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プロティノスのロゴス
田 之頭
安彦
はじめに プロティノスの説くロゴスは,彼の教説の体系を知るうえで,重要な役割を はたしている。このことは,既に東京学芸大学紀要(第2部門 人文科学 第 42−43集)において触れた。しかし水地宗明先生の停年御退官にあたり,改め て彼のロゴス説を「一者のロゴスとしてのヌース」という点に論点を絞って整 理集約し,論じ足りないところを補足したうえで,先生の御教示を仰ぐ次第で ある。 本 論 1.問題提起 プロティノスの哲学は,一躍を頂点とし,ヌース,魂および魂の影としての ピュシスをへて感覚される世界の諸物体に至る一種のピラミッド状の体系を構 築している。そしてその構築物のいわば真柱のような役割をはたしているのが, ロゴスである。これは,プロティノスのロゴスに対するいわば伝統的かつ一般 的な解釈であるが,これに対しては,ロゴスという言葉の持つ意味の多義性と も相侯って,「ヌースは一者のロゴスではない」という見解が,J. M. Ristおよ 1) び彼に同調するM.Atkinsonによって提出された。彼らが問題としているの は,エネアデスの次の箇所である。 1)」.M, Rist, Plotinus :The 1∼oad‘01∼θα」め’, pp.84−85. Cambridge,1967. Plotinus=Enned V 1,0n the Three PガηのαJ H妙os彪sθ∫, pp.53−54. A Commentary with Trans1ation by M. Atkinson. Oxford University Press 1983.「また知性[ヌース]よりもすぐれたもの[一階]から生ぜしめられたもの といえば,それは知性だと言わなければならない。すなわち知性は,いっさ いに優越せるものなのである。なぜなら,それ以外のものは,それ以後に生 じたものだからである。たとえば魂のごときも,知性の言論的表現[ロゴス] であり,またそれが現実に営む作用[エネルゲイア]のごときものなのであ る。これはちょうど知性がかのもの[一者]のく言論的表現であり,現実の 作用であるの〉と同様である。しかしながら,魂となって表現された言論[ロ ゴス]はすでに薄弱である。なぜなら,それは知性の影像にすぎないので, それだけにまた知性のうちに,模範となるべきものを仰ぎ見なければならな いからである。またしかし知性も,知性としてあるためには,かのものに対 して同様の関係になければならない。しかし知性がかのものを見るのは,離 れて見るのではない。否,知性は,かのもののすぐ後に続いて,その間に何 ものも介在させないから,そういう(離れて見る)ことはしないのである。 これは魂と知性の間についても同様である」(V1,6,43−50.田中美知太郎訳, 2) 下線と[]内および〈〉筆者,原文略)。 これは田中美知太郎先生の訳である。先生は「ヌースは一者のロゴスである」 という観点から,上のように訳しておられるのであって,同様の観点に立つ訳 者や研究者として,われわれはM.Ficino, E. Br6hier, S. MacKenna, E. R. Dodds, W. Theiler, P. Henry, F. Turot, A. Graeserその他,多くの者の名前 3) をあげることができる。そしてこの観点に立てば,「ヌースは一者のロゴスであ 2)この論文に引用した邦訳はすべて,中央公論社版,プロティノス全集(全五巻,田中美 知太郎,水地宗明,田之頭安彦分担訳,昭和62年)による。なお,訳文の後に示されてい る数字は,作品番号と語数を表わしている。たとえばV1,6,43−45は,第5エネアス(第5 九論集)の第1論文の6章の43行から45行にかけて,引用文中の言:葉が述べられているこ とを示している。なお行数は,邦訳にあたって使用された底本Plotini(iPera, ediderunt P. Henry et H。一R. Schwyzer, Tom.1 一IIIに準拠している。 3) fiAflTINO2.一Plotini Enneades cum Marsilii Ficini interpretatione castigata. Paris, 1896. E. Brehier, Plotin Enne’ades, Paris, 1924−1983, 7vols. S. MacKenna and B. S. Page,
Plotinus, The Enneads, London, 1917−1930, 5vols. /
プロティノスのロゴス 21 り,魂はヌースのロゴスである」というように,「一面を最高位として,上位の ものの内実[力]の下位のものへの発現[表出]がロゴスである」ことになっ て,一者の力は発現という行程をへて,最終的には感覚される世界のすべての ものに及んでいることになる。つまりプロティノスの教説は,既に述べたよう に,一病から感覚される世界の諸事物に至るまで,ロゴスという大黒柱によっ て支えられていることになるわけである。 しかしこの見解は,J. M. Ristによって,次のように反論されることになる。 すなわち, It has sometimes been said that a logos in Plotinus is the representative of a superior kind of reality at a lower level. Thus Nous would be the logos of the One and Soul the logos of N ous.1 have however found only two passages which state this principle: 5.1.6.48ff. and 6.4.11.16. ln the former the translation is not absolutely certain. We read as follows : oTov xaLX ij rpvxij Z670g voD xai E’vgp7ELa TLg, fo’ozEp ainbg gxEivov. lt is preferable to follow the majority of scholars in supposing that Plotinus is saying that just as Soul is in someway a logos and activity of Nous, so Nous in a logos and activity of the One;but it is just possible that Nous is said to be not a logos of the One, but simply its activity. lf, however, Plotinus is saying that Nous is a logos of the One, there seems to be only one parallel passage in the Enneads ; and there is another which suggests that although the term might be used carelessly in this way, yet strictly speaking not N ous but only Soul can be regarded as a logos. lf the One were a Form, says Plotinus, then Nous could be called a logos ; since the One is not limited by form, but is the creator of form, then, we are to X E.R. Dodds==W. Theiler=P. }lenry, Entretiens, Tome V, pp.98−99, Geneve, 1957. F, Turlot, Le logos chez Plotin, Les Etzades Philosophiques, p. 520, Presses Univer− sitaires de France, 1985. A. Graeser, Plotinus and the Stoics, p. 35. Leiden, 1972.
4) understand, Nous cannot be a logos [cf. 6.7.17.41ff.]. And the only possible conclusion from this passage must be that a logos is the representative of something determinate and informed. lt must be not the representative of the One, but only the representative of Nous. lt must be connected first 5) and foremost, as at 5ユ.3.13[or 7−8],with the representation of the Forms 6) at the next level of reality, the ievel of Soul. 要するにリストは,V1,6からの引用文の45行めが,「たとえば魂のごときも, ヌースのロゴスであり,エネルゲイアのごときものなのである。これはちょう ど,ヌースがかのものの……と同様である」というように,〈……〉にはいるべ き言葉が省略されている点に注目し,VI 7,17,41ff.のプロティノスの言葉を根 拠として,〈……〉内に補うべき言葉は〈Uゴスであり,エネルゲイアのような ものである〉ではなくて,〈エネルゲイアのようなものである〉のみであると断 定し,そこから彼の考えている「プロテaノスのロゴス説」を展開していこう としているのである。 では,彼の推論の根拠となったVI 7,17,41ff.の解釈はさておくとして,はたし て彼の言うように,ヌースは一者のロゴスではないのだろうか。 II.ロゴスの意味 しかし,「ヌースは一斗のロゴスであるのか,ないのか」を検討する前に,わ れわれは,「プnティノスがロゴスをどのようなものと解し,どのような意図の もとに,彼の教説のいわば核心をなす語として用いたのか」を,理解する必要 がある。 そこで,The Abridgment of Liddell and Scott’s Greek−English Lexiconの λ6γog[ロゴス]の項を引いてみると,そこには先ず,1.the word by which the inward thought is exPressed:also II. the inward thought or reason itself という説明が記.されている。すなわちλ6γogは,λ6γω[「言う」]のverbal noun 4−5) 〔〕内筆者補足。 6) J. M. Rist, oP. cit., pp. 84−85.
プロティノスのロゴス 23 として,もともと[1]を意味するとともに,そこから更に[II]を意味する ようにもなったのである。このことを念頭におきながら,リストが自分のロゴ ス解釈を正当化する根拠として取りあげたV1,3,7−8のプロティノスの言葉を 見てみると,次のようになっている。 「しかしなお[魂は]知性[ヌース]の影像のごときものにとどまるのであ る。あたかも口外された言論[ロゴス]が意中のそれ[ロゴス]に対するが ごとく,魂自身がまたちょうどまさに知性の言論的表現[ロゴス]であって, ……」(V1,3,7−8.田中美知太郎訳.[]内筆者, cf.12,3,27−30;V1,3,13− 17)e この引用文では,「口外されたロゴス」[リッデル=スコットのGreek−English Lexiconのthe word by which the inward thozaght is exPressedに相当]の 「意中のロゴス」[同辞典のthe inward thought itselfに相当]に対する関係 が,魂とヌースの間にも成り立つとされている。すなわち魂のヌースに対する 関係は,‘the word by which the inward thought is expressed.’の‘the inward thought itself.’に対する関係に等しいとされているのである。いま仮に,ハリス 6) ンに従って,前者をthe object‘expressed’,後者をthe subject of the ‘expressing’と,簡略化・一般化された言葉に置き換えるとすると,ヌースは魂 のthe subject of the‘expressed’としてのロゴスであり,魂はヌースのthe object‘expressed’としてのロゴスであることになる。そしてこのような観点か ら,先程の引用文[V1,6,43−50]の中の言葉を,すなわち, 「たとえば魂のごときも,知性[ヌース]の言論的表現[ロゴス]であり, またそれが現実に営む作用[エネルゲイア]のごときものなのである。これ はちょうど知性がかのもの[一者]のく……〉と同様である。しかしながら, 魂となって表現された言論[ロゴス]はすでに薄弱である。なぜなら,それ 6)M.Atkinson, op. cit., p.54. Atkinsonは‘Hence the wQrd comes to be used both of the subject of the ‘expressing’ (i. e,, lntellect and soul), and of the objects ‘expressed’ (the logoi in soul and in matter)2と述べ,後者を複数形で表わしているが,どうしても 複数形にしなければならないとすれば,それはthe logoi in matterの方のみであろう。
は知性の影像にすぎないので,それだけにまた知性のうちに,模範となるべ きものを仰ぎ見なければならないからである。またしかし知性も,知性とし てあるためには,かのもの[一生]に対して同様の関係になければならない。」 という言葉を見る限り,魂がthe object‘expressed’とv・う意味で,ヌースのロ ゴスであることは明らかであるし,このような意味で魂がロゴスであると言わ れている箇所として,われわれは他に,12,3,27;II 9,1,31;IV 3,5,9.17;IV 6, 3,5;V1,3,7−8.16;7,42などをあげることができる。そしてその場合には,ヌー スはthe subj ect of the‘expressing’という意味で,魂のロゴスであることも明 らかであって,われわれはこれに該当する箇所として,他に12,1,45;III 2,2,32 −34.36−38;III 3,5,17;V3,10,29;15,32(但し,この箇所は一言のロゴスとして のヌース);V9,5,23;VI 1,26,14;VI 2,7,30;21,29−30.35.37;VI 3,3,16;VI 4,11, 16;VI 7,14,12;VI 9,5,7などをあげることができる。 では,ヌースはthe object‘expressed’としては,いかなるもののロゴスでも ないのだろうか。上に引用したプロティノスの言葉では,「魂がヌースのロゴス であること」と「魂がヌースの影像であること」とは,密接に関連しているよ うに思われるが,同じようなことは,同一作品(V1)の3,4−9にも,また別の 作品(12)の3,27−29にも述べられている。そして魂がヌースの影像であるの は,彼によれば,ヌースが魂の生みの親(上位のもの)であり,魂はヌースか ら生まれたもの(下位のもの)だからである[cf. V 1,7,41−48. etc.]。しかしヌ ースは,最上位(第一位)のものではなく,一者を最:上位のものとして,その 一己から生まれたものにすぎない[cf. III 8,9,44;11,38;V1,5,4;6,43. etc.]。 そしてこのような意味で,ヌースは一者の肖像(似姿)であり,模像品であり, 影像であるとも言われるのである[cf, V 1,7,1;V 4,2,26;VI 7,40,19;VI 8,18,27. 35−36.etc.]。にもかかわらず,ヌースは,どうしてthe object‘expressed’と いう意味での,一門のロゴスではないのだろうか。もしヌースがthe object ‘expressed’としてのロゴスであるならば,当然,一己はthe subject of the ‘expressing’としてのロゴスでなければならない[cf. V 3,15,32]。 以上のことを念頭に置きながら,リストが「ヌースは一者のロゴスではない
プロティノスのvゴス 25 こと」の根拠としているVI 7,17,41ff.を見ていくことにしよう。 III. VI 7,17とVI 8,17をめぐって 「また英知[ヌース]は魂に対して,ちょうどかのもの(一八)が英知に対 してそうであるように,光となる。そして,英知が魂を限定する時には,自 分が(一者から)得たもの(諸形相)の痕跡を魂に与えることによって,(魂 を)理性的(ロギケー)にするのである。だから英知も,かのものの痕跡な のである。しかし英知は形相であり,(或る意味で)広がりと多においてある ので,かのものは無姿無形相である。なぜなら,それでこそ,かのものは形 相を作り出すのであるから。これに反して,もしかのものが形相であったな らば,英知は条理(ロゴス,理性)であったことだろう。だが第一のものは, いかなる意味でも多であってはならなかったのである。なぜなら,(もし多で あったならば)それの多は,それよりもさらに前の他者に依存せねばならな かっただろうから」(VI 7,17,36−43.水地宗明訳,下線および[]内筆者)。 この引用文の下線箇所の言葉に基づいて,リストは,「ヌースは一者のロゴス ではない」と断定するのである。しかし,この下線箇所のみを根拠として,リ ストのような結論を出すことができるとすれば,それはあくまでも,「ここに用 いられているロゴスがthe representative of the Oneという意味でのロゴスで ある」という前提に立ってのことでなければならない。しかしはたして,この 下線箇所のロゴスが,そのような意味で用いられているのであろうか。この引 用文の文脈にそって,もっと詳しく検討してみることにしよう。 (イ)プロティノスは,上位のものと下位のものとの関係を,「光(輝き,照 らすもの)」と「光を受けて輝いているもの(照らされているもの)」に喩え て説明することが多い。この光の比喩では,一概は光(光源)に喩えられ, ヌースは光源からの光を受けて輝き,更にその光を魂に伝える役割をしてい る。引用文の36−37行も,その一例にすぎない。 (ロ)下位のものを上位のものの痕跡(もしくは映像,似姿,模像品)とみ なすのも[このばあいには,ヌースは一者の痕跡であり,魂はヌースの痕跡
であるとされる],一者を無二無形相とみなすのも,彼の基本的見解で,引用 文39−40行も,その一例にすぎない。 (ハ)また「上位のもの」と「下位のもの」との関係を〈限定する・限定さ れる〉という立場から説明するのも,彼の基本的見解である。そしてそのば あい,一者はヌースを限定してこれを存在せしめ,ヌースは魂を限定してこ れを存在せしめるとされる。引用文38行に述べられていることも,その一例 である。 (二)しかも39−42こ口よると,無姿無形相の第一位のものとしての一二が, 形相としてのヌース(すなわち第二位のもの)を作り出すのであるから,‘a logos is the representative of something determinate and informed.’という リストの見解からしても,ヌースは(一者)のロゴスでなければならないこ とになる。 (ホ)しかし問題は,41−42行の,「もし一寸が形相であったならば,ヌース はロゴスであったことだろう。[しかし実際には,一石は形相でないのだか ら,ヌースはロゴスではない]」というプロティノスの言葉にある。しかしこ の言葉は,プロティノスの基本的な立場からして,そして彼の37−40行の言葉 からして,「一二は無二無形相のものとして,形相としてのヌースを作ったの であり,形相としてのヌースは,一高から得た諸形相の痕跡を自分より下位 のものに与えることによって,ロゴス的(ロギケー,理性的)な魂[;ロゴ スとしての魂=理性としての魂]を作ったのである」という意味に解するこ とも,可能である。つまり,「ヌースはロゴスである」と言われるばあいのロ ゴスと「魂はロゴスである」と言われるばあいのロゴスは,或る意味では, すなわち,その機能的な面から見れば,異なっているのである。なぜなら, 前者の働きは直知であり,後者の働きは理性(思考cf. V 1,3,13)だからであ る。したがって,41−42行の言葉は,更に次のように解することができる。す なわち,「もし一二が形相であったら,ヌースは理性[ロゴス]であったこと だろう。しかし実際には,一者は形相でないのだから,ヌースは理性[ロゴ ス]ではない。[ヌースは理性ではなくて,直知である]」と。
プロテイノスのロゴス 27 (へ)以上,(イ)一(ホ)からして,そしてこれまでの論述からして,われ われは次のように考えることができる。すなわち,「一男とヌースと魂との関 係をロゴスという立場から見ると,一者はヌースに対してはthe subject of the‘expressing’としてのロゴスであり,ヌースは一者に対してはthe object ‘expressed’としてのロゴスであるとともに,魂に対してはthe subject of the ‘expressing’としてのロゴスである。そして魂はヌースに対してはthe object ‘expressed’としてのロゴス’cある」と。 われわれは(イ)一(へ)の推論に基づいて,「ヌースは一男のロゴスではな い」とするリストの見解は,誤りであると考える。しかし逆に,もしヌースが the object‘expressed’とv・う意味で,一者のロゴスであるならば,一者はthe subject of the‘expressing’という意味で,ヌースのロゴスであるのでなければ ならない。しかしリストの指摘したVI 7,17,36−43には,一旦がそのような意味 で,ヌースのロゴスであることを示す言葉はない。では,一季がヌースのロゴ スであることの証しを,われわれはプロティノスのどの作品に求めればよいの であろうか。筆者はその証しを,VI 7の次に書かれた作品VI 8に求める。 「もしこのようなもの(ヌース)の前のもの[一者]が始源であるばあいに は,明らかにその始源は,このかくのごとく条理化[ロゴス化]されたもの (ヌース)に隣接しており,そして後者がかくのごときものであるのは,そ れがかの始源に即しており,かのものを分有することによるのであり,また それがかのものの意志するとおりのものとしてあり,かのものの力として存 在するからである。それゆえにかの者は,非延長(無次元)のもので,いっ さいのものに対する一つの原理[ロゴス]で,数として一ではあるが,彼か ら生じたものよりも偉大で強力な一であり,彼よりも偉大ですぐれたものは 存在しない」(VI 8,17,18−24.水地宗明訳,下線および[]内筆者)。 「さてヌースと有るもの(実有)をもまた,まさにこのたとえのように,わ れわれは理解しなければならない。すなわち,これ(ヌース,つまり実有) は,かのもの(一者)から生じ,いわば注ぎ出て,展開し,かのものに掛か
っており,自己の直知的本性によって,いわば「一の内のヌース」(の存在) を証言しているのである。ただし,後者は実際にはヌースであるのではない。 なぜなら,一だから。ちょうどあのたとえでも,中心は線分でも円でもなく て,円と線分の父であり,静的な力によって自己の痕跡である線分と円を産 出し,しかもこれらは(中心の内の)一種の強大な力によって生まれたので, (産出後も)それから全然切り離されていない。まさにそのように,かのも のもまた(その周囲を)かけめぐる直知的な力の,つまり彼[一如]のいわ ば映像の原型であり,一におけるヌース(単一化したヌース)なのである。 この映像は,多によっていわば征服されて多の内へはいり,そのためにヌー スとなった。だがかのものは,ヌースの前方(上方)にとどまっていて,自 己の力の内からヌースを産出したのである。……たとえれば,自己自身の内 にとどまっているある一つの明るい光源から発した光が広範に拡散したばあ いに,拡散したものは模像品で,光源が実物である。とはいうものの拡散し た模像品,つまりヌースも,(一更と)別種のものではなく,それの各部分が 条理[ロゴス]であり原因である。そしてかのもの(一者)は,原因の原因 である」(VI 8,18,18−38.水地面露訳,下線および[]内筆者)。 この二つの引用文の内容は,先に引用したVI 7,17,36−47と大差はない。たと えば円の中心を一者とみなし,円をヌースもしくは魂とみなす「円と中心の比 喩」[cf. VI 3,17,13−14;VI 4,16,24−25;V 1,11,12]や,一寸を光(光源)とみな し,ヌース(もしくは魂,万有)を一二からの光を受けて輝いているものとみ なす「光の比喩」[cf.17,1,25,28;VI 3,10,2−3;17,13−15.18;VI 7,23,1. etc.], それに,ヌースを一期の痕跡もしくは模像品(映像)とみなす論の進め方など は,彼が一者とヌースとの関係を理解するために用いる常套手段である。 しかしVI 8,17−18には,一者とヌースとの関係を理解するにあたって, VI 7に は見られなかった表現もある。たとえば17章の「条理化されたもの(ヌース)」 とか,18章の「一の内のヌース」,「一におけるヌース」などという表現が,そ れである。では,これらは何を意味しているのか。以下,この問題について, 検討していくことにするが,まず,17章から見ていくことにしよう。
プロティノスのロゴス 29 (a)一夕を最高位のものとして,それに隣接しているものは,当然のこと ながら,その一者から何らかの影響を受けざるを得ない。17章の20行で,ヌ ースに対して「条理化されたもの」という言葉が使われているが,その意味 は,ヌースとして成立する以前のもの(=無限定のもの,素材的なもの.cf. II 4,5,31−35;VI 7,17,11−32)が条理化されることによってヌースとなった, ということである。一なお,「条理化されたもの」と訳されているτδ λελoγωμん。りは,本論文での訳語の統一という点からして,「ロゴス化され たもの(形相化されたもの)」と言いかえることができる[cf. III 2,16,21;III 8,2,25;V3,15,32.]一つまりこの引用文(21行まで)は,「一者は,自己に 隣接する無限定のものを限定する(ロゴス化する,形相対する)ことによっ て,一つのもの一厳密には多なる一一としてのヌースを成立せしめた」 ということを意味しているのである。したがって,この点からしても,ヌー スが,リストの指摘するalogos is the representative of something determinate and informedという意味でのロゴスであることは,明らかであ る。 つまりヌースは,the object‘expressed’としてのロゴスであることになる が,the object‘expressed’としてのロゴスがあるならば,そのロゴスに対す るthe subject of the‘expressing’としてのロゴスがなければならない。そし てそれは,プロティノスのばあいには,当然,一者でなければならない。こ の点については,どうであろうか。 (b)一者は第一位のものとして,自己に隣接するものを形相化しロゴス化 するものである。したがって一一自身は,形相でもなければロゴスでもない 7)[cf. VI 7,17,41;VI 8,15,32. etc.]。それゆえ,一塁は無尽無形相のものであ り,非延長・無次元のもの,すなわち「一」である,と言われる(22行)。そ してその一は,それから生じたヌースよりも偉大で強力な一である(24行)。 7)「一二は,形相でもなければロゴスでもない」と言われるばあいの「ロゴス」は,あく までもthe object‘expressed’としてのロゴスである。「一者はthe subject of the ‘expressing’としてのロゴスでもない」と言っているのではない。
なぜなら,ヌースが「多なる一」であるのに対して,一者は純然たる「一」 だからである。したがってわれわれは,それを有るとも,無いとも呼ぶこと はできない。それは「語られもしなければ,記されもしない」ものなのであ る[cf. VI 9,4−6]。それゆえ,もし強いて一名にロゴスという言葉を使うとす れば,それは他者からのthe object‘expressed’としてのロゴスとなること のないthe subject of the‘expressing’としてのロゴスでなければならない。 なぜなら,もしそうでなければ,一老は第一位のものではないことになるか らである。したがって,もし一面がロゴスであるとすれば,それはこのよう な意味で(つまりthe subject of the‘expressing’ではあるが, the object ‘expressed’となることのない)純然たる一としてのロゴスであり,万有に対 する窮極的原因者としての一なるロゴスでなければならない(22行)。 われわれは上に紹介したVI 8,17,18−24を通して,一旗がthe subject of the ‘expressing’としてのロゴスであることを知った。しかしわれわれは,一毫がそ のような意味でのロゴスであると断定したわけではない。そこには,「もし一曲 がロゴスであるとすれば,それは……」という条件がついているのである。そ してわれわれが一葉を「万有に対する窮極的原因者としての一なるロゴス」と みなしたのは,「一如は……いっさいのものに対する一つの[一なる]ロゴスで ある」という22行の言葉によるが,この「一つの」はチレントの補足によるも ので,もしこの補足がなければ他の読み方も可能だったのである。しかしわれ われは,チレントにしたがって,この行のロゴスを「一つのロゴス」と読み, 「一つの」に重点がおかれているとみて,上のような結論を出したのである。 しかしながら,一期は真実在,ヌースその他一切のものを超えたかなたのも のである。これはプロティノスの教説の基本をなすもので,一三のこの超越性 を表わすものとして,エケイノ(かのもの),エケイノス(かの者),エケイ(か の世界)という言葉が,彼の作品には,無数と言ってよいほどに数多く使われ ている。そして一者のこの超越性が強調される時には,一息のロゴス性は否定 され,「一壷はロゴスを超えているものであって,ロゴスではない」と説かれる
プロティノスのロゴス 31 ことになる[cf. V 3,14,18;16,16−18.]。かのものはすべてを超え,われわれの 思考能力さえも超えているから,われわれはそれについて,「∼である」とか「∼ でない」などと述べることはできない。しかし,それでは話にならないから, われわれをかのものへと導くために,仮に「一者」と名付けたのであって,こ の名前がかのものに適合しているわけではないが,われわれの考えうる名前の うちでは最善のものなのである[cf, V 3,13,1−5;5,6,11−14;VI 9,5,31−45]。 では,そのような一郭すなわちかのものに,ヌースはどのようにして,かか わっているのであろうか。そのかかわり方を述べたものの一つが,上に紹介し たVI 8,18,18−38である。 (c)プロティノスは先ず,この章の8行から,中心と円の比喩を用いて, 一群とヌースとの関係を説明しようとする。中心を取り巻く円は,いわば無 数の半径(線分)によって,その中心と接触している。つまり,円内の無数 の半径が周囲から中心に集まってくるので,それら諸半径の集合点(中心と の接点)では,すべてが渾然一体となっていて,中心と諸半径との区別さえ つかないかのようである。しかし,それら諸半径を産出したのは中心であり, 諸半径は中心から産出されたものにすぎないのだから,厳密に言えば,それ らは中心と一体となっているのではなくて,中心の痕跡であるにすぎない(9 −18行,以下,引用文へと続く)。 かのもの(二者)とヌースの関係も,この中心と円との関係に似ている。 ヌース(円と半径に相当)は,かのもの(中心に相当)から生じて展開し, ヌース(円に相当)となったのであって,自己の存在をかのものに依存して いる。だからヌースは,かのものの周囲を取り巻きながら,かのものへと向 かい,かのものを直視し(=諸半径が中心点に集合して中心と接触し),この 直視を通して自己自身を直知し(=中心と接触した諸半径が,中心の持つ強 大な力によって自己自身を展開し),名実ともにく多なる一〉としてのヌース という自分の立場を維持しているのである(=諸半径が自己自身を展開する ことによって,円となっている)。では,多なる一としてのヌースとなる前の ヌース(無限定のものとしての素材的なもの,もしくは無限定のものとして
の二)が直視したものは何か。それは「一の内のヌース」である。ただし, この「一の内のヌース」はヌースではない。なぜなら,ヌースが多なる一で あるのに対して,それは一だからである。つまり,無限定のものが「一」か ら限定されることによって,「多なる一」としてのヌースとなったのである [cf. V 1,5,3−16;VI 7,16−17;35,20−33]。では,その「一の内のヌース」は, ヌースではないとすると,何であろうか(18−22行)。 プロティノスはそれを「一」として捉えた後で(22行),再び中心と円の比 喩を取りあげ,この中心のように,「かのものもまた,……一におけるヌース である」と説くのである(25−27行)。この27行の「一におけるヌース」につ いては,底本の読み方について,キルヒホッフやタイラー等によっていろい ろと修正の手が加えられているが,水地先生のように読むのがもっとも自然 であり,正しいのではないかと思われる。もしそうだとすると,プロティノ スは一幕とヌースとの接点を「一の内のヌース」とみなし,これを純然たる 一としての一毫と解することによって,超越的一者からヌースが発出するこ との正当性を説いていることになる。なぜなら,第一位のものとしての一者 と第二位のものとしてのヌースは,たとえ意味の異なるヌースとはいえ,「ヌ ース」という共通項を持っており,したがって両者は,同じではないが別種 でもないことになるからである(35行)。だからまた17章からの引用文の解説 (b)も,誤りではないことになる。すなわち,一者は他者からのthe object ‘expressed’となることのない, the subject of the‘expressing’としての「一」 なるロゴスであり,ヌースは一山からのthe object‘expressed’としての, 「多なる一」なるロゴスであることになる。つまり両者は,ロゴス(=ヌー ス)という共通項によって,密接に関連しているのである。 IV.一者のロゴスとしてのヌース われわれはVI 8,17,18−24とVI 8,18,18−38に述べられているプロティノスの言 葉から推して,一一者はthe subject of the‘expressing’という意味でヌースの ロゴスであり,ヌースはthe object‘expressed’という意味で一者のロゴスで
プロティノスのロゴス 33 あると結論した。そして一二とヌースに共通するものとして,ヌースならざる ヌースというものを,プロティノスが想定していることも知った。一者が真実 在を超え,ヌースを超えたものであることは,既に指摘したとおりである。し かしそれは,「一者はヌースを超えたはるか彼方の,いわばわれわれの手の届か ない遠くにある」という意味ではない。ヌースは円の半径が中心と接している ように,常に一挙と接触しているのである[cf. VI 7,30,3;VI 8,18,4−8. etc.]。に もかかわらず,ヌースは自己の本質をなす直知活動によっては,一句目知るこ とはできない。なぜなら,ヌースの直知は自己自身への直知であって,一者へ の直知ではないからである。つまり,一十がいわば「一なるヌース」であるの に対して,自己を直知しているヌースは「二[=多]なる一としてのヌース」 であり,ヌースが自己自身を直知している限り,この「二」から逃れることは 8) できないのである[cf. V 3,10,23−26. etc.]。だから,ヌースが「多なる一」か ら「一」へと移行し,「一」としての一算を知ろうとするのであれば,直知する ことを放棄する以外にはない。つまり,ヌースがヌースであることを放棄する 以外にはないのである。プロティノスはこの「自己放棄」を「没我」,「一者と の一体化」,「一章への接触への努力」などという言葉で表現している[cf. VI 9, 11,23−24]o ヌースはもともと一者と接触しているのであるが,多なる一としての自己の 立場を確立することによって,かえって一瓶を自分(ヌース)を超えているも のとしてしまったのである。したがって,一身を知り,これと一体となるには, ヌースであることを放棄する以外にはなかったのである。そしてこの自己放棄 こそ,自己自身を超えることでもあり,自分(ヌース)を超えているものとし 8)プロテ/ノスにおいては,ヌースであることと直知することは同じである。(つまりヌー ス=ノエーシス=ノエイン)。そしてその直知は,自己自身を対象とするのであるから,そ こに誤りのはいる余地はなく,もっとも確実な知識であるとされた。しかし直知(自己直 知)は自己自身を対象とするのであるから,そこに直知する自分と直知される自分がある ことになる。つまり「二」があることになる。しかるに「二」=「多」。したがって「ヌー スであること」=「多なる一であること」。だから「多なる一」から「一」へ移行すること =ヌースが自己直知を放棄すること=ヌースがヌースであることを放棄すること=自己放 棄=「一」。
ての一二との接触合体を可能とするものでもあった[cf, V 3,10,40−52;VI 9,8, 24−27]o 一撃への知は,知の対象を知るというような知ではない[cf. V 3,12,49−50;13, 1−24;VI 9,4,1−9. etc.]。一者を知ることは一者に触れることであり,一旬に触 れることは一者と合体することである。そしてそれは,ヌース(あるいはヌー スとなった魂)の自己放棄によってのみ可能となるのであった。しかし自己を 放棄するといっても,それは,むやみやたらに自分を捨ててしまえばよいとい うことではない。そのようなことは,自分を見失うことや自暴自棄になること と何ら変わりはないであろう。一者と合体しようとする者は,自分がどこから 来たのか,その素性を知らなければならない[cf.Vl,1〕。これは魂にとっても ヌースにとっても,同じである。では魂やヌースは,どうして自分の素性を知 ることができるのか。それは,魂やヌースがロゴスといういわば血筋によって, 一者と結ばれているからである。ヌースは一事のロゴスであるからこそ,自分 は一者から生まれたものであることを知り,魂はヌースのUゴスであるからこ そ,ヌースを介して一者と結びついていることを知るのである。自分の素性を 知って,自分の生まれた故郷へ帰ることを勧める,これがプロティノスの「哲 学の勧め」であり,ロゴス説であった。 V.結 語 われわれは,プロテaノスの一群はthe subject of the‘expressing’という 意味で,ヌースのロゴスであり,ヌースはthe object‘expressed’という意味 で,一戸のロゴスであることを見てきた。そしてこの関係を更に下位のものに 当てはめるならば,「ヌースはthe subject of the‘expressing’という意味で, 魂のロゴスであり,魂はthe object‘expressed’という意味で,ヌースのロゴ スである。そして魂(宇宙の魂)はthe subject of the‘expressing’という意 味で,感覚される世界の,そして便にピュシスを介して)諸物体の,ロゴス 9)一寸との接触については,V1,11,14;V3,10,42;17,25−26.34;V6,6,35;VI 7,30,3;VI 8, 18,4−8などを参照されたい。
プロティノスのロゴス 35 であり,感覚される世界および諸物体は,the object‘expressed’という意味 で,魂(宇宙の魂もしくはピュシス)のロゴス(素材内ロゴス)である」とい うことになる。しかし素材内ロゴスは,もはや他のもののthe subject of the ‘expressing’としてのロゴスとなることはない。つまり,最:上位のものとしての 一者と最下位のものとしての諸物体は,ロゴスを介して,互いに関連している 10) ことになる。 しかしこの点に関しては,適切かつ統一された見解はない。だが,もし「ロ ゴス」に「発言するもの」と「発言されたもの」という二つの意味を読み取る ことができて,前者には〈発言能力がありながら,いついかなるばあいにも, いかなる意味においても発言することのないもの〉も含まれ,それは厳密な意 味においてはロゴスではないとすれば,一者はロゴスではないことになる。し かしプロティノスの作品には,そのような強い調子で一領のロゴス性を否定し ている箇所はないし,また否定できるものでもないのである。だがそれでもな お,彼の「ロゴス」に関する見解が研究者によって異なるのは,おそらく「ロ ゴス」という言葉の持つ意味の複雑さによるのであろう。プロティノス哲学の 支柱をなしている「ロゴス」には,ヨーロッパ諸国語においても,適切かつ統 一された訳語はない。いわんや日本語においておや,である。 後 記 水地先生と初めて親しくお話をさせていただいたのは,たしか昭和30年頃 ではなかったかと思う。二人で京大病院に入院していた先輩を見舞い,昼食 を共にした時のことである。その時二人で話したのは,プロティノスの「一一 者」と「一」の問題についてであった。その後,先生は四国の方に赴任され たので,久しくお会いすることはなかったが,プロティノスの翻訳でご一緒 することになり,再び数多くの助言をいただくことになった。その時感じた 10)そして一身から物体へという過程は,「一」から「多」への過程でもある。「一」(一陣) ←→「多なる一」(ヌース)←→「一にしてまた多なるもの」(魂)←→「多」(物体)。な お,素材は「多」ではない。
ことは,不断は大変温厚な先生であるが,研究に関する限り非常に厳しい態 度でのぞまれるということであった。その後も先生はお疲れの様子もなく, 大作「マルクス・アウレリウス自省録」をものにされた。ただただ頭の下が