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『釈摩訶衍論』所説の本覚

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Academic year: 2021

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(1)

『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村)

    

『釈摩訶衍論』所説の本覚

 

 

 

抄録 『 大 乗 起 信 論 』 は 阿 梨 耶 識 に 覚 義・ 不 覚 義 の 二 種 を 開 示 し、 覚 に 本 覚 と 始 覚 を 設 け、 始 覚 と の 関 わ り と し て 不 覚、 そ し て 究 竟 覚 を 提 示 す る。 『 釈 摩 訶 衍 論 』 は 本 覚 と 始 覚 を 能 証 の 智 と し、 所 証 の 理 と し て の 真 如 と 虚 空 を 導 入 す る。 四 者 中の本覚と始覚は智の体と用、真如と虚空は理の体と用とみなすことができよう。また覚としての智の体・用に不変と 隨縁を設け、不変なる体としての本覚を清浄本覚、隨縁の体を染浄本覚とする。用としての不変は清浄始覚にして、隨 縁を染浄始覚とする。その一方で、理としての真如・虚空にも不変と隨縁を開き、体としての不変を清浄真如、隨縁を 染浄真如とする。同様に用としての不変を清浄虚空、 隨縁を染浄虚空とする理論を展開する。報告では、 本を本有法身、 覚 を 薩 般 若 慧 の 内 実 と す る 本 覚 の 解 釈 を 推 し 進 め る『 釈 摩 訶 衍 論 』 の 特 徴 に 言 及 す る と 共 に、 『 釈 摩 訶 衍 論 』 の 本 覚 が 空海の教学に与えた影響について考証する。

     

一、問題の所在

『大乗起信論』 (後に起信論と略す)所説の阿梨耶識は、 覚義 ・ 不覚義の二方面から論じられ、 覚義は本覚と始覚によっ て言及される。覚とは悟りの心のことであり、 心体が様々な妄念の相から離れていることで、 如来の平等法身と呼ばれ、 心 の 本 性 で あ る こ と か ら 本 覚 と も 別 称 さ れ る (1) 。 こ の 本 覚 に つ い て『 釈 摩 訶 衍 論 』( 後 に 釈 論 と 略 す ) は、 本 覚 の 語 を 一 語ずつを別釈し、本を本有法身、覚を薩般若慧とする特有の理解を推し進め る (2) 。また『起信論』の明かす離念相者につ

(2)

い て、 「 念 相 を 離 れ る と は 」 と い う 解 釈 に 収 め る こ と な く、 清 浄 本 覚 人( 者 ) と い う 離 念 相 の 体 現 者 < 離 念 相 者 > を 想 定 し た 人 格 的 な 解 釈 を 施 し て い る。 報 告 で は『 釈 論 』 の 説 示 す る 本 覚 に つ い て 検 討 す る と 共 に、 空 海 ( 7 7 4 ― 8 3 5) の教学に与えた影響についても触れることにしたい。

     

二、

『起信論』の覚に関する問題

前 述 し た よ う に『 起 信 論 』 は 阿 梨 耶 識 に 覚 義・ 不 覚 義 の 二 種 を 開 く。 さ ら に 覚 に 本 覚 と 始 覚 を 設 け、 始 覚 と の 関 連 で 不覚、そして究竟覚を併せて開示す る (3) 。 さ て『 釈 論 』 で あ る。 論 主 は 本 覚 に 清 浄 と 染 浄 を 設 け、 始 覚 に も 同 様 の 視 点 を 与 え て い る。 即 ち 本 覚 が 無 明 の 熏 習 を 受 け る 状 態 を 染 浄 本 覚 と 捉 え、 始 覚 で は 究 竟 覚 と 等 質 で あ る 清 浄 始 覚 に 対 し て、 相 似 覚・ 随 分 覚 等 の 染 浄 始 覚 を 論 じ る (4) 。さらには清浄本覚等の四種の覚は智の領域とし、新たに真如と虚空を構え、それらの理にも清浄・染浄両者からな る注釈を施している。 『起信論』が説示する覚としての本覚 ・ 始覚 ・ 不覚の三者に対しては、造論以降に様々な問題が提出されていたようで、 そ の よ う な 周 辺 の 事 情 が『 釈 論 』 に お け る 清 浄 本 覚 等 の 教 説 に 結 び つ い た の で は な い か、 と 推 測 さ れ る。 『 釈 論 』 所 説 の清浄始覚段には『起信論』撰述後の議論の一端を髣髴させる内容が散見する。 「 次 に 清 浄 始 覚 を 説 か ん。 何 を 以 て の 故 と は 則 ち 請 問 の 辞 な り。 謂 わ く 清 浄 始 覚 を 建 立 せ ん と 欲 っ て 是 く の 如 く の請を作す。 問 相、 云 何。 謂 わ く 衆 生 有 り て、 是 く の 如 く の 難 を 作 す。 本 有 法 身 は 本 従 り 已 来、 無 量 性 の 功 徳 を 具 足 し て、 常 恒 に 明 浄 に、 常 恒 に 自 在 な り。 此 の 義 に 依 る が 故 に 本 覚 と 名 づ く と 云 う は、 是 く の 如 く の 本 覚 は 何 れ の 時 の 中 に 於 い て、 何 れ の 因 縁 の 故 に か、 一 切 の 無 量 の 功 徳 を 具 足 す る を 本 覚 と 名 づ く る や。 若 し 是 の 説 を 作 し て、 此 の 本 覚 と は 大 智 力 有 り て、 能 善 く 一 切 の 過 患 を 断 除 し、 諸 の 功 徳 を 具 足 し 円 満 す と 云 う は、 則 ち 此 の 本 覚 は 前 に 惑 っ

(3)

『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) て、 後 に 覚 ら ば 本 覚、 明 に 非 ず。 即 ち 此 の 功 徳 は 断 ぜ ざ る 已 前 に は 隠 れ、 断 じ た る 已 後 に は 顕 わ る。 自 性、 明 に 非ず。豈に惑覚隠顕ならば、 本有の義而も成立為ることを得んや。若し是の説を作して、 常に断じて更に断ぜず、 常に具足して更に具足せず。是の故に本断本徳有るべしと云うは、 此の義亦た成立せず。功徳と過と無きが故に。 謂わく一切の障は本従り断じ訖って、更に断を待たず。一切の功徳は本従り具足して更に具足を待たず。 覚 る と 云 う は 即 ち 是 れ 始 覚 な り。 彼 の 本 覚 に は 非 ず。 是 の 故 に 般 若 波 羅 蜜 の 中 に 是 く の 如 く の 説 を 作 す。 若 し 覚 と 云 う は 是 れ 始 覚 な り。 若 し 不 覚 と 云 う は 則 ち 是 れ 無 明 な り。 若 し 此 の 二 つ を 離 れ た る を ば 即 ち 名 づ け て 本 覚 と 為すと。 何 の 義 を 以 て の 故 に か、 是 く の 如 く の 説 を 作 し て、 本 有 法 身 の 自 性 の 徳 の 中 に 而 も 帰 依 を 作 し て、 説 い て 本 覚 と 名 づ く る と。 故 に 何 を 以 て の 故 と 言 う。 本 覚 の 義 は 始 覚 に 対 し て 説 く と 云 う は 直 に 彼 の 疑 を 決 す (5) 。 < ゴ チ ッ ク は 起 信論の本文・以下同様 > ま ず ① 本 有 法 身 は、 本 来 無 量 の 功 徳 を 具 え、 常 に 明 浄 に し て 自 在 無 礙 で あ る。 そ の 本 有 法 身 が 内 実 と す る 本 覚 は、 何 時・ 何 の 因 縁 に よ っ て 無 量 の 功 徳 を 備 え る 本 覚 と 称 せ ら れ る の で あ ろ う か? 後 に 触 れ る 事 に な る が、 『 釈 論 』 は「 略 説 両覚安立門」において、本覚を本有法身の薩般若慧と規定す る (6) 。 ② も し 本 覚 が 大 智 力 を 有 し て、 あ ら ゆ る 過 患 を 断 除 し て、 無 量 の 功 徳 を 具 有 し 円 満 す る と さ れ る の で あ れ ば、 迷 乱 等 の惑の前には本覚はなく、惑を断尽した後に覚に至ることになる。その本覚を明ということはできない。また諸の功徳 が迷いの前には隠れ、断じた後に顕れるのであれば、本有の意味は成立しない。 次 に ③ 本 覚 を 本 断・ 本 徳 と い う 視 点 か ら、 常 に 断 じ 更 に 断 じ な い・ 常 に 具 足 し て 更 に 具 足 し な い と 捉 え る な ら ば、 本 覚の功徳の具有や過患の断除の性質が消失することになる。一切の障碍を本より断じ、あらゆる功徳を本より有してい ることを本覚という。   『釈論』は続いて『起信論』が提示する「覚(する) 」とは始覚のことであり、本覚ではないと断じる。また不覚とは

(4)

無明のことであり、始覚や無明から離れたものを本覚とみなす。論主は『起信論』の造論者の馬鳴師(菩薩)の意 向 (7) を 強 調 し な が ら「 清 浄 本 覚( 者 )」 や「 清 浄 始 覚 ( (8) 者 )」 の 解 釈 を 試 み る が、 一 連 の『 釈 論 』 の 態 度 に は、 『 起 信 論 』 が 抱 える問題を精査し、 『起信論』の趣旨を鮮明にしようする姿勢が窺われる。

     

三、

『釈論』にみられる特有の前置き

略 説 両 覚 安 立 門 と し て 開 か れ る 二 門 < 字 事 門・ 随 釈 門 > 中 の 字 事 門 に 説 か れ る 清 浄 本 覚・ 染 浄 本 覚・ 清 浄 始 覚・ 染 浄始覚について確認することにしよう。 「 一 に は 略 説 本 覚 安 立 門、 二 に は 略 説 始 覚 安 立 門 な り。 本 覚 門 の 中 に 則 ち 二 門 有 り。 云 何 が 二 と 為 る。 一 に は 清 浄 本 覚 門、 二 に は 染 浄 本 覚 門 な り。 始 覚 門 の 中 に 又 二 門 有 り。 云 何 が 二 と 為 る。 一 に は 清 浄 始 覚 門、 二 に は 染 浄 始 覚 門 な り。 云 何 が 名 づ け て 清 浄 本 覚 と 為 る。 本 有 法 身 は 無 始 従 り 来、 過 恒 沙 の 徳 を 具 足 し 圓 満 し て、 常 に 明 浄 な る が 故 に。 云 何 が 名 づ け て 染 浄 本 覚 と 為 る。 自 性 浄 心 は 無 明 の 熏 を 受 け て、 生 死 に 流 転 し て 断 絶 無 き が 故 に。 云 何 が 名 づ け て 清 浄 始 覚 と 為 る。 無 漏 の 性 智 は 一 切 無 量 の 無 明 を 出 離 し て、 一 切 の 無 明 の 熏 を 受 け ざ る が 故 に。 云何が名づけて染浄始覚と為る。始覚の般若は無明の熏を受けて、離るること能わざるが故 に (9) 。」   清浄本覚とは、本有法身が無始以来、無量の徳を具足円満して、しかも明浄であることを表わす。染浄本覚は、自性 清 浄 心 が 無 明 の 熏 習 を 受 け て、 生 死 に 流 転 し 断 絶 す る こ と が な い 相 で あ る。 清 浄 始 覚 は、 無 漏 の 性 智 が 無 明 か ら 離 れ、 決して無明の熏習を受けることがないことをいう。染浄始覚は始覚の般若の智慧が無明の熏習を受ける様相を明かす。 『 釈 論 』 に は、 清 浄 本 覚・ 染 浄 本 覚・ 清 浄 始 覚・ 染 浄 始 覚 の 四 覚 に 併 せ て、 清 浄 真 如・ 染 浄 真 如・ 清 浄 虚 空・ 染 浄 虚 空が施設される。 「 是 く の 如 く の 諸 覚 は 皆、 智 の 眷 属 な り。 当 さ に 何 れ の 理 を 証 じ て か、 以 て 体 分 と 為 る。 謂 わ く 性 真 如 と 及 び 虚 空 と の 理 な り。 是 く の 如 く の 二 理 に、 各 幾 く 種 か 有 る。 各 二 種 有 る が 故 に。 云 何 が 名 づ け て 二 種 の 真 如 と 為 る。

(5)

『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) 一 に は 清 浄 真 如、 二 に は 染 浄 真 如 な り。 虚 空 の 理 も 亦 た 復 た 是 く の 如 し。 云 何 が 名 づ け て 清 浄 真 如 と 為 る。 二 種 の 浄 覚 か。 所 証 の 真 如 は 熏 習 を 離 れ た る が 故 に。 云 何 が 名 づ け て 染 浄 真 如 と 為 る。 二 の 染 浄 覚 か。 所 証 の 真 如 は 熏を離れざるが故に。虚空の理も亦た復た是くの如 し )(1 ( 。」 清 浄 本 覚 等 の 四 覚 は 真 実 相 の 理 を 証 得 す る 智 に 配 さ れ、 四 種 の 智 に よ っ て 証 得 さ れ る 理 と し て 真 如 や 虚 空 の 理 が 導 入 されている。この真如・虚空の理には本覚や始覚と同様にそれぞれ清浄・染浄の二面が明かされる。清浄真如は無明の 熏習を離れ、染浄真如は無明の熏習から離れることがない。同様に清浄虚空は無明の熏習を離れ、染浄虚空は無明の熏 習から離れることがない。 こ れ ま で を 整 理 す る と 以 下 の よ う に な ろ う。 本 覚 と 始 覚 は 能 証 の 智 に し て、 真 如 と 虚 空 は 所 証 の 理 で あ る。 ま た 本 覚 と始覚は智の体と用、真如と虚空は理の体と用の関係にある。覚としての智の体・用には不変と隨縁がある。不変なる 体としての本覚が清浄本覚、隨縁としての体が染浄本覚となる。また用としての不変が清浄始覚、隨縁が染浄始覚であ る。一方、理として体用の関係にある真如・虚空にも不変と隨縁がある。体(真如)としての不変は清浄真如、隨縁は 染浄真如にして、用(虚空)としての不変が清浄虚空、隨縁が染浄虚空である。 引 き 続 い て『 釈 論 』 の 論 主 が 提 唱 す る 本 覚・ 始 覚・ 真 如・ 虚 空 に つ い て、 検 討 す る こ と に し た い。 『 釈 論 』 は 本 覚 等 について、字事差別という特有の解釈方法を提供する。即ち本覚を本と覚とに分類し、字と事による理解を試みるので ある。 因 み に 宥 快 ( 1 3 4 5 ― 1 4 1 6) は『 釈 摩 訶 衍 論 鈔 』 で 本 覚 の 字 事 差 別 を 詳 述 す る 部 分 に つ い て「 此 の 一 段 は 清 浄 本覚の釈段な り )(( ( 。」と明かし、清浄本覚と見做す。 「字事差別」に関しては 「宗の差別とは、末師普観の釈に云わく、宗即名字とは謂わく即ち能詮。事即義とは謂わく即ち所詮なり 文   此 の 意 は 字 と は 名 字 即 ち 本 と 名 づ け 覚 と 名 づ け る は 能 詮 の 名 な り。 事 と は 彼 の 本 と 覚 と の 詮 ず る 所 の 事 の 義 と 意 得するな り )(1 ( 。」

(6)

と釈し、字は能詮の名にして、事とは所詮の義理と解している。本覚からはじめよう。 「何の義を以ての故にか、強ちに本覚と名づくる。字事差別、其の相云何。頌に曰く 本と覚とに各の十有り   体は同なりと雖も字と事と   各各差別の故に   謂わく根鏡等の義なり 論 じ て 曰 く 本 と 覚 と に 各 十 あ り。 云 何 が 十 本 と す る。 一 に は 根 字 事 本。 本 有 法 身 は 能 善 く 一 切 の 功 徳 を 住 持 す る こ と、 譬 え ば 樹 根 の 能 善 く 一 切 の 枝 葉 及 び 花 果 等 を 住 持 し て 壊 失 せ ざ る が 如 く な る が 故 に。 二 に は 本 字 事 本。 本 有 法 身 は 無 始 従 り 来、 自 然 性 有 に し て 始 め て 起 せ ざ る が 故 に。 三 に は 遠 字 事 本。 本 有 法 身 は 其 の 有 徳 の 時、 重 重 久遠にして分界無きが故に。四には自字事本。本有法身は我自ら我を成じて、 他自ら我を成ずるに非ざるが故に。 五 に は 体 字 事 本。 本 有 法 身 は 諸 の 枝 徳 の 為 に 依 止 と 作 る が 故 に。 六 に は 性 字 事 本。 本 有 法 身 は 不 転 の 義、 常 に 建 立 す る が 故 に。 七 に は 住 字 事 本。 本 有 法 身 は 無 住 に 住 し て 去 来 無 き が 故 に。 八 に は 常 字 事 本。 本 有 法 身 は 決 定 実 際にして流転無きが故に。 九には堅字事本。 本有法身は風相を遠離して、 堅固不動なること金剛の若くなるが故に。 十には総字事本。本有法身は広大圓満にして徧ぜざる所無く、通体為るが故に。是を名づけて十と為 す )(1 ( 。」   本を本有法身の内実とする。 ① あらゆる功徳を住持すること。②無始より自然に具有する性徳であること。③有徳の 久 遠 な る こ と と 際 限 無 き こ と。 ④ 本 有 法 身 自 ら 我( 本 有 法 身 ) を 生 じ て 成 立 す る こ と。 ⑤ 諸 の 徳 の 拠 り 所 で あ る こ と。 ⑥自性を守り不改であること。 ⑦無住に住し無去来であること。 ⑧決定せる実際にして妄りに流転することのないこと。 ⑨本末の無明の風相を遠離し堅固不動にして金剛なること。 ⑩ 広大円満にして普く周遍していること、等を紹介する。   本 覚 の 本 に つ い て、 通 法 ( 1 0 6 2 ― 1 0 9 9 頃 ) は『 釈 摩 訶 衍 論 賛 玄 疏 』 で「 初 め の 本 の 十 義、 本 の 事 は 偏 え に 法 身 の 体 に 就 い て 解 す )(1 ( 文 」 と し、 本 と 覚 を 相 望 し て 本 の 十 種 の 義( 事 ) は 法 身 の 体 と す る。 同 様 の 説 は 慈 行 ( 1 0 6 2 ― 1099頃) の『釈摩訶衍論通玄鈔』にも看取され「本 ・ 真は是れ体、覚 ・ 如は用と為すを以ての故 に )(1 ( 」と解している。 本 覚 と 真 如 に 関 し て は、 本 と 真 は 体、 覚 と 如 を 用 と 捉 え る。 本 覚 を 本 と 覚 に 分 節 す る 解 釈 は、 法 蔵 ( 6 4 3 ― 7 1 2) に散見する。 『大乗起信論義記』には左記のようにある。

(7)

『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) 「 本 覚 は 性 功 徳 に 約 し て 説 く。 謂 わ く 大 智 慧 光 明 義 等 を 本 覚 と 名 づ く が 故 に。 本 と は 是 れ 性 の 義、 覚 と は 是 れ 智 慧の義なり。 」 さて『釈論』は「覚」にも「本」と同じように十種の義を説き示す。 「 云 何 が 十 覚 と す る。 一 に は 鏡 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 清 浄 明 白 に し て 塵 累 無 き が 故 に。 二 に は 開 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 通 達 顕 了 に し て 障 礙 無 き が 故 に。 三 に は 一 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 独 尊 独 一 に し て 比 量 無 き が 故 に。 四 に は 離 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 自 性 解 脱 し て 一 切 の 種 種 の 縛 を 出 離 す る が 故 に。 五 に は 満 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 無 量 の 種 種 の 功 徳 を具足して少けたる所無きが故に。 六には照字事覚。 薩般若慧は大光明を放ちて、 徧く一切無量の境を照すが故に。 七 に は 察 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 常 恒 に 分 明 に し て 迷 乱 無 き が 故 に。 八 に は 顕 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 清 浄 の 体 の 中 に 浄 品 の 眷 属 悉 く 現 前 す る が 故 に。 九 に は 知 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 一 切 の 法 に 於 い て 窮 め ざ る こ と 無 き が 故 に。 十 に は 覚 字 事 覚。 薩 般 若 慧 は 所 有 の 功 徳、 唯 し 覚 照 の み 有 り て 一 一 の 法 と し て 覚 に 非 ざ る こ と 無 き が 故 に。 是 れ を 名 づ け て 十 と 為 す。 是 く の 如 く の 十 種 の 本 と 覚 と の 字 義 は 唯 し 一 種 の 大 性 法 身 に 依 り て、 義 に 随 う て 異 釈 す。 其 の 自 体 に 據 れ ば 別 な る こ と 無 し ま く の み。 此 の 中 の 所 説 は 二 つ の 本 覚 の 中 に は 何 の 本 覚 に か 当 る。 謂 わ く 清 浄 本 覚 な り。染浄本覚には非 ず )(1 ( 。」   覚は薩般若慧を内容とする。薩般若慧にも十種の性質が見られる。 ➀ 清浄・明白であること。②あらゆることに通達 し 顕 了 に し て 障 碍 な き こ と。 ③ 唯 一 独 尊 で 無 比 量 な る こ と。 ④ 自 性 と し て 解 脱 し、 あ ら ゆ る 束 縛 か ら 離 れ て い る こ と。 ⑤無量の功徳を具有し円満なること。⑥大光明によってすべての無量の境地を照らしていること。⑦常恒に明瞭にして 迷乱がないこと。⑧清浄の体から清浄なる属性を派生すること。⑨諸法を究め尽くすこと。 ⑩ 覚照のみ所有すること等 が、薩般若慧として開示されている。 「 覚 」 の 十 義 に つ い て、 普 観( 生 没 年 不 詳 ) は『 釈 摩 訶 衍 論 記 』 に お い て 多 様 な 理 解 を 披 露 す る。 ひ と つ に は 十 種 を 苦集滅道の四諦に配する。即ち⑨知は無量の「苦」に通達すること、 ➀ 鏡②開④離⑦察の四種義は無量の「集」を断除

(8)

すること、⑤満⑧顕は無量の「道」を修すこと、③一⑥照 ➉ 覚は甚深なる寂「滅」の理を証すること、に配してい る )(1 ( 。 十 本 十 覚 に つ い て 普 観 は「 能 詮 の 名 字、 所 詮 の 事 義 は 各 に 不 同 と 雖 も、 然 も そ の 所 依 の 本 性 法 身 自 体 は 一 味 に し て 差 別なき 故 )(1 ( 」と述べ、 十種の本と十種の覚は、 本性法身(=本有法身)の内実であり、 義理によって様々に解釈されるが、 唯一無二なる本体にして別体が存在するわけではない、と説明する。 『 釈 論 』 が『 起 信 論 』 に い う 離 念 相 者 を「 念 相 を 離 れ る と は 」 に 留 め る こ と な く、 「 念 相 を 離 れ る 者 」 と し て 人 格 を 有 す る 清 浄 本 覚 者( 人 ) と す る 特 徴 に つ い て は、 既 に 指 摘 し た )11 ( 。『 釈 論 』 は『 起 信 論 』 所 説 の「 覚 体 相 者。 有 四 種 大 義 )1( ( 」 においても「覚の体相とは」と共に「覚の体相の者に、 四種の大の義有 り )11 ( 」と釈する対応をみせる。普観は「覚の十種」 と広説性浄本覚門で論じられる四種大鏡を関連させる解釈も提供する。 『釈摩訶衍論記』には 「 斯 の 十 覚、 四 鏡 に 摂 す べ し。 鏡・ 開・ 離・ 察 は 即 ち 法 出 離、 塵 を 遠 く し 礙 を 離 れ 迷 無 く 淳 浄 明 な る が 故 に。 満・ 顕 の 二 義 は 即 ち 因 熏 習、 種 々 の 徳 や 浄 品 の 眷 属 を 具 し て 法 身 の 果 を 厳 か に し 衆 生 を 熏 ず る が 故 に。 一・ 覚 は 即 ち 如 実 空 鏡 を 摂 す、 独 一 に し て 倫 い な く 唯 だ 覚 照 有 り て 一 切 の 心 境 界 の 相 を 遠 離 し て 法 と し て 現 ず べ き こ と 無 く 覚 照 に 非 ざ る が 故 に。 照・ 知 即 ち 是 れ 縁 熏 習 鏡、 徧 く 諸 境 を 照 ら し て 一 切 の 法 を 知 り 衆 生 の 念 に 随 う て 能 く 示 現 す るが故 に )11 ( 」 とある。つまり十覚中の ➀ 鏡②開④離⑦察は四種大鏡中の「法出離鏡」に相応する。塵や障礙を遠離し、迷妄は無く淳 浄 明 で あ る か ら で あ る。 ⑤ 満 ⑧ 顕 の 二 種 は「 因 熏 習 鏡 」。 諸 の 徳 や 浄 品 の 属 性 を 具 え、 法 身 の 証 果 に よ っ て 衆 生 に 熏 習 す る か ら で あ る。 ③ 一 ⑩ 覚 は「 如 実 空 鏡 」、 独 一 に し て 比 類 な く 覚 照 の み で あ り、 あ ら ゆ る 心 境 界 の 相 を 遠 離 し、 法 と して現ずべきことも無いためである。⑥照⑨知は「縁熏習鏡」である。諸境を普く照らして一切の法に通達し、衆生の 随念によりて示現するためである、と論述する。 と こ ろ で『 釈 論 』 の 造 論 者 は、 『 起 信 論 』 の「 念 相 を 離 れ た る と は、 虚 空 界 に 等 じ て 徧 ぜ ざ る 所 な く、 法 界 と 一 相 な

(9)

『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) り )11 ( 」という文を通じて、智に対する理としての性真如の理と虚空の理を新たに導き出し、性真如に清浄真如 ・ 染浄真如、 虚空に清浄虚空・染浄虚空の二種を設けることを提案する。その真如についてである。 「何の義を以ての故にか、強ちに真如と名づくる。字事差別、其の相云何。頌に曰く   性真如の理体は   平等平等にして一なり   一多の相有ること無し   故に名づけて真如と為す 論じて曰く、 性真如の理は平等平等にして、 唯し同一相なり。亦た一相も無く亦た多相も無し。一相無きが故に、 同縁を遠離し、 多相無きが故に、 異縁を遠離す。此の義を以ての故に、 名づけて真如と為す。是くの如くの真如は、 二種の浄智が親たり内証する所なり。   復 た 次 に 真 如 に 各 の 十 義 有 り。 云 何 が 十 真 と 為 る。 一 に は 根 字 事 真 乃 至 第 十 に は 総 字 事 真 な り。 是 く の 如 く の 十 真 は、 十 種 の 本 の 義 と 相 応 俱 有 に し て 相 い 捨 離 せ ず。 是 の 故 に 同 名 を 表 示 す ま く の み。 云 何 が 十 如。 一 に は 鏡 字 事 如 乃 至 第 十 に は 覚 字 事 如 な り。 是 く の 如 く の 十 如 は、 十 種 の 覚 の 義 と 相 応 倶 有 に し て 相 い 捨 離 せ ず。 是 の 故 に 同 名 を 表 示 す ま く の み。 所 以 何 と な れ ば、 十 種 の 真 理 は 本 有 法 身 の 有 徳 の 方 便 な り。 十 種 の 如 理 は 薩 般 若 慧 の 有 覚 の 方 便 な り。 此 の 義 を 以 て の 故 に、 更 に 言 詞 を 重 ね て 是 く の 如 く の 示 を 作 す。 此 の 中 の 所 説 は 二 の 真 如 の 中 に は 何 れ の 真 如 に か 当 る。 謂 わ く 清 浄 真 如 な り。 染 浄 真 如 に は 非 ず。 染 浄 真 如 の 字 事 差 別、 其 の 相 云 何。 頌 に 曰 く   清浄真如の理   自性を守らざるが故に   而も能く染熏を受くるを   染浄真如と名づく 論 じ て 曰 く、 清 浄 真 如 は 無 始 従 り 来、 平 等 平 等 に し て 自 性 清 浄 な り。 不 生 不 滅 に し て 亦 た 去 来 も 無 く、 亦 た 住 所 も 無 し。 而 も 真 如 の 理 性、 自 性 を 守 ら ざ る が 故 に、 縁 に 随 う て 動 転 す。 是 の 故 に 名 づ け て 染 浄 真 如 と 為 す。 是 く の 如 く の 真 如 は、 二 染 浄 智 が 親 た り 内 証 す る 所 な り。 相 応 俱 有 に し て 相 い 捨 離 せ ず。 是 く の 如 く 等 の 義 は、 前 の 所説を観て比類して知んぬべ し )11 ( 。」 真 の 十 義 は 本 の 十 義 と、 如 の 十 義 も 覚 の 十 義 に 相 応 す る。 十 種 の 真 理 を 本 有 法 身 の 有 徳 の 方 便 と し、 十 種 の 如 理 を 薩

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般 若 慧 の 有 覚 の 方 便 と 扱 う 点 に 特 徴 が 認 め ら れ る。 真 如 か ら 派 生 し 理 性 が 自 性 を 守 ら な い た め に 無 明 等 の 熏 習 の 縁 に 随 っ て 動 じ 転 ず る こ と を 染 浄 真 如 と み な す。 性 真 如 の 理 体 の 説 相 と し て『 釈 論 』 が し ば し ば 用 い る「 平 等 平 等 に し て 」 という表現がみられることに注目しておきたい。続いて清浄虚空・染浄虚空である。 「何の義を以ての故にか、強ちに虚空と名づくる。字事差別、其の相云何。頌に曰く   虚空に十義有り   体は同なりと雖も義事   各各差別の故に   謂わく無礙等の義なり 論 じ て 曰 く、 性 虚 空 の 理 に 十 種 の 義 有 り。 云 何 が 十 と 為 る。 一 に は 無 障 礙 の 義。 諸 の 色 法 の 中 に お い て 障 礙 無 き が 故 に。 二 に は 周 徧 の 義。 至 ら ざ る 所 無 き が 故 に。 三 に は 平 等 の 義。 簡 択 無 き が 故 に。 四 に は 広 大 の 義。 分 際 無 き が 故 に。 五 に は 無 相 の 義。 色 相 を 絶 つ が 故 に。 六 に は 清 浄 の 義。 塵 累 無 き が 故 に。 七 に は 不 動 の 義。 成 壊 無 き が 故 に。 八 に は 有 空 の 義。 有 量 を 滅 す る が 故 に。 九 に は 空 空 の 義。 空 著 を 離 れ た る が 故 に。 十 に は 無 得 の 義。 執 す る こ と 能 わ ざ る が 故 に。 是 れ を 名 づ け て 十 と 為 す。 是 く の 如 く の 十 事 は 義 用 の 差 別 な り。 若 し 其 の 体 に 據 れ ば 別 無 し ま く の み。 此 の 虚 空 の 理 は、 二 種 の 浄 智 が 親 た り 内 証 す る 所 な り。 相 応 俱 有 に し て 相 い 捨 離 せ ず。 二 の 虚 空 の 中 に は 何 れ の 虚 空 に か 当 る。 謂 わ く 清 浄 虚 空 に し て 染 浄 虚 空 に は 非 ず。 染 浄 虚 空 の 字 事 差 別、 其 の 相 云 何。 頌に曰く   清浄虚空の理   自性を守らざるが故に   而も能く染熏を受くるを   染浄虚空と名づく 論じて曰く、 清浄虚空は十徳を具足して、 亦た染相も無く亦た浄相も無し。而も虚空の性、 自性を守らざるが故に。 能く染熏を受けて縁に随うて流転す。是の故に名づけて染浄虚空と為 す )12 ( 。」 清 浄 虚 空 に は、 ① 無 障 礙 ② 周 徧 ③ 平 等 ④ 広 大 ⑤ 無 相 ⑥ 清 浄 ⑦ 不 動 ⑧ 有 空 ⑨ 空 空 ➉ 無 得 等 の 諸 徳 が 列 挙 さ れ る。 染 浄 虚 空は清浄虚空の理が自性を守らないために、染熏の縁に随って流転する相とする。 『 釈 論 』 は、 本 論 の『 起 信 論 』 或 い は 自 ら の 註 釈 に 関 し て、 様 々 な 議 論 が 生 ず る で あ ろ う こ と に つ い て「 能 熏 所 熏 建 立 誹 謗 等 の 種 種 の 門 は、 広 説 分 に 至 り て 其 の 理、 具 さ に 顕 れ ん )11 ( 。」 と 触 れ、 広 説 分( 随 文 解 釈 門 ) に お い て、 詳 細 に 扱

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『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) い論じることを明記している。

     

四、清浄本覚と清浄始覚

(覚義の随文解釈門)

『起信論』 の随文解釈に先立って本覚 ・ 始覚に関する 『釈論』 の論主による特有の解釈を披露したのが本覚 (清浄本覚) ・ 染 浄 本 覚・ 始 覚( 清 浄 始 覚 )・ 染 浄 始 覚 な ど の「 字 事 差 別 」 門 で あ っ た。 随 釈( 随 文 解 釈 ) 門 で は「 覚 」 に 関 し て 具 体 的に論主の理論を披露することになる。 「 言 う 所 の 覚 の 義 と は 則 ち 是 れ 総 句 な り。 此 れ 従 り 已 下 は、 皆 是 れ 別 句 な り。 総 と は 通 じ て 一 切 の 覚 を 表 す る が 故 に。 別 と は 各 各 差 別 に 説 く が 故 に。 別 句 の 中 に 就 い て、 先 づ 清 浄 本 覚 と 清 浄 始 覚 と を 説 き、 次 に 染 浄 本 覚 と 染 浄始覚とを説く。其の次第の如く説相見つべ し )11 ( 。」 『 起 信 論 』 に は 覚 を 巡 る 多 様 な 解 釈 即 ち 覚・ 不 覚・ 本 覚・ 始 覚・ 相 似 覚・ 随 分 覚・ 究 竟 覚 等 が 論 述 さ れ る。 こ れ ら の 覚 の 諸 相 を 踏 ま え な が ら、 『 釈 論 』 は 清 浄 本 覚・ 染 浄 本 覚・ 清 浄 始 覚・ 染 浄 始 覚 や 清 浄 真 如・ 染 浄 真 如、 清 浄 虚 空・ 染 浄虚空を施設した考証を展開することになる。 ま ず 心 体 が 念 相 を 離 れ て い る こ と を 清 浄 本 覚 と す る。 心 と は 自 性 清 浄 心 で あ り、 そ の 体 を 本 有 法 身 と し、 自 性 清 浄 な る本有法身を本覚と定義する。清浄本覚は無明の念を離れ、生相 ・ 住相 ・ 異相 ・ 滅相の四相及び五有為法も離れている。 「 謂 わ く 心 体 は 念 相 を 離 る と は 即 ち 是 れ 清 浄 本 覚 な り。 心 は 謂 わ く 則 ち 是 れ 自 性 清 淨 心。 体 は 謂 わ く 即 ち 是 れ 本 有 法 身 の 体 な り。 是 く の 如 く の 心 体 を 即 ち 本 覚 と 名 づ く。 念 相 を 離 る と は 則 ち 是 れ 清 浄 の 義 を 顕 示 す。 所 謂 大 無 明 念 を 遠 離 す る が 故 に、 離 念 と 言 う。 四 種 の 無 常 の 相 を 遠 離 す る が 故 に 離 相 と 言 う。 過 於 恒 沙 の 煩 悩 の 眷 属 は、 此 の 五 有 為 を 以 て 根 本 と 為 す。 是 の 故 に 本 の 無 を 挙 げ て 末 の 眷 属 の 皆 空 な る こ と を 示 す。 念 相 を 離 れ た る 者 と は 即 ち 清 浄 本 覚 の 人 を 唱 う る 辞 な り。 者 と 云 う は 即 ち 人 な る が 故 に。 虚 空 界 に 等 し く 徧 ぜ ざ る 所 無 し と は 是 く の 如 く の 覚 者 は、 善 く 十 種 の 徳 義 を 具 足 せ る 虚 空 の 理 を 証 す る が 故 に。 法 界 一 相 と は 是 く の 如 く の 覚 者 は、 所 証 の 真

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如 法 界 に 於 い て 而 も 共 に 和 合 し て、 一 味 一 相 に し て 差 別 無 き が 故 に。 即 ち 是 れ 如 来 の 平 等 法 身 と は 善 く 二 種 の 勝 妙 の 理 を 証 す る 清 浄 覚 者 は 即 ち 是 れ 法 身 如 来 の 自 性 自 体 な る が 故 に。 此 の 法 身 に 依 り 説 い て 本 覚 と 名 づ く と は 本 有法身の自性の徳の中に而も帰依を作して、清浄本覚の称を建立するが故 に )11 ( 。」 『 釈 論 』 は 先 に 触 れ た よ う に、 念 相 を 離 れ た 心 体 と し て の 清 浄 本 覚 と 共 に、 清 浄 本 覚 の 体 現 者 そ の「 人 」 を 設 定 す る。 則ち『起信論』に説く「離念相者」を①念相を離れることと併せて、②念相を離れた当事者である清浄本覚の人を想定 する。清浄本覚の覚者は清浄虚空の十種の理に通達しており、真如法界の理をも体して、一相にして差別なき存在であ る。このような清浄覚者は、法身如来の自性そのものである。そして本有法身の自性の徳に、帰依の意も含めて清浄本 覚と称している。通法は『釈摩訶衍論賛玄疏』で「自性の徳に依りて浄覚の名を立 つ )11 ( 」と解している。また慈行は『釈 摩訶衍論通玄鈔』で 「 法 身 は 唯 だ 是 れ 所 依 の 体、 覚 は 則 ち 但 し 能 依 の 用 と 為 す。 本 は 即 ち 二 に 通 じ 身 に 望 む。 法 身 は 刀 の 如 し、 本 の 義は刃の如し、覚の義は斫る如し、或いは説く、刃斫斉しく一刀に依る と )1( ( 。」 と あ る よ う に、 法 身 と 覚 と 本 を 分 節 し、 所 依 の 体・ 能 依 の 用、 そ し て 体 用 に 通 じ る と 釈 す る。 つ ま り 法 身 を 刀 に 譬 え、 本は刃にして、覚は斫る作用と捉える。或いは刃と斫る作用はともに法身を所依とするとの理解も示す。普観は『釈摩 訶衍論記』で 「 謂 わ く 身 と 覚 と 互 い に 相 依 す る に 由 り て 性 の 法 身 に 由 り て 立 つ。 覚 有 る に 由 る が 故 に、 説 い て 法 身 と 名 づ く。 復 た 法 身 に 由 り て 説 い て 本 覚 と 名 づ く、 本 有 法 身 の 性、 光 明 覚 照 の 徳 用 を 具 し て、 是 く の 如 く の 勝 用 に 帰 附 し 依 憑して、方に本覚の名称を建立することを 得 )11 ( 。」 と、法身と本覚の相依なる関係を示唆する。本有法身の性徳は、光明や覚照の徳や用を具有すること、その勝用に帰順 し依憑して本覚の呼称が与えられると補足している。 那須政隆師 (1894―1987) は『釈摩訶衍論講義』において、特に普観の『釈摩訶衍論記』を注目し

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『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) 「 本 覚 の 相 用 は 法 身 の 徳 に 依 っ て 起 こ る か ら、 今 の 論 文 は、 本 有 法 身 の 自 性 の 徳 の 中 に、 而 も 帰 依 を 作 し て 本 覚 の 名 を 立 つ と 解 し た の で あ る。 な お『 記 』 三 の 釈 に「 身 と 覚 と 互 い に 相 依 す る に 由 り て 」 と あ る は、 法 身 の 理 体 と本覚の智用との相依関係の深旨を示すものにして、含味すべきであ る )11 ( 。」 と、本覚の無量なる功徳や作用は本有法身の徳に基づいて生起するので、その法身の徳に帰依を示すことを本覚とする といわれ、法身と本覚の相依なる関係への想いを綴られている。   尚、 『釈論』は清浄始覚の項においても、本有法身と本覚の関係について言葉を重ねている。 「 覚 る と 云 う は 即 ち 是 れ 始 覚 な り。 彼 の 本 覚 に は 非 ず。 是 の 故 に 般 若 波 羅 蜜 の 中 に 是 く の 如 く の 説 を 作 す。 若 し 覚 と 云 う は 是 れ 始 覚 な り。 若 し 不 覚 と 云 う は 則 ち 是 れ 無 明 な り。 若 し 此 の 二 つ を 離 れ た る を ば 即 ち 名 づ け て 本 覚 と 為 す と。 何 の 義 を 以 て の 故 に か、 是 く の 如 く の 説 を 作 し て、 本 有 法 身 の 自 性 の 徳 の 中 に 而 も 帰 依 を 作 し て、 説 いて本覚と名づくる と )11 ( 。」   覚するとは始覚であり本覚ではないこと、則ち覚とは始覚、不覚とは無明、覚と不覚の両者を離れたものを本覚とす ると峻別する。その上で本有法身の自性の徳の中に帰依を作すことを本覚とすると明言する。通法も『釈摩訶衍論賛玄 疏』で「法身自性の徳に帰投し依託して説いて本覚と名づ く )11 ( 」と釈している。 『 釈 論 』 の 論 主 は『 起 信 論 』 の 造 論 者 で あ る 馬 鳴 菩 薩 の 意 向 と 断 り な が ら、 清 浄 本 覚 は 本 よ り 不 生 不 滅 に し て 建 立 の 有になく、 誹謗の無にもなく、 過患や功徳からも離れている。言断心滅の覚であり、 しかも言説により表現するならば、 無量無辺の性徳を具備することを本覚とし、その体現者を清浄本覚者(人)と呼ぶ。それは清浄始覚者に対する呼称で あると繰り返すことになる。 「謂わく馬鳴師、 自ら通じて言たまわく、 清浄本覚は本従り已来、 不生不滅にして建立の有に非ず、 誹謗の無に非ず。 或 い は 過 患 に 非 ず、 或 い は 功 徳 に 非 ず。 言 語 道 絶 し、 心 行 処 滅 せ り。 而 も 言 説 有 っ て、 過 於 恒 沙 の 無 量 の 性 徳 を 具足し、圓満せるを本覚と名づくといえるとは、当さに知るべ し )12 ( 。」

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『 釈 論 』 は 清 浄 始 覚 に 関 し て、 次 の よ う に 説 明 す る。 無 始 よ り 大 智 力 や 大 定 力 を 生 じ て、 一 切 時・ 一 切 処 に お い て 無 量無辺の過患を対治して、無量の功徳を具足し円満している。清浄始覚を体解した者に相対するものとして、清浄本覚 (者)を設けている。 「 無 始 従 り 来、 而 も 清 浄 始 覚 有 り て、 大 智 力 を 発 し 大 定 力 を 発 し て、 一 切 時 に 於 い て 一 切 処 に 於 い て、 常 恒 に 過 於 恒 沙 の 無 量 無 辺 の 過 患 の 海 を 対 治 し、 過 於 恒 沙 の 無 量 無 辺 の 功 徳 浄 品 を 具 足 し 圓 満 せ り。 此 の 清 浄 始 覚 者 に 対 するが故に、彼の清浄本覚の称を立つ。始覚とは則ち本覚に同なるを以てなりとは其の所由を作 す )11 ( 。」 清 浄 本 覚 と 清 浄 始 覚 の 両 覚 は、 能 熏 の 染 法 は い う ま で も な く 所 熏 の 浄 法 さ え も 離 れ 絶 し て お り、 真 実 な る 無 量 無 辺 の 功 徳 の み 有 し て い る。 い う な れ ば 本 覚 も 本 有、 始 覚( 清 浄 始 覚 ) も 本 有 に し て、 能 熏 の 染 法 も 所 熏 の 浄 法 も な く し て、 功徳の熏習のみ実在する。 こ の 清 浄 本 覚 や 清 浄 始 覚 が 自 性 を 守 ら な い 相 と し て、 離 性 の 本 覚・ 離 性 の 始 覚 と し て 染 浄 本 覚・ 染 浄 始 覚 は 設 け ら れ る。本覚の般若が自性を守れずに染法の熏習をうける。いわゆる染浄本覚である。同様に始覚の般若が自性を守らずに 諸の染法の相を示すことを染浄始覚とする。ところで始覚の般若は、よく諸障を断じて諸の功徳を証するという。始覚 の般若は、妄法から極解脱の際に漸く離れて、無念即ち清浄始覚に至ることになる。

     

五、

『釈論』の本覚と空海教学

  空 海 は『 即 身 成 仏 義 』 に お い て、 『 起 信 論 』 及 び『 釈 論 』 が 唱 え る 体・ 相・ 用 の 三 大 説 の 概 念 を 参 照 し な が ら 即 身 成 仏思想を構築したことが言われる。 「此の二頌八句を以て即身成仏の四字を歎ず < 中略 > 初の一頌は即身の二字を歎じ次の一頌は成仏の両字を歎ず、 初の中に又四あり、初の一句は体二には相三には用四には無碍な り )11 ( 」 即 身 成 仏 の 偈 頌 で あ る「 二 頌 八 句 」 の 前 半 の 一 頌 四 句 は 即 身、 後 半 の 一 頌 四 句 は 成 仏 に 大 別 さ れ る。 「 即 身 」 中 で は、

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『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) 六大無碍常瑜伽は体、四種曼荼各不離は相、三密加持速疾顕は用、重重帝網名即身は無碍に配せられている。空海は体 において六大を能生とし、四種法身や三種世間などの一切の佛と衆生世間などを所生と説く。体・相・用の無碍に相当 する「重重帝網名即身」では、身として我身 ・ 仏身 ・ 衆生身や自性身 ・ 受用身 ・ 変化身 ・ 等流身を取り挙げてい る )11 ( 。「成 仏」として開かれるのが「法然具足薩般若」以下であり、一切智智としての薩般若の相について論及する。このように 眺 め て く る と「 二 頌 八 句 」 の 即 身 と 成 仏 の 教 理 的 背 景 と し て、 『 釈 論 』 が 示 唆 し、 そ れ ぞ れ に 十 種 の 性 徳 を 内 実 と す る 本有法身や薩般若慧を想定することは難しいことではない。併せて空海の本覚に対する理解も、即身成仏の理論にも繋 がり得る本有法身の薩般若慧とみなすこともできよう。ともあれ『釈論』は『起信論』にいう「離念相者」を清浄本覚 の人とし、法身如来の自性自体とみなし、本有法身の自性の徳に帰依することを清浄本覚或いは本覚と捉えていた。   空 海 の 本 覚 に 関 す る 意 向 は『 声 字 実 相 義 』 の「 も し 衆 生 も ま た 本 覚 法 身 あ り、 仏 と 平 等 な り と い わ ば、 こ の 身、 こ の 土は法然の有なるの み )11 ( 」や、 『般若心経秘鍵』における「観自在というは能行の人、 即ち此の人は本覚の菩提を因と す )1( ( 」、 そして『法華経開題』に散見する染浄本覚妙法等の六重本 覚 )11 ( などに窺えよう。 ところで空海が『即身成仏義』で菩提心や仏性 ・ 如来蔵という語よりも薩般若(智)に着目する要因としては『釈論』 の 本 覚 の 概 念 と 共 に、 『 金 剛 頂 経 瑜 伽 修 習 毘 盧 遮 那 三 摩 地 法 』 に 説 か れ る 金 剛 瑜 伽 三 昧 薩 婆 若 智 の こ と も 想 定 す る こ と になったのではなかろうか。 「 善 男 子 汝 が 所 証 の 処 は、 一 道 清 浄 な り。 未 だ 金 剛 瑜 伽 三 昧 薩 婆 若 智 を 証 せ ず。 知 足 を 為 す 勿 れ。 応 に 普 賢 を 満 足して、最正覚を成すべし と )11 ( 。」 承 知 の よ う に 修 行 者 が 阿 婆 頗 那 伽 三 昧 を 証 し た 後 に、 諸 仏 の 教 え 導 き に よ っ て、 金 剛 瑜 伽 三 昧 薩 婆 若 智 を 証 得 す る た めに示されるのが、①通達菩提心②修菩提心③成金剛心④証金剛身⑤仏身円満からなる五相成身観であ る )11 ( 。空海が『即 身成仏義』の思想的典拠として二経一論八箇の証文として引用するのが、④証金剛身の所説段であることは言うまでも な い )11 ( 。

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まとめ

  『釈論』が清浄始覚の所説段で紹介するように、 『起信論』には造論以降に覚や不覚に関する様々な問題が提起されて い た よ う で あ る。 『 釈 論 』 に は、 そ れ ら の 問 題 の 解 消 と 併 せ て『 起 信 論 』 の 論 じ る 教 説 を よ り 明 瞭 に し た い と い う 意 向 が窺われる。 一、 『起信論』が真如を真と如に区分して解することや法蔵が『大乗起信論義記』において本覚は性功徳にして、 本を性、 覚を智慧と釈したことなども視野に入れながら、 『釈論』は本覚の語を本を本有法身、 覚を薩般若慧とする特有の解 釈を展開する。 一、 『釈論』 の字事 (差別) 門で解釈される本覚は清浄本覚である。その本覚は本来不生不滅にして、 言語道断 ・ 心行処滅し、 無量の性徳を具有し円満している。無明等の染薫をうけるのは染浄本覚とし、 清浄本覚と別に扱う立場を表明する。 一、 『 釈 論 』 は 覚 或 い は 覚 す る こ と は 始 覚 に し て 本 覚 で は な い と 明 言 す る。 そ し て 不 覚 を 無 明 と し、 本 覚 は 始 覚 や 無 明 を離れていると論じる。 一、 『 釈 論 』 は『 起 信 論 』 に 説 く「 離 念 相 者 」 を、 ① 念 相 を 離 れ る こ と、 と 併 せ て ② 念 相 を 離 れ た 当 事 者 で あ る 清 浄 本 覚 の 人 と 捉 え る。 清 浄 本 覚 の 覚 者 は、 清 浄 虚 空 の 十 種 の 理 を 証 し、 真 如 法 界 の 理 と 和 合 し 一 味 一 相 で あ る。 虚 空 や 真 如 の 理 を 顕 現 す る 清 浄 覚 者 は、 法 身 如 来 の 自 性 そ の も の で あ り、 本 有 法 身 の 性 徳 に 帰 依 を 伴 う こ と を 清 浄 本 覚 と 名づけている。 一、無量なる過患を対治し無辺の功徳を円満する清浄始覚の体現者を清浄本覚者(清浄覚者)と同様に清浄始覚者とし て人格的に扱うことも『釈論』の特徴といえよう。 一、 従来、 空海は 『即身成仏義』 において 『起信論』 及び 『釈論』 所説の体相用の三大思想を参照して、 六大無碍常瑜伽を体、 四 種 曼 荼 各 不 離 を 相、 三 密 加 持 速 疾 顕 を 用 に 配 す る 解 釈 を 施 し て い る こ と が い わ れ て い る。 こ れ ら 三 大 思 想 の み な

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『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) ら ず、 即 身 成 仏 の 理 論 の 骨 子 と な っ て い る 二 頌 八 句 に お け る 即 身 と 成 仏 の 構 想 も、 『 釈 論 』 の 本 覚( 本 は 本 有 法 身、 覚は薩般若慧)の概念と密接な関係にあることが考えられる。 註 (1)   『大乗起信論』 (『大正蔵』三十二・p. 576b) (2)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 614ab) (3)   『大乗起信論』 (『大正蔵』三十二・p. 576b) (4)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 614b―p. 616a) (5)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615b) (6)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 614ab) (7)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615bc) (8)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615c―p. 616a) (9)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 613c) ( 10)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 613c―p. 614a) 森田龍僊著『釈摩訶衍論之研究』 (p. 174―p. 175) 「 四 無 為 の な か 本 覚・ 始 覚 は 能 証 の 智 で あ り、 真 如・ 虚 空 は 所 証 の 理 で あ り、 理 は 体 に し て 玉 の 如 く 智 は 用 に し て 光 の 如 く 相 即 不 離 で あ り、 又 本 覚 と 始 覚 と は 智 中 の 体 用、 真 如 と 虚 空 と は 理 中 の 体 用 で あ る。 智 中 の 体 用 に お の お の 不 変・ 隨 縁 の 二 義 あ る が 故 に( 一 ) 清 浄 本 覚、 ( 二 ) 染 浄 本 覚、 ( 三 ) 清 浄 始 覚、 ( 四 ) 染 浄 始 覚 の 四 種 と な り、 理 中 の 体 用 に ま た お の お の 二 義 あ る が 故 に( 一 ) 清 浄 真 如、 ( 二 ) 染 浄 真 如、 ( 三 ) 清 浄 虚 空、 ( 四 ) 染 浄 虚 空 の 四 種 と な り、 四 種 お の お の 二 覚 に 通 ず るが故に八種となる。即ち清浄本覚の体となる清浄真如、 清浄始覚の体となる清浄真如、 乃至染浄本覚の体となる染浄虚空、

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染浄始覚の体となる染浄虚空これである。 」 ( 11)   『釈摩訶衍論鈔』 (『続真言宗全書』九   p. 402b) ( 12)   『釈摩訶衍論鈔』 (『続真言宗全書』九   p. 402b) ( 13)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 614a) ( 14)   『釈摩訶衍論賛玄疏』 (『大日本続蔵経』1― 72―5・ p. 456右b) ( 15)   『釈摩訶衍論通玄鈔』 『大日本続蔵経』1― 73―2 ・p. 103 左b) ( 16)   『大乗起信論義記』 (大正四十四・p. 256a) ( 17)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 614ab) ( 18)   『釈摩訶衍論記』 (『大日本続蔵経』1― 73―1 ・p. 31左b) ( 19)   『釈摩訶衍論記』 (『大日本続蔵経』1― 73―1 ・p. 31左b) ( 20)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615ab) 柏木弘雄博士は 「『釈摩訶衍論』 における本覚思想」 (『本覚思想の源流と展開』 1991年) において 「十本 ・ 十覚の字義は、 あ ら ゆ る 角 度 か ら 本 有 法 身( = 清 浄 覚 者、 本 性 法 身 と も い う ) と 覚 者 の 一 切 智 を と ら え て 理 智 不 二 の 性 格 を 徹 底 的 に 描 く こ と に つ と め て い る と い う こ と が で き る で あ ろ う。 〈 中 略 〉 右 の 十 本・ 十 覚 の 字 義 は、 い ず れ も 本 覚( 清 浄 本 覚 ) の 世 界 を 位 置 づ け 荘 厳 す る べ く『 釈 論 』 の 作 者 に よ っ て 本 有 の 如 来 法 身 と 一 切 智 の あ り か た に ふ れ る と み ら れ た 諸 性 格 を 列 挙 し た も の と 見 做 す こ と が で き る の で あ る が、 と す れ ば、 十 本・ 十 覚 の 各 々 の 中 で 当 の「 本 」「 覚 」 の 字 義 を 配 し た と こ ろ の「 本 有 法 身 は 無 始 よ り 来 た 自 然 性 有 に し て 始 起 に は あ ら ず 」「 薩 般 若 慧 は 所 有 の 功 徳 は 唯 だ 覚 性 の み 有 り て、 一 々 の 法 と し て 覚 に 非 ざ る こ と は な し 」 と い う の が、 『 釈 論 』 に お け る 清 浄 本 覚 の 観 念 の 中 核 で あ っ た と 想 定 し て も よ い の で は な か ろ う か。 」 と い われている。 ( 21)   『大乗起信論』 (『大正蔵』三十二・p. 576b)

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『釈摩訶衍論』所説の本覚(中村) ( 22)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 621b) ( 23)   『釈摩訶衍論記』 (『大日本続蔵経』1― 73―1・p. 31左b) ( 24)   『大乗起信論』 (『大正蔵』三十二・p.576c) ( 25)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p.614c) ( 26)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p.614c―p. 615a) ( 27)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615a) ( 28)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615a) ( 29)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615ab) ( 30)   『釈摩訶衍論賛玄疏』 (『大日本続蔵経』1― 72―5・p. 457左b) ( 31)   『釈摩訶衍論通玄鈔』 (『大日本続蔵経』1― 73―2・p. 103 左b) ( 32)   『釈摩訶衍論記』 (『大日本続蔵経』1― 73―1・p. 31左b) ( 33)   那 須 政 隆 著『 釈 摩 訶 衍 論 講 義 』 p. 2 6 7   法 身 の 自 性 の 徳 と 帰 依 と 本 覚 と の 関 係 は、 那 須 師 の『 本 覚 よ り 帰 命 へ 』 を 顧 みる上でも興味深いことと考えられる。 ( 34)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615b) ( 35)   『釈摩訶衍論賛玄疏』 〈『大日本続蔵経』1―72―5・p. 458右a) ( 36)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615bc) ( 37)   『釈摩訶衍論』 (『大正蔵』三十二・p. 615c) ( 38)   『即身成仏義』 (『十巻章』p. 16―p. 17) ( 39)   『即身成仏義』 (『十巻章』p. 28) ( 40)   『声字実相義』 (『十巻章』p. 50― 51)

(20)

( 41)   『般若心経秘鍵』 (『十巻章』p. 6) ( 42)   『法華経開題』 (『定本弘全』四・p. 169) ( 43)   『金剛頂経瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』 (『大正大蔵経』十八・p. 328c―329a) ( 44)   『金剛頂経瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』 (『大正大蔵経』十八・p. 328c―329a)    「応当に自身を知るべし。即ち金剛界と為る。    唵   麼折囉   怛麼句含      自身金剛と為んぬれば   堅実にして傾壊なし。    復た諸仏に白して言さく   我れ金剛身と為りぬ」 ( 45)   『即身成仏義』 (『十巻章』p. 15) 〈キーワード〉本有法身、薩般若慧、離念相者、清浄本覚者、帰依、 『即身成仏義』

参照

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結果は表 2

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た,同条の罪は供与者も受供与者も共に 6ヶ月以下の懲役または

また,

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