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次いで本神楽(神殿祭)、神役

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11月26~28日 広島県神石郡豊松村大字上豊松字天田 稲干神社 午歳式年大神楽

広島県指定の無形文化財としてはこの式年大神楽の前半の部分即ち「神役」と称える部分を神殿(かんどの)行 事として指定している(広島県文化財調査報告書第6集所収)。

現地で午歳式年大神楽の斎主である鶴岡八幡宮宮司赤木勇夫氏の調査になる「昭和丙午四十一年霜月、神殿行事 式年大神楽調査書。神代神楽八ヶ社、広島県神石郡豊松村、同郡油木町」を手引とし、尚親しく同氏及び、当年大 當番の豊松村上豊松、天田、井上昇氏よりお聞きした所により記録をとる。

式年祭の次第は

11月26日より午後1時、大当番の宅にて

荒神迎え、前神楽、續いて夜になって「神殿還り」があるのであるが、これは翌日に延期して午後 4 時頃 終了した。

11月27日午前9時より

大当番宅より稲干神社神殿へ神殿還り行列。

次いで本神楽(神殿祭)、神役。

午後、神能。午後5時頃終了。

11月28日午前9時より(稍遅れて午前10時より)

納め神楽(灰神楽とも)

荒神送り納め 午後1時終了。

26日 福山からタキシーで、10:45時に福山を出発している。ニコニコバス東廻り油木経由豊松行を追かけ、途 中でつかまえて、そのバスで行く。丘陵地帯を縫うて加茂を過ぎ三和を過ぎる程に幸い天候は晴天であるが、もと から寒冷の地であるらしく、外気の寒さがひしひしと迫る。道傍にこんにゃくを乾している高村を眺めやっと町ら しい油木で一休みして、更に丘陵を越えて豊松村へ入る。

豊松村は地域的には可なり広い散村で、上豊松、下豊松、中手を合せて戸数約600戸、人口3,500位であるが、

米の他に、やはり、こんにゃく、畑草の採培をやっていて、可なり豊かな村で、油木との合併の際も豊松の名称が 消えるので頑として合併しなかった村という。民俗的な風習は可なり、東郷の備中川上郡や、井原の影響をうけて いるらしい。現在でも荒神信仰は可なり根強く残っている。

もと荒神はこの地方の家神の性格を持っていたらしく、土公様ともいゝまた、祖霊を祀る信仰と習合している。

この地方には古墳が可なり多い。これがやはり祖霊神としての祭祀の対象となっている。

現存する荒神社の数は94社、多くは屋敷内、又は家の附近にあって、その荒神社の守をする家を「塚脇」又は「荒 神持」といって荒神持の家筋の間で名(ミョウ)組織をつくり、この講を「株内」といっているが、豊松村の祭祀 取はこの株内のものが持っているといってよい。稲干神社はその荒神信仰の中心とも見るべき神社で、村人はこれ を本宮と呼んでいる。所が村内下豊松、和部山には近傍八ヶ郷の氏神、鶴岡八幡宮がある。元永2(1119)巳亥年8 月大吉日の日付のある棟札に

抑当社鶴岡八幡者康平年中相模国より当所米見山に勧請治暦元乙巳八月近辺氏子申合和部山に奉移し罷在候處 承徳二年より備中国後月郡川手村も添申候内来八ヶ郷氏神にて候。建立葺替、祭礼等調候筈ニ而此度の建立も 見事に調申候。

豊松、日郷、日谷、篠尾、油木、只原、花済、備中川手 右八ケ郷中

とある。これで見ると、氏子圏は豊松庄(現豊松村)日野庄(東有木)日谷庄(西有木)篠尾荘、只原庄(近田の 一部及び上野)油木庄花済庄に亘りなほ備中の川手庄(西三原)もこれに加わっていたようである。この鶴岡八幡 宮には修験道の信仰流布が感じられる。

鶴岡八幡宮の神職、社家は12戸あって、何れも八ヶ郷在住者。

承徳2年。神職によって出雲寺の神能がとり入れられ、神職によって八幡宮の祭礼に神楽を舞うようになった。

文化年中。備中国川上郡上日名村の国学者、西林国橋の創案にかゝる備中神代神楽の一部が神職によりとり入れら れた。

天保10年。鶴岡八幡宮宮司、翁表門頭、豊章大宮司の裁許を得て八ヶ社連連頭となり宮中七種舞及伊勢神楽榊舞 を伝え七座神役をつくった。

以上の経緯を経て現在の八ヶ社神能が成立したようである。鶴岡八幡宮の秋祭は毎年10月4、5、6日の3日間で 荒神信仰とは別に八幡宮の宮座があって、神楽(神殿行事)渡り拍子(闘鶏楽)探湯(湯立神事)流鏑馬がある。

赤木さんはその宮司を勤めている。

稲干神社の宮司は赤木さんが兼務している。稲干神社の祭祀形態はこの古い荒神信仰の祭祀形態を残しているも ので、大祭は毎13年毎の午年に大神楽をやり、大神楽より3年後に「御扉開」、7年後には「地主舞」と称する神楽 がある。いづれも、これは荒神持と称える株内の家筋が中心となって祭祀をとり行うものであって直前の午歳式年 祭執行以後の12年間に豊松村で亡くなった人々の亡霊を招いて、これを荒神に封じ込む祭儀と見てよいようである。

この式年祭のため祭事を執行する者が株内から選ばれる。これを大当番という。本年は天田の井上昇さんが大当 番である。

大当番を中心に稲干神社下の荒神社株内(赤木さんは苗内の字を充てている)140戸のものが総力をあげて執行す

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る。尤も直接の祭儀は宮司及び祢宜職にあるものがとり行うのであるがこれにはもと神職にあったものを含めて12 軒の社中、及び神楽社八ヶ社々中(もと8軒であったが現在7軒)のものが中心となってやる。

奉仕神職及び神職に準ずる者。

注連頭(斎主)赤木宮司 副斎主 平郡宮司 副斎主 次重宮司 副斎主 本石宮司

祭員(神職に準ずる者を含む)8名 土居祢宜 田辺実父子 笹部省一 藤井隣一 高石蔭貴 志目田岩夫 翁 菅夫

八ヶ社々中。(もと神職、沙庭神楽の資格を持っていたもの)

社長 池田卓二 社中、藤井二郎 社中、財徳俌 社中 真加部広志 社中 池田辰四 社中 内藤茂 社中 高石茂樹

前神楽の式。(大神楽の前日行う)26日午後1時より大当番の宅にて 大当番の準備。

大当番の門口に門注連を午前中に張る。

早朝門口にオハケを立てる(これは省略された)。

5、6尺の巻藁に参集する神職の数だけの迎え幣を立てる。到着した神職はこの迎幣を手にとって

「楽内申す宮の内仔細尋ぬる神殿の内」と声を掛け内より

「これなるは本宮荒神年忌大御神楽迎え遊びの道場なり」と返答する。

大当番邸の床の間に神殿を設ける。

中央に勧請幣3、その両側に八幡、稲干幣各1、左右両端に随神幣2、その下に荒神幣(荒神社の数だけ作る)。供 物、紅白の帛 1 反、米、粉各 1 升、神酒、野山の物、紅白二重の鏡餅。なお座数には簡略な神殿の飾付をする。4 方の梁に注連を張り注連には藁と紙幣を交互に垂れる。なお四角には一文銭(この地方にはなお昔の一文銭が多数 にある)を紙に包み表に「注連の子」と書いた紙包を下げる。

天井中央には60cm位の長さの青竹を十字に交互した「四天」を吊り、交互した所に米3合3勺を紙に包んだも の(芯)を結え付ける。これに網形に切った紙垂幣をつける。又千道といって紙を細く千鳥に切ったもの16筋を四 方の注連に掛け渡し、千道には所々紙垂れを垂らす。その先には鯛、扇、鏡に切った紙をつける。供物の紅白 2 反 の帛は神棚の前両脇の注連縄から垂らす。

午後1時、まづ当番浄めをする。塩水を使用。

次、当番篭ざらえ。大祓一巻。これは拝見していない。

次、荒神迎え。本宮と元宮とへ行く。全部の荒神社へ行くのは大へんだから、この 2 社を以って代表する。本宮 は稲干神社、元宮は稲干神社へ上に車道の両方にある。

天宮の荒神社の荒神持の家は名を聞くのを忘れたが、屋敷の後方約30m程離れた丘の裾にあって、その傍に古い 五輪塔1基がある。また荒神持の家から麦畑の畦道を荒神社へ上に途中に古い墓石が集った1坪程の墓地があって、

誰の墓か今は不明であるが、荒神持の家では何れも元宮の神霊として祀っている祖霊の誰かの墓であり、又祀るの は自分の家であると信じているようである。こゝはもと式年祭を行ったときその祭場ともなったことがあるらしく、

麦畑のまん中に石堤を積んだ所があるがそれはその祭場のあとだということである。

荒神迎えは撰ばれた神職 2 名が幣を奉持して、小春日の麦畑の畦道を足駄ばきで、暖気で霜のゆるんだ少し、ぬ かるむ中を漂々と行く。月の花祭で見た高嶺祭りの様を見るようであった。両宮からの迎えが当番屋に到着すると 前神楽が始まる。

(3)

前神楽には神楽八ヶ社の社中は来ていない。平常舞をあまりやらない。神職のみで交替にやるという。

先ヅ、修祓、上図のように着席。

次、御座人。太鼓の外全員、斎主を中心に神棚の前に並び祭文を唱える。楽が入る。祝詞朗詠の調子である。

次 曲舞(キョクマイ)。1人又は2人の舞。当日は2人舞。持物扇と幣。緩調子。神歌は県本には2首、赤木本 には3 首記録されているが、必ずしもこれのみを歌うのではないようである。舞振りは各演曲とも殆んど似ている よう思われる。最初持物を採って神前に向って坐り、持物を捧げるようにして、楽に合せて神歌(じんか)を唱え る。これを御座歌という。次いで立ち上って舞うのであるが、このときにも神歌が入る。これを舞歌という。七草 舞や宮廷雅楽の舞振が見られる。

次に榊舞、(二人舞)。2節より成る。伊勢大神楽の笛の調子が入る。

鈴の手。採物、右に鈴 左に榊。

扇の手。採物 右に扇 左に榊。

最後に右手に鈴、左手に扇と榊とを持って舞う。これは短かい舞で舞歌は入らない。舞い終って、大当番、斎主 を始め祭員全部及び次の部屋で見ている参拝者に夫々榊の葉を千切らせる。千切った葉は拝をして両手で千切って その場で捲く。曲舞同様緩調子。

次に指紙舞(二人舞)

採物。始め右に鈴左に指紙と扇。途中で鈴を置いて右手に扇を開いて持ち舞う。指紙とは数枚の白紙を重ねて 2 ツ折にしたもの。2折を図のように直角に重ねこれを青竹を割って刺込んだもので、重ね方に上を山にしたものと、

山を下にしたものとある。座に並ぶ祭員の夫々の役と舞う曲名を指示するものといゝもとは 1 枚づつの紙にそれを 書いてあったという。舞い終ってその紙を1枚づゝ祭員に渡す。厄払いの紙といって火伏の呪いになるという。前2 曲に比し稍急調子。

次、勧請舞。始め2人の舞。採物、右に鈴、左に幣と閉じた扇。御座歌と舞歌とがあるが、後、4人の舞となり持 物は右に幣、左に開いた扇をとる。

この時の御座歌を「六方御戸開き」といゝ六方に向っての八百万の神々神迎えのための御戸開きで5‐7‐5、7‐7 調の神歌ではない。

「かより東方、五万五千の大神祇の座、神の御戸をばこれから開かん たれとてはしょうじ、かしこし神かけ、

此処に七社のやしろ降りたまえ、神降りいまします、神降りいまします・・・・・云々」と六方に唱えるので ある。

続いて舞歌となる。

この四人舞の部分を別に「神迎え」とも唱えるが、神勧請であって勧請舞の第 2 節をなすものと見てよい。舞人 は替らない。

次に布舞となるのであるが、これをも勧請舞の第3節と見てよいようである、斎神帳によって氏子各戸に祀る神々 の名を読みあげる間舞い続けるもので「小神遊びの舞」ともいう。

神棚の両端、注連より垂らした紅白の布をとってその両端を肩に垂らし、2人づゝ前後になって舞う。

白帛の前は手拍子を打ち、後のものは鈴をとる。紅帛の前のものは鈴をとり、後のものは扇をとる。この間、太 鼓を打つものを始め坐にある祭員は小神勧請の祭文を唱える。

次に後神酒を献じ、総祓があって前神楽は終了する。午後 4 時。一先づ休憩があって、大当番で祭員との間に夕 食の直会となる。本来なれば、夜に入ってから更に修祓、総祓、奉幣、祝詞、神殿還りの申立、行列があって、祭 場を神殿に移し、翌朝早暁より夜を徹して本神楽となるのであるが、26日は一度こゝで打切り夜の行事は改めて翌

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日午後9時よりとされた。

丁度午後4時45分天田発のバスに間に合って、下豊松、四日市の笹部旅館へ行ったのであるが、夜8時半頃に斎 主赤木宮司の訪問を受けて10時辺まで色々の話を聞いた。

28日午前8時30分、再び大当屋のお宅まで行く。

今日は祭員及び神楽八ヶ社の全員参集する。着座は注連の張ってある神座には祭員の全員、次の間には八ヶ社々 中及び大当番。

1、修祓。黒い水指(水は入れてない)に櫛を添えて、まづ斎主より次々にその櫛を手に取って、髪をくしけず る様をする。この場合、烏帽子はつけたまゝである。

2、曲舞。祭員の1人と八社々中の1人とが舞う。

3、総祓。猿田彦命の舞である。

服装。白い衣、黒のたっつけ袴、黒に刺繍のある胸当をつけてその上から薄緑色の袖なし陣羽織様のものを 着る。紅の脚絆、白足袋、顔は黒い布で頬かむりをしてその上から紅の太い括り顎紐のついた赤態をつけ、

赤の鼻高面、を被る。初め絵扇を持って舞い、次に腰の太刀を抜いて振りかざしつゝ舞う。太刀をとるとき 扇は閉じて腰にさす。最後に16筋の千道を全部切払う。

4、奉幣。

5、祝詞。

6、神送りの申上。

神棚に飾ってある幣を夫々担当のものが受取り行列をつくって神々の神殿還りとなり、大当番の宅を出発す るのであるが出発の際、斎主の申上があり次いて祭員の1人が出発の際の神楽の上の句を朗詠し、下の句は 祭員全員が唱和する。

立つまいて霞の千早重ね着て緩の下紐今や解くらむ

神殿還りの行列は笛、太鼓、手拍子を奏しつゝ杉の坂道を縫い降り、麦畑を横切り、霜のなお消えやらぬ小川の 土橋を渡って丘を綴る小径を上って、本宮稲干神社境内にある神殿へと移る。

行列の順序次第

高張(2)←松明(2)←大麻←迎幣←大鼓←笛←手拍子←猿田彦←祭員(幣を持つ。数名)←荒神幣(夫々荒神持 のものが持つ)←稲干幣←八幡幣←送幣(大当番が持つ)←御茣座←奉幣←灯燈←副斎主←斎主←大傘←一般 の替者、参列者

神殿。

稲干神社の社殿のある後方丘上、桧の3、4本密生している杜の中に荒神社がある。これを本宮様という。本宮 さまの背後の丘陵は最近開拓されたらしく、左手の奥に新しい墓地がある。神殿は稲干神社社殿の背後と荒神 社との間の広場を利用し、本宮様の全面に設営される。この場所は現在固定しているようで「本宮荒神神殿屋 敷」と唱えられている。

地上に丸太を敷き並べた高さに床を張り周囲を丸太で囲み、床に畳8畳を敷く。この床の4隅に紅白の布を緩に 捲いた丸木の柱を立て、床より高さ約2mの所に横木を渡して、それより上方は柱の外に幕を張り内側4面を神棚に 造る。横木に沿うて 4 方に注連縄を張りめぐらし、注連の四隅には「注連の子」と称して一文銭を入れた紙袋を下 げる。

神棚は横木に沿うて幕の内側4方に幅 40cm位の棚を設け、また棚から上方 1m位の所には青竹を渡して供物等 の掛竿とする。

正面(荒神社に向った方)の神棚の中央には3本の勧請幣を立て両端には随神幣を1本づゝ立てる。他に荒神幣、

土公幣、水神幣、外各種の御神幣、66本の幣、神籬を四方の神棚に立てめぐらす。

又供物として神棚及び掛竿一面につき紅白の帛各1反、(従って四面の神棚に供えるので供物の総数はその4倍と なる。以下同じ)掛鯛2尾1組のもの2組、五穀各1升、鏡餅紅白八重、掛鳥雄雌1対、福餅3俵、神酒、野山物 若干、樹紙、日曜銅、月曜銅各12文(本年は閏年故13文)を供える。

神殿の中央には白開を下げ、千道を4方に張りめぐらす。白開は天地人を象る木枠3段に18種類の色紙で裏打を した切紙絵を貼り、1番下の人を象る木枠の中央には日開を上下するときの重しとして米3合3勺を包んだ紙包みの 俵をつける。

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白開は太紐で天井に吊る。正面右の柱と背面左の柱の天井に対隔線に太い青竹を渡し、その中央に短かい青竹を 縛りつけ、その間を吊り紐が滑り抜けるようにとりつけて、紐の一端に白開の天枠を結び、紐を手繰って白開をつ り下げると、その紐は正面左の柱の根本に結ぶ。

白開を揺るときは、紐の引役(高石蔭貴氏)がその紐をとって、ゆるめたり、引いたりして白開を揺り動かすの である。白開の天枠には予め5色の小さい切紙が乗せてある。

以上が神殿の本体であるが、なお神社には正面奥に蓆敷の 1 間をつける。これは神楽の場合の楽屋ともなり、又 祭員の休憩室ともなる。この部屋を山という。山と神殿正面との間神棚の下は神楽の引幕を曳く。2つの幕(青と赤)

を右左から曳くようにつけて山を隠すのであるが、この幕には神楽用の二見浦の絵を染めてある。

また神殿正面左右の柱の根元、神殿の脇に巻藁で造った長さ2間半の大蛇2匹を置く。

神殿屋敷へ入ル入口、稲干神社正面参道の脇道の所に門注連を設け、斎灯をおく。

本来なれば、神殿は上記のように青空の下に設けられるのが正式のようであるが、雨天の際や、寒さのため、見 物席を囲んで、神殿全体を大きな天幕で覆ってある。丁度サーカスの幕舎か、草相撲のようで、最初に見たときは、

これはどうかと一寸がっかりしたが、神殿をすっぽりと入れた非常に大きなもので冨士型に全体を大きなビニール 幕で包み、側面も囲ってあって、カメラの視野にはあまり邪魔にもならず、また両日とも快晴であったので、強い 陽光が、このビニール幕で、遮断せられて却って光線を柔かくし影の部分を明るく、カラー写真には却ってよい好 果があったようである。見物席は土間一面に麦藁を敷きつめ、その上に筵を敷いて各字の席割を設けるので、天幕 の中は暖かくて、靴をぬいだまゝあちこち、走り廻れるので甚だ便利がよかった。所がこの新工夫も行事第2 日の 28日には、前夜の冷こみでビニール幕の内外に多量の露が貯り、折からの旭陽を受けて、それが神殿といはず、山 といはず、ひっきりなしに雫となって滴り落ちるので、今度は神楽師の方から苦情が出て、行事を始める前に世話 人が神殿の柱にかき昇ってそのビニール幕を取外し、神殿に雑巾がけをして、それから第 3 日の灰神楽が始まった ような次第であった。

扨行列が神殿に到着したときであるが、出発のとき神歌の応答があったように到着の際にも「送り神職」(赤木さ ん)と「受取神職」(次重)との間で神歌による問答があり終って始めて神殿入りとなる。

午後10時頃引續いて直ぐに本神楽の式(神殿祭)が行はれる。本神楽の式は総て神殿の中で行われるのであるが その順序は

1、修祓。

2、御座入 3、曲舞 4、榊舞 5、指紙舞。

6、茣座舞 7、勧請舞 8、神迎え 9、総祓

10勧請。(小神遊びの舞)

11、奉幣。

12、白開の神遊び 13、祝詞

14、大当番、荒神持の玉串奉奠

の順で行はれたのであるが、この全部を総称して「神役」ともいう。神役のうち、神楽の内容は1、3、4、5、7、8、

9は前神楽の場合、大当番宅で行われた所と殆んど同様であったが、その各役につくものは、大当番宅の場合は祭員 のみで演じたのに反し本神楽の場合は八ヶ社々中の人々がこれに加はるので、一段と楽拍子や舞振、神歌の唱え方 は鮮かで、神殿の中央に吊った白開の間をすり抜け、或いはこれを巡っての舞振りは仲々美事であった。唯9 の後 段に舞う布舞の場合、神棚からとって舞う布の数が白紅合せて8反あるので、前神楽の場合のように1本の帛の前

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後を2人の舞人がとって舞うことなく、1人のものが1本の帛を2折にして肩に添わせて両手で持って舞うたのであ る。

6、茣座舞。

1人の舞。今朝大当番宅で総祓、猿田彦命の舞を舞ったものが、同じ服装で舞う。但し、面はつけない。

最初、右に鈴、左に捲いた茣座をとって舞う。神歌が終って鈴を置き、捲いた茣座を展げて 2 つ折とし、右手で 両縁を下げるように持つのであるが、唱言が入って

東方には五万五千の大山神祇のおりいまします 御茣座しこうや しこうや しこうや

敷いたる上には なおござしこうや しこうや

と東南西北、天地の六方に茣座を敷くさまを繰返し、両手で茣座の両縁を持って、前後に振りつゝ茣座の上を飛越 え、神殿にサッと敷く。

10、勧請(小神遊びの舞)。

斎主を始め 4 人の祭員、白開を中心に背中合せに東南西北の神棚に向いて着座し、夫々氏子斎神帳を読み上げて 天神地祇八百万の神を勧請するのであるが、このとき祭員は声を出さないで、口の中で読み上げるのである。

2、御座人

前神楽の場合は祭員のみの着座であったが、神殿では次のように着座する。

11、奉幣。祭員4人、後取役4人。

12、白開の神遊び。斎主、白開の下に神前に向って平伏。

引役、正面片の柱根元に縛った白開の帛紐を解いて両手でさばき神歌(白開揺ぎの神歌を「歌妻」という)を唱 えつゝ緩やかに白開を揺がす。天段に乗せてあった花びら(小紙片)が吹雪のように斎主の平伏した背中に降りかゝ る風勢である。

次いで大鼓の調子が次第に激しくなると白開の揺らぎも次第に荒々しく、切抜紙が千切れて飛ぶ。この間、大鼓 と斎主との間に問答がある。

鼓「謹請東方には鬼あるともや言うか、まった魔もあるとや」

斎「鬼もなし、魔もないみさきもなし、ところがための神ぞまします」

云々

の長々しい問答である。

最後に木枠と芯のみになった白開を引役は神殿高く吊りあげて散った花びらや切紙、千道を掃き清める。

13、祝詞。

14、大当番、荒神持の玉串奉奠。

この間、楽座では「八雲楽」を奏する。

神役終了。13時頃。

休憩となって、諸役は稲干神社の拝殿及び社務所へ引上げて昼食となる。

この頃には村人は神楽見物に大勢が詰かけて、大きな天幕の内も殆んど満員となり、各自が座を開いて弁当を食 べる。

14時頃より神能が始まる。

神能の始まるとき楽座は大鼓を始め笛、手拍子共、何れも神殿より土間に降りて舞殿を広くする。

神能を演ずるものは祭員(神官及び神職に準ずる12家)に関係がなく、神楽社八ヶ社々中によって演ぜられる ようである。

明治31年10月初旬と奥書のある神楽本に記載されている演目は

大社之能。 降臨之能。 喪川之能 八田ヶ坂之能 龍宮之能 磐余彦之能。 五社八幡之能 中八幡之能 後 八幡之能 神宝之能 日本武之能 船戸之能。

現在主として行はれているもの。

猿田彦悪魔祓。 大社之能。 八田ヶ坂之能(祇園) 龍宮之能 吉備津之能 八幡之能 磐戸之能 赤木さんの話によれば午歳式年楽を履修すると昔は5日かかった由である。

27日14:00時より実際行われたのは、猿田彦命悪魔祓、大社之能、祇園の能の3番で終了は17:00時であった。

各舞とも舞出しは山から舞殿に出るが、まづ正面の神楽引幕を左右両端に絞り、その奥に引いた中たるみのした 別の低い幕(これを舞幕という)の向う側、山の内で一舞する。これを「幕内の舞」という。

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而して幕内の舞が終ると舞人の方から見て舞幕の右側の垂れた綱の下を潜って舞殿へ現われ、舞人が舞殿へ出る と、すぐ左右の曳幕を曳いて、舞幕を隠す。

これは舞人の出場毎に演ずるが数人の舞人の登場する神能では主要人物の登場のときのみ幕内の舞が演じられ、

他は省略される場合もある。

囃子は大鼓を主とする。一人舞で唱詞が問答形式の場合唱詞の受答へは大鼓打がする。又神歌の場合、舞振りが 激しく舞人の声が続かぬようなとき、神歌の下の句をとって続けるのも太鼓打であり、唱詞の場合、いささかもど き風に舞人をからかう場合(狂言風に)さえある。

手拍子も土間で奏してはいるものの、見物人の間に割込んでやっているので時には見物人の知人と盃の応酬など あって、つい手の方の奏楽がお留守になることさえある。

舞人が幕内の舞(無言)を終って、幕をくぐって舞殿に現われると、大てい名乗りの言立となる。

「そもそも、この所に舞ひ出でし某を如何なる神とや思うらん。某は○○より進み出でたる△△の命とはわが ことにて候・・・・・・・・・・」

言立が終れば舞人間での問答が狂言方式に流れて、舞の説明が一段落すると神歌となる。

以上がどの演目にも共通な舞の運びであった。

1、猿田彦命悪魔祓

前神楽に於ける総祓と基本的には同じである。一人舞。この演目はいわば、續いて演じられる他の神能に対して の舞殿の露払的存在とも見える。唱詞のうちに「悪魔」「悪鬼」「諸との罪とが」と共に「みさき」という詞がや はり、打払うべきものとして出てくるのが注目された。最初大刀振、次に長刀振の舞を主とするものである。

2、大社の能。出場するものの役名。

経津主命、建甕槌命、大国主命、事代主命、伊原志波伎命、建御名方命、の6人の舞(出場順序に記)。 出雲国譲りの神話を物語風に進める舞能である。経津主、建甕槌の両神が高天原より出雲に下るのであるが、一 方、出雲国は大国主の善政で国富み、民豊かである(こゝで見物人に向って神棚に供えた 12 俵の福餅を撒く)。 大国主との間に譲れ、譲らぬの問答があり3人乱闘の舞となるが、その中へ伊原志波伎命が割込んで、種々もど き狂言風な滑稽な動作(流行歌まで飛出すし、佐藤内閣の閣僚刷新など時事問題まで入れて、大鼓打と問答する)

があって、とど、息子の事代主命を呼んで親子で談合をさせることとなり、事代主、翁と釣竿とを持って登場。

問答の結果、国譲りに話がまとまり、事代主は美保関の社に、大国主は築杵の社に斎くことになる。伊原志波伎 も鷲ヶ浦に斎くこととなる。天地の和合がなって夫々神歌を唱じ舞納める所へ大国主の息子の1人、武御名方が 譲渡に反対して舞出で、皆のものがこれを、いさめて信濃国諏訪明神に斎ひ祀られる。

3、祇園之能。八頭の大蛇退治傳説の舞台化である。

舞殿が狭い上に大蛇が3疋も登場するので、その場面の舞に関係のない舞人は全部山へ一時退き、神殿では極め て表徴的に物語の1場面1場面を演じてゆく。しかもその演出には可なり手の込んだもどき狂言が入っている。

例えば、素盞鳴命が毒酒を盛って大蛇を弱らせる1節に酒造の神、松尾室が現われ「如何にも要談承り申すにて 候」と滑稽な身振りで酒造の動作をする。又素盞鳴命が大蛇と挌闘の後3匹ともその首をはねるが、続いてその 首を被った一人立の獅子舞のようなものが3人現われて舞う。これを大蛇の亡霊の舞という等、非常に演劇的な 要素が入っている。

第3日目、28日も快晴と激しい寒冷の堅霜に明けた。

第 3 日の納め神楽(灰神楽とも)はもろは正式には神田と大当番の苗代田でやるのが本式らしい。新田は現在無 くなり、大当番の方も準備が大へんなので、仮に昨日の神楽のあとの神殿を利用してやるようである。まづ

1、総祓 があって、すぐ

2、綱入

となるのであるが、綱入は現行の方法は可なり簡略化されている様である。綱入に当って祭員は何れも舞衣、直衣 を脱ぎ袴を括りあげ、白襷をかけ、白足袋、わらじばき、冠の上に白鉢巻をし、別に綱入のためにつくった1m位の 青竹串の荒神幣を持つ。神田、及び大当番の苗代田には 4 方に注連縄をはりめぐらし、また、中段の所、地面から 1.3m位の高さの所にも注連をはる。注連を張った中が神殿となり、そこへ前記の服装の祭員が入って蛇の来るのを 待ち構えている。

各荒神持は大鼓で囃しつゝ巻藁で造った長さ 2 間半位の蛇をかついで神田や大当番の苗代田へ行く。大蛇を担ぐ 荒神持は龍頭幣を持ち蛇の頭を担ぎ、氏子が全員分れてその胴体を担いだようである。

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現在では、この田の代りに神殿が利用され、蛇の神殿口への進入も神殿西面の一方に制約されて、そこへ注連が 張られる。蛇も本宮と元宮の 2体となって、この蛇2体は前日から用意されて神殿の左右外側の隅に時には見物人 に踏まれたり、茶碗に残った酒をかけられたりして、トグロを巻いていたものが、この時になって引出され、折れ てしまった角の枝を巻いて直したり、舌に巻いた赤い紙の破れたものを修繕して用いられる。

蛇の頭を担ぐものも祭員で、龍頭幣を持ち、大当番以下荒神持の者が何れも平服のまゝ胴担ぎとなる。

まづ蛇と注連の内側の祭員との間で問答の唱ごとがある。蛇の方は蛇頭を担ぐ祭員が唱える。

内「扨て不思議なるかや今朝の夜の明け方に丑寅口を見まいらせ候へば、さもすさまじき蛇体の姿にて、角の あたりを見給えば高山に古木の立ちたる如くなり。眼のあたりを見給えば・・・・(中略)・・・・如くなり。

欺る姿にて案内仔細と宣うは如何なる者にて候かな」

蛇「さん候かように申す候者は山川大海を住家として衆生の苦しみを逃れたく候共巳の業もなし。山に千年住 い候節は楠のかぶたと現じ山神大王に宮仕へ候へども鱗一つだに落つべきようもなし。川に千年住い候節は海 老の巣と現じ水神牛王に宮仕へ候共鱗一つだに落つべきようもなし。海に千年住い候節は、あらめのかぶたと 現じ龍神に宮仕へ候へ共鱗一つだに落つべきようもなし。此度本山荒神十三年御綱入れ大神事ありと承り、遥々 参りて候が、何卒神殿の内に入れ宮仕へ致させ給えやの」

このように長々と問答がつづく。祭員が、そのような者なれば本山荒神の由来を細かに知っているかと尋ねると、

蛇は知らんという。それでは遥々やって来た道中の四季の歌を詠めというと、蛇体では歌は知らぬという。それな れば、上の句を詠んでやるから下の句をつけよとなって、神歌の詠誦が始まる。

祭員の1人が進み出て太刀にて注連を切り、蛇は神殿に入り太刀にて蛇体を撫ぜつゝ、蛇体の鱗を落す様をする。

こゝで蛇体が神格力をすると逃げ廻る祭員即ち荒神幣を追いかけて、その 1 人をつかまえるとこれをぐるぐる巻き にする。場内一ぱいに暴れるのであるが田でやると楽に握えられるがこゝではテントの柱が邪魔になって、蛇の方 が仲々思う方に進めづ、荒神持の方がへとへとになってしまう。

これを以って、退去12年間の祖先の亡霊が荒神入をしたという村人の信仰に連がるものとしているようである。

3、荒神遊び(託宣)

祭員一同神殿に着座するが、このとき蛇2体も、蛇頭を神殿の上に横たえ、仲間入りをする。

1人の祭員が神柱(高石茂樹)となる。神柱は7日7夜の禊潔をする。蛇頭の上に白い布が被せられる。蛇も蛇と の中央に籾俵が置かれこれが荒神の座となる。その上に荒神遊幣をつきさす。

斎主は蛇の傍、神殿南の中程に託宣幣を持って北面して座す。荒神の座の前方に神柱、東面して右に扇、左に鈴 を持って座す。修祓の後、神柱、サンヤ長唄(太鼓が入る)にて一さし舞う。

舞終ると蛇体に手を觸れる姿勢のまゝ浄衣を助勤の祭員に手伝って貰い脱ぐ。この間神勧請の太鼓を打ちつづけ る。

次に蛇体にかけた白布をとり神柱はこれを両肩にかけ、布の端を両手で持ち舞う。急調子。

舞振次第に高調して白布を渦巻く動く打振る途端、斎主が「オーッ」と声を発して持っている託宣幣で神柱の頭 上を払うと神柱神懸りの状態となってその場に打伏す。このときすばやく助勤の神職が軸幣を神柱に持たせ俵に腰 かけさせる。神柱はこのとき両手に持つ軸幣を力のあまり折り曲げ割れることがあるという。このとき助勤の神職 がみくまを取って神柱に年占を立てる。その間神柱の襷にしていた白い布を解きこれをユグリの中へたくり入れて 蓋をしその上から注連縄で結ぶ。

ユグリ・・・巻藁でつくった径 40cm位の器。フゴ形をしていて、サン俵のような蓋をつける。2 ヶ造る。両 方に夫々三種の神器と称えるブリキを形に切ったもの。モチ米、ウルチ米を土器に入れたもの。

小さな紙幣、銭13文を入れてあるが、託宣に用いたものは、その上へ白い布を手縛り入れて、蓋 をする。

終って斎主、神柱の頭上を幣で払い、鈴を振って神返しの警蹕を行い、神懸りを解く。助勤の神職は神柱を負う て山へ移し、そこに寝かせる。

託宣により祭員一同は用意の大抱、小抱に飯、及び濁酒を入れて供へ、洗米を銘々の笏の上に落して、その数を 讀み一つづゝ包む。この包みは後刻荒神持へ配る。

4、荒神舞納め

御洗米の粒改めが終ると祭員は神殿に掛けた紅白の布を取って、舞納めをし、赤布の1つは別の第2のユグリの 中へ、他の物と共に入れて蓋をする。

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5、総祓。

6、千草の舞。二人舞。何れも右手に鈴、左手に御幣。

太鼓との間に長い唱えごとが入る。唱えごとは天孫降臨の神話であって、唱えごとの一くぎり毎にその物語を表 現した神歌が入る。これは伊勢の神楽であって、明治初年、その当時の宮仕、翁氏が伊勢神宮より伝承したものと いう。

7、灰神楽、2部から成る。

正式にはやはり、大当番の屋敷のいろりを中心にして行うものという。

(7の1)内輪喧嘩。大当番と荒神持とが演ずる狂言。

嫁と姑がはげしい内輪喧嘩をするが聟が出て嫁に加担し益々激しくなる所を神主が仲裁に入ってめ でたしとなる狂言風のものであるが、これは本年は省略された。

(7の2)餅取り。やはり大当番、小当番の主人2人で演ずる狂言であるが、八ヶ社社中の人が代役となって演

じた。場所はやはり神殿内、いろりの代りに角火鉢を持出して中央に置く。

火男(ひよとこ)、おかめの2人。囲炉裏の火を育て、炉端に置いた餅を焼く。その餅をおかめは杓子で掬おう とするのを火男は橊木で叩き落す。双方滑稽な所作をまぢえて上になり下になり餅の奪い合いをし灰神楽の立 つ中で、とど仲よく餅を分け合って食べる様をする。

終了。

その後、斎主と副斎主とが蛇を荒神社に修める。本宮様と元宮様とへ 1 尾づゝの蛇が担いで行かれ、紅布を入れ たユグリは本宮へ、白布を入れたユグリは後宮へ、ユグリは大当番が持ち、蛇は荒神持にかつがれて山を下る。

元宮では蛇頭が西方を向くようにして胴体は荒神様の祠をぐるぐる巻きにし、ユグリは祠の傍の地面を掘って埋 める。

大神楽より3年目には「御扉開き」7年目には「地主舞」の神楽神事が行われる。

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翁有之時ハ不仕。彩色之/働御座候時は真之序之/舞短ク相成天女之舞と申侯

まとめ