iγ,J
「・韻/,
(;1..1:ロ.、ノ
1
直ちに一般の承認をうるにいたりがたいかもしれないが︑
孫措第は﹁偲偲戯孜原﹂︵一九四○年稿︑一九五二年訂補︑
一九五三年修訂重刊︑上海︶所収の﹁近代戯曲原出宋偲侭戯
影戯考﹂のなかで︑
末の戯父︑元の雑劇は︑わたしの考えではその実は肉塊侭
と大影蚊とより出るのである︒宋の戯文は今存しないが︑
元の南戯はいまも十余繩存し︑元明雑劇にいたってはいま
存するものはもっとも多い︒これら元明雑剛の脚本や近世
戯曲の扮演の事実にわたしの考えの拠りどころを求めて︑
次の五つの事がらによってこのことを明かにしたい︒
説話より戯劇へ
1
l敦燈変文の性格と日本文学I
一 二つ︒ といって︑まず宋明の戯文雑側の脚本に徴すべきものは次の
1偶識の詞を使用すること
2税話の口ぶりを保有すること
つぎに近世劇の扮戯に徴すべきものは次の三つ︒
3登場して自己詔介の名のりをすること
4塗而︑隈どりをすること5舞台で動作する時特殊な歩き方をすること
以上五つをあげる︒まずl︑俗識の話本たる変文の偶識休の
詞というものが︑まさに側慨戯・大影戯にうけつがれている︒
側偲戯の括本は都城紀勝や夢梁録によると説話・識史・雌詞
︵すなわち今の陶真で魏話の一体︶に類するもので︑これら
宋人の税話や元明人の詞話というものは偶讃体だし︑影戯の
話本は都城紀勝によると識史書と同じものでこれまた偶讃体
だといって︑変文の醜女変の六言句・七言句と︑殺狗記や詩
川
ノ
口久雄
=
2
話に引く大影戯詞の六言句・七言句●との類似を例としてあげ
る︒また元曲の白や白に含まれる吟詞もみな偶讃の体だとい
う︒かくして末・金の後期の側偲戯・影戯の謡本の形態から
元明雑劇の偶識の湖も出てくるという︒
つぎに2︑宋の偲偲戯の話本は雑劇・諦史にちかく︑末の
影戯の綴本は淋史に似ていて︑ともに説話の口気をまじえて
いる︒故蛎を扮演するけれども同時に諦唱ということが大切
な要素で︑その講唱のしくみは︑宋代の説話の識唱に同じく︑
また説話の識唱のしくみは唐人の俗講のしくみに同じい︒塊
昌戯の水人︵人形︶を人間によってとってかわらせて講唱さ
せれば肉側偲であり︑影戯の紙人︵紙でつくった人形︶を人
間によってとってかわらせて講唱させたものが大影戯だか
ら︑ともに鮎活の泌唱の口ぶりをもち︑かくして塊紐児詞と
影刺とから燗北曲に発展することにコレスポンドして︑肉塊
侭と火影戯とから宋の戯文︑元の雑劇に展開したのだとい
う︒府代の倫識において諦経を司る法師と咄軽を司る都捌と
のかけあいであったそのしくみが︑末・金の北曲にうけつが
れて主が専ら鴫を司り︑賓が相対して講談する役となって︑
かけあいのしくみを形つくる︒これが後世の影戯にうけつが
れるという︒変文の﹁若為陳説﹂の韻散のつなぎ文句が︑詣
宮調から出た﹁董西流﹂の﹁如何︑如何﹂という文句にな
り︑元・明雑劇の﹁慢慢的説一遍﹂﹁個説一通﹂﹁誰輸?誰
恵?再挽一M!﹂などのつなぎ文句になるのだと指摘する︒ 3︑には元の雑劇や戯文においては︑まず脚色の次第で︑はじめにプロローグにあたる詩の文句を吟じ︑つぎに自分の姓名をいうl壁場人物の自己紹介いわば名のりをする︒これは偲偲戯・影戯において行われた名のりのしきたりによるのであり︑しかも偲船戯・影戯というものは正に店代俗識の絵解きに源を発する︒すなわち府の俗職においてはまず諦釈の席のかざりとして図像をかけ︑識税の時図像があるのでかえって図像を説明した︑おそらく当時の俗識はただ故事を講唱するのみならず︑絵に対して一々これを指し示して説明したものと考えられる︒後のものながら明の楊東明が描いた河南餓民図に束明が疏を拝するところに︑﹁道望閥叩頭的︑就是刑科右給事中小臣楊束明﹂などの文字を書き入れる︑これは潟のりの代川で︑俗論でも図倣に対してこういういう風に説いたであろう︒俗識における絵の中の人物にかわって︑木人.紙人が活服するときも︑その薙助のたびに﹁これは項籍︑字は羽︑下相の人﹂という風に堵のりをして人物を説明する必要が生ずる︑偲捌戯の木人︑影戯の紙人・皮人にかわって︑実際の人間がそのまねをはじめる時も︑同様に自己紹介の名のりをする︒かくして肉偲偲・大影戯のおのりが︑元明の戯文・雑劇にうけつがれるのは当然だとするのである︒
4︐は塗而︑すなわち唐五代以後︑末・元・明から今日に
いたる中国の芝居に塗面をし︑異様な隈取りをするのは︑一
つは府偲偲に棋したものであり︑一つは影戯において︑唐代
3
俗講の俗変・謹変における絵l変相画に描かれたところの
神怪な古今の人物や︑古仏︑梵仙︑天神︑魔鬼のたぐいを模
したことによる︒
5︑また今日に至る古典劇の役者たちの特殊な歩きかたも
木偶人や影人の歩きかたに模したものだという︒
以上が孫楕第の説の大要である︑要するに唐の俗識は変相
画の上に実際の人間のすがたを写し︑それを絵解きしたので
ある︒即ち絵の中の人物のかわりに俗講仙が説唱して︑ある
いは筈通の白話文で会話をさせ︑傭況を挽明し︑あるいは白
話的な凱文で調子をつけてうたって進行したのである︒側偲
戯・影蚊はこの経変・俗変の変相画中の人物に模して︑人形
や紙や革で作った影絵の人形を活躍せしめ︑会話せしめて実
際の人間の姿にし動作をさせたのである︒そして肉塊侭・大
影戯になると︑三極して︑操りの偶人や影絵芝居の人形にか
わって︑本当の人間が︑逆に人形の演技をまねするに至った
のである︒そうしてこの肉塊綴と大彩戯がとりも直さず末の
戯文︑元の雑劇に展側するのだと説く︒このような説は元維
劇の源流をたずねるすこぶる困難な課題にとりくむものであ
り︑今日においてはこのような唐末︑五代の民間戯資料というものはほとんどないのだから︑いきおい推測の域を出な
い︑明快な孫氏の説にはいささか公式主義の傾向もあり︑大
胆な論断に危さもないではない︑この説が学界の定説となる
ためにはなお困難ないくつかの問題の検証を要すると思われ るけれども︑たいへん職新で興味深く︑かつ暗示に猫む説であると思う︒変文から講史に展開し︑その講史・説鍜の識釈のたれが元雑劇の業材になったことは︑ほぼ学界の定説となりつつあることを考えると︑これとまさに対応して僻識から肉塊催・大影劇︑さらに元明の戯文・雑劇に展開するという孫説はまことに注意すべき税であるといえよう︒
変文の彼変は寺院や村道場における坊さんによる鋭経であ
り絵解きであり︑金・元の譜宮捌維刷は芝居小脇における専
門役者による音楽をまじえた放劇であり︑明らかにジャンル
の上において大きな飛躍が認められる︒しかしたとえば小説
と淡刷という文学形態の上の概念的差別を明碓にあらわすの
はヨーロッパの文学意識が入ってきてからあとであって︑蒋
祖恰もいうように︑東洋ことに中国の文学においては︑がん
らいは小説と戯劇とは区別がはっきりつけにくい要系があ
る︒両ジャンル概念の融合したものが実際に多く行われたの
である︒唐代の変文︑宋代の説話︑明・情の抑制・人妓など
はひとしく聴く文学であって︑これに身振り︑手振りの物真
︽句色︺似がつけ加わるのである︒土居光知博士もいわれるように
2
﹁劇は文学の一つのジャンル或は様式として取扱うことが困
4難である︒念︶性的興奮をそそる歌舞とか︑音楽を伴う物真
似とか︑様々の文学以前の母胎から生れいで︑成長して陵も︑
︵︽①︶なお母の心と面影とを保っている﹂もので︑肉塊催・大影戯
を媒介にして︑さらにいえば偲偲戯・影戯を媒介にして︑俗
講の変文語りから︑元明雑劇に展開する道筋を辿ることも︑
大胆な飛躍した説に似ているが︑かえって東洋文学の形態に
即している考えかもわからない︒
だからといって孫偕第の説は直ちに承認されず︑右の説の
当否はそれぞれの専門家によって検証されなければならな
い︒しかし私は次のことだけは動かせないように思う︑俗講
の講釈・絵解きというものが︑唐末五代にかけてひろく地方
に浸透し︑寺より町や村に解放され︑唱聞師や歌比丘尼とい
った睡類の漂泊の語り手によって管理され︑かたり歩かれる
につれてそれらが地方郷村の生活に深く浸透し︑一種の年中
行事や民間の信仰とか︑鎮魂・慰笠の招魂祭儀とかに結合し
て︑民衆たちの手による歌舞音曲l素朴な舞踊楽劇のよう
なものとして展開して行ったらしいことである︒
蜀地の蛮妓の変文かたりによって︑王昭君変文がかたり歩
ひそそのく恥翠泪を頚むる処は楚辺の月かげなれどもせき妃か画巻を開く時は韮の外なる雲こそかかれ
と晩唐詩人吉師老が賦したように︑異国の匂いをただよわし かれたのであるが︑ たような妓女が︑紅唇をほこるばして︑美しいソプラノもし
ひそくはアルトでかつ歌いかつ語ると同時に︑眉を猟めてかって
胡地に嫁していった昭君のしぐさをも何ほどか演出したか
もしれない︑すくなくとも昭君の愁えを愁え︑昭君の歎きを
歎いたにちがいない︒そこに画巻111変相画中の人物の絵と
きの段階からかすかに一歩ふみ出して︑一種の人間による表
出︑扮淡の節一契機が認められはしないか︒これが次第に絵
を離れて人間のしぐさに重点が移動してくれば︑単なる語り
手︑歌い手から︑ぬけ出して画中の人物自身にlいいかえ
れば演劇の俳優の地位にちかづいてくるわけである︒﹁中華
︵凸G︶全国風俗志﹂という中国全土から民俗寅料を採訪したものに
よると︑新彊の風俗に︑上元の夕に各部落で子供たちが昭君
琵琶維劇を減ずるという︒また江南の地方では中元に目迎救
母戯が上演せられるという︒五月五日の節には伍子尚変文に
かかわりのある民間戯があるいは演じられたかもしれない︒
わが国の唱導演説においても説経師は﹁才施シテ令レ川ムト
コエニギ思ァ音ワ準ァ扇フ開令仕上如意︐尚ク捲り肱ソ延鈩令レ晩ムト為ル﹂︵今
昔物語災巻二十第三十六話︶ように身ぶり手ぶり秘加えて真
3
や 一一
5
に迫る演出を工夫しようとする︒唱導は声の美しいこと︑節
まわしの面白いこととともに︑美貌であること︑身ぶり手ぶ
りのアクションに工夫をこらすことを条件とする︒ついに
くだわざまね
﹁流っては詐偽俳優の伎を為し﹂︵元亭釈杏巻二九︑音芸志︶︑
﹁かぶきもののこなしをまね﹂︵くせものがたり︶るにいた
ることも自然のなりゆきであった︒説避が波劇的になろうと
する一つの契機である︒
説軽においてのみならず︑法会そのものにおいても抵鮠・
梵唄・錫杖と進行して︑洲帥と都洲が瀬錨して︑一方が経文を鋤し︑一方が解釈する︑脚叫のふし博士で表白を湖する︑
諭愛においても軽文を引川するときはそこだけふしをつけて
剛する︒時に朗抓し時に独白し︑時にかけあいで対話する︑
これらが交互にくり返されて︑一柵の欣唱と対鐇のくり返し
が進行すれば︑ここにもかすかながらドラマへの朋芽が認め
られるわけである︒もと俗淵において諦咄をすすめる形式
が︑法師︵主誠︶と都批︵配角︶とのかけあいという戯曲的
な対話形式によるということを︑向述や︑孫柵第がいってい
患が︑わが側における法会・獅説においても布施の配分の様
子などからみるとやはり同様のことが想像せられる︒平曲に
おける導師と脇とのかけあいもこれら法会における諭義対話
︵P︒︶形式の投影かもわからない︒嬰林院菩提講における世継の翁
と繁樹やなま侍の対話において歴史がたりを展開する形式
は︑これまで史記などの紀伝体を模したものだとか︑﹁古代
、
伝紬の一座の形を散文の雌史物語の表現櫛成の中に摂取し
︵6︶た﹂ものかというようにいわれたが︑武藤元信翁が︑仏経の
櫛成にならったものとして︑﹁かの塞林院の菩提猫に於ける
史談を一粒の説法と看倣せば︑世継は釈尊に当り︑繁樹なま
︵7︶侍などは菩薩または術弟子に当れり﹂といわれる患兇は傾聴
すべきである︒しかし私は︑仏教経典に見える釈尊の馳法と
いうよりも︑さらに実際説法における川述のような戯曲的柵
成そのものを反映するのではないかと思うのである︒
ちなみにこの大鏡の塞林院菩提職における老翁世蠣悩旧の
通夜物摺りの形式はこの後岫鏡における消凍が釈迦堂の狸架
挑の老尼にもうけつがれ︑その後の歴史物磯の柵想の杵通の
形式となった︒
さて室町時代に︑災埒の老翁がいて︑鰔平のいぐさがたり
を兇川したといい︑衣川の戦の後佃押を譜る不坦破な紙があ
り︑娩紐妃の成立ともあさからぬかかわりをもつことを柳田
剛男は脂摘する︒蒜狭の八百比丘尼は義軽主従の北川落ちを
目のあたり兇たと称して︑能登半脇や立山山鮎一冊から︑北
は会津︑寺泊︑南は紀伊や土佐まで語り歩いたといわれる︒
こういう災寿の翁嬉の物謡りの源流をたどれば︑遠い上代の
漂泊巫女の神譜りの文学の系譜につらなり︑中世の民間に流
浪した陰陽師・唱聞師︑さらにそれらの沈没した非人︑遊行
の芸能人の伝承とも習合するであろう︒とまれこうした白比
丘尼において︑一つのいぐさ物語り︑英雄としての判官物語
6
世継の翁や八百比丘尼の粉がたりの系列に対して︑もう一
つの側磯子︑人形操りの系列がある︒これらはあるいは﹁木
人を舞わし﹂めて﹁生人の態を能くし﹂︑あるいは﹁侶歌淫
楽し﹂︑歌舞を瓢としたことは︑厘必の﹁偲鵠子記﹂にみえ
ているし︑本朝無題詩にも泳ぜられている︒彼らの欧曲のレ
パトリーは﹁今様・古川様・足柄片下・催馬楽・里烏子・田
醐イ野・神野・棹冴・辻冴・満周・風俗・呪師・別法士﹂などの
類で︑一々数えあげることができないほどだったと艇歴はい
一つ◎
こういう偲錨︵クワィラィ︑くぐつ︶もしくは塊磯子︵ク
ワィラィシ︑くぐつまはし︶のことはすでに源噸の倭名類聚
抄巻二︑術芸部︑維芸共の中に店釧や顔氏家訓を引いて出て
いて︑十世紀にすでにわが剛では一般化しており︑同じころ
の中国西北辺境の通俗辞餅1店代民間の俗惑弁字背の字普
である敦煙発兇の﹁宇宝砕金﹂︵恵三2.喝蜀︶の上声の部
に︑とみえていて︑店代西北辺境に塊鶴子がいたらしいことは否
やP ︵︽U︶りが語り歩かれたという一つの典型がみられるのである︒
弄偲偲子勃鋤唾
4
みえない︒漢祖が冒頓のために包囲されたときや陳平の謀で︑からくり木偶や機関人形を城壁にならべて危機を免れたという話もあ
るように︑側鶴子の源は遠く︑その箱囲はひろい︒これをわ
が国についていうと︑枕草子の﹁心地よげなるもの﹂として
﹁くぐつのこととり﹂があげられ︑定紋卿集に﹁やはたにま
うで給ひて︑木の本にとまり絵ひて︑ごみと云くぐつ一まはし
をよびにやりたまひけるが︑をそかりければ﹂と詞群して連
歌がみえているが爺さらに今昔物語典に︑
今︽昔nU寺ノ別当一一nUト云う僧有クー︒形ヂ仙也卜云静
心邪見毎明馨︽譜ノ京中〃人シ災ノア遊管戯レテ酒︐呑息魚類フ
アソピ〆タグツ
食シヂ.柳モ仏事ブ・李不鴬灘︒鮒︾遊女8偲偲ソ雌;收と噺ルッ以ナ役トス︒
モトムギナハクチハナ
︵本朝仏法部巻十九︑寺ノ別当ノ排ナル麦繩ノ蛇コト.卜成ル譜第廿二︶とある︒塊紐子が今様の仏歌︑法文歌をうたったり呪師など
の寺院淡芸に類することを波じたりしたこととともに︑その
パトロンとして寺院の仙侶Iそれも修禅の術徳砠学でな
く︑民衆の間にとけ声﹂むなまぐさな魏径師をもっていたこと
︵︒︾︶がうかがわれる︒これらは今側ほとんど賞糾は埋没し去っ
て︑そのおもかげを類推するよしもないが︑柵岡典坑上郡吉
寓町の八幡古表神社と大分雌中津市大字伊藤川の古笈神社に
伝わるくぐつはそれぞれくぐっ四十七体︑六十体あり︑八幡
古炎神社では神官が神楽の伴奏のうちに神舞・神相恢のくぐ
− コ
7
つを操り︑古要神社では氏子たちがつとめる︒これら重要民
俗盗料・無形民俗資料として調査されたものにわずかにむか
しのかたちを伺うことができそうである︑しかしそれもおそ
らく神仏分離の影響で︑仏教戯的要素を払いおとしてしまつ
くぐっ
ているようである︒万葉巻三の﹁潮干の三津の海女の久具都もち﹂云々とよまれるように︑くぐつは漂泊民たちのもつ大
きなだんぶくろで木偶や鍋釜のたぐいをほりこんでもち逆ん
だ袋の恵から嘘じたものらしく︑ヨーロッパのトロヴァトー
レにみられると共通的な生活近具のように思われる︒こうい
う漂油の賎氏独楽者群は︑呪術的な儀礼を獅理し︑陰陽神た
る辿梛神をまつってバッカスの祭典に通ずるようなものをも
︵︑︶行ったらしい︒こうした遊行者芸能の一形態としての木偶戯
は王刺末川の新狭楽や田楽や源流期の叩楽能︑さらにもろも
ろの巾倣庶乢批芸︑古浄珊璃や税縫節などとも何らかのかか
わりがあるにちがいない︑なかでも古独楽の芸態に何らかの
かかわりがあるように思われるが︑今後の研究にまつよりほ
かない︒たとえば近松がいうように﹁惣じて浄るりは人形に
かかるを鯏一とすれば︑外の凍紙とちがひて︑文句みな働き
いきものを肝要とする生物なり﹂︵雌波土産︶とあって︑浄珊璃の詞
索が人形操りのアクションを念頭において作られるべきであ
るということの背後に︑何らか桑撲ながら偲概調とでもいう
べき人形のはたらきにのった話本︑かたり本があったことを
想像させる︑もちろんそれは口づから彼らの間に伝承された 1ものであろうが︑そういう偲偲戯のためのうたかたりというものがあったとすれば︑それはあるいは王朝時代の仏法的な説話や絵とき唱導とかかわりあう部分︑かさなりあう部分もなかったとはいいきれない︒
さて寺院の法会や蛍族の年中行雅︑あるいは堂塔供挺など
の臨時的な行蛎において︑背楽のリサイタルだとか︑汗楽と
油側とが絲合されたようなパレードがしばしば行われた︒くどくあぞび堀河内府入道典尖は大納薗の時に﹁功徳遊﹂というものを
︵Ⅲ︶行ったことが古今秤川災にみえる︒﹁念仏礼識などはてて︑
朗泳ありける﹂とあって︑この朗泳に期泳︑仏叩部の白楽天
の﹁両千万劫の蒋提の稲八十三年の功徳の林﹂を泳じたりし
たもので︑功徳遊びという端もついたにちがいない︒この句
が岡じく白氏の﹁願はくは今推枇俗文字の推狂簡綺蹄の鯉を
もって云々﹂とともに法飛三十卿に貴族の殿ばらや佃たちが
法推綴のうちの心ばえを歌や識につくり︑﹁もののねをふき
あはせしらべ﹂て泳ぜられたことは栄雅の疑巻に出ている︒
そしてこの朗詠の咄謡というものはおそらく何ほどか慈覚円
仁将来の唐代仏教声楽のリズムを伝えた声明の一郡であった
5
』 P
8
にちがいない︒
こういう功徳遊びがすこし大規模に物のねをふきあわせ︑
しらめれば衝絃講となるのである︒これは仏前において袴絃
を奏する荊社で︑この風は長阿含経第十にみえる帝釈天の執
楽神の般進翼が摩掲陀帝釈窟において︑琉珊琴を弾じたりし
たことに源流があるといわれ︑中国を経て︑やはりわが国に
その風が伝ったとみえる︒
椛記︑災保二年十月冊日条︑皇后宮御修法︵む︒此夜御念仏寛也︒侍臣聴聞之蒋︑以絃野合奏︒夫娑婆世界声作仏
蛎︑擶斯州歎︒
これは明らかに祷絃調で︑裟婆世界の声が仏事をなすという
ことばは︑弼曲﹁経政﹂に︑経政存生の時愛川した琵琶を仏
削にそなえて︑役者を錐めて符絃識でとぶらうことがあり︑
﹁糊山と巾す琵琶を亡者のために手向けつつ︑同じく糸竹の︑︑︑︑︑︑︑声も仏那をなし添へて︑日々夜々の法の門︑没賤の逆もあま
︵吃︶ねしや﹂ということばのなかにみえている︒
年中行躯的な法会・行迦の帥後にはいろいろの杵絃や寵獅
などの欣艸瀞曲が行われ︑さらに余興として伎楽や擁楽︑あ
るいは呪師︑延年︑独楽などが行われた︒特に呪師独楽は燃
燈会の行伽であり︑中川で百戯を概じ︑猴楽郷を波じたこと
︵蝿︶と対応して︑わが万薙会に呪師独楽が波ぜられたことは暗示
深
い
。
このような古独楽以下のいろいろの芸能はそれぞれ煙い歴王朝から中世にかけて︑多くあらわれるところの︑法轆八
9
史をせおっているのであって︑大原の勝林院蔵本﹁魚山叢
書︑意八﹂に収まるところの﹁諸寺大法会舞楽要録﹂に︑承
平・天慶より寛弘・寛治を経て︑保元に至る間︑諸寺の堂塔
供養・曼茶羅供・法華八識・算賀・相撰節・朝頚行幸などの
法会において︑猿楽・雑芸・散更・弄槍・舞楽等が催され上
演せられたことをしるしている︒わが王朝時代の寺院が︑ま
るでかの北宋のみやこ沖京の京瓦︵みやこのさかりばのよせ
波戯場︶において演ぜられた庶民演芸そっくりのようににぎ
やかなところをみると︑わが寺院の当那者は︑唐末末初にお
ける中脚寺院の法会や俗誠およびその波変として発連した寺
院周辺の戯棚の伎芸などにも敏感であったのかもしれない︒
仙団社会にあっても︑一菰の娘楽として延年郷・童舞・稚
児舞があったことは周知のところ︑さらに奈良法師が倶舎舞
や珊和識を演じ︑俗装して歌舞を奏したり︑︵嘉応元年︑春
日臨時祭記︶︑聖道郷を枕じたり︵新撰類聚往来︶︑その他
群猿楽とか︑多武峯様など︑如何なるものか明らかでないさ
まざまの歌舞めいた芸態が上波せられた︒
6
●
9
識や寺塒供養における法儀と荘厳をみると︑それはさながら
浄土の肚界を穂土なるこの地上に再現し︑極楽の仏たちを閻
浮のこの世に淡出することにあったのでないかを思わせる︒
その一例として︑有名な法成寺供餐の条を栄兼物語から引
用してみる︒
やうノーおはしましよるほどに︑御覧じゃらせ給へぱ職蔵かか・鋺楼・耐の廓などの︑棚冊に照り暇やきたる︑御覧じゃ
らせ給へるは︑いとあさましく御目も及ばせ輪はず︒おはがくしまして大門に入らせ給ふほどに︑左右の舟の楽︑施頭期
首の舞ひ小でたるに︑曲あはせてひびき無批なり︒館をふ
ぐき鼓をうつ︑功を歌ひ︑徳をまふ︒御覧ずる御心地ぞこの
世のことともおぼしめされぬ︒⁝⁝楽屋は中島にしたり︒
御調経のものども同じく平張して中島に︑おほやけよりは
じめ︑宮宮殿ばらの御辛概ども︑色あかくおどるノ︑しく
て︑みなこの御堂のそばのかたにかき据ゑためり︒かくて
仏の御前に御座よそひて︑内の上も春宮もおはします︒殿
の御前も︑御そばの方におはします︒仏の御前の西は講師
・読師の高座左右にたてて︑かみにはえもいはいめでたき
宝鑑おほひたり︑中に礼錐たてたり︒
これらはスタイン将来ロンドン・大英博物館蔵の敦娘画阿弥
陀浄土変相や常沙郷が臨模した敦煙第一七二浦西方浄土変相
を思いおこさせるものがある︒ひわりご定ぱこかくて宮々の刺に食事のためすばらしい桧破子や手筥がく ばられる︒栄花物語の作者はこの梢景を︑かぜふむろ迦菜尊者の室にも未だあらざりし臥具をしき︑堅護長者のぼんじ愈家にもある邪まれなる飯食どもなり︑宮々の御方々の御心
たうり地も股ばらの御心ちもかの初利天上の億千歳のたのしみ︑︐わうぐうしむ懇ん豚やう大梵王宮の深禅定の楽しみもかくやとめでたし︒
という︒まさしく往生要災︑上本の聖衆来迎楽の文句であ
又や︒いさごずいのどかに院のうちのありさまを御覧ずれば︑庭の沙︑水
しやう住らめはちすみなそこ
糟のやうに閃きて︑池の水描く溌みて︑色々の辿水底よれり生ひたり︒その上にみな仏あらはれ絵へり︒仏の御かげ
は池にうつり映じ給へり︒東西南北の御堂々々・経蔵・鐘
楼まで影うつりて︑一仏世界と見えたり︒
これは正しく西方浄土変相に・描かれる宝池の蓮花のすがた
だ︒
やうノ︑仏を見奉らせ給へば︑中台たかくいかめしくまし
まして︑光のなかの化仏無数億にして︑無量荘厳を具足
し︑宝帳・宝鐘・宝理路・上下四方極々に光明てらしかかびりk5がやけり︒中央最上池の上に︑大宝蓮華の座あり︒殴楊伽宝
台をなし︑百宝の色相︑葉に具せり︒八方︵諏麺︶四千葉あ
りて︑無蛍の妙法そなへたり︒葉ごとに百億の大宝魔尼を
飾れり︒大千界の日輸をあつめたるがごとし︒無漏の万徳
荘厳せり︑如来この座の上にして︑法報応具足し給へり︒
無見頂のかうべより︑千轍輪の足までそなへたまへり︒さ
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戸句 らに巾しつくすべからず︒これはまさに浄土における阿弥陀如来のイメージである︒つ
いで︑
・左右の宝座には弥勒・文珠おはします︒文珠はかの消凉山には︑一万の菩薩衆に︑六千の比丘をぐし給へれど︑ここにはひとところおはします︒梵王・帝釈おはします︑梵王は鷲といふ蝿にのらせ給へり︒⁝⁝四天王いかめしくて立たせ総へり︒極楽世界︑これにつけてもいとどいかにとゆかしぐおもひやり奉る︒耽首謁摩もいとかくはえやつくり奉らざりけんとみえさせ絵ふ︒天竺の仏工の砒前謁摩さへこのように再現できなかったろうとたたえる︒次に警騨のおとにつづいて︑講師・読師が輿にのってくる︑今日の本番の立て役者の登場だ︒中島の楽所からんじゃうら乱声が尚らかにあがって︑﹁獅子の子どもひきつれて︑舞ひ出てて︑待ち迎へ﹂る︑﹁この世のこととも見えず﹂と結ぶように︑これはまさしく浄土世界をこの地上に再現するのだ︒しるがねこがれ
・白銀・批金の香炉に︑さまみ︑の香をたきたれば︑院のう・ち︑栴械沈水の香︑みちかほりたり︒色々の花そらより四方にとびまがふ︑此の僧たちのさま︑姿ども︑ただかの霊山の法会に︑菩薩聖衆のまいりあつまりけんも︑かくはえやと兄ゆ︒三世の請仏の説法の儀式もかくこそはと︑歓寄の涙とどめがたし︒一凸己 ・たい理霊鷲山の説法の大会がここに再現されるのである︒
舞台の上には︑さまざまの菩薩の舞ひども数をつくし︑ま
たわらはくの蝶鳥の舞ども︑ただ極楽もかくやとおしはかり︑恩ひよそへてみるほどに︑思ひやられていとめでた
き︒孔篭・鶏鵡・無鴬・伽陵頻伽などみえたり︒楽所の物
ねのり
の音どもいといみじくおもしろし︒これもみな法の声ども
なり︒或は天人・聖衆の妓楽歌詠すると聞え︑香山大樹緊
那雑の琉璃の琴になずらへて︑管絃歌舞の曲には︑法性真
如の理をしらぷときこゆ︒︵音楽巻︶
こうして行道・願文・荊経と進行し︑﹁随喜の説法きくまま
に︑歓嬰の涙いやまさ﹂って法事が無事終了する︒
法会が浄土の有様を再現することはこれをはじめとして王
朝から中世にかけて一々数えたてることはできない︑天永元
年三月四日の院花供養︵永昌記︶︑永承五年三月十五日の関
白新造堂供養︵春記︶などでは供花の後に菩薩舞があり︑蝶
・烏の可憐な舞いがあるかと思うと獅子が一鍵舞台に出て舞
ったりする︒行道そのものが一種の極楽戯・菩薩戯を演ずる
という性格をもっともいえよう︒中右記の康和四年七月廿一
日白河御願尊勝寺供謎会においても師子舞についで︑菩薩烏
蝶の歌舞がある︒時代がくだって︑建武の東寺塔供養には曼
陀羅供も行われ︑菩薩・十二天・八部衆の仮面をつけてする
行道があり︵建武元年東寺塔供養記︶︑応永の相国寺塔供養
には︑十天楽に伽陵頻・胡蝶が花をささげて舞台下の導師十
‑一
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弟子に授ける︵応永六年相国寺塔供養記︶・これらの菩薩
マメクは︑面をつけて菩薩に扮装するのであって︑妓楽菩薩は笛な
ど吹きにくいためであろうか︑面をつけなくてもいいかどう
︵脚︶かなど問題になったこともある︒
要するに浄土世界の情景と効果とを︑寺院の荘厳と散花︑
焚香︑奏楽などによって再現し︑そういう背景︑舞台︑効果
のなかにおいて生ける人間が︑天上の仏菩薩に扮して演戯す
る行覗ともいいえられるのではなかろうか︒今日の当麻寺のけらく練供養の菩薩行道にもみられるように︑まことに﹁天人快楽
のすがた﹂の再現であり︑こういう演出は極楽戯ともいうべ
きものであり︑伎楽・舞楽に多くのうるわしい菩薩面・行遊
而の存在することは︑一踵の仮面劇というものをも連想させ
るようである︒
︵1︶孫槽第司偲偲戯孜原﹂︵中国戯曲理論護書︑一九五三年︑上
海︑上雑出版社︶己も.苗I﹄闇.
︵2︶蒋祖怡可小説緊要﹂︵一九四八年︑台湾︑正中番局︶
︵3︶士鵬光知司日木文学における劇的謹素﹂︵﹁文学﹂一九五三
年四月号︶宇邑.
︵4︶鄭肖医・胡検安・閑職誠・胡恵生縄﹁中華全側風俗志﹂︵中
華民似十一年胡憧環販︑同十二年上海広益香局刊︑四冊︶・下
繍巻八新廻︑烏将木麦風俗記に昭君戯のことみえ︑同香︑下篇 巻五安徽︑浬県東郷候神記に目述戯のことがみえる︒
︵5︶土居光知︑同右︑PP
︵6︶佐々木八郎﹁語り物の系譜﹂︵一九四七年︑誹談社︶亨蹟.︵7︶武藤元信﹁大鏡と仏経との関係﹂︵﹁東洋学芸雑誌﹂一九○
七年八月号・﹁武藤元信論文集﹂一九二九年再収︶
︵8︶柳田国男﹁雪国の春﹂︵一九二八年︑岡書院・一九四○年︑
創元社︶
︵9︶堀一郎可我が国民間信仰史の研究﹂︵宗教史編︶﹂︵一九五三年︑創元社︶弓ふ宮l臥弓.
︵叩︶山岸徳平﹁偲偲子紀と遊女妃について﹂︵一九三二年﹃国漢
会誌L創刊号︶
能勢朝次可能楽源流考﹂︵一九三八年︑岩波書店︶p路.P圏.片寄正義﹁今昔物語柴論L二九四四年︑三省堂︶冒忠宮1
︐つつ︒堀一郎前掲番︑師十二篇司あるき巫女と歌比丘尼L第二節クグ
ッメ弓.9.1密・
︵皿︶古今著剛染︑巻十六︑興言利口︑尾張内侍が功徳遊びの朗泳
を評する塀︒
︵蛇︶平家物語巻七﹁経政の祁落のWL︵蝿︶たとえば︑成尋︑参天台五蕊山記巻一︑延久四年四月廿二日
杭州にて燃燈会の伎楽をみる条︑﹁女人孵琢吹笙︑伎楽衆多︑不可思鍍︑或作極々形像︑以水令舞︑令打鼓︑令出水︑二人如
兜師廻娠﹂・
︵皿︶頬災の台記巻十二︑久が二年四月五日の条に東北院十稲供獲
を倦むにあたり︑妓楽菩醗の而形をつけるかどうかの問題が諭
ぜられ︑京極殿十和供謎紀を引用して︑面をつけなければ菩職
形とはいえないといっている︒