• 検索結果がありません。

On D. H. Lawrence’s Novellas D・ H ・ロレンスの中編小説について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "On D. H. Lawrence’s Novellas D・ H ・ロレンスの中編小説について"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Article

D・H・ロレンスの中編小説について

On D. H. Lawrence’s Novellas

大平  章 Akira Ohira

Abstract

Throughout his life, D. H. Lawrence wrote not only many novels but also a considerable number of short stories and novellas, such as ‘The Captain’s Doll’, ‘The Fox’, ‘The Ladybird’,

‘St Mawr’, ‘The Princess’, ‘The Virgin and the Gipsy’, and ‘The Escaped Cock’ (‘The Man Who Died’). Most of these have been highly evaluated by critics as well as by general readers due to their thematic variety, narrative power, psychological penetration and mythic imagination. Actually, these novellas represent Lawrence’s unique contribution to the development of modern fiction in his pursuit of this literary genre both in form and content. It is no exaggeration to say that Lawrence’s novellas are indispensable in evaluating his literary achievement, and it should also be noted that they are no less important than his major novels in the sense that they embody his experimental spirit leading to new literary dimensions and directions.

This paper aims to analyze and evaluate each novella by focusing on its characterization, plot, structure and the narrative power used by Lawrence in describing human beings’ inner life. In doing so, it will demonstrate that he successfully extended his own literary domain so that he could express his own idea in a more flexible way, that is, in a style which is different from that of conventional short stories.

(2)

(1)中編小説とは何か

 D・H・ロレンス(David Herbert Lawrence 1885-1930)は長編小説の他にも数多くの中短編小説を書 いた。長編小説については、とりわけ後期のいわゆる「指導性小説」の場合、主人公がまるでロレン ス自身の思想を代弁しているかのごとく描かれているという理由で、これまで批評家の間でその完成 度が疑問視されることもあった。これに比べ、中短編小説について言えば、むしろ、形式・表現・着 想の点で長編小説を凌駕しているという見方をされてきた。本稿ではそうした議論を念頭に置きなが ら、ロレンスの中編小説の構造上の特徴やテーマの斬新性について論じてみたい。

 このような目的に沿ってここでは、「大尉の人形」(The Captain s Doll)、「狐」(The Fox)、「てん とう虫」(The Ladybird)、「逃げた雄鶏」(The Escaped Cock) ─ これは後に「死んだ男」(The Man Who Died)として再編集された ─ 「セント・モア」(St Mawr)、「王女」(The Princess)、「処女とジ プシー」(The Virgin and the Gipsy)の七つの中編が取り上げられている。

 そもそも一般に何が中編小説なのか、中編小説と短編小説の根本的な違いは何なのかという定義 も、たとえば「十九世紀後半までには中編は散文形式になっていた。中編小説には厳密な形式上の 特徴はなく、短編よりも長いが、長編よりも短い散文的物語として最もうまく定義される」(Grolier 276)とあるように、それほど厳密になされているわけではない。長編小説以外の短い物語をすべて 短編小説の範疇に入れる場合もある。その方が小説全体の構造的特徴や歴史的発展過程を理解しやす いということもあろう。

 そのような脈絡で短編小説(short fiction/short story)の歴史を振り返ってみれば、われわれは、

ポー、モーパッサン、チェホフ、オー・ヘンリー、サキ、K・マンスフィールドなど、いわゆる短編 の名手と称される作家の名前を挙げることができるし、少数とはいえ、ポーのように短編の技法につ いて書いた作家にも言及できる。さらに、短編にはスタイルの簡潔さやプロットの明快さがあり、そ のことで他の芸術部門との柔軟な関係が生まれ、それゆえ、短編がたびたび映画(かつてはラジオ 劇)に利用されてきたことを挙げれば、その歴史的な役割が理解されよう(Fowler 222)。

 ところが中編小説について論じる場合、そのような比較の手掛かりはあまりない。ということで、

少なくとも、それを短編のように確立された、純然たるジャンルとして扱うのは難しいかもしれな い。が、中編小説が英語では〈novella〉と呼ばれていること、またその言葉がイタリア語起源であ り、言語上、長編小説を表す英語〈novel〉とも近親関係があることに注目すれば、両者がそれぞれ

「何か新しいもの」という属性を共有しているとも言える。ちなみに、ドイツ語でも中編小説には

〈Novelle/Novellen〉というラテン語系の言葉が使われ、ドイツ文学では、それは、単一の、サスペン スに満ちた出来事や状況や対立関係に限定された(長さは不定の)架空の物語で、論理的ではある が、読者を驚かせるような結末を生み出し、予期せぬ「転換点」(Wendepunkt/turning point)にいたる ものとされる(Baldic 152-3;Newworld Encyclopedia)。さらにそれは、具体的な象徴を含むものであ り、そのことが物語の定まった特徴とされる(Wikipedia)。ここでの「象徴」というキーワードは、

ロレンスの中編小説を評価する上できわめて重要である。

 たとえば「大尉の人形」ではドイツ人の女性が作る「兵隊の人形」が、「てんとう虫」では、てん とう虫の形をした指貫が、「狐」では人間の化身にもなりうる狐が、いずれもこれらの中編小説を読

(3)

み解く重要な「鍵」であり「象徴」でもある。本稿で取り上げるその他の中編についてもほぼ同じこ とが言える。しかし、ロレンスがドイツ文学における中編のこうした諸特徴を知っていたかどうかは 定かではないし、それはここではさほど注目すべき問題ではないと言ってよかろう。が、すでにロレ ンスがヘンリー・ジェイムズやコンラッドなどとともに中編作家として名前を挙げられていることを 知るのはむだではなかろう(Baldic 153)

(2)「大尉の人形」・「狐」・「てんとう虫」の意味するもの ― その象徴性

 ロレンスが自分の長編小説の原稿をたびたび書き換えたり、書き直したりしていたことを考えれ ば、これらの中編小説が、いずれもそれ以前に書かれた短編小説を土台にして、拡張されたもので あっても不思議ではない。実際、「大尉の人形」と「てんとう虫」にはそれぞれさらに短い前作があ り、「狐」も以前ロレンスが雑誌に発表した短編を改作したものであった(Lawrence 1992, xix-xx)。

が、ともかく、いったん書き換えられ、改良された作品もその時点で別の形式に発展すれば、そこか ら新しい文学的価値や機能が生まれるとも言えよう。まず「大尉の人形」について論じてみよう。物 語の概要は以下のとおりである。

 二人の美しいドイツ人女性ハネレ(Hannele)とミチュカ(Mitchka)は英国軍の駐屯するドイツ のある町で、装飾品や人形などを作って生計を立てている。ハネレは英国連隊のヘップバーン大尉

(Hepburn)を愛していて、彼によく似た、タータンチェックのズボンをはいた人形を作っている。大 尉にはイングランドに妻子がいるので、連隊でも二人の仲は噂になっている。それを知った大尉の妻 は夫の素行調査をするように連隊の大佐に手紙を書いたらしい。やがて大尉の妻は二人のドイツ人女 性が働いている仕事場に姿を現し、ついにハネレが大事にしている大尉の人形を見ることになる。

 大尉の妻は人形を見せてくれたことで、ハネレに礼を言いながらも、もしそのドイツ人の女(妻は ハネレとミチュカを間違えている)が人形を自分に渡してくれなければ、大佐に報告して、素行の良 からぬ外国人を追放してもらうことをほのめかす。大尉の妻が現れて以来、ハネレは、望遠鏡で夜空 を眺めている大尉の不思議な姿を思い浮かべたりしてあれこれ悩むが、結局、人形を大尉の妻に送ら ないことを決意する。

 やがてハネレは、ホテルの部屋で下着を乾かそうとしていた大尉の妻が、窓から転落して死んだこ とをミチュカから告げられる(物語のこうした展開は、辻褄合わせのようでもあるが、この時点では 犯人が大尉かもしれないという意味でミステリー小説の要素も伺わせる)。大尉の告白によると、妻 はかわいそうな女で、その言葉も思考もすべてが人工的なもので、彼女は架空の世界でまるで妖精の ように暮らしていたらしい。

 その後大尉は除隊し、ハネレとミチュカを追ってミュンヘンに赴くことになる。そして、大尉は、

あの人形が当地の店の陳列棚に置いてあるのを見る。人形のモデルが自分であることを大尉は店員に 告げると、製作者がドイツの伯爵夫人(ハネレ)であることが判明する。ミチュカ(男爵夫人)の方 はザルツブルクの騒擾事件に巻き込まれて死んだことが分かる(これも謎の死であり、彼女の恋人が 殺人犯である可能性もある)。人形の手掛かりを求めて大尉はさらに新聞のコラムを読む。そこでも 静物画に描かれている人形がハネレのものであることが分かり、彼女がチロルの金持ちの参事官(彼

(4)

には子供が二人おり、妻はすでに死んでいるが、そのことは詳しく説明されていないので、他殺の可 能性もある)と婚約していることを知る。その静物画を買った大尉はそれからハネレと参事官にチロ ルの町で会うことになり、美しい湖畔の別荘に招待される。

 ある日、大尉とハネレは渓流が流れ、ごつごつした岩に囲まれたチロルの山に登る。岩の下で食事 をしながら、大尉は、ハネレが人形を売ったことはよくない行為だと彼女に告げる。が、逆に、ハネ レは、自分はお金を得るために、あるいは大尉が自分を彼の妻に「売った」(自分を裏切った)から 人形を「売った」と説明する。大尉は静物画をナップサックに入れたまま歩き続ける。

 ハネレは大尉の愛の告白を理解しながらも、一方的に大尉に屈したくはなく、対等の立場でお互い に愛し合いたいと言い、大尉が譲歩してくれることを願う。しかし、大尉は、参事官と結婚しないの なら、自分と結婚してくれと要求する。さらに大尉は、自分に男としての名誉を与え、真に自分に従 う女との結婚を望み、女を崇拝するような結婚を否定する。かくして、大尉は最後に、東アフリカに 移住して土地を開墾する旨をハネレに伝え、彼女に同行してくれと提案する。彼女はそれに同意する が、それは男に従い、男に名誉をもたせるためではないと主張しながら、大尉が買ったあの静物画を 焼きたいと言う。

 これが「大尉の人形」のかなり込み入ったプロットであるが、人形がここで何を象徴するのかを読 み解くことがこの小説を理解する鍵になる。極論すれば、ここには、その頃ロレンスの心を強く支配 していた男性中心主義的な結婚観が象徴的に表明されているとも言える。つまり、そこには、自分の 愛する男性を常に理想化する女性への抵抗と批判が見られる。また同時にそれは、女性による男性の 理想化、もしくは偶像化に対する反対表明でもある。換言すれば、それは、つまり「人形」という形 で女性が男性を理想化し、偶像化する、通常のロマンティックな愛の拒否である。が、大尉の言葉は それをハネレに納得させるほど説得力があるものではなく、その男性中心主義的な結婚観は逆にハネ レの反発を誘発し、大尉自身の態度もたびたびぐらつく。そうした男の優柔不断な態度を変えさせよ うとして、あるいは男の主張する愛をある程度受け入れようとして、ハネレはあの人形が描かれた静 物画を焼こうとするのか、それとも絵を焼くことが、人形を売ったこと(大尉への愛を忘れようとし たこと)への罪滅ぼしになるのか、どちらにせよ真相は定かではない。その象徴を物語の成り行きか ら読み取るのは難しい。

 こうして、人形によって愛が偶像化されれば、男性に真の敬意を捧げる愛の形態が否定されるとい うメッセージが繰り返し読者に伝えられる。そういう意味では、大尉の妻の存在もここでは重要であ る。大尉の妻はハネレとは対照的な性格の女性のように見えるが、愛する自分の夫を人形のように扱 う(それゆえ、妻は人形をたびたび取り返そうとする)という点では、愛を偶像化する同じ女性の系 列に属するとも言える。

 さらに、この小説では、戦争時代のオーストリアの厳しい社会状況(ユダヤ人に対する批判的な描 写も含まれている)とチロルの美しい自然風景とが微妙に交差し、ハネレの複雑な心理を伝えようと する描出話法があいまって、独特の小説空間を作り出している。

 「狐」も第一世界大戦後のイギリスを背景として描かれた小説であり、一人の男性と二人の女性が 繰り広げる「愛の三角関係」という点では「大尉の人形」に共通するものがある。とはいえ、彼らの 微妙な愛憎関係は、それがフロイトの深層心理学によって、とりわけ「夢の分析」によって解釈され

(5)

るという点で注目に値する。加えて、動物である狐が、人間の夢の中でさまざまな象徴として現れ、

ある意味で「擬人化」されるという点で、この中編の解釈をさらに多様にしている。実際、この作品 はこうした脈絡でこれまでたびたび取り上げられてきた。その概略は以下のとおりである。

 バンフォード(Banford)とマーチ(March)という三〇歳に近づく二人の女がコーンウォル地方で 農場を営んでいた。ところが、家畜の病気が流行したり、狐が出てニワトリを食べたりするので農業 経営は悪化した。狐を銃で撃ってもむだであり、一時は農業経営を諦めた。それが原因で二人の関係 はぎくしゃくした。

 マーチは再び狐を撃とうとしたが、狐の目が自分をじっと見ているようであった。一方、彼女は怪 しげな狐の神秘的な力に引かれてもいた。ある晩、ヘンリー(Henry)という若い兵隊が現れ、五年 前には自分自身もここに住んでいたと言う。マーチはすでにこの男に魅了されており、彼はまるで狐 のように映る。ヘンリーは、祖父とはそりが合わず、しばらくカナダの西部で働き、ここに戻ってき たと言う。さらに彼は戦争が終われば、女性は農業労働に不必要となり、農業経営に未来はないこと を彼女たちに告げる。マーチはすでにヘンリーと狐の存在を重ね合わせ、「狐の臭い」を感じ取る。

そして彼はこの農場に泊まることになる。

 マーチはその晩、夢の中で狐が歌っているのを見た。近づくと狐は歌うのを止めて逃げた。狐は彼 女の手に噛みつき、狐の尾が彼女の顔に当たり、さらにその尾には火が燃え盛っていた。彼女の口は ひりひり痛んだ(この夢の世界にフロイト的な性への暗示があることは明らかである)。結局、ヘン リーはここにしばらく留まることになった。昼間は猟に出かけたが、ヘンリーは農場にいてマーチと 結婚することを考えていた。一方、バンフォードはヘンリーが横柄で、生意気だと思い、彼を憎んだ

(ここではバンフォードとマーチがレズビアンのような関係にあることを知る必要がある)。マーチは 編み物をしながらまた狐の夢を見た。マーチは、狐を撃とうとしても、すばしこくて逃げられ、逆に 自分は狐に魅了されていると彼に言う。ヘンリーはマーチを強く抱きしめ、燃えるようなキスをす る。バンフォードのことも気にしながらも、ついにマーチは結婚を承諾する。

 若者は自分がマーチと婚約したことをバンフォードに告げるが、彼女にはそれが信じられない。バ ンフォードはヘンリーがろくに職にも就かず、銃を撃つだけの能なし男であり、結婚などしたら思い あがって、すぐにマーチを捨てるだろうとマーチを諭す。

 ヘンリーはある晩、ニワトリを狙って柵の中に侵入しようとした狐を撃ち殺す。その晩、マーチは バンフォードが死んで、棺桶に入れられる夢を見る(深層心理では自分の嫌な相手への死の願望を象 徴する)。翌朝、二人の女は撃ち殺された狐を見る。ヘンリーはマーチと結婚してカナダに行きたい とバンフォードに言うが、バンフォードはそれに反対する。一方、ヘンリーは彼女に反対されるのが 嫌だった。

 結婚の準備は整っていたが、ヘンリーとの結婚は受け入れられないという内容の手紙をマーチから 受け取ったヘンリーは逆上し、二人の結婚を阻止しようとしているバンフォードに抗議をするつもり で彼女に会いにいく。そこで彼は、斧で大きな木を切り倒そうとしているマーチの姿を見て、バン フォードにも注意するよう呼びかけるが、切り倒された木がバンフォードに命中して彼女は死んでし まう。

 ヘンリーはこうしてマーチと結婚することになったが、バンフォードが死んだことで、複雑な思い

(6)

がマーチの心に残り、罪の意識がますます深まるばかりで、彼女は絶望的な状況に追い込まれ、ヘン リーにしても同じような気分にさいなまれる。結婚した二人は忌まわしいイングランドを去ろうとし ていた。ヘンリーはカナダに行けば悪い運命から逃れ、二人は幸福になれるかもしれないとマーチに 言う。

 ここでも二人の罪の意識は複雑な深層心理として描出話法によって表現されている。さらに、リア リズムと心理主義の不思議な組み合わせがこの中編を際立たせている。また中編の特徴である、予想 されないような転換点もある。が、最も重要な問題は狐の象徴をどのように理解するかである。それ をめぐってさまざま解釈が可能になるのがこの中編の最大の魅力でもあろう。

 日本では狐が神の使いとして、あるいは人間が狐の化身として神秘化されることもある。一方、英 国では、狐狩りに見られるように、狐は基本的には害獣と見なされ、狐がそのように神秘化されるこ とはまれだと思われる。が、この作品ではヘンリーを狐の化身と見なすことは可能であろう。狐は、

その性的象徴(マーチの夢の中で現れる狐の男性的イメージ)によって同性愛的傾向のある二人の女 を引き離し、一方では、多少、男性優位主義的なニュアンスを漂わせながら、正常な異性関係へと マーチを向かわせるが、他方ではバンフォードの嫉妬心を掻き立てる。ところが、狐の化身であるか もしれないヘンリーが同じ狐を撃ち殺すとなると、その象徴を読み解くことはさらに難しくなる。狐 を殺すことで、彼はその神話性や神秘性を自ら剥ぎ取り、ごく普通の男(マーチの結婚相手)になっ たとも言えるかもしれないし、逆に彼が狐の化身としてその魅力をマーチに対してもち続ければ、バ ンフォードにとって彼は、マーチを自分から引き離す敵になるかもしれない。

 ロレンスの中編に見られるこうした象徴主義的傾向は「てんとう虫」においてさらにその神話性を 深め、それは後に言及する「逃げた雄鶏」において頂点に達する。それでは次に「てんとう虫」の概 要に触れてみたい。

 博愛主義者の貴族ビヴァリッジ夫人(Lady Beveridge)は、敵の負傷兵がいるロンドンの病院を訪 れて、絶望的な状況にある彼らを励ましていた。彼女は、その中の一人で死にそうになって眠ってい るディオニス伯爵(Count Johann Dionys)に声をかけた。ディオニス伯爵の胸には弾丸が貫通し、も う一つの弾丸で肋骨が折れていた。病院から帰る途中で彼女はハイドパークの近くに住んでいる自分 の娘ダフニー(Lady Daphne)のところに立ち寄った。美人のダフニーは、夫ベイジル(Basil)が東 部戦線で行方不明になり、兄も戦死し、加えて自分の子供が死産だったので打ちひしがれていた。さ らに彼女は、ディオニス伯爵が、瀕死の状態で病院にいることを知り、少女時代に彼から、彼の家の 紋章であるてんとう虫と、蛇の形が付いた指貫をもらったことを思い出した。病院に彼を見舞ったと き、彼女はディオニス伯爵から、その指抜きを使って自分のシャツを作ってくれと頼まれた。

 ディオニス伯爵は、物事の本質が「闇」にあること、ダフニーの美しさも「闇」の裏返しであるこ と、自分は「破壊の神」を信仰していることなどを彼女に語った。心の中では、彼女は小柄な伯爵の 思想を嫌い、美男子である自分の夫のことを思い出し、トルコで捕虜になっている夫への愛を募らせ た。が、ある時、彼女はその指貫をなくしたことに気づいた。

 戦地から帰ってきた夫には、口元に傷があり、その傷は彼の精神に深く刻まれているようであっ た。夫は顔に傷があっても以前のように自分を愛してくれるかとダフニーに尋ね、跪いて彼女の足に キスをし、さらに、彼女を「イシス」(Isis)、「キュベレ」(Cybele)、「ヴィーナス」(Venus)などの

(7)

女神にように崇める。それはディオニス伯爵の言う「闇の神」、「破壊の神」とは対極的であった。ソ ファーに座ったベイジルはそこに指貫が落ちているのに気づいたが、妻は、あなたのシャツを縫って いたと嘘をつく。夫は、指貫を彼女に与えたドイツ人の伯爵については何も覚えていないようであっ た。

 愛の女神の権化として夫から崇められるが、彼女の心は空虚になり、ますますディオニス伯爵に引 かれる。夫とともに病院を訪れたダフニーは二人の議論に耳を傾けていた。ベイジルは愛にはすべて 意味があると言うが、逆に伯爵は、現代人の愛は狭くて、それは暴政であり、さらに平和は最も危険 であり、生まれながらの貴族こそが人民を支配できると主張する(それは現代人の愛とデモクラシー を否定するロレンスの思想を髣髴させる)。

 やがてダフニーは伯爵に心から引かれ、彼を深く愛するようになる。彼は冥府の神「ハーデース」

(Hades)であり、死後の世界に生きる人間であり、そこにダフニーを導こうとする(それは冥界の王 プルートーとその妻ペルセポネーの関係と重なる)。伯爵は、闇の世界の中だけできみはぼくのもの であり、きみはてんとう虫の夜の妻なのだ、と彼女に語る。最後に、伯爵は「自分のことを信じなさ い。死の向こう側からぼくはきみを見ている。死の世界ではぼくはいつもきみのそばにいる」とダフ ニーに言い、同時にベイジルには、人間は自分の内奥の真実によって生きることでしか幸福になれな いことを教える。

 ダフニーのモデルは、一般に、ロレンスと文学上の係りがあった英国の貴族シンシア・アスキース 夫人(Lady Cynthia Asquith)とされているが、他方、男性主人公ディオニス伯爵の人間像にはこれま であまり具体的に言及されてはいないようである。伯爵は、ベイジルの「愛の思想」を否定し、それ に代わって闇の世界と冥府の神を信奉することで、つまり、彼女をより高度な神話的象徴性の世界へ と導くことで、ここでは主導的な役割を果たす。

 ディオニスというその名前が示すように伯爵が酒神ディオニソス(バッカス)と関係していること は容易に想像される。しかし、確かにディオニス伯爵の「死の世界を司る闇の神」が示唆する暗いイ メージや世界観が、享楽と恍惚の象徴である酒神ディオニソスの肯定的世界観と必ずしも一致しない ことは事実であり(Sagar ed. 25)、その点では、伯爵の死の哲学や闇の思想の真意をなぜダフニーが 理解できるのかは不可解である。この中編でもロレンスはリアルな状況説明と秘儀的な神話的描写を 交差させながら独特の小説空間を作り出しているが、時として、それがバランスを欠き、小説そのも のの展開を分かりにくくしているのも事実である。それでも、結末に向かう際に見られるストーリー の意外な転換は中編に特徴的な要素を備えている。

(3)「セント・モア」、「王女」、「処女とジプシー」および「逃げた雄鶏」におけ る宗教性と神話性

 ロレンスは、一九二四年にはニューメキシコおよびメキシコでの体験に基づき、「セント・モア」、

「王女」、「馬で去った女」(The Woman Who Rode Away)などの優れた中編、短編を書いた。それらの 多くは、古代宗教の「地霊」を喚起し、それに収斂するものであるが、それぞれ独自のテーマや技法 を、とりわけフロイトやユングに由来する深層心理の描写や神話的象徴性を、この異教的空間におい

(8)

て深化させるという点で異彩を放っている。中でも「セント・モア」はこれまでそのような脈絡でた びたび論じられ、彼の長編小説に比肩するほどの評価を獲得してきた。『虹』(The Rainbow)、『恋す る女たち』(The Women in Love)において断片的にしか語られていない、馬の象徴が小説全体のテー マを支えている。その点ではおそらくフロイトよりもむしろ、ユングのロレンスへの影響が指摘され よう。以下が「セント・モア」の概略である。

 アメリカの裕福な家庭で育ったルー・ウッィト(Lou Witt)は、ヨーロッパの主要都市で青春時代 をすごした後にアメリカに戻ってきた。彼女はローマで芸術家や大使館の要員と付き合っていた。そ の中にオーストラリア出身のリコ(Rico)という、准男爵の、芸術家肌の息子がいた。二人は結婚す るが、両者の関係が険悪になり、それぞれいったん故郷に帰る。その後、二人は再び恋に落ち、パリ で結婚してボヘミアン的な生活を送った。ルーの母親ウィット夫人はフランスにあるアメリカの赤十 字病院で負傷兵を看護していた。そこで彼女は、メキシコ人とインディアンの混血児フィーニックス

(Phoenix)の面倒を見ていた。馬が好きなフィーニックスのために農場を買ってやったウィット夫人 はある日、彼を馬丁にして、ハイドパークを行進することになった。

 こうした状況で、ルーはウェストミンスターにある家の庭の厩舎で雌の栗毛馬を飼うことになっ た。そこにウェールズの国境地帯からセント・モアという雄の種馬が連れてこられた。ルーはセン ト・モアをリコの馬として手に入れる決意をする。セント・モアが売られた理由は、種馬としての役 割を果たさず、暴れて人の手に負えなかったからである。ルーはセント・モアの体にある種の生命 力、太古の闇の力があるのを感じ、この悪魔のような生物の魔力に魅了される(セント・モアのこの 異様な、闇の生命力は、ロレンスの他の小説でもたびたび強調されており、ここでもそれは小説を理 解するための鍵となる)。

 一方、リコは、値段が高いので馬を買わないようにルーに言う。そこでルーは自分の母親に支援を 求め、馬の世話役としてウェールズ人のルイスを雇う。ところが、馬はたびたび暴れて、手に負えな いので、リコは馬を売るようにルーを説得する。一方、セント・モアの「暗い生命力」を信じるルー は、それに応じず、シュロップシャーのコテッジに馬を送り、馬はそこでしばらく暮らすことになっ た。ルーは、普通の男は飼いならされた犬のようで、真に動物的で野性的なものがなく、セント・モ アやルイスやフィーニックスのみがそれをもっている、と主張する。再びセント・モアが暴れてリコ がけがをする。リコの救済のためにセント・モアに乗って出かけたルーは、途中で頭を砕かれたマム シの死骸を草むらで見る。その後ルーは夢の中で「悪のヴィジョン」を見ることになるが、その内容 はだいたい以下のようなものである。

 「悪の潮」が人類や国民を押し流し、全世界がこの逆らうことのできない「悪の潮」に呑み込まれ た。「アジアの核」からその「悪」が湧き上がり、得体の知れない極から到来するように、それが 迫ってくるのを彼女は感じた。そこから逃れることもできず、それは大地を呑み込んだ。馬の異様な 姿を見ているとそれが幻想のように立ち現れてきた(Lawrence 340-41)。「悪」のこの異様な潜在力が 個人、社会、新聞、社会主義、ボルシェビキ、ファシズムの中にもあり、それが同種だと彼女は思っ た。人間は生きるために自己破壊を繰り返すのか?(Lawrence 342)。

 こうしたルーの問い掛けは、後期のロレンスの小説やエッセイで何度か繰り返されるものであり、

そこには、戦後の人間社会への彼自身の不信感や絶望感が凝縮されている。が、「死の神」、「闇の神」

(9)

に象徴される「アジアの核」とは一体何なのか?それがなぜ西洋のあらゆる人間主義を破壊する力な のか?この問題を念頭に置くことが、この中編の解釈の鍵になる。

 セント・モアに蹴られて大けがをしたリコは永久に身体障害者になるかもしれなかった。狂暴なこ の馬を銃で撃ち殺すべしという意見も持ち上がったが、結局、馬はニューメキシコに連れていかれ、

自由にさせられることになった。ルーはセント・モアとともに文明の中心地から離れ、自分の故郷に 戻ることができてうれしかった。

 かくして、ルーはまるでヴェスタの処女のように、女として神聖、かつ真正なものだけに仕える決 意で、松林に囲まれた広大なロッキー山脈のそびえるアリゾナの地に暮らすことになった。ここには 六〇年前に金脈を求めてやってきた男が建てた小屋があった。ヤギを飼ったり、野菜を栽培したりし て一時は農場も成功したが、病原菌が蔓延し、ヤギもコヨーテに襲われて男は農場から撤退した。そ の後もメキシコ人が農場を受け継いだが、害虫が発生して農場を手放した。こういう状況でルーが現 れ、その土地を不動産屋から買ったのである。そこで彼女はリコからも離れ、「通俗的な性」ではな く、「真の性」を求めて暮らすことを望む。ウィット夫人は、それはいったい何なのかとルーに尋ね、

最後にルーは、それはこの広大な自然風景を支えている霊魂であり、宗教や男よりも深い何か野性的 なものであり、アメリカの野生の魂だと答える。

 この「野生の魂」、「真の生命力」こそ、ルーがセント・モアをとおして知りえた新しい精神であ り、それは既成の人間関係や伝統的な社会の価値観、および従来の男女関係を凌駕する世界の象徴で ある。が、それが具体的にどのような形で実現されるのかは、馬がいなくなれば、必ずしも明確とは 言えない。ルーとウィット夫人は、現代ヨーロッパの通俗的な男性意識を代表するリコとは対極的で あるルイスやフィーニックスに真の男性的魂を求めようとするが、それがルーの求めるアメリカの野 生の魂の具現なのか、あるいはそれが、ルーが夢想した「アジアの核から湧きあがる悪の潮」とどの ように呼応するのかはあまり語られていない。

 荒々しく、しかも美しいアリゾナの自然やロッキー山脈の風景は、とりわけ小説の後半部で見事に 描写されているが、小説の結末は、最初に提示されたリコとルーの夫婦関係に内在する深刻な問題に 答えられるほど簡潔ではない。とはいえ、「セント・モア」がロレンスにとって、ニューメキシコに 彼の理想郷であるラナニムを建設し、それを支える重要な女性主人公の思想的原型を提示しようとし ているという点で、『翼ある蛇』(The Plumed Serpent)と同じく重要な作品であることは間違いなか ろう。さらに、付言すれば、こうした一見、中途半端で曖昧な感じのする結末は、この中編がさらに 長編へと発展する可能性があったことを示唆しているようでもある。

 一方、「王女」は、フロイト的な深層心理の描写にその特質があるが、神話的象徴性という点で は「セント・モア」に比べて重層性に乏しく、むしろロレンス特有の心理主義とリアリズムの混交に よって、ほどよい長さの、簡潔な中編として成功しているように思われる。そういう意味では、それ は中編と短編の中間に位置している作品の代表とも言えよう。以下がその概要である。

 スコットランドの高貴な家柄に属する父親とアメリカ人女性の間に、最初に生まれた女の子メア リー・ヘンリエッタ(Mary Henrietta)は父親から「わたしの王女」と呼ばれて愛されていた。とこ ろが体の弱い母親はこの娘が二歳のときに死んでしまい、彼女はもっぱら父親と一緒に暮らすことに なり、アメリカの親戚は名目上のものとなった。父親は王女に、彼女は高貴な家柄の出であるから、

(10)

他者を彼女よりも劣った者として扱うよう教えた。父親は彼女をヨーロッパ風にするためにゾラや モーパッサンやドストエフスキーの小説を読ませ、それが原因で、彼女は、現実離れした、生意気な 女になった。

 ところが、父親は年を取るごとに気がおかしくなって、面倒を見てくれる娘にも暴力をふるうよう になった。そういうわけで、若くて教養のあるカミンス嬢(Miss Cummins)が家政婦兼看護婦とし て雇われ、両者のためによく働いた。三十八歳のときに父親が死に、王女は世間の冷たい風にさらさ れることになった。今度は彼女の情熱的な愛情が父親からカミンス嬢に移った。二人はある時メキシ コ方面に旅行し、金持ちたちが集まるある農場に到着した。そこには大学出の男たちが彼女に興味を 示したが、彼女は少し生意気で、冷淡でもあった。ところが、王女の注意を引いた唯一の男は、ガイ ドのドミンゴ・ロメロ(Domingo Romero)であった。彼はスペイン系家族の出で、彼の家族は白人 の到来と牧羊業の失敗で落ちぶれ、彼自身も白人のために働く羽目になった。

 王女は肌の浅黒いこのメキシコ人男性に、他の男にはない親密さを感じた。ある日、二人はロッ キー山脈の近くまで行き、廃坑になった金山の山小屋に泊まることになった。その晩、王女は白い雪 に包まれて深い眠りに落ちる夢を見た。夢から覚めてまた寒い夜空を見上げた。女は自分を温めてく れる何かを求めたが、同時にその圧力を嫌った。自分を温めてほしいと言う女に同意してロメロは彼 女を抱くが、女は拒絶の悲鳴を発しそうなる。その体は麻痺したような感じだった(これは、異性間 のセックスを社会的には拒否しながらも、無意識のうちにそれを求めるという矛盾した心理がフロイ ト的な次元で描かれている重要な部分である)。さらに、暖かい陽光が降り注ぐ場所でロメロは王女 を抱きかかえながら、結婚を迫るが、自分は他者の意志に従うつもりはないし、自分を征服すること は不可能だ、と彼女は言う。

 四日後に王女を探しにきた男たちとロメロの間で銃撃戦が繰り広げられた。王女は小屋の中にとじ こもっていてロメロを励ますこともなく、冷たい態度を取っていた。結局、ロメロは森林警察隊に撃 ち殺されてしまった。その時、彼女は警察にロメロは気が狂って発砲したと述べた。真実は隠された まま王女はカミンス嬢に付き添われて東部に行った。目には狂気が漂い、髪も白くなり、王女はそこ で処女のまま年配の男と喜んで結婚した。

 この中編も「セント・モア」と同じく主要な舞台は、ニューメキシコやメキシコであり、乾燥した 砂漠や険しい山岳地帯の描写には目を引くものがある。また同時に、物語の展開を興味深いものにし ているのは、「セント・モア」にも見られる、文化的背景としてのヨーロッパとアメリカの比較であ る。古い世界と新しい世界の出会いは常に緊張や対立や葛藤を伴う。「王女」でもそれはとりわけ人 間関係や主人公の行動様式に色濃く反映されている。とはいえ、「王女」は「セント・モア」よりも、

ストーリーそのものが簡潔であり、プロットも比較的単純なため、読者にとって理解しやすいことは 事実である。加えて、メロドラマ的な仕掛けやユーモアが読者に親近感を与えてくれるし、捜索隊と の銃撃戦によるロメロの死は、意外性という形で中編に必要なある種の「転換点」を付与していると も言える。また、「狐」と同様、ここでもフロイト的な無意識の世界が、「夢の世界」を通じて、また 心理描写と自然描写の混交を通じて何か重要なメッセージを伝えようとしている。

 果たしてロレンスは、この中編で、父親によってまるで人形のように育てられた娘が、自分を変え ることなく一生をすごす例をただリアルに描いているだけなのか、あるいはまた彼女を批判すべき現

(11)

代女性のモデルとして描こうとしているのか。後者であれば、王女は、男性の愛を自分の観念の中だ けで理想化し、その肉体的生命力を動物的で不浄なものとして消そうとする、ある種の「観念」の女 性として、批判的に描かれていることになろう。一方、黒い肌、黒い目をもつラテン系のロメロが、

「闇の神」としてロレンスが肯定的に描く男性モデルに近いことは事実である。

 一九二六年に書かれ、三〇年に出版された「処女とジプシー」は、若い上流階級の女性が、自分 よりも身分の劣る、言わば社会のアウトサイダー的な人間たちに寄せる深い共感という点で「王女」

とは異なる。ロレンスはすでに初期の短編「牧師の娘」(Daughters of the Vicar)でも、牧師の娘が自 分よりも身分の低い労働者階級の青年を恋人に選ぶという形で、すでに類似したテーマを扱ってい た。おそらく彼はそれを「処女とジプシー」でさらに拡大し、発展させたものと思われる。ここには ロレンスがニューメキシコで得た体験は題材として扱われてはいない。むしろ彼は、初期のテーマ に戻りながら、さらにそれを後期のテーマ ─ とりわけ、登場人物としてのジプシーと森番の重要 性 ─ に発展させたように思われる。そういうわけで、この中編は『チャタレー夫人の恋人』(Lady Chatterley’s Lover)といくぶんテーマを共有している。それでは次に、この中編の重要な出来事に言 及してみたい。

 牧師の妻が一文無しの若い男と駆け落ちしたとき、そのスキャンダルが町中に広がった。それでも 牧師はまだ妻を愛していた。信心深い人々は彼女を悪女と呼んだ。牧師は優れた随筆家でもあり、多 くの知識人を魅了した。

 牧師の家を切り盛りしたのは七〇歳になるお祖母さんと四〇歳過ぎのシシー(Cissie)と呼ばれる 独身の伯母さんであった。お祖母さんは年を取ってはいるが、依然として家を支配していた。家には 十九歳と二十二歳の娘がいて、父親に溺愛されている妹のイヴェット(Yvette)は伯母に嫌われ、姉 のルシール(Lucille)はひそかにお祖母さんを嫌っているようであった。お祖母さんと伯母さんが家 の「忠実」という伝統の権化であり、その二人が家を支配していた。

 イヴェットが車で友人たちとピクニックに出かけたとき、車の前方で荷馬車を引いている男とそ のそばで袋を背負っている女がいた。その男がジプシーであることをイヴェットは知っていた。イ ヴェットとルシールはそこでジプシーの女に手相を見てもらうことになる。

 ある日、教会が集めたお金をイヴェットが使ったことが判明した。牧師はそのことを彼女に問いた だし、娘が母親の血を引くことを恐れた。伯母はイヴェットの不正行為が許せず、彼女を責め、軽蔑 した。その非難の言葉に傷つき、彼女はジプシーのようになって家から出ようとした。その時、彼女 は運勢判断で出た自分を幸福にしてくれる「黒い男」のことを思い出し、ジプシーの女に親近感を感 じた。彼女は教会が集めたお金の一部をジプシーの女に与えたことをだれにも言わなかった。

 ある日、ジプシーの男が、自家製の銅製品、蝋燭立、鍋などを売るために牧師館の裏手にやってき た。男は蝋燭立を買ってくれたイヴェットに自分たちところに来るように言う。そこにはまたブルー の毛皮を着た小柄なユダヤ人女性と大柄でブロンドのイーストウッド少佐(Eastwood)が車で来てい た。少佐は砲兵隊に属していたこのジプシーの上官であり、二人は戦争でともに戦ったのだ。除隊した 少佐は、元牧師の妻でありながら、離婚したこのユダヤ人と結婚して、自由の身になろうとしていた。

 イヴェットはルシールに、男と女を結びつけるものは何かと尋ねると、ルシールは、それは「セッ クス」だと言う。さらに彼女は「セックス」には卑俗なものと、レベルの高いものがあることを示唆

(12)

する。イヴェットは、自分の理想とする男性はむしろあの寡黙だが、高潔なジプシーだと言う。彼 が、肺炎で死にそうになりながらも復活し、さらに雪の下に四時間も埋もれていた少佐を助け出した ことを彼女は聞かされる。

 ある日、大雨で川が増水し、濁流が牧師館を押し流しそうになった。その時、ジプシーが溺れそう になったイヴェットを助け、家の二階に避難させて濡れた彼女の体をふいて温め、彼女をベッドに寝 かせた。やがて水が引き、太陽が輝き始めたが、橋は押し流され、牧師館も泥や瓦礫で埋まってい た。警察が二階の窓ガラスを割って寝室に入り込み、寝ているイヴェットを助け出した。お祖母さ んは溺死したが、ルシールと伯母さんも無事であった。が、ジプシーの姿はそこにはなかった。イ ヴェットはジプシーが自分を救出しにきてくれたことを皆に話した。後にイヴェットはジプシーから 手紙をもらい、彼が生きていることを知った。

 この中編には、特に文体上の斬新さはないが、リアリズムを中心にしたロレンス特有の物語の展開 が見事である。したがって、各登場人物の設定やその家族の背景は依然として重要な要素を占める。

その中でも「牧師の家族」と「ジプシーの家族」が対極的に描かれ、一方が「腐敗」、「堕落」、「欺 瞞」、他方が「自由」、「解放」、「誠実」を象徴する。前者は因習と伝統の中で閉塞状態にあるイギリ ス社会であり、後者は、それを凌駕する、開かれた社会である。ロレンスがここで前者を否定的に描 いていることは明らかである。それゆえ、その害悪と罪は「洪水」によって一掃されなければならな いのである。それを強調するために、ロレンスはここでも「旧約聖書」のエピソードである「ノアの 洪水」のイメージを駆使する。

 創造的な生の息吹を失った古い社会に代わって、ジプシーの自由で人間味のある生活が、果たして どれだけそれに対抗できるかは別にしても、それに賛同するイヴェットの価値観の変化を通じて、ロ レンスは自分の意図を代弁させているとも言える。おそらく、イーストウッド少佐とユダヤ人女性の 関係も、古い社会の桎梏やしがらみから解放され、自由に生きようとする人間の例として、換言すれ ば、ジプシーの世界に共鳴する肯定的要素として描かれているのであろう。が、小説の中では、この 二人の関係の行く末についてその後、何も語られていない。とはいえ、ここでも小説の宗教性と神話 性は、伝統を墨守し、型にはまった宗教生活や信仰をよしとする「英国国教会」の世界と、ジプシー の神秘に満ちた神話的世界の対照によって、それぞれ対抗的な要素を成すものとして読み取れる。

 「逃げた雄鶏」は宗教性と神話性が最も密に交差するという点で、またそこにロレンスの想像力と 創造性が収斂しているという点でも、特質に値する中編小説であり、これまでも多くの批評家からそ うした評価を獲得してきた。事実、そこではロレンスの小説のいくつかに見られる説教主義や、いさ さか単調とも言える道徳談義が姿を消し、宗教と神話を融合させながら、それをある種の統一的な芸 術として提示しようとするロレンスの意欲が見られる。そこで展開される宗教的イメージや神話的 象徴の多様性にはロレンス独自の資質が伺われる。とはいえ、この中編を理解するには少なくとも

『黙示録』(Apocalypse)におけるロレンスの現代キリスト教への批判、および『エトルリアの遺跡』

(Etruscan Places)に見られる肯定的な古代宗教への理解が必要である。宗教や神話はそこでも道徳 ではなく、象徴として解されることで人間に意味をもつことになり、同時にこれが「逃げた雄鶏」に ついても当てはまる。以下がその概要である。

 農夫とその妻は、二人でエルサレムの近くの泥レンガの家に住み、雌鶏やロバ、さらには闘鶏など

(13)

を飼っていた。同じころ、明け方前の同時刻にある男が長い眠りから目覚めた。彼は縛られ、傷つき ながらもその冷たい体を震わせて甦った(キリストの復活の象徴)。その男の額に傷跡があるのを農 夫は見た。「わたしは死んではいない、甦ったのだ。やつらがわたしを見つけるとまた同じことにな る」と主は言った。農夫の妻は死んだ男(主のこと)をここに泊めるのは嫌だったし、生き返ってい るが何も言わない主を怖がった。翌朝、死んだ男は、良くなって起き上がり、痛む体を引きずりなが ら庭の方に向かった。

 振り向くと女が墓のそばで泣いていた。「恐れるな、わたしは生きている、わたしは甦ったのだ」

と主はマグダラ(マグダラのマリア)に語った。さらに主は女に「わたしの教えは終わった、これか らは自分だけの人生を生きよう。ユダにも悪いことをした」と語った。女からお金をもらった主はそ れを農夫に差し出し、それでパンを買いなさいと言った。そのお金の代わりに農夫は主に雄鶏(生命 力と美徳の象徴)を与えた。キリスト(主)は髭を剃り、服を着て出かけようとした。主は「人間の ところに戻るときが来た」(これはツァラトゥストラの言葉に似ている)と彼に語った。

 主の雄鶏は宿屋の主人の雄鶏と戦い、勝利を勝ち得た。それからまた主は、自分の雄鶏に向かって

「おまえは自分の王国と、おまえにふさわしい女を見つけたのだ。おまえの独自性が輝きを増し、雌 鶏の魅力によって甦ったのだ」(雄鶏はキリストの肉体的・性的蘇生の象徴、また男根の象徴でもあ る)と語った。

 主はレバノンの近くの海岸にやってきた。そこにはイシス(古代エジプト神話の女神)に仕える女 司祭が黄色い服を着て立っていた。彼女は自分が建てて、長年管理している神殿に戻っていき、女神 の前で空想に耽っていた。その女神は男神から分離された、また男神を探求しているイシスであり、

そのイシスの神は死んだオシリスの死骸の断片を探しているのだ。オシリスは死に、分解され、ばら ばらにされて広い世界に捨てられたのだ。そして、イシスはその心臓・膝・顔・腹を収集し、復活さ せなければならないのだ。

 女司祭がイシスの神への儀式を終えると、黒い口髭を蓄えた黒い顔の男が神殿の段の隅から姿を現 した。女司祭は宿を探しているこの黒い顔の見知らぬ男に「探求するイシス」のことを教え、奴隷が 彼を海岸近くの洞窟に案内した。女司祭は死んだ男のいる洞窟に案内され、彼に威厳のようなものが あるのを感じ取った。

 男が泊めてもらったことで女司祭に感謝し、立ち去ろうとすると、女司祭は「あなたはオシリス だ、行かないでくれ、ここに留まってくれ」と叫ぶ。女司祭は男をイシスの神殿に案内し、男の傷跡 に油を注ぐ。女は自分の胸を男の傷跡に当てながら、腕を体に回し、傷を覆うようにして体を摺り寄 せる(性的比喩と神話的比喩の融合)。

 ついに死んだ男は女司祭との肉体的接触によって生き返った。イシスも暖かい女神となり、甦った オシリスで満たされる(男女の性的結合の神話的表現)。女司祭はキリストに、ここに留まれと言う が、ローマの官憲が来たことを察知して、奴隷が用意した舟でキリストは立ち去った。最後に、キリ ストは「…わたしはバラのエキスのような女の香りを自分の肉体に運ぶのだ。女はわたしの存在の 真っただ中でいとしい。が、金色の流れるような蛇がとぐろを巻いてわたしの木の根元で寝ようとし ているのだ。舟でわたしを運んでくれ、明日は別の日だ」と、神話的象徴性に包まれた表現を用い て、永遠の男性的生命の復活を示唆する(Lawrence 600)。

(14)

 「逃げた雄鶏」でロレンスが、硬直した現代のキリスト教を批判していることは容易に読み取れる が、キリストが異教の女神の女司祭との出会いによって肉体的に甦るという大胆な発想は、たとえそ こにユングやフレーザーの神話的発想の影響が見られようとも、ロレンス独自のものであることは間 違いなかろう。キリストの厳格な道徳主義への批判が理論的な次元を超え、死から復活するキリスト の新たな人間像が現世的イメージとして象徴化されているのがその特徴である。

 こうした神話と宗教の現世的表象は、ロレンスがエトルリアの墳墓の中で見た異教徒の宇宙観や世 界観の反映であろう。その根底にはニーチェの反キリスト教的精神があるとはいえ、それは、ロレン スの場合、異教神話との融合でより芸術的な次元に昇華されていると言えよう。宗教性と神話性の芸 術的融合はロレンスの小説の真骨頂と言うべきものであり、それを彼がこの中編で成し遂げようとし ていることは事実であるが、彼のこうした芸術的意図に馴染みのない読者には、この作品はそれほど 理解しやすくはない。

結語 ― ロレンスの中編小説の評価をめぐって

 ロレンスの中編小説はこれまで、その評価をめぐって多くの批評家によって論じられ、総じて高い 評価を受けてきた。ここでは最初にF・R・リーヴィスの批評から始めてみよう。

 彼は、「大尉の人形」にロレンスの芸術の柔軟性を指摘しながら、その本質を「ユーモアや皮肉、

および、洗練された、非常に文明化された喜劇のあらゆる活気」に見出す(Leavis 197)。さらに、彼 は、「てんとう虫」の成功を、「詩的な熱意を湛え、詩的に予言される厳粛かつ高貴な誠実さの維持」

に結びつける(Leavis 197)。「狐」については、彼は、それがユーモアや皮肉によってではなく、下 層中産階級の日常性の素朴さを完璧にとらえていることで効果を発揮していると言う(Leavis 197)。

 「セント・モア」ではさらに一歩踏み込み、リーヴィスは、現代社会の精神的空虚さに対するロレ ンスの鋭い批判をその底流に感じ取り、この作品における創造性、技術的独自性の点でロレンスはエ リオットの『荒地』を凌駕している、と論じている(Leavis 225)。もう一つの重要な点は、彼が、人 間の手に負えない種馬であるセント・モアを「性的なシンボル」と見なし、そこに性に対するロレン スの強迫観念的な態度を見る一般的な解釈を批判していることである。リーヴィスはセント・モアを あくまでも、人間の意識や精神に従わない、あるいはそれに支配されない、自発的な生命の象徴と見 なす。その背後に、当時のイギリスのエリート的文化集団としてのブルームズベリー・グループやケ ンブリッジ学派に対する、その虚偽の文化に対する、また換言すれば、その実質的な「害悪」に対す るロレンスの批判を読み取ることがリーヴィスの目的である。リーヴィスによれば、野性的なアメリ カに代表されるその「精神」こそ、ブルームズベリーの世界に対抗できる、ロレンスの肯定的要素で あり、それを探求することで小説そのものが意味をもつことになる。

 「大尉の人形」の解釈に関して新しい方向を示唆しているのは、M・スピルカである。彼は、リー ヴィスの解釈に基づきながらも、そこではあまり議論の対象にされなかった男女間の問題に言及す る。問題は、「大尉の人形」では、三つの謎に包まれた女性の死が描かれているのに、それがこれま で注目されてこなかったことである。一つは大尉の妻の転落死であり、二つ目は、ミチュカがザルツ ブルクで死んだことである。そして、三つ目はハネレのフィアンセである参事官の妻が結婚してから

(15)

七年後に死んだことである。スピルカは、これらの女性の死はいずれも愛の三角関係によるものであ り、とりわけ夫が自分の浮気を隠すために計った殺人行為の可能性もある、と言う。たとえ、女性が 男性を恋愛関係において欺いたとしても、男性が仕返しに暴力をふるったとしたら、現在のフェミニ ズムの規範や基準では男性は法的に裁かれることになり、同時にそれを少なくとも容認する作家も厳 しい批判にさらされる。スピルカの主張は、そうしたネオ・フェミニズムの脈絡の中で男性優位をほ のめかす作家がどう位置づけられるかという問題に関連する。その際、彼は、「大尉の人形」を「愉 快なほど豊かで、難しい、読み甲斐のある物語、おそらくロレンスがこれまで書いた最良と思われる 短編(中編)」と見なす(Spilka 256)。

 同じくG・ハフの批評でもこれらの中編についてかなり詳しい分析がなされている。「大尉の人形」

に関してハフは、大尉の妻の生活や性格の描写がある種の社会的コメディーを構成していること、ま た、大尉が自分の要求する条件でのみハネレと結婚しようとするのに、逆に彼女に反発されることが コミカルな効果を上げていることを強調する。また彼は、「てんとう虫」をロレンスの重要な作品と 見なしながら、ディオニス伯爵の擬似神秘主義的哲学が、物語の展開と噛み合っていないことに言及 し、ロレンスが「ディオニス伯爵を現実世界から完全に遊離させ、その他の登場人物を小説家の紋切 り型にしている」と批判的な見解を披歴している(Hough 176)。

 「王女」関してもハフは「性的タブーを内面化した女性と、直情的な男とのコントラストは面白い が、物語全体は不快感をもたらす」と否定的に捉えている(Hough 180)。逆に「狐」については「単 一のテーマを無理なく展開させている点で完璧である」と言う(Hough 177)。リーヴィスが「セン ト・モア」に高い評価を下している反面、ハフはそれをロレンスの失敗作と見なしている。「セント・

モア」は見せかけの解決を供給するものであり、洞察力や見事な発想があちこちに見られるが、この ような虚偽の特徴が作品全体に流れている、とその結論はいささか手厳しい。

 一方、「処女とジプシー」をめぐるハフの意見は穏やかである。そこには、「セント・モア」に見ら れる浅薄な社会風刺はなくなり、自分自身の最も身近な環境やテーマに回帰しようとするロレンス独 自の文学的資質が再び戻ってきたことをハフは強調する。さらにまたハフは、「逃げた雄鶏」(「死ん だ男」)においてこそ、ロレンスは、自分が小説や評論で熱心に考え抜いた哲学の限界を乗り超えて いる、と述べながら、この作品を「ロレンスの完成品」と結論づけている(Hough 190)。

 次にE・W・テッドロックの見解を紹介してみよう。「狐」に関連して彼は、狐をある意味で、二 人の女性の不自然な性的関係を打ち破る魔力と捉える。さらに、彼は、狐を、ヘンリーの肉体的風 貌、目的を達成するあの狡猾なやり方、その暗い、服従を誘発する力に重ね合わせることで、神秘 的、無意識的な力、つまりケルト・コーンウォル的な神秘性をロレンスが惹起している、と指摘する

(Tedlock 117)。しかし、結果としてこの物語に生じる曖昧さのため、読者は、ロレンスのテーマに一 貫性を見出せないかもしれない、と彼は結論づける。

 「てんとう虫」をテッドロックは、戦争が精神にもたらす致命的な影響を描いた複雑な比喩と見な し、そこでは、『翼ある蛇』において頂点に達するロレンスの指導性のテーマが初めて中編小説の形 で展開されていると捉える。さらに、そこではロレンスの若さあふれる経験の神話的パターン ─ 夜 と昼、闇と光、無意識と意識、死と復活 ─ が、彼が人類学や神智学の本を読んだことによって補強 されている、とテッドロックは言う(Tedlock 120)。加えて、彼は、カーライルやニーチェ的なニュ

(16)

アンスを伴うこの「優れた魂への服従」がますます重要なロレンス的テーマになっていくことを強調 する。

 彼の「大尉の人形」に対する批評も「狐」や「てんとう虫」とほぼ同じくロレンスの伝記的な脈絡 でなされ、「物語は、戦後のヨーロッパにおける生活が絶望的であるというロレンスの強い確信、自 ら選んだ流浪生活では宗教に根ざした新たな生活を開始する必要があるという認識、そうした努力に おいては男性の指導性が愛と結婚を支配するという男性優位の考えに由来する」と彼は結論づける

(Tedlock 128)。さらに「セント・モア」については、「生命主義的な意識と反抗の中心的シンボルで ある馬が姿を消すことによって、小説が途中で想像力の破綻をきたしているが、ロレンスの最高の作 品に比肩する」ものとして、また「王女」については、「セント・モア」や「馬で去った女」と比べ ると豊かな発展性という点で劣るが、「最も鋭い社会心理学的な洞察力を含んでいる」作品として位 置づけられている(Tedlock 183)。

 「処女とジプシー」の解釈においてもテッドロックは彼独自の見解を披歴している。彼は、夫と離 婚中であり、かつ少佐の恋人であるユダヤ人女性に注目し、ロレンスがその女性を、デカダンスに対 する生命主義の反抗として機能する追放された集団の一員として選んだと解釈する。同時に「反社会 的な」このユダヤ人女性を恋人として暖かく受け入れようとする少佐の人間性も同じ脈絡で解釈され る。洪水についても彼はそれを「獄舎を一掃し、イヴェットの道徳上の主要な敵を溺死させる、自然 の力による境界線の破壊」と見なす(Tedlock 208)。

 次にJ・H・ハリスの見解に移ろう。まず「大尉の人形」について、彼女はそれを『アーロンの 杖』(Aaron’s Rod)に関連する「指導性」の問題と結びつける。ただし、ここでロレンスは、「正当 な権力」のテーマに戻り、男性同士の関係ではなく、生き生きとした異性間の愛情関係をとおしてそ れを検証しているというのが彼女の見解である。その場合「忠実な従者がいかに、有益にも敵対的伴 侶になりうるか」がこの中編の中心的な問題の一つになる(Harris 158)。さらに「狐」に関しても、

彼女は特異な見解を披歴している。たとえば、ヘンリーとマーチの関係を正常な男女関係として、ま たバンフォードを、二人の間に立ちはだかる障害物として捉え、レズビアンの関係をすべて否定的で 醜悪なものと見なす一般的な立場を彼女は批判している(Harris 167)。さらに、「狐」や「てんとう 虫」にはテーマ上の弱点のみならず、文体上のぎこちなさが ─ 特に「狐」の結論部や、「てんとう 虫」の多くの部分に ─ あると彼女は言う。

 「逃げた雄鶏」についての彼女の見解も一考に値する。それは彼女の言うテキストの二つの「ゆが み」に直接関連する。一つは死んだ男(キリスト)もイシスの女神に仕える女司祭も奴隷を軽蔑して いること(奴隷の男の子が同じ身分の女の子に性的暴力を加えても、注意せず、無視している場面)、

もう一つは、両者がお互いのアイデンティティに最後まで無関心なことである。

 次に、R・P・ドレーパーの見解を紹介してみたい。まず「狐」について彼はそれを「象徴主義と リアリズムの組み合わせとして、ロレンスの物語のうち最も優れたもの」と絶賛する(Draper 126)。

一方、「てんとう虫」と「大尉の人形」については、彼は、男性の支配力と女性の服従の強調という 観点から、この二作が 「狐」 と繋がっていると見なす。さらに、彼は前者を退屈な失敗作として、逆 に後者を、純粋な喜劇という点でロレンスの小説の中でも特異であり、比較的成功している作品とし て捉える。「てんとう虫」については、ディオニス伯爵が、あまりにも明らかにロレンス自身の、非

(17)

現実的な男性優位主義の代弁者になっており、その願望を実現するために小説が書かれているよう だ、と彼は言う。「セント・モア」、「処女とジプシー」、「逃げた雄鶏」に関するドレーパーの批評も、

その評価基準の明確さという点で参考になる。たとえば、ドレーパーは、人生に対する根本的な批判 という点から「セント・モア」を『荒地』に結びつけようとするリーヴィスの見解に反対し、ロレ ンスがそれに必ずしも成功していないことを強調する。そして、ロレンスの批評の鋭さが、ルーと ウィット夫人によってそれが代弁されることで、そこなわれている、と彼は言う(Draper 131)。さ らに「処女とジプシー」に対する彼の評価もさほど高くはない。牧師とその母親に代表される古い世 代と、彼の二人の娘に代表される新しい世代の単純な対立構造がいくぶん小説のジャンルの混乱を導 く、と彼は言う。そして「善悪のはっきりした違いが道徳的な寓意小説になっている」と指摘する

(Draper 142)。とはいえ、彼は、イヴェットと同様、ジプシーが興味深い人間であり、ロレンスが、

美化された文学的なジプシー性から彼を救い出し、現実感あふれるジプシーの生活様式を描いている ことを評価する。

 これに対して 「逃げた雄鶏」 への彼の評価は高い。それは「ロレンスの創造的な生活における晩年 の幸福な時期の最も満足のゆく、独創的な産物」と見なされ(Draper 144)、ハリスによって作品の

「ゆがみ」として批判された、奴隷の少女に対する少年の性的暴行も、神話的牧歌性を破壊するほど のものではなく、むしろ、それは「人間生活の消去できない要素として継続する卑俗さ」と一致する ものと解釈される(Draper 146)。そして、それが優れた文学的意義を有する理由はそれぞれ「女司 祭と男の性的触れ合いがさらに明らかに再生の全体的過程の絶頂となっていること」、「作品の詩的組 織が人間的なものと自然性のより有機的な結合を達成していること」とされる(Draper 147-48)。加 えて、この小説の終わりが、物語の内部で確立されたリズムの自然な進行と重なること、それを終局 に向かわせる際に生じる不自然さやこじつけがないことなどが優れた技法として強調されている。こ の作品に対するほぼ同じ評価はG・サルガードの見解にも見られる(Salgado 131)。こうした背景に は、キリストの復活の神話と、エジプトのオシリス神話を大胆に融合させるロレンスの、神話的想像 力 ─ 彼がフレーザーの『金枝篇』を読んで得た知識に由来すると思われる ─ が指摘されている。

 ロレンスの神話的な発想に見られる独特の芸術性は、K・セイガーによれば、ロレンス自身のエト ルリア神話への興味、さらには、彼がエジプトやオリエントの神話に関する研究書から得た多くの人 類学的、宗教学的知識によって磨きをかけられたとされる。その一例として、彼はオシリス神話の キーワードでもある「蛇と男根」(生命の復活と再生のシンボル)をロレンスがこの小説において同 様の脈絡で使っていることを指摘する。こうした豊かな文学的創造性を、彼は、ロレンスが最終章で 生命の再生に繋がる隠喩として自然に駆使している「ボート」、「流れ」、「夜」、「種」、「甦り」、「バ ラ」、「蛇」、「木」などの言葉に見出す(Sagar 320-21)。さらに彼によれば、「セント・モア」の創作 においてもロレンスは、ギリシャ、ケルト、インディアンの神話に興味を抱き、ニューメキシコのタ オスではメイベル・ルーハンをとおして知ったジェイミー・デ・アングロ(Jaime de Angulo)からア メリカ・インディアンの火山神話を聞き、そうした知識を参考にしたとされる。とりわけロレンス は、キリスト教の神の概念から省かれた、ギリシャ・ケルト・インディアンの神話に共通する牧神パ ン(それは隠されたものの中で、われわれの第三の目で、つまり、闇によって見えるかもしれない 神)の神秘性に生命力の新たな手掛かりを見出したとされる(Sagar 263)。

参照

関連したドキュメント

Key Words: Inequalities, convex function, Jensen’s inequality, Jessen’s inequality, iso- tonic functional, Jessen’s functional, superadditivity, subadditivity, monotonicity,

Hilbert’s 12th problem conjectures that one might be able to generate all abelian extensions of a given algebraic number field in a way that would generalize the so-called theorem

The number of isomorphism classes of Latin squares that contain a reduced Latin square is the number of isomorphism classes of loops (since every quasigroup isomorphic to a loop is

Eskandani, “Stability of a mixed additive and cubic functional equation in quasi- Banach spaces,” Journal of Mathematical Analysis and Applications, vol.. Eshaghi Gordji, “Stability

If condition (2) holds then no line intersects all the segments AB, BC, DE, EA (if such line exists then it also intersects the segment CD by condition (2) which is impossible due

Making use, from the preceding paper, of the affirmative solution of the Spectral Conjecture, it is shown here that the general boundaries, of the minimal Gerschgorin sets for

(In the sequel we shall restrict attention to homology groups arising from normalising partial isometries, this being appropriate for algebras with a regular maximal

We show that a discrete fixed point theorem of Eilenberg is equivalent to the restriction of the contraction principle to the class of non-Archimedean bounded metric spaces.. We