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﹃・8︶近刊の﹃日本洩文学史論考﹄にわたくしは﹁わが国の
題画文学について﹂の拙文を執筆し︑主として本朝世俗
の題画詩や画讃をあとづけてみたのであるが︑ここでは
中国題画文学をわが国におけるそれとのかかわりにおい
て概観し︑題画文学が唱導●又学にわかちがたくとけあい
ながら︑展開してゆくあとを追求してみたい︒
楚辞の離騒の中の一篇﹃天間﹂に王逸が序して︑
屈原が山沢を紡穐しているときに︑楚国の先王の廟
や公卿の詞堂に行き︑その中の装飾として天地・山川.
神霊などのあやしく珍しいかたち︑古の聖賢や怪物・
行事を図画してあるのを見た︒彼は段れはてて︑その
下で休息し︑仰いでその図画を見つつそれに触発せら
1 題画文学と唱導文学
れて自分の思いをその壁に書きつけ︑心中の憤憩をも
らし︑愁思を吐きだした︒楚人がそれを哀惜してその
文句を染めて後に伝えた︒
この王逸の説はそれほど信剛していいか問題はあるが︑
朱子はだいたい肯定して自説としている︒要するに耳目
の官能に触れたものは︑心に感動をひきおこし︑それは
何らかのかたちで表出せずにはおれない︒目に触れた絵
画や造型物は芸術的な感動をひきおこして魂をゆりうご
かすと︑何らかうたいあげ表現することを誘う︒こうし
て時もしくは散文のかたちで︑図画に題して作られた作
品をかりに題画文学と名づける︒
天間のなかに画の題材とおぽしい描写がすぐなくな
い︒例えば
毘術懸圃其唖確熊鑿錘くにか在る こんろん
川
口久雄
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増城九重其の高さ幾里ぞI
いづ何れの処ぞ冬も暖かなる
何れの処ぞ夏も寒きや
いづく鴬にか石の林有る
いか何なる獣か能くもの言ふ
いづロく潟にか乢施ありて熊を負うて遊ばむ
台しゆくこついづく雄池九首ありて億忽として潟にか在る
たけ何れの処か不死にして長たかき人何をか守れる
ここに展開する世界は︑中国の西北毘儘山の神仙郷︑紫
砿の奥につらなる五城十二楼の大最観︑石木の林と言語
する奇獣たち︑熊を背おって遊戯する無灼の剛︑九首の
蛇︑不老不死国の巨人︒まさに山海経図にみるような神
話的世界の神怪なイメージ︑准南子にみるような西方へ
の幽玄な思慕の幻影である︒楚辞には九歌にみるように
輝曲的契樋によって成立する筋もあるが︑これは絵画的
契機によってかきたてられた想像力の展開したものであ
ろう︒九世紀のわが勅撰詩集の題画詩に︑﹁蓬莱方丈望
つみ悠なるかな﹂といい︑﹁雑花冬も鍬きじ殻雪夏もな
ほし残れり﹂といい︑笠禽百貌・異木千名の仙郷を揃写 しているのは︑天間的世界と通い合うところがある︒
巨笠倣負として峯を鰯みて出づ
神臨即ち蔵れて鳥を背にして起る
というごときも似ていなくもない︒唐絵画壁の山水の
大画面を賦したわが九世紀嵯峨宮廷詩人の雑言の長句題
凹詩がその発想において楚辞の天間の世界と似ているこ
とははたして偶然であろうか︒
さて青木正児博士によれば︑題画詩は次の四つのジャ
︽令ら︶ンルに大別される︒
1画識画像の上に題する像賛を主とする︒多く
は四首の制文である︒
2題画詩絵画に題する詩で︑五言・七言︑古体・
今体などがある︒題画の辞賦や填詩もこ
れに準ずる︒
3題画記絵師が自ら絵を描き︑縁起や嘘想をこれ
に自記するもの︒
4画鮫他人がその画や絵師について感想をしる
したもの︒
12は有釧の時︑34は無剛の散文である︒
3
先ず中国では画調は戦国時代からあるという︒前漢の
戯麟閣︑後漢の明光殿に功臣烈士の像を描き讃を題した
ことは有名であるが︑わが弘仁朝において︑紫哀殿の賢
聖障子を画かしめ︑仁和朝において清凉殿東西障子にわ
が国の詩人鴻儒の像を画かしめたりしたのはこれに対応
する︒しかし画識が作りそえられたかどうかは明かでな
いが︑銘文や詩などが色紙形に書かれたらしい︒洩末か
ら六朝にかけて魏の曹植の﹁漠明帝殿閣画讃﹂や︑夏侯
湛の﹁東方朔画賛﹂や︑陸雲の﹁栄啓期讃﹂などがあり︑
史上の人物の肖像に賛伝を題したのである︒さらに郭瑛
の﹁爾雅図讃﹂や﹁山海経図識﹂など泳物の図賛も作ら
れ︑これは文選に収められる像笹とともにわが国にはや
くもたらされて親しまれていたようである︒四言八句の
人物賛や動植物器物等の図讃はわが国でも嫌式を摸して
作られる︒
第二に題画詩は︑右に述べた画賛や六朝の詠物詩︑例
えば北周の艇信の﹁詠屏風詩二十五首﹂のようなものか
ら展開して︑唐代の中ごろから発述した・玄宗時代の人︑
腫洲の﹁草堂十志図﹂が鼠も早く︑ついで張九齢・杜甫︒ 李白などの題画時が先雛となる︒草堂十志図歌は十首の連作で楚辞の体にならっている︒杜甫・李白の山水図歌
︵■&︶のたぐいは前述の拙論文にも引用したところであり︑こ
の後末・金・元・明と時代がくだるにつれて次第に盛ん
になって行くことは︑服煕四六年序をもつ﹃御製歴代題
︵全①︶凹時類﹄一二○巻を見れば明かである︒八千九百余首︑
天文・地理・山水以下三○類に分ける︒服煕の序によれ
ば﹁坐したまま山川険易の形を目前にみるようだし︑往
昔の故事のあとから︑農耕麓織や難犬桑麻のことまでさ
ながら見えるようだ﹂とたたえている︒李杜の山水題画
詩は唐絵山水を詠じている点で︑わが嵯峨朝の山水歌と
似ていることはかつて論述したところ︒また詠物時はわ
が平安詩に応々見られるところであるが︑杜甫の剛馬・
画慨の題画詩は︑画にとどまらずさらに真馬・真騰に言
及し︑あるいは主観的議論をまじえるものもある︒わが
経国集の詠物賦もそのような性格が認められる︒一般に
題画詩には絵画の画象に即して︑その絵を職美しなが
ら︑その憎衆を写実する客観的な行き方のものと︑絵画
に触発せられて︑自由に思索や批評を展開する主観的傾
4
向のものとあるが︑わが古代題画詩は主として前者のも
のが多い︒わが国の人物画讃の題画詩には︑三史寛宴の
泳史詩と性格がちかづいてくるものがすぐなくない︒
第三に題測紀は絵師が自らその絵の縁起を自記するも
ので︑六朝にはじまり︑王維の﹁故庇右丞宅中有壁画山
水︑兼題記﹂や慈恩寺に沓いた呉道玄の﹁画井自題﹂の
ようなものをさす︒わが国でも天寿国曼茶羅銘記のたぐ
いはおそらく絵と銘文とを同一の人物が書いたかと思わ
れるが︑中国でいう題画記とはややちがっている︒仏教
系の絵凹には秘文や偽頌を題することが多く︑呉道玄も
平服坊の菩磁寺壁に智度論色偽の変を伽きその偶を目題
している︒わが国では詩画の両方を兼ねる達人というも
のは多くはいないように思われるから︑こうした本来の
題画記といったジャンルのものは中世の禅画や近世の文
人画の出現までほとんど存在しない︒
第四の画駁は唐代に殆どなく︑末以後に見えてくる︒
へ■︒︶明の郁逢腱の﹃沓画題蛾記﹂十二巻にそうした資料が災
められているが︑明末以後に急激に艦行したらしい︒
要するに題画文学はその淵源ははなはだ古いが︑それ が社会的な需要によって盛に作られるようになるためには︑民度の上昇︑庶民文化の普及をまたねばならない︒北宋中期以後︑蘇東波・黄山谷以後に中国では眼をみはるほどに盛行することに対応して︑わが国でも平安社会で部分的に都郡にみられるが︑真に盛行するのは五山禅林の文化圏においてであり︑江戸文人グループにおいてである︒
中国の題画詩では︑王維や貫休のように詩画のふたつ
にまたがる名手が出てくるが︑わが国では菅家文車の屏
風詩にみるように︑衆材を撰定する学者と︑それを時に
賦する文人と︑その詩の世界を剛く剛師と︑時を淵書す
る名筆と︑それぞれ分担共同製作をする︒また我が国で
はやがて唐絵から倭絵に推移し︑倭絵屏風の題画文学た
る屏風歌が盛に作られるようになったことも見のがしえ
ない点であり︑ことに絵画と文学とがヱトキを媒介にし
て庶民社会に爆発的にのびて行ったことも注意しておか
ねばならない︒こうしてわが国では題測文学はいわば唱
郡化して行ったのであるが︑そういうちがいがあるにも
かかわらず︑元明間に出た越子昂の水村図に四十家が鋤
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詩を題すれば︑わが室町期に出た如拙の瓢麓図には三十
数家が詩偶を題するのである︒明清の趣味傾向は面ちに
わが国にも波及し続けて︑江戸文人画の題画文学も作ら
れ続ける︒
なお題画文学の余波として一言しておきたいものがあ
る︒絵師が絵を画くことは︑造間師が石を組み革堂を築
くことと似ている︑時に巨勢金岡のようにその両方を兼
ねる芸術家もすぐなくない︒画に詩文を題することがあ
るように山荘・林泉に詩文を題することも多いのであっ
て︑山荘記・草堂記といったジャンルが題画文学と一脈
通いあう性格をもつ︒王維の網川図は頓川集二十首の詩
に対応するのであるが︑杜市の混花草堂・白居易の香山
草堂の題画詩もあり︑李龍眠の塊眠山荘図・仇遠の山村
隠居図巻欽などもあるように︑わが国の諸家の池亭記や
草堂記なども山居思蕊の生活態度において︑題画文学的
要梁をもつのである︒長明の方丈記や芭蕪の幻住蠅記も
またそうしたものの性絡や描写の旅れにおいて考えるこ
とも可能であろう︒ へ侭︾︾空海の作品の中に﹁勤操大徳影讃﹂がある︒真済の陳援本は逸して︑今岡は続性筵災補閉築に収められるが︑間野山併門院所蔵の勤操伽正影一紬の上にこの識があり︑讃剛ともに空海の典鎖と僧ぜられているから︑空海作とみていいと思われる︒助操Ggl隠弓は空海にとって沙弥戒の師である︒先ず序の散文は勤操伍の体式をもち︑出身・生誕・行歴・性格をのべ︑その示寂についで自分との関係に及び哀悼浦笑する︒讃偶は七言十顔︑上平十一瓦の韻︒天長五年示寂後一年の作である︒勤操は自ら浴仏の和讃を作り︑伽陀の曲譜を製し︑唐楽を奏し︑仏名会を行い︑法華八誠を演じたという︑いわば唱導の先逮に対して︑空海は心をこめて唱導の讃偶を捧げたのである︒その影職は
由しら松柏醐々として猟の声切なり
育鴛の妙法は誰に向ひてか陳くむ
の句で結ばれる︒像讃の題画文学であるとともに仏教唱
導文学に外ならない︒空海にとって︑讃の一句は単なる
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題画の文学ではなく︑亡き先師の菩提をとむろう心をこ
めた供謎の意味をもつ︒﹁山中何の楽しぴかある﹂の詩
の中で︑
にぎり時花一掬殿一句
というのは︑鋼のもつ意味をもっともよく説明してくれ
るであろう︒
賛もしくは職はほめたたえる意で︑﹁文体明弁﹄によ
れば三つに分翻される︒その一は雑賛︑人物・文章・沓
画の賛の類︒その二は哀賛︑人の死を哀しんでその徳を
賛えるもの︑勤操賛はこれに当る︒その三は史賛︑批判
褒睡をもってする︑史書の賛の類で︑何れも四字句にし
たてるのがたてまえであるとある︒
︵6︶︵7︶
具平親王の普賢菩薩讃井序や藤原明街の羅什三蔵賛
も︑おそらく像賛であろう︒大江匡房の大唐大慈恩寺大
︽︽ロ︶師画讃は大作というべきであろう︒萩野三七彦氏は近く
︵9︶法隆寺本を紹介せられ︑それには首部に﹁特進行門下侍
郎兼銃西員外都督江満昌文﹂と署してある︒江満昌は大
江匡房の唐名である︒二︽ズノワニフノフニ︽ス毎月必造慈氏像一生偏慕兜率身毎日必罰菩薩 タシアイナワメヲ戒唯杖木刃制波旬
の後聯二句が流布本に脱しているのである︒
眼に紫電を浮べて翼の天の影
面に索蛾を駐めて秋の夜の輪
とあるような秀麗な慈恩大師の容貌が描かれていたので
あろう︒匡房はこのほかに釈迦如来淑・弘法大師蝋・慈
恵大師讃・聖宝理源大師猫なども作った︑これらはおそ
らく肖像賛であろう︑像賛でない祭慈恵大師尊笠文と
は区別せられるのである︒なお高美倫や械在列の﹁三朝
︵銅撫通報︶国師智証和尚讃﹂が天台霞棟にみえている︒
高は高丘氏か高階氏か︑この唐名は未勘である︒厘房の
往生伝によれば慧心僧都の真影を海彼の宋人が求め︑延
円阿鬮梨が図して渡し︑彼の土の人はその影像を﹁楊厳
院源信如来﹂と称して拝したという︒また成尋阿閣梨の
︵ぬ︶影に対して訳経証義文慧大師智普が像賛を作っている︒
大原の勝林院に﹃諸大師画讃﹄写本一帖がある︒表紙
じうらに﹁魚山書︑勝林院覚秀﹂としるす︒中に﹁陳附こたい銚んらこう代三朝国師天台智者大師画賛﹂︵顔魯公︶・﹁耶馬蕊推
どうとんかう古御宇儲君上宮太子讃﹂︵藤敦綱︶・﹁天台慈覚大師徳
7
かういげん行讃﹂︵江以言︶・﹁浄土典宗第三祖師大唐善導和尚画
へいむしん讃﹂︵平基親︶・﹁兜率天上当来導師弥勒菩薩下生讃﹂
︵作者名を快す︶の五篇を収め︑奥に
本書在干実光院
天保九年皮十一月於大原勝林院書写之畢覚秀
としるす︒何れも漢音直読のものとみえて︑キヘイチキクワロウ基名智顕花容人︒︒◎◎︒︒◎
︒◎というような漢帝を片仮名で傍注し声点をほとこしてい
る︒像鋳・影鋳というものは邪実もっと多く作られたに述
いない︑紐国災にある良岑安枇の拝撞和尚像の詩一前
は︑艇澄像錠の性桁をもつ︒
高仙祖師の影識から仏像仏画の讃になるとさらに通約
に多くなる︒陳の沈約に繍像賛井序があり︑唐の王維に
西方変讃井序や紬如意箔像讃井序があり︑白居易に繍西
方頓讃があるが︑我が中宮寺の天寿国愛茶羅銘は一種の
繍浄土変讃ともいえよう︒白居易には繍阿弥陀仏調や画
弥勒上生頓讃や水月菩薩賛などがあり︑網観音菩薩賛井
序は愛弟白行簡の菩提のために救苦観音像をその妻が製 推古以後︑造像背記や塔擦鑓雛銘・梵錨銘の類は︑有韻と否とにかかわらず︑願文的性質をもつもの︑また奈良刺の朝野に行われた写経の践文も願文の範癖に入れてもいいかと思われる︒例えば天平十二年五月光明皇后一切経賊︵疵鰄院︶や天平勝宝五年正月聖武天皇勅願書癒澤どのごときは︑願文と異ならない︒願文の名称は
天平勝宝八年六月皇太后奉為太上天皇捨国家珍宝等入束 作したのであって︑中宮寺の天寿国変相の成立事惜と似なくもない︒これらの繍帳がいかに大がかりのものであり︑真剣な熱意で作られたものであるか︑私はかつて大英博物館の壁上にかけられた総西方変を見上げて良歎息したことが忘れられない︒白氏文集にはさらに画大羅天練讃文二筋・面元始天尊識伸序などが収められる︒白氏は﹁非図像無以示儀形︑非供義無以展厳敬﹂という︒こうした意味から作られる倣擬は︑もはや故人の追福のため仏像を迭立図写して供鍵する願文とほとんどちごうところがないくらいに接近してくる︒
3
波とみられる︒
﹁本朝文粋﹄には祭文・呪願文・表白・発願・知識
・廻文・願文などが巻十三・十四にわたり四三篇を収め
る︒法華経供誕が著しく多くなる︒敦煙資料には法花経
廿八品誇があるが︑法花経を題とする作品としては調法
花経廿八品和歌序も収められる︒杏閲題殴巻九には浄土
調が収められ中峠和尚が一○八首の偶︑その浄土詩の系
讃として趙子昂が浄土識を作っているが︑わが後中沓王
の西方極楽讃の如きは︑はるかにこれに先んじて作られ
た西方浄土変の題画讃と考えられようか︒
院政期に入ると︑﹁算師毛知︐能ハゾル﹂数量の潅大を競
いあって造寺造塔︑造像写経の供養が営まれたから願文
の数も飛曜的に多くなる︒続文粋には巻十二・十三に二
八篇を収めるが︑明衡・敦基・敦光・実範らが作者とし
て活動し︑中でも匡房の活動は眼をみはるものがある︒
﹃江都僻納簡願文災﹂は全部六巻︑帝王︑仙院畑︑
后妃8︑大臣6︑諸卿胸︑女人胸︑尼公加︑上客蝿︑庶
人蝿篇︑全部一二三篇を数える︒末法不安の社会とはい9︵M︶え︑まことに驚異的数字である︒造寺造仏の異様な高ま りはそれを可能とする経済力をもつ受領層の拾頭を促す
︽唯︾ことは平家物語の開巻平忠盛の得長寿院造進の条にみる
ところで︑匡房は忠盛の父丹後守正盛堂供義願文を作っ
ている︒同時にこのおびただしい造営蛎業は必然的に仏
師・絵師たちの活動を刺戟する︒院政期以後純招而の蝿
発的な商まりはこうしたことに一つの原因があるかもし
れない︒法会仏躯の盛行は脱話鴫郡文学の腿朋を導く契
機となったことも考えられる︒願文寅料はこうしたいき
さつを生き生きと伝えてくれる︑その盛んな悩況の一端
を白河院北斗曼陀羅堂顯文を一例としてひいてみると︑
この時木像北斗愛陀羅・一宇金輪仏頂如来・北斗七星・
九執晒天・十二宮神︒二十八宿等の像すべて五十六組が
造られたのである︒江願文集には曼陀羅としては︑両界
愛陀羅4︑仏眼愛陀羅l︑金剛界理趣会愛陀羅1︑三千
仏愛陀雑1︑極楽迎接愛陀雛3節法錐鍵陀縦6︑極楽浄
土変愛陀羅3などが図写されたことがみえる︒両界愛陀
羅一枚といってもそれぞれ五幅に及ぶものがあり︑その
壮観や想察すべく︑その他大日・釈迦・薬師・弥陀等の
如来︑弥勒・普賢・文珠・千手観音・地蔵等の菩薩︑大
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威徳等の明王などの仏画が造写されたことは数えたてら
れないくらいである︒匡房個人としても極楽迎接愛陀羅
1回︑金剛胎蔵両部愛陀繩3回も画かしめて供謎願文を
作っている︒
願文はさらにこれら供謎法会の茨厳について叙述す
る︒例えば大鏡の蒋者かと推定される源顕尻の兄堀河入
通左府俊房持仏堂供挺願文をみると︑草堂に安概した迎
接の仏像について︑
そぴら八尺の中尊︑千〃の光を放ちて︑五饗の背に乗りたま
のひ︑一尺の脇侍︑百幅の僻を巾べて︑九品の頂に送り
たまふ︒音声の大士は盤鼓を採りて前に立ち︑画図のしらしりへいま列仙は︑絲竹を調めて後に在す︒
と活写する︒この草堂を叙述するところに一種の普斎
記・池亭記の要紫もなしとしない︒
これらのおびただしい愛陀羅は愛陀羅供講式の唱導文
学をうみ出すことはいうまでもない︒
︽い︾願文は正に﹁文字に荘厳せられたる一大浄土﹂を鍔鋸
させるもの︑信仰祈願を目的としながら︑技芸世界とふ
かくかかわり︑甘美な美意識と感傷的な想像力を誘うも 西方変和・極楽愛陀羅の世界は︑源氏物語や栄轆物譜にも捕写されて︑美しいパラダイスの幻想を展開して︑王朝文学の世界に妖しい魅力と瞑想的な気分を導く︒一方和泉式部はこれに対立する絵すなわち劒につらぬかれる亡者の盗を見て畏怖し︑都の人々は東山の長楽寺の地獣絵の画堂に参詣して戦傑の思いを新たにする︒地獄変の壁画︑地歓絵の屏風︑地歎めぐりの縁起絵は仏名倣悔や悪霊をなだめる祭俄の調度として欠くことのできないものであった︒
パラダイスの幻想よりも︑人は地獄絵の凄惨さに深刻
なショックをうけた︒芥川鮒之介の小説﹁地獄変﹂︑斎 のである︒叩なる信仰をこえて芸術的な官能的陶酔︑文芸的な気分の魅惑につながりやすい︒法花経を写すにし
︹M︶ても白氏文典を写すための華賎を転川したり︑平家納経
のような意庇をこらす︒撞惣の願文我白に脈氏一品経や
貝合供餐炎白があるのも︑物語や遊戯と倣悔追福のいと
なみとがわかちがたく砿合した姿を示すように思う︒
4
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腫茂吉の短歌述作﹁地歎図﹂をまつまでもなく︑地欺変
相のイメージは今日の人々にも何らかつながりをもたな
いではない︒日本人の輔神形成に往生要築変相は何ほど
かつながりをもたないであろうか︒後中書王の西方極楽
讃をはじめ︑長秋詠藻下に﹁極楽六時讃の絵にかかれた
る﹂の詞書がかたるように浄土変の絵や歌があったこと
に対応して︑地獄変の題画詩︑もしくは地歎の畏怖をう
たった詩や歌を多くもつ︒さらに地獄絵を拡大して︑六
道図というものをわれらは古くからもった︒
地獄の畏怖をうたって︑人々の心を戒しめようとした
唱導的意識をもった作品としては道真の仏名倣悔会の長
持があるし︑いささかその製作について問題があるが︑
空海の続性霊災補閑抄巻十にみえる九想詩も六道の苦を
うたって世間の無常を詠えている︒何よりも源信の﹃往
生要災﹄こそ地歎の畏怖と浄土の至楽とを︑映画的なモ
ンタージュ手法によるかのように鮮烈に描写している︒
これらが何れも唱導的な役目をにない︑絵画に画かれて
貴族や民衆の間に浸透していったことは小著﹃平安朝日
本漢文学史の研究﹄でも叙べたところである︒ われらは﹃全店詩﹄をひもとき﹃歴代名画記﹂をひもとくとき︑そのかみの艮安の寺壁に耐かれた数々の変相とそれをうたいあげた時の存在することを知る︒例えば常楽坊趙溌公寺の南中三門裏東壁に呉道玄が地獄変を画
くらいた︒﹁筆力勁く怒り︑変状隆く怪しく︑これを観るひ
いただとは毛戴くことを覚えず︑呉画の中︑股も得意のところ﹂
とある︒その三階院西廊下に苑長寿が西方変と十六対観
とを画く︒﹁宝池妙絶にして︑これを諦観するときは︑
水浮壁に入るかと党ゆ﹂とある︒また西中三門の裏門の
かいつくろ南に︑呉道玄は龍を画き︑天王が頚を刷うところを画く︒
いす﹁筆蹟鉄の如く︑執炉の天女が眸を親みて語らんとす﹂
とある︒長安の諸寺を歴覧して﹃寺塔記﹄を書いた段成
式は持友の張希復・鄭符・昇上人たちとともに聯句を興
行している︒呉画聯句
惨漕たり十歩のうち脆夢松Lいま立呉生狂れたる跡を縦にす
風雲まさに人に週らんとす
い神鬼壁より脱けいづるが如し段成式︵下︶
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白骨にいたる屍体の変化の状を叙くる︒空海の九想詩は
いわばこの敦煙本の後の四想をさらにくわしく階段づけ
て展開したものといえよう︒敦蝿本の九想観詩には軍
葛篭︾p哉雪︾Pg患︾⑩.霊望があり︑それぞれ異文で
あるが︑これらの生帥の変化推移をうたうものは︑同じ
く敦煙俗文学の中にある百歳詩のパターンをつずめて五
想にしたものともいえよう︒百歳詩には女人百歳篇・丈
夫百歳篇・細門百歳篇などがあり︑十歳より百歳にいた
る人生の転変の姿を十年きざみにうたいあげたものでこ
うしたものはフランスの民俗資料の中にも版画として通
行したものとパターンが似ている︒これらについてはか
︵鴻︶って小論で箇及したこともあるので再税しないが︑空海
の九想詩が間接的ながらそうした俗文学のジャンルをう
けつぐことは興味のあることである︒空海の九想詩は︑
しかし直接的には仏典の説にもとづくもので法華玄義や
大乗義牽の九想の次第にちかいが︑一致しない︒伝来波
作の九想詩に蚊も似ているといえよう︒﹃性笠災便蒙﹄
において迎敞が注して︑﹁或人がいうには︑此の荊は大
師の文ではない︒大唐階郡開元寺廊の南壁に書いてあっ たもので誰の作か知らない︒また或人がいう︑この中第九の成灰想の詩だけは開元寺廊にあって︑他は大師の草である︒また或人がいうには︑全篇大師の製作だ︒﹂とある︒いまその第三の背振相をひいておく︒
うだただ
日従いて転た燗るることを燗す
あらた鈍のイか玄ゆ月来りて更めて自ら黛つくる
倉蹴電砂巳は砿の舞舞趣苧
罐ね背蠅は慨の上に飛ぶ
昔日の愛を尋ねんと欲するに
一たびは悲しび一たびは槐づくし
こういう発想は三教指州にすでにあったところで︑美人
も死ねば燗域し皮肉が黄赤に露出し青黒くくされかかる
あや姿と変ずる︑として︑奇しいくらいに生ま生ましく人間
の欲望の問題を考えさせようとする︒
九想詩には伝束波作の諺解にも︑独庵玄光の﹃般若九
想図賛﹄にも︑何れも絵を挿入しその画賛として詩偶を
添えている︒このように絵をもって九相の変化を示すこ
とは往生要築変相の掛梱のシリーズに収められて︑小野
小町盛衰の姿︑美女が死んで野に捨てられて屍体が九変
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する相を描くことも応々ある︒例えば金沢の照円寺のい
わゆる地歓極楽図の中にそうした六通図の二軸があっ
て︑一軸は盛んなときの美人小町が商機の棚によるとこ
ろと蔵荻の中に杖にすがって立つ老醜の小町を対照的に
描き︑一軸は桜花のちる野末の小川のほとりに美女の屍
が捨てられて次第に変じて白骨になるさまを描く︒この
後者には色紙形に﹁人道﹂としるす︒これは滋賀県の聖
衆来迎寺蔵の六通図とちかいもので︑ただ袋形と山波で
段落するところをこれは曲って流れる細流で九変を次第
している︒またこの二軸を一つにしたものは京都の慈照
寺の小町九想図で︑これは小町の盛容を写し︑死床から
九変して率都婆や石塔図で終る︒聖衆来迎寺本の色紙形
の焚文に人適者有口相□□ロロロロ
人身中諸不浄盈満︑七重皮崇
六味︑長養自性︑蹟墹臭稔非一
況命終之後︑梢陰薮間︑経一日
七日︑其身腱脹︑色変皮穿︑未見此相︑愛染甚強︑若
︵肥︶見此己︑欲心都罷 とある︒九想詩は絵とともに成立し︑絵と相伴ってヱトキ唱導されたと思われる︒
空海より約半世紀以前︑天宝の詩人包倍は阿倍仲麻呂
を見送って鰻別の詩を作った人物だが︑彼の作に︑
観壁画九想図
一髄の栄枯異同無し
百年の哀楽また空に帰す
夜剛け烏鶴相争ふところ
︵︾林ドの真僧定中に在り
というのがある︒九想すなわち人身の九変するさまを画
き︑九想を観じて妄想を対治し浬桑をえんとする林下真
僧入定図を以て結んだ壁画を詠じたかと思われる︒空海
が九想詩を作ったとすれば︑おそらくこうした唐社会に
旅行したであろう九想観壁画とか︑民間にうたわれたで
あろう九想観詩のたぐいに触発されたものかと思われ
手︵︾︒
平安朝の中ごろから浄土変や地欺変とともに釈迦八相
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を絵画に描くことが漸く多くなる︒それとともにそれら
の変相を前にして謝会が他され︑それらが絵解きされ
た︒寛和期の源為憲の撰した﹃三宝絵﹄には例えば叙山
の霜月会に天台智者大師整応図を堂の中にかけて︑朋述
の顔魯公の作った天台大師画熾をフシハカセによって演
唱し讃歎したことが見えている︒これら影像も画銭も妓
澄が唐から将来したものであった︒奈良の束大寺尊勝院
旧蔵の天平時代にもたらされた唐人典蹟古妙本の中に麻
賎綺帯の古香めでたい残巻一軸があって︑﹁画図讃文巻
︵喝︶第廿七﹄という内題をもつ一巻がある︒その内容は
田第二十一図讃聖迩住法相過去三仏本生地全散舎利塔
僻第二十二図讃聖迩住法相此神州感通育王瑞像
③第二十三図讃聖迩住法相此神州仏立琳感通蛎迩
の三章より成り︑内藤湖南によれば側は法顕玄笑の西域
旅行妃にみえ︑②側は店の道宣の災神州三宝感応録や芥
の寛陵王災・王寧朔災に見えるよしで︑魏の凹械の画讃
以来の伝統であり︑仏教系の画調唱導文学が天平にすで
に我が国に来ていたことは注目すべきである︒しかし変
相や祖師高僧影が描かれて法会の荘厳として多く展示さ れ礼拝供養されるに至ったのは源信が往生要集を撰し︑また自ら六道識式︒二十五三味式などを作ったころあたりかららしい︒
誠式文学の一つの典型は四座珊式だといわれる︒四座
辨式は浬盤洲式・繩淡辨式・過跡醜式・舎利郷式の四座
から成り立ち︑明恵上人間弁が栂尾高山寺で作ったもの
で二月十四日の初夜から翌口にかけて浬桑会に際して訓
唱される漢文体で声明のフシハカセのついた唱導文学で
ある︒四座講式に際して浬桑図が正面に懸けられる場面
は金田一春彦博士﹃四座講式の研究﹄の口絵写真に高野
山金剛峯寺の常楽会の模様が見えている︒詳しくは精細
︵胴︶な金田一氏の前掲書の研究を参照していただきたいが︑
私は福井県丹生郡の劒神社所蔵の亜文大画面の浬梁図を
調べているうちに︑その附属の縁起古写本の残巻一軸
が︑四座跡式中の浬築鋼式であることを知って辨式と変
相とのかかわりについて改めて注目した︒金田一博士醤
附録︹ご元禄版四座識式の二3行より八5行に至る部
分で本文並にふしはかせは殆ど一致する︒但し漢語の訓
仮名は少い︒梅津一郎氏によれば八相変を左右の縁辺に
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︵鋤︶もつこの浬桑図は鎌倉中期に遡る秀作だという︒附属の
狸築獅式残巻の杏写も従って鎚倉中期に遡りうるであろ
う︒梅津氏がいみじくも指摘されるように卿式には一面
絵解の性質が含まれていると思われる︒三宝絵には山階
寺・石山寺・比叡山の浬桑会が見えているが︑高野山で
はこれを常楽会とよぶ︑浬薬の功徳を常楽我浄とよぶか
らである︒この浬桑変相と浬桑識式は浬桑識の識衆に対
して演変せられるもので︑四六文系の美文をふしをつけ
て唱える講式の文句には変相の内容を説明する部分があ
る︒釈迦が入滅の朝を迎えて︑菩薩・声聞・天馳八部︑
恒沙の菩薩から無蹴数の蜂虫衆類︑八十恒沙の羅刹︑廿
恒沙の師子発雁総術の族︑水牛牛羊の輩に至る悲歎のさ
まをのべ︑侭んでんふく人天は金銀財宝を担ひ︑禽欺は花茎樹莱を術んで︑
盤樹の間に往詣し︑如来のみ川に災会す︒
というあたりから︑変相の描写するところをさながらに
ヱトキする趣である︒題画の散文文学であると共に浬築
会を供養讃歎する唱導文学であるといえよう︒左右の縁
辺に階段的に描かれる八相変も岡時に悉多太子の一生の 伝絵であり︑その托胎から浬梁に至る八相を辿続的に絵解きしたことと思われる︒私はこの八相変を伴った浬桑図の細部扱影をしたが︑ゆくりなく剛帖でみたモスコー川の下流リヤザンのソロッチャ修道院のキリスト終瀦聖徒愁歎の場面を紬成した繍帳とその縁辺の四周にキリストの受胎告知から死までを小間面連続階段状に描いたものとその概図といい︑その主題といい︑気分といいあま
︹割︶りに似ているのに驚かざるをえないのである︒敦逼画の
八相変やわが国の絵因果経から諸々の浬桑図に至る仏伝
画と︑キリスト伝や聖徒たちの伝を絵にしたものと︑時
に似ていて髄くこともあるが︑何れもそうした変相が唱
導の目的に使用されてヱトキされたであろうことは東西
軌を一にするといえようか︒
惑皎の唱導論に唱獅とは﹁法理を宣唱し︑衆心を開導
す﹂ることだとのべ︑﹁出家五衆のためには切に無粥を
ねんごろ語り︑苫に倣悔を陳べよ︒君王畏者のためには︑俗典を
兼引し︑美しい笥葉つかいでのべよ︒都郵の民百姓のた
めには率を指し造型物を見せ︑見たり聞いたりした耳近
いことがらを直接かたれ︒山民野処︑しず山がつのため
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には卑近な言莱過いで︑いけないこと罪になる躯を一々
︵狸︶指弧してものがたれ﹂といっている︒指那造形直淡見川
lどうやらわかりやすく説くために絵などをも利用する
ことを意味するようである︒もしそうであるならば唱導
の契機に︑六朝のむかしから絵画に題し︑絵画を讃し︑
絵画を説きあかすという後世の展開が用意されていたと
考えていいであろうか︒
⑩山岸徳平博士記念瞼文築︵昭和四十七年︑岩波杏店刊行予
定︶
③青木正児司題剛文学の発展L︵冗文那学L第九巻第一号昭
和十二年七月刊.刃支那文学芸術老L昭和十七年八月刊再収︶
③司御定歴代題画詩類L︵清・康煕四十六年御製刊本︑一二
○巻︶
側明・郁逢塵司書画題践記L︵明・崇禎七年験︑景印国立中
央図書館旧抄本︑芸術賞鐘選珍︶
伺統遍照発揮性謹築補醐妙巻十所収︒
⑥本朝文粋巻十二所収︒
例⑧本朝統文粋巻十一所収︒
⑨可日本歴史﹂︵昭和四六年四月号︑吉川弘文館︶
伽﹁天台阪標L巻四︒
注
⑪小著可人物迩笹・大江匡房L︵昭和四三年五月・吉川弘文
節刊︶三一二三二七頁︒
⑫平家物晤巻一殿上闇肘︒
⑬柿村愈松司上代日本漢文学史L一三一頁︒
伽後二条北政所は亡父師通の菩提をとぶろうために白氏文築
を写すべき華隆を以て法花経を写して供養した︒︵可江都督
納言頚文築L巻五︑女人︑奉為故博睦殿室家被供養自筆法花
経願文︒︶
⑬拙概﹁敦還本歎百歳詩・九想観詩と日本文学についてL
︵可内野熊一郎博士週腰記念東洋学識災し昭和三九年十二月
刊︶
⑱京都将物館﹃日本の晩旙画﹄︵梅津次郎執兼︑昭和三六年
四月刊︶図版弱参照︒
⑰全唐詩巻七︑︵七三十︶包偕︒
鯛聖語蔵旧蔵司画図峨文L巻廿七︒唐妙巻子本一軸︒︵明治
四十三年︑溌納白狐所蔵影印︒狩野直喜・内藤虎次郎歌︶
⑬金田一春彦可四座辨式の研究L︵昭和三九年三月︑東京堂
刊︶
御前掲可日本の説話画し解題二三頁︒
剛○.需看四目日.男闇恩目一︾︵罠88君善こご︶国闘隠.
君言色冒函普冊員399ざ冨冨富︒目鼻曾夢溢冨.
画勺高仙伝L港十三︵大正蔵鰯五○巻︑四一七頁︶
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§ 墨ゆ.−5斜ゆ.、
一ゞ皇一︑命?
劔神社所蔵浬桑変相附偶狸柴誠式残巻闇部柵井系丹生郡劒神社