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菅江真澄とその異文化理解 ― アイヌ,琉球,朝鮮,モロコシ,オロシャ ―

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(1)

はじめに

 真澄遊覧記を手掛かりとして,菅江真澄の異 文化を捉える視座について,検討してみる。本 稿の,先行研究にはない特色は,類推解釈を援 用することにより,菅江真澄の眼差しを,学術 および社会に即応せしめた所である。菅江真澄 は,近世後期の旅行家として知られ,その著作 の汎称を真澄遊覧記という。生前には出版化さ れなかったにもかかわらず,後世まで読み継が れて,一部は国の重要文化財に指定されてい る。こうした魅力は,精緻な日記にも,博識な 随筆にも,適確な地誌にも,豊麗な和歌にも,

繊細な図絵にも,見出すことができよう。ただ し,より肝要であるのは,例示した技術的側面 ではなく,筆を起こす以前の問題,すなわち菅 江真澄の叙述態度にあったに相違ない。

 いっぽう真澄研究は,柳田国男による注目を 契機とし[田中

2000

:

89],厖大な研究成果が 蓄積され,それが『菅江真澄遊覧記』『菅江真 澄全集』の集成に結実している。さらに,『菅 江真澄研究の軌跡』『真澄学』として刊行され たことによって,菅江真澄とその著作が,一領 域をなすがごとき様相を呈した。そこで本稿で

は,真澄遊覧記から,アイヌ,琉球,朝鮮,モ ロコシ,オロシャに関する記述を抽出し,それ をもとにして菅江真澄の眼差しを一般化した い。真澄研究においては,繰り返し紹介される 件もあるが,真澄遊覧記を再検討する意味から も,また総合的研究の途を促す意味からも,あ えて掲載した。

 なお名称は,引用箇所では原文のままとし,

それ以外では便宜的に,下記のように統一す る。真澄遊覧記にみえる「アヰノ」につき,ア イヌと表記し,非アイヌ系日本人をさす「シヤ モ」につき,シャモと表記した。真澄遊覧記に みえる「うるま」につき,琉球と表記した。李 朝下の朝鮮国につき,朝鮮国の対外的な呼称 と,真澄遊覧記の記述が一致することから,朝 鮮と表記した。真澄遊覧記にみえる「もろこ し」が,清朝下の中国をさすのか,海を隔てた 異域の代名詞なのか,特定できない場合がある ので,モロコシと表記した。ロマノフ王朝下の ロシアにつき,真澄遊覧記にみえる「ヲロシヤ」

を,オロシャと表記した。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 修士課程1年(指導教員 内藤 明)

研究ノート

菅江真澄とその異文化理解

― アイヌ,琉球,朝鮮,モロコシ,オロシャ ―

星 野 岳 義

(2)

1 異文化の窓としての真澄遊覧記 1-1 アイヌ

 菅江真澄は,1788年から1792年にかけて,ア イヌの土地を訪れている。津軽海峡を越えるこ とが,菅江真澄の宿願となっていた様子は,真 澄遊覧記に縷述されている通りである[菅江

1971

a:

287,422]。のみならず,菅江真澄のア イヌに対する憧憬は,多くの先学から指摘され てきた。実際に菅江真澄は,アイヌの集落に宿 泊して,ユーカラ[菅江

1971

b:

123]やイヨマ ンテ[菅江

1974

:

486]といったアイヌ文化を,

つぶさに観察している。

 また菅江真澄は,アイヌによる最後の集団的 抵抗となった,クナシリ・メナシの戦いの,早 馬にも遭遇した。戦況は,1789年6月6日には 松逕上人から[菅江

1971

b:

65],1793年10月16 日には北村伝七から[菅江

1971

b:

393],それ ぞれ得ていたようである。そして,菅江真澄は 東北地方に戻ってから,東北地方の地名が,ア イヌ語に由来するとし[菅江

1976

:

297],さ らには東北地方から出土する土器が,アイヌ の作ったものであるとした[菅江

1973

b:

315

図]。このような,アイヌに抱いた菅江真澄の 親近感は,いかにして涵養されたのであろう。

『かたい袋』後篇には,菅江真澄が在郷時代の 出来事を,のちになって回想した一節がある。

ななえといふ処のあひの,廿年あまりさきやあるら ん。かみひげそりて,しやもにまじりて,しのびし のびいせまうでせり。一とせ,あが国岡崎のうまや に来りて,六供坊の何がしといふ寺に一夜とまりた り。ことばなども,さらにあひのとはおもはざりき。

此ことおもひ出て手を折れば,其ころほひにあたり ぬ。[菅江 1974: 475]

 ここにいう六供坊は,三河国額田郡岡崎城下 の長輝山甲山寺とするのが相当であり(図),

目立った異論もみえない[新行

1983

:

42]。果 たしてアイヌが,伊勢参宮をしていたかは措く としても,菅江真澄にアイヌを印象づけた,一 因となったのは疑いなかろう。真澄遊覧記のア イヌをめぐる記述は,はやく金田一京助と喜 田貞吉とに論争があったように[金田一1922

:

293

;

喜田

1929

:

24],研究の俎上には載りやす かった。学説においても菅江真澄が,アイヌ を蝦夷と表記しないようにしているとか[細 川

2008

:

286],クマ檻を詳細に記録していると か[池田

2010

:

62],好意的に捉えるものが少 なくない。なお菊池勇夫には,クナシリ・メナ シの戦いにおける,菅江真澄を扱った論攷があ る[菊池

2005

:

123]。

1-2 琉球

 菅江真澄は,琉球を訪れた経験がなく,いき おい琉球の知識は,伝聞や文献に基づく。真澄 遊覧記にみえる琉球の記述は,菅江真澄の生涯 に亘っていることが,把握できよう(表)。た とえば,『筆のまにまに』4巻は,豊前国企救 郡小倉城下の出身者からの情報を,新井白石の 図 甲山寺護摩堂

 (愛知県岡崎市六供町,2011年2月14日筆者撮影)

(3)

著述によって填補しようとしたものである。

またおなじくにう人との云,琉求人,小倉にて俳 諧をならひて,そのうるま人の句に,「むろんぐわの はひづる夜半や朧月」といへり。このムロングワは 室虫の事をいふといへり。なめての虫をもグワとい へるにや。またその国の事は『琉求誌』などに,つ ばらかに見えたり。今の琉求は為朝の後胤也と,そ の書にもしるせり。うるま人は歌をももはらよめり。

また吾国の古風も多く残りしといへり。[菅江 1974: 104-105]

 菅江真澄は,曲亭馬琴と交渉があったとみら れるが[曲亭

2007

:

420],曲亭馬琴『椿説弓張 月』と同時期に,源為朝の琉球渡りに言及した ことになる。また菅江真澄が,琉球の歌に注目 したのも,知人の金沢子匹が,賀慶使つまり琉 球使節と詩を応酬したことと[新編岡崎市史編 集委員会編

1984

:

984

-

985],パラレルに把握で きよう。真澄遊覧記に所収の歌のうち,1首が 浅野建二論文によって[浅野

1980

:

66],3首

が潮田元宏論文によって[潮田

1987

:

69],琉 歌であることが証明されている。一例を示す と,『ひなの一ふし』にみえる,

九重のうちにつぼて,つゆまちよす,うれしごと幾 久の花とやる[菅江 1973b: 341]

 は,島袋盛敏と翁長俊郎の『標音評釈琉歌全 集』における,

九重の内につぼで露待ちゆすうれしこときくの花ど やゆる[島袋,翁長 1968: 5]

 であるという。菅江真澄の旅の目的は,日本 の古風を探るためだったという指摘があり[磯 沼

2003

:

378],前掲の『筆のまにまに』によれ ば,琉球にも同様の期待を掛けていたと分か る。この期待は,のちに柳田国男や折口信夫が,

南島研究を志向したのと,通底するものがあろ う。もっとも,真澄研究のなかでは,琉球への 専論が相対的に少なく,十全なる論議が尽くさ

種目 タイトル 事 項 出 所

日記 『はしの若葉』1786年4月4日条 新井白石『琉球誌』を引用する 菅江 1971a: 365 日記 『えぞのてぶり』1791年6月7日条 琉球に言及する 菅江 1971b: 125 民謡 『ひなの一ふし』琉球国風磨臼唄 琉歌を引用する 菅江 1973b: 341 日記 『男鹿の島風』1810年7月13日条 森島中良『琉球談』を引用する 菅江 1973a: 237 随筆 『筆のまにまに』4巻 琉歌を引用する 菅江 1974: 104 随筆 『筆のまにまに』5巻 「琉球風の三重箱」に言及する 菅江 1974: 142 随筆 『筆のまにまに』5巻 橘南谿『西遊記』を引用する 菅江 1974: 144 随筆 『筆のまにまに』8巻 徐葆光『中山伝信録』を引用する 菅江 1974: 213 随筆 『風の落葉』2巻 琉球に言及する 菅江 1980: 63 随筆 『風の落葉』2巻 谷川士清『和訓栞』を引用する 菅江 1980: 65 随筆 『風の落葉』6巻 琉球に言及する 菅江 1980: 229 地誌 『花の出羽路』山本郡 久米島に言及する 菅江 1979: 412 写本 佐々木氏郷『江源武鑑』1553年5月20日条 佐々木氏郷『江源武鑑』を書写する 菅江 1981: 415 日記 『笹の屋日記』1822年11月24日条 琉球に言及する 菅江 1974: 428 地誌 『月の出羽路』仙北郡5巻 徐葆光『中山伝信録』を引用する 菅江 1978: 198 地誌 『月の出羽路』仙北郡9巻 琉球に言及する 菅江 1978: 304 表 真澄遊覧記にみえる琉球

(4)

れたとはいえない状況にある。

1-3 朝鮮

 菅江真澄は,朝鮮を訪れた経験がなく,いき おい朝鮮の知識は,伝聞や文献に基づく。開国 神話に現われるダンクンについても,諸書を引 くことにより理解に努めた[菅江

1980

:

113

;

1974

:

186]。こうした,朝鮮に向けた菅江真 澄の留意は,雛川清歳との出会いが,影響を及 ぼしたと考えられる。すなわち,『わがこころ』

1783年8月16日条は菅江真澄が,信濃国水内郡 善光寺町の定額山善光寺に,詣でる途上を記録 したものである。

行ずりの,うちつけにものかたらふは雛川清歳とて,

ももふねのはつる,つしま(対馬)のくにより来け る,よべ(昨夜)見し人なり。をさなきより朝鮮に 渡り,ことさやぐことの葉をまねび,ことかよふわ ざとせりけれど,身に,いささかあやまりおかして,

かくさすらへありく。路の辺に休らひ,諺文(げん ぶん)して,なにくれと,ことやうにかいなし,そ の国のこと葉もて,かれはかく,これはかくぞいふ めるなど,ときかたらひて…[菅江 1971a: 100]

 これに基づくと,雛川清歳は対馬藩のもと で,朝鮮との交流に関与していたといえる。

もっとも,雛川清歳の素性については,菊池勇 夫論文においても明らかにしえなかった[菊池

2006

:

259]。菅江真澄と雛川清歳は,雛川清歳 が越後国に進むために別れており,のち菅江真 澄も越後国を通ったと推定されるが,再会を裏 づける記述はみえない。むしろ,菅江真澄と雛 川清歳とが出会ったのが,善光寺参りの途中で あったことを踏まえる,宮田登論文は重要な示 唆を与えていよう[宮田

1990

:

9]。寺社参詣が 信仰目的のみでなかったことは細言するまでも

ないが[大浄

1916

:

238],菅江真澄にとっての 善光寺参りも,神仏を尊崇する以外の効用をも たらしたといえる。

 ところで菅江真澄が,たびたび言及した出来 事として,出羽国秋田郡脇本村に漂着した無人 船がある。たとえば,『男鹿の寒風』の図絵に は,次のような説明文が添えられた。

…雄鹿の浦に破れたり小舟のたたより,うちに常平 通宝いといと多くつみたり。此泉,朝鮮通用の孔方 也。その国の舟にや。[菅江 1973a: 919 図]

 この一件の真偽は判じがたいが,朝鮮半島か らウツボブネが漂着した,という類話が報告さ れているから[柳田

1926

:

276],伝承として斟 酌する必要もあろう。菅江真澄は,『筆のまに まに』5巻や[菅江

1974

:

141],『しののはぐ さ』で考察を深め[菅江

1974

:

317],とくに後 者では,林子平『三国通覧図説』に論拠を求め ている。とまれ,真澄遊覧記からは,朝鮮通信 使が日本に伝えた文化とは[辛

1995

:

80],ま た異なった朝鮮の文化を垣間見ることができ る。

1-4 モロコシ

 菅江真澄は,モロコシを訪れた経験がなく,

いきおいモロコシの知識は,伝聞や文献に基 づく。神農図に賛を寄せているように[菅江

1981

:

146],菅江真澄は本草学に造詣が深く,

真澄遊覧記においても,李時珍『本草綱目』[菅 江

1972

:

132]や張機『傷寒論』[菅江

1980

:

319]を参照した。そして,不老長寿の薬を求 めて渡来した,徐福の伝承を採取している[菅 江

1973

a:

31]。もとより,竜門[菅江

1971

a:

388]や二十四孝[菅江

1973

a:

272]にも言及

(5)

しているから,菅江真澄の見聞が,本草学に偏 重していたわけではない。

 また真澄遊覧記には,モロコシに漂流し生還 した者の,体験談も載せている。福州に漂流し たというものから[菅江

1981

:

79],ただモロ コシへ漂流したというものまで[菅江

1971

b:

329],事実関係には精粗がある。菅江真澄は,

漂流者と対面して書きとめたのみならず,かつ て漂流者から聞いた,というような回顧もし ている[菅江

1975

:

153]。『おがらの滝』1807 年3月27日条は,出羽国山本郡新屋敷村の吉太 郎の体験談を,僧侶を介して記録したものにな る。

此吉太郎にそこのくにうど,かたみものかいてわれ

(に=脱)たべ,かれにもたうびてとひたいへば,を さなう,松竹梅,花鳥風月のたぐひもはづかしけれ ば,童のとき手ならひに書きて天満宮に奉りしをお もひ出て,姑蘇城外寒山寺となん,ところどころに かいやりしかば,送りしける人の,汝しがつねに書 なしてける姑蘇城はここにこそあれと,ある県を通 りしときをしえたりしとか。[菅江 1973a: 118]

 この予定調和的な話柄は,流布の過程で潤色 されたものだろうが,たとえそうであれ,海運 従事者たる吉太郎のリテラシーを掴んだり,菅 江真澄の理解を掴んだりするのに有用となる。

菅江真澄にとって,吉太郎の体験談が忘れがた かったのは,『百臼の図』異文2に,モロコシ の米搗き風景を収めていることからも知れよう

[菅江

1973

b:

277

図]。ほかにも菅江真澄は,

広東に漂流した長之助から,道家の服装を尋ね ている。『風の落葉』2巻には,道家の角笛が 描かれており[菅江

1980

:

4

図],これは霊角 または海角と呼ばれている[劉

1983

:

5],法器 とみられる。なお,武帝については新野直吉に

[新野

1999

:

3],漂流者については田口昌樹に

[田口

1993

:

3],それぞれ解説がある。

1-5 オロシャ

 菅江真澄は,オロシャを訪れた経験がなく,

いきおいオロシャの知識は,伝聞や文献に基 づく。菅江真澄が,オロシャ情勢に通じてい たのは,三河国渥美郡吉田城下の植田義方に,

25コペイカ銀貨を贈っていることから[近藤

1971

:

55],よく知られる。なかんずく,大黒屋 光太夫が,ラックスマンにともなわれて帰国し た経緯に関しては,たびたび言及した[菅江

1971

b:

342,371

;

菅江

1981

:

124]。オロシャの 知識は,菊池清茂や[菅江

1971

b:

355],今井 常通から得ていたほか[菅江

1971

b:

476],加 藤肩吾から得ていたとする学説もある[菅江

1981

:

495]。

 もっとも,オロシャの情報は,来日したオロ シャ人からも,もたらされた形跡がみえる。『か たい袋』後篇によると,テメテレラヤカウフエ キとアブナスイエンの,2人が来訪したとい う[菅江

1974

:

490]。また,テメテレラヤカウ フエキが,陸奥国北郡佐井村に先祖をもつ日系 オロシャ人だったとか,オロシャの盆踊り歌を 広めたとかという記述もみえる[菅江

1973

b:

341

;

菅江

1981

:

128]。ここでは,『筆のまにま に』3巻に清書された,『混雑当座右日鈔』裏 書を挙げておく。

また此口琵琶鉄にて作りしあり,そはむかし魯西亜 人ならむか,テメテレラヤカウフエキといふ人松前 に流離のとき持来たりしものにて,松前の鉄工かう ちたり,その漂泊人のもたるには其国の名もありし か,わすれて口琵琶とのみ云ひて津軽なとに盆の仮 獅子頭儛等を笛太鼓に合調て此琵琶をももはらもの

(6)

しつねも吹ならし…[菅江 1981: 132]

 このテメテレラヤカウフエキをめぐる真実 は,先学によって解明されつつある。まず,鉄 製の口琵琶である鉄口琴が,大陸から伝えられ た可能性は,西鶴定嘉『樺太アイヌ』を根拠と して,是認されている[谷本

2000

:

306]。つぎ に,佐井村を出港した多賀丸が遭難し,オロ シャに救助された乗組員のうち,長助の子ども にあたるトラペズニコフが,ラックスマンに同 行していたことも確認された[村山

1993

:

36

-

37]。そして,テメテレラヤカウフエキは,ハ クシテレイヤコリウキつまりシャバリンであ り,アブナスイエンは,アファナーシイつまり オーチェレジンであると推察されている[中村

1978

:

7

-

8]。通訳を務めたオーチェレジンは,

多賀丸の乗組員に日本語を習ったという[中村

1968

:

44]。菅江真澄は,佐井村でもオロシャ情 勢を得ており[菅江

1971

b:

276],これら事実 が,伝聞によって付会したとみるのが穏当であ ろう。

2 一般化するための試論

 雑駁ながら,真澄遊覧記を摘載してみると,

押さえるべき論点が浮き彫りとなってこよう。

すなわち菅江真澄は,浅はかな好奇心に駆られ て,筆を走らせただけなのかどうかである。た しかに,平秩東作『東遊記』にせよ橘南谿『東 遊記』にせよ,衆目を歓ばせる一環として,述 作された傾向が否定できない。しかし真澄遊覧 記は,写本や貸借によって認知されたのみで あって,菅江真澄に,興味本位の記述に腐心す るだけの,必要かつ十分なる蓋然性は認めにく い。むろん,この仮定のみでは覚束ないので,

真澄遊覧記からの跡づけを要する。

 まずは,通訳が不在になったさいの,アイヌ と菅江真澄とのコミュニケーションを,『えぞ のてぶり』1791年5月30日条から引用したい。

…シヤモの詞はつゆもしらぬアヰノらにて,又この あないもアヰノ詞しらざれば,いひ通はさんすべな う,アヰノもシヤモも,みなしじまに,ただ,口な しのそのに入身のおもひせられて,ものいはざれど も,手と眼の行ふるまいを見て,その事としられ て,しばしは,かたらふおもひして休らふ。[菅江 1971b: 108-109]

 手振りや目遣いによって,意思の疎通を図る 試みは,菅江真澄の意慾が浅薄ではなかった,

客観的な証拠となる。題簽『えぞのてぶり』の 由来は,定論をみないものの,慣習をさす手振 りはもとより,ジェスチャーをさす手振りとし ても,適っていよう。ちなみに,アイヌとシャ モとを列記する場合は,上掲のようにアイヌを 優先しており,これは他の真澄遊覧記にも共通 する[菅江

1971

b:

259]。ついで,菅江真澄が,

アイヌの子どもをさすヘカチに寄せた,主観的 な感想を,『えみしのさへき』1789年4月22日 条から紹介してみる。

ヘカチとてさらにたがふけぢめこそあらね,ただ泉 郎(あま)の子のやうにて色黒きわらはなれど,眼 のまろまろとして耳に朱なる糸つけたれば,一目に しるし。[菅江 1971b: 19]

 この件にいう,アイヌの子どもと「たがふけ ぢめこそあらね」とした相手方は,シャモの子 どもとみる卓説があり[堺

1997

:

277],文脈か らも支持しうる。そうであれば,菅江真澄は,

他者は自己と等しい存在である,という価値観 に立脚していたと考えることができよう。かか

(7)

る価値観は,アイヌの住居に招かれたさいに,

いかなる効果をもたらしたのか。そこで,菅江 真澄が,アイヌの寝所を観察した件を,『えぞ のてぶり』1791年6月3日条より引用する。

窓は,いづらも榻ごとの上に明たれば,夕風のおも ふままに吹入りて涼しう,蚤は,居に居て多けれど,

床のいと高ければ,さらに飛ぶものぼらず,シヤ モの臥房よりも,いとすみやすげ也。[菅江 1971b:

114-115]

 これによれば,シャモの寝所と比較すること により,シャモたる自己を相対化せしめ,他者 を尊重する精神を看取することができる。した がって,これらアイヌ文化との応対をもって,

他の文化との応対をも同一視する妥当性,敷衍 するに類推解釈を適用する妥当性は,肯定でき るものと解する。事実,既成の概念に縛られず,

真摯に対象に取り組む,菅江真澄の姿勢には,

各界から定評のある通りである。民俗学はも とより[赤坂

1995

:

369],植物学[工藤

1997

:

10],考古学[富樫

2004

:

18],鉱山学[加賀谷

1978

:

151],科学史[内田

1977

:

217]など多岐 にわたる考察が,現在でも色褪せることなく,

真理を衝いている。これら複眼的な思考は,菅 江真澄と同時代の人物を対象とする,18世紀研 究に遜色ないものがあり,その実践のいくつか は『真澄学』誌上に把握できる。

おわりに

 真澄遊覧記を手掛かりとして,菅江真澄の異 文化を捉える視座について,検討してみた。菅 江真澄は,敬愛の感情を衡平な筆致をもって表 現しているが,菅江真澄の生きた時代は,必ず しもこれを許容する風潮にはなかった。そうし

た社会状況は,過ぎ去った障碍ではなく,現代 においてもなお,危惧すべき問題を胚胎してい る。たとえば,藤本強『もう二つの日本文化』

は,日本列島には多様な文化が内包されていた としたうえで,次のような問題点を指摘する。

それぞれの社会のもっている論理などはお構いなし に,力のうえで大きな差のある社会のなかに,強引 に自らの論理を貫徹させていく。農耕を基盤にする 社会が,採集・漁撈・狩猟を生業とする社会を圧迫 するのは,遠い世界のできごとではない。日本列島 につい数百年前におこり,現在にもその余波が及ん でいることなのである。こういったことが一般に知 られていないところに問題があろう。[藤本 1988: 125]

 真澄遊覧記に照らしても,読み手の受ける印 象は,読み手を取り巻く社会状況に,依存する ものとなろう。そうだとすれば,菅江真澄の叙 述態度を,新鮮であるかのように認識するの は,憂慮すべき現状を投影しているともいえ る。それと同時に,真澄遊覧記の読み継がれる 行為が,問題解決へ向けたささやかな一里塚で もあることは,言を俟たない。なぜならば,真 澄遊覧記を閲読する営みは,菅江真澄の漂泊を 追体験する営みであり,詮ずれば菅江真澄の眼 差しを会得する営みに,ほかならないからであ る。

〔投稿受理日2011. 6. 18 /掲載決定日2011. 6. 30〕

参考文献

赤坂憲雄 1995.「菅江真澄」『中世の風景を読む』

第1巻,新人物往来社,pp. 369-421

浅 野 建 二 1980.「菅 江 真 澄 と 民 俗 芸 能 」『文 学 』 48(2),pp. 55-69

池田貴夫 2010.「アイヌ文化をフィールドワークす る菅江真澄」『真澄学』5,pp. 51-65

磯 沼 重 治 2003.「菅 江 真 澄 の 東 北 学 」『東 北 学 』

(8)

1(8),pp. 364-379

内田ハチ 1977.「日本科学史上における菅江真澄」

『科学史研究』2(16),pp. 217-225

加賀谷文治郎 1978「真澄と鉱山」. 『菅江真澄と秋田』

加賀谷書店,pp. 151-167

菊池勇夫 2005.「寛政アイヌ蜂起と下北民衆」『キ リスト教文化研究所研究年報』38,pp. 119-144 菊池勇夫 2006.「島渡りと旅人改め」『真澄学』3,

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