ソクラテスのダイモニオンについて
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ン伝説││
〆園、 ・・ーーー~・、
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〆
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すこしこれまでの議論を振り返るとともに、問題を確認しておこう。ソクラテスは自らの行為の原理として、 で寸ロゴス(理性・議論)に従う﹂﹁ロゴスを尊重する﹂と述べながら、他方、日本語で﹁神霊のようなもの﹂﹁神霊 のたぐい﹂と訳される﹁ダイモニオン﹂という非理性的なものに身をゆだねている。そのようなこ面性を、本論では、 それにたいして最初に疑義を投げかけた人物の名をかりて寸ガラクシドロスの問い﹂と呼ぴ、考察してきた。﹁ソク ラテスのダイモニオン﹂とはいったい何なのか。 方 ソクラテスと世代をともにした人たちの証言として、わたしたちは三つの源を持っている。クセノポンを別にして、 これまでにそのうちのふたつの源を考察した。喜劇作家アリストパネスと、哲学者でありかつソクラテスの弟子であ ソクラテスの行為を郷撒しようとしたアリストパネスの作品のみならず、愛弟子プラト いやもうすこし穏やかに言うと、 るプラトンである。そして、 ンの著作からでさえ、 ソクラテスは﹁新奇なダイモニオン﹂に従ったという事実が、 そのように人々には理解されていたという事実が見えてきたのである。もちろん、プラトンはソクラテスを擁護する 立場にある。じっさいにプラトンは対話篇という著作を書くことで、 ソクラテスを弁護したのだ。とくに﹃ソクラテ ソクラテスのダイモニオンについて(二)(田中) 二 七龍谷大学論集 二 八 スの弁明﹄は、当時の人々のソクラテス理解に向けて脅かれたと言っていい。だがそこでプラトンがとった戦略は、 ソクラテスへの批判を当時のダイモ
l
ン信仰へと解消しようとするものであった。 つまり、寸ソクラテスはダイモニ オンを認めている。しかるに、ダイモニオンとはダイモ!ンに由来するものである。したがって、ソクラテスはダイ モl
ンを認めている﹂という、きわめて明瞭な論理である。ソクラテスの語るダイモニオンは新奇なものではなく、 一般的なダイモl
ン信仰のもとで理解される、こう主張したのだ。この戦略の妥当性については、さきに述べたよう に、疑問が残る。ともあれ、ここでかいま見えてきたのは、ダイモl
ン信仰はソクラテスの時代にかなり一般的なも のであった、ということである。﹁神のようなもの﹂としてダイモl
ンは信仰の対象だったのお。プラトンの著作の なかでもダイモl
ンはコ言い伝えられてい&しものとして語られている。すでにソクラテスの時代に﹁ダイモl
ン 伝 説﹂なるものが存在したようなのである。 そこで、もうひとつの源であるクセノポンの考察に先立ち、プラトンの証言を考察してきた延長線上で、ダイモl
ン伝説を見ておきたいと思うロただこの作業は、制限を設けないとするならば、果てしのないものとなることが予想 される。なにしろ、ダイモl
ンはギリシア世界のいたるところで登場するからである。また一方、寸ギリシア人たち はダイモl
ンの本性や起源について、そもそも明確な考えをもってはいなかっわしといった絶望的な見解が述べられ てもいる。それゆえ本論では、プラトンの対話篇を出発点とし、そこで諮られているダイモl
ンの由来や伝播を、プ ラトン以前や周辺の作品のなかで探る、という手法をとることにする。そうすることによって、ダイモl
ン伝説の全 体像は無理としても、寸ソクラテスのダイモニオン﹂が語られる背景としてのダイモ!ン伝説は、浮かび上がってく るであろう。プラトンは、何箇所かでダイモl
ンについての言い伝えを語っている。その多くは神話(ミュl
トス) のなかで。次章でわたしが明らかにしたいのは、ダイモl
ンとは何か、ダイモl
ンはどのようなものとして語られて い た の か 、 で あ る 。第三章
ダイモl
ン伝説
まず、プラトンの著作の全体を見わたしておこう。プラトンは著作のなかでいくつかの﹁神話(ミュl
ト ス ) ﹂ を と りあげている。ただ、 その数は限定されるし、 また内容に関してもふたつに大別することができる。明確なかたちで 神話が語られる対話篇は、吋ゴルギアス L ﹃ パ イ ド ン L 可 国 家 L ﹃ パ イ ド ロ ス L 1 ポリテイコス L ﹃ティマイオス﹄吋クリ ティアス﹄﹁法律﹄の以上である。そして、前の四つの対話篇で語られるのは﹁魂の死後についての神話﹂であり、 残り四つのそれは寸宇宙の生成、人類の誕生についての神話﹂であふ。つまり、プラトンが神話を語るのは、わたし たちが経験することのできない事柄、すなわち、この世界の﹁はじまり L についてと、魂がこの世界を離れた寸その 後﹂についてなのである。ダイモl
ンは、そのいずれの神話においても、大切な役割を担うものとして登場する。 ところで、プラトンはなぜ神話を語るのか。これは、古くから繰り返される大きな問題である。というのは、プラ トンも﹁ロゴス(議論・理性)﹂の立場を重視し、ときとして﹁ミュl
トス(神話・物語 ) L は、その対極のものとし て位置づけられるからであ&。そしてまさにこの問題は、本論の主題であるソクラテスの二面性と重なりあうもので ある。そうであるなら、避けて通れない問いであることになるだろう。わたしは、 ソクラテスの問題を整理したうえ でひとつの解釈を示したいと考えているが、さしあたっては、 稲の揺れと信頼を確認しておきたい。吋ゴルギアス L のなかで、魂の死後についての神話に先立ち、 つ ぎ の 証 一 一 百 を も っ て プラトンの神話に対する、ある ソ ク ラ テ ス に 一 諸 らせた言葉である。 寸君はこれを神話(ミュl
トス) と考えるかもしれない、 とぽくは思うのだが、 しかしぽくとしては、本当の話 ( ロ ゴ ス ) のつもりでいるのだ。というのは、これから君に話そうとしていることは、真実のこととして話すつ ソクラテスのダイモニオンについて(二)(問中) 二 九も り 龍 だ 管
?♀
り F合 p(6)楽。
一 一 一 ー 一
﹁人間の守護者﹂としてのダイモl
ン││﹁パイドン﹂からの遡及 最初に、寸魂の死後についての神話﹂のなかで登場するダイモ!ンを見てみることにしよう。その神話のひとつは ﹃ パ イ ド ン ﹄ の う ち に あ る 。 ﹁その言い伝えはつぎのようなものである。人聞が死ぬと、その生存中からすでにそのひとに割り当てられてい た各人のダイモl
ンが、ひとりひとりをかの或る場所へと導いていこうとする。さて、そこに集められた死者た ちは、裁きの前に立ち、しかるのちにこの世からの者をあの世へと旅させる使命をおびた、いま述べた導き手と ともに、冥界への旅をつづけねばならないのである。そしてかのところで出会うべきさまざまな出来事に出合い、 留まるべきあいだ留まれば、ふたたび別の導き手が、その者たちをこの世へと連れてくるのだが、その聞には、 じつに長い時のめぐりが、しかも幾度となく重ねられていくのである﹂ プラトンの中期対話篇のはじまりに位置する﹃パイドン﹄は、魂の不死が大きなテl
マである。処刑を間近にひか えたソクラテスは、かりに身体が滅びるとしても魂は生きつづけることを、彼の死を嘆く友人たちに納得させねばな らない。そのためにソクラテスは、いくつかの議論(ロゴス)を展開したあと、ひとつの神話(ミュl
トス)を対話 いま引用したのは、そのなかでのソクラテスの言葉である。その神話によると、 相手であるシミアスたちに語った。 不死である魂は、身体から離脱したあと、﹁生存中からすでにそのひとに割り当てられていた﹂ダイモl
ンを﹁導き 手(品湾、応可)﹂としてあの世での旅をつづけ、また別のダイモl
ンによってふたたびこの世の別の身体へと連れ戻しかも幾度となく重ねられていく L と語られているロ これは、魂の輪廻転生とも言える考え方である。そして、魂が(身体の)死後どのような運命にあるか、すなわち ダイモ
l
ンにどのように導かれるかは、そのひとの生前の行ないによって決定される。それをプラトンはつぎのよう されるのである。その期間は、﹁じつに長い時のめぐりが、 に 続 け て い る 。 ﹁慎みをもち、思慮にひいでた魂であれば、自らの導き手のままに従うのであり、またまさに、かしこにおいて 生じるこれらの事柄について、無知ではない。ところがしかし、身体への執着をもちつづける魂となれば、先に いつまでも肉体とか、可視のこの領域への未練をすてえず、逆上して散々に反抗し、いろい かろうじて、その任にあたるダイモ l ンによって連れ去られ も言ったことだが、 ろと痛い自に遭わされたあげくに、 ち か ら ず く で 、 て い く の だ 。 その途の同伴者 とも導き手ともなして、それぞれがその魂にふさわしく定められた場所に住まうようになるのである﹂ と こ ろ が 、 ひるがえって、清浄に、あやまつことなくその生を終えた魂というのは、神々を、 この対話篇﹃パイドン﹄で語られる﹁哲学とは死の練習である﹂という命題はあまりに有名であろう。つまり、死 とは身体と魂の分離である。そして、この世においては、﹁身体への執着﹂からできるかぎりはなれて、本当の知を 愛し求めることが求められる。だからこそ、哲学とは身体からはなれること、すなわち死の練習なのである。そのよ うな哲学の営みを通して﹁清浄に、あやまつことなくその生を終えた﹂魂こそが、 から解放され、﹁浄福者の島﹂ やがて輪廻転生 へ向かうことが許されるのである。そういった魂はあの世において、﹁同伴者( q s
合
き
も
。
q ) ﹂とも言われるダイモl
ンに従い、他方、そうでない魂たちは、ダイモ!ンによって力ずくで連れ去 い や そ れ の み が 、 ソクラテスのダイモニオンについて(ニ)(田中)龍谷大学論集 られる。このように神話は言い伝えるのである。 みずからの行ないの善悪を知らしめられることになるのだ。おそらく、この 神話の真意は、因果応報を説くことにあるのであろう。なぜひとは正しく生きなければならないのか、という問いに 対する、神話を用いたプラトンのひとつの回答とみなしていいかもしれない。そして、たしかにダイモ
l
ンは、消浄 でない魂に懲らしめを与える。だが、それは決して悪意によるものではない。むしろそうすることで人間を守護する のが、ダイモl
ンの役割なのである。そのことを告げる神話が、やはりプラトンの対話篇のなかにある。 中期対話篇﹃国家﹄第十巻に、同じような文脈で、かつダイモl
ンが語られる﹁魂の死後についての神話﹂がある。 つまり、人間はダイモl
ン に よ っ て 、 そこではまず、ダイモl
ンはつぎのように登場する。 アナンケ!の御娘、処女ラケシスの御言葉である。はかなき魂どもよ、いまこそ、死すべき種族にと って、死をもたらす周期の初めなり。ダイモl
ンが汝らを銭にて引き当てるべきにあらず。むしろ汝みずからダ イ モl
ンを選ぶべし L ご ﹂ れ は 、 いわゆる﹁エルの神話﹂の一部である D ﹃ パ イ ド ン L と同様に、魂はその死後、生前の行ないに応じた報 酬を受けることを、﹃国家 L では、パンピュリアの兵士エルの体験談として、ソクラテスが諮り聞かせる。それによ ると、兵士エルは戦死した後、十二日目、火のついた薪の上に横たえられたときに蘇った。そしてみずからがあの世 で見てきた光景を語ったのである。それが、﹁エルの神話﹂と呼ばれる。エルの魂は、さまざまな魂がそれぞれの行 ないに応じて、さまざまな報いを受けているのを目の当たりにした。つづくあの世での旅路をへて、運命の女神たち の前にたどりつくと、その女神のひとりであるラケシスの意が、神宮を通じて語られた。その一言葉がさきの引用である。 こ れ は 、守 パ イ ド ン h の神話と同じように、ダイモ
l
ンは死後の魂に関与するものとして語られているが、ここでは、魂の ほうから寸選ぶ﹂と語られている。ただ、魂による選択のうえ、最終的には、女神ラケシスがダイモl
ンを寸生活の 守護者(もE
Q
品 川g
口 、 号 ゼ ) L として魂に引き渡すのである。それは、 つぎのように言われる。 ﹁ラケシスは、それぞれのもの に、彼の選んだダイモl
ンを、彼の生活の守護者として、彼の選んだこと 例 以 一緒につけてやった﹂ ( 魂 ) を満たしてやる者として、 q パイドン b と ﹃ 国 家 ﹄ さて、ダイモl
ンが魂に割り当てられるのか、それとも魂がダイモl
ンを選びとるのかという違いがあるとはいえ、 で語られる神話の共通点に注目するならば、これらのダイモl
ン伝説の由来を探ることはそ れほど困難なことではない。 ま ず 、 いずれの神話も魂の輪廻転生という大きな枠組みが共通している。その枠組みについては、オルペウス教と さらにはその後のピュタゴラス派による変容が指摘されていふ。だが残念ながら、オルペウスの教義を明 わたしたちの手元にはほとんど残されておらず、全体はおろか輪郭すら定かにすることはできな い う 由 来 、 らかにする資料は、 い 。 し か し 、 わたしたちの主題であるダイモl
ンに限定するならば、 そしてとくに﹁導き手﹂や寸守護者 L と い う 、 それらに共通した役割に注目するならば、 う。彼の作品﹃仕事と日しのなかに、 わたしたちは容易に、 へシオドスの作品にたどりつくことができるであろ つぎの一節がある。 寸しかし大地がこの種族を隠した後は、大神ゼウスの思し召しによって、 彼らは地上の普きダイモl
ンとなり、死すべき人間の守護者 ( d p S Q志 向
l h w S H 1 b 一 回 、 号 守 § 容 さ ) と し て 、 ソクラテスのダイモニオンについて(二)(田中)龍谷大学論集
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鵠に身を包み、地上をくまなく俳個しつつ、正義と悪業とを見守り、 人間に富を授ける。このような王権にも比すべき特権を与えられたのだ﹂ ヘシオドスは、紀元前七百年頃に活躍したと推定される叙事詩作家である。彼の作品のひとつ﹃仕事と日﹄は人間 の勤労を説くものであるが、そのなかに人間の歴史を語る箇所がある。寸五時代の説話﹂として有名なその説による と、人間の歴史は、金・銀・青銅・英雄・鉄の五つの時代からなるという。かつてオリュンポスの神々は、最初に人 間の﹁金の種族﹂を造った。それは、クロノス神の統治する時代にあって、ひとはすべて寸心に悩みもなく、労苦も 悲嘆も知らず、神々と異なることなく暮らしていた﹂とされる。そしてその後、ゼウスによってダイモl
ン に さ れ た 。 さきの引用はそのくだりである。 ここで言われている﹁この種族 L とは、その﹁金の種族﹂のことである。つまり、ダイモl
ンとは、神々と異なる ことのない生をすごした人聞が、その死後、ゼウスによって、寸人間の守護者 L として形を変えられたもののことな のである。この﹁金の種族﹂のあと、銀、青銅、英雄、鉄と時代がすすむにつれ、人間は退化の歴史をたどる。へシ オドスの生きた時代や、またいまわたしたちの生きる時代は寸鉄の時代 L にあたる。それは﹁昼も夜も労役と苦悩に 苛まれ、そのやむときはないであろうし、神々は過酷な心労の種を与えられるであろう D さまざまな禍いに混ざって、 情 " なにがしかの善きこともあるではあろう杭 L と言われる時代である。しかし、それは絶望だけの時代なのではない。 品 町 それぞれの仕事(役割)を果たすことによって、正義を実現することは可能な社会が語られているのであふ。だから こそ、寸正義と悪業を見守る(もH
L
弘q
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ぜ ) L ダイモl
ンが必要なのである。ダイモl
ンは、ひとがこの世に生きて いるあいだも、またおそらく、懲罰を与えるというかたちで身体の死後も、正しい生き方へと導くのである。諮られ ている通り、ダイモ!ンとは﹁善き﹂ものであり、寸死すべき人間の守護者 ( d F S R 詰 叶 も ミ 芯 ゼ 号 も も 怠 き さ ) ﹂ な の である。たしかに、プラトンにおいては﹁魂の死後についての神話﹂のなかで、ダイモ
l
ンはその役割を担っていた。 それにたいしてへシオドスの伝える神話は、むしろ﹁はじまり﹂についてのものである。しかし、プラトンの場合で も、はっきりと﹁生存中からそのひとに割り当てられていた﹂と語られている。さらには、輪廻転生の考え方では、 寸その後﹂と﹁はじまり﹂は円環的に連なるものであるロそして、プラトンがこのへシオドスの伝えるダイモ l ン の 影響下にあったことは、さきに挙げた﹃パイドン﹄の神話からも見て取れるし、また、﹃国家 ι と﹃クラテュロス﹄ の二箇所で、まさにこのへシオドスの一節が引用されていることからも明らかであろ弘。 また、プラトンよりも時代は後のことになるが、紀元後四世紀後半に活躍した喜劇作家メナンドロスにも、寸善き 導き手﹂としてのダイモl
ンを伝える以下のような断片が残っている。 ﹁すべての人間にはダイモl
ン が つ き そ う 、 そのひとが生まれるやいなや、生活の善き導き手(交e
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ま
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母
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η ) ダイモl
ンが人生を痛めつける悪しきものであるとか、 と し て 。 悪意を持つとか考えてはならず、 帥 神はすべて普きものであると考えるべきだ﹂ これらの事実は、プラトンが﹃パイドン﹄においてソクラテスに語らせた、あるいは、﹃国家﹄のなかで兵士エル という人物を通して語った﹁人間の守護者﹂としてのダイモl
ンが、古くからの J 言い伝え﹂に由来するということ を、また、当時かなり一般的なものであったことを告げている、このように言っていいであろう。﹁神のようなもの﹂ であるダイモl
ンは、人間それぞれの守護者として、 それぞれの生活が正しいものとなるように導く、 そういう役割 ソクラテスのダイモニオンについて(二)(田中) 五龍谷大学論集 六 を担っているのである。(ダイモ
l
ンはときとして﹁守護霊﹂と訳されることもある。これまでの考察の範囲では、 適訳かもしれない。)一
一
一
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ニ
神々とダイモl
ン││﹁ポリテイコス﹂司法律﹄へ つづいて、今度はプラトンの寸宇宙の生成、人類の誕生についての神話﹂で登場するダイモ!ンを見てみよう。プ ラトンの後期対話篇﹃ポリテイコス﹄のなかで、登場人物のひとりエレアからの客人は、 つぎのような神話を語る。 ﹁つまり当時は、神(砕身)が宇宙の円環運動の全体にかくべつのみ心を配りたまい、これを直接に統御して おられた。そしてさらに、世界のどの場所を見ても、その事情は世界の全体と同じであって、宇宙のすべての部 分は、それぞれべつべつに、めいめいべつべつの神々のみ手に割り当てられて、その統御を受けていたのだ。だ からまた、動物をも、その種類ごとに、さらに種を同じくする動物群ごとに、神のようなもの(
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乙 で あ る い わ ば そ の 保 護 者 ( 。 守 刷 、g h h
叫内)となって、分担して受け持っておられた L ダイモl
ン た ち が 、 この神話によると、宇宙生成論という壮大なスケールのなかで、ダイモl
ンには独自な役割が与えられている。こ こで言われている﹁当時﹂とは、神クロノスが統治していた時代であるロそこでは、さきのへシオドスの神話と同様 に 、 理 想 郷 と も 言 え る 世 界 が 成 立 し て い た 。 そ の な か で の ダ イ モl
ンの役割は、やはりここでも﹁保護者 (セ安立勺)﹂なのである。たしかに、﹁牧人 L とも訳される単語が用いられていることや、人間のみならず寸動物 (内令。刷、)﹂をも保護の対象となっている点が、違いとして気になるところではある白しかしそれ以上に、ダイモl
ン が﹁神(診吟)﹂ではなく﹁神のようなもの( p
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﹂と諮られている点に注目しよう。それは、 どのようなものなのであろうか。神とも異なり、また人間とも異なるものとしてのダイモ
l
ンという位置づけを、 わたしたちはプラト ンの他の著作でも見ることができる。それは、守法律 L という﹃ポリテイコス﹄よりもさらにあとに脅かれた対話篇 である。登場人物のひとりアテナイからの客人は、同じくクロノス神についての﹁神話﹂のなかでつぎのように語る。 ﹁ 神 ク ロ ノ ス は 当 時 、 わたしたちの国家に、王ないし支配者として、人間ではなく、神により近く人間よりもす 四 つまりダイモl
ンをあてがったのです﹂ ぐ れ た 種 族 、 の で あ る 。 一 方 、 四 やはりこれまでと同様に寸わたしたちの面倒をみる(営安ユ。モ2
。 セ M Y b q ) ﹂ことが役割な わたしたち人間の側からは、そのお礼として神やダイモl
ンへの儀式が求められ、そのあり方の序 そのダイモl
ン は 、 列はつぎのようにあるべきだと言う。 ﹁思慮ある者なら、これら神々のつぎにはダイモl
ンたちのために、 A H V 帥 じ ために、儀式を執り行なうであろうし またダイモl
ンたちのつぎには英雄たちの ここにでてくる﹁英雄﹂とは、神話や詩のなかで登場し、 ひとびとの尊敬に値する行ないをするのであるが、あく までも人間である。そしてダイモ 1 ンは、そういった人間と神々とのあいだに位置するものとして語られているので ある。このような位置づけについて、ある論者は、寸神々と英雄たちと並ぶ特定の階層としてのダイモl
ンという範 四 時を創り出したのは哲学、ことにプラトンであったが、これは決して民間信仰とはならなかった﹂と述べ、一般的な ダイモl
ン信仰とは区別している。わたしは、たいへん興味深い指摘であると思う。というのは、コホリテイコス L ソクラテスのダイモニオンについて(二)(問中) ー 七龍谷大学論集 J¥ で神話を語った寸エレアからの客人﹂も、また﹃法律﹄での寸アテナイからの客人﹂も、ともに近年の解釈では﹁プ ラトンの代弁者﹂とみなされ、それら後期著作においてプラトンは自分自身の意見を述べていると考えられるからで 叩 ある。わたしは、この中間者という位置づけがプラトンによるのではないかという点で、論者の見解に賛同するが、 すこし細かく言うと、ダイモ
l
ン伝説をプラトン自身が徐々に変容させていったのではないかと考えている。その理 由は、プラトンの初期から中期にかけての対話縞では、そのような位置づけは見られないからである。むしろ、さき にあげた中期著作﹃パイドンヘさらには第二章で言及した初期著作﹃ソクラテスの弁明﹄などでは、ダイモl
ン は 神と同じ階層で語られている。﹃パイドン﹄の該当箇所では、ダイモl
ンがすぐに神と言い換えられてい旬。また、 ﹃ソクラテスの弁明﹄でも、同じ話の流れのなかで、﹁ダイモニオンのお告げ﹂が﹁神の合図﹂と言い換えられていω
たのである。そして何より、吋ソクラテスの弁明﹄で、ソクラテスを弁護するさいに展開された例の論理は、ダイモl
ンが神と同一視されていることが前提となってはじめて成立するのである。もしそうだとすると、初期から後期に かけて、プラトンによるダイモl
ン理解に変化があったと考えるのが自然であろう。 そして、初期のプラトンに見られる神とダイモl
ンとの同一視、あるいはそれらの区別の暖昧さについては、今日ω
でもよく指摘されることであるし、プラトン以前のさまざまな作品のなかに多くの実例がある。ホメロスしかり、悲 劇作家しかり、またソクラテス以前の哲学者たちもそうなのだ。タレスは、寸宇宙世界は生命をもったものであり、 m w 帥 悶 ダイモl
ンに満ちている﹂という立場をとったと伝えられる。エンペドクレスやパルメニデスも、宇宙生成論と言っ ていい文脈のなかでダイモl
ンを語ったとされる。そして、それらはすべて﹁神﹂と言い換えて何ら不都合はなく、 これまでの翻訳でもじっさいに﹁神﹂と訳されてきたのだ。ホメロスでも、神とダイモ l ンの区別については、まっω
たく無頓着と言っていい。悲劇作家たちも、アイスキュロス、ソポクレス、 いずれもがそうである。ゼウスがダイモl
ンと呼ばれ、またアポロンも、 そ し て ク ロ ノ ス 、 エウリピデス、三大悲劇作家と称される アレス、ガイアと、まさしくギリシアの代表的な神々が、ときとしてダイモ
l
ンと呼ばれているのであ旬。 ただひとつ、この暖昧さとは別に、指摘しておかねばならないことがある。悲劇作家たちの作品のなかには、 や は り三者共通して、神と同じ意味で用いられているダイモl
ンとは別に、﹁個人のダイモl
ン﹂といったものが、頻繁 回 国 に語られているのである。﹁わたしのダイモl
ン﹂といった表現や、﹁ダイモl
ンがわたしに宿る L、あるいは、﹁ダイ 叩 モl
ンに生まれつく﹂といった言葉づかいなどから、それは見てとれる。これらはしばしば日本語では﹁運命﹂とも 訳 さ れ る が 、 おそらく、それは、 さきのへシオドス的な、﹁人間の守護者﹂というダイモl
ンの側面が諮られている の で あ ろ う 。 プラトンの考察に話をもどそう。さきに指摘した可ソクラテスの弁明﹄や﹃パイドン﹄などでの、ダイモl
ンと神 との言い換えは、こういった伝統のもとで理解されねばならないだろう。それらを源として、プラトンは徐々に寸神 と人間の中間者﹂というダイモl
ンの位置づけにたどりついたのではないだろうか。そして、さきの論者はそのよう な位置づけは寸民間信仰とはならなかったしと主張したが、わたしはむしろ、歴史の流れのなかでは区別を鮮明にす る方向に向かったのではないかと考える。たとえば、 アリストテレス著作集に含まれる﹃徳と悪徳について L の な か にも、同じような一節があるのだ。 り つぎは祖国および両親に対する正しきであり、 つぎは諸々のダイモ l ンに対する正しさであω
つぎは故人に対する正しきである﹂ ー正しいことのうちの第一のものは、神々に対する正しきであり、 この﹃徳と悪徳について﹄は擬作とみなされ、成立年代は確かではない。だが間違いなくプラトン以降に書かれた ものである。そうだとすると、神より下位にあって人間よりも上位にあるというダイモl
ンの位置づけは、後の時代 ソクラテスのダイモニオンについて(二)(問中) 九龍谷大学論集 問
。
ほど明確であるようにも思われるのである。そして、 ひょっとするとその転換点であるかもしれないプラトンの著作 がある。次節で考察する﹃饗宴﹄である。一
一
一
l
三 神と人間の媒介者としてのダイモl
ン││吋饗宴﹂からの遡及 まず、ダイモl
ンが神と人間とのあいだに位置づけられている箇所を挙げることにしよう。 エ ロl
ス
( 愛 ) に通じ た誕女ディオティマが諮った、 エ ロl
ス
(
神
)
についての言葉である。 は偉大なダイモ!ンなのですよ、ω
すべきものの中間にあるのです﹂ ﹁それ(神エロース) ソクラテス。そしてダイモl
ンのたぐいはすべて神と死 対話篇﹃饗宴﹄は、プラトンのなかでは中期のはじまりに書かれた作品であり、主題はエロl
ス(愛)である。そ して、そこでは、とりたてて﹁神話﹂が諮られているわ貯ではない。しかし、そのなかでソクラテスが伝聞形式で語 るディオティマの神エロl
ス論や、それに基づくエロi
ス(愛)論は、その秘儀なるものがわたしたち通常の人間に 経験できないという点からするじ、さきに述べた神話の条件を満たしていると言えるかもしれない。盛女ディオティ マによるいまの発言も、神話の言葉として理解したほうがいいだろう。 ところで、﹃饗宴﹄はじつに不思議な作品なのである。ここでは、ダイモl
ン解釈に関わることのみ触れておこう。 まずは、幾重もの伝聞形式をとるそのスタイルである。なぜ著者プラトンはそのような複雑な形式を採用したのだろ うか。つぎに、第一章で考察した喜劇作家アリストパネスが登場人物のひとりになっている点も興味深い。この対話 の設定年代は前四一六年と思われるが、その年は、ソクラテスを﹁.悪しきダイモl
ンに溶かれた人物﹂とさんざん郷撤した 7 雲 L が上演されてから七年後となる。その対話のなかで、アリストパネスはエロ
l
スについて、対話相手か ら称賛されるような説を披露したあと、今度はソクラテスの話をおとなしく拝聴しようとさえするのであ&。なぜ著 者プラトンは、論敵とも言えるアリストパネスを批判せずに、このような人物として描いたのだろうか。最後に、ソ クラテスが伝えるディオティマという女性についてである。アテナイの疫病の発生を十年間遅らせたという逸話とと もに、宗教的で﹁恋の道﹂に長けた実在の人物としてディオティマは描かれているが、なぜプラトンはそのような女 性を登場させたのだろうか。これらの問いについては、明確な答えが与えられるわけではない。ともかく、そのよう な設定のなかでディオティマが語った、ダイモl
ンを﹁神々と人間の中間者﹂とするさきの言葉を受けて、 ソクラテ スは﹁それはどんな能力(乏で Q E q ) を有するのですかしと教えを請うた。するとディオティマは、 つぎのように答 えたそうである。 コ タ イ モl
ンは、神々へは人間からのものを、また人間へは神々からのものを伝達し送り届けます。つまり、人 聞からは祈願と犠牲とを、神々からはその命令と犠牲のお返しとを。そして、これら両者の中間にあって、その 空隙を充たし、世界の万有がひとつの結合体であるようにしているものです。また、すべての占いについても、 さらには犠牲式、秘儀、まじない、あらゆる予言と魔術、それらにかかわる聖職者の術にしても、すべてことが 運ぶのは、ダイモl
ンを通してのことなのです。神は、人間と直接交るのではなく、神々における人間との交際 と対話とは、相手の人聞が目覚めている時でも、眠っている時でも、すべてダイモl
ンを通じてなのです。そし て 、 いま言ったような事柄における知者は、ダイモl
ンのような人間というのですが、それとは何か別のことで それが何らかの技術に関するものであれ、あるいは手細工のことであれ、世俗的な人間と 知者である場合には、 いうのです。じつにこれらダイモ 1 ンは数も多く、種類もありとあらゆるものがあります。そのなかのひとつが ソクラテスのダイモニオンについて(二)(田中) 問龍谷大学論集 凹
エ
ロス
なの
で す(1]) 」 ここでディオティマが語った、﹁神々と人間との中間者 L としてのダイモl
ン は 、 ﹃ 饗 宴 ﹄ の主題の流れにそって、 やがて﹁知ある神﹂と﹁無知なる者﹂との中間者である﹁哲学者(知を愛する者)﹂のあり方と重ねられていくこと になる。この対話篇でも哲学のすすめが基本的なモティ!フとなっているからだ。しかし、すこしとどまってこのデ ィオティマの発言に注目すると、すでに前節から述べている中間者という位置づけと関連して、さらに指摘すべき点 がふたつあるようにわたしは思う。 ひとつは、中間者であるダイモl
ン が 、 つまり神と人閲を媒介するものであるがゆえに、﹁占い ( 冶h
さ ロ ﹄ 円 弘 ) ﹂ や 寸 予 言f h
H
史認含)﹂を可能にする、と言われている点である。こう聞くと、わたしたちはただちに、 第二章で考察した、ソクラテスのダイモニオンに関する発言を思い起こすであろう。﹃ソクラテスの弁明﹄では、ダ それら両者、 イモニオンは﹁神の合図﹂と言われていた。また﹃パイドロス﹄でソクラテスは、ダイモニオンを語る文脈で、﹁わ たしは占いができるのだ(交号 a q ) L とも、さらに﹁魂というものは、一種の予言の力をもっているf
Q
ミ ミ 号 ) ﹂ とも語っていたのである。そうだとすると、ダイモl
ンが予言の能力を有するというのは、当時の一般的な理解なの か も し れ な い 。 歴史家へロドトスの﹃歴史﹄ さらにまた、ダイモl
ンが予言にかかわるという言い伝えは、プラトン以前にも見つげることができるのである。 つぎのふたつの事例が報告されている。 の な か に は 、 寸 ダ イ モl
ンがキュロスに予告していたのは(弘氏可S
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刷 、 号 。 h m t v 一S
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、 じ つ は 、 げ、その王位がダレイオスに移るということであつわ﹂ キュロスがこの地で最期を遂﹁ ダ イ モ
l
ンが夢で、謀反を起こすぞとわたしに予告したω
マゴスのスメルディスであったの沿 L ( 弘 匂 h 司 会e
刷 、 筒 、 。 品 川 両 事 Q h 刷 、 向 ) スメルディスという人物は、 人 た ち 、 歴史家へロドトスは、プラトンが生まれた数年後に没したと伝えられる。そして、彼の書叶歴史﹄は、寸ギリシアω
および異邦人たちの偉大な驚嘆すべき事蹟﹂を、 へロドトス自身が、歴史的探求にもとづき書き記したもの である。これらふたつの引用のうち前者は、 その書物のなかの、 ペルシア王キュロスについてのへロドトスの自身の 一 音 楽 で あ り 、 後 者 は 、 王キュロスの子カンピュセスが、自身で亡きものにした実弟スメルディスについて語った言葉 である。場面についてこれ以上の詳細な記述は不要であろう。ダイモl
ン は 、 それらのいずれにおいても、これから 生じることを﹁予告する(さ。もh
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﹂ものとして描かれていたのである。さらに付け加えておくと、ダイモl
ン だけでなく、﹃歴史﹄には、神託や占いに満ちた世界が記述されているのである。 さて、以上のように、もしダイモl
ンに﹁神々からのものを人間に伝達する﹂予言の能力があるなら、そしてその ようなことが一般的に伝わっていたならば、ソクラテスがダイモニオンを寸神の合図﹂として語ったことも、けっし て 寸 新 奇 な も の ﹂ と は 一 一 一 一 口 え な い は ず で あ る 。 問 い は 、 ふたたびソクラテスのダイモニオンの﹁新奇さ﹂に戻ることに な る だ ろ う 。 そ し て 、 さらにもう一点、 さきのディオティマの発言には、注目すべき点がある。それは、中間者ダイモl
ンに由 来する知、すなわち、寸ダイモl
ンのような人間の知﹂と、技術や手細工などの﹁世俗的な(、号Q
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)
人 間 の 知 ﹂ のなかでは撮り返られることなく議論は進むが、﹁ガラクシド が区別されている点である。この区別もまた、守饗宴 L ロスの問い﹂と照らして考えるなら、あるひとつの回答を示唆しているようにも恩われる。 つまり、﹁ダイモニオン に従う﹂人間の知のあり方と、 それとは無関係に自分自身で手に入れる知のあり方とを区別することも可能であろう。 ソクラテスのダイモニオンについて(二)(田中) 四龍谷大学論集 四 四 そ し て 後 者 を 、 ひょっとすると寸ロゴスに従う L と言ってもいいかもしれない。なぜなら、技術というものは、言う までもなく、プラトンにとってはロゴスによる知に他ならないからであるロしかしながら、知に関するこの区別につ クセノポンの報告を聞くとき、この区別は いて、わたしはプラトンのもとで強調するつもりはない。やがて次章で、 より鮮明なものとして現われてくるであろう。 魂の一部としてのダイモ
l
ン││源流としてのコアィマイオス﹄ では最後に、もういちどプラトンの報告する神話に戻って、そこに見出されるダイモ l ンを考察することにしよう。 後期対話篇﹃ティマイオス﹄では、﹁宇宙の生成、人類の誕生についての神話﹂が語られ、これまでとは異なり、人 間の魂のうちに、その一部分として内在するダイモl
ン が 登 場 す る 。 一 一 一 │ 四 それ[魂の支配的部分]をダイモl
ンとして各人に与えた(常号同ゼ匂a e
混と。この部分は わたしたちの身体の頂上を住み家とし、わたしたちを大地にではなく天に根を持つ植物のように、大地から天上 の同族のものたちのところへと引き上げる、こうわたしたちは主張する﹂ ﹁ そ も そ も 神 は 、 この発言主は、対話篇﹃ティマイオス﹄の中心人物であって、﹁仲間のうちではいちばん天文学に通じたひとで、 万有の本性について知ることをとりわけ自分の仕事としてきわ L ティマイオスという人物である。ティマイオスは、 ソクラテスに請われて、﹁万有について人間の生成に至るまでを説明す&﹂ことを試みた。さきの引用は、その最後 の段階として、人間の魂の生成が語られる場面での発言である。ティマイオスは、﹁わたしたちのなかには三種類の 側 魂が三つの場所にすみ、それぞれが自分の運動をもっている﹂と言う。それらのなかの寸神的部分﹂とも名づけられる﹁支配的部分 L は 、 さきの引用によると、﹁身体の頂上﹂である顕をみずからの場所とし、﹁同族のものたち L が住 それゆえに人間は直立しているのだと言う。ここでティマイオスが語る魂の三種類とは、 のなかでプラトンがソクラテスに諮らせた魂の三区分、すなわち、理性的部分、気概的部分、欲求的部分に 重なるものであろう。そうだとすると、ティマイオスはここで、魂のなかの寸支配的部分﹂が、﹃悶家しの区別す古口 ま う ﹁ 天 上 ﹂ へ と 向 か い 、 守 国 家 ﹄ うと﹁理性的部分 L が、神によって与えられたダイモ
l
ンそのものだと述べているのである。 さらにティマイオスは、 そのようなものとして生まれた人間は、ダイモl
ンである﹁魂の神的部分﹂を訓練すべき つぎのように努めねばならないのである。 であると言う。欲望や野心にひきまわされることなく、 ﹁ ま た 人 聞 は 、 好 学 と 真 の 思 慮 に 努 め 、 彼 自 身 の 持 つ そ の 支 配 的 部 分 を 、 他 の も の 以 上 に 訓 練 さ せ る (言言、ミさ守宅)ならば、真理に触れる時には全く確実に不死にして神的な思いをもつことになる。そして彼 は、人間的本性があずかることの許された限りの不死性をすべて受け取り、その一部を残すことはないだろう。 また彼は、常に神的部分の世話をし(も g Q M R E ミ Q ) 、自分のなかに住むダイモl
ンが(立て含令。ミミs
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h Q ミも)よい状態にあるように整えるので、彼は必ず幸福なひと(立舎町一台。ミ)になるのである﹂ つまり、ティマイオスが言うには、魂のうちにあるダイモ!ン(匂 Q h R eで)を寸訓練 L し、﹁よい状態に(包)﹂あ るように﹁世話する L ひとこそが、直訳すれば寸善きダイモl
ン に 溶 か れ た 者 ( 怠 句 。 司 令 。 ミ ) ﹂ に 、 す な わ ち 、 さ き 仰 の訳語で言うと﹁幸福なひと L となるのである。 これらティマイオスが諮るダイモl
ン伝説を見ると、これまでの考察が明らかにしてきたダイモl
ンの特徴がいく つも示されている。まず、ダイモl
ンが寸各人に与え(安 h m q ベ モ た 匂e E
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﹂られているという表現は、﹃パイドン﹄ ソクラテスのダイモニオンについて(二)(問中) 四 五龍谷大学論集 四 /、
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での﹁各人に割り当てられた(
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向b M
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﹂ダイモl
ンを紡悌とさせるであろうし、﹁それぞれのひとにそ れぞれのダイモl
ンが﹂というそのあり方を伝えるものであろう。また、ダイモl
ンが神と区別されている点も、プ ラトン後期の著作で見られたダイモl
ンの特徴である。さらには、幸福が﹁よいダイモ!ン﹂という語源と関連して 語られていることも、ダイモl
ンが人間を守護し、行ないの善悪を示すという言い伝えと重なり合うかもしれない。 善きダイモl
ンによって守護され、人聞は寸幸福なひと﹂になるのである。 だが、それらとは別に、またそれらと一部関連して、あらたな興味深いことがここではふたつ諮られている。ひと つは、人間の魂の一部分としての、すなわち﹁支配的・神的部分﹂としてのダイモl
ンというあり方。もうひとつは、 人聞がダイモl
ンを﹁訓練する(言、ミ内内定)﹂あるいは﹁世話をする(傘、 Q M g号ミ)﹂と語られている点である。素 朴な聞いとして、 J 仰のようなもの﹂であるダイモl
ンを、それより下位の存在である人間が訓練や世話をすること がありうるのだろうか。むしろさきの考察では、ダイモl
ンが人間にたいして﹁守護する﹂﹁面倒をみる﹂と言われ ていたはずである。また、本章で問い続けてきたことであるが、このようなダイモl
ンについての考え方は一般的な ものであるのだろうか。さらに、その由来をどこかに見出すことはできるだろうか。 その一部分として内在するダイモl
ン﹂という点については、わたしの知るかぎり、プラト ン以前のギリシア世界にそれを見つけることはできない。けれども、それは当然であろう。なぜなら、そもそも魂を 三つに区分し、その内的な葛藤を見事に描き出したのは、他でもないプラトンが初めてだからである。さきに述べた でソクラテスに語らせた三区分のことである。もっとも、﹃ティマイオス﹄では、神話の語り手はイタリア ま ず 、 ﹁ 魂 の う ち に 、 ﹃ 国 家 ﹄ ソクラテスは聴き手という設定になっている。しかしだからといって、プ針 。
ラトンはその神話を外来の思想として紹介したと考える必要はないであろう。むしろ、これまでの神話がそうであっ たように、多くのひとをその語り手とすることで、プラトンは、そこで語られている内容がけっして特定のひとが語 のロクリスのひとティマイオスであって、る特定のものではない、と告げようとしたのかもしれない。あるいは、ここでもティマイオスをプラトンの理想を語 国 る人物とみなすことも可能である。そうだとすると、﹁国家 L でソクラテスに語らせた魂の三区分説の延長線上に、 プラトン自身があらたに﹁その一部分としてのダイモ
l
ン﹂という考え方を、神話というかたちで導入したことにな の人物設定や議論の構成は、きわめて示唆的である。というのは、まずはソクラω
での議論を寸きのう語られた話 L として要約したうえで、ティマイオスが語り始めるからである。わ たしは、ティマイオスが諮る﹁人間の魂のうちに、その一部分として内在するダイモl
ン L なるものは、プラトンこ るだろう。対話篇﹃ティマイオス﹄ テ ス が 守 国 家 ﹄ そがその源流であると考えている。そして、わたしがここで﹁源流 L と言うのには理由がある。先取りして述べるな ら、やがてこの考え方が、﹁ガラクシドロスの問い﹂を経由して、プルタルコスの著作のなかで、 ひとつの完結した 説 明 に . 漂 着 す る か ら で あ る 。 では、もうひとつの点、 そのようなダイモl
ンを寸訓練する﹂であるとか、﹁世話をする﹂とかは、 どのような事 態なのであろう。まず言わねばならないことだが、プラトンにとって﹁悪しき神﹂といったものの存在は考えられて 仰 いないロ﹃国家﹄では、神はあくまでも善の原因であることが語られ、﹃ティマイオス L でも、神はみ,すからの普をも 凶 とに世界を創造したことが語られている。もちろん、この考え方は、当時のゼウスを筆頭とする自由奔放な神観とは そのことについてプラトンは自覚的であった。すると、寸神のようなもの﹂であるダイモl
ン も 、ω
同様に﹁善きもの L と考えていいだろう。だからこそ寸人間の守護者 L という役割が果たせるのである。そうすると、 普きものであるダイモl
ンを訓練したり、世話をしたりする必要などないはずなのである。 だが、この点に関しては、解釈はそれほど難しくない。さきの魂の三区分をあてはめればいいだけのことである。 つまり、寸訓練﹂すべきなのは、厳密には魂の下位の部分であって、指導的部分であるダイモl
ンは、そのさいにみ ずからの力を発揮するだけでいいのである。つまり、寸好学と真の思慮に努める﹂ことによって、魂は全体としてす まったく異なるし、 ソクラテスのダイモニオンについて(二)(問中) 問 Eじ龍谷大学論集 四 J¥ ぐれた状態となり、 そのような魂を持つひとは正しい行ないをし、そしてまさしく﹁エウダイモ
l
ンな(幸福な)ひ と﹂となるのである。ここでも、ダイモl
ンは哲学のすすめのなかで語られている。そしてもちろん、このような意 味での﹁ダイモl
ンの訓練﹂という考え方についても、プラトン以前に源はない。なぜなら、さきほどと同じく、魂 の三区分という発想がプラトンにはじまるからである 来 すこしまとめておこう。ダイモl
ンとは何か、ダイモl
ンとはどのようなものとして語られていたか、この草の問 いに対する答えとしては、以下の点を挙げることができるだろう。 (一)ダイモ!ンは、人間それぞれの守護者として、人間を正しいことへと導く。 ( 二 ) ダ イ モl
ンは、寸神のようなもの﹂として、神とも人間とも区別され、それらの中間に位置する。 ( 三 ) ダ イ モl
ンは、予言の能力を有する。 ( 四 ) ダ イ モl
ンは、人間の魂のうちに、その理性的な部分として内在する。 もちろん、この考察の途中でも指摘していたように、伝えられる神話ごとに異なりはある。定式化してひとつのダ イ モl
ン像を描くことは不可能である D だが、むしろそれは、ひとつの統一的な﹁ダイモl
ン伝説 L があったわけで はなく、多様なダイモl
ンの理解があったことを告げているのではないだろうか。プラトンは、あるときは神話とい うかたちで、またあるときは伝聞形式のなかで、ダイモl
ンを登場させた。それらの語り手もじつにさまざまであっ て、同じ語り手によって同じ仕方で語られたことはない。そのことも、ひょっとすると、ダイモl
ン伝説の多様性を 告げる意図があったからかもしれない D だが他方、そのような多様なダイモ!ン伝説を、プラトンは一貫して、哲学 仰 のすすめと関連させて語っていた。これはたいへん興味深いことである。 そして、この章の考察で明らかになったことを踏まえて、ふたたび、プラトンの報告する﹁ソクラテスのダイモニオ ン ( ダ イ モ
l
ンのようなものごと照らし合わせてみると、後期プラトンに源流を見た ( 四 ) は別として、それぞ れの特徴が﹁ソクラテスのダイモニオン﹂にもあてはまるようだ。 つまり、寸ソクラテスのダイモニオン L は、当時 のダイモl
ン伝説のもとで理解されるのであり、けっして寸新奇なものしとは言えないように思われる。すくなくと も、それを理由に断罪されるようなものではないだろう。謎は深まるばかりである。わたしたちはつづいて、 ソクラ テスを伝える最後の証言者クセノポンの考察に向かうことにしよう。 来 ただ、ダイモl
ン伝説に関する考察の最後に、まったくダイモ!ンについて諮ることのなかった人物についても、 ひとことだけ言及しておきたい。それは哲学者アリストテレスである。もちろん、彼の著作のなかでダイモl
ンがま ったく語られていないわけではない。しかし、数少ないアリストテレスのダイモl
ンへの言及は、文法的なことを説 明するためのたんなる素材であるか、悲劇作家の引用であるかであり、アリストテレス自身の積極的なコミットは皆 無なのであ刷。この﹁アリストテレスの沈黙﹂をわたしたちはどのように理解すればいいであろう。アリストテレス は、タレスを最初の哲学者として認定した人物である。そのアリストテレスは、タレス以前のひとたちを寸神話を愛 制 するひと﹂﹁神々を語るひと﹂と呼んで区別した。しかも、寸神話を語るひとたちの議論は真剣に検討するには値しな 日 川 L と批判さえした。これらのことは、アリストテレスが純粋に寸ロゴスのひと﹂であったことを告げるのかもしれ ﹁h E O 争 心 MIV 駐ω
拙著寸ソクラテスのダイモニオンについて(一) 龍谷学会、二O
一O
年 、 二 一 九 頁 参 照 。ω
プラトン吋ソクラテスの弁明 L 二 七 D 九 。 ー神霊につかれた哲学者│﹂司龍谷大学論集﹄四七四・四七五合併号、 ソ ク ラ テ ス の ダ イ モ ニ オ ン に つ い て ( 二 ) ( 問 中 ) 四 九能谷大学論集 1i O
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園方栄二﹃プラトンのミュ l トス﹄京都大学学術出版会、二OO
七年、一三七頁参照。ω
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・なおこのニ面性については、本論注六一も参照。ω
プラトン﹃ゴルギアス﹄五二三 A 一l
三 。 的プラトン吋パイドン﹄一O
七 D 五lE
四 。ω
同 脅 一O
八 A 六 │ B 三 、 C 三 │ 五 。ω
同 書 八 一 A 一 ー ー 二 。ω
この言葉は、﹃パイドンLの神話ではなく﹃ゴルギアスL五二三B一の神話で出てくるものであるが、内容的に同様の 島への言及が﹃パイドン﹄一一一 A 六 に も あ る 。ω
プラトン﹃国家﹄六一七 D 六lE
一 。ω
この点については、﹃国家﹄は﹃パイドン﹄よりも後の作品であることからも、﹁伝統的な考え方に思想的変更を加え る﹂と言えるのかもしれない。松永雄ニョパイドン﹄注ヘ﹃プラトン全集﹄第一巻、岩波書応、一九七五年、三一一一頁。ω
同書六二OD
八lE
一 。ω
ドッズ著、岩田晴夫・水野一訳﹃ギリシア人と非理性﹄みすず書房、一九七二年、一凶七頁以降参照。ω
へ シ オ ド ス ﹃ 仕 事 と 日 ﹄ 一 一 一 一 ー 一 一 一 六 。 M W 同 書 一O
九 。 仰 岡 市 H 一 七 九 。 側鹿川洋一﹁いわゆる五時代説話の意図するもの│へシオドス吋仕事と日Lにおける│L吋東海大学紀要文学部﹄第九 号、一九六七年、二ニ頁参照。 側プラトン﹃国家﹄四六九 A 一l
二、同﹃クラテュロス﹄一ニ九七 E 一一ー三九八 A 一 一 。 引 用 さ れ て い る 文 章 は そ れ ぞ れ 、 へシオドスの原典の語句とは微妙に異なっている。 側メナンドロス﹁断片﹂五五0
1
一 1 五 ( 同 何 回 8 0 7 W ﹀g
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ロ ) 。ω
プラトン吋ポリテイコス﹄二七一 D 三l
七 。ω
プラトン司法律﹄七一三C
八lD
二 。ω
同書七二ニ E 一 。ω
向者七一七 B 二l
四 。ω
プルクハルト著、新井純一訳吋ギリシア文化史﹄第二巻、筑摩書一局、一九九二年、九六頁。 M W 水野有府ョポリテイコス﹄解説 L 可プラトン全集﹄第三巻、岩波書応、一九七六年、四三三頁、山本光雄﹁作品解題 ﹃法律﹄﹂叶プラトン全集﹄第十巻、角川書倍、一九七五年、四四一頁参照。 仰 プ ラ ト ン 吋 パ イ ド ン ι 一O
八 A 六lB
二一。本論文頁参照。 側プラトン可ソクラテスの弁明﹄四OA
三lB
一。拙著前掲論文、二四四頁参照。側ロユ
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・ 側ディオゲネス・ラエルティオス﹃ギリシア哲学者列伝 L 第 一 二 巻 七 。ω
﹁けれどもダイモ l ンがダイモ l ンとさらに混じり合って行ったとき、それらのものは、それぞれがたまたま出会うが ままに一緒になった。またそれらのほかにも、多くのものがたえまなく生じてきた L デ ィ i ルス・クランツ﹃ソクラテス 以前哲学者断片集﹄エンペドクレス B 五 九 。 他 に 、 A 一 四 、 A ゴ 二 、 B 一 一 五 、 B 一 二 二 、 B 一 二 六 も 参 照 。ω
﹁そして、すべてに行きわたっているひとつの作用図として、かのパルメニデスは、﹁万物の真ん中に L 座を占め、すべ ての生成の原因たる﹁ダイモ l ン﹂を立てている L デ ィ l ルス・クランツ吋ソクラテス以前哲学者断片集﹄パルメニデス B 二 一 。 側もちろん、ホメロスにおける神とダイモ l ンについて諸説あることは了解している。だが、共通した見解にいたっては おらず、そのことにもホメロスの﹁無頓着さ﹂が示されているとわたしは考える。ドッズ著、前掲替、一三頁以降、とく に二九頁注六五を参照。 例アイスキュロス﹃縛られたプロメテウス﹄一九六、ソポクレス可コロノスのオイディプス﹄七O
八、エウリピデス﹃へ レ ネ ﹄ 六 六 六 。ω
エウリピデス吋アウリスのイピゲネイア﹄一一一二六、同﹃アルケティス﹄四四九、同吋メディア﹄ ドロマケ﹄九六、ソポクレス﹃トラキアの女たち﹄九O
七 。 側 ソ ポ ク レ ス 吋 ア ン テ ィ ゴ ネ l ﹄一一三O
。 ソ ク ラ テ ス の ダ イ モ ニ オ ン に つ い て ( 二 ) ( 問 中 ) 一三四七、同﹃アン 五龍谷大学論集 百. 開アイスキュロス吋アガメムノン﹄一三三八。
ω
アリストテレス q 徳と悪徳について﹄一二五OB
一九│一二。この著作は擬作とされることが多いが、真の著者や成立 年代については確定にいたっていない。 側 プ ラ ト ン ﹃ 饗 宴 ﹄ 二O
二 D 二 ニ l E 一 。ω
同 書 二 一OA
一。ディオティマはソクラテスに対してさえ寸この秘儀をあなたが受ける能力があるかどうか、わたしに はわかりません L と述べている。ω
同書一九三 D 。もっとも、ディオティマとソクラテスとの対話という設定のなかで、間接的にアリストパネスの語った 内容については批判が加えられている。同書二O
五 DlE 参 照 。ω
本章の最後と、第七章の考察で、伝聞形式がとられることやディオティマが語り手となっていることについては、ひと つ の 解 釈 を 示 す 。ω
プラトン吋饗宴﹄二O
二 E 三l
二O
三 A 八 。 帥へロドトス﹃歴史﹄第一巻一一一O
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二l
四 。 附 同 容 第 三 巻 六 五 l 一 七 ー 一 九 。 側 同 書 第 一 巻 序 1 三 1 四 。 側プラトン﹃ティマイオス﹄九OA
三 │ 七 。 側 同 脅 二 七 A 三│五 川柳同書九OE
一l
二 。 側 同 書 八 九 E 四l
五 。ω
阿部九OB
六 │ C 六 。 倒 厳 密 に は ﹁ 幸 福 な L という形容詞であり、その男性名詞化されたものが﹁幸福なひと﹂である。 側プラトン﹃パイドン﹄一O
七 D 七 。 倒イタリアのその地で勢力を有していたピュタゴラス派の思想を語ったと解釈することはできる。叶ω
三ミ﹀加・込町ミミ黒字 E q g h u E 旬 。 ぱ3 .
選 定8
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・ 何 回 忌 ・ ・ 可 営 吉 J 町 内 号 言 。 E h y -F。 足 。 ロ ・5 ω
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・側プラトン﹃ティマイオス﹄一七 C 一