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鈴木無隠遺文 利用統計を見る

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鈴木無隠遺文

著者

吉田 公平

著者別名

YOSHIDA Kohei

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

40

ページ

1-8

発行年

2005

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009364/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

鈴木無隠遺文

鈴木無隠又の名を刈谷無隠という。今や鈴木無隠の名をを知る人はいな い。しかし、鈴木無隠が兄事した河井継之助ということになると、知らな いといえば、モグリだねといわれかねない。河井継之助は所謂戊辰戦争の おり、長岡藩を率いて敗死した。この河井継之助については、今泉鐸次郎 氏の﹃河井継之助伝﹄がある。望みうる最良の伝記である。河井継之助自 身は著書を残さなかった。今、平凡社の東洋文庫に収める﹁塵壷﹄は、西 回避学の旅日記であるが、学徳交歓の記録であるものの、修学の内容を丁 寧に記録してはいない。また、この旅日記が容易に見ることが出来るよう になったのは、東洋文庫に収められてからである。今泉氏の﹁河井継之助 伝﹄は陣所に河井継之助の政書・書簡などを織り交ぜて筆を進められてい るが、河井継之助の遺著遺文は、生前はもとより、逝去して後も、著作集 としてまとめられることはなかった。河井継之助の著書として容易に見る ことが出来る唯一のものが﹃塵壷﹄である。特に河井継之助は経世家で あって経世論者ではなかった。ましてや一般的原理を抽象的に論議するこ とには関心を示さなかった。この河井継之助が山田方谷に学んだこと、﹃王 文成公全書﹄を愛読したことなどが強調されて、陽明学者の一人に数えら 士 口

れる。ところが河井継之助は陽明学理解を示す著書を残していないので、 かれの陽明学理解がいかなるものであったのかを、直接に知ることは出来 ない。勢い、河井継之助の身近にあったものの証言に頼ることになる。数 ある証言者の中で比較的に豊富な内容を伝えたのは、鈴木無隠である。こ の鈴木無隠にも著書はない。鈴木無隠の生涯と思想にも関心をそそられる が、今は、鈴木無隠の遺文を紹介することにする。なお﹁無隠居士書簡集 (六)﹂が掲載されていない理由は分からない。 無隠居士書簡集 去四月廿八日岸和田西方寺に聞かれたる王学会に於て久方振りに鐸木一男 君に遭ふ。鐸木君は無隠居士の一子なり。久闘を叙したる後に、余は君の 計画に係る無隠居士書簡集発行の経過如何を間ふ。君答ふるに公務多忙 (氏は岸和田中学校教師なり)未だ初志を果さざるが、書簡は辱知の方々十 数名より借入れたるもの百余通にも上るべく、約半分は謄写せるも、写し 初めては、時に涙の為めに妨げられて中止することもありて、今日に至れ るなりといふ。葱に余は嚢日高瀬博士にも談合したることあるが、寧ろ一

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鈴木無隠遺文 巡雑誌に上せ置きて、然る後纏めて一冊に発行するやうにせば如何ならん と語れるに、鐸木君もサアらば便利多からんに、五月号よりにでも爾かす べきとの事にて、愈本号より連載することとなり、岸和田よりは其第一回 の原稿にと左の数通を送り越されたり。想ふに是より来るべき数多の書簡 に無隠居士の悌躍如たるものあらん。 明治四十五年五月三日 東 国 記 。 貴簡拝披。時下筆硯、益御清安。高福々候。陳は過般は罷出冗舌を弄し候。 いつも壇上に在る間は、十分にヤツテヌケ候積には候得共、降壇するや否 ゃ、直に又々おもふ様には出来なかったと悔悟の念は、胸裡は湧出いたし、 今更備保之至に御坐候。此後好時機有之候はず、再罷出過般の御埋合可致、 右可然会員諸君諸氏に御惇へ被下度候。 大阪の如き地を根拠として王学を鼓吹被遊候はおもしろし。陸象山日く、 慾に溺る、者と道をいふは易く、理に溺る、者と道をいふは難しと。加賀 の千代日く、田の草を抜て其ま、肥し哉と、大阪の草深き地を変して肥料 とするは、会員諸氏の手腕にあり。将来多望の事業十分に御尽力の程、切 望 罷 在 候 。 別冊教育界雑誌二冊へ、拙老四十能年前の実歴一斑と正法輪一冊の記事も 亦然り。かきかけて見たもの¥右等雑誌に出し候は、面白くなく候問、 本月限り見合せ可申。なにか別に御考も有之候はず、御配慮被下度御相談 申 上 候 。 先はとくに御回答可申上の所、多忙に取紛れ、今日に相成候。不悪御推恕 被下度候。早々拝復。 六月十八日。無隠。 東国石崎賢契 座 下 再白。往復の車費として金五園小為替正落手候也。(四二、六、 Ji

梅雨連日来る人もなければ、出るにも惜し。無柳の鈴り、 一 世 一 回 を 裁 し 候 。 叉手、先日の講演は不十分の悔を残し候得共、全身流汗淋璃たる如く、胸 中のむさくさも幾分を披涯し、其快いまに忘れ難く、調子に乗ってモウ一 度ヤッケ度、妄念勃々として不能制。なにとか近き間に好時機も有之候間 時敷哉。老人の冷水せざる方ましには候得共、普通の道話に倦候今日に候 問。王学の如きものを取扱候は、久日干望雨の情に御坐候。可然御配慮被下 度。時下千高御自愛是祈。早々不尽。 六月念一。無隠 東国賢契侍史(六月一一一) 今朝は雨後の放晴一段の快を相覚候。筆硯益御清福な口ん。敬賀々々。陳 は御葉書は昨夜落手。御同志の茶話会趣味もさこそとおもへやられ候。 近々御同志、大挙我が牙営に肉薄被来候趣に候得共、七月十日前後までは 学校の草賊掃に取掛り候。到底ゆるりと外国軍の精鋭に応するの暇なし。 且態々大軍御上浩にも不及。草賊は日に期し、平定可致候問、然る上は、 拙老孤軍単騎浪華城に突喚せん。御承知の肺疾、海気に触る、の必要有之。 時に京都を離れ、播摂の海角に静養せよ、 一日でも半日でもよいからせよ と医師に促され居候際故、なにかの事故に托してなりとも、下阪致度、折 柄同学の友を得て幾分にでも、斯道の事に尽す事ならば、意外の幸福に候

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問、其時の都合にて、一日に往復することもあらん。又一一一泊することも あらん。其際茶話会なり、又は講義の定日に相当り候はず、御同志の諸君 と校管談論するは、人生無限の快事に御坐候。就ては都合よき時日を御申 越被降候はず、拙老より可罷出候。尤も毎月第一第三の土曜は差支候。 先日の御はなしに水戸学と陽明学との関係有之云々承り候。遠き淵源は暫 く措き、東湖先生の時代に志気を鼓舞したるは、明の楊叔山の学説に可有 之。右全集水戸に於て活版したるもの有之。吉田松陰先生も此書を以て活 動せしものと被存候。水戸にて出来候木版の活字本、殊に藤田豊田両先生 の序あり。御参考に相成候はず、何時にても逓送可致候。 先は御上洛御見合、当方より進箪可致。不取敢貴酬発。早々不尽。 六月廿七日 無隠 東国賢契 侍 史 (以上﹃陽明﹄第二巻第十一号。明治四十五年五月五日。掲載) 無隠居士書簡集(其三 拝読。御申越の楊叔山全集四冊。不取敢差上候。叉手。拙老本書を愛読す るの初は、吉田松陰先生の学術の淵源はなにならんと、平生欽慕の切なる 所より、其淵源を探らんと思ひ候折柄、偶ま先生の座獄日記か留魂録を見 て、先生は深く叔山に私淑せしを知り、此全集を読むに到れり。而て其序 文に東湖豊田先生の序に概して水戸人士の気骨も此書に養はれたる事も知 れ り 松陰先生は 叔山下獄の時に其友人江西石と申者より餅蛇の謄一塊を贈りたるに、叔 鈴木無隠遺文 山自ら謄あり。何ぞ耕蛇を必せんと辞して受けざる事を頻に賛称せり。 松陰先生の一世は全く叔山と符節を合する如し。此一節は全集の年譜を 一枚折りて置候。御覧相成度。松陰は日本の叔山。叔山は明の松陰と申 候てよろしき程相似たり。 東湖先生の正気歌の結句に 死為忠義鬼極天護皇基 といふたのは、叔山 が絶命詞に 平生未報恩、留作忠魂補 能く似たものに御坐候。サスレパ東湖先生の素養も見られ候。此一節も一 枚折てしるしいたし置き候。 楊叔山の妻の貞烈も古今其比稀なり。祭文御覧相成度。女性の文としては 空前絶後といふベし。こ、も折てしるしいたし置候。 松陰先生にやさしき所あるとおなじく、叔山も亦然り。臨刑の前日、子 に与え候書を御覧相成度候。こ、もしるし致し置候。 楊叔山は明の正徳十一年の生れに候得ば、陽明先生の死より十四年前の生 に御坐候。叔山の学派は何れなるや忘れ候得ども、王子学は今日にいふ明 一代の時代思想と相成候問、其学も知られ候。王学の分派は漸(漸)中江 右南中北方卑聞に相分れ候義、明儒学按の一書にて御調あり度候。叔山は 江右派ではないかと存候。拙老十齢年前、陽明学と申雑誌に出候。別冊右 等の事も幾分か有之候問、御参考に差上候。今日に相成候ては一種の反古 紙に候得ども、本夏季避暑の齢暇を以て訂正いたし度候。右丈は御覧の上、 成丈早く御返却被下度候。 多忙執筆、乱雑甚敷、可然御推読被下度。早々。拝復。 六月廿九日 無隠

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鈴木無隠遺文 東国賢契御下 再日高瀬博士へ御申越之旨、相伝へ可申。博士の令夫人は去る十三四日 頃より発病。首府立病院に入院治療中に御座候。しかし次第に軽快に赴候 問、右様承知相成度候也。 昨日拙稿論語講義緒言は早く返却被下と申上候得ども、八月の初に至るま では不用に候問、若しも御参考にも相成候はず、会員諸氏之内にも御廻し 被下。只紛失せぬ丈ご注意被下度候。 王学に就てなにか御執筆相成候はず、明儒学按の一書は座右に御備へ可 然。王子の前に呉康斎もあり。陳白沙もあり。而て王子の後に其学の数派 に別れ候趣を御覧相成度候。拙老は最初には呉康斎に取付附候。王子は天 性偉大なり。欽仰すべくして近くべからず。然るに一躍して其境に到らん とす。故に近世王学を主張するものは、形式を模倣するのみにして、精髄 は手に入るの期なく、文学章句に拘束せられ、伝習録や全集を頭上に戴き、 得々然たる形状は、狐狸が芋の葉を冠り、人間のまねをするの観あり c 王子の精髄を得候上は、四書六経は五日人の註脚なり。伝習録と全集も亦然 りと躍り出し不申候ては、王学の徒とは難申。今日の王学を主張する徒を 王子より見たならば、なんといふべき欺。 日蓮は各宗を賊なり魔なりと喝破したるも、今日日蓮が世に在って今日の 日蓮宗を見たならば、如何に喝破せんか。 日新吾語録は中斎先生愛読の書なり。維新の前に官板にて世に行れ候も、 今日は如何に書林を尋ね候ても不見当候。拙老所持の分は米国へ渡航の人 に貸してなくなり候。漉遺国武一部、桑名の旧藩士一部、所蔵罷在候。勝 四 海舟も此書は能く読んだものに可有之。拙老只今日語集粋と申抄録の唐本 所持せり。右は唐本を取扱候書林に近来は可有之候得ども、御入用に候 はず、御申越次第可差上候。 猶又近頃伊藤介夫翁が日新吾語録を手に入れ候よし。翁は明儒学按も所持 いたし居候。御覧之思召有之候はず、御紹介可致候。 先は本日閑暇にまかせ、早々不尽。 七月初日ゴ無隠。 東国賢契之下 昨黄昏高瀬博士来訪有之候問、御惇旨の趣申置候。今夫人の疾病快方に は候へども、まづ当分は病院において静養之趣に候也。 (以上﹁陽明﹄第二巻第十二号。明治四十五年六月五日。掲載) 無隠居士書簡集(其三) 梅雨未全霧候得共、筆硯愈以高福々々。陳者過日申上候手元之草賊は、存 外早く掃蕩し、本日午後よりは、庭の草とり、朝顔の手入れ等、 いたし候 飴暇を得候。いづれ其内夏季静養の海湾撰定の為め、自然貴地も通過可致 候問、其節は御日に掛申度候。楊叔山集は如何。獄中のことは一読毛髪煉 然、不忍再読候。松陰先生の叔山白有謄何必蛸蛇の一語を珍重されしも道 理なり。我国昔時、人謄といふもの、尽く刑徐の罪人より得たるものなり。 人謄を或る儒者先生の病気に付贈りたるに、先生悌然怒て日く、周公孔子 の謄なれば、我れこれを欲するも、罪人の謄は、死すとも服する能はずと 辞したるを賞賛したるものも有之候得共、叔山に対し候ては、顔色なから ん。而て孔子と叔山の語を聞きしならば、此人こそ真に我謄を嘗めたるも

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のと悦ばん。上に覆はるの天なく、下に載せらる、地なく、乾坤只一人の 境界こそ、真個男児の本領ならん。叔山の子に訓る書と、松陰の女兄弟に 有 与 情 へ の

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で き は 稲 川が土俵上に出るの観あり。東湖の序に我文録(禄)征韓廿高の師をして 志を得しめざるは、叔山の一死が、明を中興の気運に向はしめたる為なり と。水戸人士の天下に率先し、死を賭したる淵源の一は、こ冶にあるべく 候。吾人は出来上りたる王子を学ばんよりは、先づ王子任侠に溺れ候時代 を 学 、 び 、 ソシテ歩一歩と向上接近しては如何。王子は難有人など、尊崇す る聞は、極初心の観察にて、畏しい凄いと寒毛だっ所迄進み不申候ては、 ともに王学は語るに足らずと相信居候。閑暇にまかせ、草筆如此。早々不 具 七月初六夜 無 隠 東国賢契之下 御照会の趣、高瀬博士へ相談候所、別紙の通り、回答有之候問、来る十一 日十二時廿七分京都発汽車にて、 一時五十二分梅田着、直に土佐堀へ参り 可申候。午飯はすませ罷出候に付き、御用意に不及。到着いたし候はず、 直ちに開講可致候。今度は講義など、いふよりは、親敷打くつろぎ談話の 方可然、乍去すこし真面目に講ぜよといふ御都合に候はず、藤樹と蕃山と 申す題に可致候。今度は講後二時間も談話仕、午後八時三十分発、和歌山 行最終列車に難波より乗込、紀州加太浦辺に静養の地を撰定可致積りに御 坐候。右の都合故、今度は旅装にて単ものと羽織のみに候。乍去袴なしの 鈴木無隠遺文 講義は、場所柄失礼の嫌も有之候はず、貴下の袴、借用可致、乍御面倒御 持参被下度候。講後談話の都合も有之候問、楊叔山集と拙稿論語緒言は、 御持参被下度、淡輪深日等の地は四十四年目、和歌山は三十二年目に候。 古昔の感さぞ趣味もあらんと、下阪の日を屈指相楽み居候。先は不取敢、 御回答まで。早々不尽。 七 月 初 入 目 。 無隠 東国賢契之下 先日は罷出。不相替、放言漫語。今更恥入候。講後直に難波を発し、和歌 山市一泊。翌十二日加太浦に参り、静養の地取極め、同報帰京仕候。さて 八月第二日曜の例会に出席いたし度候得ども、加太より貴地に一日の往復 は、病駄にては、差支候問、来月丈けは御免蒙むり度。尤も高瀬博士の都 合もあるべく、自然来月一日は第一曜に有之。右に御繰上げ相成候儀も有 之候はず、同日講話を仕舞、然して加太に参り可申候。これなれば都合尤 も妙に御坐候。又第五の日曜は八月二十九日に候。右に繰下げ相成候つず、 加太より帰京の途次に可罷出候。 先日の講話は、何か可気のぬけ候想有之。聴集の感動も意外に乏しく、右 は講席の造り方に関係いたし候問、此後は(捻⋮⋮⋮日制)如此に相願候。先 日 の ( 融 問 蹴 o講師)如きは、視線の統一を欠き、発音頗るくるしく候。ドー ゾ此後はよろしく奉願候。先日のはド

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モヤリ損じたり。今度は井伊直弼 に対する意見を述べ度とも相考候。知何可有之哉。又大石良雄の修養談で もよし。時下千寓御自愛是祈候。早々不尽。 七月十五日 無隠 五

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鈴木無隠遺文 東国賢契之下 別紙相認候慮、尊書到着。毎度御厚志之段、奉謝候。明儒学案は御購入之 一応御覧被遊候。工夫の着実なる点、如何にもお 旨。就ては呉康斎語録、 もしろく、又陳白沙もすこし風かわり居候得ども、これも益あり。拙老八 月二日頃に出発。加太浦へ三四週間、静養いたし候。早々。 七月十五日 無隠 (以上。﹁陽明﹄第二巻第十三号。明治四十五年七月五日。掲載) ﹁去る夏の思いで﹂無隠居士書簡。 高瀬博士の避暑地は、多分和歌山ならん。さすれば八月末の菩提寺の 講建に相臨候義は、尤も都合よき事と被存候。 拝復。厳暑之節、筆硯愈御清祥。高福々々。陳ば八月中に大塩先生菩提寺 に於て、小講演会御聞き被遊候義は、至極結構に候。然高瀬博士は、夫人 の病院より退去を待て、 いづれかに避暑の都合と承り居候。拙子は本月一一一 十日と八月一日に、丹波八木町と伏見町に講演相開、二日三日朝より、紀 淡海峡の一角加太浦に向て、出発いたし候問、乍残念、天満菩提寺之御会 合には列する能はず。去乍前回は最も本意に適せざる講演いたし、子今不 快の念を存し居候問、今後は意の如くヤッテ見度、自然此大暑中は御見合、 八月末、精秋冷の動くを待て、御開会被遊候御都合に相成候はず、加太よ りの帰路を幸に一場の詩を弄し可申。其頃に相成候はず、博士夫人も軽快 可致、博士も出席の都合よろしかるべし。御一考被下度候。 明儒学按にて己に御覧も可有之候得ども、前年講義に相用候日新吾語録中 ム ノ、 の一一一を見出候問、差上候。座右銘なども適当ならん。楊叔山集及拙講草 接正に落手仕候。時下千高御自重是祈候。早々不尽。 七月念八。無隠 東国賢契 座 下 匡 J 司 い コ ド 了 二 三 ロ 近頃京都東山永観堂に青嵐会と称する王学の講習会起り、講師は、水観堂 住職にして、春日潜庵の門人なるよし。なかなかの盛況にて、評判もよろ しく候。坊主かやるとは妙に候問、高瀬博士に間合候慮、 いまだ一面識も なき僧のよしに候。 ( 以 上 。 ﹃ 陽 明 ﹂ 第 一 一 一 巻 第 六 号 。 大 正 三 年 七 月 十 五 日 。 掲 載 ) 無隠居士書簡集(四)(第三巻第一号まで続載) 尊書拝見。蕃山正雪論の如きは、眼光近古を看破し、心霊界の機軸を握り たる人ならでは、不足語候。世の忠好を論議するは、成敗得失の跡に就て のみに候。是等の徒は読書高巻なるも、道義道徳を標梼するも、必克辺幅 を修飾する郷患のみ。村学究のみ。気運の消長と国勢の隆汚に関係なきな り。五口人は葛根湯的薬剤とならんよりは、先づ激薬となり、毒石とならん。 死活は唯一匙の間にあることそおもしろけれ。老夫近来一知人の兄を得た るを悦ぶ。兄幸に自愛せよ。任重而道遠実。老夫本月末帰京の心算に候慮、 不得己用務相生じ、廿五日帰京の途に就き候。いづれ秋冷の候ゆるりと拝 悟の期あるべし。早々拝復。 八 月 念 一 午 前 。 無隠

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読熊沢蕃山及由井正雪論。賦似東国賢契。 眼光看破両英雄 健筆写来気吐虹 料識百年九泉下 相逢ニ子笑顔紅 廿六日。御葉書拝見。御厚意多謝々々。拙老去る廿二日黄昏、鉄路無事帰 京仕候。六十六年、粗末に使用せし糞桶なり。大破損に及びたるも、時々 修繕相加へ候はず、こ、暫らくは底もぬけましく候。 廿日発加太への御封書は、一昨日附筆して廻送せり。吉野のことは、委委 敬承。拙老従来他の詩文を筆にしたることなし。乍去蕃山先生とあらば、 筆は勿論、草履も直し、靴も捧げ可申候。 高吟はいまに届き不申候問、早々旅居大阪屋へ催促可致候。 まだ書きたきことは山の如くなれども、流汗淋満たり。飴は期後信候。 早 々 不 尽 。 八月念八 無隠 石東国賢契座下 (以上。﹃陽明﹄第四巻第四号。大正四年五月五日。掲載) 無隠居士書簡集(五) 先般、下加茂の小集は、実におもしろく、近来の快事に候慮。其翌天明に 到り、忽然地獄門頭鮮血池畔におゐて、群鬼と遊戯三味に入り候得ども、 神気は何故か更に清爽を感じ、随て発熱の模様もなく、肺部の諸誼も、都 而賂血前より好況を呈し、病苦といふ苦は覚へ不申。為之次第に回復に向 へ候得共、大戦乱を経候後の如く、四野荒涼人姻を見ざるの観あり。腰は ぬ け た る ま 冶 、 いまだ雪隠の往来も自由ならず。乍去能く食ひ能く出し、 鈴 木 無 隠 遺 文 飲食とも、愚妻などよりは達者に候問、右等は近々回復せんも、なに冶せ ょ、老後の激変。本月及来月の例会には出席は仕る程の力は無之候。 凡そ人生の趣味は、生死の分岐路に立った時に御坐候。此に得力なしとせ ば、読書は不致方に候。死生禍福の分岐路は、吾人の試金石に候。呉康斎 日 く 、 一庭園一進学とは、至言といふベし。世間の多くは困に庭すると学 に進み候とを二分し、両般の想を為し候。これが間違の穫に候。今般は学 会より御丁寧の御見舞被下、御厚意奉謝候。右おうつりに康斎の一語差上 候。可然御披露被下度候。 吉野の碑は、十一月中には執筆可仕。同月例会に出られ候はず、罷出候。 八千八声の後は、賂血いたし候義と、兼てより覚悟の前に御坐候。病飴初 而筆硯に対し候。早々拝復。 十月初六 無 隠 石東国賢契座右 (以上﹁陽明﹄第四巻第五号。大正四年六月五日。掲載) 故無隠居士書簡集(七) 拝呈。風霜次第に相加り候慮。筆硯愈御清迫。敬賀々々。拙者依然病床に 在り。どうやら今度は人間の最終列車に乗込だらしく、尤も急行列車は、 先般乗替へ、通常列車に候問、速力は至て緩漫に御坐候へども、 いつかは トンネルの中を通過せん。右は人生自然の行程不可避も、三冬の寒威に向 て衝突転覆せざる様、注意いたし候問、深く御掛念は被下問敷候。病中 種々の来客談論は多方面に渉り候得ども、今日学界の通弊として、客観的 ならざるなし。如何なる談論も古人の糟粕を陳列するのみに過ぎず。趣味 七

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鈴木無隠遺文 索然のみならず、何の用にも相立不申候。新春にも相成候はず、 一 度 御 上 京如何。疲せこけ候病躯も、幾分の血と骨を存し居候。会員諸君の中にも、 上京の御序も候はず、御来話奉待居候問、右御停へ被下度候。先は飴り御 無沙汰いたし候問、御近況御伺申度候。早々不尽。 臨月初六 毒菌窟 無隠 東国石賢契 侍曹 (以上﹁陽明﹄第四巻第八号。大正四年九月五日。掲載) ﹁陽明﹄が掲載する鈴木無隠の書簡集は以上の通りである。吉本義の鉄華 書院版﹃陽明学﹄に掲載する鈴木無隠の遺文は別に紹介した。(﹃東洋学研 究﹂四十三号掲載予定)。東敬治主幹﹁陽明学﹄にも鈴木無隠関係資料が掲 載されているが、その調査報告は次の機会に譲りたい。石崎東国が主幹し た﹁陽明﹂には、鈴木無隠のものとしては、ここに紹介した書簡集と﹁河 井継之助言行録﹂がある。﹁河井継之助言行録﹂は別に紹介することにした ぃ。鈴木無隠は漢詩を作っていたはずであるが、調査不十分なためか、あ まり見かけない。たまたま﹃陽明﹂第四巻第一号の片隅に一首掲載されて いるのでここに紹介することにする。 読陽明学派之革命思想賦似東国 愛我石束因。胸蔵天地奇。筆端雲雨起。桔上鬼神馳。 鈴木無隠が石崎東国宛て書簡でしばしば東国の出版活動を賞賛していた が、それを五言絶句にしたものである。このような詩は、文学作品として J¥ 鑑賞するというよりは、作者のこめた思いを素直にくみ取ればよいのであ

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