はじめに
菅江真澄の見聞した神楽につき,その梗概お よび論点を,明らかにしてみる。菅江真澄は,
近世後期の旅人として認知され,その著述を真 澄遊覧記と総称している。菅江真澄なる人物 が,1920年の柳田国男「還らざりし人」によっ て,再評価されるようになったのは周知の通り である。もっとも,柳田国男は1916年には,『郷 土研究』誌上に「獅子舞考」を寄せて,真澄遊 覧記に描かれた獅子頭に,注意を喚起している
[柳田
1916
:
593]。いうなれば,真澄遊覧記に 描かれた民俗芸能は,菅江真澄の存在そのもの よりも,はやくから重視されていたとして過言 ではない。実際に本田安次も,その著『山伏神楽・番楽』
のなかで,数少ない先行研究として真澄遊覧記 を引例している[本田
1942
:
3]。にもかかわら ず,芸能史に造詣の深かった折口信夫や,祭礼 に意慾を見せていた中山太郎は,真澄遊覧記へ の関心が稀薄であった。むしろ,中道等[中 道1929
a:
130]や小玉暁村[小玉1933
:
10-
11]といった,地域に密着した研究者が,真澄遊覧 記を尊重した傾向にある。やがて,菅江真澄の
見聞した民俗芸能についての専論が,青柳信夫
[青柳
1978
:
34]や浅野建二[浅野1980
:
58]や門屋光昭[門屋
2004
:
94-
105]によって発表 されたが,いずれも部分的な研究に留まってい た。そこで本稿では,真澄遊覧記に描かれた民俗 芸能のなかで,とりわけ神楽にまつわるもの を,体系的に検討してみる。まず総説として,
真澄遊覧記において,神楽がいかなる位置を占 めていたのかを明確にする。ここでは,真澄遊 覧記のなかで取り上げられている神楽の,主要 な記事を一覧にすることを含む。ついで各説と して,神楽研究および真澄研究に臨んで,論点 になると思われる題目を,5点ほど提起してみ たい。
このような検討は,次に掲げる2つの意味 で,有益になると考えられる。第一に,神楽研 究の観点から,民俗芸能の衰退が著しい昨今,
その最盛期の様相を復元できるところ。むろん 最盛期とはいえ,近世後期の奥羽地方は神楽改 革期にあたるため,そうした前後の史料として 意味を有しよう。第二に,真澄研究の観点か ら,日記や地誌や随筆など,多様な表現手段の 総称である真澄遊覧記を,神楽という切り口で
*早稲田大学大学院社会科学研究科 修士課程2年(指導教員 内藤 明)
論 文
菅江真澄の見聞した民俗芸能
― とりわけ神楽を対象としつつ ―
星 野 岳 義
*捕捉できるところ。これによって,多面的な真 澄遊覧記の,連続性ないし不連続性を問い直す ものとなろう。
1 総 説 1-1 神楽の位相
真澄遊覧記には,幅広い芸能が収載されてお り,その一領域として神楽を位置づけているの は,疑う余地がない。それは,『ひなの一ふし』
異文の序に,端的に顕われている。
…田唄,神楽もかいそへ,はてはては舩唄,山唄,
かねほりたたらふみかうたふも,剱舞,念仏,盆踊 の唱歌まてかいなして…[菅江 1973b: 347]
この件に基づくと,菅江真澄は神楽のこと を,田植踊りや盆踊りなどと,パラレルに位置 づけていたと窺い知れる。しかるに神楽を,ど のように認識すべきかについては,模索を繰り 返していた様子が,真澄遊覧記からも看取しう る。そこで神楽を,空間軸で捉えようとする発 想と,時間軸で捉えようとする発想を,それぞ れ挙例しておきたい。まず,空間軸で捉えよう とする発想を,『ひなの遊び』1809年7月13日 条から提示する。
又番楽舞といふものありて,修験者のもはらしけり。
ほふり,みやつ(こ=脱)も舞ける里もありけり。
陸奥の胆沢,岩井,桃生に在りては神楽といひ,糠 部の郡にては能舞といひ,この飽田にては舞曲とも はらいへり。[菅江 1973a: 173]
従来,真澄遊覧記に収められた神楽というと きには,この『ひなの遊び』を指す場合が少な くなかった。実際,菅江真澄にとっても,強調 すべき内容であったらしく,『筆のまにまに』
6巻に再録しているほどである。もっとも,空 間軸による比較は,専ら名称に依拠したものな ので,詞章や舞人に基づいたそれは例示的なも のに留まっている。つぎに神楽を,時間軸で 捉えようとする発想を,同じく『ひなの遊び』
1809年7月13日条から引用しておく。
此能舞といふや,俳優,さるがうのいにしへざまな るが,遠き界にかた斗残るにこそあらめ。それを旧 として,観世小治郎の作れりといふ三十二番,はた 弥治郎の作るてふ,廿五番などの曲もいでたらんも のか。[菅江 1973a: 173]
つまり,能舞と呼称される神楽から,猿楽が 創作されたと説明していて,これが菅江真澄の 発案によらないことは間違いない。というの も,『しののはぐさ』のなかで,「或説に,神楽 を折りて申楽とし,申楽を削りて田楽とすとも いへり」[菅江
1974
:
331]と祖述しているから である。この由来譚は,すでに世阿弥『風姿 花伝』第4に認めることができ[世阿弥2002
:
249],近世後期にはひろく応用されていたと分 かる。また,奥羽地方の神楽に,猿楽の要素が 色濃いとする[山路1987
:
4],山路興造論文を 繙読するうえでも興味の尽きないところであろ う。上述に基づけば,真澄遊覧記では,時間軸お よび空間軸から,神楽を捉えようとする発想が 指摘できよう。具体例として,『月の出羽路』
仙北郡10には,1627年の銘のある番楽面を取り 上げて,「其世は番楽舞流行せし事と思(は=
脱)れたり」[菅江
1978
:
326-
327]と述べる場 面が存在する。すなわち,神楽の地域的名称で ある番楽が,1627年という時期に興隆していた,という仮説を導いたのである。ちなみに,舞道
具の年号銘に手掛かりを求めるのは,今日でも 有効な手段であるから,菅江真澄の実証的態度 が体現されているといえる。
1-2 真澄遊覧記にみえる神楽
既述のように,真澄遊覧記に描かれた神楽と いえば,それは『ひなの遊び』1809年7月13日 条を精解する営みと,ほぼ同義として取り扱わ れてきた。もちろん,真澄遊覧記においては,
『ひなの遊び』のほかにも,神楽に紙幅を割い ていることが,いくつかの研究成果から断片的 に知られている。そこで本稿では,真澄遊覧記 に描かれた神楽につき,全容を解明する足掛か りとし,かつ後進に索引の便を図るべく,不完 全ながら記事を一覧にしてみた(表)。作表に あたっては,まず行を,未来社刊『菅江真澄全 集』の巻数順に,実施場所ごとに抽出する。つ ぎに列として,当該場所の神楽にまつわる語 彙,当該場所の真澄遊覧記の出所,それに対す る先行研究を付した。
場所の特定できるものは,文献を引用して いる件でも,採用することにした。ゆえに反 対に,新井白石『本朝軍器考』[菅江
1980
:
19]や谷川士清『和訓栞』[菅江
1974
:
203]のよう に,場所を特定していないものは,この限りで はない。もっとも,場所の特定できる場合で も,「神楽の岡」[菅江1980
:
102],「番楽の沢」[菅江
1972
:
337]のように,地名と化している ものは除外した。それから,複数の場所にまた がる場合,たとえば場所甲の獅子舞が,場所乙 を訪れる事例では,場所甲の神楽として数え た。なお,場所の把握にあたっては,佐藤久治『秋田の山伏修験』[佐藤
1973
:
264]や,庄司 明由「菅江真澄の旅と社寺参詣」[庄司1994
:
63]を参照した旨,明記しておく。
神楽にまつわる語彙は,原文の表記を尊重し つつも,「みやつこ」を神官に,「獅子壟」を獅 子塚にするなど,若干の修正をくわえている。
また,獅子頭や神楽殿など,神楽との関連が推 量できるものも,原則として採用した。たしか に,神楽と記載されたなかには,今日の知見か らすれば,神楽以外の民俗芸能を指している場 合もありうる。しかし,そうであっても,近世 後期の遊歴文人が,神楽と看做した理由を探る には,なおその有用性は失われていないと考え る。ただし,念仏踊りの剣舞のように[菅江
1971
a:
355],神楽と無関係であるとみられる場 合は,除外した。この一覧表から指摘できるのは,従来から例 示されやすかった『ひなの遊び』が,真澄遊覧 記に描かれた神楽の全体からすると,氷山の一 角に過ぎなかったということである。そうだと すれば,先学によって,俎板に載せられてきた 議論も,一部分に偏ったものであったといえ る。先学によって注目された主題でも,公知お よび討究が徹底されたといいうるか,疑問を残 すところであろう。したがって,以下に5点ほ ど題目を挙げることで,杜撰ながら論点整理に 代えてみたい。
2 各 説
2-1 獅子舞の生涯
真澄遊覧記からは,獅子舞の起源および終焉 を,見て取ることができる。なかでも,起源に 関する言説として,『雪の出羽路』平鹿郡6の うち,伊勢神宮の獅子を素材にした件は,刮目 すべきものといえよう。
表 真澄遊覧記にみえる神楽
実施場所 神楽にまつわる語彙 タイトル真 澄 遊 覧 記出 所 先行研究 信濃国筑摩郡本洗馬村 獅子頭 『伊那の中路』1783年6月
15日条 菅江 1971a: 30 信濃国諏訪郡下原村
(諏訪神社下社春宮) 神楽,神楽歌 『諏訪の海』1784年1月15
『筆のまにまに』4巻日条
菅江 1971a: 114。菅 江 1974: 100 信濃国諏訪郡神宮寺村
(諏訪神社上社本宮) 神楽,神子 『諏訪の海』1784年3月6
日条 菅江 1971a: 125 五来 1987: 195 信濃国筑摩郡北小野村
(小野神社) 神楽歌 『諏訪の海』1784年3月16
日条 菅江 1971a: 127 陸奥国津軽郡館岡村 獅子舞,獅子頭,口琵
琶,若者 『えぞのてぶり』1791年6
『外浜奇勝』1796年7月3月8日条
『ひなの一ふし』日条
『筆のまにまに』3巻
『混雑当座右日鈔』裏書
菅 江 1971b: 167図。
菅江 1972: 147。菅 江 1973b: 329。 菅 江 1974: 72。 菅 江 1981: 132
小林 2011: 186
陸奥国津軽郡松前城下
(松前神楽) 神楽,朝神楽,三年神 楽,神官,「山の神」「注 連切」
『千島の磯』1792年1月7 日条,4月4日条
『奥のてぶり』1794年1月
『ひなの遊び』1809年7月13日条
『かたい袋』前篇13日条
『椎の葉』
菅江 1971b: 175,
2 4 5 , 4 3 3 。 菅 江 1973a: 173。 菅 江 1974: 469。菅江 1981: 156。
堺 1995: 298。田口 2002: 241
陸奥国北郡易国間村
(稲荷の祠) 御湯を奉る,優婆塞 『牧の朝露』1793年9月10
日条,15日条 菅江 1971b: 373,
陸奥国北郡目名村 376
(不動院の獅子舞) 能舞,獅子舞,優婆塞,
「玄番之尉」「いな田刈」
「世品舞」
『奥のてぶり』1794年1月
『ひなの遊び』1809年7月13日条 13日条
菅江 1971b: 433-
434。菅江 1973a: 173 中道 1929a: 130。中 道 1929b: 105。宮本 1980: 156
陸奥国津軽郡増館村
(伏見権現) 獅子頭,獅子森,権現
塚 『津軽の奥』1795年11月1
日条 菅江 1972: 32 陸奥国津軽郡荒川村
(妙見堂) 法楽,神事の舞,獅子
頭,仮面 『津軽の奥』1796年3月28
『すみかの山』1796年5月日条 4日条
菅江 1972: 82,106,
238-239図 陸奥国津軽郡中野村 獅子頭,権現 『すみかの山』1796年5月
12日条 菅江 1972: 109 陸奥国津軽郡磯松村 獅子頭,権現,優婆塞 『外浜奇勝』1796年6月23
日条 菅江 1972: 137 陸奥国津軽郡深浦村
(澗口観音堂) 神楽,舟神楽,法楽,
神歌,獅子頭 『外浜奇勝』1798年6月14
日条,18日条,20日条 菅江 1972: 183 出羽国山本郡荷上場村
(高岩神社) 獅子頭,若者 『しげき山本』1802年3月
10日条 菅江 1972: 326 青柳 1978: 37 出羽国秋田郡大滝村 獅子頭,老婆 『すすきのいでゆ』1803年
1月28日条 菅江 1972: 377 青柳 1978: 37 出羽国秋田郡陣場台村 神楽歌 『にえのしがらみ』1803年
6月18日条 菅江1972: 416 出羽国秋田郡天王村
(東湖八坂神社) 神楽歌,獅子頭,蜘蛛
舞,神子,仮面 『男鹿の秋風』1804年8月
15日条 菅江 1973a: 16-17 田口 2002: 167 出羽国山本郡目名潟村
(御山権現) 獅子頭 『おがらの滝』1807年3月
28日条 菅江 1973a: 119 出羽国秋田郡五十目村付近
(山内番楽) 番楽,舞曲,修験者,
神官,「清浄秡」「岩戸 闢」「千歳」「翁舞」「三 番叟」「若子」「赤間」「曽 我」「機織」「御剱」「潮 汲」「山の神」
『ひなの遊び』1809年7月
『筆のまにまに』6巻13日条
『椎の葉』
菅江 1973a: 173- 177,748-751図。菅 江 1974: 173。菅江 1980: 280
小玉 1933: 10。本田 1942: 3。内田 1970: 240-242。青柳 1978: 34。佐藤 1978: 95。
浅野 1980: 58。松山 2001: 1。門屋 2004: 94-105。高山2010: 3
陸奥国胆沢郡 神楽,神楽歌,優婆塞,
羽黒派の山伏,神官,
村民
『ひなの遊び』1809年7月
『ひなの一ふし』13日条
『筆のまにまに』6巻
『かたい袋』前篇
『椎の葉』
菅江 1973a: 173。菅 江 1973b: 339-340。
菅江 1974: 173,469。
菅江 1980: 280
本田 1932: 36
陸奥国磐井郡山目村
(配志和神社) 神楽,かむわざ,天鈿 目の神,刃蔵山,童,
おとな
『ひなの遊び』1809年7月
『はしわの若葉続』1786年13日条 9月19日条
菅江 1973a: 173。菅
江 1981: 80-82 村上 2002: 246-248 陸奥国宮城郡仙台城下
(仙台藩領) 神楽,狂言神楽,採物,
羽黒山,羽黒派の山伏,
「蕨折」「宇賀の珠」「榊 舞」
『ひなの遊び』1809年7月
『雪の出羽路』平鹿郡613日条
『筆のまにまに』6巻
『かたい袋』前篇
『椎の葉』
菅江 1973a: 173。菅 江 1976: 226。菅江 1974: 173,469,748 図。菅江 1980: 280
内田 1970: 243-244
出羽国秋田郡谷地中村付近
(鈴木宗因祠) 朝神楽 『男鹿の春風』1810年3月
27日条 菅江 1973a: 821図 出羽国秋田郡真山村
(光飯寺遍照院) 神楽殿,獅子頭 『男鹿の春風』1810年4月
『男鹿の鈴風』1810年6月7日条 条
菅江 1973a: 207,
226 出羽国秋田郡本山門前村
(日積寺永禅院) 獅子頭 『男鹿の鈴風』1810年6月
条 菅江 1973a: 226 出羽国秋田郡岩瀬村
(観音菩薩堂) 神楽 『軒の山吹』1811年3月18
日条 菅江 1973a: 266 出羽国秋田郡竜毛村
(八幡宮) 獅子頭,舞わす 『軒の山吹』1811年5月条
『筆のまにまに』6巻 菅 江1973a: 270。 菅 江1974: 180 出羽国秋田郡虻川村
(天照大神宮社) 神楽,鷺舞 『軒の山吹』1811年5月21
日条 菅江1973a: 272 出羽国秋田郡寺中堀内村
(八幡宮) 神楽,獅子頭 『勝手の雄弓』1811年8月
『風の落葉』110日条
菅江 1973a: 297。菅 江 1980: 25
出羽国雄勝郡松岡村 獅子舞,獅子塚 『雪の出羽路』雄勝郡1 菅江 1975: 34-35 高山 2010: 5 出羽国雄勝郡中山村
(医徳山福寿院) 湯立神楽,優婆塞 『雪の出羽路』雄勝郡1 菅江 1975: 82 出羽国雄勝郡杉宮村
(杉宮大明神) 神楽,神楽役,神楽殿,
湯釜奉る神事,獅子舞 『雪の出羽路』雄勝郡3
『風の落葉』6
『雪の出羽路』雄勝郡小野 の七里
菅江 1975: 174,181,
184。菅江 1980: 226,
586,595 出羽国雄勝郡岩崎村 番楽,あそび,うた 『雪の出羽路』雄勝郡3
『雪の出羽路』雄勝郡小野 の七里
菅江 1975: 183。菅 江 1980: 595 出羽国雄勝郡外鳥井村
(三輪山杉林寺) 獅子頭 『雪の出羽路』雄勝郡3
『雪の出羽路』雄勝郡小野 の七里
菅江 1975: 201。菅 江 1980: 607 出羽国仙北郡神宮寺村
(竜光明神) 湯神楽,神懸かり,託
宣,ケダニ祭 『雪の出羽路』雄勝郡5
『月の出羽路』仙北郡5 菅江 1975: 251。菅
江 1978: 200 内田 1965: 4 出羽国秋田郡田中村 神楽歌 『勝地臨毫』秋田郡1 菅江 1975: 117図
出羽国秋田郡藤倉村
(藤倉権現) 神楽,獅子舞,獅子頭,
権現 『勝地臨毫』秋田郡3
『花の出羽路の目』
『筆のまにまに』7巻
菅 江 1975: 164図。
菅江 1979: 315。菅 江 1974: 195 出羽国平鹿郡沼館村
(沼館八幡神社) 湯立神楽,神楽殿,昆 虫秡の神事,獅子舞,
獅子頭,仮面,「千鳥」
「五種靡」
『雪の出羽路』平鹿郡1,
平鹿郡2,平鹿郡4
『つゆの塵束』
菅 江 1976: 17,43,
44,50-51,54,154,
217図。 菅 江 1980: 出羽国平鹿郡今宿村 344
(今宿神明社) 湯立神楽,神楽殿 『雪の出羽路』平鹿郡2 菅江 1976: 52-53 出羽国平鹿郡東槻村
(弁財天女祠) 湯立神楽 『雪の出羽路』平鹿郡2 菅江 1976: 52 出羽国平鹿郡下河原村
(原田稲荷明神社) 湯立神楽 『雪の出羽路』平鹿郡2 菅江 1976: 52
出羽国平鹿郡廻館村
(稲荷明神) 湯立神楽 『雪の出羽路』平鹿郡2 菅江 1976: 52 出羽国平鹿郡西野村
(神明社) 湯立神楽,昆虫秡の神
事 『雪の出羽路』平鹿郡2 菅江 1976: 52-53 出羽国平鹿郡造山村 獅子舞,獅子頭を埋め
る 『雪の出羽路』平鹿郡2 菅江 1976: 72 出羽国平鹿郡昼川村
(白山神社) 湯立神楽 『雪の出羽路』平鹿郡3 菅江 1976: 113 出羽国平鹿郡八沢木村
(波宇志別神社) 神楽,神楽歌,神楽男,
神楽殿,湯神楽,獅子 舞,獅子頭,神子舞,
剣舞
『雪の出羽路』平鹿郡4,
『雪の出羽路』弥沢木荘平鹿郡5
菅江 1976: 143,154- 159,174-176,200。
菅江 1980: 615-616
佐藤 1979: 27-28。田 口 2002: 176。 赤 川 2006: 84-87 出羽国平鹿郡大日村
(大日如来堂) 湯立神楽 『雪の出羽路』平鹿郡5 菅江 1976: 183 出羽国平鹿郡阿気村
(福竜山善明院) 番楽,神楽面,仮面 『雪の出羽路』平鹿郡6 菅江 1976: 215,318 出羽国平鹿郡薄井村 図
(両頭権現社) 獅子舞,獅子頭 『雪の出羽路』平鹿郡6 菅江 1976: 233 伊勢国度会郡山田原
(伊勢神宮外宮) 獅子舞,獅子頭,隼人
の歌舞 『雪の出羽路』平鹿郡6 菅江 1976: 233 出羽国平鹿郡田村
(毘沙門堂) 神楽 『雪の出羽路』平鹿郡6 菅江 1976: 253 出羽国平鹿郡浅舞村 獅子舞,獅子頭,獅子
塚 『雪の出羽路』平鹿郡8 菅江 1976: 285,292-
293 柳田 1916: 593。柳 田 1927: 説苑3 出羽国平鹿郡植田村
(八幡社) 獅子舞,獅子頭,熊野
権現 『雪の出羽路』平鹿郡9 菅江 1976: 318-319 出羽国平鹿郡植田村
(多光山多宝院) 神楽太鼓,仮面 『雪の出羽路』平鹿郡9 菅江 1976: 319,385 出羽国平鹿郡客殿薊谷地村 獅子舞,獅子頭,獅子 図
塚 『雪の出羽路』平鹿郡11 菅江 1976: 439 柳田 1916: 593。柳 田 1927: 説苑3 出羽国平鹿郡横手城下
(明江山華厳院) 神楽,神楽男,獅子舞,
八乙女,神女屋敷 『雪の出羽路』平鹿郡13 菅江 1976: 527,539- 出羽国平鹿郡外山村 神楽男 『雪の出羽路』平鹿郡14 540菅江 1976: 597,600 出羽国仙北郡境村
(唐松神社) 神楽,神楽殿,獅子頭 『月の出羽路』仙北郡1 菅 江 1978: 20,524 出羽国仙北郡中村 図
(諏訪明神社) 神楽殿 『月の出羽路』仙北郡1
『月の出羽路』仙北郡上淀 川邑
菅江 1978: 535 図。
菅江 1980: 90図 出羽国仙北郡強首村
(観音堂) 獅子頭,練りもの 『月の出羽路』仙北郡2
『椎の葉』
『月の出羽路』仙北郡強首 邑
菅江 1978: 59。菅江 1980: 244,546 出羽国仙北郡強首村
(神明宮) 夜神楽,神楽殿 『月の出羽路』仙北郡2 菅 江 1978: 60,553 出羽国仙北郡和泉沢村 図
(伊豆権現社) 神楽 『月の出羽路』仙北郡2下 菅江 1978: 106 出羽国仙北郡小杉山村 獅子舞,獅子頭 『月の出羽路』仙北郡2下 菅江 1978: 125 出羽国仙北郡北楢岡村
(竜蔵権現) 神楽,獅子舞,獅子頭 『月の出羽路』仙北郡4 菅江 1978: 142,604
図 柳田 1916: 592。柳 田 1927: 説苑5 出羽国仙北郡湯野又村
(宝竜権現) 獅子舞 『月の出羽路』仙北郡4 菅江 1978: 163 出羽国仙北郡神宮寺村 神楽,市神祭 『月の出羽路』仙北郡5 菅江 1978: 181 出羽国仙北郡神宮寺村
(八幡神社) 神楽,獅子頭 『月の出羽路』仙北郡5
『椎の葉』 菅江 1978: 201,223,
604図,629図。菅江 1980: 245
出羽国仙北郡八石村
(八石神明宮) 神楽 『月の出羽路』仙北郡5 菅江 1978: 207 出羽国仙北郡松倉村
(若松明神社) 湯神楽,託宣 『月の出羽路』仙北郡6 菅江 1978: 218 出羽国仙北郡高関下郷村
(神明社) 神楽 『月の出羽路』仙北郡7 菅江 1978: 243-244
出羽国仙北郡新堀村
(新堀八幡宮) 神楽,里神楽,神楽歌,
獅子頭,獅子巡り 『月の出羽路』仙北郡7 菅江 1978: 258 出羽国仙北郡大曲村
(栄木神明宮) 神楽 『月の出羽路』仙北郡9 菅江 1978: 310 出羽国仙北郡小貫高畑村
(罔象社) 番楽,仮面 『月の出羽路』仙北郡10 菅江 1978: 326-327 小玉 1933: 11。秋田 郷土芸術協会 1934: 出羽国仙北郡六郷町 24
(帰命山善応寺) 獅子舞 『月の出羽路』仙北郡12 菅江 1978: 381 出羽国仙北郡六郷町
(竜雲山永泉寺) 編木獅子 『月の出羽路』仙北郡13 菅江 1978: 424 出羽国仙北郡六郷高野村
(熊野宮) 湯釜神楽,獅子舞,獅
子頭 『月の出羽路』仙北郡15 菅江 1978: 461 出羽国仙北郡六郷高野村
(神明宮) 神楽,湯立神楽,獅子
頭 『月の出羽路』仙北郡15 菅江 1978: 465-466 出羽国仙北郡六郷高野村
(諏訪神社) 神楽,湯立神楽,昆虫 秡の神事,獅子舞,獅 子頭
『月の出羽路』仙北郡16
『椎の葉』 菅江 1979: 15,22- 23,807図。 菅 江 1980: 244
出羽国仙北郡金沢本町村
(珠宝山専光寺) 獅子頭 『月の出羽路』仙北郡17 菅江 1979: 827図 出羽国仙北郡金沢本町村
(金沢山八幡神社) 神楽,湯立神楽,神楽 殿,昆虫秡の神事,獅 子舞,獅子頭
『月の出羽路』仙北郡17,
仙北郡19
『椎の葉』
菅江 1979: 33,80- 8 1 , 8 6-8 7 。 菅 江 1980: 244
出羽国仙北郡福田村
(弥陀八幡宮) 神事の獅子舞 『月の出羽路』仙北郡20上 菅江 1979: 110 出羽国仙北郡宮内村
(千手観音社) 神楽 『月の出羽路』仙北郡21 菅江 1979: 154 出羽国仙北郡小沼村
(小沼観音堂) 神楽殿 『月の出羽路』仙北郡23 菅江 1979: 902-903 出羽国仙北郡長野村 図
(紫嶋山慈恩寺) 獅子頭 『月の出羽路』仙北郡24 菅江 1979: 237 出羽国仙北郡鑓見内村
(八幡神社) 獅子舞 『月の出羽路』仙北郡24 菅江 1979: 243 出羽国仙北郡沖郷村
(祇園牛頭天王宮) 神楽殿 『月の出羽路』仙北郡24 菅江 1979: 918図 出羽国秋田郡新藤田村
(稲荷社) 神楽 『花の出羽路の目』 菅江 1979: 310 出羽国秋田郡搦田村 神楽歌 『花の出羽路』松藤日記 菅江 1979: 333 出羽国秋田郡鍛冶目村
(神明社) 神楽 『花の出羽路』秋田郡 菅江 1979: 354 出羽国秋田郡寺内村
(亀甲山古四王神社) 神楽歌,獅子舞,稚児
舞 『ひなの一ふし』
『水の面影』 菅江 1973b: 318。菅
江 1974: 336,339 阿部 1966: 41。森山 1998: 2。中野 2003: 陸奥国津軽郡油川村 2
(熊野宮) 獅子頭 『筆のまにまに』4巻 菅江 1974: 111 出羽国秋田郡石名坂村
(高倉山竜泉寺) 舞楽面 『笹の屋日記』1822年3月
『椎の葉』4日条
鳥屋長秋宛11月28日付書簡
菅江 1974: 442。菅 江 1980: 279。菅江 1981: 192
越後国蒲原郡弥彦村
(弥彦神社) 神楽,太々神楽,神歌 『高志栞』 菅江 1980: 304 出羽国秋田郡中津又村
(若宮八幡) 御湯を奉る 『雪の山越』12月19日条 菅江 1980: 441 出羽国秋田郡土崎湊付近
(当知山本誓寺) 獅子舞,獅子頭 『筆の山口』1822年2月11
日条 菅江 1980: 464 大和国添下郡田中村 神楽歌 『花の出羽路』秋田郡 菅江 1981: 108
こはもと,神前の師子,狛犬より事起りて,隼人の 歌舞を したる事ともいへば,もろこしの獅子舞と はことなるべし。是薩摩ノ国人始メしよしをいへる人 あれど,さたかなる証もなし。多くは熊野よりむか しは出し事ともいへり。[菅江 1976: 233]
前半の文章では,獅子舞が,隼人の舞いを模 倣したものだとしている。類する趣旨は,『月 の出羽路』仙北郡19[菅江
1979
:
86]にも収録 されていて,蝦夷に論及することの多かった菅 江真澄にとっては,まとまった隼人論になって いる。かかる隼人論の,史実としての当否はと もかく,獅子あやしの出るものは琉球諸島お よび四国地方に分布しており[本田1984
:
12],それらは参酌に値すると思われる。後半の文章 では,獅子舞を紀伊国牟婁郡の熊野地方に由来 するといい,類する趣旨が『おがらの滝』1807 年3月28日条[菅江
1973
a:
119]に確認できる。その真偽は再考するにしても,熊野信仰ととも に獅子舞がもたらされたとの言い伝えがあると は,神田より子論文の紹介したところでもあっ た[神田
1984
:
126]。一方,獅子舞の終焉に関する言説について は,柳田国男以来,たびたび議論に上ってきた。
真澄遊覧記にみえる概要は,隣村の獅子同士が 闘争をして,斃れた獅子頭を埋めて塚にしたと いうものである。たとえば,柳田国男「鹿の耳」
は,『雪の出羽路』平鹿郡8および平鹿郡11な らびに『月の出羽路』仙北郡4を紹介している
[柳田
1927
:
説苑3,5]。さらに,高山茂「本 海番楽の特色」では,『雪の出羽路』雄勝郡1 より引例した[高山2010
:
4]。もっとも,これ らは,菅江真澄が地誌編集に携わってからの記 述であるので,それ以前の真澄遊覧記も斟酌す る必要があろう。したがって,陸奥国津軽郡増館村の伏見権現を訪れたおりである,『津軽の 奥』1795年11月1日条を紹介しておきたい。
陸奥のならはし迚(とて),いづこの浦,山里にも,
熊野のおほん神を祭るかんざわのみさきに,獅子頭 をささげてものすれば,ししがしらをばもはら権現 とぞいひける。其しし頭埋み塚したる処を,権現塚 を,あるは獅子森といへり。[菅江 1972: 32]
これら権現塚なり獅子塚なりが,一種の境 塚をなしていたという解釈は,ふるく柳田国 男「獅子舞考」によって模索されている[柳 田
1916
:
587]。係争の頻発した土地に,いわく ありげな由緒が結びつく傾向は,入会争論の起 こった上総国市原郡根田村の祇園原に[市原市 教育委員会編1998
:
510],御霊信仰的由緒が伝 わること[小沢1978
:
55]を指摘するまでもな く,各地に遍在しよう。そうしたなかでも,奥 羽地方で,獅子頭を選好せねばならなかった理 由とは,どのようなものであろうか。事実,真 澄遊覧記には,仮面を埋めた面塚[菅江1975
:
60]や,神子を埋めた神子塚[菅江1978
:
36]も記録されているから,獅子頭に拘泥する必然 性はなかったはずである。
第一に考えられるのは,獅子舞の巡行する 光景が,ごく身近に存在したということであ ろう。むしろ菅江真澄にとっては,獅子舞の 進入できない場所のあることが奇異であったと みえ,その根拠を書き留めたほどだった[菅江
1978
:
125,163;
菅江1980
:
464]。第二に考えら れるのは,権現つまり獅子頭に対して,崇敬の 念が篭められていたということである。たとえ ば,『しげき山本』1802年3月10日条には,若 者が獅子頭を手作りし,粗末に取り扱ったとこ ろ,モノノケが憑依してしまった,とする談柄が収載されている[菅江
1972
:
326]。獅子舞の 真似事をする若者が,同時代に問題化していた 様子は,陸奥国三戸郡戸来村の多門院文書から も窺い知れるところである[渡辺1977
:
42]。以上を踏まえると獅子頭には,鎮魂に通底す る霊力が読み取れるのはもとより,その霊力に 紛争解決を託したという,実用的性質が垣間見 える。とはいえ,真澄遊覧記にみえる獅子頭 が,獅子神楽の獅子頭であるのか,風流獅子舞 の獅子頭であるのか,必ずしも截然としないの は,顧慮すべき今後の課題となろう。なお一 般論として,獅子塚が霊地になっているとか,
獅子が鹿に由来するとかという論攷は[中山
1930
:
214],はやく中山太郎が提唱しているこ とを付言しておく。2-2 北方の芸能を捉え直す
菅江真澄が,津軽海峡を北上して松前城下 で過ごし,ときにアイヌの集落を訪うたのは,
1788年から1792年にかけてだった。この滞在期 間に,松前神楽の存在を知ったようで,知った 理由には,佐々木一貫との交流を挙げるのが 通説になっている[田口
2002
:
242]。稲荷社の 佐々木一貫は,監察使たる遠山景晋の下問を 承け,『松前神楽答書』を著わした人物として 知られる[蝦名編1936
:
89]。菅江真澄が佐々 木一貫と共にあったのは,『えみしのさへき』1789年4月19日条[菅江
1971
b:
12]や,『えぞ のてぶり』1791年5月24日条[菅江1971
b:
91]などから間違いない。
もっとも,真澄遊覧記にみえる松前神楽は,
松前城下に滞在しているときの言及は少なく,
むしろ後年の述懐が目立っている。後者の例証 に,『奥のてぶり』1794年1月13日条の,陸奥
国北郡目名村の獅子舞がある。
目名といふ近き村のうばそく(優婆塞)ら,三とせ に一たびの例なる獅子まひてふわざして,高やかな るしらにぎてに熊野の御札さして,笛つづみにはや し門々に入ありくは,松前の島なるみやつこらが,
としどし舞にひとし。又其島の,三年神楽のあるふ りにおなじ。[菅江 1971b: 433]
これに基づくと菅江真澄は,津軽海峡を跨い だ2つの神楽に,共通項を見出そうと試みてい たと分かる。かかる試みが,徒労に終わるもの といえるか,瑣細でも真理を掴めるものといえ るか,あらためて検証してみる価値はあろう。
その手掛かりとなるのは,真澄遊覧記で口琵琶 と記載された,世界的に称される口琴,アイヌ 語で称されるムックリとなる。『筆のまにまに』
3巻では,大陸から口琵琶が渡来したとするう えで,その後日譚を説明している。
此口琵琶も今は松前に絶て津軽路に鉄工ならひ伝ふ。
七月七日より,つかろちなどに盆の仮獅子頭儛等が 笛太鼓に合調て鉄笛を吹ならし踊り舞ふ。鉄笛を蝦 夷娘が吹くムツクリも形はいささかことなれど制工 造也。[菅江 1974: 72]
鉄製の口琵琶は,松前城下で盛衰を経たの ち,津軽郡に伝播して製作され,獅子舞の調べ として重宝がられたという。このように報告す る,真澄遊覧記は,いかほど信頼に足るものと いえよう。ムックリが,大陸から渡来してきた 点については,西鶴定嘉『樺太アイヌ』のなか で,アイヌの伝承としても報告されている[西 鶴
1942
:
82]。この報告は,谷本一之『アイヌ 絵を聴く』[谷本2000
:
306]や,菊池勇夫『菅 江真澄が見たアイヌ文化』[菊池2010
:
67]によって踏襲されてきた。しかも,小林文雄論文 によれば,1824年の江戸では,「びゃぼん」と いう名前で口琵琶が,流行していたということ である[小林
2011
:
184]。そこで,真澄遊覧記を信頼すると仮定するな らば,津軽海峡を挟む地域には,独自の伝統音 楽が醸成されていたと解しうる。そうだとする と,民俗芸能ひいては民俗事象が,南西日本た とえば京阪から伝播した,という一元論的な見 地にも,再検討を促すものとなろう。そのさい には,アイヌとシャモとの文化接触という視座 が不可避になるが,この視座には先行研究が蓄 積しているため[手塚,池田,三浦
2005
:
59],前蹤のない議論であることを理由として,閑却 することはできないと思われる。
2-3 湯立神楽の役割
湯立神楽の源流を,盟神探湯に尋ねる意義 は,今日においても失われていないが,それは
『筆のまにまに』9巻[菅江
1974
:
250]に提示 された見解でもあった。だから,菅江真澄の神 楽観は,現代という視点を介しても,なお何が しかの暗示を与えている余地が否みがたい。そ うであれば,『雪の出羽路』平鹿郡2に描かれ た,出羽国平鹿郡沼館村の沼館八幡神社で行な われる,「昆虫秡ノ神事」なる湯立神楽も,そ の1つに数えられよう。奉幣祝詞勤之〔但シ榊ニ準ヘ柳ノ枝ニ白幣(シラガ)
付ケ此神ニ備ヘ,御釜ノ湯ニ浸シ,田畑ニ立ル事一 郷ミナ同シ。虫を避クト云ナリ〕[菅江 1976: 50]
この件からは,湯立神楽が,虫除けの神事と しての側面を備えていたと読み取りうる。そも そも,神送りと虫送りが,類似する行事である
という推論は,中道等によって提示されたもの だった[中道
1925
:
129]。こうした虫害のなか でも,とりわけ出羽国で嫌忌されたのが,ケダ ニつまりツツガムシであったことは,真澄研究 において名高い事実になっている。ツツガムシ はツツガムシ病を媒介し,ことに症状が重い古 典型ツツガムシ病は,出羽国から越後国にかけ てみられる。このツツガムシを祀る,出羽国仙 北郡神宮寺村の竜光明神につき,『月の出羽路』仙北郡5より引用したい。
此虫いと多く,夏のころ人を螫てなやみくるしみ,
瘟疫の如に死せる人もありしかば,湯神楽すれば神 子に託宣ありて,吾は事代主ノ命也,人のうれへを 救はむ,祭るべしと,此神懸のまにまに斎社に祭る といへり,しかして後は,さるうれへなしといへり。
[菅江 1978: 200]
『雪の出羽路』雄勝郡5にも,神宮寺村でケ ダニ祭をしたところ,虫害が終熄したという話 題がみえ[菅江
1975
:
251],これも竜光明神の 一件を指しているらしい。字義通りに解せば,これは竜光明神の縁起に過ぎないので,毎年ツ ツガムシのために湯立神楽が行なわれている,
というわけではない。もっとも,越後国蒲原郡 赤海村の諏訪神社では,ツツガムシ除けの火渡 りが催されるので[吉田
1981
:
33],ツツガム シと民俗行事とが,無縁であったとは断案でき ない。ツツガムシは燻蒸で防除できると信じら れたが[内田1965
:
75],湯立神楽にせよ火渡 りにせよ発煙をともなうことを考え合わせれ ば,実用的性質が期待されていた可能性もあろ う。ところで菅江真澄は,ツツガムシに対して,
どのような認識で臨んでいたのであろう。第一
に,『雪の出羽路』雄勝郡小野の七里には,ツ ツガムシが出羽国や越後国ばかりでなく,モ ロコシにも棲息すると記している[菅江
1980
:
569-
570]。菅江真澄が,モロコシから生還した 漂流者と,交流をもっていた様子は,『おがら の滝』1807年3月27日条からも疑いない[星 野2011
:
312]。第二に,本居宣長『玉勝間』12 巻には,ツツガムシへの言及をみることができ[本居
1968
:
358],その箇所を菅江真澄が書き 写している[菅江1981
:
331]。先哲の指摘する ごとく[渡辺1991
:
17],『玉勝間』11巻は神楽 歌研究にとって貴重な史料であるから,ここに おいてもツツガムシと神楽との,珍妙なる取り 合わせを把握できる。2-4 諸国風俗問状の影響
寛政改革を主導した松平定信が,『集古十種』
を編集するなどして文化的教養が高かったこと と,同時代に菅江真澄が奥羽地方を漂泊したこ とには,浅からぬ因縁があった。松平定信の信 任が篤かった,幕府右筆の屋代弘賢は,諸国風 俗問状を各藩に送付して,各地の民俗事象を蒐 集したといわれる。その秋田藩の回答になる,
『出羽国秋田領風俗問状答』は,いわゆる秋田 県立図書館本の記録によれば,那珂通博およ び淀川盛品を著者であるとした[大山校
1930
:
2]。ところが,この風俗問状答の作成には,何 らかのかたちで菅江真澄が寄与していたのでは ないか,という臆説が根強く囁かれてきた。たしかに菅江真澄が,那珂通博と共にあっ たのは『勝手の雄弓』1811年8月10日条から
[菅江
1973
a:
291],淀川盛品と共にあったの は『月のおろちね』1812年6月18日条から[菅 江1973
a:
307],おのおの看取できる。ただし,風俗問状答と真澄遊覧記との,内容が酷似して いるかという問題につき,なかんずく神楽の観 点から吟味されることは,低調だったようであ る。したがって本稿では,平鹿郡八沢木村の波 宇志別神社で催される,保呂羽山霜月神楽のう ち,剣舞で歌われる歌詞を比較検討してみた い。なお,保呂羽山霜月神楽につき,『秋田風 土記』と『雪の出羽路』との比較は佐藤久治に よって[佐藤
1979
:
26-
27],現行と『雪の出羽 路』との比較は田口昌樹によって[田口2002
:
179],すでに行なわれている。以下に,成立年代の古いものから,順に掲載 していきたい。対象とする神楽歌には前後があ るが,冗長になるため,比較に供したい2首の みを挙げることにした。まずは,1814年跋『出 羽国秋田領風俗問状答』の付録と伝える,那珂 通博『六郡祭事記』11月7日条を引用する。
よりまさは,はや(よ)りませや,(さ)はらきの,
さはらの山に,さわりくまなく
うし鳥の,行くもかえるも,しらすして,何とて浪 路,わすれさるもの[那珂 1969: 531]
文中の括弧は,内閣文庫本によって補われた ものである。ここでは,「よりまさ」「うし鳥」
「浪路」に着目しておきたい。つぎに,1815年 成立の,淀川盛品『秋田風土記』平鹿郡を紹介 してみる。
よりまさは,はやよりませや,つはきらの,さいう の山につはりくまなくうし鳥の,行もかへるも知ら すして,何とて浪路わすれさるもの[淀川 1972: 310]
この歌詞を,『六郡祭事記』と比較すると,
「よりまさ」「うし鳥」「浪路」の表記には,変 化がみられない。ところが,『六郡祭事記』で
う。その一方で,真澄遊覧記には『六郡祭事記』
の,誤謬が指摘されたり[菅江
1978
:
21],脱 漏が指摘されたり[菅江1978
:
309]している ため,菅江真澄が『六郡祭事記』に満足してい なかったのは確実である。『出羽国秋田領風俗 問状答』のために,菅江真澄は草稿を提出した が,ほとんど定稿に活用されなかったとする内 田武志説に[内田1977
:
347],あえて抗うだけ の証拠はない。そうであるにせよ,『出羽国秋田領風俗問状 答』に,菅江真澄が寄与していたかどうか,抜 本的に見直す時機が,到来しているといえる。
江戸詰の佐竹義和が那珂通博に対して,国許の 状況を送るよう命じ,その文章を菅江真澄が添 削していた,という石川理紀之助の伝聞は,村 井良八『菅江真澄翁伝』にみえる[村井
1928
:
14]。この逸話だけでは,風俗問状答にまつわ る遣り取りといえるか,判断に苦慮するところ である。というのも,1803年には,幕府から各 藩に対して,地誌編集の内命が下っているから である[白井1995
:
82]。諸国風俗問状にせよ 地誌編集にせよ,松平定信らによって推進され た事業に,漂泊していた菅江真澄が,翻弄され ていたと捉えられる。そうだとすると,奥羽地 方には,菅江真澄の才能を渇仰する気風と,菅 江真澄の構想を頓挫せしめる気風が,兼併され ていたと考えることができる。2-5 記録保存された神楽
菅江真澄の出自が明らかでないのと同様に,
その終焉についても審らかとしない。菅江真澄 は仙北郡梅沢村で没したので,駕篭に乗せて秋 田郡寺内村の古四王神社まで運んだ,という鎌 田孫六の伝聞が,石井忠行『伊頭園茶話』20 いうところの「さはらきの」以降の歌詞が,大
幅に異なっていることが確認できる。そこで,
1824年採訪の,菅江真澄『雪の出羽路』平鹿郡 4を掲出する。
○寄リマサバハヤヨリマセヤサハラギノサハラノ山 ニサハルクマナク。
○ヲシ鳥ノ行モカヘルモ知ラズシテ何トテ波路ワス レザルモノ。[菅江 1976: 155]
この歌詞を,『六郡祭事記』『秋田風土記』と 比較すると,「浪路」が「波路」に改められた のは,内容に変化がないから措くとして,他の 表記には注意が必要だろう。なぜかというと,
「よりまさは」を「寄リマサバ」とするのは意 味を狭める効果が,「うし鳥」を「ヲシ鳥」と するのは意味を変える効果が,それぞれ認めら れるからである。前者に関しては,風俗問状 答を集成した中山太郎が,「よりまさは」は源 頼政と付会してきたと注釈しているが[中山
1943
:
76],「寄リマサバ」にすると掛詞となる 曖昧さが排除される。後者に関しては,1933年 に採訪した本田安次が,「うし鳥」の箇所を「を し鳥」であると報告しているので[本田1938
:
55],真澄遊覧記の叙述が正確であったと,証 明されたことになる。上述に基づくと,真澄遊覧記は先行文献に比 べ,明確化されたという相違は認められるが,
これだけで風俗問状答との連係を断絶するもの ともいいがたい。もちろん,真澄遊覧記では,
湯立神楽の記事を抜粋するほど[菅江
1980
:
244],『六郡祭事記』に依存している。菅江真 澄は,波宇志別神社の大友家文書を筆写してい るので[菅江1980
:
615],大友家秘蔵の『六郡 祭事記』を披見していたとみるのは自然であろてあそびありし所と云ひ,又,児桜とてめでたき花 のありしよしをもいへり。[菅江 1974: 339]
この記述によると,かつて古四王神社では稚 児舞が舞われており,菅江真澄の知った時点で は,すでに途絶えていたことになる。神楽にま つわる口承といえば,神楽の由緒を説くものを 想起しがちであるが,古四王神社の稚児舞の場 合は,神楽の存在そのものが口承と化している のが,興味深いところである。ここに挙げた稚 児舞の口承が,桜木に依りつきながら流伝した らしいとは,升屋旭水『秋田名跡考』巻1の,
児桜の項目からも容認できる。
昔古四王の神式あるとき,桜ケ丘にて児舞とてもも の行ふ故に児桜と呼へり。[升屋 1978: 24]
してみると,『ひなの一ふし』の神楽歌も,
菅江真澄の知った時点では,もはや歌われなく なっていた可能性があろう。たんに,故事来歴 に通暁していた鎌田正安が,菅江真澄に教示し ただけかもしれないからである。上掲から指摘 しうるのは,現在では消滅した神楽が,真澄遊 覧記という文字資料のなかに保存されていると いうことになる。まさに,本田安次論文は,今 日には伝わらなかった法印神楽が,真澄遊覧 記のなかに探し出せると説明している[本田
1932
:
36]。真澄遊覧記に描かれた神楽の,抽出 作業については緒に就いたが,それら神楽が伝 存しているのか,伝存しているならば変化はし ていないのか,稿を改めるべき問題は多い。巻にみえる[石井
1972
:
5]。菅江真澄が,古 四王神社末社の神官,鎌田正家と共にあった のは『筆の山口』1822年1月18日条から[菅 江1980
:
449],その父たる鎌田正安と共にあっ たのは『笹の屋日記』1823年2月17日条から[菅江
1974
:
438],それぞれ確認できる。いき おい,菅江真澄は生前から,終の棲家を定めて いたとみるのが穏当な推測になるものの,没後 100年を経て柳田国男が調査したおりには,鎌 田家は絶家していたという[柳田1920
:
4]。菅江真澄は,やがて終の棲家となる古四王神 社の,神楽について記録している。まずは,『ひ なの一ふし』亀甲山古四王の社の神楽唄を,対 象としてみたい。
神世よりみくさのたから伝りてとよあしはらのある しとそなる。
将軍のからいし段にこしをかけ参る衆生をまもりつ るため。[菅江 1973b: 318]
この2首に対しては,先行研究が充実してい る。阿部正路論文によれば,古四王神社の神楽 歌は消滅してしまい,16番に及ぶ御詠歌だけが 残っているという[阿部
1966
:
41]。さらに森 山弘毅論文は,1首目を保呂羽山霜月神楽と同 系の歴史をもつものとし,2首目を古四王神社 の祭神を讃える独自のものとした[森山1998
:
3,5]。2首目の将軍として,坂上田村麻呂を はじめとする祭神を候補に挙げているが[森山1998
:
4],神楽歌にみえる「将軍」に,固有名 詞を想定してよいのか,なお熟考を要すると思 われる。つぎに,『水の面影』に描かれた,稚 児舞を紹介しておきたい。むかし古四王宮大祭ありしとき,四月八日,児儛と
る。たとえば,『筆のまにまに』8巻では,常 陸国久慈郡上宮河内村の西金砂神社で行なわれ る,金砂大祭礼を詳記しているが[菅江
1974
:
226],これは伝聞を文献で補ったものだった。第二に,真澄遊覧記を読み替える必要がある,
ということである。たとえば,『奥のてぶり』
1794年1月13日条の「目名村の獅子舞」が,現 行にいう「目名神楽」でなく「不動院の獅子 舞」であるとは,門屋光昭が主張したものだっ た[東通村史編集員会編
1997
:
526]。第三に,採録されなかったものの意味を考えねばならな い,ということである。たとえば,『けふのせ ば布』1785年9月13日条では,早池峰山を仰ぎ 見ているものの[大迫町史編纂委員会編
1983
:
827-
828],陸奥国稗貫郡内川目村の早池峰神社 で行なわれる,早池峰神楽には論及していな い。第三に関して,菅江真澄は,政治的事件への 言及が慎重だったいわれるように,採録しな かったという事実にも,一定の理由があろうか と思われる。むろん,芸能は口承に比べて,時 や場所に覊束されるので,鑑賞の機会に恵まれ なかったとも推察できる。畢竟するに,真澄遊 覧記にみえる民俗芸能とは,菅江真澄と懇意に した,佐々木一貫や鎌田正安といった人物と の,交流の副産物であったと指摘できよう。な お本稿は,早稲田大学大学院文学研究科の2011 年度講義科目『芸能特論2』にて提出したレ ポートを,渡辺伸夫講師の指導のもと改稿した ものである。
〔投稿受理日2012. 5. 26 /掲載決定日2012. 6. 21〕
参考文献
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おわりに
菅江真澄の見聞した神楽につき,その梗概お よび論点を,明らかにしてみた。真澄遊覧記の なかでは,時間軸および空間軸という広がりの なかで,当該芸能を照射することができる。時 間という尺度でみれば,波宇志別神社の剣舞は 存続し,古四王神社の稚児舞は断絶した,と看 取しうる。空間という尺度でみれば,獅子舞に 対する隼人,口琵琶に対するアイヌ,ツツガム シに対するモロコシのように,当該芸能の地理 的背景が理解できる。それから,獅子頭の紛争 解決としての役割や,湯立神楽の防虫対策とし ての役割など,民俗芸能には実用的性質が潜在 する可能性も,それを探索していくうえでの素 材を提供してくれる。
もちろん,なぜ民俗芸能から真澄研究をしな くてはならないのか,という質問に向き合わね ばなるまい。ひとつの回答としては,多様な表 現手段の総体である真澄遊覧記において,一貫 して追究できる対象ということである。それ は,取りも直さず,菅江真澄の思考の共通点を 析出しうるとともに,真澄遊覧記と概括される 著作群の相違点を析出するものともなろう。な お,橘南谿『西遊記』や淀川盛品『秋田風土記』
のように,同時代の紀行や地誌には,真澄遊覧 記にはない民俗芸能の記事が散見される。真澄 遊覧記に描かれた民俗芸能を,再読しようとす る営為が許されるならば,それは真澄遊覧記以 外にも目を配るものとすべきである。
もっとも真澄遊覧記を,金科玉条のごとく暗 唱しても,後学の利益とはならないので,以下 に留意事項を列挙したい。第一に,真澄遊覧記 が実見に基づくとは限らない,ということであ
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菅江真澄著; 内田武志,宮本常一編; 内田武志解題 1976.『菅江真澄全集』第6巻,未来社
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