれは法的拘束力をも. つものではなく、世論を指導するのが主要な目的であった[経済企画庁(1963)第2部,第1 章を参照1。賃金・物価ガイドポストに関しては、金森・丸茂監訳(1968)の序章を参照すること。. 17Friedman(1968)pp.97−121,金森・丸茂監訳(1968)23−54頁,75−83頁を参照。. 18加藤(1982)24頁を参照。 191974年2月のピーク時には、卸売物価で37.2%、消費者物価で24.9%の前年費上昇率に 達していた[鈴木(1993)37頁を参照1。. 13.

(15) 済学者は、日銀が積極的に目録信用を拡大させたことによるマネーサプライの急増(いわゆる、過 剰流動性)をインフレの要因として考えるようになった。そして、マネーサプライヘの関心が高まっ た20。例えば、『インフレ論争』の中で小宮は「貨幣供給の急増(最近の日本の言葉でいえば、‘‘過 剰流動性’’)は、最近の物価上昇の主役である」という見解を明確に示した21。その後、この見解は. 後に小宮(1976)で詳細に分析され、当時のインフレの要因分析においてスタンダードな見解と して受け入れられている。小宮(1976)は、①1973−74年の急激なインフレの主要因は、1970年 末から1973年にかけて、過大に貨幣が継続的に供給され、年率20−30%というハイペースでマネ ーサプライが増加し続けたこと、②このような過剰流動性は、国際収支の黒字による、外貨準備の. 増加分に相当するマネタリーベ一スが供給されて生じたものではなく、目銀が積極的に目録信用 を拡大させたことによって生じたものであること(目録の金融政策の失敗を意味する)。マネーサプ ライ急増の原因は、民間の「貸し進み」ではなく、目録の「貸し進み」にあること、③早期に変動相. 場制へ移行し、かつ迅速に金融引締政策への転換が行われていれば、インフレは小さなものだっ たとして、日本政府(大蔵省、特に国際金融当局)の為替政策及び金融政策の失敗である、と結 論付けた22。. 目銀も、1975年から76年にかけて『調査月報』で、「欧米主要国におけるマネーサプライ残高 重視の傾向とその背景」(1975a)、「日本におけるマネーサプライの重要性について」(1975b)、 「欧米諸国におけるマネーサプライのコントロールと金利機能」(1976)というマネーサプライに関. する論文を次々と発表した。目録(1975b)は、1975年7月の『調査月報』でマネーサプライと実 体経済との相関関係を認め、「今後、物価の安定を確保しつつ、適切な経済の発展を図っていく ためには、金融政策の運営上、マネーサプライの動向に十分な注意を払い、その行き過ぎを防い ていくことが大切である。しかし、マネーサプライと物価の量的な関係は、経済の局面によって変. わりうるので、あらかじめ特定のM2残高の伸び率を目標にかかげ、これを機械的に実現しようと. いう態度は適切ではない。実際の政策運営に際しては、その時のM2残高の伸び率と経済情勢 との関係を常に注意深く分析しながら、望ましい経済の姿を目標に、M2残高の伸び率を維持し たり、修正したりすることが現実的な政策態度である23」と書き、各国中央銀行と同様にマネーサプ. ライ重視へと政策運営を切り替えた。さらに目録は、1978年7月からは当該四半期のマネーサプ. 20下村は、現在の物価上昇の本質が正常な均衡物価に向かっての回復過程であり、インフレに 陥っていないと主張している[日本経済新聞社編(1973)19−21頁]。. 21日本経済新聞社編(1973)100頁を参照。 22小宮(1976)39−40頁を参照。 23日本銀行調査統計局(1975)1頁より引用。. 14.

(16) ライ(当初はM2,CD発行開始後はM2+CD)の平残前年比の「予測値」を毎四半期の始めに 「見通し」として公表し、マネーサプライの中間目標としての重要性を強調した24。日本銀行金融 研究所(1986)によると、マネーサプライの中で広義のマネーサプライ「M2もしくはM2+CD」を重 視した理由として、①広義のマネーサプライである「M2+CD」は、所得や支出に先行して動き、将. 来の所得や支出に影響を与えるという意味で所得や支出に密接な関係がある点、②「M2+CD」 は、コントローラビリティの点でも、最もすぐれていることである、③「M2+CD」は信頼度の高い統. 計であり、しかも速報性に優れている点で、マネタリーベ一ス25やM1に劣ることはない、と述べて いる26。また、日本銀行金融研究所(1986)は、マネーサプライの目標値について、「マネーサプ ライ『M2+CD』のコントロールを重視しているが、厳密な意味での『目標値(target)』は決めていな. い。公表されるのは『予測値』である。しかし、この『予測値』の前提には日本銀行自身の政策行動. 24Ito(1989)[抄訳伊藤(1989月は、目銀が必ずしもマネタリストではなかったと結論付けている。 Ito(1989)[抄訳伊藤(1989)1は、次のように前提を置いて分析を進めている。ある期にマネー サプライの実績値が「見通し」を上回ったと仮定して、目銀が厳格にマネタリズムを追求したとす れば、長期的な貨幣供給量の安定的増加という目標を維持するために、次期にはその増加した 分減少させるため「見通し」を引き下げなければならない。一方、景気刺激型の金融政策では、 実績値が「見通し」以上に増加しても、補正しない。この基本的な考えの下で、Ito(1989)[抄訳 伊藤(1989)1は、今期の「見通し」の伸びを、過去の実績値と「見通し」の差、トレンド、物価上昇. 率、実質GNP成長率で説明するモデルを考え、次のように公式化している。 〃RG何一MRG珂.、=κ・α・(κτ肌、.、一MRG珂.、)・皿、.1・・、 ここで、MRG亙ηが「見通し」、∠Cr㎜Z、が実績値、Z、が経済条件(トレンド、物価上昇率、 実質GNP成長率)、e、が誤差項、κがマネタリストのk%ノレールの値を示す。非裁量的政策で は、β=Oとなる。厳格にマネタリズムを追求したとすれば、α=一1となり、マネタリズムにおける. 「基準改定(Rebasing)」は、α:0で表される。裁量的政策では、α>Oとなる。推定結果によ ると、実績と「見通し」差の係数はα>0となり、目録がマネタリスト・ルールを実践していなかった ことを示している。. 植田(1992)は、「見通し」の値が金融政策の転換点(緩和ないし引締め)に伴い変化するかを みることで、「見通し」が中間目標としての機能を果たしているかを分析している。仮に「見通し」. が中間指標の性格をそなえていれば、金融引締めとともに低下し緩和とともに拡大するはずで あるが、政策変更が「見通し」に影響を与えた形跡が見うけられず、「見通し」が中間目標として の機能を果たしていない、と植田(1992)は結論付けている。 25「マネタリーベ一ス(Monetary Base)」は、別名、「べ一スマネー(BaseMoney)」あるいは「ハイ. パワードマネー(High−Powered Money)」と呼ばれる。これは、銀行部門の信用活動を通じて、 「貨幣乗数(Money Mu1tip1ier)」倍のマネーサプライを生み出すので、これらの呼び名が付け. られている。定義は、1981年3月以前と1981年以降のデータでは異なり、不連続となっている。 1981年3月以前では、マネタリーベ一ス=「日本銀行券発行高」十「貨幣流通高」十「準備預金 額」であり、4月以降はマネタリーベ一ス=「日本銀行券発行高」十「貨幣流通高」十「目録当座 預金」である。. 26日本銀行金融研究所(1986)464頁を参照。 15.

(17) が含まれており、その意味で当面目本銀行が許容しようとしているマネーサプライ増加率であると いってもよい27」と説明している。. ただし、目録がマネタリーベ一スという概念を重視していなかったことについては、注意が必要で. ある。堀内(1990)は、①マネタリーベ一スは、それ自体が決済手段であるばかりでなく、各種の マネーサプライを規定するものと考えられること、②その供給量は、原理的には、中央銀行の裁量 によってコントロールしうること、として多くの経済学者が金融理論におけるマネタリーベ一スの重. 要性を認識していると述べている28。日本銀行調査局(1981)の『わが国の金融制度』において 「マネタリーベ一ス」あるいは「貨幣乗数」という概念の説明は一切出てきておらず、日本銀行金融. 研究所(1986)の『新版わが国の金融制度』において脚注の中で述べられているに過ぎなかっ た。さらに日銀の調査統計局が公表している『経済統計月報29』および『経済統計年報30』を調べ ても、目録の公式統計の中にマネタリーベ一スという統計は長らくの間存在しておらず、正式に公. 表されるのは1996年5月からである31。金融理論におけるマネタリーベ一スとマネーサプライの 因果関係(マネタリーベ一ス→マネーサプライ)ですら、1980年代初頭まで目銀は理解しておらず、. マネタリーベ一スはマネーサプライが決まってから事後的に決まる変数であって、目銀が能動的. に決定する変数ではないと考えていた。当時の目録の考え方が、小宮(1976)に対する外山 (1980)の批判に見うけられる。外山(1980)によると、①小宮(1976)はマネタリーベ一スの供給. 量に信用拡張係数を乗じただけでのマネーサプライが生じると考えているが、信用拡張係数は事. 後的な比率にすぎず、それに乗数的な役割を与えることは誤りである、②小宮(1976)は、 1973−74年のインフレが日銀の「貸し進み」によって生じたとするが、その考え方は誤りである。目. 録貸出は一般財政や外為特別会計の受払を一定とすれば、現金通貨が増発となるときに増加す る。現金通貨増発は市中銀行から預金が引き出されるときに生じ、この補てんのための目録の現 金通貨供給は「貸し進み」ではない。目銀は現金通貨の需要に対してはほとんど受身である、③ 小宮(1976)は、現金通貨あるいはマネタリーベ一スの増加がマネーサプライを急増させ、インフ レを起こしたとするが、インフレの原因は既往(1971−72年)に市中銀行が信用創造によって巨額. 27上掲書、465頁より引用。 28堀内(1990)85頁を参照。また、マネタリーベ一スがどのようにマネーサプライを創造するか (信用創造)についての説明は、たとえば堀内(1990)第4章、岩田(2000)第5章等の金融 理論の教科書を参照すること。. 291999年4月発行分より、金融関連データ主体の統計書としての性格をより明確にしたことを踏 まえて、名称を『金融経済統計月報』に変更している。. 301997年版をもって廃刊している。 31日本銀行企画室(2000)2−3頁を参照。. 16.

(18) の預金通貨を供給したことによるマネーサプライの急増である。マネタリーベ一スの増加はインフ. レの結果であって原因ではない、と主張していた32。この外山(1980)への反論として小宮 (1988)がある。この小宮・外山論争は、後のマネーサプライのコントローラビリティを巡る問題と密. 接に関連した論争であり、目録関係者と経済学者の中で絶え間なく議論されるテーマの原点とな った。結局のところ、目録はマネタリーベ一スの操作性を公に認めず一貫して「インターバンク市 場金利(コールレート、手形売買レート)」を操作目標として重要視していたが、70年代後半から80. 年代前半の安定成長期においては、マネーサプライの管理に一定の配慮をしながら金融政策を 行っていたといえる。このマネーサプライヘの配慮が、第二次石油ショックに生かされることになっ. た。1979年初めから予防的・機動的金融引締め政策によってマネーサプライを制御することで、 第二次オイル・ショック後の物価高騰を欧米(アメリカ、西ドイツ)よりも低く抑えることに成功してい. た33。この1970年代から80年代初頭の金融政策について、Friedman(1983)は、「日本の金融 政策は言辞上では米・英よりもマネタリスト的ではないが、実践面でははるかにマネタリスト的であ る34」と賞賛した。. しかしながら、1980年代後半に入ると、再び目録のマネーサプライヘの関心は、貿易摩擦を発 端とした国際政策協調の下で、失われたように思われる。1973年の第一次オイル・ショックの後、. 国内市場が伸び悩み、日本の産業界は積極的に輸出を促進させていった。為替相場制度は、既 述のとおり1974年より固定相場制から変動相場制に移行していたため、円高が急速に進行して いった。この円高による困難な状況を打破するため、産業界は多大な企業努力を強いられた。多 くの企業が生産性を高めるため、高い技術力を獲得することに全力を注いだ。結果として、円の急 騰にもかかわらず、日本の経常黒字が増加し続け、しばしば他国(特にアメリカ)によって非難され るようになった。. 1981年に第40代アメリカ合衆国大統領を就任したロナルド・レーガン(Rona1d Wi1son Reagan)が、マネタリスト政策とサプライ・サイド政策を採用した、いわゆる「レーガノミックス (Reaganomics)」を始めると、日米の貿易摩擦は一層悪化していった。低いインフレ率とドル高を 目標としたレーガノミックスは、「双子の赤字(Doub1e de丘。it,Twin de丘。it:経常収支の赤字と. 財政収支の赤字)」を引き起こした。アメリカの対日赤字は、1980年代には総経常赤字額の半分 以上を占めるほどになった。この増加する日本の経常黒字に対し、アメリカ議会は非常に厳しい 32外山(1980)を参照。外山(1980)の要約として、小宮(1988)108−109頁および岩田 (1993)94−95頁を参照。. 33鈴木(1981)第2章を参照。 34Friedman(1983)p.13,邦訳p.83を参照。. 17.

(19) 姿勢をとり、報復措置をとると警告した。. 1980年代中頃になると、累増する経常赤字に苛立つアメリカは、国際会議の開催を要求する ようになった。1985年9月に、先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5二目本、ドイツ、イギリス、 アメリカ、フランス)がニューヨークのプラザ・ホテルで開催されることになった。同会議では、アメリ. カと日本と西ドイツ間の貿易不均衡を是正する方法、特にアメリカの莫大な経常赤字を削減する 方法が論じられた。. その結果、各国が協調してドル相場を日本とヨーロッパの通貨に対して引き下げようという合意 が同会議にて成立し(プラザ合意35)、協調的な金利縮小が始まったのである。この協調利下げは、. 対アメリカの金利差縮小を保ちながら、対ドル為替レートの上昇に伴う不況を防ぐために講じられ. たものである。G5がドル相場を引き下げるための政策協調に合意したとニュースが流れた後、ド ル相場は下がり始めた。更に追い打ちをかけるように、各国は為替市場においてドル売り自国通 貨買いの「協調介入」を実施し、ドル相場は一段と下落した。為替相場に影響を与える国際資金 の移動は、各国間の長期金利差に左右される。1985年の「プラザ合意」当時、アメリカの長期金 利は10.8%であったが、これを金融緩和によって低めに誘導し始めた。一方、日本は、「プラザ合. 意」後の1985年末までは長期金利が下がらないような金融調整を行っており、5.8%前後で推移 していた。その結果、対ドル金利格差は4.7%であり、対ドル為替レートが1ドル=250円であっ た(図1−1参照)。翌年の1986年8月には、日本の金利が5.2%であったのに対し、アメリカの金. 利は更に7.3%に引き下げられた。対ドル金利格差が2.1%にまで縮小したことで、為替水準は. 200円の大台を割り150円台まで突入していた(図1−2参照)。. 35プラザ合意の詳細については、黒田編著(1989)77−80頁および168−173頁を参照。. 18.

(20) 図1−1対ドル長期金利格差(=アメリカー目本)の推移 5.0. 4.5. 4.0. 3.5. 3.O. 2.5. 2.0. 1985. 1986. 1987. 1988. 1989. _Di竹erencebetweenusrateandJrate (出所)日本銀行. 図1−2対ドル為替レートの推移 280 ←Pl㎜呼㎜㎝t(S印t1州). 240. 200. 160. L㎝we榊㎝剖四虹1987) ↓. 120. 80 80 82 84 86 88 90 92 94 96 98 00 02 04. −exchangerate (出所)国際通貨基金(IMF)統計局のIFS. この1986年の夏ごろに150円台まで達した対ドル為替相場は、秋頃に一時的に160円台に 回復した。ところが、年末から1987年の初頭にかけて、再び円高気配を示し始めた。1月には 150円台に再び突入し、4月には140円を割る勢いになった。この円高の下で、日本経済は輸出. 19.

(21) 数量の減少と輸入数量の増加によって「円高不況」に陥っていた。また、西ドイツをはじめとするヨ ーロッパ諸国も同様に、経済成長は鈍化していた。. 1986年5月に東京で開催された東京サミットは、プラザ合意で実現した政策協調をより一般的 な形に昇華し、制度化を進めることとなった。その上で、「国際経済政策の効果的な協調のための 手続きの一層の強化を確実にするため」、G5にイタリアとカナダを含めて新たな先進7ヶ国蔵相・. 中央銀行総裁会議(G7)を創設した36。さらに、1987年2月にG7は、ドル安の目標値が十分に 達成されたとしてドル安誘導政策を打ち切るため、パリのルーブル宮殿で会合を開催した。その 後の「ルーブル合意37」では、貿易不均衡を是正するために、「黒字国は、物価の安定を維持しつ つ、内需を拡大し、対外黒字を縮小するための政策を取ることを約した。また、赤字国は、国内不 均衡および対外赤字を縮小しつつ、安定した、低インフレの成長を促すための政策をとることを約 した38」と宣言している。つまり、一層のドノレ安は黒字国家の経済状態を更に不況にさせ、アメリカ. にとってはインフレ率を上昇させ、「プラザ合意」でなされた経常収支不均衡の是正を無かったこと. にしてしまう。そこで、黒字国は国内需要を促進して輸入量を引き上げるように、赤字国はそれと. は逆の方向に向けるような経済政策協調を行うことで経常収支の不均衡を是正する合意がなされ た。この時から、「協調利下げ」の性格が変わった。「ルーブル合意」以降は、為替レート安定のた. め、黒字国は一層の利下げを行い、赤字国であるアメリカは逆に利上げを行うものであった。この. 「ルーブル合意」に従い、日本は更なる金融緩和政策をとることを要求された。日銀は、1986年. 11月と翌年の87年2月に2回続けて公定歩合を引き下げ、2.5%という低水準にした。一方でア メリカは、市場金利を高め誘導に転じ、1987年9月には公定歩合を6.0%にまで引き上げている (図1−3参照)。その結果、対ドル為替レートの水準は1ドル=140円水準で安定したが、アメリカと 日本の長期金利格差は2.2%から4.5%へと拡大した。. 36東京サミットの詳細は、上掲書(1989)81−82頁および174−175頁を参照。 37ルーブル合意の詳細は、上掲書(1989)83−84頁および179−182頁を参照。. 38上掲書(1989)180頁を参照。. 20.

(22) 図1−3公定歩合の推移(アメリカ、日本) ㈱g. …………、川一■“、. 一口=耐商胸剛 D..D醐血刷巴ω£1 、.. A 1. ㍉.一・ 一I 一. ;.,.1. 、. ’..・’. I. .一.. 一一. @一. hI■■. 1. i. I. 1、’. 2. 1‘ A.。.。. ○固i. (出所)日本銀行. この金融緩和によりマネーサプライの増加率が1987年Q1から拡大し始め、1987年Q1から 1990年Q2にかけて10%以上成長している(図1−4参照)。このマネーサプライ増加率の急速な 拡大と低水準の公定歩合によって、バブル経済が始まったのである。これは、マネーサプライ重 視政策の放棄を意味していた。. 図1−4M2+CD増加率の推移(前年同期比) 、14. .12. .10. .08. 106 .04. .02. .00. 一.02. 80. 82. 84. 86. 88. 90. 92. 94. −DELTAM (出所)日本銀行. 21. 96 98 00 02.

(23) ところが、1987年10月19目にニューヨーク株式市場で「マーケット・クラッシュ(市場崩壊)」が. 起こった[暗黒の月曜目(B1ack Monday)1。ニューヨークの株価は、世界恐慌の始まりを告げた. 1929年10月24目の「暗黒の木曜目(B1ack Thursday)」の株価暴落を上回る勢いであった。 G7は世界恐慌を回避するため、本格的な協調的な金融緩和政策をとることを決定した。こうして 日本は、国内の景気が回復し始めているにもかかわらず、低金利政策の維持を強いられた。 ただし、ブンデスバンク(Bundesbank:西ドイツの中央銀行)は、国内のインフレ懸念から、い. ち早く金利を引き上げていた。同年1988年7月と8月に0.5%ずつ公定歩合を引き上げ、2.5% の低金利水準を脱し、3.5%にまで戻していた。更に翌年の1989年に入ると、1月と4月に再び O.5%すっ公定歩合を引き上げ、景気に対して中立的なレベルである4.5%の水準に公定歩合を 戻していた(このことが協調政策の破綻と受け止められ、ブラックマンデーの引き金の一因でもあ. る)。同様に、アメリカの連邦準備制度理事会も、同年1988年8月には、公定歩合を0.5%引き 上げて6.5%にしていた。. 日本だけが、1988年を通じて、公定歩合を2.5%に据え置いていたままであった。日本がようや く公定歩合を引き上げたのが、1989年5月のことである。どうして、日本だけが金融緩和政策を維. 持したのか。その問いの答えとして、1988年末においてもドル相場が円に対して依然として弱い 状況であったことが挙げられる。1988年の秋、ドイツの利上げの後にドルが再度弱含んだ時、対 円レートではそれまで最低のドル安となり、120円を切りそうになっていた。このようなときに、仮に. 目銀が公定歩合を引き上げれば、ドル暴落の引き金となり、それに伴って債券と株価も下落し、ア. メリカが不況に陥る可能性があった。これを見て、日本の金融関係者の間に、目銀が決して金融 引締め政策をとらず、緩和政策が維持されるという「永久低金利の神話」が誕生した39。結果的に、 バブル経済が発生したのである。. バブル経済によって豊かな資金力を手にした金融機関は、貸出事業に対し非常に積極的にな り、金融機関同士の競争も激化した。地価が永久に上昇し続けるという「土地神話」が信じられて いたため、土地を持っている限り誰でも、それを抵当として容易に、金融機関から融資を得ること. ができる環境にあった。バブル経済の下で株式の上昇が続いており、大企業は株式・債券市場を 利用することで(エクイティー・ファイナンスなど)、容易に資金調達することができた。そこで金融. 機関は、必ずしも抵当が十分ではない家計や中小企業に対して、貸出事業を拡大させていった。 これは、融資することによって、家計や中小企業が成長することを、金融機関が期待したからであ 39鈴木’(1993)98−99頁を参照。. 22.

(24) った。しかし、そのリスクも大きかった。. 株価と地価の推移をみると、共に1988年から1989年にかけて急激に上昇しており、ファンダメ ンタルズで論理的に説明することができないレベルに達していた(図1−5、図1−6を参照)。. 図1−5株式市場の推移(日経225) 40000 35000 30000 25000 20000 15000 10000. 5000. 0. 1970. 1975. 1980. 1985. 1990. 1995. 2000. −st◎ck price. (出所)東京証券取引所. 図1−6地価の推移(前年同期比). 1986 −988 1990 1992. 1994. 1. 2㎜1. (出所)日本不動産研究所6大都市平均値(住宅地、商業地、工業地). 23.

(25) これら資産価格の上昇に対し、日銀は1989年5月に入り。ようやく公定歩合の第1次引き上げを 行った(2.5%から3.25%)。さらに、1989年1月には第2次引き上げ(3.25%から3.75%)を実. 施したが、資産価格は反応しなかった。市場の楽観的な期待が資産価格に対する負の効果(公 定歩合の引き上げ)を抑え、資産価格は上昇し続けたのである。. 1985年の「プラザ」と1987年の「ルーブル」の両会議は、我々に1927年のニューヨークのロン グ・アイランドで開催された先進4ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議(G4:イギリス、ドイツ、フランス、. アメリカ)を思い出させる。第一次世界大戦以前は、主要国のほとんどが金本位制を採用しており、. 中央銀行券の金との自由党換が認められていた。ところが大戦がはじまると、主要国は金の輸出 ないし銀行券の金魚換の一時停止したが、これらは戦争ための臨時措置として考えられていた。 大戦が終わると、主要国はインフレに悩まされるようになり、経済の再建のために、戦前のような金. 本位制へ復帰することが叫ばれるようになった。事実、1920年代後半に入ると、主要国は次々と. 金本位制に復帰していった。1925年5月に、より高いポンドがイギリスの経常収支に負の影響を 及ぼすと懸念されたにもかかわらず、イギリスは大戦前と同水準で金本位制に戻ったのである(い わゆる「旧平価解禁」で、1ポンド=4.86ドルで復帰、これはインフレを考慮した新平価よりも10% もポンド高であった)。その結果、アメリカが経常黒字になるが、イギリスは巨額の経常赤字で苦し. むことになった。金本位制の下での国際収支調整メカニズムを説明する。いま、経常黒字のため に、ある国の金保有が増加したとする。金の流入が起きると、中央銀行の金準備が増加するので、. これを裏づけに発行している免換銀行券が増発される。これが支出に回されると、ある国の財需. 要は増加し、ある国の物価は他国の物価に比べて上昇傾向を示す。その結果、ある国の財は他 国の財に比べて競争力が弱くなり、輸出が減少し輸入が増加するため経常収支は改善される。他 方、金保有が減少する場合は、その逆の動きが働く。このようにして、すべての国で輸出と輸入が 等しくなるというメカニズムが想定されていた(自動調整メカニズム)。しかし、経常黒字国であるアメ. リカは、大量の金流入によるマネーサプライの増分を吸い上げて、物価が上がらないようにした (いわゆる、連邦準備制度理事会による「金の不胎化政策」)。換言すれば、アメリカは金本位制の. ルールを破ったといえる。この結果、イギリスの経常赤字は増加し続け、金の流出が続いたため、. イギリスは国際会議の開催を要求した。同会議では、後にアメリカに資産価格(特に株価)の高騰 をもたらす金融緩和政策をとることを強制したのである40。. 日本政府も同様に、2度の国際会議で決定した合意(1985年のプラザ合意と1987年のルー ブル合意)に従わなければならず、繰り返し人々に国際協調の重要性と必要性を説明した。第二 40Ha11and Fer馴son(1998)p.48,宮川[重1訳(2000)52−53頁を参照。. 24.

参照

関連したドキュメント

笹川平和財団・海洋政策研究所では、持続可能な社会の実現に向けて必要な海洋政策に関する研究と して、2019 年度より

奥村 綱雄 教授 金融論、マクロ経済学、計量経済学 木崎 翠 教授 中国経済、中国企業システム、政府と市場 佐藤 清隆 教授 為替レート、国際金融の実証研究.

“Intraday Trading in the Overnight Federal Funds Market” FRBNY Current Issues in Economics and Finance 11 no.11 (November). Bartolini L., Gudell S.,

 そこで,今回はさらに,日本銀行の金融政策変更に合わせて期間を以下 のサブ・ピリオドに分けた分析を試みた。量的緩和政策解除 (2006年3月

1990 年 10 月 3 日、ドイツ連邦共和国(旧西 独)にドイツ民主共和国(旧東独)が編入され ることで、冷戦下で東西に分割されていたドイ

夏場以降、日米の金融政策格差を巡るドル高圧力

一定の取引分野の競争の実質的要件が要件となっておらず︑ 表現はないと思われ︑ (昭和五 0 年七

 千葉 春希 家賃分布の要因についての分析  冨田 祥吾 家賃分布の要因についての分析  村田 瑞希 家賃相場と生活環境の関係性  安部 俊貴