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1
公消行である.三神消行︵八四七年繩九一八年綴︶牌潴を縛居逸輌篭蜘騨唾頴総蕊蕊誰字は難報謹漏畦嘩錨溌謹法名は妙
青︒百済の速古大王の後といわれる蠅瀧嘩瀧父は淡路守従五位下
氏吉︑母は佐伯氏︑彼はその三男︒受舗階級の出身である︒貞観十五年零文章生︑翌年得業生越前椛少目︑元慶五年毎対策及第
鋤郷織洞ついで大学少允︑少内記︑大内妃となり︑この頃藤服佐世
と共に円珍と交わる︒寛平三年弾肥後介︑ついで備中介兼刑部大
柿︑文軍押士鯉掛余三年遊興に退隠を勧告し︑延瞥元年改元識を
奉る︒ついで式部大輔︑このころ︵五十六から六十八にかけて︶円
珍低・保則伝・誌眼文を作り︑意見封蛎を奉る︒七十一才にして参磯
宮内卿に任じ播磨梱守を兼ねた︒延再十八年十月一旦卒去︑子浄蔵
の加持によって蘇生︑十二月死んだ︒年七十二︒
通典より生れが三年おくれている︑通其が二十六で対流及邦し三
十三で文章博士になったのに比べると︑三十七に対策及第し五十四
で文章博士大学頚となったのはおくれている︒滴行の窯は明法を以 道真︒倫刺とEもに関平掬溌X小
繩済の紬兄があり︑﹁本棚千賎の奇才﹂とか﹁一時の糸と為るLと称せソズ・ンられる︒紀長谷雄を評して﹁無才ノ博士ハ私奴志ヨリ始ル﹂といった
が惟宗孝訂はこの口翁を可制ノ咋上合上Lといった蝿講織珊匝勢
文雄の弟子︑文雄がかつて清行を推して可清行ノ才名時翠二超越
スLと書いたところ通真は咽り︑超越の文字を愚魯に改めたが︑広
柵蝦oは賛成しなかったという︵醍醐寺本水汀抄︒これまで淵行が
是善の門人だったと解せられていたが︑これは江淡の文の読魏譲り
に雑ずく︒政郡嬰略巻三十︑禰公の奉昭火公洲腱司広棚擶某先父柵
公之門人﹂と熟えている︒︶堀川の空宅に百鬼夜行に会ったが動ぜ
ず︑鬼の方が退散した括︵今苛巻什七︑三神油行宰相潔渡珊鋪三十
こは彼の合理的な剛胆な性格を伝える︒道真の配流事件を予感し
て辞職を勧告した括︵十訓抄中︒神里正統記・錠古郡擬︶は有名で
ある︒﹁心賢ク智有ル人﹄︵今昔︶であり﹁懇鱒其の志にあらはれて︑
賢慮神の如くに速かL︵十訓抄︶だった︒彼は才名を街うことなく︑
所見は仰からず上申した︑官朧が迷々として巡まなかつたのもかか つが︑彼は諸流に通じことに猟道に鮒しかった︑博学強記︑政治
事
川
口久雄
上咄r
t
3
とよむ︑驚峯は﹁豪放詩に見はれたり﹂︵一人一首四︶といい︑北
海は﹃野鶴の難群たるのみならず︑直ちに銭・劉の堂奥︑発紺・善
行職その影畷を望むを得んや﹂︵日本詩史一︶という︒
なお朗泳・江縦・新捌朗妹・和漢兼作業唯等に断片を見出す︒
﹁元日賜宴﹄の詩の一聯に
いかもと
酔はずんば争でか辞せん温樹の下
建春門外雪春を埋めたり︵和漢雑作集一︶
とよむ︑彼も応制応教の狩人︑﹁陶鯵沢Lの七神は測明の州間Ⅲ階
や飲酒の詩の文句に基づき︑内宴の﹁何処塞先到Lの詩は匡脚のい
うごとく元識集の文句に拠る︒岡田博士の﹁菅公に比するも遜色な
きものの如しし︵日本漢文学史︶はやや溢美の僻︑生硬な模倣のあ
とがないでもなく︑識人としては道典・災谷雄に一鍔を輪する︒
彼の本領は散文の枇界にある︒
詩序は
八月十五夜賦映池月明狩序︵文粋八︑天象部︒︶
元慶三年八月大概殿成命審荊序︵交粋九︑鵬所郁︒︶
貞観十九年仲券釈莫聴講論語有如明珠詩序︵扶桑築九︒︶
の三箔がある︒大極殿落成宴は朝堂院含章堂で行われ︑雅楽の時飛
脚の工らは感にたえず歌舞した︒狸いらかくもひらたさこじり飛くるがごとき蕊は曇を排いて蝦の堀は夜の月と相映じ︑そらひらこがぬともしびなら斜めなる戸は漢を啓いて金の紅は暁の月と笠び註ぜり︒
はこの時の詩序の一節である︒
節間一篇︵文粋三︒︶﹁神河を立つLの通︑彼の神祇観を見るべ
く︑淫判邪教を排して正しい神杷を希求することをのべるが︑すべ て漢書認把の記戦する民間の俗信や湘山神や首陽廟をあげて論じ︑わが国の神道には言及していない︒︵対鮠は藤原春海︒︶
害状二通
奉右相府喪︵文粋七︑凸群三年十〃十一日︒政那要略什二︒扶
桑略記︒︶
奉左丞相吉︵文粋七︑昌泰四年二日九日︒︶
前者は遊興に対して明年辛禰革命に当る年だから雌しい倉共の止足を知り︑共の栄分を察して︑風冊を煙霞に掴にし︑かく山智を丘霊に蔵せよ︒
と男退を勧告したもの︑北畠親腸が﹁善栢公清行朝臣ハ此覗未キタ
︵典か︶ラザリシニ︑兼テサトリテ管氏に契ヲ遁給.ヘキ曲ヲ申ケレド沙汰ナ
クテ此邸出来にケリL︵神風正統肥七︑醍醐天蝿条︶という︑文巾の
まつげ離朱の明も碗の上の座を視ること能はず︑仲氏の智も旅の巾の
物を知ること能はず︑
の句は知られている蛎諏後者は時平に対して左遷後悔宝門のの文箪
生学生たちが放逐されるのはよろしくないと吹曾して荷門の人々を
擁護したもの︑学者的な義気に賞かれている︒
次に奏議勘文には︑
仙辛西革命蟻︵革間瓢︒本朝文築︒紀略︑間辮三年十月二十
一日︒︶
側革命勘文︵昌講四毎一月廿一日︒筑従巻四さ馳釧露穂恥謬︒
③猫改元識︵昌泰四年五〃十三日︒草暦類︒本朝文錐︒︶
側阿衡勘文︵仁和四年五月廿三日︒政邪要略舟︑阿衡邪︒︶
⑤舗禁深紅衣服奏鍍︵延喜十七年十二月冊五日︒政事要略六
I ″
』
︲01J・OrOr0Jr・・﹄
4
十七︑男女衣服井礎用雑物蝉那︒︶
がある︒これらは文学作品ではないが︑清行の識緯暦数家としての
見職を披瀝して政治に活用せんとした梢熱に溢れている︒
伽では易説から明年二月が革命に当るといって和漢の雌史にお
ける辛閲革命・甲子革令の那実を引正し︑天文︵好肥・及狐出現の
こと︶の聯実を巧え合わせ一献の維新の危機たることを予曾する︒
︵これによって済行は時平の陰謀政治に加担し近真の左遷の口実を
作ったとの説がある︒︶
②は枇純説の原孤から神武帝の辛西即位・甲子勘児山寵鴎︑天
秤帝の辛澗即位・甲子冠位制定を脱明し︑・凸猫四年が天御辛閥より
二百四十年目の大変革命の年であることを勘申し︑認星・老人星の
出現は﹁旧を除き新を布く象L﹁聖寿長久︑万民安和の瑞Lだといい
天平宝字の逆臣仲廠伏妹の例をあげ︑一ヶ月前の道真左遷聯件を暗
示し改元の要をのべる︒
③では革命の条件がそろい改元の機が熟したから︑神武創統︑
天籾中興のあとをうけて改元して政治を一新すべきことを強調す
る︒かくてこの蟻がいれられて七月十五日延喜と改元し︑これか
ら以後は二革には必ず改元する例となって千年の久しきに及んだ︒
このことは彼の学びえた繊紳・天文・勝数・除陽・描暇の術方面か
らの緒論であり︑一祁の人閲再生・政治維新の朧史的な泌繊に発す
るもので︑特に道真を陥しいれるためでなかったことは︑⑩より十
日前に道真に書を送って﹁明年辛酉︑運変革に当る︑二月建卯︑将
に戈を動かさんとす︑凶に迎い禍を衝く︑未だ誰といふことを知ら
ず﹂と告げて知足鱒退を勧めていることでわかる︒彼の時代区分の 見織は今日からみても意味なしとしない︒台記をよむと頼長は保元平治の動乱前夜の不安な社会にあって︑しきりに周易をよみ今革命
あげつの沙汰を翁らい︑自ら一二の学生らと共同で革命を部顔しているが
この時の術導理念は淌行の学説であった︒
服治三年︵朧︶四月七日戊子︑革命雄通了歌一金井成佐︑立
成軸溌相分︑価各加ソ封︑納齪楼底↓︒
彼は﹁掛泰巳後革令等勘文Lを検討し︑春秋緯︑釣命決等を引勘し
て︑通窓入適にしきりに易斌法を問いただしている︒滴行も勘文に
奪秋辿斗枢・稗秋元命也等を引いているが︑当時縦紳替がいかに
多く舶来されていたかは見在蒋側の天文家︵四六一巻︶勝敗宝二
六七巻︶五行家︵九一九巻︶を一見してもびっくりするほどであ
側は艮谷雄・済行・佐世の三人の連甥で上申され︑御把による
る︒.↑
と﹁右少弁膜脈佐仙弾勘文Lとしるされてあるから︑あるいは佛世
の難案か︒阿衡は三公の宵名で三公は典職がないとして︑明法の醤
淵愛成らの見解を支持して広柑の意見を否定する立場に立つ︒
⑤貞観以来衣服に深紅を染めることが流行し火の色又は無色と
いったが︑火色衣の妖替により班子女王︵息太后宮︶をはじめ火災
も額々とあり︑仁和以来制禁があっても︑延拝七八年以来また雄災
を競うようになり貴族の碑妾一人の衣服に典大の浪溌をして︑多く
の民衆の生活不安を招くからとて︑火色衣の禁を諸うている・この怠
見が通って翌年四月より禁令が出た︒︵紀略︑延喜十八年三月十九き日︒︶当時栓非違使は先帝の寵妃でも火の色の衣を兄つけて閲ろう
としたことは新古今︵雑下︶の﹃大空にてるひの色をいさめてはあ
︑●
』 『
」
・〆狸J・J1日日
5
めのしたにはたれかすむべきLの和歌脱話︵政事要略六十七︑惟宗
公方の談話︶によってもわかる︒清行の奏議は意見封求の諸禁奪侈
砺と同じ淵神である︒
描行の史低の文としてまず円珍低がある︒その賊に油行が円珍よ
り愛遇せられたことをいい︑
今年和尚之遺弟子︑祁共鋒二和尚平生行躯一︑令雲一余撰二定其伝一︑
此亦和尚之遺志也︑余対呈此聖跡一︑宛如二再逢↓︑握レ兼流ソ涙︑
一宇一油︑願我瓶二今日之火蝕﹄︑職仙生之其期一・
延専二年冬十月冊間翰林学士蒋桁行氾之
.とのべている︒延喜二年秋に網所より円珍家伝上進の牒をうけ︑入
室の弟子たちの記憶と手録の遺文と衆口の討織とをもとに資料を蒐
堆個錬し︑それをもとにして消行が燕理し︑悶史所に油掛の一本を
進つたのである︒油行の個人的製作というよりも多分に共同制作的
要素があり︑伝の成立を明かにする上でのこの致語は意味深い︒な
かみは⑩生立より入唐以前まで︑②在府の間︑③帰朝より入滅まで︒
以上は行状を逐年叙べたもので︑次に側性格・容貌・業臓などをの
八月初九日︑放船入海︑
十三日︑申時︑剖兇商山︑
緑北風敏︑十四日辰頭︑潔到彼山師︑所謂流祥国喫人之地︑四方無風︑英
へ
原
伝
嘗
八月初九日︑放船入海︑
十三日申尅︑望見商山︑
縁北風敏︑十四日辰頭︑
漂到彼山脚︑所謂琉球国
喫人之地︑四方無風︑英知 ︵明匠略伝︶一︵要
︿月九日︑侭値大府商人欽良啄船
進発過榔︑時東風忽迅︑舟行如
飛︑十三日申時︑北風俄起︑十四
日辰時︑漂著流舞国︑流拝者所
調海中咳人之鬮也︑時四方無風︑ べて結びとする︒㈹より③までは蝿朝葵状や宵雌・辞状などの資料をそのまま引き往生霊験説話をかたる︑㈲は興味ある部分で︑慈覚とならんで最澄の相承となった円珍の人間像を浮彫にする︒在職の間巾岡の名仙荷人の所呈の蹄が十巻もあった︑純門を訪ねて白鵬搦の墓に詣でた︑彼の勉強ぶりは︑
和尚自従二入山之時一︑至二子臨終之日﹈︑渉二猟経典一︑諏二漁義
理一︑或昧且隠し几︑俄忘二斎准一︑戎終夜対し煙︑遂無二仮撫﹄︑
年及二八十一︑耳目聰明︑糀神明僻︒
としるされる︒本伝記は彼の死後十一年目に逝弟の蒐災した蜜料に
蛾づいて書かれた伍であって︑後の円珍伝の源流となる︒明匠略伝は
本伝を抜掌して多少伝説を加え︑宗性の高僧伝要文抄はもっとも伝
脱的なふくれあがりをもっており︵今廿巻十一粁腿大師而藤伝珊密
法州来蹄鯏十一などは要文抄系銃のものに飛づく︒︶元亨釈智は服
伝に基いて擬要し︑かつ他の所伝をも参照している︒渡唐の条をと
って比較してみると次・の如くである︒
文
│ 惣
秋︑侭麿商欽良邸発舶︑珍共之一
涯海︑八月十五円︑諦聯之燗剛一福州塊︑即宣宗大中七年也︒
I
Fへ
釈
害
当
一雨一一
6
文体はすでに四六文ではなく︑また和習もなく︑簡明述恵の実鍬で
あって︑できるだけ資料を尊煎する態皮で︑盗懲の文飾でゆがめる
ことをせず︑伝聞︑打聞をしるしてもむやみな怪誕に陥らず︑冷静
な伝記文学というべきである︒
刊本には
統類従望本︵宝永元年秀翼刊木による︒︶
大日本仏数全書本哩一本
があり︑写本になお石山寺本もあるが未見︒︵類従本は承久二年静
蝉︑永寧九年実祐の奥書をのせる︒往生の郁分に錨簡があるが︑扶
桑略肥引川の﹁押柾大師之記文Lなどによって灯しうる︒︶
つぎに保則伝についてのくる︒先ずその成立について伝末に次の
ごとくしるす︒ 知所趣︑忽遇巽風︑指乾維行︑申刻・見小山︑子夜至脚下︑十五日午時︑遂逐狸軒醗︑而未知何国界︑便間所在︑知此大牌国嶺南道福州連江県堺︑干間国号大中七年突︒ 所趣︑見数十人持戈︑俳個岸上や時欽良師悲歎︑洲和尚日︑我等当為琉球所吠也︑為之如何︑和尚乃合承開目︑念願不勤明王︑誕奥先年所現金色人露立紬︑時舟中数十人皆見之︒忽遇鴉風︑指乾維行︑申尅児小山︑子夜至山脚下︑十五日午尅︑遂
獲蒋津︒
不知所趣︑逓見数十人持戈画俳桐岸上︑時欽良師悲突︑調和尚日︑吾等当為流舞所暎也︑為之如何︑和尚乃合箪附周︑念顧不動明王︑須爽前年所現金色人露立舳上︑時舟中数十人︑皆見之︑俄而巽風忽発︑飛帆指乾維︑十五日午時︑軒大勝倣南道福州連江典界︑即府大中七年也爽︒余初為二超鵬郎↓︑依二元艇注邸︑兄二東征之媒略一︒為二側巾介一︑
︵雌︾川二故老風翻︾︑詳二西州之政統一︒帆述レ所v知︑成二此実除雪︒佃
世称二公裡.︑美二老人之談一︑不y容y口︑然而転謡浮詞︑不二敢
論蕾︑恐謬口錺之疑︑損一相公之業也︒昔者司馬遷著鰹子
伝一︑遥淡γ報し碓︑紫伯諮作二郭泰碑一︑遂無ソ懸咳徳︑故叙墓此景言︑
翼行v貞立咳志︒
延喜七年季春一日文章博士諜消行記之
l清行が内記︵唐名起居郎︶に任ぜられたのは仁和二年︑元慶注
記︵現存せず︑三代実録の盗料となったものであろう︒︶は秋田城
叛乱の始路を番いたもの︑消行が術巾介に任ぜられたのは寛平五年
︵保則が燗中椛介となったのは︑二十八年前の典観八年︶彼は元慶
注記により東国における保則の活動にうたれ︑備中に赴任して前任
者の治紙を古老からきいて感心し︑それが伝記制作の動槻となった︒
制作の資料は元慶注記と古老の口碑であるが︑この口がたりの説話
には保則の真実から躍れすぎたものがあることを警戒しつつ︑司馬
遷が暁子列伝を書き︑察込が郭拳蕊碑を香いて彼らの人絡を忠離し
たように︑保則伝を草して立志のよすがとするというのである︒だ
から円珍伝に比するとはるかに統一があり︑保則の人間像を浮彫に
し︑作者の意図が伝文の偶々にまで行きわたっている︒
現存伝本は巻首︵出生より貞観初年式部少丞時代堂での記辨︒︶
と准巾︵寛平三年舳求より同七年七十一胆て卒去主での記猟︶に二ヶ
所閏文があるが︑娘も爪要な側中介時代銅軒以後が殻っているから
ほぼ全体をも推すことができる︒現存本のなかみは大きく㈹貞観
期の術中・備前時代︑②元慶期の出羽時代︑③仁和期の讃岐・太宰
府時代および側人物・性格をのべた結びと四つに区分できよう︒﹁囚
從欺に満ち︑什れし骸賂を獺ぐL悪政下の術中に赴任して︑﹃從純を
放散し︑過へに賑貸を加へ︑農桑を勧め栂し︑遊費を禁止Lして︑
と緊縮政箙を実施し︑ついに可門は夜も局ざさず︑色に吠ゆる狗なく︑
府の戯薪へ多く︑賦税倍も入るLという治績をあげ︑史や民たちか
ら父雌といわれるに至った︒九州へ行っても流浪の群盗が多かった
のを刑のかわりに恩を与えて心服せしめた︒ことに注意すべきは蝦
夷の叛乱に対する平和宣撫工作である︒このあたりは元慶注記に蕊
づくのであろう︒
大橡藤原穐長を以て押領使となし︑出羽の軍と賊閲を討鍛せしふんやのむ︒出羽推藤原宗行・文室有腸・小野森泉淳も亦国中の歩と騎
ワロ︒ほとりたむろ
と二千余人を発して︑相共に秋田河の辺に屯す︒時に賊徒千」
ふい余人︑唾き劇に乗りて︑流に随って俄かに至る︒穐長導兵を率
そ島きくB
ゐて対ひ戦ふ︒天は時のまに大いに霧らひ︑四面昏暗がれり︑しりへゞここにおいて賊衆数百人︑兵歎を持ちて官人の後に至り︑声をとき同じうし大いに関をあげ︑奔って官耶を突く︒官取大いに雌き
狼狽して散り走る︒賊は勢に乗じて前より後より訴ってこれを
つい采っ︒官軍大いに没えて︑遂に出羽国の怒師神服典雄および両
︒と︑ク︾﹄国の偏禅数十人を斬る︒軍士の殺され虜にせらるるもの数百千
人︑軍実甲胃︑悉く閑獲せられ遂に相囲み蕗かれて死するものきづあげて数ふくからず︒文宝有脚は刺つけられて殆んど死し︑小
ひぞかく
野葬泉は死に人の中に瀞み伏れて縄かに轡を免るることをえたひまかくものくり︒藤原梶是深く草の間に蹴れ︑五日も食はず︒賊去りし後︑小ち歩より逃れて陸奥国に至りぬ︒
こういう草深い辺境の峨闘描写は将門記につらなるもの︑しかも保
則は失怠の武将小野券隈を釧守府将奴とし︑昼夜雑行︑動乱の現地に
急行し︑術是らを梨めて平和工作壱進め︑ついに﹁一卒を労せずし
て大通を平定し﹂た︒まことにすぐれた突餓的な古代官人の典型で
ある︒
天性照淑にして︑身を以て物を化す︑僚下に貧り職きもの有らあらたむに︑城を推して戦訓す︑藩し遂に俊めざらん者は︑これと訂さじ謡を接えず︑その一勢だにも有るを見たらむには︑すなはち顔
色を悦び動かす︒
人を見る明があり︑道真と讃岐守を交代したとき︑可当今の碩儒L
だが﹁但しその内志を見るに︑まことにこれ危殆の士なり﹂と批僻
した︒︵消行は逝爽に卵退を勧め︑その後吟平に上る詩においても
﹁悪逆の主︑猫髄科に処せらる﹂などと時平側に立って兜節してい
8
る︶後はたしてその筒の如くだったという︒文体は四六厩偲の装飾を去って簡潔で周到︑力強い叙述である︒
和習を含んだ一報のくづれはあらわれず︑明噺な骨格のある伝の文
は一秘の古典的な気蝿に撒かれている︒清行は保則の巌潔力行の人
物を芥の相︑一狐装三十年の畳子や︑後漢の士︑林宗巾ともてはや
された祁礁の人物に比して︑司潟遷が晏平仲を伝し︑嬢包が郭林宗
の蕊碑を銘じたように︑保則を雌したのである︒彼は保則という人
間をかりて自分の平素抱懐している受領・官人の理想像を変現した
ともいえよう︒意見封事は儒教主義の学備としての社会政節論であ
るとすれば︑保則は彼の理論に肉づけした儒教的政教理念を身をも
って実践する官人の範型である︒星野恒博士の保則伝考に﹁叙事洋
明ニシテ揃舗典雅︑古来各伝中二於テ翻楚トス︒⁝鋪叙淵詳︑具ニ
ソノ人卜為リヲ悉シ︑禰枇ノ下︑氷ク鰐範ヲ艦ル︑批功亦休ナリL︵史
学醗蝋輔一躯五六二瓦・史学雑雄四ノ三八︒﹁同辿考L何上四の四
○︶といい︑安稽漁泊︑保則伝に賛して﹁尚武にして而も沈識L︑人を
知りて推竣し︑懐を開いて衆を威しL﹁計を先にして戦を後にするも
のLとして賞めている︒具体的に人間の生涯を伝しつつ︑ここに清
行は自分の思惟を投射している︑古風な儒教主義のモラルにしばら
れた凝間した人朋でなく︑悪吏のために搾取され窮迫のあまり流浪
し反逆する嚥民や兇民族社金に身をもってはいりこみ︑彼らを人間
として人通主餐的に扱わうとする︑反乱や盗賊におびえたつ辺境の
農民に触れて思索し爽践しようとする新しい行動的人間像が描かれ
る︑王朝前期漢文学が形象した文学のうち︑もっともすぐれたもの の一つであり︑将門紀の系列につらなって︑一つの新しい文学のジャンルをうみだそうとする注意すべき作品である︒通行本には
統麺従木︵巻一九一・奥腱﹁貞亨乙丑季浄武州金沢称名寺文叩
本写畢Lとある︒水戸彰考館の史臣が写したもの
をもって底本とする︒但しこれは誤脱があった︒︶
存採篭書本︵跡八冊︑逸伝大穂のうち︒︶玉範本︵を一三九.井上輔聞靴︒粟剛迩仰士校本で前川旗
本によって対校補打した︒︶
などがあり︑水朝香鯖倒妹嗽に︑
民部卿保則一巻
ぜと著録する︒なお可浄土寺念仏維起に︵大日本史料第一細之三︑
延喜七年年末雑戦︶というものの末足三行は保則伝の断簡であっ
て︑古写本の善本と象えて︑前川本のよ染えざるところを解くと
ころもある︒史料ではどうしたことかこれが保則伝の破片である
ことに気がつかず︑念仏緑起の末鮪と弧って判断して念仏傲起そ
のものを延蒋七年にかけているのは従われない︒
なお前田家本の保則伝に円珍伝と恒貞親王伝︵残巻︶が一諸糎
なっているのは︑恒貞親王伝︵総頚従一八九︶も龍た消行の作で
あることを物語るのであろうか︒この伝も廃太子侭貞親王の人間
像を浮彫にして叙述は辞しく明蜥で蒼古のひびきがある︒ことに
禍を予見して辞退しつづけ︑ついに槻にふれるところの︑不安に
おびえる炎人の生活心怖や︑父帝淳和天肌より寒川荊洞易水曲を
伝授されて︑﹁正撫に非ずLとして拾てるところは委曲をつくし
ている︒彼の雷を批判して
』
9
鯉餓は筋勁けれども肉腱乏し︑淳和は肉蝿かなれども筋祇らか
ふためづ
なり︒親王に至っては筋も肉も唾つながら奇らかに︑肥えたるか主と痩せたると適へることを得たり︒
という︒このような縦力はやはり油行あたりと推定してもいいの
であろうか︒
迩兄封蛎十二条は九一四年・綴二月十五日に公卿諸臣国司らに対
して社会政策について意見を徹せられる詔が出た︵貞偏公記抄︶
のに応じて側凡廿八日に上申されたもの︒滴行は六十八蝋︑従四
位上式脇大柿︑帥年冬の﹁描眼文﹄にみるようにこの時は眼疾で
﹁縦もて醤する能はずしという状態の時であった︒日本紀略や扶
桑略記によると︑その前年︑前々年より早魅・大風・洪水等相次いで
米作も思わしくなく︑朝賀も廃せられ︑一趣の不安な社会状態であっ
たので︑これをきりぬけるために意兄を求められたのであろう︒柵
行懲兄は前文と十二箇条の条文とから成る︒前文は上古以来の民沿
・経済の史的概観で︑上古社会の豊かな民俗を縦慨し︑仏毅伝来以
後︑推古・聖武および近代に至り仏塔建設︑また柧武莫都以来の平
安京辿識修理の土木輔業︑仁明朝における府瓜な喪楽による浪澱な
どのために岡曲が期大し机税が加飛されるに至ったことを指摘し︑
民力が糞粍澗渇した一例として︑自らの備中赴任時代の調査安料た
る迩購卿の戸口の激変衰損の状態を説明する︒さて十二簡条は
側まさに水早を消し農秘を求むくき事
鼠根を神仏に祈剛すべきを強関し︑祈年〃次祭瀦ねんご
ろにし︑磯年を祈る背祥侮過・仁王公を鮫修するため伽
の戒律を鮫しくして︑破戒違律の側がこれにたずさわる ことを排斥する︒
とど②寿移を禁めんことを讃ふ事
男女臣庶の服飾が華美腱なり︑仏辨法会に無用の飲食にふけることを桁摘して︑服制をたて︑佃従の耽滞を戒し
める︒
③諸鬮に勅して兄口の数に随って口分田を授けんことを鋪ふ和
諸国計帳の口分川と風旧との混涌の弊を誼じ︑現在人岡
を岡交してn分田を証紛せんことを求める︒
側大学の生徒らの食料を加給せんことを耐ふ聯
大学刑立の梢神︑勧学畑の渦雌をのべ︑学川の衰損と大
学の疲弊︑学生生播の窮状と而吏避川の逆が失われたことを論じて︑教育財政の確立︵学田の恢復︶の指導強化
を脈える︒
かき⑤五節の妓の︑を減ぜんことを州ふ聯
大欝会起四人の定貝を二人腫減し︑衣服月料を十分に揃
給すべきを求める︒
佃旧に依りて判蛎の貝を潮慨せんことを識ふ覗
刑法の敢要性腫ついて胸じ︑職此令に従って判那を定n
大猫とし︑法祢呼攻のものを任ずべきを求める︒
切百官の季禄を平均に充て給せんことを謂ふ邪
季禄︵ボーナス︶支給の不公平を詰り︑公卿や出納当勵
老の承ならず各柑の官吏も一列に平等に支絵さるべきこ
とを切一蘭する︒
⑧術鬮の少吏ならびに百姓らの併徽排挫に依りて朝仙を蕊し通
わすことを停止せんことを誠ふ事
10
国司の退任を尊瓜して︑阿司の桁威を商め︑彼らの自由裁鍬の余地を秘め︑下級官僚や民衆の告諌ごとに聡卒に棚使を派過し︑国司の活勤を妨謝しないように癖論す
る︒
⑨諭国の勘符人の定数を段かんことを満ふ瓶
課役免除の符の濫発により測廠の体系がくずれたことを油じ︑勘薪の典数を規定せんことを求める︒
側賊労人を以て諸鬮の検非違使および野師に補任することを停
めんことを請ふ事
地方の検非述使や野師が民治︑国防上亜要なことを鯛じ前満は朋法の学生より︑後者は武技純逮の衛府の有人より任ずべきを求める︒
典﹄ど叫荊閏の佃徒らの溌懇および椚衛の舎人らの兇鵜を架めんこと
を耐ふ班
諸国諸寺混分散群行する兇悪な柑徒や宿衛の舎人たちの俄行鵠状ぶりを指摘して︑これらの取締りの方法を訴え
る︒
仰鞭ねて捕解国の魚住の泊を修從せんことを柵ふ邪
禰海逝舟行の沿革窪のべて︑魚住油の破壊のもたらす彫評損害を挽いて︑延喜元年に一庇意見を申上したが︑砿ねてその修理を献言する︒
以上十二箇条︑中には筑末なものもなしとせず︑その策要度におい
て均衡を失したならべかたをしていないでもないがいは不作飢峨に
当って天神地祇に聯恕をこい︑蝦稔を神仏に祈るところ︑服術の花
剛に兇縛せられている限界があるが︑民衆生活の根本として食糊
政策についての関心をみることができ︵神遊や仏牧が農耕生涌の艇 礼としての性桁をもつものであることを反測から税別するもの︶︑②は険約節制によって平安貴族社会の頽廃を挽回しようとするもの︑保則伝や深紅衣の奏議の籾神と共通する︒③は人口調査による社会現実の把握を意識しており︑側は官吏養成を目的とする大学のたてまえと儒教主銭教学輔神を主狼するところは祁令の学制を筒こうとしているわけである︒⑤は②の緊縮政簸の一端︒側はやはり律令制の職貝体系を樋こうとし︑公平な城判と︑法祁の専門家を活用すべきことを主張する︒mは中央官僚に対する給与の公平なるべきを主張して︑大蔵官僚と一部高官の季禄独占を排除する︒⑧一部の地方下級官僚や民衆の訴願を無視しても国司の椛威を維持し︑ある醗皮の自由奴敬をも認めようとする恵見で︑当年の社会状態において靴令制の支配を維持するための一つの弾力のある根本的な識簸である︒⑨も調脈体系を維持しようとするもの︑仰は地方検索官と防衛の土卒の綱紀粛正策であり︑伽は⑧側と共に搾令制解体の不安に対する根本間鼬にふれる︑国守を襲瑛する僧徒の群れ︑部内を棚行して兇暴の限りをつくす術府の官人くずれに対して僧徒の兇雛なものの腿線戒牒をとりあげよ︑舎人術卒たちの州郷休暇の日限を規定せよという消行の通兄は︑従乎空泰で狂澗を既倒に回えそうとしている概がある︒側は全体的な問題ではないが︑海上迩翰政策の一端である︒
意見上申を求められることは孝徳紀以来しばしばみえるところ︑
﹁聞宗に利あり百姓に寛やかならん術Lあらぱ申せよ﹁洞理に合はばたより立てて法則とせん﹂︵天武紀九年︶といい︑可政令邪に便ならざるつらこと有らんには︑悉く帥ねて源むことなかれ︑菰苗して意を尽くし︑
11
⑥
隠す所あることなかれ﹄︵縫紀︑元正天鬼謎老五年︶といい︑同時つまびらやぶそこな政の是非を強じ︑世俗の得失を詳かにし︑化を傷り人を害ひ︑時
たよりに便あらざらん者︑用を節し度を謹みてまさに国に利あるべき者︑
ならびに冊苫を尽して朕が心に沃るべし︑華やかに飾ることなかれ︑
隠して朧むことあることなかれL︵三代爽蝕︑淌和天風典齪四年脇︶
といわれるもの︒仁和四年にも橘広相意見十四条︑藤原高経意見五
条︑中務大輔十世王意見六条︑平維範封事七条が上申されている
︵紀略正川二月条︶︒消行も延再元年に一度献じたことがある︒
文体はわが掴の古寄を引用する部分が多く︑﹁案Ⅲ妃L可古概相
伝云L︑鮎川謎﹂としてそのままそれを紬拠として勘述する︒逸恵
を旨として︑前提に命脳をかかげ︑引証しつつ趣旨を説明し︑まず
事実をのべて︑次に改革すべき意見を披瀝し︑最後に︑︑︑︑如此則怨獄永絶︑罪人自廿覇不待扶南之鰐魚︑登用兜時之礁劣
︵輔六条︶
︑︑︑
如此則咄姻在桑︑均叩餐於七子︑皿隅投洸︑期洲酔於三流︵鋪七条︶
︑︑︑
如此則後僻比肩於門欄︑狗犬休蕃於州壌︵第十一条︶という風に四六文で結末している︒論理的に明断であり︑歴史的客
観的蛎火をありのままに叙述し︑そこから当為的な命魎をひき出し
ゞやてくる︑これを行るには時には獅突に即してのべようとして樋めて
平淡な記録体の散文をもってし︑時には問答体として︑一つの命題
に対する反対意見をも出し︑対話弁証によって結論を導かうとし︑
時には耶実の世界からはばたいて︑典拠によるわれた効果的な四六
文をもって廊を大にし切々と癖えようとする︒ところで封邪の形式 として不審がある︒封堺は献じ鋳れば︑可共名を切棄てて下し給ひ諸卿これを定めL︵新儀式五︑塵時︑封事事︒︶﹃御前において年月日
︲つ.人名を切り棄て︑同趣の班は一所に寄せ統ぎ烏北山抄四︑定封事堺︶
参磯がこれを暁み上げて審識したのであるに拘らず︑消行封邪には
前文に﹁臣去寛平五年伽巾介に任じたりしとき云勾Lといい︑末尾
た喀玄つに﹁去にし延拝元年献れりしところの意見の中に云々Lといって
明らかに情行たることを推定せしめる文句が本文中にあることであ
る︒普通の封事の体式にちがっているのは浦行に対して特別な取汁
らいがあったことによるのであろうか雛いを称しておく︒
当年の時代ならびに文学の杼景において消行封邪の意鏡を巧えて
みる︒九枇紀末の社会は﹁無頼好淵の瀬︑なほ王唖家の人と称して
放縦暴猛︑国郡に従はず︑牧宰を悔慢し︑所部を騒擾しL︵寛平六
年十一月太政浦符︑額従三伏格十九︶﹁諸院・猪宮および潴玉雁京
成は禰姓の戸川を論ひ︑戎は浮浪の財物を球ひ︑岡宰に拠らず︑郡
たがい司に牒すること無く︑部内に闘入し︑逓に扣圧略し︑専ら威椛を
ほしいまま掴にし︑理非を弁ぜず︑田園斯れに因りて荒廃し︑財産これが
ために空端せり﹂︵箆平八年四月太政宵符︑顛聚三代格十九︶さら
に十世紀はじめにおいても可愚暗の道俗︑勢家に偶托しLたので﹁蹄
院・禰宮・砿瑚・腋寺・浦王胞寒の使に耐ふらくは︑共の辿はす所
非を弁ぜず︑濫りに道無きことを造らふ︒国郡の司官たちはその あげつつかさびと の使は己に其の人に非ず︑専ら威勢を施まひ︑窓に猛暴を行ふ︑是
十でふる
凌辱に堪へず︑又部内に乱入して︑好みて濫悪を行ふ・・・・・・百姓究をかうぶこと害と被りて尽頭く逃散し︑郡司威を恐れて舌を呑みて解えず︑史民の噸
12
らひ︑これより大いなるはなし﹂︵砥啓五年十一月太政宵符︑瀬こむごろ聚三代惜十九︶といい︑﹁此来︑玉臣および緒司・寺家等︑山林をか上壮包ね好せ︑蔽沢を経略すL︵錘葺一年三月太政育符︑顛緊三代緒十
六︶という状態であって︑まさに非合法手段によって経済的に律令
制の根抵がゆすぶられつつあった︒柚期平安京政府は必死にこれと
格闘し統けるわけであるが︑消行の窓見にのべるところは︑このよ
うな祁令側社会機柵の内部や鑛盤がゆるみはじめてくるメカニズム
の爽杣をリアルに把握し︑これに対して今や﹁澆腿漸く扇ぎ︑王化
行はれずLとし︑可往古﹂と一明時Lの規樋としたところの律令的
指導理念をかかげ︑一歩でもこれに近づけようとする︒彼は中国の
古典よりもわが国の古記をより尊電する︑そこに儒教主抵をこえよ
うとしながら︑なお一靴の儲教主没の尚古思想の反映がみられる︒
また現火を﹁W玉之溌醗Lとみようとするところには否みがたい仏
教寺院造営の弊をつき︑僧徒の目をおうばかりの無術な堕落をはげ
しく攻螺しながらも︑仏教的な末法意識の投影がみられる︒彼は学儒
としての鵬史的認識からさきに革命識を上ったのであるが︑今や政
治宝としての現実蝿識から︑農業・土木・交通・文教・裁判・検察
・租税・雌生の社会各般にわたる緊紬粛正の政簸を展開したのであ
る︒その艇巻は第十一条であり︑寺院や陳・宵・王臓家たちの荘園拡
大によりゆがめられる律令制経済機柵︑そのゆるみのすきまに瀞生
するところの︑律令制を可童書する癖撰﹂である︑租税から自由になろ
うとして武装群行する僧団グループ︑衛府の任務から解放されて在
つちか地の勢力を培わうとする﹁諸鬮の射狼﹂たる宿衛の舎人群︑これら
の蛎爽を冷やかに兄すえている︒彼の政策諭は律令制政府下の百人
鋲ロゴ として否みがたい尚古主襲的傾斜と限界性をもつ︑そこに一和の凝閲性が感じられるけれども︑同時につねに民衆の生活の安定を希求し︑時代社会の否みがたい変革の実相を見すえようとするところに思考の弾力性と柔軟性とが感じられる︒このような彼の箱神櫛造をそのままに反映して︑この滴行意見という作品を文学的にみるとき︑︑一献の凝固的な四六文のむだな儀式ばった装飾の要紫と︑平明な散文をもって戦火を戒がし︑自由に忠紫しようとする肥妹休とが奇妙に混洞する︒声を大にして演税しようとするところに巾実からの浮き上りと︑氷実の誇張歪曲がおこりやすい︑星野博士が事実とのくいちがいを措摘せられる︵史学雑迭︑未見︶のもここからくるので
あろう︒
元の世祖は科挙の学は可卿賦の空衙Lなりとし︑経済の士はここ
から御がたいとして中岡の伝統的な科挙捌皮を廃止した︵古川幸次
郎博士可元雑劇研究﹂一八六頁︒︶ところが三拝流行はこの﹁狩賦の空
言﹂の世界から経世済民の社会的な思惟をうみだした︒遁真や長瀞
雄とちがった意味で清行において律令的な文学糖神が最高の高みに
進したともいえよう︒安積瀦泊は﹁凹砿︑陸識の時事を指陳するが
如し︑⁝⁝月露隅巽の徒に鮫ぶれば︑棚去ること櫛に倍秘たるのみ
ならず﹂︵荊行伝礎︶といい︑卉臓拙蝋は﹃妃鯲刀余衙︑剴切核実︑
拷時政に袖ふところあり︑⁝・・・共の文排偶の習を免れずと雌も︑然
も気象祁健調は意を害垂︾⁝⁝其の材学識見︑当時に在りては実︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑に比無しとなす︑余常に謂へらく︑王朝文章無し︑三善の封事有る
︒︑︑つ〃︑のみと﹂︵拙弛文話巻一︶といい︑頼山陽は﹁彼の無川の文飼を為る
将と大異あり﹂︵間水政紀巻七︶可朝野の巾弊を陳べて︑愛を枕り
13
凸垢を胆くが如し﹂︵山隅先推称後巻小︶といい︑江村北海は﹁将に
怪しむ︑災の子孫の芸苑に側ゆるなきを﹂︵脚本狩史巻一︶という︒
荷田春満の﹁創造国学校啓文﹂は清行意見の文章を摸しているとこ
ろがあり︑また明治年間に宮地厳夫が公爵会でこれを誘述し︑国家くわ学縦という藩脅でこれを委しく脱明したという︵古史徴州噛妃︑山
川学鮴仰土性二流○・閥六二瓦︒︶明治社会の性格の一断片が滴行な
兄の性絡と杣渉るのであろう︒
詰眼文は一秋の戯作的な作品︑六十七蟻︑延祥十三年の冬︵意兄
封鞭を蒋く数ヶ月前︶老眼の視力が衰弱して乗でもの書くこともか
なわなくなった感懐を︑眼の神と心の神とを擬人化して対譜させる︑
一秘の滴茶猫式擬人物概のしたてのなかに澗するもの︒仙心の神なじが眼の神を紬っていうには︑お前はこの馴拙能を発押してわしを助
けようとしてくれぬ︑なまけたくなったのか︑それとも主のわしが
馬鹿だから助けるのがつまらぬというのか︒ちかごろ下積みでさえ
ないのは︑お前さんのせいぢやないかね︒②眼の神は涙をぼろぼろ
こぼしてきいていたが︑さてお辞儀をしていうには︑せっせとお前
さまの志に感じて奉仕してきたつもりなのに︑州ないことを仰せら
るる︑ながい苦労で糟気がへったせいでござる︒どだいお前さまは
世渡りが下手ぢや︑もすこしましな生活なら精気もつかうものを︒
あつ愛への火常に熱ければすなわち君が方寸も灰と成りぬくく︑なんだならふたまなこお畦は怨しみの泣盤びて流るればすなわち臣が両つの腕も永く溺
れぬ︒
J1・師lお刑さまの慨然は灰とさめて︑わしの眼も僻むが︑わしだけでは
なL
ござらぬ︑手はふるうて足は錘え︑耳は蝶いて歯はむしになりはて 仇やたではござらぬか︒⑧心の神は度を失ってわるかったと謝まっていう︑しからばどうしたらよるしかる︒倒眼の神は元気づいていう
しばたけ若かじ︑六芸の圃を辞して︑三品の門に入らむには︒
lもう礼楽詩書の勉強はおやめなされて︑仏法僧に蹄依なさるが蛍厳皐たよるしかる︑わしも瞼を合わせて仏陀の光を観じたうござればしkうどん島いぱい伺いいもはてぬに心の神は咄簡礼拝して︑いかにも聯い数え︑おび紳に書いて忘れぬように致そう︒
.唯してら
﹁進んでは卿相の館に廷りて其の才名を街ふこと能はず︑退いて
は奥龍の人に蝿びて其の推薦を求むること能はずしというように世渡り下手だというにがい日朝のなかに︑学問を噸んじ溶くなった延
祥の社会瓜潮に対して一靴の皮肉と似刺をこめる︒あきらめに近い
●ヘーソスにみちた老年の心現が︑かるいユーモアをまじえて杵白さ
れる︑世の中のはげしい動きと歩測があいかねる学蒋文人のほほえただ錠みましい自耐像であって︑忠臣の﹁見一叩頭塁一詩一や噸の可無尾牛歌Lの
自噸的な作品の系列につらなるもの︑四六勝暁の文体ながら不思議
な自由さが洗れて︑掬すべき蔚古の味わいがある︒文泄の賊や陶滞
の﹁形影神Lやさらには満茶沿式の暇代民間歌賦などの形式の速い
こだまであろう︒本朝文粋︵巻十二︶政蛎要略︵巻九十菰︑学校郡
下︶朝野群紋︵巻一・猪熊本の本文は文粋と小典がある︒︶などに
収める︒
別に構行の著述に説話を集めしるした珍しいものがある︒本朝普
なら旅側錬諏に︑江狼︑打聞に列べて︑
禅家秘妃一巻︵成賛堂本・内閣文叩本﹁イ答家秘抄﹂と侮註
する︒︶
14
とあり︑今侠︒その侠文として賀陽良藤が狐の化した女子と交つた睨
括をしるした一条︵扶桑略記︑寛平八年条︶が追加される︒前鯖は
人獣交蛎脱括で︑聯の伝奇任氏伝の何らかの影蒋がある︑日本化し
て一報の観音識験脱話の形式となっている︒﹁縛家秘記云︑余寛平五
年︑出為備中介︑時有闘夜郡賀陽良藤者⁝Lと書きだされ︑清行の伝記
とあうから︑善家秘記は清行が書いたものであることは疑えない︒
文中に﹁共後良藤無悲十余年云々︲︸の記事があるから︑延喜六年
以後同十八年までの間に成立したのであろう︒︵今昔巻十六︑備中
鬮微鴎典聴為狐夫椰観苛助砺鯏十七に訳出せられ︑司此ノ邪ハ三普
ノ消行ノ宰相ノ共時二伽中守ニテ打リヶルガ綴り伝へタルヲ側キ次
ギテ賊リ陸へタルトャLと総ぶ︒元享帆排︑拾典志にも︒︶
後括は型太后五十賀斎会の条に︑
禅家秘紀曾︑清和太上天皇奉賀太皇太后藤原明子知命之算︑設
護楽献慶賀︒太上皇刑制太后之前︑再拝献千刀齢之寿︒時太后
悦忽︑元有人心︒而鬼在太后之傍︑宛如夫婦之好︒杯鵤餓宴之
間︑与太后戯相娯︒太上天皇見之︑太悪厭世︒
これは後に展開して今昔の﹁天狗のために娘乱せらるる語Lとなり︑
ホック帥
司此ノ鬼魂后ヲ枕ラシ狂ハシ奉レ・ハ后糸吉ク取り跣上給テ打チ咲テ
既シ溌閲シテ御帆の内二入り絵テ鬼トー人臥サセ給ケリ女脚ノ川ケ
レ・︿只閲米恋シク佗ツル靭共ヲゾ鬼申ケル届モ咲噸ラセ絵﹂などと
ふくれ上って変容した︒︵なお江擬︒拾遺注生伝下︑相応和尚条︒
古事談巻三︒宇治拾過巻十五︒元亭釈書巻三真読︑巻十相応の条等
に詮え︑河海抄巻二十︑手習巻にも司善相公の記にも熟えたりLと
してこの天狗抑が引かれている︒︶ なお縛家異紀というものの侠文が政蛎要略︵巻七十︑擬灘歌魅及
巫馴坤堺︶.に邸哩見〆鬼有二微験一記︵静瀕拠肥︶﹂として出ている︒な
かみは二段になって前段は浦行の父淡路守の塒痢んだ時に老懸がつ
いている鬼を見あらわして病を鱈やした話︑後段は司寛平五年︑余
出為術中介︑到数十日Lの時︑流行病で弟の子などが死んだ時に一
人の擾婆塞が鬼を見あらわした話で︑司此事雛二迂誕一︑自所レ祝︑
聯以記v之︑恐後代以似余為二鬼之董狐︸駕ソLと結んでいる︒これも善
家秘紀と同書であろう︒
また都京異税というものの侠文が政邪要略︵巻九十五︑学佼蒋
下︶に
弓削雌雄式占存・徴験一邪︵抑家蝿脱︶
服〃梨駐v老験記︵禅家災撹︶
二箇所みえそれぞれ二つの説話からなる︒前条の前段は今昔避廿四︑
天文博士弓削是雄占杉夢語第十四に訳出せられるところ︵古砺淡警六
にも出︶後段は寛平四年清行が勅使として八省院で試をした時是雄
の推駕した沙弥を及第せしめた記︵紀略︑寛平四年八月十日参照︒︶後
条の前段は寄衡四年百一賎で死んだ竹田千継が拘杷を服して艮浮を
えた話︑後段は長寿肴を列挙して中に﹁延榔十六年八十五で報じた
群内卿十世玉︑九十飯で尚壮零ある大蔵縛行のことをしるす︑これ
らも消行の識であることを疑いえないから︑禅家秘把と同一の詩と
みていいであろう︒しからば本書の成立は延響十六年から彼が死ん
だ延喜十八年までの間に成立したものであろう︒
霊鬼妖狐とそれらにかかわる巫現たち︑また占術・方技の物語で
あって︑・識純宿曜に造詣が深く︑神仙玄学にもくわしかった浩行の
15
性格にふさわしい脱括である︑明らかに六朝志怪小脱の影騨をうけ
て成立した一秘の盤異押を鵬めたものであって︑日本砿拠紀や日本
怨霊録が仏数的な慾異郷であるに対して︑枇俗的なわが国の慨測説
括築の源流に位する一説話鵬である︑今日ほろびさったことは惜し
いが︑今昔における出典不明の怪異説話のうちこの蒋家異記から訳
出されたものが案外多いのではないか︒その説話末に﹁皆霊狐之妖
惑也﹂とか﹁是雄占験︑符郭之類也Lとかで結末するしかた︑また
﹁此事錐迂誕︑自所視︑卿以記之Lとか︑﹁藤相公譜亦同︑仏記之﹂と
かことわるところなど︑かの牌臨の冥綴記の体式に共通するとこ
ろ︑なお要略は司砿蝿児鬼有敬験紀L﹃弓削是雄式占打微験小しな
どのかきざまも要略の他密の引川のしかたから瀬推して︑隙沓の標
題の引用らしい︒文牽は三善清行の作品のうちもつとも平明なもの︑
四六文から離れて記録体になったもの︑日本盃異記式の和習も認め
られるが︑達意で緊密︑部分的に文飾をもまじえて古格を失わない︒
彼は晩年﹁筆をもて書する能わずLというほど眼疾になやんでいた
から︑或はこれも死ぬ二三年前に︑門人にでも口述兼記させてできから︑或はこれも死ぬ一
たものかもわからない︒
に
彼は歌人というほどの作品をのこしていないが︑旧本紀懲窪和歌トフエア斗郁忠阿
?寡ぺ
伝奴弊︵欽醐 幸トケス
保登計須そ〃ヲ・母迩衷羅,七志シ末マ雑敵迦斗加志胡美斯朗陀弊能那微加幾和気伝宜麻勢流 ワゞミカドカシプ2シ種タヘノナミカキワケナキ寸セル 七年紀︑危脇の条をよむ︒︶ 理夜都忠遠胡遊流多津能胡麻幾芙須佐米然婆於伊波 リヤッ態ヲ釦ユルクプノ■マキース妙メネパオイハ
=
︵欽明十三年紀︑釈迦像繩鋤献上の条をよむ︒︶
の二首がある︒油行六十蛾︵遜肖六年︶の作︑納眼文と共迦の老躯
伏鯉の訴えをこめたり︑仏法に傾到するに拘らず王法を戒んじたり
するところに彼の性格が剛如としている︒
なお浄土寺念仏縁起というものがある︑天台の僧隣西の咄導隷起
文で往生浄土︑阿弥陀経信仰を鼓吹したもの︑現存資料は後半に保
則伝との錯簡がありこれを三善消行の作とするには疑問がある︒ま
た紀長谷雄と共に︑﹁世説私記﹂というものを作ったという説もあ
るが︑これも現存しない︒