はじめに
菅江真澄の見聞した祝福芸・語りものにつ き,その梗概および論点を,明らかにしてみる。
本田安次は,日本の民俗芸能を分類し,この1 つとして祝福芸・語りものを設定している[本 田
1990
:
140]。たとえば,ナマハゲは祝福芸,奥浄瑠璃は語りもの,秋田万歳は祝福芸にして 語りものである,といえよう。祝福芸・語りも のの演者には,諸国を放浪しながら,芸能を披 露することで,糊口を得る人も少なくなかっ た。これは,放浪芸とも称するもので,放浪芸 研究は,本田安次に師事した小沢昭一によって
[本田
1993
:
15],周知されるところとなった。いっぽう,真澄遊覧記を著した菅江真澄は,
近世後期における祝福芸・語りものの様相を,
丁寧に記録している。とはいえ菅江真澄は,ナ マハゲや奥浄瑠璃を,個別に取り扱っているの で,祝福芸・語りものという概念では括ってい ないと思われる。これは菅江真澄が,神楽[菅 江
1973
a:
173]や田楽[菅江1974
:
331]に関 しては,一領域として捉えていたのに比較する と,相違といえるだろう。このため,本稿で対 象とする祝福芸・語りものは,菅江真澄にとってみれば後発的な方法論に依存することに,配 慮を必要とする。
そうではあれ,民俗芸能研究において普及し ている分類のもと,真澄遊覧記を検討するとい う営為も,無益ではないと考える。むしろ,真 澄遊覧記にみえる神楽や田楽には,体系的考 察が済んでいるのに[星野
2012
b;
星野2013],
ナマハゲや奥浄瑠璃には,受け皿となる概念が ないばかりに閑却してしまうなら,有害にさえ 働いているといえる。したがって,本稿では便 宜上,祝福芸・語りものという領域からアプ ローチし,将来によりよい方策が提案されるま での準備としたい。このように,民俗芸能の分 類のもと,真澄遊覧記を通覧する試みは,いま なお完成をみない『菅江真澄全集』の索引を,
裨補するものともなろう。
本稿の構成は,総説と各説の,2部からなる。
まず総説では,真澄遊覧記に描かれた祝福芸・
語りものの,記事を一覧にしていく。それから,
先行研究を概観し,その粗密を明確にしたい。
ついで,各説では,先行研究が積み残した論点 を,5点ほど提起してみる。ともすると,真澄 研究は,先行研究を反復するのに腐心してきた が,その轍を踏まぬようにするための手続きと
*早稲田大学大学院社会科学研究科 修士課程2年(指導教員 内藤 明)
論 文
菅江真澄の見聞した民俗芸能
― とりわけ祝福芸・語りものを対象としつつ ―
星 野 岳 義
*なる。また本稿が,将来の準備を標榜するから には,瑣細であれ新たな論点を提示するのが,
本稿の責務になると考えるためでもある。
1 総 説
1.1 真澄遊覧記にみえる祝福芸・語りもの 真澄遊覧記に描かれた祝福芸・語りものにつ き,不完全ながら記事を一覧にしてみる(表)。
作表にあたっては,まず行を,未来社刊『菅江 真澄全集』の巻数順に,実施場所ごとに抽出す る。つぎに列として,当該場所の祝福芸・語り ものにまつわる語彙,当該場所の真澄遊覧記の 出所,それに対する先行研究を付した。なお,
渡来芸の人形まわしになるオシラサマや[菅江
1979
:
874図],アイヌの語りものになるユーカ ラは[菅江1971
b:
123],別稿にて詳述する予 定である。場所の特定できるものは,文献を引用してい る件でも,採用することにした。すなわち,竹 村吉包『田岡の清水』[菅江
1978
:
359]や藤原 明衡『新猿楽記』[菅江1974
:
398]は,これに 当たるものとする。ゆえに反対に,琵琶法師ら しき人名を挙げていても,場所を特定していな ければ[菅江1979
:
285],採用しなかった。そ れから,いわゆる放浪芸である場合,演者は移 動しているので,厳密に場所を絞り込むのは困 難といえる。この視座からすると,実施場所ご とに抽出するという本稿の指針には,将来的な 見直しを留保せざるをえない。ここでは,菅江 真澄が当該芸能を認知した場所を,例示として 実施場所に充てることとした。祝福芸・語りものにまつわる語彙は,原文の 表記を尊重しつつも,「生身剥」をナマハゲに,
「移託巫女」をイタコミコにするなど,若干の
修正をくわえている。また,琵琶や梓弓など,
祝福芸・語りものとの関連が推量できるもの も,原則として採用した。もとより梓弓は,語 りものだけに使用されるとは限らず,また菅江 真澄も枕詞として提示しただけとも考えられる が,近世後期の様相を把握するうえで,なお有 益になると信ずる。この指針に立脚したとき,
地震が発生したさいに,「万歳楽」と唱える呪 文も,採用すべきであると判断できる。一般に 万歳楽といえば,渡来芸の万歳楽を想起しがち だが,地震を風刺した鯰絵には,太夫と才蔵 とが描かれており[安城市歴史博物館編
1998
:
24],それゆえ万歳を意味したと知れるからで ある。ところで,中山太郎『日本巫女史』では,巫 女が化石になったという伝承も看過すべきでな い[中山
1930
:
65],と指摘しており首肯しう る。それならば,真澄遊覧記からも,名木名石 に依りついた伝承を抽出したいものの,表現上 の問題を乗り越えねばならなかった。つまり,名木名石というからには,木石の名称を掲載す ることになるが,これら名称には,現在の観点 からすると不適切な表現が含まれている。しか し,本稿には近世後期の様相を究明するという 趣旨があり,かつ菅江真澄が故人となり訂正で きないという現実がある。こういう事情を鑑み たとき,名称の掲載を自粛したり,名称の置き 換えを多用したりすると,かえって差別意識に 向き合う機会を逸しはしないだろうか。およ そ,芸能という営みが,差別意識と無関係でな かったとは,多くの先行研究が証明してきた
[山路
1988
:
1]。本稿も,芸能研究の末端を担 う以上,差別意識に理解を深め,かかる意識を 解決に導くための,一里塚となることを希うも表 真澄遊覧記にみえる祝福芸・語りもの 実施場所 祝福芸・語りもの
にまつわる語彙 タイトル真 澄 遊 覧 記出 所 先行研究 信濃国伊那郡片桐村 女性,験者,狐が憑く 『伊那の中路』1783年4月
『かたい袋』前編15日条
菅江 1971a: 18。菅 江 1974: 453 出羽国田川郡新堀村 アズサミコ,弓を負う,
綱に引かれて歩く 『秋田のかりね』1784年9
月22日条 菅江 1971a: 199 佐々木 1989: 2 出羽国雄勝郡柳田村 万歳,歌声 『小野のふるさと』1785年
1月7日条 菅江 1971a: 237 井上 1970: 164。佐 藤 1970: 46。 佐 藤 1980: 11。 平 2005: 出羽国雄勝郡湯沢村 アズサミコ,口寄せ 『小野のふるさと』1785年 41
2月6日条 菅江 1971a: 240 出羽国雄勝郡岩崎村 目の見えるアズサミ
コ,梓弓,亡き魂 『小野のふるさと』1785年
3月条 菅江 1971a: 244 出羽国雄勝郡岩崎村 万歳楽,唱える,地震 『小野のふるさと』1785年
3月11日条
『筆のまにまに』3巻
菅江 1971a: 244。菅
江 1974: 87 八木 2005: 245 出羽国雄勝郡杉宮村 目の見えない女性,門
に立つ,ヱビスカゼ 『小野のふるさと』1785年
4月8日条 菅江 1971a: 250 陸奥国磐井郡平泉村 琵琶法師,三味線,浄
瑠璃,「曽我」「八島」「尼 公物語」「湯殿山の本 事」「千代ほうこ」
『かすむ駒形』1786年2月
6日条 菅江 1971a: 353-354 成田 1985: 14-15。
石井 1987: 25。
陸奥国胆沢郡小山村
(徳岡集落) 琵琶法師,目の見えな い僧侶,三味線,浄瑠 璃,「琵琶に磨臼」
『かすむ駒形』1786年2月
21日条 菅江 1971a: 355-356 柳 田 1928a: 61-62。
野村 1976: 121-122。
成 田 1985: 16。 石 井 1987: 25。 佐 々 木 1989: 6。小堀 2010: 31
陸奥国胆沢郡小山村
(徳岡集落) 琵琶法師,正保 『はしわの若葉』1786年5
『雪の胆沢辺』1786年10月月9日条
『岩手の山』1788年6月条30日条
菅江 1971a: 386,
413,425 柳田 1928a: 60
陸奥国江刺郡黒石村 目の見えない僧侶,三
味線,「尼公物語」 『はしわの若葉』1786年5
月10日条 菅江 1971a: 388 石 井 1987: 24。 石 井 1988: 18。 佐 々 木 1989: 6 陸奥国胆沢郡前沢村 験者,モノノケが憑く,
ミチキリ 『雪の胆沢辺』1786年閏10
月3日条 菅江 1971a; 414 陸奥国岩手郡盛岡城下
(南部藩領) イタコ,目の見えない 男女,門に立つ,歌う,
ヱビスカゼ,調伏
『岩手の山』1788年6月28
『かたい袋』前篇日条
菅江 1971a: 437。菅
江 1974: 458 佐々木 1989: 6 陸奥国岩手郡盛岡城下 わざおぎ,袁迩奇治,
語り 『岩手の山』1788年6月28
日条 菅江 1971a: 437 佐々木 1989: 8
(西在江差付村々)相沼内村 隠れザトウ 『えみしのさへき』1789年
5月17日条 菅江 1971b: 51
(松前城内)松前城下 わざおぎ,沢田某,万
歳,歌う 『千島の磯』1792年1月5
日条 菅江 1971b: 175 柳田 1928a: 46
松前城下 梓弓 『千島の磯』1792年3月13
日条 菅江 1971b: 222 陸奥国北郡田名部村 万歳楽,唱える,地震 『牧の冬枯』1792年12月28
『筆のまにまに』3巻日条
菅江 1971b: 303。
菅江 1974: 87 陸奥国北郡宿野部村付近 メクラ川 『奥のうらうら』1793年5
月1日条 菅江 1971b: 328 陸奥国津軽郡矢沢村
(正八幡宮) 梓弓 『津軽の奥』1795年11月24
日条 菅江 1972: 47 陸奥国津軽郡弘前城下 梓弓 『津軽の奥』1796年2月25
日条 菅江 1972: 61
陸奥国津軽郡相沢村
(薦槌山) ザトウ石,イタコ石,
牛石,鸚鵡石 『すみかの山』1796年5月
『錦の浜』1797年7月3日12日条 条
菅江 1972: 111,274 佐々木 1989: 6
陸奥国津軽郡早瀬野村 イタコミコ 『すみかの山』1796年5月
19日条 菅江 1972: 118 佐々木 1983: 20 陸奥国津軽郡白沢村
(馬頭観音堂) イタコミコ 『雪のもろ滝』1796年10月
28日条 菅江 1972: 199 陸奥国津軽郡岩崎村付近 メクラ坂 『 雪 の 道 奥 雪 の 出 羽 路 』
1801年11月5日条 菅江 1972: 298 出羽国山本郡荷上場村
(高岩神社) イタコミコ,弓を引く 『しげき山本』1802年3月
10日条 菅江 1972: 326 出羽国秋田郡上野村
(大日堂) 琵琶 『雪の秋田根』1802年12月
16日条 菅江 1972: 362,516 出羽国秋田郡十二所町 イタコミコ 『すすきのいでゆ』1803年 図
1月17日条 菅江 1972: 376 出羽国秋田郡独鈷村付近 イタコミコ,目の見え
ない,唱える,ヱビス カゼ
『にえのしがらみ』1803年
6月1日条 菅江 1972: 408 出羽国秋田郡姥沢村 メクラ平,目倉平 『にえのしがらみ』1803年
6月22日条
『しののはぐさ』
菅江 1972: 421-422。
菅江 1974: 319 出羽国秋田郡出川村 イタコミコ,弓を打つ,
神懸り,ワラハヤミ 『みかべのよろひ』1805年
7月10日条 菅江 1973a: 49 出羽国秋田郡阿仁 琵琶法師,七段坂 『みかべのよろひ』1805年
9月7日条 菅江 1973a: 66 佐々木 1989: 6 出羽国秋田郡真坂村
(三倉鼻) メクラ岬,三倉崎 『かすむ月星』1806年3月
『雪の出羽路』平鹿郡316日条
『雪の出羽路』平鹿郡4
菅江 1973a: 667図。
菅江 1976: 111,170 出羽国秋田郡谷地中村 万歳,歌う,鼓を打つ 『氷魚の村君』1810年1月
8日 菅江 1973a: 189 井上 1970: 164。佐 藤 1970: 46。平 2005: 41
出羽国秋田郡真山村
(光飯寺遍照院) イタコ杉,犬子石 『男鹿の春風』1810年4月
7日条 菅江 1973a: 208 出羽国秋田郡宮沢村 ナマハゲ,童,仮面,角,
肩蓑,小刀,小筥,逃 げ隠れる
『男鹿の島風』1810年7月
『男鹿の寒風』1811年1月17条
『筆のまにまに』8巻15日条
菅江 1973a: 243,
260,916図。 菅 江 1974: 237
柳 田 1928a: 58。 折 口 1931: 4。折口 1934: 2。小松 1989: 209-211。赤坂 1996: 4-5。鎌田 1999: 23 出羽国雄勝郡外堀村
(由須留宜寒泉) 梓弓 『雪の出羽路』雄勝郡1 菅江 1975: 37 出羽国雄勝郡畠等村 狐のなす業,加持 『雪の出羽路』雄勝郡2 菅江 1975: 141 出羽国雄勝郡杉宮村 若子屋敷,託宣屋敷 『雪の出羽路』雄勝郡3 菅江 1975: 188 出羽国雄勝郡赤袴村 神女,神懸り 『雪の出羽路』雄勝郡5 菅江 1975: 252 出羽国平鹿郡角間川村 旭のミコ,旭塚,神女
屋敷 『雪の出羽路』平鹿郡1 菅江 1976: 17,19 出羽国平鹿郡沼館村 琵琶の首 『雪の出羽路』平鹿郡2 菅江 1976: 40 出羽国平鹿郡西石塚村 朝日の松,加持,験者 『雪の出羽路』平鹿郡3 菅江 1976: 84 出羽国平鹿郡猿田村 アズサミコ,女性,狐
が憑く,占問う 『雪の出羽路』平鹿郡3 菅江 1976: 106 出羽国平鹿郡上溝村 メクラ塚,御座処 『雪の出羽路』平鹿郡3
『雪の出羽路』平鹿郡4 菅江 1976: 111,170 出羽国鹿角郡古川村付近 メクラ山,神倉山 『雪の出羽路』平鹿郡3
『雪の出羽路』平鹿郡4 菅江 1976: 111,170 出羽国平鹿郡八沢木村 琵琶流し,琵琶石 『雪の出羽路』平鹿郡4 菅江 1976: 171,313 出羽国平鹿郡下八丁村 図
(白山姫社) 神懸り 『雪の出羽路』平鹿郡7 菅江 1976: 275 出羽国平鹿郡浅舞村
(不動尊) ミコ,神懸り,梓弓を
引く 『雪の出羽路』平鹿郡8 菅江 1976: 285
出羽国平鹿郡下鍋倉村 託宣塚 『雪の出羽路』平鹿郡8 菅江 1976: 305 出羽国平鹿郡中吉田村 旭塚,旭のミコ,イタ
コミコ 『雪の出羽路』平鹿郡8 菅江 1976: 310 佐々木 1989: 7 出羽国平鹿郡植田村
(八幡社) 神懸り 『雪の出羽路』平鹿郡9 菅江 1976: 319
三河国 大江定基,万歳,千秋
万歳,鳥追い,謡曲 『雪の出羽路』平鹿郡10
『月の出羽路』仙北郡5
『比良加の美多可』
菅江 1976: 345。菅 江 1978: 181。菅江 1979: 446
出羽国平鹿郡天神町村 神懸り 『雪の出羽路』平鹿郡12 菅江 1976: 468 三河国碧海郡矢作村 浄瑠璃,浄瑠璃姫,浄
瑠璃淵 『雪の出羽路』平鹿郡12
『月の出羽路』仙北郡21
『筆のまにまに』4巻
『筆のまま』
菅江 1976: 493。菅 江 1979: 880図。菅 江 1974: 113。菅江 1980: 368-370
磯沼 1998: 116。小 堀 2010: 61 出羽国平鹿郡大松川村
(御嶽山) 千秋万歳,唱える 『雪の出羽路』平鹿郡13 菅江 1976: 539 出羽国平鹿郡横手城下
(明江山華厳院) 神女屋敷 『雪の出羽路』平鹿郡13 菅江 1976: 540 出羽国仙北郡上淀川村 旭塚,旭坂,旭のミコ 『月の出羽路』仙北郡1 菅江 1978: 36 出羽国仙北郡峯吉川村
(白滝明神) 村民,神懸り 『月の出羽路』仙北郡2 菅江1978: 79-80 出羽国仙北郡明光沢村
(不動明王) 目の見えない人,祀る 『月の出羽路』仙北郡2下 菅江 1978: 122 出羽国仙北郡北楢岡村
(竜江山南翁寺) シロミコ,ザトウ,高
都,菊都,梓弓 『月の出羽路』仙北郡4 菅江 1978: 144 出羽国仙北郡石仏村
(石神社) ミコ,梓弓,伏石 『月の出羽路』仙北郡4 菅江 1978: 161 出羽国仙北郡外小友村
(若木山明神) 神懸り 『月の出羽路』仙北郡4 菅江 1978: 173 出羽国仙北郡稲沢村 目の見えない人,若都 『月の出羽路』仙北郡5
『月の出羽路』仙北郡7 菅江 1978: 191,248 出羽国仙北郡神宮寺村
(竜光明神) ミコ,神懸り,託宣 『月の出羽路』仙北郡5 菅江 1978: 200 出羽国仙北郡高関下郷村 梓弓 『月の出羽路』仙北郡7 菅江 1978: 662図 出羽国仙北郡大曲西根村
(安祢子稲荷明神) 神懸り 『月の出羽路』仙北郡7 菅江 1978: 265 出羽国仙北郡寺山村
(余目稲荷明神社) ミコ,神懸り,託宣 『月の出羽路』仙北郡8 菅江 1978: 277-278 出羽国仙北郡大曲村
(栄木神明宮) ミコ,神懸り 『月の出羽路』仙北郡9 菅江 1978: 309-310
(秋田藩領)出羽国 目の見えない人,綱に
引かれて歩く,早物語 『月の出羽路』仙北郡10
『ひなの一ふし』
『無題雑葉集』
菅江 1978: 336。菅 江 1973b: 342-345。
菅江 1981: 85図
石井 1987: 24。石 井 1988: 19 出羽国仙北郡今泉村
(稲生大明神社) アズサミコ,梓弓を引
く 『月の出羽路』仙北郡10 菅江 1978: 341 出羽国仙北郡六郷本館村
(田岡稲荷) 神懸り,白狐 『月の出羽路』仙北郡11 菅江 1978: 359,
366,737図 出羽国仙北郡六郷高野村
(諏訪神社) 旭のミコ 『月の出羽路』仙北郡16 菅江 1979: 12-13 出羽国仙北郡金沢中野村
(十二所権現社) 陰陽博士,目の見えな
い女性,占問う 『月の出羽路』仙北郡17 菅江 1979: 38 佐々木 1989: 6 出羽国仙北郡飯詰村 メクラ森 『月の出羽路』仙北郡17 菅江 1979: 47
出羽国仙北郡千屋村 ザトウ 『月の出羽路』仙北郡20 菅江 1979: 126 出羽国秋田郡羽黒崎村 琵琶法師,琵琶沼,琵
琶を流す 『花の出羽路』秋田郡
『桜がり』下巻 菅江 1979: 352。菅 江 1974: 287 出羽国秋田郡添川村 狐が憑く 『花の出羽路』秋田郡 菅江 1979: 363 出羽国秋田郡萱草村 目の見えない医師,上
杉武都 『花の出羽路』秋田郡
『久保田の落穂』
『混雑当座右日鈔』裏書
菅江 1979: 380。菅 江 1974: 399。菅江 1981: 135
出羽国河辺郡豊巻村 神子渓 『月の出羽路』河辺郡 菅江 1979: 397 出羽国河辺郡三内村
(岩谷山福王寺) 神子石 『月の出羽路』河辺郡 菅江 1979: 402
近江国滋賀郡上坂本村
(日吉大社) 託宣 『花の出羽路』山本郡 菅江 1979: 417 陸奥国遠田郡大沢村 目の見えない人 『粉本稿』 菅江 1973b: 29図 尾張国愛知郡名古屋城下 琵琶法師,藤雄,花井
臼 『百臼の図』 菅江 1973b: 173 長沢 1972: 4 出羽国秋田郡久保田城下 睦月の祝い,コウロギ 『ひなの一ふし』
『無題雑葉集』 菅江 1973b: 317。
菅江 1981: 84図 森山1997: 9-23 山城国葛野郡
(平安京) 千秋万歳 『筆のまにまに』1巻
『久保田の落穂』 菅江 1974: 22,398 三河国碧海郡東別所村
(三河万歳) 万歳,千秋万歳,奴万 歳,鶴太夫,亀太夫,
才蔵
『筆のまにまに』1巻
『桜がり』下巻
『久保田の落穂』
菅江 1974: 23,285,
376 佐 藤 1970: 46。 佐 藤 1980: 11。 田 口 1994: 62
出羽国秋田郡久保田城下
(秋田万歳) 万歳,千秋万歳,早歌,
針生清太夫,「表六番」
「家建万歳」「経文万歳」
「神力万歳」「峰入万歳」
「御国万歳」「双六万歳」
「裡六番」「扇万歳」「お 江戸万歳」「門跡万歳」
「吉原万歳」「さくら万 歳」「名寄万歳」
『筆のまにまに』1巻,4
『久保田の落穂』巻
『笹の屋日記』1823年1月 4日条
菅江 1974: 23,112,
376,430 井 上 1970: 164。 佐 藤 1970: 46。 佐 藤 1980: 11。斎藤 1988: 42。 田 口 1994: 62。
松山 2001: 1。平 2005: 41
出羽国秋田郡保戸野村
(東清寺) 松岡武太夫,三須田左
太夫,猿子の舞 『筆のまにまに』1巻 菅江 1974: 23 紀伊国海部郡加太浦
(淡島神社) イチコ,口寄せ,アガ タミコ,陰陽博士,占 問う
『筆のまにまに』4巻 菅江 1974: 103 三河国加茂郡寺部村 三線浄瑠璃,浄瑠璃太
夫,説経 『筆のまにまに』4巻 菅江 1974: 112 三河国加茂郡上野山村 三線浄瑠璃,説経,歌
う 『筆のまにまに』4巻
『しののはぐさ』 菅江 1974: 112,
331-332 三河国加茂郡渋川村 三線浄瑠璃,説経,歌
う 『筆のまにまに』4巻
『しののはぐさ』 菅江 1974: 112,
331-332 三河国額田郡明大寺村
(成就院) 浄瑠璃姫 『筆のまにまに』4巻 菅江 1974: 113 新 行 1982: 43。 磯 沼 1998: 120。小堀 2010: 61
三河国設楽郡門谷村
(煙巌山鳳来寺) 浄瑠璃姫,浄瑠璃御前 『筆のまにまに』4巻 菅江 1974: 113 小堀 2010: 61 出羽国秋田郡谷地町
(座当神社) 花都,ザトウ塚,ザト
ウ桜,雨零桜 『筆のまにまに』4巻
『桜がり』下巻 菅江 1974: 122-124,
283-285 尾張国愛知郡名古屋城下 琵琶,平家語る,裂帛,
有明 『筆のまにまに』6巻 菅江 1974: 158-166 長沢 1972: 4 出羽国秋田郡別所村 アズサミコ 『桜がり』下巻 菅江 1974: 286
出羽国秋田郡久保田城下 琵琶法師,福田清都,
知良都,平家語る 『久保田の落穂』
『筆の山口』
『混雑当座右日鈔』裏書
菅江 1974: 387-388。
菅江 1980: 473。菅 江 1981: 136
石井 1987: 26-27
(仙台藩領)陸奥国 ザトウ,アズサミコ,
口寄せ 『かたい袋』前篇 菅江 1974: 458 出羽国置賜郡米沢城下 ザトウ 『椎の葉』 菅江 1980: 254 伊勢国多気郡荒蒔村 福田清都,知良都 『混雑当座右日鈔』 菅江 1980: 309 陸奥国栗原郡梨崎村
(神通山妙用寺) 琵琶,捨てる 『かすむ駒形続』1786年3
月3日 菅江 1981: 25 出羽国秋田郡寺内村
(小林山西来院) 目の見えない僧侶 断簡56号 菅江 1981: 164
のである。なお,後述するように菅江真澄自身 は,こうした名称を転訛によるとし,先入観の 払拭に努めていた旨,付言しておきたい。
1.2 先行研究の傾向
祝福芸・語りもの研究につき,菅江真澄がそ うであったように,近代以降の研究者も,祝福 芸・語りものという範疇からはアプローチしに くかった。ここでは,真澄遊覧記を素材にした,
祝福芸・語りもの研究から,3点ほど選り取っ て,例示的に進捗状況を把握しておく。
まず,奥浄瑠璃やその語り手についてであ る。ふるくは柳田国男が,岡書院刊『雪国の春』
に書き下ろした,「真澄遊覧記を読む」で奥浄 瑠璃を取り上げている[柳田
1928
a:
60-
62]。成田守は,奥浄瑠璃の場面のうち,『かすむ駒 形』の改装以前と改装以後とを比較して,真澄 遊覧記の信頼性を問い直しており[成田
1985
:
15],きわめて興味深い。また,石井正己論文 は,早物語を論攷するなかで,真澄遊覧記やそ れ以外の文献を提示しており,真澄遊覧記の位 置を知るうえで有益といえる[石井1988
:
19]。つぎに,ナマハゲについてである。真澄遊覧 記にみえる民俗芸能は,真澄研究を主導した柳 田国男は多用し,いっぽう芸能史を主導した折 口信夫は多用しない,という傾向にあった。か かる状況で,折口信夫が真澄遊覧記に論及し た,数少ない業績が[折口
1931
:
4],「春来る 鬼」つまりナマハゲであるといえる。ナマハゲ は,現在では研究成果が蓄積し,また人口にも 膾炙されているが,その一契機を真澄遊覧記に 求めることができよう。さいごに,三河万歳と秋田万歳との,関係に ついてである。菅江真澄は,『筆のまにまに』
1巻のうち「千寿万歳」で,「……伝えうつり て三河ぶりとは大にことなれり……」[菅江
1974
:
23]と指摘した。いっぽう,いわゆる諸 国風俗問状に対する,秋田藩の回答である『風 俗問状答』では,「古来よりの文段にして,改 め作ることなし」[那珂1969
:
496]と指摘して いる。いずれの見解も,三河万歳が常陸国経由 で秋田万歳になった,と説くところに共通点が ある。近代に入ると,石井忠行『伊頭園茶話』16巻は『筆のまにまに』を抜粋し[石井
1875
:
75],近藤源八『羽陰温故誌』25冊は『風俗問 状答』を抜粋している[近藤1978
:
145]。さら に小玉暁村は,江戸万歳が秋田万歳になったと 説き[小玉1934
:
564],これを承けた佐藤久治 は,江戸万歳と尾張万歳と秋田万歳独自のもの とを再編成したと説いた[佐藤1980
:
14]。近 年の学説も,秋田万歳は,さまざまな要素が複 合している,という観点に立っているようであ る[平2005
:
46]。とまれ,真澄遊覧記が時代 を超えて,検討の対象になり続けた,稀有な事 例といえる。上掲が,祝福芸・語りものに含まれる芸能 の,主要な研究成果といえる。論文は,先行研 究を焼き直すためだけにあるのではないから,
本稿では,上掲以外の論点を探し出したい。な お,祝福芸・語りものに向き合うとき,中山太 郎の主著である,『日本巫女史』『日本盲人史』
は等閑視しがたいが,そこでは真澄遊覧記を多 用していない。この事実は真澄遊覧記をめぐ る,柳田国男に対する折口信夫の姿勢を考える うえでも,意味ある一致となろう。
2 各 説 2.1 語りもの起源論
菅江真澄は,その出自を曖昧にしているもの の,三河国に所縁があったらしいとは,真澄 遊覧記から垣間見える通りである[新行
1982
:
43]。このうち,浄瑠璃という語りものが,源 義経と浄瑠璃姫との悲恋に発する[菅江1974
:
113],と記述したことが先学により注目されて きた。浄瑠璃の起源については,諸説あるにも かかわらず[高野1926
:
608-
610],三河国に所 縁のある浄瑠璃姫譚を特記したところに,菅江 真澄の個性が顕われているといえよう。これにより民俗芸能には,ある演目の由緒を 伝えるほかに,より上位概念たる芸能そのもの の由緒を伝えるものも,存在すると再認識でき る。真澄遊覧記を読み解くと,浄瑠璃以外にも,
こうした芸能そのものの由緒を説いている例証 が,探し出せると気づく。すでに浄瑠璃に関 しては,先行研究が積み上げられ[新行
1982
:
43;
小堀2010
:
61],知名度も高くなっているか ら,ここでは浄瑠璃以外から2点ほど検討に供 したい。まずは,琵琶法師にまつわる記述を,『月の出羽路』仙北郡24から引用したい。
摂州勝尾寺の荒神,和州笠の荒神などは,我国にて 釈氏の感得の神也といへり。中世以来盲人琵琶を鼓 て,地神経を誦して祭る説あり,仏説地神経一巻あ り,卑俗の文字にして蔵書の目になき所なりといへ り。[菅江 1979: 231]
荒神経や地神経の読誦を,いわゆる琵琶法 師が担ったというもので,類する趣旨が,『風 の落葉』3[菅江
1980
:
111]にも収録されて いる。いずれも,出所が明示されており,谷川士清『和訓栞』であるという。小野功竜論文に よると,地神経を誦するのは,平家物語を語る よりも先行するとしたうえで,前者には呪的巫 的能力が託されていたとする[小野
1975
:
31]。管見のところ真澄遊覧記には,地神経と平家物 語との前後関係などについて,言及した様子は 見受けられない。ただ,明光明神が妙音講の転 訛である[菅江
1978
:
123],と指摘するなかで,妙音講に対する知識が窺えるばかりである。
つぎに,万歳にまつわる記述を,『比良可の 美多可』から引用したい。
こは寂照上人とて謡曲にも作りて,あまねう世に知 られる人也。また,歳の始の万歳も万歳楽に准ら へ,鳥追の唱歌をも国栖歌になずらへて唄はせ給ふ。
万歳も,鳥追のべろべろ唄も定基卿の作也。[菅江 1979: 446]
万歳や鳥追いが,大江定基の創作によると いうもので,類する趣旨が,『月の出羽路』仙 北郡5[菅江
1978
:
181]にも収録されている。いずれも,出所が明示されておらず,真澄遊覧 記の種本を確定することはできない。もっと も,菊岡沾凉『本朝世事談綺』巻4でも,万歳 と大江定基とを結びつけて理解しており[菊岡
1974
:
497],菅江真澄の時代には,珍しくない 巷説であったと分かる。以上を概観してみて,芸能そのものの由緒というのが,ある演目の由 緒を検討するのと,どういった差違があるとい えるだろうか。また,祝福芸・語りものから得 られた解釈を,他の芸能そのものの由緒,たと えば神楽や田楽にも応用できるのか,検討すべ き問題は少なくない。
2.2 琵琶法師の領分
菅江真澄は,その出自を曖昧にしているもの の,尾張国に所縁があったらしいとは,真澄 遊覧記から垣間見える通りである[新行
1982
:
45]。実際に真澄遊覧記には,花井臼と琵琶法 師との出会いとか[菅江1973
b:
173],古物屋 に陳列されていた琵琶とか[菅江1974
:
159],といった尾張国時代の出来事が収録されてい る。もっとも,尾張国時代の概要は,長沢詠子 論文にまとめられているので[長沢
1972
:
4],無用の重複は避けたい。本稿では,以上を念頭 に置きながら,菅江真澄の琵琶法師らに対す る,出立した以後の視線を,対象にしてみたい。
それにあたり,『雪の出羽路』平鹿郡3を引 用してみる。
めくら塚は,多くの盲瞽を埋みし塚と云ひしはそら ごと也,保呂(羽=脱)山へ御神幸の神輿をすゑ奉 りし処にて御座処也。其形の塚如なれば,そをみく ら塚とはいへる也。秋田ノ郡琴ノ海…の岸にもめくら 岬也,本ト三倉崎也。南部ノ鹿角…にも又神倉山あ り,里人めくら山といふ,この山に三柱の神ませり。
御倉,盲人,訛安き語なればしかいへる也。[菅江 1976: 111]
菅江真澄は,各地を遊歴するなかで,特定の 名称をもつ場所に,人身御供の伝承があると気 づいたらしい。こうした場所は,標山にも似た 役割があり,それゆえ人身御供にちなむ地名は 転訛である,と菅江真澄は主張した。類する 趣旨は,『雪の出羽路』平鹿郡4[菅江
1976
:
170]にも収録されている。もっとも,目の見 えない女性にまつわる,人身御供の伝承が,真 澄遊覧記に皆無なわけではない[菅江1979
:
38]。したがって,菅江真澄の叙述態度から学 ぶべきは,まず事実の報告をして,さらに異議があれば提案する,という手順を踏んでいる点 だろう。これにより真澄遊覧記の読者は,菅江 真澄の判断を遡及して,その是非を確認できる のである。
それならば,特定の名称をもつ場所を,先哲 はどう捉えてきたのか。たとえば中山太郎は,
「座頭池」「琵琶淵」にまつわる伝承が,人身 御供を意味しているのではないか[中山
1934
:
242],との見解を述べている。柳田国男は,「何 コロゲ」「何コロバシ」という名所につき,目 の見えない人であっても,そうは転落しなかっ たろう[柳田1928
b:
12],との見解を述べてい る。後者は,伝承が改造されたり忘却されたり する,という文脈のもと例示したに過ぎない が,看過しがたい解釈であることに相違はな い。ほかにも,菅江真澄は,数多くの琵琶法師ら に紙幅を割いている。清都のごとき優秀な琵琶 法師のみならず,花都のごとき滑稽な琵琶法師 も,紹介していた。すなわち,雨零桜の伝承と は,花都という琵琶法師が,1斗の餅を食べ切 る,という賭けに敗北して,首を刎ねられたも のである。餅に僧侶という題材は,佐々木喜善
『聴耳草紙』141番[佐々木
1986
:
549]を把握 していれば,奥羽地方に流布した昔話なのだ,と対処できよう。ただ,菅江真澄の関心は,賭 けに敗北しても物怖じしない,花都の人柄に あったらしい。そう推察しうるのは,たびたび 花都を紹介したのみならず,戸部正直『奥羽永 慶軍記』巻37にみえる類話を,『椎の葉』に転 載したためでもある[菅江
1980
:
254]。2.3 神懸りまたは梓弓
梓弓を携えたイタコミコによって,ワラハヤ
ミなどの罹患者が,恢復に導かれるという話 柄は,真澄遊覧記に散見するものである[菅 江
1972
:
326;
菅江1973
a:
49]。かかる記述のう ち,とりわけ日記に関しては,『民俗資料選集』15において,抜粋が試みられてきた[文化庁文 化財保護部編
1986
:
47-
51]。翻って言えば,真 澄遊覧記のなかの日記以外に対しては,イタコ ミコの活躍が,未整理に近い状態にあるといえ る。たとえば,『かたい袋』前篇は,より周知 されてしかるべき一節と思われる。……坐頭の の女房は眼見えざる女にて,凡梓巫女 なり。かかるわざの女もかみんといふ。又わかとも,
口よせともいへり。南部にて此女房をもはら板子と いへり。[菅江 1974: 458]
陸奥国のイタコミコのうち,仙台藩領と南部 藩領との相違を説いたもので,菅江真澄の比較 する眼差しが発揮されているといえよう。目の 見えない者同士で夫婦になる,という慣習は,
はやく中山太郎も指摘していて[中山
1930
:
440],そうした一例として注意しうる。イタコ ミコに関する記述は,随筆のみならず地誌にも 見受けられ,その大略は一覧表に掲出した通り である。以下では,地誌を繙読することで,イ タコミコの神懸りから,いかなる性質が読み取 れるか,ある種のパターンを析出したい。まず は,『雪の出羽路』平鹿郡8のうち,出羽国平 鹿郡浅舞村の,不動尊の縁起を紹介してみる。……あな邪魔なる石仏也とて八幡川へづふりと投込ミ たりしかば,此者に祟てさまさま狂へば,神子に梓 ひかすれば,不動明王を川にしづめ奉りし神罰なり といふを聞て……[菅江 1976: 284-285]
この例証を抽象化すると,2度に分けて神意 が提示されているので,ここでは二段階意思説 と仮称しておく。すなわち第一段階として,原 因不明の症状が,一村民に現れるという事実が ある。第二段階として,イタコミコの託宣によ り,症状の原因が説示される,という手順にな る。この二段階意思説において,神意を痛感し たのは一村民であって,イタコミコは解説者に 徹しているのが,特徴である。換言するとイタ コミコは,既存の不安感を緩和するための,受 動的な装置となっており,これは陰陽師の役割 にも言いうる。二段階意思説には,ほかにも
『月の出羽路』仙北郡4[菅江
1978
:
161]を挙 げることができる。ついで,『月の出羽路』仙北郡10のうち,出 羽国仙北郡今泉村の,稲生大明神社の縁起を紹 介してみる。
……梓巫女弓弦を叩て,年ふり奉る稲荷明神の神社 ありしが,いつとなうこぼれはてたるを恐ともえし らで家たり。是いとはや興し建べしといへり。[菅江 1978: 341]
この例証を抽象化すると,1度で神意が提示 されているので,ここでは一段階意思説と仮称 しておく。イタコミコの託宣により,何らかの 行為が実現することから,換言するとイタコミ コは,能動的な装置であるといえよう。かかる 託宣は,神懸りの所産というほかに,布教の拡 充のごとき,宗教団体の意嚮が働いていたとも 考えられる。一段階意思説には,ほかにも『雪 の出羽路』平鹿郡12[菅江
1976
:
468]を挙げ ることができる。なお一般に,イタコミコから 連想するのは,死霊を呼び寄せる場面だろう が,ほとんど真澄遊覧記に描写がないため,ここでは検証しえなかった。
以上のように,イタコミコの神懸りを整理す ると,神懸りをともなう他の芸能,なかんずく 神楽との,類似点が気になるところである。た とえば,周防国玖珂郡釜ケ原村の釜ケ原神楽に は,「天大将軍」なる神懸りが存在する[三村 2003
:
24]。この,いわゆる「将軍舞」は,地域 により芸態が異なるが,弓に矢を番えたり,右 回り左回りに旋回したりする傾向は認められ る。いっぽうイタコミコは,梓弓を採物として おり,弦を弾いて霊魂を呼び寄せるのは,多 くの採訪が明らかにしてきた[小沢1974
:
64]。のみならずイタコミコは,弓に矢を番えて,放 つような構えをした,という報告もみえる[文 化庁文化財保護部編
1993
:
111]。イタコミコが 旋回したか定かでないが,旋回を得意としたの が巫女神楽であることは,斟酌してよいと思わ れる。そうではあれ,これら類似点を模索していく には,判断材料が不足している。すでに「将 軍舞」は,周防国はもちろん,伊予国[高木
1985
:
32]や肥前国[渡辺1988
:
323]などで確 認されてきた。このため,主として西日本に分 布する,とみるのが穏当になるはずだが,甲斐 国にも「四道将軍弓矢」なる演目があるらしい[三田村
2005
:
148]。また,真澄遊覧記に即す ると,湯立神楽の「湯立」は,「矢立」と混同 していると提唱するものの[菅江1974
:
250],その根拠までは明記していない。いずれにせ よ,採物としての弓矢が,代替不能なほど象徴 性を帯びている,という暗示が得られるとすれ ば,それのみで収穫とはいえないだろうか。
2.4 秋田万歳の画証的考察
菅江真澄は,人物画を不得手としたらしい
[内田
1970
:
243],と内田武志は看破している。祝福芸・語りものでいえば,ナマハゲは描いた けれど[菅江
1973
a:
916図],秋田万歳は描い ていない。秋田万歳の扮装は,『筆のまにまに』1巻において,文章化しているのみである。
烏帽子に松竹鶴亀の紋ある水干を着て,才蔵は広袖 厚綿入を着て浅黄のちよつへい頭巾によそひたちぬ。
[菅江 1974: 23]
的確な表現といえるが,そうではあれ図示し たほうが,より情報量が増すのは明白である。
そこで,菅江真澄が実見したであろう秋田万歳 を,他の絵師の筆による図絵から,再現してみ たい。そもそも,図絵から芸能研究に臨む,と いう発想自体は,前例のないものではない。た とえば,山東京伝は『骨董集』上編下巻におい て[山東
1976
:
500],坪内逍遥は『歌舞伎画証 史話』において[坪内1978
:
378],図絵から歌 舞伎に取り組んだ。わけても,坪内逍遥は,歌 舞伎を読み解くための,史料として芝居絵を,画証と呼称している。もとより,こうした画証 的考察は,図絵が豊富に現存している,舞台芸 において多用されがちであった。
あらためて万歳を顧みると,新年を寿ぐ芸能 だけに,神楽や田楽に比べると,画題に選ばれ やすかったとみえる。これらのうち,菅江真澄 と同時代の成立であり,かつ万歳のなかでも秋 田万歳である,という条件を満たすのは3点で あった。すなわち,『秋田紀麗』『秋田風俗絵 巻』『風俗問状答』であり,書誌事項は後述す る。従来の研究では,秋田万歳の図示にさいし て,いずれか1点の掲載が多く,3点の相互比
較は少なかったと思われる。
第一に,1804年序の,『羽陰風雅』の異名を もつ『秋田紀麗』を取り上げる。ここで紹介す るのは,秋田県立図書館の所蔵資料のうち,1 月2日条に添えられた図絵になる。著者は人見 蕉雨であるが,図絵も人見蕉雨が手掛けたの か,また図絵に種本があったのかは,定論を聞 かない。場面は,太夫と才蔵と覚しき2人組が,
万歳を披露している最中である(図1)。2人 とも素足で,太夫は扇子を差し出し,才蔵は鼓 を打っている。衣装は不明瞭ながらも,太夫は 侍烏帽子を被っているようであり,才蔵は大黒 頭巾を被っていないように見受けられる。太夫 の,左腕を裾に収めた恰好にも,留意したい。
第二に,近世後期成立の,『秋田風俗絵巻』
を取り上げる。絵師の荻津勝孝は,1746年に生 まれ1809年に没したため,この間の成立とみる のに疑いの余地はない。ここで紹介するのは,
秋田県立博物館の所蔵資料のうち,正月年礼の 一部になる。場面は,太夫と才蔵のほか,祝儀 を入れる袋を背負う助手を加えた,3人組によ る門付けの道中である(図2)。太夫は,侍烏 帽子に,鶴に若松の素襖,帯刀。才蔵は,縞模 様の大黒頭巾に,渦巻模様の上衣,小袴。袋を 背負う助手は,無地の頭巾および着物で,盛装 とは認めにくい。太夫の,左腕を裾に収めた恰 好にも,留意したい。
第三に,1814年跋の,『風俗問状答』を取り 上げる。いわゆる諸国風俗問状に対する,秋田 藩の回答であり,ここで紹介するのは,国立公 文書館の内閣文庫本になる。著者は,那珂通博 と淀川盛品とするのが伝統的学説ながら,図絵 もこの両人の作とみるのか,定論を聞かない。
場面は,太夫と才蔵のほか,祝儀を入れる袋を
図1 『秋田紀麗(部分)』秋田県立図書館所蔵 (人見蕉雨 1968.『人見蕉雨集』第4冊,秋田魁 新報社,p. 157)
図2 『秋田風俗絵巻(部分)』秋田県立博物館所蔵 (金森正也著; 荻津勝孝画 2005.『「秋田風俗絵巻」
を読む』無明舎出版,p. 15)
図3 『風俗問状答(部分)』国立公文書館所蔵 (那珂通博,淀川盛品 1814.『風俗問状答』5,
国立公文書館所蔵,請求番号: 184-32-5,11丁裏-12 丁表)
かで,阿部幹男論文は,奥羽地方にある安倍貞 任や坂上田村麻呂の伝承が,奥浄瑠璃と結びつ くと論証した[阿部
1989
:
78;
阿部2003
:
96],数少ない業績といえる。この阿部幹男論文は,
奥浄瑠璃本から安倍伝承に向き合ったため,い かに安倍伝承が在地化したかという過程には,
比重が置かれにくかった。
そこで,語りものを語ることが,伝承の在地 化に,どのように関与したといえるか,真澄遊 覧記から把握したい。そのために,後藤内則明 が白川法皇に語ったという,武勇伝を参看して おく。武勇伝の冒頭は,源頼義軍が進軍するさ いに,降雪に見舞われて甲冑を白色にした,と いう風景描写だったと,橘成季『古今著聞集』
巻9は伝える。この武勇伝の信憑性や,先行研 究に関しては,以前に整理したので繰り返さな い[星野
2012
a:
215]。叙上を前提として,『月 の出羽路』仙北郡6にみえる,仙北郡蛭川村の 姫神山伝説を引用したい。……又頃は六月炎天なるに大雪を降せしによりて,
義家の軍兵等働事を失ふ。義家の朝臣工夫をめくら し,柴をまげて藤にてあみ,あんじきとゆふものを 調ふ〔今雪中人民用へ候かんぢき,これより始るよ し。〕[菅江 1978: 230-231]
防戦する安倍宗任軍は,旧暦では晩夏にあた る6月に,大雪を降らせることで,源義家軍の 攻撃を食い止めようとした。源義家は,防雪の 道具を考案したが,これが今日のカンジキに なった,という由来譚を兼ねる。この姫神山伝 説は名高く,近年では阿部幹男論文も,俎上に 載せていた[阿部
2011
:
28]。本稿では,安倍 宗任軍が天候を操るという,荒唐無稽が許容さ れた根拠について,さらに追究したい。その根 背負う助手を加えた,3人組が並んだところ(図3)。太夫は,侍烏帽子に,鶴に若松の素襖,
小袴,白足袋,下駄。帯刀し,右手に扇子を握 る。才蔵は,縞模様の大黒頭巾および上衣,小 袴,白足袋,下駄。左手に鼓を持ち,右手で打 つ。袋を背負う助手は,頬被りに,無地に近い 着物,素足に草鞋で,盛装とは認めにくい。太 夫の,両腕を裾に収めた恰好にも,留意したい。
上述に基づくと,近世後期における秋田万歳 では,太夫と才蔵のほかに,袋を背負った助手 を加えた,3人組を連想するのが普通であった らしい。もっとも,この第三の男は,真澄遊覧 記など近世後期の文章には現われず,また近 代以降の報告からも窺えない[市川
2000
:
59]。三河万歳[安城市歴史博物館編
2008
:
48]や尾 張万歳[岡田,野口1919
:
130]の場合だと,祝儀を入れる袋を背負うのは,才蔵の役目に なっていたと分かる。図絵の相互比較に関して いえば,『秋田紀麗』では,第三の男が登場せ ず,『風俗問状』では,太夫を才蔵と説明して いるのに,違和感を覚えよう。してみると,平 均的なるものか否かという判断は,岩登りの三 点支持のごとく,3点の確保によって実現でき る,という一般論に通ずると思われる。
2.5 雪景色と安倍伝承
弘法大師の伝承などは,日本各地に分布する ものだから,とうてい事実とは看做せない[柳 田
1928
b:
6],というのが柳田国男の考えかた になる。ならば,特定の地域に,稠密に分布す る伝承は,いかにして広められたのだろう。こ の回答としては,民間宗教者や民間芸能者など の,活動の痕跡であると概説するばかりで,そ れより深入りしない傾向にあった。こうしたな密を極めるほどではないものの,かといって興 味本位に走るわけではなく,また憐愍の感情を 誘うわけでもない。しいて説明すれば,日常を 生きる人たちに,節目や精彩をもたらす存在と して,その豊かな意義を活写したといえよう。
このように,さりげなくも温かい筆致が,菅 江真澄には,なぜ可能だったのだろう。第一に,
菅江真澄の前半生が,旅芸人と係わりがあった とする[内田
1977
:
26],千葉徳爾説が挙げら れる。第二に,菅江真澄の後半生が,旅芸人の 境遇に似通っていたことが,挙げられる。第二 の手掛かりとして,野上陳令『御学館文学日記』1825年10月23日条を掲載したい。この一節は,
内田武志も翻刻しているが[菅江
1976
:
662],ここでは秋田県公文書館の混架資料から翻刻し ておく。
菅江真澄,平鹿郡旧跡吟味被仰付,去年中罷越段々 回村此節大略相片付,此程横手近在既ニ吟味成就仕 候。去秋中出之砌,旅装御合力拝領被仰付,其後吟 味形存之外延日ニ罷成,衣服零落内々如何共迷惑仕 候。[野上 1825: 52]
菅江真澄自身も,みすぼらしい風体で,諸国 を放浪していたと窺える,貴重な証言といえよ う。菅江真澄は旅芸人とはいえないが,豪農層 の邸宅を訪問するなどし,真澄遊覧記という才 能を引き換えにして,寝食を獲得していたら しい。はやく今田洋三論文は,豪農が文人墨 客を歓待していたと指摘しており[今田
1976
:
233],菅江真澄もこの例外に漏れなかったと考 えられる。これを換言すると,第一次産業たる 農漁業の余剰が,第三次産業たる文化活動に投 資されていた,と看做すことができる。もっと も,こうした所得再分配機能を解明するには,拠も,菅江真澄が出羽国雄勝郡柳田村に滞在 していたさいの日記である,『秋田のかりね』
1785年10月19日条に収載されている。
其いはれは,あべのやからは神宮寺の淵とて,そこ なきところにすむ,あやしのいろくず(魚)の子な れば,時しにあらぬ雪ふらせけるじち(術)も侍り けると,あやしのものがたりするは…[菅江 1973a:
216]
安倍一族は,怪魚の子孫であったから,降雪 の妖術を心得ていたのだ,と説明している。1 つの物語を合理化するために,その背後にある 物語を合理化しなくてはならなくなる,平将門 の鉄身伝承にも窺える構造といえる。
以上より,語りものを語ることが,伝承の在 地化に,どのように関与したといえよう。第一 として,後藤内則明の武勇伝と,在地の安倍伝 承との,因果関係は不明ながらも,風景描写は 一致していた。つまり第二として,語りものは 舞台芸に比較して,場面を容易に転換できる,
という特色の証左になっていると思われる。さ らに第三として,在地の安倍伝承は,カンジキ 譚に付会するなどして,より身近な問題に引き つけようとしている。かかる身近さは,語りも のが一人称現在進行形に発するのに,遠因を尋 ねられようが,これは戦災の記憶として,語り 部を有効視する,理由でもあると考える。
おわりに
菅江真澄の見聞した祝福芸・語りものにつ き,その梗概および論点を,明らかにしてみた。
真澄遊覧記には,諸国を放浪する人たちが,糊 口を得るために,披露する芸能つまり放浪芸 が,いくつも記録されている。その記録は,詳
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真澄遊覧記を素材とする真澄研究の範囲を,逸 脱したものにならざるをえない。
〔投稿受理日2012. 12. 15 /掲載決定日2013. 1. 24〕
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