閾断総督陳輝祖案‑乾隆朝官僚汚職研究41
谷口規矩雄
はじめに
本稿で取り上げたのは︑前稿の﹁王燧案﹂同様︑王宜望と関係を持った人物が起こした汚職事件である︒但し関係
を持ったというよりは陳輝祖は︑有罪が確定的となった後の王豊望の資産の差押え︑没収の総責任者として直接事件
の処理に当ったのであったが︑その過程で王直望所有の財物を抜取り隠匿横領を図ったという事件である︒事件その
ものは左程複雑な内容のものではないが︑総督という事件処理の最高責任者が犯罪人の財物を隠匿すること自体当然
問題にされるべきことであろう︒しかしその発覚の端緒を作ったのは乾隆帝自身であり︑また事件の捜査に当った欽
差大臣たちはその内容を徹底的に究明しようとはしなかった︒その為に事件の解明にはかなりの曲折があったのであ
るが︑その過程から当時の官僚体制の特質の一端が多少なりとも明らかに出来ると思う︒
閲漸総督陳輝祖案[ J
閲漸総督陳輝祖案二[2]
この事件は中国では注目されていたようで︑既述の﹃乾隆朝懲辮貧汚棺案選編﹄(中国第一歴史棺案館編︑
一九九四年︒本稿では以下﹃貧汚棺案﹄と略記する)には﹁閾所総督陳輝祖侵盗王亘望入官財物案﹂なる題名で相当
大量の史料が収録されている︒本稿は殆どをこの史料に拠っている︒外にも﹃清朝通史‑乾隆朝・分巻上﹄(紫禁城
出版社︑二〇〇三年)が﹁十六乾隆中期十二大案﹂(十一︑閾漸総督陳輝祖案)として取り上げている︒また牛創平︑
牛翼青編著﹃清代一二品官員経済犯罪案件実録﹄(中国法制出版社︑二〇〇〇年)でも﹁第四編︑盗窺案︑総督陳輝
祖盗籟査抄没収入官財物案﹂なる題目で取り上げている︒ただ両者は事件の概略を述べるに止まっており︑やや詳し
い﹃清朝通史﹄の論も﹃清朝実録﹄を中心史料とするのみなので︑本稿では﹃貧汚棺案﹄等に拠りより詳細な考察を
試みた︒なお﹃貧汚棺案﹄からの史料の引用は前稿同様﹁史料数字﹂として表示する︒
1︑事件の発覚︑及び取調べの過程
先ず最初に事件の中心人物である陳輝祖の略歴を述べておきたい︒彼の本籍は湖南省祁陽県である︒父は清官とし
て有名であった陳大受である︒輝祖は麿生を以って戸部員外郎を授けられ︑郎中に上った︒後外官として河南省陳州
府知府を授けられ︑累遷して閾漸総督となり︑漸江巡撫をも兼管した.‑)︒彼は総督として断江の海塘工事に尽力し
相当の成果を上げていたことから乾隆帝の信任を得ていたこともあり︑王亘望の取調べや︑その任地における資産の
捜査︑没収の任に当ったのである︒彼に対する取調べが本格化するのは乾隆四六年五月頃からであり︑それとほぼ同
時に彼の資産の捜査も開始されたのであった︒その後︑乾隆四六年七月︑八月︑十二月の三回に分けて︑彼の資産は
内務府︑崇文門等へ送られた︒これら国家に没収された資産については﹃貧汚棺案﹄に数十頁に亘り詳細な目録が付
されている︒
所で︑乾隆帝は王直望の所蔵品についてとりわけ興味を持っていたようである︒これまでに王直望は幾度かにわた
り皇帝に貢物を献上したようであり︑皇帝はその中の幾品かを賞納したが︑多余の物は全て彼の元へ返還させたとい
う(﹃清朝実録﹄巻=六一︑乾隆四七年七月丁巳)︒こうしたこともあって帝は内務府へ送られてきた王亘望所蔵の
金銀器や美術品に注目したが︑とりわけ目を引く程のものは無かったという︒しかしそれより帝の不信感を誘ったの
は︑以前に返納させた物品が一つも見当たらなかったということであった︒上記の﹃実録﹄巻一1‑1:1︑乾隆四七年
七月丁巳の条には︑
諭軍機大臣等︒従前王宜望節次貢献器物︒祇賞収数件︒余倶発還︒今閲査抄伊任所賞財︒発還之物︒無一存者︒
即此可見不実︒昨陳准来京陛見︒当経面絢︒拠称︒伊彼時巳起程来京︒不能知悉︒而其詞色閃櫟︒甚属可疑︒
と記されており︑皇帝は︑没収された王亘望の資産の中に自身が返還させた器物が全く存在しないのは不可解である
と云っている︒そこで謁見した陳准(漸江塩法道)に直接その事実を尋ねたが︑彼が言うのには︑自分はその時既に
北京へ出立していたので︑その事(王豊望の資産の没収に関わる事柄)については知悉していないと︒しかしその言
葉遣いは曖昧模糊としており︑甚だ疑わしい︑と皇帝は感じていた︒
これより前︑乾隆四七年二月に︑皇帝は謁見した布政使国棟に︑王亘望の資産の没収について直接質問したが明確
な返答は得られなかったという(﹃実録﹄巻一一六六︑乾隆四七年一〇月戊辰)︒次いで此の年の夏に︑皇帝は熱河の
離宮に於いて︑布政使李封︑按察使王呆の謁見を受け︑同様の事について質問したが︑二人は処理を担当していない
閲漸総督陳輝祖案三[3]
閾漸総督陳輝祖案四[4]
ので︑実情は知らないということであった︒陳輝祖の配下で王豊望の資産の取調べ︑没収に当然何らかの方法で協力
したと考えられる漸江省の中心的な高級官僚達が明確な返答をしなかったのであった︒こうしたことから乾隆帝は︑
王實望の資産の没収に当って︑彼の所蔵品の行方について疑惑の念を抱かざるを得なかったのである︒
上述のようなことから帝は現任漸江布政使の盛住に命じ(この時︑国棟は安徽布政使に調任︑李封は湖南布政使に
転出)秘密裡に王亘望の家産の処理について調査させることにしたのである︒上記の﹃実録﹄乾隆四七年七月丁巳の
条には
盛住現任藩司︒兼管織造︒本有奏事之責︒⁝著伝諭盛住︒将査抄王宜望家産︒究係何人承弁︒及有無侵蝕抵
換情弊︒逐一確査密奏︒母得梢有隠飾︒
と記され︑盛住に対して︑王宜望の家産の調査︑没収に当ったのは結局誰であったのか︒また(家産の)横領やすり
替えの様な弊害が無かったのか︑逐一確実に調査して密奏するよう命じたのであった︒こうして王實望の家産没収に
関する事情捜査が開始されることになった︒
乾隆帝からの命を受けた盛住は早速調査に乗り出した︒﹃貧汚楢案﹄﹁史料1﹂は﹁脆奏為欽奉諭旨︒続行査出冊案
不符︒顕有情弊︒拠実奏聞事﹂と題された盛住の上奏である︒此に拠ると︑冊案には符合しない点が見出されたので︑
彼は﹁藩司旧存原巻﹂に基づいて実際に没収に当った各官︑及び総督が取り出して調べ︑(物品を)封発した事情を
報告したことに従い︑実務担当の各官は解任して実情を聴取すべき事を奏請したと述べている︒更にそれに続き︑
或有男案冊棺可拠︒復加密訪︒査出陞任糧道王姑住︒首先随同督臣︒抄籍王宣望寓所時︒底冊有金葉・金条・金
錠等︒共四千七百四十八両︒査対解緻内務府進呈冊内︒並無此項︒惟多列銀七万三千五百九十四両︒係将金易銀︒
適合十五換半之数︒督臣並未奏明︒冊内亦並未声説︒又査得︒陞任糧道王靖住冊内︒有玉山子・玉瓶等件︒亦未
載入進呈冊内︒而進呈冊又多載朝珠・玉器等件︒為原冊内所無︒不識︒当時作何免換抽匿︒実不可解︒恐此外尚
有別項那掩情弊︒
と報告している︒この文に拠れば原漸江糧道(この時河南按察使に昇任していた)王靖住は最初に総督陳輝祖に従い
王宜望現任地の住居の資産の没収に従事したが︑その際没収した資産の原簿を作成していた︒その原簿には金葉(金
箔)・金条(金の延棒)・金錠(金塊)等合計四七四八両が記載されていた︒所が内務府に提出された資産の進呈冊と
突き合わせて調べれば︑進呈冊には此の物品の記載はなく︑ただ銀七万三五九四両が列記されているのみであり︑こ
れは金を以って銀に交換し︑十五倍半の交換レートの数に合わせただけである︒総督はこの事について何も上奏して
いないし︑進呈冊内でも何ら言及していない︒更になお調べてみれば︑王姑住の原冊内には玉山子・玉瓶等が記載さ
れているが︑進呈冊には記載がない︒しかも進呈冊には朝珠・玉器等原冊には無いものが多く記載されている︒当時︑
何の為に引き抜いて隠匿したのか︑実に不可解である︒恐らくこの外にも別の品目について移し替えて誤魔化したよ
うな弊害があるかもしれない︑と報告した︒この盛住の上奏によって︑王靖住が作成し布政使に保存されていた原冊
と︑陳輝祖等が内務府に提出した進呈冊の記載に合致しない点の存在することが具体的に明らかになった︒
この報告を受取った乾隆帝は確実な﹁按拠﹂が存在する以上は︑この問題を不問のままにして置くことは出来ない
として︑直ちに戸部侍郎福長安︑刑部侍郎喀寧阿を漸江へ派遣し捜査に当らせることにした︒二人は途中︑河南省へ
迂回して王靖住を解任し︑彼を伴って断江へ赴き訊問することにさせた︒なおこの時︑王亘望の家産の没収に従事し
た官員や吏員はそのまま漸江省に在任しているので︑陳輝祖に伝諭して︑盛住と協同して捜査に当らせることにした︒
閲漸総督陳輝祖案五[5]
閲漸総督陳輝祖案六[6]
﹃実録﹄巻一=ハ四︑乾隆四七年九月辛丑の条には
又諭︒.・・現在派侍郎福長安︑喀寧阿︒取道河南︒将王靖住解任︒押帯赴漸質審外︒所有随同弁理此事之委員・
吏員︒倶現在漸省︒著伝諭陳輝祖︒即同盛住︒先行提集在事人証︒悉心査弁︒将原冊因何不符︒及如何抽抵之処︒
逐一根究︒務令水落石出︒
と述べられており︑この段階では皇帝は陳輝祖に対し殆ど疑いの念を懐いてはいなかったのである︒
所で皇帝はこの事件を公然化させたくなかったようであった︒﹃実録﹄同年︒九月壬寅の条には
諭軍機大臣日︒陳輝祖査抄王豊望貨財一案︒拠盛住奏︒査出王靖住底冊不符︒抽換顕然︒因欽差侍郎福長安︑喀
寧阿︒前往河南工次︒以査工為名︒就近訊問王姑住︒即解任押帯︒赴断質審︒但福長安等︒弁理此等事件︒究不
能如阿桂之歴練︒前曽降旨令阿桂前往山東︒査看河湖水勢情形︒⁝可速回河南工次︒祇作為因欽差来工︒阿
桂等同是督弁之人︒亦不致令人疑催也︒
と述べられており︑欽差大臣として福長安︑喀寧阿を河南の工事(黄河)現場へ行かせるのは工事検査という名目で
あり︑そこで王姑住を訊問させるのである︒ただし福長安等がこの事件を処理するには︑阿桂の歴練の手腕に及ばな
いので︑阿桂は前に既に山東の黄河や湖水の状況調査に派遣させているので︑直ちに彼を河南の工事場へ出向かせれ
ば︑阿桂は欽差大臣等と共に工事を監督する人ということになり︑他人に疑惑や恐れを抱かせることにはならないだ
ろう︑ということで乾隆帝は慎重に事を運ぶと共に︑阿桂をもこの事件の捜査に加えたのであった︒皇帝の命により
阿桂は先に河南に到着し︑河南の工事場に於いて王姑住を訊問すると共に︑一方河南巡撫富勒渾に命じ王靖住の家産
を差押えさせた︒﹁史料八﹂は王靖住を訊問した際の阿桂等による報告であり︑供述調書も付されているが︑長文な