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定住外国人の地方公務員任用問題

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(1)

定住外国人の地方公務員任用問題

定住外国人の人権問題の現下の焦点は︑地方レベルの選挙権と地方公務員の採用試験における国籍条項の問題であ

地方公共団体が定住外国人に地方公務員の門戸を開放している方式は二つある︒ 9999999999999939999999,

9 9 9 9 9 ,

, ' 9 9 9 9 9

9 9 9 9 9 1

︳ 論 説

i

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 ,

9 9 9 ,  

上 村

︱つは﹁旧高知方式﹂で︑これは

18-3•4-653 (香法'99)

(2)

﹁当然の法理﹂を否定し外国人に対する制限を原則的に撤廃するやり方である︒その上で自治体の業務を担う多種多

様な職種について調査検討を加え︑例外的にいくつかの職種には採用後就けないものとする︒もう︱つのやり方は﹁川

崎方式﹂で︑外国人は消防職には受験できないが︑﹁公権力の行使又は公の意思形成への参画にたずさわることはでき

ないとする公務員の当然の法理の範囲内で任用﹂されるとするものである︒具体的には三︑五

0

九の職務のうち﹁公

権力の行使﹂に該当するのは一八二あり︑﹁公の意思の形成にかかわる職﹂は全職員数一六︑四

00

余名のうち約二〇

(2 ) 

パーセント程度である︒この﹁川崎方式﹂は国の指針である﹁当然の法理﹂との調和を企図したものである︒﹁当然の

法理﹂は漠然かつ不明確で︑外国人を公務員から排除する基準としては不適格であるとして批判されてきた︒﹁川崎方

式﹂はどの職種が﹁公権力の行使﹂や﹁公の意思の形成にかかわる職﹂に該当するかを具体的に検討した上で︑外国

人が就けない職種を決定したもので説得力があり︑大いに評価できるものである︒これにより数多くの職種について

外国人に門戸が開放されたことは大きな前進である︒﹁当然の法理﹂との整合性も保たれているので︑自治省も﹁川崎

方式﹂に異議を唱えることは難しいであろう︒この﹁川崎方式﹂に追随する都道府県や政令指定都市等が続出したこ

とは︑この方式の意義をさらに大きくしたものといえよう︒

右のように地方自治体の実務の上では国籍条項の撤廃が加速化しているのに対し︑判例や学説の一部は旧態依然の

観がする︒いわゆる外国人公務員管理職受験訴訟において︑第一審の東京地裁判決は﹁当然の法理﹂に依拠して管理

職試験の受験を拒否された原告の請求を棄却した︒控訴審判決は結論を逆転させ︑東京都の受験拒否が憲法二二条一

項と一四条一項に違反すると判示したものの︑第一審判決と同じく﹁当然の法理﹂の判断枠組みを用いている︒

これら二つの判決に対する四つの評釈も判決の依拠した﹁当然の法理﹂の呪縛にとらわれており︑新しい別の視角

から国籍条項の問題に切り込もうとする姿勢がみられないといってよい︒これらに比べて第一審判決を取り上げてい

(3)

筆者は﹁外国人と公務員﹂と題する前稿において︑これまで定住外国人の公務員任用を阻んできた実務の見解や学 説を批判的に検討するとともに︑第一審判決に対する詳細な批評を行った︒その基本的な発想は樋口論文と同じであ る︒すなわち︑有力な学説が自明のものとしている公務就任権という人権は︑憲法の上で明示的に保障されているわ けではないし︑またそれを認めた方が解釈論上メリットがあるとする積極的な理由は見当たらない︒否むしろ公務就

任権という人権を認め︑

選挙権が保障されない外国人は︑同じ国民主権原理によって公務に就任することができないと帰結されることになる から︑むしろ有害である︒公務員になる権利は参政権を構成する公務就任権としてではなく︑職業選択の自由の問題

として議論すべきである︑

用すべきである︑ る ︑

る樋口陽一教授の最近の論文は︑主権と人権との対抗関係という新しい図式でこの問題を論じている︒すなわち︑樋

口論文によれば︑主権を強調することが人権保障に否定的な方向に向けて効果を発揮している︒その例証として第一

審判決を取り上げ︑国民主権を強調することは外国人が公務員になる権利を大きく制約することになると︒そして外

国人の公務員任用問題については︑参政権の問題として議論する﹁参政権アプローチ﹂

の下の平等の問題として議論する﹁人権アプローチ﹂とがあり︑

選挙によって公職につく公務員は別として︑

る︒定住外国人が公務員への就職を希望するのは︑

することを目的としているわけではないからである︒したがって﹁人権アプローチ﹂によって議論する方が適切であ

と ︒

と︑職業選択の自由および法

その違いについて詰めた議論がなされてきていない︒

それ以外の公務員について﹁参政権アプローチ﹂をとることは疑問であ

そのことによって﹁公権力の行使あるいは公の意思の形成に参画﹂

それが被選挙権や選挙権とともに参政権を構成すると説く方が︑国民主権原理によって︵被︶

と︒樋口教授の用語法によれば︑﹁参政権アプローチ﹂ではなく︑﹁人権アプローチ﹂を採

18-3•4-655 (香法'99)

(4)

かで

ある

︒﹂

べて

いる

︒ そこに陥穿がある︒

にし

たい

‑' 

.  

ところで第一審判決も控訴審判決も﹁当然の法理﹂の前提として﹁参政権アプローチ﹂を採用しており︑それがこ

の両判決の最大の難点となっている︒それに加えて裁判官は憲法解釈が苦手なためなのか︑あるいは憲法の基本問題

に関するこの種の分野の解釈論は裁判官には荷が重すぎるためなのか︑以下において詳細に考察するように︑不適切

な用語が用いられたり︑筆者には珍妙に思われるような論理が展開されているように思える︒またこれら二つの判決

に対する批評も﹁参政権アプローチ﹂に引きづられて論理を構成しており︑﹁人権アプローチ﹂の発想が見られない︒

本稿は﹁人権アプローチ﹂の視点から控訴審判決︵以下において本判決という︶

して

いる

に批判的考察を加えることを意図

そのことによって定住外国人の地方公務員任用問題に﹁参政権アプローチ﹂をとることの不当性を明らか

本判決は第一審判決と同じく﹁参政権アプローチ﹂をとっているために国民主権の原理から出発し︑次のように述

﹁この国民主権の原理の下における国民とは︑日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明ら

国民主権という場合の国民とは日本国籍保有者︑すなわち日本国民のことである︑とする説はたしかに有力ではあ

る︒しかし︑その他にも有権者の総体を指すとか︑天皇および天皇に連なる皇族を排除した国民を意味するという説

もあり︑判決のいうように﹁明らかである﹂と断言できるかどうかは疑問である︒いずれの解釈であれ︑外国人は含

五四

(5)

五五

一五

条一

項は

︑﹁

まれないであろうが︑そのこと自体はここでは重要ではない︒重要なのは国民を日本国籍保有者であると解した上で︑

﹁そうとすれば︑公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は︑その権利の性質上日本国民の

みを対象としたもので︑右規定による権利の保障は︑我が国に在住する外国人には及ばないものと解さざるを得

右の文章は定住外国人の地方参政権に関する平成七年二月二八日の最高裁判決と全く同じであるが︑右の解釈は一

読しただけで違和感を感じさせる︒その理由は︑判決が﹁権利の保障﹂といういい方をしているために︑

から個別具体的な公務員の選定罷免権を引き出しているように思えることにある︒通説によれば︑ 一五条一項

らゆる公務員の終局的任免権が国民にあるという国民主権の原理を表明したものであり︑必ずしもすべての公務員を 国民が直接に選定・罷免すべきだとの意味を有するものではない﹂のである︒ましてやこの規定から外国人には一切

の公務員の選定罷免権がないという結論を引き出せるのかは大いに疑問である︒﹁当然の法理﹂を初めて表明した一九

五三年三月二五日の政府見解︑いわゆる﹁高辻回答﹂︵別添︶ですら︑﹁一般に外国人に対して公務員を選定する権利

が認められないのは︑直接本条から引き出される結論ではない﹂と述べている︒

本判決のように﹁参政権アプローチ﹂をとった場合に︑往々にして公務就任権を選挙権とのアナロジーで議論して︑

国民主権の下では同じく外国人には保障されないという結論を導き出す傾向がある︒これに対して︑樋口教授は︑﹁公

務就任権を参政権の問題として位置づけるかぎり︑

な い

︒ ﹂

それは︑選挙権より被選挙権との類推で議論されるべき性質のも のとなる︒公務員を選定する権利が選挙権であるのに対し︑自分自身が公務員の地位につくことが権利内容として問

題になっているのだからである﹂と︑的確に批判されている︒本判決も含めて﹁参政権アプローチ﹂をとる論者は︑ そのことをもって次のように接続させていることである︒

18-3•4-657 (香法'99)

(6)

公務就任権を被選挙権ではなく︑選挙権とのアナロジーで議論する論拠を開陳する必要があるのである︒

国政レベルの選挙権のみならず︑地方レベルの選挙権も日本国民にのみ保障されているとして︑本判決は次のよう

﹁憲法九︱︱一条二項は︑地方公共団体の長︑その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は︑その地方公共団体

の住民が直接これを選挙すると規定しているが︑⁝⁝住民とは︑地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民

を意味し︑我が国に在住する外国人は︑右規定による権利を保障されていない︒﹂

本条の﹁住民﹂が日本国民を意味するとするのが前述した平成七年二月二八日の最高裁判決の立場であり︑また公

職選挙法と地方自治法も地方選挙権を日本国民に限定している︒この点について異論を唱えている学説のあることは

周知の通りであるが︑今はそれを問わないことにしよう︒そして本判決はここから次のような結論を導き出している︒

﹁⁝⁝我が国に在住する外国人も︑憲法上︑国又は地方公共団体の公務員に就任する権利が保障されているとい

ここには明らかに論理の飛躍ないし説明不足がある︒前述したように︑仮に﹁参政権アプローチ﹂をとったとして

も︑公務就任権を選挙権ではなく被選挙権との類推で議論すべき筋合いのものであるからである︒選挙権はある公職

に特定の人を選出する能動的︑積極的な権利であるのに対し︑公務就任権と被選挙権は公務なり公職に就く受動的な

権利であるという点において共通しているからである︒本判決は被選挙権についてはなんら言及することなく︑外国

人には地方レベルの選挙権が保障されていないとする解釈から︑なんらの説明もせず一挙に外国人には地方公務員に

なる権利が保障されていないと結論づけてしまっている︒ところが本判決はここで一転して次のように述べる︒

﹁憲法のこれらの規定は︑⁝⁝我が国に在住する外国人に対して⁝⁝公務員に就任する権利を保障したものでは う

こと

はで

きな

い﹂

に述

べる

と ︒

五六

(7)

本判決と右の最高裁判決の間には大きな違いがある︒あることが憲法の上で積極的︑明示的に保障されていないか

らといって︑必ずしも禁止されているわけではあるまい︒

法律の任務である︒法律の禁止規定がなければ︑禁止されていないの当然ではないのか︒それが法律による行政の原 理の要請するところである︒最高裁判決によれば︑定住外国人に被選挙権と選挙権を付与するか否かは立法政策の問

題である︒公職選挙法と地方自治法は︑

う政策を選択しているのである︒それに対して本判決は︑定住外国人が公務員に就任することができるか否かを立法 政策の問題として論じるのではなく︑国民主権の原理に反するか否かの解釈の問題であるとして︑以下のような珍妙

な議論を展開するのである︒ い ﹂ ︑

と ︒

その是非はともかくとして︑定住外国人にはそれらの権利を付与しないとい ら国の立法政策にかかわる事柄であって︑

五七

ないけれども⁝⁝公務員に選任され︑就任することを禁止したものではないから︑国民主権の原理に反しない限

度において我が国に在住する外国人が公務員に就任することは︑憲法上禁止されていないものと解すべきである︒﹂

右の部分は前述した定住外国人の地方選挙権に関する最高裁判決の次の件りときわめて類似している︒﹁右規定は︑

我が国に在留する外国人に対して︑地方公共団体の長︑その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということは

. . . .

. .  

できない﹂が︑﹁法律をもって︑地方公共団体の長︑その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは︑

憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である︒しかしながら︑右のような措置を講ずるか否かは︑専

このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではな

その場合に禁止されているのかいないのかを決定するのは

18‑3・4‑659 (香法'99)

(8)

をもって充てられるべきことを要請しているものと解される︒﹂

入 る

として︑次のように述べる︒ 次に本判決は︑定住外国人がどの限度で国家公務員または地方公務員に就任することができるかについての検討に

﹁⁝⁝憲法は︑国民主権の原理を国家統治の基本原理として採用している︒このことは︑単に公務員の選定罷免

の場面についてのみ日本国民が関与すれば足りるとするのではなく︑我が国の統治作用が実質的に主権者である

日本国民によって行われること︑すなわち︑我が国の統治作用の根本に関わる職務に従事する公務員は日本国民

本判決のこの部分も︑表現こそ若干異なるとはいえ︑第一審判決と全く同じ趣旨である︒果たしてこれらの判決の

述べるように︑国民主権の原理は本当に外国人を公務員から排除する根拠になりうるのであろうか︒このように単純

に言い切れるのであろうか︒大いに疑問である︒ここの件りは治者と被治者の同質性の原理について述べたものであ

ると解説がなされているが︑本当にそうであろうか︒この原理は︑君主が国民を統治する君主政と貴族が国民を統治

する貴族政に対して︑国民が国民を統治する民主政の特質を表わしたものであって︑外国人が公務員から排除される

べきか否かとは全く別の文脈で成立してきたものであることを想起する必要がある︒

奥平教授が︑外国人に参政権を付与することは国民主権の原理に反し憲法上許されないとする通説に対し︑次のよ

(9 ) 

うな問題提起をされていることに強い共感をおぼえる︒﹁しかし私は︑こういう文脈︑こういう意味内容をもつものと

して国民主権の原則をもち出すことには抵抗を感ずる︒この原則成立のいきさつから言っても︑また実際のはたらき

五八

(9)

感をいだいている︒というのは︑裁判所の下す判決は︑

れを通して広く国民にも向けられているはずである︒そうであるならば︑裁判官は判決文を書く際には︑

法令上の用語や学問上の概念を用いて国民の理解を得られるようにするべきである︒ んと

一回も統治作用という言葉が登場しており︑ 次に本判決が用いている して保障している︒ここでいう市民とは︑ てのひと﹂︶︑国家意思の最高決定権者であるという点にこそポイントがある︒そ

のこ

とは

五九

できるだけ

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e y e s E ,   mm an ue l  J o s e p h ,  

1 7  48‑1836

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11

﹁ す

べ から言っても︑この原則にとっては︑国籍のあるなしはけっして重要ではない︒当該国家社会を形成し当該国家権力

. . . .

. .  

に服属するふつうのひとが

たまたま︑ここでふつうのひとの圧倒

的多数は同時に同一国人であるから︑自国人中心主義的な統治制度が出来上がったということなのだと思う︒だが︑

どんな形にせよ参政権を外国人に与えることは国民主権の原則に反するということと結びつくわけでは

︵傍点原文︶︒この引用文は参政権の中でも特に選挙権について言及したものであるが︑同じことは国民主

権と公務就任権の関係についてもあてはまる︒フランスの一七八九年の人権宣言は︑その三条において︑﹁あらゆる主

権の淵源は︑本質的に国民に存する﹂として︑国民主権の原理をうたっている︒そしてその六条において︑﹁すべての

市民は︑法の目からは平等であるから︑その能力にしたがい︑かつその徳性および才能以外の差別をのぞいて平等に

あらゆる公の位階︑地位および職務に就任することができる﹂と︑平等に公務に就任できることをすべての市民に対

に同一国民であったのである︒国籍なるものの概念は︑近代国民国家の誕生とともに同時進行的に一般化してくるの

( 1 0 )  

であって︑その当時は﹁市民﹂と﹁フランス国籍保有者﹂とが一致していたにすぎないのである︒

﹁統治作用﹂という概念を取り上げることにする︒第一審判決にも本判決にもそれぞれな

な い

﹂ ︑

フランスという国家社会を構成しているふつうのひとのことであり︑同時

いわばキィー概念になっているが︑筆者はこの言葉に大きな抵抗

まず第一次的には訴訟の当事者に向けられており︑そしてそ

18-3•4-661 (香法'99)

(10)

のは︑前述した統治と同じ意味のことである︒ 筆者がここで問題にしている統治作用という概念は︑法令上の用語でもないし︑また本判決のような用い方は学問

の世界ではされていないということである︒よく似た概念に統治権というのがあるが︑

意味

する

また︑統治という概念も学問の上で用いられている︒たとえば︑

き第四の国家作用﹂として統治が存在する︑ それは︑周知のように︑大日

本帝国憲法の四条において︑﹁天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攪シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ﹂という規定の中

に登場していた︒また日本の代表的な法律学辞典にも︑統治権というのは︑﹁国民及び国土を支配する国家の権利﹂を

( 1 1 )  

と解説されている︒

田中二郎博士の代表的な行政法の体系書において

は︑﹁統治の意義及び統治と行政との区別﹂と題して︑﹁立法・司法の何れにも属せず︑

( 1 2 )  

と述べられている︒行政概念について本格的な省察を試みてきた手島孝

博士によれば︑統治とは︑﹁政治過程の他の重要な構成部分として︑法定立の性質を持たぬ

̲ │

l

多くは具体的・個別的

なーー上高度の政治的決断﹂であり︑狭義の行政と一括してアメリカでは﹁執行﹂︑

( 1 3 )  

一般

的で

ある

︑と

ドイツでは﹁行政﹂と呼ばれるのが

右のように統治権や統治というのはそれぞれ法令上の用語や学問上の概念であったりするが︑統治作用というのは

そうではない︒ただし︑筆者の知る限り唯一の例外がある︒それは今から約六

0

年前の一九三八年に宮沢俊義博士が

( 1 4 )  

書かれた﹁行政裁判と統治作用﹂という論文である︒フランス公法について論じたこの論文では︑﹁立法や司法に対し

てひろく行政とか執行とか呼ばれる作用はしばしばさらに統治する

( g o u

v e r n

e r )

作用と狭い意味で行政する

( a d '

m i n i

s t r e

r ) 作用とに区別せられる﹂と述べ︑前者の統治作用は行政裁判が管轄しえないもので︑フランス公法ではこれ

が統治行為

( a c t

e

d e

  g o u

v e

r n

e m

e n

t )

と呼ばれている︑と紹介されている︒したがって宮沢論文でいう統治作用という 一般の行政とも区別されるべ

六〇

(11)

I. 

/'¥ 

いずれにしろ︑統治作用という言葉は現在の憲法︑行政法の学界では用いられていない︒代表的な憲法の体系書や

教科書︑法律学辞典︑憲法辞典のどこにも統治作用という言葉は使われてはいない︒

それでは本判決はどのような意味で統治作用という概念を用いているのであろうか︒前述の引用文に続く箇所にお

いて︑﹁国の統治作用である立法︑行政︑司法の権限を直接に行使する公務員﹂等々と公務員の分類に関する記述がな

されている︒この部分を読むと︑本判決が統治作用と国家作用ないし国家機能とを混同していることが分かる︒現在

の憲法学では国家作用ないし国家機能という概念が用いられることは少なくなったが︑かつての国法学においては国

家作用を立法︑司法︑行政の三種に分類し︑法の定立︑適用︑執行がおおむねそれらに該当するとした︒そして右の 三つの作用以外の第四の国家作用として統治作用と呼びうるものがあるか否かが︑前述したようにかつて問題とされ

たの

であ

る︒

したがって︑立法︑行政︑司法の三つの作用を包摂するものとして統治作用という概念が用いられたこ とはなかったはずであるから︑本判決のような用い方が学問上誤っていることは明白である︒憲法学の基礎概念につ

いての正確な知識が裁判官には不足しており︑それがため裁判官は憲法解釈が苦手であると評されているのであろう︒

次に本判決は︑第一審判決にならって国の公務員をその職務内容に即して次のように三分類している︒

﹁⁝⁝国の統治作用である立法︑行政︑司法の権限を直接に行使する公務員︵例えば︑国会の両議院の議員︑内

閣総理大臣その他の国務大臣︑裁判官等︶

接的に国の統治作用に関わる公務員と︑ と︑公権力を行使し︑

又は公の意思の形成に参画することによって間 それ以外の上司の命を受けて行う補佐的・補助的な事務又はもっぱら学

18-3•4-663 (香法'99)

(12)

術的・技能的な専門分野の事務に従事する公務員とに大別することができる︒﹂

右に述べたように︑立法と司法は統治作用には含まれないので︑当該部分は誤りである︒

国家公務員の種類を右のように三分類したのは︑

決は法令や公法学で用いられている公務員の分類法を採用しなかったのであろうか︒それに従った方が︑新しい分類

法を採用するよりも︑判決を読む者にとって理解し易かったはずである︒たとえば︑国家公務員法二条一項は︑﹁国家

公務員の職は︑これを一般職と特別職とに分つ﹂と規定し︑二条三項は特別職の国家公務員を具体的に列挙している︒

本判決が国の統治作用を直接に行使する公務員として例示している内閣総理大臣その他の国務大臣︑裁判官はそこに

第三のカテゴリーの公務員︑すなわち︑﹁上司の命を受けて行う補助的・補佐的な事務に従事する公務員﹂とは︑具

体的には法制度上どのような種類の公務員を念頭においているのであろうか︒かつて昭和二二年当初の国家公務員法

( 1 6 )  

に︑﹁単純な労務に雇用される者﹂として労務職員というのがおかれていたが︑この労務職員がそれに該当するのであ

ろうか︒あるいは国家公務員の給与法における行政職︵二︶表の適用を受ける職員がそれに該当するのであろうか︒

否それよりももっと広く︑郵政省や林野庁の職員のような現業公務員をも含まれることを想定しているのであろうか︒

第二のカテゴリーの公務員は︑﹁公権力を行使し︑又は公の意思の形成に参画する﹂公務員であるが︑これは﹁当然

の法理﹂をそのまま受け入れたものである︒したがって︑﹁当然の法理﹂に対する批判がそのままあてはまるが︑前稿

の繰返しになるのでここでは省略する︒ 列記されている おそらく第一審判決が初めてであろう︒何故︑第一審判決や本判

いずれにしろ︑国家公務員法上のどのようなカテゴリーの公務員がこれに該

当するのかは︑余りにも包括的・抽象的にすぎるため確定できない︒たとえば︑国立大学の経理課長や入試課事務官

は︑第一のカテゴリーの公務員でないことは自明だが︑果たして第二なのか︑第三なのかはよく分からない︒

︵ただし︑国会議員は特別職ではない︶︒

r. 

/'¥ 

(13)

して︑憲法上許されないものというべきである︒﹂

/', '~

判決が公務員を分類した前例としては︑猿払事件の第一審判決がある︒公務員の政治的行為を規制する必要性の観

点から︑﹁公務員中国の政策決定に密着した職務を担当する者︑直接公権力の行使にあたる者︑行政上の裁量権を保有

する者および自分自身に裁量権はないが︑以上のような公務員を補佐し︑いわゆる行政過程に関与する非現業の職員﹂

と︑﹁行政過程に全く関与せず且つその業務内容が細目迄具体的に定められているため機械的労務を提供するにすぎな

い非管理職にある現業公務員﹂に二分し︑職務の公正な運営︑行政事務の継続性︑安定性およびその能率を害する程

度は︑前者の場合より後者の方が少ない︑とした︒この判決の分類は︑その目的に照らせば︑それなりに明確である︒

猿払事件の被告人の郵政省の職員は後者であるし︑国立大学の経理課長や入試課事務官は前者であろう︒

本判決は右のように国家公務員を三分した上で︑次のように述べる︒

﹁第一の種類の公務員は︑国の統治作用に直接関わる公務員であるから︑これに就任するには日本国民であるこ

とを要し︑法律をもってしても︑外国人がこれに就任することを認めることは︑国民主権の原理に反するものと

国会議員になって立法権を行使し︑裁判官になって司法権を行使するには日本国民であることを要し︑外国人は排

除される︒これは自明のことのようであるが︑それを理論的にどのように説明するのかはそれほど容易ではない︒判

決は国民主権の原理に反するからとしているが︑国民主権の原理のどのような内容と両立しないのかを︑判決は語っ

ていない︒判決は学術論文ではないのであるから︑

民主権の原理に反するから︑ その点について説明する必要はないのかもしれない︒しかし︑国

と漠然といわれても︑判決を読む者を納得させることはできない︒国民主権については

戦後の憲法学界において数多くの論争がなされてきた︒現在の通説的見解によれば︑国民主権には正当性の契機と権 力性の契機とがある︒すなわち︑国民主権は全国民が国家権力を正当化する根拠であるという意味と︑有権者が国家

18-3•4-665 (香法'99)

(14)

権力の究極の行使者であるという意味をあわせ含んでいる︒この後者の意味と判決のいう統治作用とがどういう関係

にあるのかを解明する必要がある︒この点については後述することにする︒

立法権と司法権を直接に行使するというのは︑国会議員や裁判官になって権限を行使することを意味するのはいう

までもないが︑行政権を直接に行使するというのは︑どういうことを意味するのか︑よく分からない︒内閣総理大臣

その他の国務大臣が憲法や国家行政組織法︑内閣法︑各省設置法等によって付与された権限を行使することは︑行政

権を直接に行使することになり︑

政権を直接に行使しない︑と本判決は考えているようである︒﹁第一の種類の公務員は︑国の統治作用に直接に関わる

公務員であるから﹂という件りは︑

﹁第二の種類の公務員は︑これも︑国の統治作用に関わる職務に従事するものではあるが︑その関わりの程度は︑

第一の種類の公務員に較べれば間接的であり︑

様々であるから︑憲法が︑

て︑外国人がこれに就任することを一切認めていないと解するのは相当ではなく︑右第二の種類の公務員につい

て は

その職務の内容︑権限と統治作用との関わり方及びその程度を個々︑具体的に検討することによって︑国

民主権の原理に照らし︑外国人に就任を認めることが許されないものと外国人に就任を認めて差支えないものと

を区別する必要がある︒﹂

それに対して︑容疑者を逮捕する司法警察職員や課税処分をする税務署職員は︑行

そのことを意味しているようである︒

しか

も︑

その職務内容は広範多岐にわたり︑関わりの程度も強弱

そのすべての公務員について︑これに就任するには日本国民であることを要求してい

第一審判決も右の趣旨とよく似たことを述べているが︑決定的に違うところがある︒それは︑第一審判決が︑﹁⁝⁝

公権力の行使あるいは公の意思の形成に参画することによって間接的に国の統治作用にかかわる職務に従事するにす

ぎない公務員については︑主権者たる日本国民の意思の発動として︑法律をもって明示的に︑日本国民でない者にも

六四

(15)

こうした権限を授与することは︑何ら国民主権の原理に反するものではないから︑憲法上禁止されているものでない と解するのが相当である﹂と述べている点である︒法律による行政の原理に照らせば︑この点は第一審判決の方が評

価できる︒本判決は︑外国人に就任を認めても差支えない職務があると認めているにもかかわらず︑

らずに外国人が就任できないという現状を一体どのように考えているのであろうか︒行政裁量だとでも考えているの

﹁第三の種類の公務員は︑その職務内容に照らし︑国の統治作用に関わる蓋然性及びその程度は極めて低く︑外

国人がこれに就任しても︑国民主権の原理に反するおそれはほとんどないものといえよう︒﹂

この件りは︑統治作用という概念の用い方︑

国家公務員の中にも外国人が就任することができる職種が存在するのであるから︑この考え方は地方公務員につい

ても原則的に妥当するとした上で︑本判決は次のように述べる︒

﹁我が国に在住する外国人であって特別永住者等その居住する区域の地方公共団体と特段に密接な関連を有す

るものについては︑

であ

ろう

か︒

六五 しかも法律によ

その範囲が法律によって定められていないこと等に問題がある︒

その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させ︑

た︑自らこれに参加していくことが望ましいものというべきである﹂から︑﹁国の公務員への就任の場合と比べて︑

おのずからその就任し得る職務の種類は広く︑その機会は多くなるものということができる︒﹂

右の判決文の前半部分は︑第一審判決と同じく︑最高裁の定住外国人の地方選挙権に関する判決をほとんどそのま

18-3•4-667 (香法'99)

(16)

ま引用したものである︒右の最高裁判決は︑国政レベルの選挙権を定住外国人に付与することは国民主権の原理に違

反するが︑地方選挙権を付与することは憲法上禁止されないとした︒﹁参政権アプローチ﹂を採用する本判決は︑同じ

論理で国家公務員よりも地方公務員の方が定住外国人が就任できる機会が多いと述べている︒定住外国人が﹁その意

思を⁝⁝地方公共団体の公共的事務の処理に反映させ︑また︑自らこれに参加していくこと﹂というのは︑具体的に

は何を意味するのであろうか︒それは第一次的には有権者として地方選挙において自らの支持する首長や議員の候補

者に投票することを意味するはずである︒その何よりの証拠は︑右の最高裁判決が︑引用した個所に続いて︑﹁反映さ

せるべく︑法律をもって︑地方公共団体の長︑その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは︑憲

法上禁止されていないと解するのが相当である﹂と述べているからである︒その他に住民の意思を地方の行政に反映

させるための方法としては行政参加がある︒しかし︑この段落は定住外国人の地方公務員就任について述べた件りで

あるから︑地方選挙権や行政参加のことを意味しているはずはない︒そうなると︑﹁反映させ︑また︑自らこれに参加

していくこと﹂というのは︑地方公務員に就任することを意味していることになる︒ところで地方公務員も︑﹁公務員

に関する諸法令によって︑自分自身の政治的意思を公務に反映することを禁止されている﹂だけでなく︑勤務時間以

( 1 7 )  

外に政治的行為をすることまで禁止されているのである︒したがって本判決のこの部分は誤りである︒いずれにしろ︑

﹁参政権アプローチ﹂をとって︑選挙権とのアナロジーによって︑定住外国人は国家公務員よりも地方公務員に就任

する機会が多くなるとする本判決の考え方には根拠がないというべきである︒

•••••

ところで︑重箱の隅をつつくようで気がひけるが︑本判決は﹁住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務﹂

という言い方をしている︒この見慣れない公共的事務という表現は︑最高裁の地方選挙権判決と第一審判決で用いら

れたものであるが︑公共的事務という用語は法令上の用語でも学問上の概念でもない︒判決の本筋には直接関係がな

六六

(17)

原理に照らして問題があるといわざるをえない︒﹂

いと

はい

え︑

そのような用語を使うことに疑問がないとはいえない︒

六七

周知のように︑地方公共団体の事務を表す概念としては自治事務というのがあるのだから︑こちらの方を用いるべ

きで

あっ

た︒

つい

でに

言え

ば︑

この自治事務には固有事務︵公共事務︶︑委任事務︑行政事務の三種類が含まれる︒こ

のうち︑行政事務というのは︑﹁地方公共団体が地方公共の利益に対する侵害を防止又は排除するために︑住民の権利

( 1 8 )  

を制限し自由を規制するような権力の行使を伴う﹂事務のことである︒本判決のように﹁当然の法理﹂を支持する立

場に立つならば︑外国人が就任できる職務の範囲を決定する上で右の事務の区分は重要であるはずなのに︑

を禁止するものではないが︑地方公務員の中でも︑管理職は︑地方公共団体の公権力を行使し︑ その点に

ついて全く言及していないのは︑見慣れない公共的事務という表現を用いていることと無関係ではあるまい︒

﹁右のとおり︑憲法は︑我が国に在住する外国人が国民主権の原理に反しない限度で地方公務員に就任すること

又は公の意思の

形成に参画するなど地方公共団体の行う統治作用に関わる蓋然性の高い職であるから︑地方公務員に採用された 外国人が日本国籍を有する者と同様当然に管理職に任用される権利を保障されているとすることは︑国民主権の

この部分にもいくつかの問題があるように思われる︒第一の問題は︑ここでは管理職という概念が用いられている

これが法令上の用語と同じ意味で用いられているのか否か︑である︒地方公務員法は五二条三項で︑管理職員を

﹁重要な行政上の決定を行う職員︑重要な行政上の決定に参画する管理的地位にある職員﹂等々と定義している︒判

決は別の個所で東京都事案決定規程を引用しているが︑

それらを照合すると︑ここでいう管理職は地方公務員法の管

理職を指していると推測される︒この管理職が﹁公の意思の形成に参画する﹂のは当然だとしても︑﹁公権力を行使﹂

するというのはよく理解できない︒本判決は﹁公権力を行使する﹂というのは︑地方公務員法上の﹁重要な行政上の

18-3•4-669 (香法'99)

(18)

る国の事務を処理することができない︒司法に関する事務﹂と規定しているからである︒ 決定を行う﹂こと︑東京都事案決定規程の事案の決定権限を発動することを意味すると解しているようであるが︑これは大いに疑問である︒公権力を行使することと重要な行政上の決定を行うこととは一致しない︒公権力を行使はするが重要な行政上の決定を行わない場合︑その反対に公権力を行使しないが重要な行政上の決定を行う場合は︑大い

公権力の行使とは何か︑については前稿で述べたので詳細は省略するが︑行政実務の解説書によれば︑﹁公権力の行

使とは︑通常国家統治権に基づく優越的意思の発動たる作用をいうが︑必ずしも︑これに限られたものではなく︑

がって本判決のこの部分も説得力に欠けている︑

て登場したものである︒

用いられていないし︑ といわざるをえない︒

し>

わゆる特別権力関係︑公物管理権に基づく権力作用を含む趣旨であり︑﹃公権力の行使に携わる公務員﹄とは︑必ずし

も直接公権力を行使する者だけに限られるものではなく︑公権力の行使に関与する者をも含む趣旨である﹂と解され

ている︒このような意味において︑管理職は公権力を行使する蓋然性の高い職であるとはいえないように思う︒した

第二の問題は︑﹁地方公共団体の行う統治作用﹂についてである︒このフレーズは第一審判決にはなく本判決で初め

おそらく﹁地方公共団体の行う統治作用﹂という表現に接した多くの憲法研究者は︑筆者も

含めて当惑したのではないであろうか︒前述したように現在の学界では統治作用という概念は全くといっていいほど

また本判決は明らかに統治作用を国家作用と混同し︑立法作用︑司法作用︑行政作用の三つを

包含するものとして用いるという誤りを犯している︒その上︑仮に本判決のように統治作用という概念を用いるとし

ても︑地方公共団体は司法作用は行使できないのである︒地方自治法二条一

0

項は︑﹁普通地方公共団体は︑次に掲げ

立法作用については︑憲法九四条で地方公共団体に条例制定権が認められており︑地方自治法一五条は︑﹁普通地方 にあるからである︒

六八

(19)

右の趣旨に基づいて︑本判決は︑東京都事案決定規程によれば︑二︑ 主権の原理に反するものではない︒﹂ することが許されない管理職とそれが許される管理職とを分別して考える必要がある︒そして︑後者の管理職については︑我が国に在住する外国人を任用することは︑ ことは相当でなく︑ ﹁地方公務員の相当する職務は︑地方自治全般にわたり広範多岐であり︑したがって︑管理職の職務も広範多岐に及び︑地方公共団体の行う統治作用に関わる︑特に︑公の意思の形成に参画するといっても︑びその程度は広狭・強弱様々なものがあり得るのであり︑中には︑管理職であっても︑専ら専門的・技術的な分野においてスタッフとしての職務に従事するにとどまるなど︑公権力を行使することなく︑成に参画する蓋然性が少なく︑地方公共団体の行う統治作用に関わる程度の弱い管理職も存在するのである︒したがって︑このように︑

公権力を行使することなく︑公の意思の形成に参画する蓋然性も少ない管理職を含めて すべての管理職について︑国民主権の原理によって外国人をこれに任用することは一切禁じられていると解する

ここでも︑職務の内容︑権限と統治作用との関わり方及びその程度によって︑外国人を任用

蓋然性が高くなるというものではない︑

とい

えよ

う︒

公共団体の長は︑法令に違反しない限りにおいて︑

六九

その権限に属する事務に関し︑規則を制定することができる﹂と 規定している︒したがって一部の地方公務員が条例や規則の制定という立法作用に関与はするが︑管理職だからその

その関わり方及

また︑公の意思の形

さきに公務員就任について検討したところと同様︑国民

00

の管理職のうち事案の決定権限を有し

18-3•4-671 (香法'99)

(20)

ない管理職が一割強存在する等の事情を考慮して︑外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理

職とを区別して任用管理を行う必要があるというべきである︑

右の結論に至る推論の過程には大いに問題があるとしても︑結論だけは支持することができる︒地方公務員の採用

に際して︑川崎市がすべての職種の職務内容を個別具体的に検討した上で︑公権力を行使する職種と公の意思の形成

にかかわる職種以外の職種を定住外国人に対して門戸開放したが︑本判決は管理職への任用について同じ思考方法を

採用したのである︒外国人であるという理由で一律に公務員から排除するのが適切でないのと同様︑外国人であると

いう理由で一律に管理職から排除することは適切ではない︒ とする︒そして結論として︑外国籍の職員から管理職

本稿の冒頭で述べたように︑定住外国人の地方公務員任用問題に﹁参政権アプローチ﹂をとると︑第一審判決や本

判決およびそれらに対する判例批評のような迷路に迷いこみ︑思わぬ陥穿にはまってしまうことになる︒繰り返しに

なるが︑定住外国人の公務員になる権利は参政権の一環ではない︒したがって︑国民主権の原理を表明した一五条一

項の公務員の選定罷免権の規定から︑定住外国人の公務員になる権利を否定する解釈は誤っている︒公務員になる権

利は職業選択の自由の問題である︒外国人には職業の自由に対して特別な制約が課せられていることが多いが︑それ

は国民主権の原理によって正当化されるのではないはずである︒﹁︿外国人の職業選択の自由を国民主権の原理が製肘

( 2 0 )  

する﹀という構図で問題を捉えるのが適切であるかどうかは︑疑問である﹂とする意見があるが︑その通りである︒ 選考の受験の機会を奪うことは︑憲法二二条一項︑一四条一項に違反する違法な措置である︑

と判

ホし

た︒

七〇

(21)

ら︑議論が混乱しているのではないであろうか︒ 極

論す

れば

そもそも国民主権の原理は定住外国人の公務員になる権利とはなんら関係がない︒また定住外国人が公

務員になることを阻止してきた﹁当然の法理﹂も︑国民主権の原理とは関係がない︒判例や学説の一部は︑﹁当然の法

理﹂は国民主権の原理から導き出されるとか︑後者を前提にしていると解しているが︑それも誤りである︒

︵被︶選挙権を付与することは︑もとより国民主権の原理との整合性が問題になりうる︒

住外国人が地方公務員になって公権力を行使したり︑公の意思の形成に参画したりすることが︑国政の最高決定権が

国民にあるとする国民主権の原理とどのように抵触するというのであろうか︒これは自明のようで自明ではない︒だ

からこそ理論的な解明が求められているのである︒両者は直接的には無関係であるにもかかわらず︑本判決のように

関係させてしまうのは︑国民主権の原理を用いるべきでないところで用いているからである︒憲法学の初歩的知識に

属するが︑主権という概念には三つの意味がある︒国民主権という場合の主権と︑統治権ないし国権を意味する主権

とはもとより異なる︒後者は立法権︑行政権などの﹁国家の権利﹂ないし﹁統治行動をする権利﹂

げると考えられているのは︑後者の意味の主権ではないのか︒国政の最高決定権が誰にあるか︑

しかし︑定

の総称であり︑君

主主権の下でも︑国民主権の下でも存在する︒外国人が公権力を行使したり公の意思の形成に参画したりするのを妨

という意味で用いら

れる前者の主権とは直接的な関係はないはずである︒なのに何故︑国民主権の場合には︑統治権の保持者︑具体的に

は立法権︑行政権︑司法権の担当者︵議会の議員︑行政官︑裁判官等︶

するのであろうか︒後者の意味の主権が問題となっている場合に︑次元を異にする前者の意味の主権を登場させるか

国民主権という場合の主権と︑統治権ないし国権を意味する主権とは︑絶対君主制の下では君主の権力という形で

統合されていたが︑立憲主義の進展とともに主権の意味が分かれてきた︒その成立の経緯に照らせば︑前述したよう

定住外国人に

は︑必ず日本国民であることが要請されると

18-3•4-673 (香法'99)

(22)

とはいえ︑同じ原理であっても時代によってその意味が異なってくることがある︒国民主権の原理も近代憲法にお

けるのと現代憲法におけるのとではその意味が異なってくる︒国民主権の二つの契機のうち︑近代憲法においては正

当性の契機に︑現代憲法においては権力性の契機にウエイトがおかれている︒同じ国民主権を採用していても︑近代

憲法においては普通選挙制は採用されていない場合が多いのに対し︑現代憲法では普通選挙制が採用されることが圧

倒的に多いのはその証左である︒権力性の契機を重視する立場は︑国民主権を組織原理であると捉える傾向が強い︒

わが国の代表的な学説は次のように主張している︒高橋和之教授は︑﹁国民主権は︑憲法上の諸権力︑とくに立法権が

( 2 1 )  

どのように組織されるべきかについての要求を含むものである﹂と述べ︑佐藤幸治教授は︑﹁統治制度全般︑とりわけ

国民を代表する機関の組織と活動のあり方が︑民意を反映し活かすという角度から不断に問われなければならない﹂

( 2 2 )  

と主張している︒また樋口陽一教授は︑﹁国民主権という︑それ自体としては統治の正当性を示す原理が︑今日では︑

一定以上の﹃組織原理レベル﹄の具体的要請︑別の言葉でいえば︑﹃権力的契機﹄を含むことなしには︑統治の正当性

れぞれに選択している︑ 根拠を提供することができなくなっている︒その﹃一定以上﹄がどこまでを要請するかは︑

( 2 3 )  

と解するほかないであろう﹂と述べている︒

日本国憲法が採用している国民主権の解釈︑すなわち︑国民主権が具体的にどのような組織原理を要請しているか

については︑様々な学説が提唱されているが︑それについてはここでは言及しないことにする︒通説的見解によれば︑

日本

国憲

法が

その前文において﹁そもそも国政は︑国民の厳粛な信託によるものであって︑ ものではなかったはずである︒ に国民主権という場合の国民の中に外国人が含まれるとか︑含まれないとかが問題になったわけではない︒それと同じように︑国民主権の原理は︑外国人が立法権︑行政権︑司法権の担当者になることを排除するという要請を含んだ

それぞれの実定憲法がそ

その権威は国民に由来

(23)

一般に︑私法上の権利の享有は認めるが︑ し︑その権力は国民の代表者がこれを行使﹂するとうたっているのは︑リンカーンのゲティスバーグの演説における︑﹁人民の︑人民による︑人民のための政治﹂というフレーズに符合する︑とされている︒﹁その権力は国民の代表者が

( 2 4 )  

これを行使﹂するというのは︑﹁人民による政治﹂に対応するとされている︒これは前文の冒頭にある︑﹁日本国民は︑

正当に選挙された国会における代表者を通じて行動﹂するというフレーズと相侯って︑原則的に代表民主制を採用す

ることを宣言しているのであって︑

( 2 5 )  

のである︒この国民とは誰のことを指すのか︑外国人は含まれるのか︑含まれないのかは︑国民主権と重大な関連が

ある︒しかし︑代表民主制の下で国家権力を行使する国家機関の構成員は︑日本国民に限られるとか︑外国人はなれ

ないとか等々は︑立法権の行使者である国会議員を別にすれば︑国民主権とはなんら直接的な関係はないのである︒

したがって︑判例批評の中で指摘されているような︑﹁治者と被治者の同質性﹂とか︑﹁国民による統治﹂とか︑﹁支配

の正当性﹂とか︑

はたまた﹁外国人公務員の決定に服従を強いられることに抗する漠たる国民感情﹂といった﹁被治 者国民の側の服従根拠

( L

e g

i t

i m

i t

a t

の問題﹂としてこの問題を捉えるのは︑的外れであると考える︒)

国民主権の原理が外国人の公務員任用に無関係なことは︑実は﹁公務員に関する当然の法理﹂を初めて述べた一九 含んでいるが︑

このシステムの下で︑国家権力は立法・行政・司法の諸機関によって行使される

それはさておき︑﹁別添﹂ 五三年三月二五日の政府見解︵高辻回答︶によって表明されている︒﹁当然の法理﹂そのものに対しては様々な問題を

( 2 7 )  

の中で次のように述べているのが注目される︒

﹁しからば︑わが国の公務員となる資格について︑外国人と日本人とを差別することは憲法の予想しているとこ

ろであろうか︒今日の国際法上︑外国人に如何なる権利を享有せしめるかは︑特に条約のない限り︑各国の任意

に決定し得るところとされているが︑諸外国のこの点に関する態度は︑

公法上の権利は享有せしめないという傾向において大体一致しているということができよう︒殊に︑従来わが国

18-3•4-675 (香法'99)

(24)

の官吏に相当するような公務員となることは︑

般 に

一般に外国人に対しては公務員になる その国民の専有する権利としているのが通例であり︑それは︑

その職にある者が︑公権力行使の担当者として公権力行使の責任ある者としてその国の法令に全面的に服

する者であることを要する関係上︑本国の法令にも服しなければならない外国人をその地位につかしめることは︑

既述のような自国の主権の維持と他国の対人高権の尊重の精神に反する結果をもたらすおそれがあるとの考慮に

由来する一の国際的傾向ということができよう︒しかして︑さきに掲げた憲法前文の趣旨からみて︑わが国のみ

が︑この国際的な傾向に従わないという特段の理由も考えられないから︑

資格を認めないことは︑当然憲法の予想しているところと解するのが相当である︒﹂

右の一般原則の例外として︑﹁学術的もしくは技術的な事務を処理し︑または機械的な労務を提供する﹂等︑﹁その

職務の性質上外国人を公務員に任用することがわが国及びその者の属する本国の主権を侵害するおそれのない場合﹂

に︑外国人を公務員に任用することは憲法の趣旨に反しない︑

以上のことから︑

なければならないという二重性のために︑在日韓国人は日本で公務員になることはできない︑

本の国家公務員になれば︑国家公務員法九八条一項︑地方公務員になれば地方公務員法三二条によって︑法令等及び

務を遂行する上で︑

とし

た︒

たとえば︑在日韓国人の公務員は日本国の法令に全面的に服すると同時に︑韓国の法令にも服し

ということになる︒日

上司の職務上の命令に従う義務がある︒韓国政府が在日韓国人に対して対人高権を有しているは当然であるとしても

在日韓国人の公務員はどのような韓国の法令に服しなければならないのか︑よく分からない︒日本で公務員として職

一般的に韓国政府の対人高権に服していることが︑具体的にどのような不都合を生じさせるのか

を想定するのは容易ではない︒国際法学の権威高野雄一博士は︑次のように述べている︒﹁⁝⁝他国の国民︵つまり外

国人

︶で

あっ

ても

その国の領域にいるときは︑その国の法の下に立つ︵領土主権︶︒しかし︑他国の領域に入れば他

七四

(25)

( 1

)  

国人になってしまうわけではなく︑依然本来の国民としての地位を維持しつづけるから︑本国の法が彼らにも及んで

(対人主権ー~正確には、自国法を外国にいる自国民に及ぼすことができる。

と︶︒ただ︑他国の領土主権の下で︑自国民に自国の法を権力的に実施することは国際法上認められない︒自国の法は

( 2 8 )  

外国にいる自国民にいわば潜在的に及ぶにとどまるのある﹂︒とすれば︑右の対人高権を理由とする高辻回答も根拠が

以上述べてきたように︑定住外国人を一般行政職の地方公務員の任用から全面一律に排除する理論的根拠はないこ

とが解明されたと考える︒したがって地方公務員の採用試験や昇格試験においては︑国籍条項を削除して門戸を全面

開放するべきである︒そして地方公務員として不適格な定住外国人は︑

( 2 9 )  

ればよいのである︒

現在日本で問題になっているのは︑

七五

そうしても国際法上差支えないこ

日本国民の場合と同じように︑個別に排除す

日本で生まれ︑日本で教育を受け︑公務員試験に合格する学力のある︑

る在日朝鮮人・韓国人の二世・三世の人たちである︒

思に反して日本国民にされてしまったのである︒そして一九五二年のサンフランシスコ条約の発効によって︑国籍選

択の自由を侵害されて一方的に日本国籍を剥奪されたのである︒その子孫である彼らにとって︑一般行政職の地方公

務員になることは︑意識の上でも実態の上でも︑政治に参加することでは決してなく︑職業としての選択なのである︒

彼らに対して地方公務員の門戸を全面的に開放することは︑地方選挙権を付与することとともに︑﹁内なる国際化﹂を

実現し︑共生の社会を形成していくために必要不可欠なのである︒ な

い ︑

岡義昭•水野精之編著『外国人が公務員になる本』は、全国の自治体の国籍条項の実態を網羅的に調査した結果をまとめたもので ということになる︒

いる

一 九

0

年の日韓条約によって彼らの祖父母たちは︑自らの意

いわゆ

18-3•4-677 (香法'99)

(26)

( 2 )   ( 3 )  

( 4

)  

( 5 )   ( 6 )  

( 7

)  

( 8 )   ( 9 )   ( 1 0 )  

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( 1 8 )

 

( 1 9 )

  ( 2 0 )  

( 2 1 )

 

( 2 2 )

  ( 2 3 )

 

岡崎勝彦﹁外国人の公務就任権﹂ジュリスト︱

1 0

東京地裁平成八年五月一六日︑判例時報一五六六号︒

東京高裁平成九年︱一月二六日︑判例時報一六三九号︒樋口陽一「日本の人権保障の到達点と今後の課題」田村武夫•青木宏治・大内憲昭編「憲法の二十一世紀的展開』所収。

上村貞美﹁外国人と公務員﹂香川法学一七巻一号︒

宮沢俊義著・芦部信喜補訂﹃全訂日本国憲法﹄ニ︱八ーニ︱九頁︒

樋口前掲論文二七頁︒奥平康弘『憲法III·憲法が保障する権利』五五—五六頁。

江川英文・山田錬一・早田芳郎﹃国籍法︹第3

0

田中二郎﹃行政法総論﹄四六ー.│四七頁︒

手島孝﹁現代行政国家論﹄二九頁︒

宮沢俊義﹃憲法と裁判﹄七五頁以下︒

清宮四郎﹃国家作用の理論﹄一頁以下参照︒

鵜飼信成﹃公務員法︹新版︺﹄六一頁︒

樋口前掲文二七頁︒

俵静夫﹁地方自治法﹄二八七頁︒

前田正道編﹃法制意見百選﹄三六七頁︒

石川健治・判例セレクト叩︑五頁︒

高橋和之﹁国民内閣制の理念と運用﹂一九五頁︒

佐藤幸治﹃憲法︹第三版︺﹂一〇一頁︒

樋口陽一﹁憲法ー﹂七九頁︒

七六

(27)

( 2 4 )  

( 2 5 )

 

( 2 6 )

 

( 2 7 )

 

( 2 8 )

 

( 2 9 )

 

七七

芦部信喜﹃憲法学I憲法総論﹄二四八頁︒

石川健治・判例セレクト%︑一五頁︒

仲原良二﹃在日韓国・朝鮮人の就職差別と国籍条項﹂所収一0五頁以下に拠る︒

高野雄一﹃新版国際法概論上﹄三

00

頁 ︒

根森健﹁﹃外国人の人権﹄論のいま﹂法学教室一八三号四六頁︑中村義幸﹁﹃定住外国人﹄の人権﹂憲法問題2

18-3•4-679 (香法'99)

参照

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