、
七
r:r..~
29ヰ 示
令 祖
康元二年二月九日
夢
典
拠 惣
日
時
太子示現︵吉水入室︶恵信尼消息建仁元年
31
行者宿報四句文経釈文問書︑伝絵建仁三年四月五日︵伝絵﹀
元久二年四月より同年間七月
33
善信改名夢告御本書後序
恵信尼消息口伝抄巻中
伝 絵 伝 絵
口伝抄巻中
正像末和讃 宗祖観音の佑身夢想
70
入西房の鑑察仁治三年九月二十日
84
蓮位夢想
和讃﹁弥陀の本願信ずべし﹂四句の夢告 建長八年二月九日
85
此等の夢想の内︑宗祖が直接感得せられたるものはて二︑三︑七の凹夢想にして︑その他は何れも第三者の門弟及
び内室の夢想である︒伝絵は宗祖感得の夢想の内僅かに行者宿報の偶文の夢想を記しその他を略し︑之に反して第三
行者宿報四句の告命に就いて
一 一 七
行者
約制
縄問
匂の
北口
命に
就い
て
二八
警の宗祖の高徳を称揚する蓮拭夢想と入高房鑑察の夢掛か︸記している︒されば伝絵の夢鶴を記す慾趣誌穏徳讃揮にあ
てフ
今行者閲匂の夢告は祖徳讃州知よりは宗祖自身に関する夢告であり︑そり︑文伝絵製停の趣旨に裂くもの
れそ如何なる叶態認を以て記載せられたのであろうか︒既るが如くの四侍の文を持てる筏記とは経釈文
間警にある親驚夢記を指すものであると一五うから︑長総は伺の意によってこの夢記による議文な記したであろうか︒
経釈
文樹
骨骨
頚驚
夢記
今一
郎総
と経
釈す
︿艶
玄関
とに
記さ
れた
る毅
驚拶
記を
比較
しげ
にそ
の悶
の差
異な
示せ
ば志
の如
くで
ある
合
法一
絵︵
鶴一
誠一
号機
︶
一 ム i密字なし
︵裕
和三
十一
一年
四月
実悌
七百
四紀
念写
真版
︶
端
3
令 示 と プ く 親0C: レ ツο五三角驚。
座 3
欝タA :堂ノ就。
生テ着:。嬰
Z救 記合
: j 蕗 2
世 去 。議。自:政示室。
‑品納
4
之J'i量鐸ノ0
J F P
。 陣袈九一/:キ
裟サ
緩 仁 三 年 瞬 間 月 五 日 露 聖 人 語 の 告 ま し く さ
披記にいはく
ムハ
角堂
の救
枇警
醒
劇容端厳の壁僧の形役示現して
白柄の袈裟を護服せしめ
広大
I})
白。
議。
撃。
て にの。端
座
。L
i主。℃
く。
行者情報設女猫
我成玉女身被諮
一生之間総荘厳
議終
判引
導役
極楽
文
此戸数タ文、。
t
設セ吾;o害
警
7
彊額 議2
1 主., −。
号室F
仁コク
教没菩薩券信にのたまはく
詫是設誓額也
切
生群ェ
可へ 毅;
開:
告か命?。
の審麟の皆趣そ宜説して一窃爵主にきかしむへしと
瀬持夢中にありなから榔堂の
し
みれは峨々たる岳山尚ありその高
VI︸L︶ノヘ
のこ
こ
の市
川に
あっ
し
ザ ハM
︸L
ソ水エテユメ争〆
覚夢
組出
了
おぼえて夢器をはりぬと云云
︵O
は私
に階
す︶
この荒療によって注意せられることは年持の有無であり︑叉一語匂に於ても端設と端厳︑僧と聖抽出︑内日蓮と自蓮華︑
数千万と数千万嬉の謹異である︒域政江強口議の容議念表現する意であるから︑論荘か端整か﹄識は端静とあるべき筈で
ッ
」・舗
る
鴨川々
の一
字で
明す
こと
なく
︑
るものであるから︑自蓮華と熟するのが至当である︒此の用問文は尽未来捺の有情に撤底せしめんと一式う警護の審顕で
ある
から
︑
かの捨勤菩薩の此土広現の年数を勘案すれば︑有清の数も万で誌なくて億であるから︑数千万患とするの
が正
しい
掛様
であ
る︒
行者溶報鴻匂の烏口命に就いて
ニ九
行者
綾部
線路
勾の
品開
命に
就い
て 長一 絵は この 夢想 の年 時宏 本願 寺盟 人長 絵︿ 策本
﹀に は﹁ 建仁 一一 率一 で 信聖 人絵
︿西 本︶ には
﹁建 仁三 年一 一﹂ と記 し︑
きで
ム人
法絵
︵官
問本
﹀に
辻﹁
建仁
一一
一年
酔﹂
︑普
然も 一一 一本 共に
﹁四 月五 日寅 持﹂ と明 かに して いる むに 対し て︑ 調書 の
夢記には年持を記していない︒よって従来この年時を中心として種々論議せられ︑年時と干支の椙違から年持在主と
ずるもの法子支の誤記となし︑叉逆に干支を重視せるものは年時の誤となす有機にて今日に至った様である︒調書の
:︑
:︑
吋 晶 ︑
wv
φ
山川
︑U
いる
︒
の後 綿仰 ふと 名粂 り︑ かの
? な
とあ
り︑
いふっ
お
改日斗善措ことあって︑ぞれは替轄である然もそ
ハ釈
締空
﹀の
兎久
一一
年四
月十
西日から法然襲人真影附属ハ善指﹀の弱年欝七月二十九日の聞の事であり︑従って少くとも善信の名は真影間属以後
であって然も宗撞詰晩年に至ってもこの善信の名を署しているから︑善語は一房号にして︑親驚は実名で忘ると考えら
れる
c
伝絵 に議 官民 結聖 人糊 伝絵
︿望
﹀と 題す るの は之 を裏 書す るも ので るろ う︒
商して親驚は越後流罪後に用られた
名であったから︑と年濯して︑この夢鰻は吉水時代のものであるとするの
ある
ε江
から
であ
る︒
熱る
てい る
G
以後でるって︑もし鉱絵に記すが知く明こにして︑然も宗祖が議儲と名乗っていたとすれば︑とれ
は明かに法絵の年時を誤ったものとせねばならない︒然し乍ら問書の夢認に義信とあったから︑無雑作に記したと云
えばそれまでであるが善信改名立能の建仁三年の夢告であるとする事が氷解し難い︒而して伝絵を弁護して云え
ば︑この夢告は建仁一一⁝皐の事柄であるが︑議議の名は晩年まで用いられた名にして︑宗祖を表はすに最も裂しい名で
あっ
たか
ら︑
のを
たも の
る
るcこ
のが あっ
て︑ ぞれ
てい
こと
とな
った
︒
ず コ
たとすれ誌︑憲宿店舗息に︑将叉絵訟に記す議控夢組が口伝抄に記載せる如く︑伝絵のこの夢想も惑は口訟抄に記載
せられて怒るべしと想像せられるが︑それが口忌抄に少しものべていない︒設に原本夢記も想像に過ぎないのである︒
担し問委の毅驚夢記そのものの原本はありうると考えられる︒
黙れば法絵は持によっ︒或は伝絵作者の創作であったのか︒之に就いては先づ環接法絵の
その 構成 議機 そ探 り︑
恨の
り
るものであ
り︑ 従っ て長 絵は 押者 の宗 祖削 酬で ある
る︒ この 夢告 は救 世相 観音 警灘
長絵 の
子の夢告であり︑部ち如来の本願を弘宣することこそ観音勢至の誓顕であり︑静名を専念することこそ太子設に法然
聖人の聖者の教悔であると云っている︒さればこの一段は念伸こそ太子救堂鐘音の誓願なる由を表わすものであり︑
宗祖が太子を翠拝せられるのも︑この点にあったのである︒太子の響額が念緯にありと去う惑は宗笹に於て辻悉有梯
一乗を審顕一掛乗なりと鮮し︑措拡に覧如上人に於ては﹁出世元意﹂に釈尊詞時の税法なるが敢に法率一乗と
総
てい
られ るの
に掠 って
iま
のたまはくL
てい
るの
も︑
の根
粋で
あり
︑ 隣教 弘通 の本 意は 念併 にあ った わで あり
︑そ の太 子の 本地 教世 相慨 音菩 躍胞 の響 麟守 中め る
れた
もの
であ
る︒
長絵︵京本︶誌との一段の次に蓮位夢想を記し︑位の二本︵高本・西本︶は蓮在夢想なく︑直に選択集荷震の一段︑を記
している︒この蓮控夢想は後年に至って詫揺されたものであるが︑増揺叉試制棋の意があったに拘らず︑この一設が
行者領側報殴勾の鈴命に就い
τ
行者宿報四句の告命に就いて
後年訂正せられし時も之を記し︑三本ともにこれを記している事は作者にとって必要かくべからざる一段であった事
を物語るものであり︑それは前述の趣旨に基くものであったと考えられる︒伝絵の最初のものと考えられる二本︵高・
商︶がこの一段に次いで選択附属真影図画の一段を記すその次第順序を考えれば︑この一段に於て救世観音の誓願は
念併にあり︑その念併の本義を明示せる選訳集を附属せられると云う義趣である︒吉水の念併が専修念併にして︑それ
が観音の誓顕であり︑元祖は勢至菩薩の化身であると云うから︑念併は全く弥陀︑観音︑勢至の浄土の三尊の意を受
けた
るも
ので
あり
︑
これこそ観音の重跡聖徳太子の本意であると云う意向を明かにせるものである︒叉当時吉水の念
併をば非梯教なりと盛に非難妨害せる聖道門旧悌教に対して浄土門吉水念伸こそ真の悌教であり︑真の悌意を明確に
せるものと云う立場を示すものである︒かく吉水の念僻︵即ち宗租の本願念悌︶が太子の誓顕である事を明かにせる
ものとすれば︑その念併を明かに宣ベる選択集を宗祖が附属せられる以前にその趣をのべるのが至当であり︑之を選
知山集附属以後に記しては所謂観音夢告の意を失うのである︒よって作者は選択集附属以前︑建仁三年の事柄として︑年
時を示したものと考えられる︒然れば建仁三年の年時は作者の意によって記されたものとなるが︑経釈文聞書の夢記
に年時が記されてないから︑既に此一段の夢告が伺年の事柄であったか全く不明であったとも見られるのに︑伝絵に
年時明記するのは作者の独断行為であると難ぜられるのである︒然し乍ら作者の意が前述の如くであれば︑かく建仁
三年の事柄と明記せざるを得なかったもので︑そこに伝絵は単なる伝記でなくして信仰を表現するものであると云う
立場が見られるのであり︑叉念悌が悌意を全的に示すものと云う作者の深き意趣そ理解せなければならんと考える︒
翻ってこの年時記載が覚師の独断行為とすれば︑当時高田の顕智或は専空等の有力なる門弟が存命中であって︑然も
真悌の聞書の夢記に年時がない事から叉当時高田に伝絵︵高本︶が伝承せられている事からこの作者の行為に対し
て何
等か
の異
義︑
︵例えばこれより後の事ではあるが︑本願寺の両堂別立に対するが如き︶抗議がなされたかと考え