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坂上田村麻呂に関する伝承 -菅江真澄の採集を素材にして-

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(1)

はじめに

坂上田村麻呂の伝承につき,真澄遊覧記と総 称される菅江真澄の述作を手掛かりにして,検 討していく。坂上田村麻呂は古代の武人であ り,蝦夷の征討や,音羽山清水寺を建立したこ とで知られる。とはいえ,その事跡は,茫然 としているというのが歴史家の見解で[大森 1927

:

275],それだけに虚構性をもたせるには 格好の人物だったらしい。さらに,好敵手たる 悪路王は,『吾妻鏡』1189年9月28日条に,配 偶者たる鈴鹿御前は,『今昔物語集』巻29第36 に,それぞれ濫觴を窺いうる。これら登場人物 を,田村麻呂伝承に昇華せしめたのが,後人の 所産であったにせよ,看過しがたい要素である のに相違はない。同様の観点から,大同年間と か勝軍地蔵とかという要素も,広義の田村麻呂 伝承として,射程に収めるべきであろう。

「研究史」にて後掲するように,田村麻呂伝 承には,すでに先行研究が蓄積している。にも かかわらず,菅江真澄の採集を素材にして,重 ねて討究する利益とは,どういったものだろ う。第一点目に,近世後期つまり近代以前の,

坂上田村麻呂にまつわる価値観が把握できると

ころ。第二点目に,菅江真澄という一文人を介 した,田村麻呂伝承が把握できるところ。第三 点目に,先行研究が十全ではなかった,真澄 遊覧記にみえる田村麻呂伝承が把握できると ころ。第三点目に関して,小野小町伝承[錦 1997

:

99]や源義経伝承[小池1997

:

2]や西行 伝承[小堀2004

:

70]に,精解があるのに比較 すると,立ち遅れているという現実がある。

こうした利益を達成するためには,どのよう な調査が必要になるだろう。一方の考えかたと して,真澄遊覧記にいかほど田村麻呂伝承の記 述があるのか,を解明するための調査が必要と なる。他方の考えかたとして,そうした記述に は,いかなる性質が包摂されているのか,を 解明するための調査が必要となる。本稿では,

「結果」において,この両方を充足させるよう に心掛けた。これを踏まえた「考察」では,登 場人物の役割について,芸能と口承の異同につ いて,「記録される」ことの意味について,と いう3点から取り組むものとした。

本稿の直接的な目的は,田村麻呂伝承の研究 を裨補するところにある。さりながら,「考察」

にて詳述するように,登場人物の役割には,固 有名詞を超えた規則性が,存在するらしい。ま

*早稲田大学大学院社会科学研究科 2012年度修士課程修了 論 文

坂上田村麻呂に関する伝承

-菅江真澄の採集を素材にして-

星 野 岳 義

(2)

た,真澄遊覧記を切り口とすることにより,真 澄研究のみならず人物研究を推進するうえで の,長所や短所を探る指標ともなろう。した がって,田村麻呂伝承なる具象性を解き明かし つつも,その背後にある抽象性いうなれば普遍 性に配慮するのが,本稿の間接的な目的となる。

1 研究史

田村麻呂伝承を対象にした論文が,どれほど 公刊されてきたか,その総数を聞かない。ここ では,3群に分割することで,田村麻呂伝承研 究を概観してみたい。一群では,いかなる方法 を採るにせよ把握すべき,著名な成果を整理し ておく。二群では,一群には漏れたものの,田 村麻呂伝承を対象にした成果を,駆け足ながら 例示しておく。三群では,田村麻呂伝承研究を 真澄遊覧記から取り組んだ成果,つまり直接の 先行研究を把握しておく。

まず,一群について。柳田国男論文は,田村 麻呂伝承の起源を,まず征討によるとし,つ ぎに寺社によるとした[柳田1928

:

77]。やが て坂上田村麻呂は,藤原相之助[藤原1932

:

1]

や喜田貞吉[喜田1939

:

55]にも取り上げられ ているから,田村麻呂伝承は注目されつつあっ たといえる。在地の伝承も,陸奥国では歴史研 究室が[歴史研究室1933

:

237],出羽国では武 藤鉄城が[武藤1941

:

12],採集を試みた。さ らに,堀一郎は田村麻呂伝承につき,日本諸学 振興委員会にて論及し[堀1942

:

19],『我が国 民間信仰史の研究』[堀1955

:

655]へと深化さ せていく。堀一郎は田村麻呂伝承を,信仰を 背景にした寺社にあるとみたが[堀1943

:

13],

こうした観点は,のちの研究者にも共有され

た,と捉えうる。たとえば大塚徳郎論文は,坂 上田村麻呂の創建とする寺社につき,観音堂が 多く,ついで神社や毘沙門堂が多い,と指摘し た[大塚1960

:

81]。ほかにも,荒木繁論文は 説経節から[荒木1975

:

13],福田晃論文は「馬 の家」から[福田1985

:

1],田中秀和論文は寺 社縁起から[田中1990

:

250],それぞれ取り組 み田村麻呂伝承研究の礎となっている。

つぎに,二群について。地域ごとに分類でき る論文を例示したあと,地域ごとに分類できな い論文を例示したい。前者の論文として,陸 奥国[根岸1992

:

37],常陸国[志田1981

:

15],

武蔵国[常光1989

:

41],信濃国[郷道2001

:

1],

伊勢国[小林1999

:

1]に関するものが挙げら れる。後者の論文として,複数地域に関する もの[小泉1981

:

32

;

西川1999

:

21],寺社縁起 に関するもの[大橋1991

:

198

;

鈴木2003

:

109],

御伽草子に関するもの[内藤2003

:

338

;

金子 2008

:

63]などが挙げられる。以上,田村麻呂 伝承研究を概観したが,例示した論文は,真澄 遊覧記を素材にしたものではなかった。

そこで,三群について。真澄遊覧記に坂上田 村麻呂が現れると指摘した,はやい段階の成果 に,中道等論文が挙げられる[中道1927

:

12]。

また内田武志は,菅江真澄の未発見本『千引の 石』を紹介するなかで,田村麻呂伝承にも論及 した[内田1981

:

498]。このほか,達谷窟に関 するもの[佐々木1981

:

8],奥浄瑠璃に関する もの[阿部2003

:

2],壺の碑に関するもの[福 岡2008

:

3]などが挙げられる。真澄遊覧記に みえる田村麻呂伝承を,抽出しようとする論攷 は,小堀光夫[小堀1994

:

5]と菊池勇夫[菊 池2011

:

151

-

163]が手掛けてきた。しかし,

前者は一部に留まっており,後者は考察が控え

(3)

めであった。これら先行研究の,空隙を埋め合 わせるという意味において,なお研究の余地は あると考えうる。

2 結果

2.1 田村麻呂伝承の全容

真澄遊覧記にみえる田村麻呂伝承の,全容を 解明する足掛かりとし,かつ後進に索引の便を 図るべく,記事を一覧にしてみたい(表)。作 表にあたっては,まず行を,未来社刊『菅江真 澄全集』の巻数順に,伝承場所ごとに抽出する。

つぎに列として,当該伝承の摘要,当該伝承の 真澄遊覧記の出所,それに対する先行研究を付 した。場所を特定できるものは,文献を引用し ている件でも,採用することにした。ゆえに反 対に,『つゆの塵束』所収の「古神社縁起」の ように[菅江1980

:

335

-

345],引用文中から場 所が特定できないものは,この限りではない。

摘要に転記するさいは,原文の表現を尊重しつ つも,「田村将軍」を坂上田村麻呂に,「俊仁将 軍」を藤原利仁にするなど,若干の読み替えを 行なっている。

かような作表により,先行研究が捕捉してい る事例と,いまだ脱漏している事例を,一目瞭 然のものとできる。のみならず,菅江真澄が田 村麻呂伝承を,どのように把握していたのかも 理解できよう。たとえば,田村麻呂伝承が信濃 国にも分布していたとは,先行研究の指摘する ところだが,菅江真澄は信濃国も踏査したた め,これを把握しえたと分かる。もっとも,菅 江真澄は伊勢国にも所縁があったらしいが[内 田1977

:

306],鈴鹿御前への言及は十指に満た ない。したがって,いかに菅江真澄が博覧強記

であれ,その見聞しえた田村麻呂伝承は,田村 麻呂伝承の全体からすると,偏向を認めざるを えない。これを認めたうえで,それでもなお,

真澄遊覧記から田村麻呂伝承を抽出するなら,

いかなる性質が読み取れるか,整理してみる。

2.2 田村麻呂伝承の性質

真澄遊覧記にみえる田村麻呂伝承の,性質を 分類してみたい。ここでは,先行研究を参酌し ながら,便宜的に4つに大別する。すなわち,

征討にまつわる伝承,寺社にまつわる伝承,配 偶者にまつわる伝承,その他の伝承,である。

以下,順を追って,各性質を説明してみる。

征討にまつわる伝承は,奥羽地方のほか信濃 国を舞台とする。坂上田村麻呂の相手方として は,悪路王のほかに,達谷や大嶽丸を記録して いる。固有名詞を挙げず,逆徒とか鬼賊とかと も記載しているが,これらが地域の人たちの表 現といえるか,留意する必要があろう。菅江真 澄の悪路王に対する認識であると,明確に看て 取れるのは,『雪の出羽路』雄勝郡1になる。

悪路はオキクロ,メナシクロの類にて蝦夷の詞に て,王てふ字は人の添て書たらむ,みなかかる鬼 こそあら蝦夷のたぐひならむ。[菅江1975: 48]

菅江真澄は,奥羽地方にアイヌ文化が窺え る,という主張を繰り返しており[星野2013

b:

5],こうした一環として,悪路王のアイヌ語起 源説を提唱したらしい。この正否は措くとして も,悪路王の語源を尋ねる研究が,近代以降は 活発になるため[喜田1919

:

14

;

伊能1922

:

21

;

外山1983

:

70],それら研究の嚆矢として位置 づけられよう。

(4)

伝承場所 摘 要 タイトル真 澄 遊 覧 記出  所 先行研究 信濃国安曇郡古厩村

(明王院正福寺) 田村麻呂が鬼を討つ 『く』84/7/16条 菅江 1971a: 165 菊池 2011: 151 出羽国雄勝郡松岡村

(霧機山) 悪路王が住む。利仁が立烏

帽子を討つ 『小』85/4/23条

『は』86/4/10条

『雪の出羽路』雄1

『雪の出羽路』平11

菅江 1971a: 261,373。

菅江 1975: 48。菅江 1976: 403

菊池 2011: 155,159

陸奥国津軽郡百沢村

(阿曽辺の森) 田村麻呂が鬼を討つ。田村 麻呂がゑみしを討つ。鬼の 臍を所蔵する

『外が浜風』85/8/11条

『津軽の奥』96/3/1条 菅江 1971a: 275。菅

江 1972: 64-65 中道 1927: 145。中 道 1929: 36。菊池 2011: 151-152 陸奥国北郡天魔館村

(千曳神社) 壺の碑 『け』85/9/6条

『い』88/7/5条

『お』93/10/29/条

『奥の冬』94/11/22条

『桜がり』下巻

菅江 1971a: 308,447,

37図。菅江 1971b:

398,475。菅江 1974:

296-297

福岡 2008: 1

陸奥国岩手郡御堂村

(観世音菩薩堂) 田村麻呂が寺院を建てる 『け』85/9/7条 菅江 1971a: 310 菊池 2011: 151 陸奥国磐井郡達谷村

(真鏡山西光寺) 田村麻呂が寺院を建てる。

田村麻呂が赤頭や達谷を討 つ。田村麻呂の霊像を祀る。

悪路王が葉室中納言女と住 む

『かすむ駒』86/1/26条

『は』86/4/10条

『雪の出』雄1

『雪の出』平7

『筆のまに』2巻

菅江 1971a: 352,373。

菅江 1975: 47-48。菅 江 1976: 255。菅江 1974: 56

佐々木 1981: 8。菊 池 2011: 151-152,

155,158,163 陸奥国胆沢郡小山村

(奥浄瑠璃) 「あくたま」 『かすむ駒』86/2/21条 菅江 1971a: 356 阿部 2003: 2 陸奥国江刺郡黒石村

(妙見山黒石寺) 大同元年に寺院を建てる 『は』86/4/8条

『雪の出』平4 菅江 1971a: 370。菅 江 1976: 154 陸奥国津軽郡荒川村

(五十嶋社) 田村麻呂を祀る。蝦夷を祀

る 『は』86/4/11/条

『す』96/5/1条 菅江 1971a: 376。菅 江 1972: 102 陸奥国宮城郡浮島村

(多賀城碑) 壺の碑 『は』86/5/2条

『い』88/7/5条

『は続』86/8/18条

菅江 1971a: 384,447。

菅江 1981: 61 福岡 2008: 1。村上 2002: 206 陸奥国黒川郡吉田村

(七ツ森) 悪路王が住む 『い』88/6/24条 菅江 1971a: 433 陸奥国磐井郡

(霧山) 悪路王が住む 『い』88/6/24条 菅江 1971a: 433 陸奥国二戸郡釜沢村

(月読社) 大同年間に,田村麻呂が神

社を建てる 『い』88/7/3条 菅江 1971a: 442 菊池 2011: 152 陸奥国津軽郡口広沢村

(雷電山) 大同年間に,田村麻呂が神

社を建てる 『外が浜づ』88/7/6/条 菅江 1971a: 454 菊池 2011: 152 陸奥国津軽郡釜野沢村 田村麻呂がゑみしを討った

ころ,釜を据える 『外が浜づ』88/7/11条 菅江 1971a: 468 菊池 2011: 152 陸奥国北郡脇野沢村

(観音堂) 大同2年の鰐口 『奥のう』93/4/29条 菅江 1971b: 326 陸奥国北郡川内村

(熊野神社) 大同2年の鰐口 『奥のう』93/5/2条 菅江 1971b: 329 陸奥国北郡大畑村付近

(深山権現) 大同2年の神鏡 『牧の朝』93/7/26条 菅江 1971b: 362 陸奥国北郡田屋村

(館八幡) 大同年間に神社を建てる 『お』93/11/27条 菅江 1971b: 405 陸奥国北郡田屋村

(熊野神社) 大同年間の棟札 『お』93/11/27条 菅江 1971b: 405 陸奥国津軽郡小湊村

(雷電山日光院) 大同2年に,田村麻呂が寺

院を建てる 『津軽の奥』95/3/22条 菅江 1972: 12 菊池 2011: 152 陸奥国津軽郡荒川村

(妙見堂) 田村麻呂がゑみしを討つと

きに用いた,仮面を所蔵する『津軽の奥』96/3/28条

『す』96/5/4条 菅江 1972: 82,106 菊池 2011: 152-153 陸奥国津軽郡幸畑村

(大杵根神社) 田村麻呂が神社を建てる 『す』96/4/19条 菅江 1972: 97 菊池 2011: 152-153 陸奥国津軽郡浪岡村

(浪岡八幡宮) 田村麻呂が神社を建てる 『す』96/5/7条 菅江 1972: 107 菊池 2011: 153 陸奥国津軽郡乳井村

(多門天王堂) 田村麻呂が寺院を建てる 『す』96/5/20条 菅江 1972: 118 菊池 2011: 154 表 真澄遊覧記にみえる田村麻呂伝承

(5)

陸奥国津軽郡鯵ケ沢町

(正八幡) 田村麻呂が扁額を揮毫する 『外浜』96/7/6条 菅江1972: 149 菊池2011: 154 陸奥国津軽郡深浦村

(澗口観音堂) 田村麻呂がゑみしを討った

ころ,寺院を建てる 『外浜』96/7/16条 菅江1972: 150 菊池2011: 154 陸奥国津軽郡桜庭村

(観音堂) 大同年間に寺院を建てる 『雪のも』96/11/4条 菅江1972: 208 陸奥国津軽郡十腰内村

(巌鬼山神社) 大同年間の昔話 『津軽のを』97/5/11条 菅江1972: 229 出羽国山本郡落合村

(中嶋八幡宮) 田村麻呂が鉾と旗を納める 『雪の陸』01/11/10条

『かすむ月』06/2/25条

『筆のまに』2巻

菅江1972: 308。菅江 1973a: 79。菅江1974: 52

菊池2011: 154,162 出羽国山本郡田代村

(愛宕山) 大同年間の鰐口 『しげ』02/4/8条 菅江1972: 331 出羽国秋田郡森吉村

(八船豊受比咩) 大同年間に神社を建てる 『雪の秋』02/10/16条 菅江1972: 346 出羽国秋田郡花岡村付近

(根井権現) 田村麻呂が和歌を書き残す 『に』03/6/22条 菅江1972: 422 出羽国山本郡仁井田村

(白鶴山倫勝寺) 大同2年に寺院を建てる 『かすむ月』06/2/21条 菅江1973a: 74 陸奥国鹿角郡毛馬内村

(靫明神) 大同3年に,大坊一位が住 む。田村麻呂が蝦夷を討つ。

田村麻呂が経典を書く。田 村麻呂の靫を神として祀る

『に』序文

『筆のまに』5巻

『桜がり』下巻

『しの』『陸』

菅江1973a: 139-140。

菅 江1974: 145,292,

324。菅江1980: 517

菊池2011: 154,163

陸奥国鹿角郡高清水村 大同という屋号 『十』07/9/8条 菅江1973a: 160 出羽国秋田郡野田村 大同3年の鉦鼓 『ひ』 菅江1973a: 760図 出羽国秋田郡湯本村

(妙見菩薩堂) 田村麻呂が神社を建てる 『男鹿の春』10/4/22条 菅江1973a: 845図 菊池2011: 154 出羽国秋田郡野村

(太上神仙祠) 大同年間に,田村麻呂が寺

院を建てる 『男鹿の春』10/4/23条 菅江1973a: 216 出羽国秋田郡

(男鹿島) 悪路王の投石。田村麻呂が

鬼を討つ 『男鹿の島』10/7/17条

『月の出』仙20

『筆のまに』5巻

菅江1973a: 239。菅江 1979: 97。菅江1974: 134

菊池2011: 154,161 -162

出羽国秋田郡安全寺村

(雷の社) 田村麻呂の駒繋松 『男鹿の寒』10/10条

『雪の出』雄5 菅 江1973a: 255,914 図。菅江1975: 253 出羽国秋田郡竜毛村 大同元年に家を建てる。大

同年間に大樹だった松。大 同年間に八幡宮の旅所とな る。大同年間に婿入りする

『軒』11/5条

『筆のまに』6巻 菅江1973a: 270,931- 932図。菅江 1974: 180-181

出羽国雄勝郡坊中村

(白山姫の社) 田村麻呂が神社を建てる 『雪の出』雄1 菅江1975: 33 菊池2011: 155 出羽国雄勝郡打越村 田村麻呂が悪路王を討つ。

田村麻呂の杖から芽が生え る

『雪の出』雄1 菅江1975: 38 菊池2011: 155 出羽国雄勝郡畑村

(鬼が窟) 悪路王が住む 『雪の出』雄1 菅江1975: 40,44 菊池2011: 155 出羽国雄勝郡蓮華台村 悪路王が住んでいたころ,

池に蓮が咲いていた 『雪の出』雄1 菅江1975: 43 菊池2011: 155 出羽国雄勝郡嘉長畑村

(観音堂) 大同2年に寺院を建てる 『雪の出』雄1 菅江1975: 48 菊池2011: 155 出羽国雄勝郡戸平村

(将軍地蔵大士社) 将軍地蔵 『雪の出』雄1

『風の落』6 菅江1975: 58。菅江 1980: 217

出羽国雄勝郡麓村

(金米山長落寺) 田村麻呂が銅磬を寄進する 『雪の出』雄2 菅江1975: 120 菊池2011: 156 出羽国雄勝郡川井村

(観世音の社) 田村麻呂が寺院を建てる。

田村麻呂が杉を植える 『雪の出』雄4 菅江1975: 221 菊池2011: 156 出羽国雄勝郡八幡村

(白子山正八幡宮) 利仁が蝦夷を討つ 『雪の出』雄5 菅江1975: 234 菊池2011: 156-157 出羽国雄勝郡赤袴村

(白山の神) 田村麻呂の駒繋松 『雪の出』雄5 菅江1975: 252 菊池2011: 157 出羽国雄勝郡竹下村

(観世音) 田村麻呂が寺院を建てる 『勝』雄5 菅江1975: 81図

(6)

出羽国秋田郡藤倉村

(藤倉権現) 田村麻呂が蝦夷を討つ。大 同2年に,田村麻呂が神社 を建てる

『勝』秋3

『花の出羽路の目』

『つ』

菅江1975: 164図。菅 江1979: 315。菅江 1980: 337

菊池 2011: 157,

162 出羽国河辺郡仁井田村

(田村街道) 田村麻呂が逆徒を討つとき

に通る 『勝』河1 菅江1975: 202図 菊池2011: 157 出羽国平鹿郡板井田村 田村麻呂が鬼賊を討つ。田

村麻呂が禊をする 『雪の出』平1 菅江1976: 25-26 小堀1994: 5。菊 池2011: 157 出羽国平鹿郡平野村

(八幡宮) 田村麻呂が神社を建てる 『雪の出』平1 菅江1976: 27 小堀1994: 5 出羽国平鹿郡今宿村

(豆明神社) 大同年間に神社を建てる 『雪の出』平2 菅江1976: 62 出羽国平鹿郡大森村

(太平山巨海寺) 田村麻呂が夷敵を討つ。田 村麻呂が剣および稲田を寄 進する

『雪の出』平3 菅江1976: 95 小堀1994: 5 尾張国海東郡甚目寺村 大同年間の経筒が出土する 『雪の出』平3

『比』 菅江1976: 125。1979: 出羽国平鹿郡阿気村 442

(安家山正八幡) 田村麻呂が東夷を討つ。田 村麻呂が兜を塚に埋める。

田村麻呂が寺院を建てる

『雪の出』平6 菅江1976: 210,212 小堀1994: 5。 菊 池2011: 158 出羽国山本郡上岩川村

(房住山) 田村麻呂が夷賊を討つ。田 村麻呂が,阿計徒丸と阿計 留丸と阿計志丸を討つ

『雪の出』平6

『房』 菅江1976: 210。菅江

1980: 418-429,62図 佐々木 1981: 8。

菊池2011: 158 陸奥国栗原郡小迫村

(屯の岡) 田村麻呂が蝦夷を討つとき

に駐屯する 『雪の出』平7

『桜がり』下巻

『かすむ駒続』86/3/5条

菅江1976: 250。菅江 1974: 302。菅江1981: 34

村上2002: 80。菊 池2011: 158 出羽国平鹿郡田村

(毘沙門堂) 田村麻呂の佩玉を,毘沙門

天像に納める 『雪の出』平7 菅江1976: 253 菊池2011: 158 出羽国平鹿郡田村

(多門天社) 田村麻呂が神社を建てる 『雪の出』平7 菅江1976: 255 小堀1994: 5。 菊 池2011: 158 出羽国平鹿郡傾城塚村

(将軍屋敷) 田村麻呂が陣営を置く 『雪の出』平7 菅江1976: 256-257,

342図,344図 小堀1994: 5。 菊 池2011: 158 近江国甲賀郡土山宿

(田村社) 田村麻呂を祀る 『雪の出』平7 菅江1976: 261 菊池2011: 159 出羽国秋田郡寺内村

(田村大明神) 田村麻呂を祀る。田村麻呂 が阿計徒を討つ。田村麻呂 が武運を祈る

『雪の出』平7

『つ』『房』

断簡55号

菅江1976: 261。菅江 1980: 337,416。菅江 1981: 163

小堀1994: 5。 中 野2002: 122。 菊 池2011: 159 出羽国平鹿郡三島村

(三島大明神) 大同年間から弘仁年間に,

田村麻呂が神社を建てる 『雪の出』平11 菅江1976: 406,408 佐々木 1981: 9。

小堀1994: 5。 菊 池2011: 159 出羽国平鹿郡三島村

(稲荷明神社) 田村麻呂や利仁にまつわる

縁起がある 『雪の出』平11 菅江1976: 408 小堀1994: 5。 菊 池2011: 159 出羽国平鹿郡川登村

(登光山薬王寺) 田村麻呂が寺院を建てる。

大同2年の棟札がある 『雪の出』平11 菅江1976: 438 小堀1994: 5。 菊 池2011: 159 出羽国平鹿郡上樋口村

(上宮太子社) 田村麻呂が神社を再興する 『雪の出』平11 菅江1976: 440 小堀1994: 5 出羽国平鹿郡横手前郷村

(白旗明神社) 田村麻呂を祀る 『雪の出』平12 菅江1976: 488 小堀1994: 5 出羽国平鹿郡庭当田村

(旭岡山神社) 田村麻呂が神社を建てる 『雪の出』平12 菅江1976: 495 小堀1994: 5。 菊 池2011: 159 出羽国平鹿郡庭当田村

(下居天照大神宮) 田村麻呂が弓矢を納める 『雪の出』平12 菅江1976: 495,451図 菊池2011: 159 出羽国仙北郡面日村

(多麻明神) 阿久玉御前が生まれる。利 仁が東夷を討つ。利仁の腰 掛塚

『月の出』仙1 菅江1978: 26,30,32,

528図 佐々木 1981: 7。

菊池2011: 160 出羽国仙北郡峯吉川村

(白滝明神) 利仁が和歌を書き残す 『月の出』仙2 菅江1978: 80 出羽国仙北郡峯吉川村

(高寺山高善寺) 大同2年に,田村麻呂が寺

院を建てる 『月の出』仙2

『つ』 菅江1978: 88。菅江 1980: 337

出羽国仙北郡小杉山村

(小杉山円満寺) 田村麻呂が寺院を建てる 『月の出』仙2下

『つ』 菅江1978: 126。菅江

1980: 338 菊池2011: 160 出羽国仙北郡土川村

(慈眼山宝泉寺) 大同2年に,田村麻呂が寺

院を建てる 『月の出』仙2下 菅江1978: 130

(7)

陸奥国栗原郡小迫村

(小迫延年) 田村麻呂が悪路王を討つ舞 い。田村麻呂と鈴鹿御前の 舞い

『月の出』仙4

『かすむ駒続』86/3/3条 菅江1978: 141。菅江

1981: 26-27 渡辺1978: 76。竹 内1982: 50。村上 2002: 66-67。田口 2006: 57,60 陸奥国栗原郡小迫村

(小迫山勝大寺) 鈴鹿御前の森。鈴鹿御前の 守仏。鈴鹿御前の仮面。田 村麻呂の笛

『月の出』仙4

『かすむ駒続』86/3/5条 菅江1978: 141。菅江

1981: 34 小堀1994: 5。 村 上2002: 81 出羽国仙北郡南楢岡村

(熊野権現社) 大同年間に,田村麻呂が神

社を建てる 『月の出』仙4 菅江1978: 147,153 出羽国仙北郡神宮寺村

(八幡神社) 大同2年に,田村麻呂が神

社を建てる 『月の出』仙5

『つ』 菅江1978: 195-196,

201,221。菅江337 菊池2011: 160-161 出羽国仙北郡神宮寺村

(六所大明神) 大同2年に,田村麻呂が神

社を再興する 『月の出』仙6 菅江1978: 225 菊池2011: 161 出羽国仙北郡宮田村

(笠木大明神) 大同2年に,田村麻呂が神

社を建てる 『月の出』仙6 菅江1978: 235 菊池2011: 161 出羽国仙北郡蛭川村

(薬師如来堂) 大同2年に,田村麻呂が寺

院を建てる 『月の出』仙7 菅江1978: 251 出羽国山本郡成沢村

(白山姫社) 田村麻呂が神社を建てる 『月の出』仙7 菅江1978: 260,265 菊池2011: 161 出羽国仙北郡荒山代村

(鳴嶋権現) 田村麻呂が矢を寄進する 『月の出』仙8 菅江1978: 270 菊池2011: 161 出羽国山本郡高寺村

(高寺山福王寺) 田村麻呂が兵具を寄進する 『月の出』仙8 菅江1978: 276 出羽国仙北郡大曲村

(壺館街道) 壺の碑 『月の出』仙9,10,11 菅江 1978: 688図,

312,324,359 出羽国仙北郡六郷高野村

(東光山本覚寺) 貞観年間に,田村麻呂が檀

越となる 『月の出』仙13 菅江1978: 428 菊池2011: 161 出羽国仙北郡六郷高野村

(熊野宮) 大同2年に,田村麻呂が神

社を建てる 『月の出』仙15 菅江1978: 460 菊池2011: 161 信濃国諏訪郡下原村

(諏訪大社下社) 田村麻呂が東夷を討つ。田

村麻呂が神社を建てる 『月の出』仙16 菅江1979: 12 菊池2011: 161 出羽国仙北郡高梨村

(薬師十二神将社) 田村麻呂が陣営を置く。田 村麻呂が寺院を建てる。田 村麻呂が稲田を寄進する

『月の出』仙20上 菅江1979: 97 菊池2011: 161-162 出羽国仙北郡千畑村

(真昼岳) 田村麻呂が神社を建てる 『月の出』仙21 菅江1979: 156 菊池2011: 162 出羽国仙北郡元本堂村

(福重山無量寺) 大同年間に,田村麻呂が寺

院を建てる 『月の出』仙21 菅江1979: 158 菊池2011: 162 出羽国仙北郡小沼村

(小沼観音堂) 大同2年に,田村麻呂が神

社を建てる 『月の出』仙23 菅江1979: 210,212 菊池2011: 162 出羽国仙北郡西長野村

(蔵王大権現) 大同2年に,田村麻呂が神

社を建てる 『月の出』仙25 菅江1979: 284 出羽国仙北郡白岩前郷村

(稲荷大明神) 大同2年に神社を建てる 『月の出』仙25 菅江1979: 297 出羽国仙北郡藤木村 田村麻呂に従軍する 『花の出』山 菅江1979: 418 出羽国桧山郡柏子所村 田村麻呂が陣営を置く 『花の出』山

『筆のまに』7巻 菅江1979: 419。菅江

1974: 195 菊池2011: 162 陸奥国胆沢郡八幡村

(鎮守府八幡宮) 田村麻呂が剣と弓矢を寄進

する 『粉』

『百』 菅江 1973b: 37図,

182図 菊池2011: 162 陸奥国遠田郡涌谷町

(箆岳) 田村麻呂が大武麻呂を討つ。

大同年間に,田村麻呂が高 札を立てる

『筆のまに』3巻

『混』裏書 菅江1974: 82。菅江

1981: 133 菊池2011: 163 出羽国秋田郡森吉村

(森吉山竜王寺) 大同2年に,田村麻呂が武

運を祈る 『筆のまに』5巻 菅江1974: 134-135 出羽国秋田郡土崎湊

(蒼竜権現) 田村麻呂が夷賊を討つ。田 村麻呂が武運を祈る。田村 麻呂が評定をする

『桜がり』下巻

『水』 菅江1974: 293,344 出羽国秋田郡寺内村

(将軍野) 田村麻呂が陣営を置く 『桜がり』下巻

『水』 菅江1974: 293,343 菊池2011: 163 出羽国秋田郡寺内村

(幣切山) 田村麻呂が蝦夷を討つ。田

村麻呂が御幣を立てる 『桜がり』下巻

『水』 菅江1974: 293,343 中野2002: 122 出羽国秋田郡寺内村

(槻館) 大同年間に,田村麻呂が陣

営を置く 『水』

『風の落』4 菅江1974: 339-340。

菅江1980: 123

(8)

寺社にまつわる伝承は,奥羽地方を舞台とす る。先哲が喚起した通り,観音信仰の影響が看 取できるほか,熊野信仰や白山信仰の関与も推 測しうる。個別の事案としては,坂上田村麻呂 による建立や,坂上田村麻呂を祭神とするもの が,目立っている。

……田村将軍を斎ひ祭るとも,亦蝦夷の霊を祀り たるともいひ伝へ侍ると。[菅江1972: 102]

この『すみかの山』1796年5月1日条は,陸 奥国津軽郡荒川村にある五十嶋社の,祭神を説 明したものである。周知のように坂上田村麻呂 の相手方は,近代以降に逆賊視されていくが

[柴田1987

:

2],それ以前の様相を垣間見せる ものといえる。ちなみに縁起とは,当該寺社の 信者からすれば,信仰を深める契機となるが,

信者でない者には,信仰を口実とした観光の契 機ともなろう。壺の碑の成立には,単純ならざ るものがあるが,ここでは信仰から派生した名 所として,分類しておきたい。

配偶者にまつわる伝承は,奥羽地方を舞台と

しつつも,伊勢国鈴鹿郡の鈴鹿山をも視野に 入れている。立烏帽子こと鈴鹿御前に関して は,悪路王の配偶者とする伝承と[菅江1971

a:

261],坂上田村麻呂の配偶者とする伝承の[菅 江1981

:

27],両方を採集した。ただし,悪路 王の配偶者は,鈴鹿御前だけではなかったとみ え,『はしわの若葉』1786年4月10日条のうち 陸奥国磐井郡達谷村の達谷窟伝承は,刮眼に値 する。

むかし悪路王ひそかに都(に=脱)登り,葉室中 納言某卿の御娘ひとところおはしけるを盗みとり て,此窟に隠れ住けり。[菅江1971a: 373]

東男が京女を掠奪するとの筋書きは,『伊勢 物語』12段や『大和物語』155段にも看取でき るので,かかる話柄の基層をめぐっては,将来 の課題に属するところが大きい。ちなみに佐々 木孝二論文は,奥浄瑠璃『三代田村』に類話が あるいい,そこでは葉室中納言が山陰中納言に なっている,と指摘した[佐々木1981

:

8]。山 陰中将なる人物が,奥羽地方の正統意識を支え 陸奥国栗原郡金成村

(鬼渡権現社) 田村麻呂が夷を討つ。田村 麻呂が神社を建てる。鈴鹿 御前が清水を弄ぶ

『久』『かすむ駒続』86/3/4- 5条

菅江1974: 420。菅江

1981: 31,34 村上2002: 75,80 出羽国秋田郡石名坂村

(高倉山竜泉寺) 大同2年に,田村麻呂が寺

院を建てる 『笹』23/3/4条 菅江1974: 442 出羽国仙北郡飯詰村

(熊野堂) 大同2年に,田村麻呂が神

社を建てる 『つ』 菅江1980: 29図 出羽国仙北郡境村 勝軍地蔵 『つ』 菅江1980: 337 出羽国山本郡荷上場村

(阿弥陀如来) 大同2年に,田村麻呂が寺

院を建てる 『つ』 菅江1980: 338 出羽国仙北郡院内村

(大蔵千手観音) 田村麻呂が大嶽丸を従える。

田村麻呂が石の戸開きを立 て置く

『つ』 菅江1980: 339

陸奥国栗原郡鳥沢村 大同年間に桜が生える 『かすむ駒続』86/3/4条 菅江1981: 30 村上2002: 72-73 陸奥国栗原郡金成村

(照山観音) 田村麻呂が夷を討つ。田村

麻呂が寺院を建てる 『かすむ駒続』86/3/4条 菅江1981: 31 村上2002: 75 陸奥国栗原郡金成村

(宗照山南円寺) 田村麻呂が夷を討つ。田村

麻呂が寺院を建てる 『かすむ駒続』86/3/4条 菅江1981: 31 村上2002: 75 陸奥国宮城郡松島村付近

(大白峯天童庵) 田村麻呂が寺院を建てる 『は続』86/8/27条 菅江1981: 68 村上2002: 222

(9)

たことは,複数の先学が注目している[入間田 1991

:

81]。このほか,配偶者にまつわる伝承 が,どのような人たちに支持されたのか,とい う疑問にも向き合う必要がある。たとえば,平 将門の愛妾たる小宰相は,女人講により供養さ れてきたが[印西町教育委員会1991

:

100],こ れは田村麻呂伝承にもあてはまるだろうか。

その他の伝承は,特定の領域に収束しにくい 内容を,対象とする。たとえば,詠歌にまつわ る伝承を散見するけれど[菅江1972

:

422

;

菅江 1978

:

80],これのみでは征討とも寺社とも判断 できない。三十六歌仙に数えられる坂上是則 は,坂上田村麻呂の子孫というから,こうした 坂上一族の印象が,田村麻呂伝承に集約したと も考えられる。あるいは,武人が武勇のみなら ず教養にも恵まれた,という挿話は珍しくなく

[新渡戸1969

:

48],こうした延長線上としても 位置づけられよう。ところで,何らかの事象が 大同年間に生起した,という伝承が豊富にあ る。これは,征討と寺社の,いずれの伝承をも 修飾しうるので,抜本的に定義し直すまで,そ の他の伝承として処理したい。

3 考察

3.1 登場人物の役割

考察にあたり,さいしょに,登場人物の役割 を取り扱いたい。柳田国男は,伝承は固有名詞 を重んじてきた,と指摘している[柳田1940

:

58]。これを田村麻呂伝承に照らしたとき,田 村麻呂伝承の登場人物には,いかなる役割が付 与されたといえるだろうか。以下では,代替関 係と補完関係,さらに補完関係を双務的と片務 的に細分することで,説明してみる。

代替関係を料理に譬えると,味噌汁と澄まし 汁の関係であって,すなわち一方があれば他方 は要らない関係をいう。淪落して流浪する伝承 といえば,小野小町の代名詞であるが,阿波国 板野郡里浦村では清少納言になっている[元木 1976

:

292]。詰まるところ,小野小町や清少納 言といった固有名詞は,違う容器の同じ飲料に 過ぎず,相互に置き換えが可能であったといえ る。征討でいえば戦場に赴くのは,坂上田村麻 呂か源義家かを問わないし,寺社でいえば堂宇 を建てたのは,坂上田村麻呂か慈覚大師かを問 わないことになる。もっとも,真澄遊覧記を繙 読すると,代替関係の原則には該当しない,例 外も見受けられる。第一に,本尊を作ったとい う伝承は,慈覚大師にはあるのに対し[菅江 1979

:

99],坂上田村麻呂には管見のところな い。これは,武人たる坂上田村麻呂から,仏師 としての属性が見出せず,両人の役割が完全一 致しなかったためと考えられる。第二に,寺社 の縁起などには,坂上田村麻呂と慈覚大師の,

両人の現れるものがある[菅江1978

:

276]。こ れは,1つの場所に2つ以上の伝承が定着した 場合,この重畳関係が代替関係を破りがちなた めと考えられる。

補完関係は,双務的と片務的に細分したい。

双務的補完関係を料理に譬えると,主菜に対す る主食の関係であって,すなわち両者が相手方 を求める関係をいう。源頼光と酒呑童子,また は曽我十郎と曽我五郎は,相手あってこそ存在 しえたといえる。真澄遊覧記にみえる田村麻呂 伝承ならば,坂上田村麻呂と悪路王の関係にな るのに異論なかろう。片務的補完関係を料理に 譬えると,主食に対する香の物の関係であっ て,客体の主体を追跡する関係をいう。百合若

(10)

大臣に対する緑丸,または平景清に対する人丸 は,主体あってこそ客体が存在しえたといえ る。田村麻呂伝承では,坂上田村麻呂に対する 鈴鹿御前を想起させるが,鈴鹿御前伝承には 複雑な背景があり[堀1955

:

666],片務的とい えるか留保したい。類似した事情は,太田道 灌に対する紅皿にもいえ[新宿区役所編1955

:

1231],これが蘇民将来説話に通ずるのは明白 だから,片務的といえるか確言を避けたい。

以上を踏まえて,谷川士清『和訓栞』を転載 した,『桜がり』下巻を読み解きたい。

……屯の岡は奥州栗原郡にあり,坂上田村麻呂,

蝦夷を征せし時に屯すといへり。その後,源頼 義の清原武則に会せし所也云々……[菅江1974: 302]

この一節において,坂上田村麻呂と蝦夷は,

補完関係なかでも双務的補完関係にあると解釈 できる。また,1つの場所に2つ以上の伝承が 定着しつつあって,それゆえ坂上田村麻呂と源 頼義が,代替関係にあると看取できよう。断る までもなく代替関係は,つとに認知されている 概念で,田村麻呂伝承に絞っても,榎本千賀論 文に先例がある[榎本1997

:

105]。さらに菅江 真澄も,朧げながらも代替関係を意識していた ことを,『雪の出羽路』平鹿郡11のうち,平鹿 郡三島村にある稲荷明神社の縁起から,確認し ておきたい。

……坂上田村将軍と藤原俊仁将軍とを御一人の如 に書なして,そのすぢすぢのたがふこころいと いと多かれば,そは省て此処に記ず。[菅江1976: 408]

3.2 芸能と口承の異同

考察にあたり,つぎに,芸能と口承の異同を 取り扱いたい。菅江真澄は,陸奥国胆沢郡小山 村の奥浄瑠璃「阿久玉」と,陸奥国栗原郡小迫 村の小迫延年「入振舞」「飛作舞」を,記録し ている。いずれも,田村麻呂伝承に関する民俗 芸能でありながら,その性格は甲類と乙類とで も呼称しうるほど,別種なものであった。甲類 とは,民俗芸能の題材そのものが,田村麻呂伝 承というものである。たとえば,奥浄瑠璃のほ か,栗原郡中野村などの南部神楽「田村二代」

や[千葉1975

:

11],出雲国神門郡稗原村などの 出雲神楽「田村」が挙げられる。乙類とは,民 俗芸能の題材は別にあり,その由緒として田村 麻呂伝承を説くものである。たとえば,小迫延 年のほか,陸奥国江刺郡原体村の原体剣舞や

[定村1992

:

13],信濃国高井郡保科村の天富貴 舞[山崎1995

:

49]が挙げられる。以下,実地 調査の都合から,「田村」と「飛作舞」を俎上に 据えたうえで,口承との異同を模索してみたい。

出雲神楽のうち市森神社神楽「田村」を,筆 者の実見から報告する。2013年5月24日に,出 雲大社で実施された奉祝行事では,午後12時16 分から29分かけて舞われた。田村麻呂将軍と里 人と鬼神による,おのおの着面しての3人舞で ある。囃子は,笛4人,締太鼓3人,銅拍子1 人であり,囃子方にも詞章がある。まず田村麻 呂将軍が,長刀を持って登場し,鈴鹿山の鬼退 治をすると宣言する。つぎに里人が,斧を持っ て登場し,鬼神がいかなるものか説明する。や がて鬼神が,面棒を持って登場し,田村麻呂将 軍と対決になる。前半は採物で後半は徒手で戦 い,最後は田村麻呂将軍が鬼神を,太刀で斬り 従える。この間,里人は滑稽な仕草を交えつ

(11)

つ,田村麻呂将軍に助勢する。里人は,ヒョッ トコの面をつけ,ヒョウタンを腰に下げている から,いわゆるモドキなのは疑いない。

小迫延年「飛作舞」を,筆者の実見から報告 する。2012年4月1日に,白山神社で実施され た小迫祭では,午後2時17分から4分かけて舞 われた。「入振舞」に引き続き,朱色の僧衣と 緑色の僧衣を着用しての,素面による2人舞で ある。ただし,「入振舞」を担当した横笛は,

片隅で待機するのみで,演奏をしない。代わり に,青陽歌と称する歌謡が,拡声器を通して大 音量で流される。この歌詞に合わせて舞人は,

白扇を広げたり閉じたりしながら,左回りに舞 う(図)。舞人に詞章はなく,ほぼ対称的な所 作をするのみだから,物語が展開するわけでは ない。舞人は最後に,向き合って蹲踞し,後方 に向かって白扇を投げる。「飛作舞」が,坂上 田村麻呂と鈴鹿御前の舞いであるとは,1777年 成立『勝大寺書出』に記録され,1956年刊『宮 城県史』により周知された[本田1956

:

304]。

田村麻呂伝承に関する民俗芸能を,甲類と乙 類から,それぞれ俎上に据えた。甲類は,民俗 芸能の題材に過ぎないから,これを在地の口承 と同視するには,困難がともなう。奥浄瑠璃の ごとく語り歩くうちに,在地に浸透していく場

合もあろうが,この過程が全部とは思えない。

実際,出雲神楽には「田村」なる演目があるが,

かといって出雲国に田村麻呂伝承が豊富なわけ ではない。乙類は,民俗芸能に口承が付帯した もので,木石でなく採物に依りついたところに

[星野2013

b:

14],特色がある。小池淳一論文 は芸能起源譚につき,「……はじまりのはなし はもっとも最後に形成されるのであった」[小 池1998

:

74]と指摘しており,正鵠を得たもの といえる。以上から,田村麻呂伝承に関する民 俗芸能,と概括される芸能には,講学上は峻別 しうるものがある,と把握できるのである。

3.3 「記録される」ことの意味

考察にあたり,さいごに,「記録される」こ との意味を取り扱いたい。本稿では,田村麻呂 伝承にまつわる語句を抽出することで,田村麻 呂伝承研究に向き合ってきた。しかし,坂上田 村麻呂と記録していれば,それは本当に田村麻 呂伝承を指向しているだろうか。あるいは逆 に,坂上田村麻呂と記録していなくても,本当 は田村麻呂伝承を指向している,という可能性 はないのだろうか。

まずは,坂上田村麻呂と記録された場合を,

改めて考覈してみる。出羽国秋田郡寺内村は,

田村麻呂伝承が集中する地域として,菅江真澄 の時代から著名であった。たとえば,『水の面 影』から,将軍野の件を引用する。

……あら潮汐のみち来し地にや,此処の名を将軍 浜といふ。坂上田村麿ここに屯給ひし跡となもい へる。今は原となれば将軍野ともいへり。[菅江 1974: 343]

図 小迫延年「飛作舞」

(宮城県栗原市金成,2012年4月1日筆者撮影)

(12)

一見すると田村麻呂伝承であるが,この由来 譚を熟読すると,将軍に比重が置かれていたと 分かる。およそ田村麻呂伝承は,勝軍地蔵に付 会してきたと概説され[堀1955

:

687],この将 軍野に対しても,勝軍地蔵の関与が指摘されて いる[大山1934

:

128]。念のために,寺内村に あった「亀甲山古四王の社の神楽唄」の一首を,

『ひなの一ふし』より引用したい。

将軍のからいし段にこしをかけ参る衆生をまもり つるため。[菅江1973b: 318]

ここにいう将軍にも,坂上田村麻呂を想像す る学説があるけれど[森山1998

:

4],その本質 が大将軍信仰なのは異論なかろう。参考まで に,宮崎市史編纂委員会編『宮崎市史』から,

日向国宮崎郡大瀬町村に伝わる,民謡「大将軍」

を参照しておく。

大将軍に参りて,参りてみよばやりや見事,十二 の柱を磨きたて,黄金の垂木をかけ揃え,ひわだ のせあげやりや美事,大将軍と申せしは,事のあ らんな神あれば,三千世界を廻りやる,三千世界 を廻りては,ぎをぎて衆生を助けやる。[宮崎市史 編纂委員会編1959: 763]

これを踏まえると,寺内村に分布する将軍 は,本来は大将軍信仰を意味し,それが経年の 転化により田村麻呂伝承になった,と推察さ れる。『筆のまにまに』5巻には,「……坂上 大宿祢田村麿を大将軍として……」[菅江1974

:

134]という表現があり,坂上田村麻呂の役職 である征夷大将軍を,大将軍とも略称していた と分かる。つまり,小野村だから小野小町であ

る,という固有名詞に基づく連想ではなく,大 将軍だから征夷大将軍である,という普通名詞 に基づく連想であった,と理解できるのであ る。

ついで,坂上田村麻呂と記録されなかった場 合を,改めて考覈してみる。記録されない理由 には,記録者側の問題と,伝承者側の問題の,

二通りを想定しうる。記録者側の問題として は,壺の碑が挙げられよう。壺の碑の物語に,

坂上田村麻呂が登場することは,御伽草子『壺 の碑』を提示するまでもなく[浜中1984

:

45],

否定しがたい事実である。そうであるのに,真 澄遊覧記にみえる壺の碑には,坂上田村麻呂に 触れない箇所があり[菅江1971

a:

447],これ は意図して記録しなかった,と解するのが自然 である。伝承者側の問題としては,大同年間が 挙げられよう。何らかの事象が大同年間に生起 した,という伝承は,坂上田村麻呂を主語とす るものが珍しくない。にもかかわらず,この主 語を省略するのは,記録者の過失というほか に,伝承者にとって言わずもがなであった,と 解するのが自然である。

上述のように,「記録される」ことの意味を,

記録された場合と,記録されなかった場合か ら,考覈してきた。もっとも,これらは相反す る概念ではなく,硬貨の表裏にもなりうるのだ と,補足しておきたい。たとえば,大同年間の 主語は,坂上田村麻呂となる可能性が大だが,

主語が必須であったとの根拠はない。というの も,八百比丘尼は承平年間に出現したといい

[北都留郡誌1925

:

1046],それから800歳の天 寿を仮定するならば,1733年前後まで健在だっ たことになる。いっぽう,大同年間から1000年 後といえば,1807年前後なので,これも近世に

(13)

節目が到来している。畢竟すると,大同年間や 承平年間といった時間設定は,近世の民間宗教 者にとって,供養を正当化する効果があったの ではないか。そうであれば,かりに坂上田村麻 呂を主語としていても,それは坂上田村麻呂を 指向していない,という結論が導けるのである。

おわりに

坂上田村麻呂の伝承につき,真澄遊覧記と総 称される菅江真澄の述作を手掛かりにして,検 討してきた。田村麻呂伝承の記事を一覧にする ことで,真澄遊覧記にみえる田村麻呂伝承を一 目瞭然のものとした。征討にまつわる伝承から は,悪路王のアイヌ語起源説を紹介し,菅江真 澄という一文人を介した,田村麻呂伝承を模索 している。寺社にまつわる伝承からは,五十嶋 社の祭神を例示し,近代以前における坂上田村 麻呂の価値観を垣間見た。これらを踏まえ「考 察」では,登場人物の役割,芸能と口承の異同,

「記録される」ことの意味,を取り扱って田村 麻呂伝承の仕組みを分析してみた。

なお,真澄遊覧記にみえる田村麻呂伝承のな かでも,積み残した論点があるので,杜撰なが ら列挙したい。1つ目に,代替関係と補完関係 から,どのような展望が開けるか,という論点 になる。両関係は,経済学における代替財と補 完財から示唆を得たのだが,なるほど伝承は,

寺宝や唱導を想定すると,財やサービスに当て はめることができる。これを探究するには,高 度な抽象性を析出しながら,真澄遊覧記のよう な具象性にも留意すべきであり,こうした往復 の作業が肝要になると思われる。

2つ目に,田村麻呂伝承を史料として捉えう

るか,という論点になる。伝承上の人物に向き 合った論攷には,単純に史実と混同してしまっ たものから,合理的に読解しようとするものま で,多彩な接近が試みられてきた。出来事が近 年のものだとか,史料との整合性が取れるもの だとか,といった例外を除けば,徒労に終わる ことが少なくない。史実としての古代奥羽地方 では,養蚕や採鉱などの開拓事業が営まれた が[板橋1956

:

59

-

60],これら事業は田村麻呂 伝承として反映されなかった。民俗芸能の詞章 には,繰り返しの表現が多用されていて[星野 2013

a:

49],このように虚構と見抜くための兆 候を,より整理することが不可欠となる。

3つ目に,田村麻呂伝承が流布したのには,

どういう背景があったか,という論点になる。

たしかに,民間宗教者や民間芸能者による,伝 承の供給とでもいうべき活動は,看過しがたい ものだろう。しかし,供給に応じる需要がなけ れば,その在地化を期待しえないのは,出雲神 楽「田村」の例証から確認したところである。

オルポートとポストマンは,

R~i×a

という,うわさの基本法則を提示して,伝説も うわさに含むと定義した[オルポート,ポスト マン1952

:

42,190]。つまり,田村麻呂伝承の 流布量Rは,その伝承の重要さiと,証拠の曖 昧さaとの,積に比例することになる。しから ば,伝承の重要さiは,いかなる性質であった かと問えば,それは征討と寺社と配偶者とに象 徴されたものと答えられよう。

3つ目に関して,征討と寺社と配偶者とは,

奥羽地方の宿命的主題であった,と看做すこと

(14)

ができる。奥羽地方に所縁ある人物ならば,安 倍貞任であっても源義経であっても,これに関 連した伝承を探し出せる。もちろん田村麻呂伝 承は,信濃国や伊勢国にも分布しているから,

奥羽地方に田村麻呂伝承があるのではなく,田 村麻呂伝承のあるところに奥羽地方らしさがあ る,と転換すべきだろう。ここにいう,奥羽地 方らしさを実証していくのは,未来の東北地方 を描くうえでも,有益な営為になると信ずると ころである。なお本稿は,国立歴史民俗博物館 の特別共同利用研究員として,2012年度に提出 した研究報告書を,増補して定稿としたもので ある。

〔投稿受理日2013.7.6/掲載決定日2014.1.23〕

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参照

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