博士(文学)新田孝彦 学位論文題名
カントと自由の問題
学位論文内容の要旨
本論文は、哲学の立場から、「自由」と「行為」という概念が使用される際の 規準と根拠を尋ね、カント哲学の解釈を通じて、それらがカントの言う定言命法 としての「道徳法則」のうちに見いだされることを示し、それによって哲学史上 長らく論争の的とされてきたいわゆる「自由意志問題」や、現代の哲学的行為論 に 対 し 、 解 決 の た め の 新 た な 視 点 を 提 供 す る こ と を 目 的 と す る 。 第一章ではまず、「自由意志問題」は、中世初期のアウグスティヌスにおいて は、全知全能の神の摂理と、悪しき行為に対する帰責との両立可能性の問題とし て定式化されたが、近世以降、世界の経過を一義的に決定すると想定された自然 法則と自由との両立可能性の問題として再定式化されたことが確認される。しか し本来、他行為可能性とそれに基づく帰責という実践的意味を合意す,る自由は、
このように「決定諭と自由」という形で対置されることによって、たんに自然必 然性との両立可能性の問題として扱われるようになる。そこでたとえば、自然経 過の必然性を認めた上で、それと矛盾しないように自由や行為といった実践的概 念の意味内容を変更したり、あるいは逆に自然経過の偶然性を証明することによ って自由を非決定性という形で擁護するといった方策がとられる。だが本論文の 著者の指摘によると、これらの解決策では、行為の生起と自然の出来事の生起と の同種性が自明の前提とされており、このようにいわぱ自然化された行為概念に おいては、帰責の根拠としての自由の可能性を適切に説明することはもはや不可 能なのである。
第二章「行為の問題」では、引き続いて現代の英米哲学における行為論が取り 上げられ
という目 理由とは 果的な説 される。
る形で理
他方、行為の志向説が、意図は决して原因ではなく、ある行為の意図を述べるこ とはその行為をなんらかの手段―目的連関のうちで再記述することであると主張 するにしても、意図それ自体がいかにして生ずるかが示されたわけ,ぐはなく、ま た行為(基礎行為)がなぜ自然原因による出来事に還元できないかがポされたわ
」
、 因 討 せ る 的と ぅ検 わな 目説 いが 合に
:向 と立 ねと 段志
」対 重こ 手の 果の とる
「 為 結 と 起 れ を 行
― 説 生 わ 為る 因果 の失 行す 原因 事は
、と
「の 来地 は る を 為 出 余 とあ 為行 をる こ で 行 る 起 す ると はす 生立 すこ とと の存 明く こる 為の 説 置 る あ 行 由 をに べで ろ自 為ち 述と こり 行う をこ とは ての 由く のや べン 理置 局は 述
―
、 に 結 で を タ ル ち
、 こ
) パ ぁ う は そ 図 明 で の 説
、 意説 因ン 果り
( な 原 ー 因 お 由 的 の タ の て 理 論 為 パ 為 し
、的 行明 行解
けでもない。このような検討を経て本論文の著者は、両者の異なりを明らかにす るためには、なによりもまず、行為における自由の原因性と、出来事における自 然の原因性とを区別する徴表はなにかが問われなければナょらないことを指摘する。
ところでこのニっの原因性を明確に区別したのがカントであった。第三章では、
カントの『純粋理性批判』のなかの「原則の分析論」における「経験の第二類推.j が検討されている。それによると、「あらゆる変化は原因と結果の結合の法貝l亅に 従って生起する」という第二類推の原則は、自然界における出来事の経験に先立 って、出来事の経験そのものを司能にするアプリオりな命題であり、if為も出来 事と見なされる限りはこの原則に従わなければならナょい。しかし他方、行為に対 する帰貴が可能になるためには、出来事の系列を時間の条件にかかわりなく自ら 始めることができる「絶対的自発性」としての「超越論的自由」という理念が不 可 欠で あっ て、こ うし て自由という概念の思考可能性が保証される。カントは
『純粋理性批判』のなかの「弁証論」で、この自然必然性と自由の対立を第三ア ンチノミーとして提示したが、ここで近世以降の決定諭と自由の両立可能性の問 題は、理論的にもっとも尖鋭化した形をとるのであって、そのことを示したのが 第四章「カントの弁証論」である。
このように『純粋理性批判』では、自由の思考可能性が確保されるが、しかし この概念を使用してある事態を行為として把握するための権限までが与えられた わけではない。そこで第五章「自由の問題圏域」では、改めて、自由であるか否 かが問われうる行為とはなにかが間われ、それは現象として現れる身体的動作と しての振舞いではなく、道徳の領域において、格率に即して把握された限りでの 行為であることが明らかにされる。このことに基づき、超越論的自由の概念を使 用する権限の問題は、このような行為の本質的要素である「意志の自由」という 概念を使用する権限の問題に移行する(これは同時に、カントにおける理論哲学 か ら 実 践 哲 学 へ の 移 行 に 対 応 す る ) 、 と い う こ と が 指 摘 さ れ る 。 そこで第六章「カントの意志論」では、カントの『道徳形而上学の基礎づけ』
を中心にして、カントの言う「意志の自律」および「純粋意志」が考察される。
意志の自律とは、意志が意志にとっての他者である一切の傾向性の影響を受けず、
理性の形式的原理に従って自らを規定することを意味し、純粋な自発性を意味す る。ここで本論文の著者は、この自律という概念が、われわれが行為をまさに行 為として把握するための制約であるという重要な指摘を行っている。と言うのも、
自然界でのわれわれの経験的探究が行き着くのはっねに条件づけられた意志でし かないが、にもかかわらず行為がたんに物体の運動のように他の原因によって生 起させられたのではなく、行為者自らが惹き起こした事態であり帰責可能である と考えることができるのは、この絶対的な自発性としての意志の自律という制約 によってだからである。ここではまた、この自律としての道徳性の本質への洞察 の欠如が、近代の自由意志諭および現代の哲学的行為論に共通した欠陥であるこ とが指摘される。
ただしカントにあっても、この自律としての自由の存在は理論的には証明不司 能である。そこで第七章「道徳法則と行為」でjま、実践理性を扱ったカントの 『実践理性批判』が検討されることになる。この著作では、自律としての自由の
ー 67−
ン
、 則 い 求 j 権 き れ さ よ
。 を 念 カ て 法 な 要由 る でわ 示る る 念概 う じ 徳 ら な 自 語 が れ で ぁ あ 概 う い 通 道 な 的
「 て と わ 推 で で ぅ い
。 と を
、 ば 件
、 い こ た 類 則 則 い と る る 釈 り れ 条 み つ る ま 二 原 原 と 由 あ れ 解 あ け 無の に 遡。 第的 な
」自 で さ の で な るて
」 をる
、諭 的 由の の 明 え 約 れ ず つ 為 列 あ 上 越 論 自 で る 証 考 制 さ 命よ 行 系で 以超 越
「味 至 て の な な が に
「 の ら る る 超 み 意 に つ こ り 見 法 と た 因 か ぃ す る の ぅ 諭 よ の ォ と 命 こ れ 原 だ て に す て い 結 に ト リ 理 言 る さ 上 態 つ 能 に い と ぅ 識 ン プ 原 定 採 別 以 事 語 可 能 お
」 い 意 カ ア 的
、を 区 れる てを 可 に性 と の
、 の 成 は 場 に そ れ ぃ 験 を り 能 だ 則 は 念 構 れ立 的
、さ つ経 験 限可 の 法 者 概 の わ的 質 はな に事 経 る的 る 徳 著 為 験 れ 徳 本 と 見 為 来 為 す 徳 れ 道の 行経 わ道 ら為 と行 出行 認道 ら る 文 る 為 り う か 行 た な の の 承 の え れ 論 す 行 まい 事
、し 能れ れ を為 与 さ 本 属 が つ と 来 も 起 可 わ わ 則 行 に と。 に由
。る 出の 生貴 れれ 法「 れ
」 る 然 自 る す の ぅ て 帰 わ わ 徳 る わ 実 い 自 の い認 然 言し のが
. は道 ず れ 事 て 的 律 て 承 自 と と 間 則 実
、 命 わ の れ 性 自 しを
、
。力 人法 は はが が 性 さ 感 の に と し る 動 に 果 則 文 則 限 理示 超て かこ 用れ 起で 因法 ム珊 法権
「 が が し ら る 使 ら を す め 徳 本 徳 る
、 え 則 と 明 あ を え 志 に 然 道 て 道 す が考 法質 をに 念与 意ね 自、 しも 用 在 の 徳 本 と 下 概 が ぃ つ た に ぅ か 使 存 ト 道 の こ の の 限 な が れ ぅ こ し を
学位論文 審査の要旨 主査
副査 副査 副査
教授 教授 教授 助教授
宇都宮 三谷 伊東 山田
学 位 論 文 題 名
芳明 鉄夫 倫厚 友幸
カントと自由の問題
本 論 文 は 、 平 成 五 年 度 文 部 省 科 学 研 究 費 補 助 金 「 研 究 成 果 公 開 促 進 費 」 の 配 分 を 受 け 、 昨 年 十 二 月 、 北 海 道 大 学 図 書 刊 行 会 か ら 出 版 さ れ たA5判363頁 の 大 冊 で あ る 。 こ の 論 文 の 趣 旨 は 、 哲 学 の 立 場 か ら 、 「 自 由 」 と 「 行 為 」 と い う 概 念 が 使 用 さ れ る 際 の 規 準 と 根 拠 を 訊 ね 、 カ ン ト 哲 学 の 解 釈 を 通 し て 、 そ れ ら が カ ン ト の 言 う 定 言 命 法 と し て の 「 道 徳 法 則 」 の う ち に 見 い だ さ れ る こ と を 示 し 、 そ れ に よ っ て 哲 学 史 上 長 ら く 論 争 の 的 と さ れ て き た い わ ゆ る 「 自 由 意 志 問 題 」 や 、 現 代 英 米 系 の 哲 学 的 行 為 論 に 対 し 、 問 題 解 決 の た め の 新 た な 視 点 を 提 供 す る こ と に あ る 。 本 論 文 は 七 っ の 章 か ら な る が 、 第 一 章 で は 哲 学 に お け る 「 自 由 意 志 問 題 」 の 歴 史 が 辿 ら れ 、 そ れ が 中 世 初 期 の ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス を 端 緒 と し 、 近 世 に 人 っ て 自 然 法 則 に よ る 決 定 諭 と 自 由 と の 両 立 可 能 性 の 問 題 と し て 定 式 化 さ れ る こ と が 示 さ れ 、 そ の 可 能 性 を 巡 る 主 要 な 論 議 が 検 討 さ れ て い る 。 こ の 検 討 に 基 づ き 本 論 文 の 著 者 は 、 こ れ ら の 論 議 で は 行 為 の 生 起 と 自 然 の 出 来 事 の 生 起 と の 同 種 性 が 自 明 の 前 提 と さ れ て い る た め 、 そ の 限 り で は も は や 行 為 の 帰 責 の 根 拠 と し て の 自 由 の 可 能 性 を 適 切 に 説 明 す る こ と が で き な い こ と を 指 摘 す る 。 第 二 章 で は 引 き 続 い て 現 代 英 米 系 の 哲 学 的 行 為 論 に 見 ら れ る 行 為 の 因 果 説 と 行 為 の 志 向 説 と の 対 立 が 検 討 さ れ 、 前 者 に お い て は 「 自 由 」 概 念 の 存 立 す る 余 地 が 失 わ れ る こ と 、 ま た 後 者 に お い て は 行 為 の 意 図 が 出 来 事 の 原 因 か ら 区 別 さ れ る に し て も 、 そ の 意 図 そ れ 自 体 カiい か に し て 生 ず る か は 示 さ れ て い ず 、 し た が っ て 行 為 が 出 来 事 に 還 元 で き な い 理 由 が 明 確 で は な い こ と が 指 摘 さ れ る 。
そ こ で 問 題 は 、 行 為 に お け る 自 由 の 原 因 性 と 、 出 来 事 に お け る 自 然 の 原N性 と を 明 確 に 区 別 す る こ と で あ る が 、 本 論 文 で は 、 こ れを 十 分 に成 しj莖げ た の がカ ン ト . ぐ あ る と い う 視 点 か ら 、 カ ン ト 哲 学 の 内 容 に か ん す る 精 査 が 行 わ れ る 。 ま ず 第 三 章 で は 、 『 純 粋 理 性 批 判 』 の 「 原 理 論 」 に お け る 「 第 二 類 推 の 原 則 」 に っ い て 、 そ れ が 自 然 界 に お け る 出 来 事 の 経 験 そ の も の を 可 能 に す る ア プ リ オ り な 条 件 で あ る こ と が 示 さ れ る 。 次 い で 第 四 章 で は 、 同 じ く 『 純 粋 理 性 批 判 』 の な か の 「 弁 証 論 .jに お け る 「 第 三 ア ン チ ノ ミ ー 」 が 吟 味 さ れ 、 そ こ で 出 来 事 の 系 列 を 自 ら 始 め る こ と が で き
ー 69−
る「絶対的自発性」としての「超越論的自由」の思考可能性が確保されることが指 摘される。こうしてカントにおいて自由と自然必然性との思考上の両立可能性が保 証されるが、しかし『純粋理性批判』では「自由」概念を使用してある事態を行為 として把握するための権限までが認められたわけではない。そこで第五章では、改 めて、自由か否かが問われうる行為とはなにかが問われ、それは現象として現れる 身体的動作としての振舞いではなく、道徳の領域において、格率に即して把握され る限りでの行為であることが示され、それに基づいて、超越論的自由の概念を使川 する権限の問題は、このような行為の本質的要素である「意志の自由」という概念 を使用する権限の問題に移行することが指描される。第六章「カントの意志論」で 1ま、『道徳形而上学の基礎づけ』における「意志の自律」が検討され、この自律と いう概念がわれわれの行為をまさに行為として把握するための制約であることが示 される。第七章「道徳法員lJと行為」では、さらに『実践理性批判』の全体が検討の 対象となり、自律としての自由の存在が「理性の事実」としての道徳法則の意識に よって証明されるというカントの考えの解釈を通じて、道徳法則こそが超感性的自 然に属する行為概念のアプリオりな制約であることが示される。こうして、道徳法 則の存在を承認する限りにおいてのみ「行為の道徳的可能性」としての「自由」の 概念を使用する権限がわれわれに与えられるという本論文の結諭が導出されるので ある。
このように「自由亅の概念は、もともとカン たがる重要な概念であるが、意外なことに日本 由の概念』(一九七四年・福村出版)以後、雑 までカントの自由の問題を組織的包括的に扱っ その後の内外における研究成果を摂取し、この に富む大作であり、それだけでも日本における
トの理論哲学と実践哲学の双方にま では、矢島羊吉『増補・カントの自 誌や紀要に掲載の論文を除き、これ た研究害は見当たらない。本論文は 問題を全般にわたって精査した創見 カント研究の発展に寄与するところ
論述も論理的に一貫しており、カントの著作の読みも精確であり、内外の文献に対 する対処の仕方も適切である。
以上により、審査員一同は、別に施行した論文内容にかんする試問の結果とあわ せ、本論文の提出者新田孝彦は、その請求する博士(文学)の学位を受けるのに十 分な資格があるものと認定した。
現 と な、
、ト こた で ずン る新 密 らヵ あの 緊 ま、 でめ て どし 件た め と読 条る わ に 解 る す き 究を すチ は 研学 に一 成 的哲 能ロ 構 献 ト 可 プ の 文ン をァ 体 的 力 用 に 全 史 ら 使 群 文 歴か の題 論 の 点 念 問
。 学 視 概 の る 哲 の
」 論 れ ト自 為為 ら ン 独 行 行 め カた
「的 認
、 め が 学 が は 収
」 哲 績 文に 則の 功 論 野 法 代 な の視 鱇現 き こも 道、 大 にを
「て に ら 諭 や つ 点 さ為
」よ た
、 行 由 に し が的 自と 示 る 学
「 こ 提 あ哲 うす を での 言示 点 大代 のを 視