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ドキュメント内 真宗研究5号全 (ページ 106-113)

下 一 一 一 品 の 受 法 に つ い て

錦織寺門主

本 遺 孝 蕗

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﹁・知此同盟人多造衆悪無有漸塊命欲的特時選善知識為讃大乗十二部経宮題名字以間如是諸経名故除都千劫挺重悪業智者

復教会掌叉手称南無阿弥陀併称僻名放徐五十遺品叫生死之罪雨時桂傍節遺化緯化観世音化大勢至至行者爵讃言善男子

汝称

傍名

設諸

罪摘

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我来

迎汝

﹂と

cそれが臨終に善知識に出合って︑そこで善知識がどう教えたか︑

﹁大

乗十

二部

経首

題名

字:

::

L

十二部経と言うと将に指す御経があるのではない︑一切の御経が十二通りいろいろ書かれてありますから︑要する

に十二部経で諸経ということになります︒首題と申せば題号であります︒妙法蓮華経とか大方広悌華厳経とか︑そう

いうような題号である︒題号と申せば︑これは一部の肝要をひっからげて表わしたが題号でありますからそこで十二

部経首題名字というところで一代悌教のいわれということになって参ります︒それで大乗十二部経首題名字は一切

経の尊きいわれを善知識が説かれた︒そのいわれがこの愚人に多少判かりましたので︑そこに﹁千劫極重悪業﹂︑

自分がもっておるところの千劫の悪業も除くことが出来た︑そこで善知識が今度は︑﹁復教合掌叉手﹂︑とまた教えて

合掌叉手せしめ︑手を合せて南無阿弥陀悌を称えよ︑と教えるところなんです︒これは南無阿弥陀併のいわれを教え

たに相違はありません︒そこでこの愚人は善知識の指図の通り南無阿弥陀僻のいわれを一通り心得ることが出来︑手

に合掌し口には南無阿弥陀悌と称えたのである︒ところが﹁称悌名故除五十億劫﹂と南無阿弥陀併のいわれが判って

お念僻したので︑今度は大分大きく︑五十億劫生死の罪を除いた︑そうして称名に依ってお迎えがあり︑その時︑彼

の帥仰が化伸化観世音化大勢至とお浄土の聖者方を使わして行者の前に現われて︑讃じて言わく︑﹁善男子︑僻名を称

し念帥悼の行者となったから︑ここに罪が悉く消えて︑吾れ来って汝を迎えた﹂︑とこれが御文の大体であります︒こ

れは聖道行と︑称名することに除罪の多少が大変な違いがある︒勘定して見ましたら︑五百万倍の違いがある︒その

上︑お迎えは何によってお迎えがあり︑同によって讃膜をされたかと云う御経を聞いたから迎いが来たと言うのでは

ない︑称名念伸したから迎いに来たのである︒ということになっております︒そこにどういうことが表われるかと申

しますると︑十二部経首題名字ということは︑諸行を代表するのである︒称南無阿弥陀僻のところには︑念併行を代

表するのである︒すなわち称名念併行は︑聖道自力行にすぐれて大いなる功徳のあるものであるということが︑これ

観経下三品の受法について

観経

下三

品の

受法

につ

いて

に表わされているのであります︒これは善導大師もこの意味を仰せられまするし︑亦元祖法然土人もこの意味を仰せ

られまするので︑殊に善導大師は何んで念悌で救われるか︑それは本願があるからだ︑本願相応であるからというよ

うな︑御釈がありまして︑念伸諸善比校対論して︑念悌は諸行にまさるということが表われる︒これが下上品におい

て窺 われ ると ころ であ りま す︒

次に下中品に移りまして

﹁如此罪人以悪業故応堕地獄命欲終時地獄衆火一時倶至遇善知識以大慈悲為説阿弥陀悌十力威徳広説彼悌光明神力

亦讃戒定慧解脱解脱知見此人間己除八十億劫生死之罪地獄猛火化為清涼風吹諸天華華上皆有化併菩薩迎接此人如一

念頃即得往生七宝池中﹂

これら御文を窺って見ますと︑この下中品の罪人が命欲終時なる臨終に当って︑地獄の火が現われて来た︑所謂火

の車のお迎えが来たんです︒その時に善知識が現われて︑善知識の慈悲からして︑阿弥陀傍十力威徳︑この十力威徳

というのは︑この十力の物柄は今は略します︒智度論等に出ておりますが︑阿弥陀如来自利々他の功徳であります︒

それから﹁広説彼僻光明神力﹂彼の悌の光明神力とは何であるかと言えば︑摂取不捨のおいわれであります︒これ

は阿弥陀悌の化他の徳ということになります︒亦﹁戒定慧解脱解脱智見﹂︑これは阿弥陀併の内証︑自利の徳と窺つ

たら︑よろしゅうございます︒戒も定も慧も三学の徳を御成就なさっており御自分も解脱し正覚の如来様である

し︑他の者も解脱せしむる働きもある如来様で︑そういう心宏もっておられるのが解脱智見である︒要するに︑

弥陀悌十力威徳広説彼帥脚光明神力亦讃戒定禁解脱解脱智見﹂と申せば︑阿弥陀如来の自行化他二利の徳である︒﹁比人

間己﹂はこの人聞きおわって︑この阿弥陀如来二利の徳を︑よく会得が出来ましたので︑そこに入十億劫生死の罪を

除いて︑聞きおわると共に生死の罪が除き︑地獄の火事のお迎えというものは︑そっくり変って化して清涼の風とな

熱い火は諒しい風と変ってしまっての事を吹く様な状惑で︑その

に沢 山の 侍携 強悶 欝が あっ

て︑今震は梯菩議のお迎えによって︑この人を迎え入れて下さって︑暫くの践にして極楽筏生を

こと であ

ります︒この下中品の特色は何処にあるか︑お念静したということ誌ございませんG一声の称名も無く襲名の一つで

除界 し往 生し たこ とが 見え る︑ これ が下 市中 品の 持色 であ る︒

一声の称名も無く名を聞くばかりで建生を得ることは言

一つ で往 生す るこ

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︒ 一一 議の 弊名 が無 く︑ 阿弥 陀如 来の 自科 々設 のお いわ

れが判つ

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次に下々品に移りまして

つ担 比愚 人態 命終 時遇 善知 識覆 彊安 器為 説妙 法教 令念 伸比 人昔 護不 透念 捧議 同友 告一 一一 一口 汝若 不能 念者 広称 無量 一寿 地

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至心令声不絶具足十念称南無阿弥吃捧誌油開名故訣念念中除入十自国語主死之罪

終之時見金蓮華強知呂輪控其人語如A m

一念 境部 得控 空極 楽世 界﹂

これば路年も大分市しましておりますが始め諮問知識がこの幾人の命絡の時に臨ん

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舗を説いて︑教えて合梯せしめたのであります︒この怠抽仰とい

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一寸 これ 泣そ の点 はき め難 いの で告 のり ます が︑ 大体 自分 の思 うと ころ は︑ 一問 調三 倍十 念で ある

︒一 ニ僚 十念 とほ 握︑

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根誌にあって︑そむ信心が表てに現われた客名︑これを念梯としたのが︑一番譲当であろうと思います︒抄法を説き

教えて念儲併せしむとは一二倍十念のいわれを善知識が懇に教化することである︒ところがこの人苦に遥まられて磁終の

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法に

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一 一

地獄の熱い火は涼しい風と変ってしまって天の華を吹く様な状態で︑そのうえ華上に沢山の化悌菩薩があっ

て︑今度は悌菩薩のお迎えによって︑この人を迎え入れて下さって︑暫くの問にして極楽往生をしたと言うことであ

ります︒この下中品の特色は何処にあるか︑お念僻したということはございません︒一声の称名も無く聞名の一つで

除罪し往生したことが見える︑これが下中品の特色である︒

一声

の称

名も

無く

名を

聞く

ばか

りで

往生

を得

るこ

とは

一一

葉を換えて言えば︑信心一つで往生することが出来るのである︒一遍の称名が無く︑阿弥陀如来の自利々他のおいわ

れが判ったばかりで︑往生することが出来たという処に︑唯信得脱︑信心往生︑も一つ言葉を換えたならば︑信心正

因ということが︑下中品の上に表らわれて来るのであります︒

次に下々品に移りまして

﹁如此愚人臨命終時遇善知識種種安慰為説妙法教令念悌比人苦逼不遺念悌善友告言汝若不能念者応称無量寿悌如是

至心令声不絶具足十念称南無阿弥陀伸称悌名故於念念中除八十億劫生死之罪命終之時見金蓮華猶如日輪住其人前如

一念

頃即

得往

生極

楽世

界﹂

これは昨年も大分申しました様に覚えておりますが始め善知識がこの愚人の命終の時に臨んで種々安慰していろい

ろ慰めて︑為に妙法を説いた︒妙法と申せばどう言うことであるか︑下中品と対照して見たなれば︑つまり阿弥陀如

来の自利々他の徳であります︒摂取不捨のおいわれを説いたものでありますから︑そうした阿弥陀如来の自利々他の

徳を説いて︑教えて念帥仰せしめたのであります︒この念悌という言葉が︑学者の上で種々に解する人もありまして︑

一寸これはその点はきめ難いのでありますが︑大体自分の思うところは︑所謂三信十念である︒三信十念とは信心が

根底にあって︑その信心が表てに現われた称名︑これを念悌としたのが︑一番穏当であろうと思います︒妙法を説き

教えて念悌せしむとは三信十念のいわれを善知識が懇に教化することである︒ところがこの人苦に逼まられて臨終の

観経下三品の受法について

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ドキュメント内 真宗研究5号全 (ページ 106-113)

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