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口久雄

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戎が国平安朝知識人における一つの典型的な生活像のパタよししげのやすたれ︵1︶!ンは慶滋保胤︵麗令f$どの作品﹁池亭記﹂に示される

1 0 9 8 7 6 5 4 3 2 1

殴滋保胤とその作品﹁池亭妃﹂

源氏物鵬にみえる極索の曼陀羅

敦畑における西方浄土愛棚

唐代詩人の浄土信仰

牧爆出土の阿陀経讃文

敦煙洲土の阿弥陀錘講経文︵その一︶

敦埠出土の阿弥陀経講経文︵その二︶

我が国における浄土変相

我が国における極薙曼陀羅

我が国における浄土識仰の文龍 敦媒資料の素材と日本文学

1

l阿弥陀経洲継文と我が剛浄土文学I

と思う︒十世紀末︑古代のたそがれの社会で︑四十八九賎の

彼は︑東西二京のうつりかわり︑社会の不安︑人冊のおろか

かたつエリさと人生の無術をみつめて︑六条坊門に鴬んだ蝸牛の家の

ような小宅の棋棟と日常の生活に及ぶ︒池の西に小堂を建て

て弥陀を安置し︑池の東に小閣を開いて審物を納める︒役所すずづとめのひまひまに︑手を洗い口を漱いで﹁西堂に参して︑

弥陀を念じ法華を論み﹂︑食事のあとには﹁東閣に入りて︑諜

巻を開き古賢に逢ふ﹂といった生活である︒

三百坪あまりの敬地ながら︑林泉を築いて︑そこに持仏堂

と襟叩とを造るというプランは西欧の古い大学の中庭を連想

させる︒例えばオクスフォードの古い大学の柵内には芝生を

蚊きつめて︑小さなチャペルとライブラリーを学園の中心に

据えて静まりかえっている︒われらはかかる古代末期のひと

口久雄

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2

りのインテリゲンッィアの生活のすがたの系識をたどってみ

ることも︑日本文学の性格や本質をたずねる一つのしごとか

と思う︒この池亭記も原拠をたどれば︑白楽天の﹁池上滴﹂

や道真の﹁書斉記﹂さては前中書王︵源兼明︶の﹁池亭記﹂

をあげることができるし︑その影響を追求すれば︑源通親の

︵2︶﹁久我草堂記﹂や長明の﹁方丈記﹂をあげることができよう︒

なかんづく白氏の﹁池上筋﹂の移調されたもの︑椛想・文体は

もちろん︑生活態度もそれをうつしているように思われる︒

白氏は唐帝国の上級官僚でありながら︑菩提香火社という念

仏結社に参加して︑西方往生を欣求しつつ︑一方詩神の呼び

声に誘われて狂詠を統けるのであるが︑保胤は内記の官にあ

さくもんりながら︑貴族文人と横川僧団の人人によびかけて︑作文と

かんがくえ仏覗の結社たる勧学会の文学運動をおこし︑詩を作って﹁保

胤染﹂をのこすと共に︑源僧の﹁往生要築﹂に呼応して︑

往生浄土の理論体系を実証するために﹁大日本往生極楽記﹂

を著わす︒在家の念仏者と公職の儒家との二亜生活を融合し

た中下級文人貴族の典型を示すが︑かかる精神伝統は中国よ

りうけつぐもの︑彼は自らいう︑倹約を好んで民政を安定し

た漢の文帝は異代の主︑詩人でありながら仏法に帰依した唐

の白楽天は異代の師︑官僚でありながら山林を慨れた晋の七

賢は異代の友だと︒日本往生極楽記を撰したのも︑往生要築

に触発されたとはいえ︑唐の伽才の﹁浄土論﹂︑道洗の﹁性 生西方浄土瑞応伝﹂の系統をうけ︑その系列に凧する往生伝

︵■ご︶の一にほかならない︒

私が極東および西アジアの古代文化や宗教のすがたに興味

をもつのも︑一にそれらがシルクロードや南もしくは東支那

海をわたって︑我が列島古代王国の知識人や民衆社会にひろ

くふかい影響を及ぼしてきたからにほかならない・この小論

では主として西方浄土変と阿弥陀経の信仰をとりあげ︑それ

らの系譜をたどって我が国の文学のすがたに及びたいと恩

やつ︒

あかつきしづかにねざめしておもへば涙ぞおさへ

あへぬはかなくこの世をすぐしてもいつかは浄土

へまいるべき︵梁隈秘抄巻二︑雑法文歌︶

光源氏が紫上を失った一年後︑悲しみの周忌を迎えたと

き︑彼は紫上が生前なにがし僧都の指導のもとに︑発願造写

した曼陀羅をなつかしく思い出した︑﹁かの心ざしおかれた

る極楽のまだらなど︑このたびなん供養すべき﹂︵幻巻︶

八月十五日︑周忌の当日源氏は我が子夕霧をはじめ︑六条院

い$いしょうじんの人人一同賓食糒進をして西方浄土変坐陀羅一姉を懸けて

供饗したのである︒紫上を失って悲愁にくれる脈氏晩年の孤

絶の姿がある︒貴妃を失った玄宗の悲しみよりもより華闘な

2

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麓撤函直璽

歯宮同聖 恥I︷一手へ

●当曾具蒜z当扇君g三畠・昌乞普昌屋$で芒営昌鳥8口 .◎圏のシ・尉詞坊星・酌冨甸︒◎蜜1口④.◎﹄狸︒三二Uぢ窒司畠 奎・蟇・尉詞由昨煮夛︑撰蚤毒遣豐雲豆窺ご苓董篝

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3◇

5敦煙画の浄土変相については先学のすぐれた研究もあり︑ 悲恋の情調が︑浄土への幻想と撒慨の気分が︑極楽変相図の世界ととけあって展がる︒それは唐絵的な中国世界をこえて︑さらにはるかな西方的な世界への魅力につながる︒

梁隈秘抄の歌謡もおそらく原型は﹁はかなくこの世をすぐ

しては﹂に作ったのであろう︒現世において椚進欣求すべき

ことを妓吹した文句であったであろうが︑民衆社会にうたわ

れるうちに︑﹁はかなくこの世をすぐしても﹂と変容して︑

罪深く慨怠がちの凡愚の人間性を肯定しつつ︑凡愚のわれら

でも︑下品下生でもいいからいつか浄土へ往生することがで

きようかというかすかな希望をうたいあげる形に転誰したか

と思われる︒そこにより深い浄土往生の救済の精神が認めら

れるのではなかろうか︒

源氏物語に見える極楽の曼陀羅︑西方浄土変相図は︑寺壁

に板に布に絹に紙に︑猫かれ刺繍され︑織り出された︒その

織りなされた西方変の一つの典型たる当麻の浄土曼陀羅ひと

つをとりあげてみても︑そこにこめられたすさまじいばかり

︵a等︶の古代の人人の技術と緋神の典中のすがたをみるだけでも︑

東アジアのひろい地域における西方浄土への恢慨の仙熱のな

みなみでなかったことが思われる︒ 専門外の誰者の申すに及ばないことであるが︑まだ一般の人人の目にとどかないこともあるので順序として概観しておきたい︒敦煙画の浄土変相には色々とあり︑阿弥陀浄土変相のほかに薬師浄土変相や弥伽浄土変相などがある.また阿弥陀浄土変相にも槻遜変相を相伴ったものもあり︑松本栄一博士

︵今B︶の指摘のごとく︑両者がミックスしたものも多い︒厳密に単

けんくつなる阿弥陀浄土変相というものを戦別することは必ずしも易

しくなくて︑多少とも観縄的要素が添加されている︒その一

︵h︶つのパターンをスタインの﹁千仏号⑦弓言巨豊邑国且己冨﹂

︵毎J︶からあげてみると︑図版第十・八・十一の如き︑何れも阿弥

陀如来を中央に櫨音・勢至の両脇士を左右に︑天蓋をいただてんにんげによく三尊形式で︑空中に花花が散り楽器が飛び︑天人・化女が

降下し︑池上に蓮花がひらき裸形の亜子たちが生れ出る︒鮮

麗な花樹に囲饒せられる西方浄土の変相である︒いまその図

棚の一例をアーサー・ウェィリーの詩人的な叙述を借りて引

用しておく︒図版鯛八デーリー博物館所蔵の敦想画である︒

アミターパー︵阿弥陀仏︶とアヴァロキテーシューヴァラ

︵観音︶・マハースッァーマプートラ︵勢至︶は池の蓮花の

上に坐している︒両脇侍の傍にそれぞれ小蓮花に坐した侍

士の菩薩二挺が侍立する︒阿弥陀は右手にヴィタルカ・ム

︵︽︒︶Iドラ︵覚観︶の印相を結ぶ︒彼の両脇に炎のかたちの宝

石で飾られ轡曲した宝柱があり︑紅い花さく二本の木の幹

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が︑花の輪の天謹を支える︒背蛾は大理石を以て池をかこ

み︑その後に竹が二本はえる︒上空には頚に鮒して降り来

る菩藤たち︑裸形の耐子になった霊魂たち︑リボンを結んだ楽器たちl笛・ハープ・琵琶・クラッパー定馨そ

して太鼓などがまき散らされる︒池の上に鴛鴬が一つがい

ずつ泳ぎ︑蓮の藩がふっくらと童子の霊魂たちを中に包ん

で水面にうかぶ︒水面と同じ高さの中台の上に右から左へびやくこうぐ畢生う五羽の烏たちが描かれる︒謡鵡と孔龍と白鵠と共命と

しやり︵叩︶舎利lこの浄土に楼む禽たちにはそれぞれ銘記がある︒

いうまでもなくこの禽たちはアミターパ・スートラ︵阿弥

陀経︶のなかに笥及されている︒通の淵の中に包まれた八

人の裸形耐子たちに上品上生︑中品下生などと銘記がつい

ている︒それらはアミターユールⅡディヤーナスートラ

︵観無蹴寿経︶に叙くられる九品往生を示す︒

下部の中央に中国風な牌板があり︑両側のマットの上に

供養者たちがひざまずく︒左に一人の婦人︑右に二人の俗

男︒婦人は四世紀の婦人のように頭上で平らに結い上げた

Lとどり律の髪︒二人の男は長いベルトのついた上被ととがった尾

羽のある胡州をいただく︒弥陀と菩隙たちは白色で隈どり

されて明るい光がほどこされる︒絵の年代が早いことを示

︵9︶す︒縦弧吸三吋︑描五呪六吋︒

このような敦僅画における浄土のイメージ形成の努力の結晶

をみると︑いいしれぬ浄土へのかわき︑浄土への慨れの気

分がくみとられよう︒この鮮烈な魅惑はどこからくるのであ

ろうか︒梵本阿弥陀経すなわち﹁八幸あるところの箕しい光

景Vと名づける大乗経﹂成立の時代と社会とが︑ほど近いこ

とを感じさせはしないであろうか︒lたとえその図相の成

立や製作年代が比較的後のものであったとしても︒

松本博士は阿弥陀浄土変相として歴代名画記や益州名画録

・寺塔記その他を引いて︑﹁西方変﹂もしくは﹁西方変相﹂

が両祁その他の寺畦の荘厳として呉道子その他の名手が描い

たことを指摘され︑前掲のデーリ所蔵紺本著色阿弥陀浄土変

柧のほかに︑千仏洞における雛画の四例を図版として掲げら

れる︒しかし西方変柑は松本博士の指摘のごとくなお多く存

在したので︑同氏の名著刊行後五年を経た一九四二年より四

三年にわたり敦煙に滞在して壁画を調査研究した謝稚柳氏の

﹁敦爆芸術叙録﹂︵一九五五年刊︶によると西方浄土変︑阿

弥陀浄土変として報告されるもの︑

千仏洞第4窟北壁︵以下﹁4北﹂の如くしるす︶

7南・加南・哩南・通南・咽東・湖南・調南・鑓南・脱

南・剛北・耐北・鯛南・皿南・同北・訓北

楡林瓶第2窟北雛・4南・6北・加北.Ⅳ南・泌北・弱

西・北

などがあげられ︑その他単に浄土変としるされるものや明ら

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我が国のうつぼ物語に波斯国に漂流した俊蔭が西方に楽園5を求めて旅する椛想があるが︑一般に西方に理想郷を求める かに観経変相とみらるべきものは数多く存する︒すなわち西方浄土変を砿の中央に描き︑その左右に十六微および未生怨を描くところの観経変形式はすこぶる多く︑それらは︑一十六槻砿東南蛾一西方浄土変岻中央一未生怨壁西

もしくは

北壁一癖︾拙土変壁中央 壁東

埜西

の如き配置で描かれることが比較的目立つ︒これは正しく敦

とうが煙幡画観経変とコレスポンドするもの︒さらに西方変のわき

に仏伝が描かれることもあり︑一洞のうち峨面を異にして法

華経変と棚対することも多く︑弥勒繩変・薬師珊璃繩変と棚

︵皿︶対する場合も多い︒しかし阿弥陀浄土変が必ずしも西嚥に拙

かれるとは限らないが︑これら西方浄土変・弥勒浄土変.薬

師浄土変が競い描かれることは律法隆寺金堂壁画の問題に参

考となりうるかもしれない︒

4

考えは原始民族に共通するといわれる︒阿弥陀仏というもの

を︑インド西方の守護神水神ヴァルナと結びつけて考える説

もあり︑インドでも外来の硲仰だとしてペルシャ神話などに

起源を求める脱もあるが︑阿弥陀繩の記邪の中にクシャーナ

王朝時代の常術な階級の生活欲求を認めて北インド起源だと

︵脾︶いう税もある︒何れにしる阿弥陀経は西紀一四○年ころ成立

し︑その後︑北インドと西域にこの信仰が盛んになったらし

い︒

月氏系の仏教徒が中心となって︑中国に仏教が伝来する

や︑二世紀後半から五世紀前半にかけて浄土三部経たる無量

寿経・趣無量寿経・阿弥陀経の漢訳がなされる︒阿弥陀経の

鳩摩羅什含倉l含四またはきe訳は四○二年ころに成立す

る︒浄土教は中国においては東晉の慈遠②段1台eに淵抓を発し︑ついで東鋭の曇鴬酋尉l麗巴を経て︑階に道紳

窃紹1段巴・店に諜灘含届I圏巴が出て新仏敦迎勤として

の地位を硫立し阿弥陀浄土の教が成立する︒稗導は西方変柑

をみて感激して道紳の門をたたき︑ついに実践的宗教として

の教化活動をするが︑彼は生涯に﹁阿弥陀経十万餘巻を写

し︑浄土変相三百餘堵を画﹂いたといわれる︒

善導と同時代人たる尉遅乙僧︑ついで呉道玄らの天才絵師

たちが競って浄土変相︑l西方弥陀像変を描くのも七世紀

ごろからである︒前述の西睡のオアシス都市敦煙地方の浄土

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変も多くこのころ以後の製法である︒

我が平安初期の宮廷書庫に王維築廿巻が蔵せられ︑我が知

撤人にはその排を銃んでいたものもあると思われるが︑この

︵咽︶盛店官似詩人王維GSI認己に﹁西方変画讃外序﹂がある︒

その浄土描写をみよ︒恥やこめぐ林は宝樹を分ち︑七重に香れる城を謡れり︒衣は天花を

こがれ捧げ︑六時に金しける地に散れり︒迦陵のとりは語らむと

おももろもろ

欲ひて︑曼陀のはなは未だ落ちず︒衆の善は普く会しもろもろすぷたつばびらて︑諾の相ぞ具かに美しき︒

︵M︶また﹁西方阿弥陀変井序﹂がある︑

つら範も

宝樹列を成し︑金砂自らに映ゆ︒迦陵語らむと欲ひ︑愛陀

は未だ落ちず〃此の中年に嘘ちて︑上品に窪る︒池蓮の宝

座︑将に楽雛の栄を蹄えむとし︑水鳥の法音︑当に閥鵠の

力を悟るべし︒

とある︑羅什訳の阿弥陀経に拠って画賛を作っていると思わ

れる︒

源氏物語幻巻極楽曼陀羅の注に四辻善成は白居易奇箇1

段eの画賛を引いている︒文集は我が平安朝文人の帳中秘

であったから︑この賛文は我が国に影響したと思われる︒①

︵鳩︶先ず﹁繍唾西方轤一讃井序﹂がある︒女弟子蓮花性なるものが

発願して故楊夫人の追善のために浄財を以て︑﹁西方の阿弥

みかた陀如来の像及び本の掴土の沸屈一部﹂を絵絹に刺繍して供燕 した時の識序である︒あかがれかたち必やぬひもの夫れ銅を範どり︑絵を役くることは︑文を刺し繍するみかたゐな釦もことの輔勤なるに若かず︑形を想ひ号を念ふことは︑相好

たもを税つことの親近なるに若かざるなり︒

とある︒②次に﹁画唾西方頓一記恥鰄率睡二﹂︒六十七歳の白居易

は風疾をやんだので︑俸銭三万を捨てて工人杜宗に注文して︑

阿弥陀経と無髄寿経とに拠り︑西方阿弥陀浄土の世界の一部

を絵絹に刺繍で縫い出させたのである︒高さ九尺︑幅三尺︒

阿弥陀仏中央に坐ゑ︑観音・勢至二大士左右に侍せり︒天

いつ〃︑人膳仰して春属囲鏡す︒楼台の妓楽︑水樹の花鳥︑七宝厳

あざらかしぐ飾り︑五彩彰に施せり︒墹燗蝋蝿として功徳成就しぬ︒

唯へせんぶかくて白氏はこの功徳によって老胸の苦を離れ︑﹁南部銅闘部︶

錘もひを越えずして︑便ち西方を鋭む︒馳鐸錘緬砺轆や胴︶の大光︑念にしようれん応じて来感し︑青蓮の上品に願の随︑往生せむ﹂ことを期

した︒繍頓というのは﹁ヌヒモノセルエギヌ﹂と訓むくく︑

我が中宮寺の天寿国曼陀羅はかかる例の一断片︑その完全な

る大型の繍頓は大英博物館に所蔵されている︒この年彼の老

病が重かったとみえて︑自哀自葬の意を叙した酔吟先生伝も

書いたのであった︒③こえて二年後︑かねてより目ら造営し

︵応︶た香山寺に︑新に経蔵堂を建ててその石記を作ったc堂の中

つゆワ間に仏座を職き︑座上に金色像五百躯を列ね︑座後に﹁西方

極楽世界の図一︑菩薩の影二﹂を設け︑座の周囲に二十四雄

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の装飾した文幡をかけめぐらせたとある︒

こうした白居易の西方浄土の信仰は︑我が王朝智識人の宗

教意識を刺戟し︑ひいてはその信仰生活に追随するものが続

出したのである︒

観無量寿経に梵本がないので︑その成立について問題があ

り︑あるいはその成立の地がインドでなく︑西域ことに子闘

地方か︑あるいは支那撰述かとの説があるようであるが︑前

述のごとく阿弥陀縄は無量寿経と共に梵本があるのでインド

撰述説が有力なのである︒黄金の沙をしきつめ︑七宝で飾ら

れた池の描写などは当時のインドの富裕階級の生活を反映す

るものといわれ︑そのインド的な魅力は︑リズムヵルな読訓

の調子や漢訳による幻想世界のイメージを通してさながらに

人人によびかけたかと思われる︒仏国土の禽たちの啼き声

や︑ターラ樹の木の葉︑羅網の鈴が微風にそよぐとき︑天上

の楽器たちが法音を宣流するという想像は︑阿弥陀経への讃

歌となり︑説法聴聞の欲求をかきたてる︒阿弥陀経讃パリ木で.闇皀西方十五噸滋ロンドン本の.鼠忌西方阿弥陀仏礼文ペキン本乃字六八号西方極楽讃ペキン本散字五四○号往生極楽讃レニングラード本画〆I麗四 阿弥陀念仏讃レニングラード水泡〆I届忠

︽腕﹀阿弥陀仏所税呪レニングラード本画認I鴎豊

などの職偶が多く唱唄されたかと思う︒いまその一例を引い

ておく︑

ふか箭琶愛に誠を傾け深く信ずる士等有りて︑此る西方像だおもん品ひととなり一鋪を竪てぬ︒仰ぎて惟るに︑諸公等並びに性呉江

のごとく浄くして︑徳華岳のごとく高し︒仁風い五郡に扇

ぎ︑洪名い大邦に満てり︒実に栴檀の一林と謂ひつくし︒

吊患遂に快を連ねて結願して︑西方を写さむことを願へ

い﹄芦﹄いる溜り︒是に於いて遠く名公を召して︑霜確を彩る︒彩奄を邸ひふんでが釦や心の匠に掴きて︑丹素を花間に布く︒奄の光は五色の脚を好

つちぺ︑宝の地は七行の樹を列ぬ︒個々たる建閣︑丹權は花間

の霞端を払ふ︒慶々たる金楼︑危梁は霊際に架せり︒化生

池の内︑江蓮は九品の花を生じ︑黄金殿の前︑天楽五音の

曲を奏づ︒花侭鑿踊し︑宝網玲瑠たり︒天人三道の街に遊

わるび︑化仏鳳凰の閣を啓く︒香風動くところ︑花は金国に落

ゆらつた

つ︒宝樹揺ぐ時︑声は雅音を流ふ︒池中の白鶴︑蘂を花間

堂さくに弄る︒藩際の頻伽︑経を葉褒に吟ぜり︒認玉箭管︑竜鳳

︾︾︒■﹄の音を川くが如し︑琴恐鼓吹︑墾和の曲を奏づるが似し︒

百億月而に摺り︑万衆星宮に篠ぐ︒花間に説法の声をⅢけ

ゆるば︑風動きて梵音の響を聴く︒命睡獅く弥陀の容を説むひ

昂やこと︑惣べて九花の城に到らむ︒︵下略︶

(9)

8かくて四言八句の西方調を以て結ばれる︒まことに華麗な四

六餅腿体で︑西方浄土変相を識美している︒﹁西方職文﹂と

題しながらこれは阿弥陀浄土変相造倣記の役目をも果してい

ることに注意すべきであろう︒この西方醗文はさながら四六

文を以て描き上げた西方変相壁画ともいうべく︑羅什訳の阿

弥陀浄土世界の形象が華麗な光彩と微妙なりズムでうかび上

ってくる︒

阿弥陀経の注釈は階の智頭の餐記や唐の窺基急落l雷巴

の疏をはじめとして多く撰せられたが︑一方窺基はまた﹁西

方要決﹂を撰して西方弥陀像変乃至はこれを略して︸仏二菩

︵︶︵的︶

隙のみの像を作り︑六時に礼憧供養すべきことを鼓吹した︒

かくて︑浄土世界を讃頌する識文や讃謁が統出し︑一方視

覚化した変相の製作が盛行し︑ここに阿弥陀経の糊経と浄土

変の絵解きと糊い合って︑阿弥陀経の説経の文芸化がおこっ

てくることになるように思われる︒

こうして暦社会の各地域にひろく阿弥陀姪の拙経︑西方変

の絵解きが行なわれたことが推察されるのであるが︑我らは

こうしたいきさつを物語る資料を敦蝿から見出すことができ

る︒敦煙本の阿弥陀経識経文とよばれる一群の写本群であ

る︒これらは広義の敦煙変文に属するものであり︑周紹良な

6

どは阿弥陀経変文の名称を用いているが︑私は王敢民に従う

のである︒

①パリ木勺.魑曾王氏変文築四塁四五八頁

②ロンドン本切霞望王氏変文鰯四六○I閲七七頁

﹁繼現脱韓﹂雑文一七③パリ本詞魑韻王氏変文築四八○︲四八百

④パリ本で.曾隠王氏変文典四八二1四八三頁

⑤パリ本勺.駕己王氏変文築四八三︲四A黄

⑥ペキン本股字六一喜諒率蕊虚勢︲四八六頁

⑦パリ本勺.圏曽未見︒

右のうち⑥⑦以外の五薊については直接雌写木について淵在

し対校をした︒⑥は雑録によって淵在した︒⑦は資料到澄次

第淵査することができよう︒原典批判の上で王氏変文集に対

して色々問題があるが︑都合により詳説は他日を期したい︒

例えば︑①のはじめ︑変文集下︑四五一頁四行︑﹁第一名日

怖魔第二何名乞事﹂とあるが︑これは窺基の撰した阿弥陀経

︵︶通賛疏の系統をうけるもので︑.名日怖脆云々︒二云乞士

云々﹂とあり︑﹁側怖魔﹂も﹁乞覗﹂も誤りである︒敦煙原

本についてみると日字になっており︑王氏本の誤りである︒乞邪は音通による原本の誤記である︒また同じ王氏水四五

一頁九行の.件袈裟掛在身﹂とあるが︑原本は.件袈裟掛在身身上掛﹂というみせけちがあるのに︑変文典は削除してい

一一一一一一る︒同じ第一行﹁福惑招﹂とあるが通原本に﹁福感招﹂に作

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る︒鯆言一行.餐﹂とあるが︑原本に.渡﹂とある︒原

古写本の旧を存して窓に改めないことが原典批判の術道だと

思うが︑この点遺憾なところが毎頁にどっさりある︒王氏木

を使川する時にはこの点十分の注怠が必要であろう︒

先ず①は首尾ともに訣快︑紙商二九極︑界高二五・五鯉︒

羅什所沢の経の﹁与大比丘衆﹂より﹁薄倶羅阿菟婁駄﹂に至

る識経文残巻︒墨界︑二八鯉前後の長さの紙六丁を継ぐ︒先

ず経を引き︑次に散文で講説解釈し︑次に五一蒲︑六言︑七言

の白話詩でかつ叙しかつ讃する︒問答体の唱導もある︒窺基

の経疏や通播疏の系統に立つ解釈であるが︑異文もすこぶる

多い︒

②は前部完全︑尼部縦供の幾巻︒紙商二七・六糎︒汰色の

紙本艮巻︒根本挑一切有部別解脱戒繩の紙背に写す︒その繩

をうつす紙表は天地に理界︑ただし行間無界︒界商二八・三

糎︒王璽民変文集の口絵に首部二葉を出す︒﹁予閲国和尚阿

弥陀経批経文﹂と題する︒この識経文の語り手は西域出身の

僧︑唐都長安で法師となり五褒山文珠殿に修行し︑中央アジ

アの描瀧地を巡錫したあと︑さらにカラコルム山脈をこえて

インドの識鷲山に参詣しようとして子側にきたとき病を発し

て西城に止まった佃で向述や王亜民は彼を﹁子闘的和尚﹂

﹁十間川和尚﹂とよぶ︒本沸は良巻かつ前部を完洋するので9教畑地〃当年批魏の法則作法もよくわかる資料である︒こと に上は国王を﹁我が聖天可汗大廻鵡国の天王﹂と呼び︑下は治下の謝辮部落や遮近の州城の百姓にいたるすべての士庶男女部族によびかけるところに︑当年のウィグル族の社会椛成を知る一材料ともなり︑また釈迦仏に州依することを勧め一L︑いづみほとけ門徒弟子よ︑知依仏といつば何くの仏に婦依するや?まさにこれ摩尼の仏ならじ︒またこれ波斯の仏ならじ︒またこれ火妖の仏ならずして︑すなわちこれ淌浄法身︑円満報身︑千百億化身の釈迦牟尼仏なるぞ!

といって︑波斯人嘩尼が刺めて︑ウィグル族にひろがってい

た餓尼教や︑六朝時代北朝が侶仰していた火妖教や︑その他

波斯教や笑神敦やキリスト教の別派たる大秦教などの外道九

十六種を折伏して阿弥陀経の功徳を強調しているところ︑当

年中の社会の宗教の状態もしることができる︒重要かつ興味

ある資料であるが︑詳しくは言及しないでおく︒

念偶︑轆香︑称名︑それから押座文に類する七言詩のあ

と︑導入部の散文に入る︒地獄苦吟に類する地獄の惨苦をの

べて聴衆を災怖鯖勁させたあと︑術王より士臓男女一同倣悔

して西方浄土に往生すべきことを勧化し︑三州況戒を勧め︑

かくていよいよ本遡に入って仏税阿弥陀鯉を唱経し︑開題︑

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10

③暦紙一枚の残巻破片︑紙商二七・二極︑紙幅三二・四

樋︒全部一七行の書写本︒朱錨で加点︑合点があり︑羅什訳

阿弥陀経の﹁復次舎利弗︑彼国有種々奇妙雑色之烏﹂の一段

と︑﹁白餌︑孔雀︑露鵡︑舎利︑迦陵頻伽︑共命之鳥﹂の一

段を掲げ︑前段の唱経のあと︑テキストを五に別け︑

︵垂︶一惣標羽族二別顕禽名三転和雅音四詮論妙法五朋声動念

︽狸︾と標示する︒これは迩基の阿弥陀縫疏の科文に一致するもの

である︒次に﹁西方仏浄土︑従来九典禽﹂という風に五言時

八句︑下平十二侵の一韻到底︒次に﹁背黄赤白数多般︑端政 釈経に入るのである︒殻散交錯︑問答体で

かかましま

間はく︑﹁此る如来い︑何れの処にか在すぞ?﹂

という風に鋼説を展側して行く︒拙文は況寓六高七菌が交錯

しており︑詩中︑例えばい#﹁前生為什没にしてか修行せざりし?﹂

というような︑疑問代詞が﹁甚慶﹂に通ずる唐代俗語たる

﹁為什没﹂のごとき白話語法で叙くられている︒民衆には極

めて耳近い平易な講経説法であって︑変化に富んでいたこと

と思われる︒

7

弥奇薊色別﹂という風に七言十二句の白話詩︒詩体が変る毎

に朱で合点をさす︑おそらく吟調が転化するのであろう︒次

には六禽持も雑入する︒

へ上来一喝不思鍍惣説西方有好鳥向下烈其名字不知道理如何︿都識間梨道徳高音律清冷能宛転好韻宮商申雅調高著声音唱将来

つゆやlこれより好烏の名前を陳ねてたもれと催し︑都講︵法師

︵鈍︶が講経するのに相対して都講は唱経する役目である︶の阿閣

梨の吟洲をほめたたえて︑声はりあげて極楽の鳥たちの名を

咄えさっしやれと促す︒これに伽促されて次に﹁白弧︑孔推

⁝⁝﹂と経のテキストが唱えられるのである︒一丁の灰黄色

の破片ながら︑この写本は俗識の進行の棋梯を推察する一資

料となるのである︒

④勺⑮冒具島冒︒厨弓.塵.言碗.堕隠の一巻は紙高三○・

七糎︑墨界︒﹁蕪珈師地諸分門記﹂を写す︑下題に﹁国大徳

三蔵法師沙門法成述﹂とあり︑別に﹁第十六巻初下至廿巻計

五巻﹂と注す︒その紙背は隆界を施し︑②維摩押座文︑②維

眠経変文︒︵組文のみ︶︑③地獄苦吟傘睡︑側阿弥陀経押座

文︑⑤阿弥陀経変文とみるべきものを辿統して写し︑七言白

溌時一句毎に墨点で句統をさす︒王爪民は③㈱⑤を一括して

﹁仏説阿弥陀経調経文﹂と擬題しているが︑開題釈経を全く欠

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11

いており︑憧かの散文を除いて殆んど韻文で終始して一巻を

形づくるから︑①と⑧とを区別するに従えば③以下も区分せ

ざるをえない︒④⑤ともに韻文で阿弥陀浄土変相の場面をか

つ叙述しかつ識唄しているから普通の批経文というより俗講

の時西方変を前にしての讃歎文とみたい︒次にあげるところ

の⑤は右の③④⑤のうち③を欠いて㈱⑤のみ独立したもの

で︑これだけが単独で用いられることがあったことを証する︒

たた題して称ふ浄土仏は弥陀

王舎城の南竹の薗の内

先づ声聞舎利弗に告ぐ

︽器︶いの

広く西の方日の没る宮を演くむ

や﹄↑﹄此なる裟婆を去ること十万強

ひと宝閣珠台日月に斉し

八水鰕功冷々として九曲に分る行々宝樹和鵯網羅函轤蝉詐

隻々の聖烏玉塔の傍

うち.両々の化生沁癖畦砕麩岬麸ぱ池の災に坐す

白餌迦陵恥岬陵雅細和らぐ

共命韻伽苦空を識ふ

と歌うあたり︑正しく三頁に引用したデーリー蔵阿弥陀浄土

変相の場面というべく︑西方変を前にしての歎徳たるにちか

い︒この次に唱経ならびに開識の口上と展開するが︑﹁伏願 我令聖皇帝﹂以下︑王氏本で散文扱いにする部分も全部七言の散文体白話離文であり︑決して開題・釈経と展開しない︒そのうちの極楽会の描写をみると︑

二十八天妙法を聞く天男天女天花を散ず通吟じ鳳舞ふ彩鍍の中

こゑ琴遜妓吹す和雅の音

帝釈前行して宝謎傘嘩確率帥烈︒︶を侍す

しりへ梵王後より金炉を棒ぐ

各と無辺の春胴の倶を領して

惣べて円成極楽の会に到る三光四王八部衆日月星辰所住の宮

ささ雲は楼閣を筆げて長空を下るとひ羅衣を単り枚きて米りて会に入る

たいゑ華麗を極める極楽の大会の描写は︑さながらに敬煙千仏堂壁

画の西方阿弥陀浄土変相のイメージをうたいあげているよう

に思われる︒しかも次に浄土の宝池に蓮花の開くと共に今往

生したばかりの裸形の化生茄子を餓える細文l﹁化生茄子仏

営生﹂という風に﹁化生舐子﹂を時の第一句の頭に冠する七

詩絶句十首をつらねて終るところも︑いかにも浄土往生変相

を前にして識唄する垪迩形式の文句たるにふさわしい︒﹁阿

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12

以上︑王氏変文集にいわゆる﹁阿弥陀経講経文﹂と擬題さ

れるところの一群の写本について略説概観したのであるが︑

それらの何れもが︑敦煙の西方変の描写とかかわりなしとし

ないことがわかるであろう︒また波斯・火妖・摩尼・突神・大秦緊数等の如き西方胡族の異教侭仰の渦巻くなかにあっ

て︑元戯寿仏国土への恢慨と魅惑が尋附のものでなかったこ

ともわかるのである︒ひろく東アジアの文化圏にその宗教的

生命をもやし続け︑今閲も極東列肋社会の民衆の緋神生活の

奥がにその宗教的な烈倣を生かしつづけていること︑殊に円

本海域における常民の生活のなかに︑今日も依然として衰え 弥陀経変文﹂と呼ぶにまことにふさわしいと思われる︒

⑤削述のごとく﹁頂礼無辺功徳山﹂にはじまり︑﹁空披

荷葉作袈裟﹂に終る︑無題号の一木であり︑残巻というべき

でない︒⑥原本未兇︑国立北京図淋航職︑股字蛎六二号︒杵隅諜

の﹁敦煙雑録﹂に﹁阿弥陀軽変文擬﹂として六行の断片を

紹介する︒王氏変文染の四八汎貞節八行以下九行分に相当す

る︒但し雑録木第一行﹁大野﹂は火厨の誤︑﹁百味雑香旦U

□﹂の欠文は﹁各自殊﹂であるごとく異文もある︒前述﹁化

生蹴子﹂の述作白話詩の四首半に当る︒

⑦は未見で内容もわからない︒

大陸にある広大な天竺・溌旦に対して︑﹁粟つぶをまき散

らしたような辺境の鳥国﹂︵粟散辺土︶と意識された西太平

洋のわが列恥社会に歴史の噸光を迎えたのは︑中岡の分裂時

代であった︒当時すでに仏教の影響は大陸社会を覆い尽し ない輔神の炎をもやしつづけている阿弥陀偏仰の威力の淵源の一端にふれる思いがするようである︒

ところでこれら阿弥陀経荊経文は︑阿弥陀経変文といって

もいいようなインド的西方的な幻想の魅惑を︑高菜により文

学形象化している︒﹁栖楽荘厳と名づける大乗経Ⅱ︿幸ある

ところの炎しい光跳﹀と名づける大乗綴﹂の行文からにじみ

出てくる錐脆壮大︑神秘艶治な幻組I敦畑画や我が当麻盤陀

羅の阿弥陀浄土変の視党イメージの魅惑に渡ちにつながる︒

言梁で敵術するところに満目すれば識経文とよぶべきかもし

れないが︑絵画的な幻想を展開するところに着目すれば変文

とよんでいいように思われる︒こうしたかかわりあいの執勘

な展開こそ︑民衆の心にひろく深くよびかけ︑民衆から熱烈

に求め讃えられた事傭もわかるように思う︒こうしてタクラ

マカン沙汰のオアシス祁市に今日も埋れている信仰遺産の波

動の波が︑大陸・半島をつきぬけて︑列島社会に伝播してき

たのであった︒

8

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15

て︑中凋個有の伝統文化と西方新来の外国文化との結婦混血

は徐々に進行しつつあった︒南北明賀族社会が形成した貰族

的仏教文化という商度なものに︑われらの祖先たちは︑f崎

経由かもしくは大陸より旋接にか︑いきなり触れたにちがい

ない︒鰯木辨隆博士がいわれるように︑それらは法雅繼や維

摩樋を斌要経典とした大乗仏敏であり︑美術文化も誤岡や竜

門の石窟にみるような仏伝・本生諏乃至は法華経変・維摩経

変の造型が中心であって︑浄土変の造型はまだみられず︑し

いていえば素朴な仏寵の阿弥陀仏の宮殿などに浄土変の一邪

︵2︶がみられるに過ぎないという︒

我が国が中国大陸の統一帝国と外交関係を結んだ推古朝の

時代は︑海彼では浄土教勃興期に当り︑曇驚をうけて道紳ら

が活附し︑やがて神導にひきつがれて初唐浄土教の時代に入

る︒諜導の示寂は天武天皇一○年a忠︶に当り︑飛鳥文化の

洲花する時代の天武天皇と藩導とはほぼ同時代人であった︒

この遊紳らの時代に巾刷でも文献の上で漸く西方浄土変机が

描かれはじめたようであり︑碑導入侭の契機は︑﹁西方変扣いか立冬すが先吐ちすのうてなを見て︑歎じて臼く︑何にしてか当に質を蓮台に托し︑

たまいひ心よらのく健神を浄土に楼ましむくき﹂といって道紳の門をたたい

たとあり︑前述のようにその生涯に﹁弥陀経十万巻を写し︑

︵が︶浄土変相三百鋪を画﹂いたといわれる︒かくて遣階・遺唐の

使節団に随行した留学僧たちは︑彼の地におこりかけた浄土 教美術にふれることとなる︒文献が伝えるところの長安・洛陽をはじめとする伽藍の壁耐に荘厳された西方変の浄土世界の見郡さに︑留学の知識人たちは瞠目し︑圧倒され︑青春の血を燃えたぎらせたにちがいない︒天将火里九年炎上したと史蒋に伝えられる法隆寺の金堂雌画の浄土変の問題は専門家にゆだねるとして︑文献の上で故も早い浄土変は蘂師寺郷堂に見ることができる︒

安磁綴仏像一帳︑商三丈︑広二丈一尺八寸︑阿弥陀仏倣

井脇侍菩薩天人等︑総有百総体︑泰繍之︒流記帳云︑以

壬辰年四月十二日︑奉為飛鳥浄御原御宇天皇・藤原宮御

︵認︶字天皇︑奉造而請坐者︒︵薬師寺縁起︶

すなわち持続入皇六年︵$巴に先帝天武天皇と当代の女帝の

ために造られたもので︑大江親通が保延六年︵旨さ︶に薬師

寺に巡礼した時に典兇して︑

郷党︵恥︶繍盤陀靴一帳繩議一尺八寸純殴断挫陀羅荷衆色糸

繊阿弥陀三尊井菩隙大輔百除躰.公家御願︑厳勝会時︑

︵酌︶所器懸也︒︵法隆寺所蔵七大寺巡礼私記︶

としるす︒その雄大なスケールは驚くべく︑これを製作した

技術と精力は↓高語に絶するものがある︒

和銅年中︑今の春日の地に造営された興福寺に︑養老五年

︵愚C弥勒浄土変が︑神亀二年︵忌巴薬師浄土変が造られた︒

その興福寺而重塔に﹁四方浄土相を安んず﹂︵規通︑七大寺

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巡礼私記︶とあり︑興福寺縁起によれば︑塔の本に︑東方薬師浄土変南方釈迦仏土変西方阿弥陀浄土変北方弥勅浄土変

︽釦︶をそれぞれ安慨したとある︒この配砿形式と同じ方位で法陛

寺金堂壁画の四雛浄土変が描かれたのだと説くのは福井利吉

郎の説である︒興福寺塔本西方阿弥陀浄土変は

阿弥陀仏像一躯脇侍菩薩廿二躯四金色顧々鳥形十翼

花木四根薄山火炉一具在至口

を以て構成されていた立体的彫塑群像による浄土変であっ

た︒これによって考えるに︑変はあえて絵画もしくは繍画の

リリーフみならず︑立体的な浮彫や彫塑をも含めて︑全体的な造型表

現に命名されたにちがいない︒そして変は平安時代に入ると

鍵陀羅とよばれることもあったのである︒﹁顧々の鳥形十翼﹂

は白溺・孔推・劉鵡・舎利・共命・迦陵頻伽など西方浄土に

すむ鳥たち︑﹁花木四根﹂は七飛行樹などをさすであろうか︒

阿弥陀経によって椛成されたものであるとみていいである

やつ︒

また親通の七大寺巡礼私記の元興寺五吸塔の条に興福寺と

同じく﹁四方に浄土の相を安んず﹂と見えている︒元興寺は

和銅二年G8︶の造立である︒﹁其の仏菩薩の様︑不可思議 十ぺなり︒嶮岨の山を昼み︑曲折の路を置く︑凡て言語道断なり﹂というのをみると写実的な須弥山形を背景としていたらしい︒ここにも阿弥陀浄土変があったにちがいない︒

さらに涼仁天皇火平宝字三年︵計巴に店捌提寺が創建さ

れ︑食堂に﹁薬師浄土絵︑阿弥陀仏像井脇侍菩薩倣等﹂が施

︵訓︶入安綴せられ︑翌四年皇太后光明子の七々高に際し︑諦国に

命じて国毎に﹁阿弥陀浄土の間像を作り﹂︑称讃浄土経を写

︵誼︶さしめた︒前者は薬師浄土変に対して弥陀三尊を描いた一顧

の西方浄土変の絵であったにちがいないし︑後者は西方変像

とも西方弥陀像変ともいうのと同じ阿弥陀浄土変相であった

であろう︒こえて同五年恵美押勝が光明皇后供養のため興福

寺に東院を営んで観音を安置し︑その西辺に繍補陀落浄土

︽詞︶変︑東辺に繍阿弥陀浄土変を安置した︒

当時帰化族の子孫の画工らをそれぞれ各地に置いて絵画のやまと生しことを敬らしめていた︒天智の時に﹁倭の画師﹂という姓を︵鈍︶ゑかBぺ定め︑また面部も脳かれ︑その他大和国のみならず山城・河愈ふみのれしやきしろの十嘘だの内などの諦刷に蛍併画師・山背面師・賛秦画師・河内画

師・椚画師などを慨いて免税にして諸寺仏像の絵を椅掌せし

錨︶めたのであるから︑前述各諏の浄土変も彼らの手になったも

のもあるであろう︒しかして帰化蕃別の系統に属するかかる

絵師たちが西方変を描く場合は︑多く中国に描かれた浄土変

相を手本として模写する場合が多かったであろう︒この点

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平安時代に入ると浄土変は︑各秘の浄土変のうち西方弥陀

浄土変の描かれることが多くなると共に︑それが極楽の愛陀

羅とよばれるようになる︒白鳳・天平期は薬師浄土変・弥勒

浄土変などと杣並んで弥陀浄土変が造型されたが︑王朝前期円仁が不断念仏・引声弥陀経の唱訓を伝え︑源信の往生要

築︑保胤の大日木往生極楽記の撰述などを契機として浄土教

的色彩が王朝社会に色こぐ浸透してくるころ西方浄土変とい

う名称も︑密教の金剛界・胎蔵界の両界曼陀羅などの流行も

反映したかして︑よび名も変って﹁極楽の曼陀羅﹂とよばれ

るようになる︒﹁天下の三曼陀羅﹂とよばれる智光曼陀羅・

当麻曼陀羅・清海曼陀羅については専門の美術史家の討究に

ゆだねればいいが︑われらはそれらが絵解され唱導に用いら

れたのではないかと推察して興味をもつのである︒

諸寺縁起集の当麻寺の条に︑守師.麻呂子親王造之︒西堂有皇瓢糸織浄土観無量寿軽衷長︸

丈五尺︑広一丈二尺︒

また同築に引用する﹁極楽反極押略愛陀羅日記﹂に﹁極楽九品

宝樹之変柧﹂とみえ︑﹁迩糸変相﹂を化人が麻呂子親王夫人 で︑次に説く当麻曼陀羅をも含めて︑我が国の浄土変は敦煙に遺存する浄土変と比較討究すべき問題もあるであろう︒

9

よこばぎに与えたよしの伝説をしるす︒横偲大納言息女中将姫の説話

はこうして成立し︑﹁当麻員茶羅縁起絵﹂︵十三世紀後半成

立か︶も作られ︑中将姫物語はひろく我が民衆社会に語り伝

︵鯛﹀えられた︒この愛陀羅は典型的な阿弥陀浄土変で︑槻経変を

伴ったものであるが︑実叡の﹁南部巡礼記﹂によると︑后宮

が処久二年南梛巡礼のみぎりに当麻寺に脂り﹁愛陀羅ヲガマ

セオハシマスペキニ︑日ノタダクレニクレテ︑絵殿ヲパトヵ

セヲワシマサズシテ︑此寺ヲ・ハイデサセ袷テ︑滝田河ノ上ヲ

ワタラセ拾﹂とある︒この﹁トカセ﹂の逝何と解すべきか︑

絵殿を附く意かとも思うが︑﹁曼陀羅を解かせ﹂の意で︑絵

解にもとられなくはない︒天平のころの人︑中将姫にまつわ

る化尼織成の伝説は鎌倉期の成立といわれるが︑誓願寺縁起

ことわりに﹁この当麻の浄土の曼陀羅に化尼が出現して絵相の理を

一々説き示した︒中将姫や和泉式部はその絵解きに随喜した

︵取意ととある・

智光曼陀羅は︑南都元興寺中院極楽房が智光・頼光法師の

住房で︑愛陀羅太子堂があり︑浄土曼陀羅を安置してあった

︵抑︶が大破し︑西行法師が勧進して修復したという︒従って﹁極

︵卵︾楽房ノ智光ガ浄土ノ愛陀羅﹂ともよぶ︒将光はGgI圏ご

こるに示寂した佃であるが︑今昔物語梨によれば智光が﹁弥

陀ノ椛好・浄土ノ莊厳ヲ観ジテ・・・⁝仏︑即テ右ノ手ヲ挙テ︑

蛾ノ中二小サキ浄土ヲ現ジ給フ﹂と夢にみて︑さめて忽ちに

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カケ絵師を呼んで浄土の棚を写さしめ︑﹁其ノ写セル絵像ヲ係テ

︵︶其ノ前ニシテ念仏ヲ明へ柵ヲ行う邪子吟今不絶ズ﹂という︒世

間は争ってこれを摸写し流伝せしめたので︑愛陀羅堂におい

ては当然絵解唱導がなされたはずである︒

清海員陀羅は平城天皇皇子典如法親王建立の大和の超昇寺

の法花三昧堂にある浄土曼陀羅である︒下銘に﹁沙門清海為

し泰図轌絵極楽浄土井両界愛茶溌召一審女屋令職一議綱糸功

了納陛匪︑蓮花坐現︑感慨瞳し忘︑芽取彼棟託令レ画昼外像沁絃拝将

知咳之︑干し時災徳二年噸十月廿二Ⅱ﹂とあるよしを硴寺縁起塊

はしるす︒迩糸で織成した﹁極楽ノ反︵変︶ノ万ダラ﹂︵浄

土曼陀羅︶であること︑またこの出現した蓮花を化人が来て

外縁に写したという伝説はすこぶる当麻曼陀羅の縁起伝説に

ちかい説話であって︑浄土変曼陀羅が絵解きされるときに語

られるにふさわしい霊験説話といえる︒

当麻愛陀羅に中将姫伝説が伴い︑智光型陀羅に将光頼光説

話が伴い︑消海愛陀羅に辿糸撒成蓮花写生魏括が伴うこと

は︑かかる浄土変棚が絵解きされた時に︑因緑轡喉の娩播と

して語られたいきさつを物語るように私には思われる︒

平安前期は主として密教が宮廷貴族の信仰を支えるから︑

いきおい智織階級の文学であるところの日本漢文学の世界に

10

は西方浄土の僻仰はさほどいちじるしくはあらわれない︒し

かし天台系典門系辮教教団の中から︑漸く浄土敬的傾向もめ

ばえ育ってくるにつれて︑西方浄土讃仰の投影も文学の上に

あらわれてくる︒

︵⑩︶先ず道真の願文︑例えば寛平八年源融の周忌法会顛文の中

に﹁弥陀仏に帰依し﹂嵯峨の棲霞観に新堂を造営し︑﹁西方

の一仏︑勧消して本尊に術ふ﹂という︒平安後期に続出する

阿弥陀堂の様式萌芽かもしれない︒阿弥陀経#写供養の妃邪

が彼の願文の中に頻出するがそれも法錐経や金光明縄などの

諜写の一頭として見えるにとどまる︒無最が仏即ち阿弥陀仏

図絵造立供養も散見するが︑それも弥陀一仏を専念に供養す

るに至らない︒また往生浄土の考えや来迎摂引の思想もまれ

︵側︶に見えるけれども︑その浄土は必ずしも西方弥陀浄土でな

い︒愛陀羅造写供饗も出てくるが︑それも毘臓遮那員茶羅で

あって極楽愛陀羅でない︒要するに道典の願文l作品群ひい

て遊興自身の倣仰の中に西方浄土佑仰は強く出てこないと

いえよう︒かえって彼の岳父たる島田忠臣の蹄に︑

ざいはうたうここら

西方頓を拝し奉る︑因りて持をもて浄土の怠を讃へ

士一つブ︵︾◎

き︾公﹄︾︾少︾十方浄土尽くに厳荘

うち裏に就きて西方い九方に異なる

恒.ふなら見説く国の名を極楽と為すと

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いのも承り聞く仏の寿は無蹴なりと

めづらこと

奇しき禽は合奏す千般の語

宝の樹は交和す衆妙の香われも我亦阿弥陀の弟子なればいた︵嘘︾他生には往きて最も中央に詣らむ

これはどこの西方浄土変相鱸か不明であるが︑前後に台山即

ち比叡に登山して詠じた作があるからあるいは東塔の三昧堂

か西塔の常行堂に懸けられていたのかもしれない︒何れにし

る白居易の前述の繍西方植記あたりの影霧になる作である︒

平安中期に大学寮の学生と叡山の学侶たちが坂本に勧学会

をおこしたことは前述したが︑かれらのグループと共に横川

の携厳院二十五三昧会の念仏築団も出てくる︒源偏の往生要

集そのものが浄土讃仰の文学と見ることが出来ようが︑こう

いうグループから前述の保胤の日本往生極楽記が生れ︑また

具平親王の西方極楽讃も作られる︒

四土二ならじ極楽国

さんじん三身即ち一なり阿弥陀裟婆彼の仏に縁有り

彼の仏裟婆に願有り

からはじまる識文︑中の摘句︑

雌十悪号猶引摂︑甚於疾風排雲霧

錐一念今必感応︑愉之巨海納渦露 ︵⑬︾は朗詠として愛調された︒

イソゼフ十悪トィヘドモ猶引摂スウソプ畦タグ疾風ノ雲霧ヲ披ヨリモ甚シ

カナヲズカソオウ一念トィヘドモ必感応スコカィケンロイルルクトフ之ヲ巨海ノ渦露ヲ納二噸

と朗詠九十首抄に納められ︑平家物語以下の語り物で引用愛

調される︒忠臣の詩が文集の記と同じ素材であるように︑こ

れは敦煙よりおびただしく出土した西方讃の作品群と同じジ

ャンルに属する︒これらを露頭として︑文学糟神の底流とし

て浄土思想が大きく動いてくる︑腺信の影響は源氏物語の後

半︑ことに宇治十帖にしるくあらわれてくるし︑栄花物語の

文章にもそれと指摘できるようになる︒和歌にあらわれると

源氏物語製作のスポンサーとの説も伝わる大斎院選子の発心

和歌染や︑本朝文枠の編者藤原明衡が序を書いた極楽和歌と

なる︒発心和歌染は寛弘九年の典宇序に﹁これ則ち十方浄土

駒こつい

の際に︑遇く往生の心を発し︑九品蓮台の上に終に化生の縁ううを航る所以なり﹂というところをみると阿弥陀浄土に限定さ

れないが︑

いろいろのはちすかかやく池水にかなふ心やすみてみゆ

︽︶らん

と餓えるのは極楽世界である︒極楽和歌真字序で︑ひと立さ八功徳の池の浪蒼々たり︑落つる者は方に不退転に至ら

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む︒七重の宝林の嵐索々たり︑触るる者は自ら無生忍を

こゑ生ず︒衆鳥讃仏の音哀和せり︑誠に裟婆の春の鴬を潮るべ

生どいかん

し︒黄金珊璃の地浄妙たり︑又穂土の秋の野を奈何︒⁝⁝

けだかつが

篭し梼厳院の往生築函建生心に銘じ肝に染みたり︑且つ彼の

︽縄︶文に拠りて章句を仮り︑次第に之を泳ままくのみ︒

というように阿弥陀経に拠って文を行っている︒

末法の懲識が動きはじめると上下の間に危機感と生存の不

安が商まり︑弥陀個仰西方往生の思想が色こぐなりはじめ

る︒世族が阿弥陀堂を鏡い雌てるのもこの前後からである︒

道長が慾んだ法成寺供養の記蛎は栄華物語にあって周知の

ごとくであるが︑まことに

いさごgら

庭の沙︑水輔のやうに閃めきて︑池の水清く澄みて︑色々

の蓮水底より生ひたり︑その上にみな仏あらはれ絵へり︑

仏の御かげは池にうつり映じ袷へり︑東西南北の御堂々々

・経蔵・鐘楼まで影うつりて︑一仏世界とみえたり︒

︵音楽巻︶

というところは西方浄土変相を地上に現出したすがたであ

︵妬一る︒道長の子頼通が宇治平等院を新造した塔供養願文とみる

べきものに︑糸か窪十がた愛に弥陀如来の像を造り︑極楽世界の儀を移せり︒月輪を

ひと礼して手を挙ぐる者は︑引接を八十種の光明に仰がむ︒露あゆぴいたひと︵︾地に臨みて歩を投す者は︑往詣を十万億の刹土に縮めむ︒ とあって︑阿弥陀堂すなわち鳳凰堂は極楽世界の現出であることに言及している︒また北方の王者たる藤原溶衡が平泉に中尊寺を造営した時︑敦光が落慶供養願文を雌したなかに︑

反橋一道廿両

斜柵一道十問

逓頭遡首画船二盤

左右楽器大鼓舞波束冊八只

右山を築きて地形を墹し︑池を穿ちて水脈を貯ふ︒草木樹

つ今ワ林の行を成し︑哲殿楼閣の度に中れる︑広楽の叶卿を奏

げうし︑大衆の仏乗を讃する︑傲外の蛮欧たりとも︑界内の仏

︵鴫︶土と調ひつくし︒

とある︒園池伽藍の苑池に架せられた反橋・斜橋は︑門や築

垣と共に敦煙画の西方阿弥陀浄土変相にさながら描かれると

ころ︑近時板橋源博士によって発掘され︑金堂跡の前方に反

橘・斜橋の橋脚を発見し︑浄土の蓮池に天女の妓楽の舞ふ舞

︵ぬ︶台が営まれていたことが明らかになった︒金色堂をはじめと

して東奥の地に極楽曼陀羅の世界を現出せしめたのである︒

江都督匡房の願文をよむと院政期における白河の法勝寺・

尊勝寺をはじめとして綺羅星の如く新造された阿弥陀堂︑常

行堂の輪英の美をみると︑当年の椛力機構が如何に西方変の

地上現出に梢力を傾け︑その威力を誇示しようとしたか︑思

い半ばに過ぎるものがある︒

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ごとくしるす︒

( S )