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フランスの特殊教育と日本の特殊教育

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茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)159−166

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フランスの特殊教育と日本の特殊教育

赤 堀 哲 雄

は じ め に

 日本では「特殊教育」というコトバは差別用語もしくは不快語として嫌われている。

 フランス語の6ducation spScialeはH本語に訳せば「特殊教育」だが,それは差別用語でも不快語で もない。おそらく,その他の国のコトバでも事情は変わらないのではないかと患われる。

 わたしが初めて東京都特殊学校教職員組合の執行委員長を勤めなければならなくなったのは昭和36年 のことであった。そのときの日教組の特殊学校部長は和歌山県教組から出てきたばかりの永田一視(え いたかずみ)であった。日教組の特殊学校部の総会で,「特殊教育は差別教育だ」ということを最初に 強く主張したのは永田であった。永田が,どのような経過で特殊学校部長になったのかを説明する余裕 はないが,和歌山県教組が勤務評定反対闘争を激しく闘った直後のことだということは念頭においてお く必要はあるかもしれない。そのときの部落開放同盟との共同闘争での経験が永田流の「特殊教育差別 論」の原点だと思われるからである。永田の提起したス白一ガンは「差別教育から解放教育へ」という

ことであって盲学校,聾学校の学習指導要領が,しきりに順応/適応というコトバを使っていることを 部落開放運動における融和/同和というコトバになぞらえながら問題点として指摘したものだった。当 時の日教組の特殊学校部は盲学校,聾学校の教職員の組合のようなもので,養護学校そのものが少なく 養護学校からの代表は東京都立小平養護学校にいたわたしと大阪の思斉養護学校の三好君だけだったと 記憶している。

 「特殊教育」というコトバそのものを差別用語として排撃することにしたのは,わたしが三期目の執 行委員長を勤めることになった,昭和40年のことであった。具体的にはN教組の全国教育研究集会(15 次/福島市)の特殊教育分科会の名称を「心身障害児教育」分科会と改称することであった。後に述べ

るように日本の特殊教育は心身障害児教育という極めて漠然としたコトバと置き換えることができるか らであった。いっぽう,この時期には全国的な民間教育運動としての特殊教育の研究サークルを作るこ とも提案され,(わたしが代表発起人の一人であったのは,わたしが「東京特殊」の執行委員長であった ということであって,どういう研究サークルを作るかということでは意見を異にしていた。),これが

「全国障害者問題研究会」へと発展することになるのだが,このことについての歴史的経過は割愛する ことにしよう。ただ,この運動の中心となった障害者団体のエネルギーが一年で「心身障害教育」とい う名称を吹き飛ばしてしまったということを報告しておくにとどめる。それからは「障害児・者教育」

とか「障害者教育」というコトバが正式に用いられるようになる。「心身障害児教育」の「心身」を省 略したかたちでの「障害児教育」ではなかったのである。

 日本で特殊教育というコトバが嫌われるのは,日本の「特殊教育」のデキが悪いためか,日本語その

もののデキが悪いためかということになると,その両方である,ということになるのではないかと思わ

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茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)

れる。だから,特殊教育というコトバは特殊教育のままでいいのであり,そのデキの悪さを別のコトバ に置き換えること(たとえば障害児教育というふうに)でゴマ化そうとするのは最悪で,少なくとも,

もっとマシなものにしていこうという反省だか決意だかを表わすのだという自覚が必要だと思われる。

もっとも教員養成大学/学部の養護学校教員養成課程の学科目としてあった「異常児教育」というコト バは論外で,それを「障害児教育」というコトバに置き換えたのはやむをえない措置だったといえない こともない。しかし,これだとて,そもそも教職員免許法のなかにあった「異常児教育」というコトバ が問題だったのであって,もとはといえばexceptional childrenを「異常児」と訳してしまった係官の 不手際に問題があったというべきだろう。それは日本語とはいえないのである。だが,exceptienal

chi ldrenを障害児と訳すこともまた不適切だということはいえる。このコトバで特殊教育を表わすとき には英才児のような例外も含まれるからである。あらためていうまでもないことだが,臨床の科学であ るためには対象とする障害とその範囲を明確にしておくべきなのである。

 日本での公用語としての「特殊教育」はなくなってはいない。それは学校教育法のなかにあって,盲 学校,聾学校,養護学校での教育と,小学校,中学校の特殊学級での教育をあわせたものを指している。

 これらの学校,学級に勤務している教職員には特別な手当てが支給されているから,この場合には特 殊教育とは特殊教育の手当てを支給されている教職員によって行われている学校教育のことだというこ とができる。しかしながら,このように限定された意味で「特殊教育」というコトバが使われることは まれで,実際にはもっと広い漠然とした使われかたをしているとみることができる。たとえば日本特殊 教育学会という学会では,その学会員も,そこでとりあげられている問題も,そのようには限定されて

いない。

 フランス語には特殊教育に相当するコトバが二つある。

 エデュカシオン・スペシアル6ducation specialeとアンセーニュマン。スペシアリゼenseigneme批 specialiseとである。仮りに前者を特殊教育,後者を特殊学校教育というふうに訳し分けるとすれば,

日本の学校教育法でいう特殊教育のほうはアンセーニュマン・スペシアリゼで日本特殊教育学会のほう はエデュカシオン・スペシァルなのだというふうにすることができるだろう。しかし,実際には後に述 べるようにフランスの盲学校教育や聾学校教育,あるいは養護学校教育に相当する部分は制度的にはア ンセーニュマン・スペシアリゼには含まれないから,適訳だというわけにはいかない。ここではエデュ カシオン・スペシァルのほうが上位概念で,アンセーニュマン・スペシャリゼはそのなかに含まれる下 位概念だとしておくことにしよう。フランス語にはその区別があるのに日本語では,そこがまったく曖 昧だということである。そしてまさにそのことが,この論文の中心テーマになる。

 わたしがフランスの特殊教育を研究してみようと思い立ってから,まだ5年にしかならない。もっと もフランスの教育への興味,関心そのものは学生時代からのものであって30年を超えている。たった1 年間のことであったが,文部省の調査課でフランスの教育行政制度の調査を担当させられていたことも ある。おかげでフランスの教育制度を調べるコッは身についていた。パリへ行ったのは1983年のこと だが,およそのところは,またたくまに調べあげてしまった。 (調べるために必要な資料は充分に仕入 れて来た。)フランスへ出かける前から気がかりであったのは,この二つの特殊教育というコトバの使 い分けについてであった。

 パリは特殊教育のふるさとである。(そう思ったのはパリに行ってからのことだが。)パリに世界で最

初の聾学校,そして盲学校ができたのはフランス大革命以前の「啓蒙主義の時代」であった。パリは国

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赤堀:フランスの特殊教育と日本の特殊教育 ユ6ユ

際的に開かれた都市であったから,そのことが可能であったといえる。それは人間性の探求にほかなら

なかった。

 ところで,実際にパリに行って聾学校と盲学校を見学することになったとき,わたしは,そのあまり にも古色蒼然たるたたずまいに呆然としてしまったのであった。パリの聾学校はカルチエ・ラタンのど 真中といっていいところにあり,リュクサンブール公園の斜め向いにサンジェルマンの大通りを渡った ところに裏門があるのだが,建物全体は刑務所のような高い塀に囲まれていて,まったく閉ざされた社 会になっている。表門も大きな鉄の扉で閉ざされている。盲学校のほうは,カルチエ・ラタンを南に下 ってモンパルナスの大通りを東に行ったところにあるが,聾学校よりはいくらかマシで,こちらは古び た大邸宅といった風情で鉄門越しに校舎が見える。裏にある盲人福祉会館も近代的で明るい。それにし ても「歴史」を感じさせる存在であることには変わりはない。パリの聾学校,盲学校と書いてしまった が,どちらの門にもINSTITUT NATIONALという表札はかかっているがECOLE =学校という表示 はない。正確には国立聾唖教育研究施設,国立盲児教育研究施設とでも訳すべきところであろう。それ ぞれの医療,福祉,教育などの総元締めなのであって,それぞれの教員養成もまた,大学ではなく,こ こで行われているのである。そして,それは日本流にいえば文部省の所管ではなくて厚生省の所管であ る。この系列に属するものをEducation Specialeと称して,文部省所管のEnseignement Specialise と区別している場合があることがわかった。

 いっぽうEnseignement Specaliseのほうの総本山を探すと,セーヌがブーローニュの森を大迂回し て流れるさらに西方のモンヴァルランの丘の中腹に林間学校の校舎群とともにあるC. N.E.EE.1.に辿 りつくことができるだろう。さらに,パリの北開から郊外電車で北へ一時間ほど行ったところにあるボ ーモン・シュルオワーズの街外れの,貴族の別邸のあとと見受けられるC.N.E,EA.S.E。S.に行き着く ことができるだろう。前者は,その所在地名でシュレンヌ,そして後者はボーモンといえば,この世界 では通ずるようである。こちらは,第三共和国の義務教育の成立以降に発生することになる特殊教育が 主体なのである。学校教育の制度として,初等教育,中等教育,職業教育などと対応する学校教育一ア ンセーニュマンだということなのである。前者のほうは虚弱児のための教育を起源にしており,後者の ほうは軽度の精神薄弱児の教育を起源としている。教員養成だけでなく,訓練士や治療教育関係者の養 成も行なっている。

 このようなことだけでも,フランスの特殊教育と日本の特殊教育とでは大きな違いがあるということ は労せられるであろう。これらの違いを吟味していくことのなかで,今日の日本の特殊教育の問題点お よび課題を明らかにしていくことにしたい。

比較教育としての特殊教育

 おそらく1950年代の後半のことだったと思われるのだが,ユネスコで世界各国の特殊教育の統計を

作ることが企画され実施されたことがある。 (いま手もとに,その報告書が見当らないので,正確な記

述をすることができないのだが一この文献は,もういちど見つけ出して引用しなければならない部分

を持っている)この統計の担当者たちにとって,もっともアタマのイタイ問題は,各国で特殊教育とさ

れているものが多種多様であることであった。とにかく統計としての体裁を整えるということで作られ

た,それが特殊教育であることの基準は,対象児がなんらかの意味で標準とかけはなれた特殊な存在で

あること,カリキュラムが通常のものをいささかでも変容したものであること,教育をする場所が特別

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ユ62 茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)

な学級やコースや学校などの施設になっていることの3条件を同時に充たしているものだけを特殊教育 とすることであった。この調査票が送付され,回収される過程で,さらに生じた問題は,これらの教 育を所管する省庁が一つではない国も多く,しかも国によってそれぞれの省庁が所管する範囲が異なる 点であった。したがって,回収された調査票の数値そのものを直接に比較したり合算したりすることは 殆ど意味をなさないことになるのであった。ある国々では英才児のための特殊学級やら非行少年少女の 収容施設での矯正教育やら孤児の家の教育,旅芸人の子どもの教育にいたるまで,ありとあらゆる特殊 な教育活動のすべてを包括したものを特殊教育としているし,逆にある国々では,学業不振児の教育だ けが,ことこまかに報告されるといった具合で,それぞれの国の教育の制度や,その思想の素顔がその まま出てしまうのであった。このことは,統計を作ろうとした意図とは別に比較教育としてのさまざま な課題を提示することになるのであった。

 「特殊教育は教育の原点である。」などという表現を借りるならば,他の学校教育の制度は,それぞ れの国情によってさまざまだとしても,特殊教育ぐらいは各国共通でありそうなものだが,現実はそう ではないのである。教育の原点どころか,教育の恥部として隠蔽されることさえあるとでもいったらい いのだろうか。 (「教育の原点」ということの意味はあらためて検討するこ.とになる。)

 上にあげた特殊教育についての二つの例は,世界各国の特殊教育を大まかに分けるときの両極をなす ものとみることができる。広くすべての特殊な教育施設を包括する方向にあるものと,学校教育の制度 を補完するものに限定する方向にあるものとに,それは別のいいかたをすれば,前者にあるのはexce−

ptional childrenに対するspecial educationであり,後者は,それらのspecial educationのなかから 特定の部分だけを取り出すということにほかならない。その内容や方法は別として,特殊なるものそれ

自体は,完成されたものと萌芽的なものとの違いはあれ,いくつかの例外はあるものの,すべての国に 存在するものとみてよいだろう。そして簡単にいってしまえば,学校教育の制度としての特殊教育は,

それぞれの国の義務教育の制度との関連においてその範囲が狭くもなり広くもなりということなのであ

る。

 義務教育の制度を年齢主義の義務教育と課程主義の義務教育とにわけることがでぎるとすれば,ある 年齢までを拘束しているだけの年齢主義の義務教育の制度では終了の条件や資格はあまり問題にならな いから,それだけ特殊教育の範囲は広くなるだろうし,終了の条件が厳しく,その資格が就業に不可欠 な課程主義の義務教育の制度では,学校教育の制度としての特殊教育(アンセーニュマンeスペシアリ ゼ)の範囲は著しく限定されることになる。

 いっぽう,それぞれの国における学校教育として組織される以前,あるいは以外の特殊教育(エデュ カシオン・スペシアル)の歴史と義務教育の制度の歴史との関連も指摘されなければならないだろう。

 H本の学校教育法でいう特殊教育を基準にして世界各国の特殊教育をみると,どの国の特殊教育も異 常なものに見えることになるのだが,日本のように心身障害児のための学校教育だけを特殊教育として

いる国は特別なのだということがわかるだろう。

戦前の日本の特殊教育

日本の特殊教育の制度についての最初の規定は『学制』のなかにある。

一一 p人学校アルヘシ

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赤堀:フランスの特殊教育とH本の特殊教育

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 というのが,それである。これは正確には  一一擾人平校アルヘシ

 であって廃人ではない。廃は疾病のあとに残ったものをいい,厳密な意味での障害にあたるコトバで つまり障害者のための学校もいずれ作ることになりますよ,ということをいっているのである。寺子屋 の時代には障害児のための教育実践もあったのだが,まだ欧米なみの特殊教育を組織するいはいたって いなかったのである。大正12年に「盲学校及び聾唖学校令」が制定されて,日本の特殊教育の制度が確 立されるのだが,これは日本の義務教育の制度が確立されるよりは,かなり後のことである。

 フランスにおける第三共和国の義務教育の制度の確立と,日本の『学制』とは同時期のものだが,直 接の関係はない。しかし,日本の『学制』が『ナポレオン学制』を模範としたものであるという点では 共通性を持つということはいえる。「聖人學校アルヘシ」の規定は,最初は中学校の章のなかにあった のだが,そして間もなく小学校の章に移されるのだが,これはナポレオンの学制の教育行政区の中学区 すなわち県を意味しており,各県に七人国国をつくるということではなかったろうかと思われる。これ はナポレオン学制そのものを調べてみなければならないのだが,その資料がない。それは,フランスに おける義務教育制度の成立以前の特殊教育の実態を調査することともに,わたし自身の宿題である。

 得人學校の名は,小学校令の制定の過程で消滅するのだが,盲学校や聾唖学校そのものは府県単位で 設置されていく。これらの学校は,学校教育の制度としては盲学校及び聾唖学校令の制定以前は小学校 令のなかの各種学校である。そして,これらの学校の教育研究の組織や情報の伝達/収集などや教員養 成は,フランスにおけるパリの国立の聾学校,盲学校と同じように東京の官立盲学校と官立の聾唖学校 とが,その役割を演じていた。 (教員養成は師範学校でおこなわれていたという点で共通であり,師範 学校を卒業してから数年の教職経験を持ったものが,国立の盲学校,聾唖学校に併設された特殊教育の 教員養成機関で実地教育を受けてから免許を取得するのである。)盲児や聾児の指導法などにおけるフ ランスの特殊教育からの影響については,あらためて論ずる機会もあろうが,日本の盲学校教育,聾学 校教育はフランス大革命の洗礼をうけたフランスの盲人福祉,聾者福祉とは違って,前近代的な職業教 育を本態とする点で趣きを異にしていた。しかし,そのギルド的体質が,フランスの特殊教育における クロート支配と相似的な制度を作り上げることになったといえる。盲学校教育や聾学校教育がシロート にもできるというものではないことは自明のことだが,このことは,それぞれの分野ごとにドン(領袖)

の支配が続き,その交代がなかなか行なわれないことに現われるのが常だが,この点についても同じで あるように見える。

 戦前の日本の義務教育の制度が小学校の六年の課程にとどまっていた時代に,盲学校,聾学校は中等 教育段階に相当する職業課程を学校の教育課程として保有していたのであった。それは義務教育の制度 と並立する特殊教育というものを具体的に示すなによりの証拠だといってもいいだろう。このような特 殊教育の制度では,そこに用意されている職業教育の課程に適応できないような知的障害や身体的障害 を持った盲児や聾児は盲学校教育,聾学校教育の対象外とされる。そこにもまた,義務教育の制度と分 離される特殊教育の性格と構造とが現われているといえるだろう。

 戦前の日本の養護学校教育については,養護学校そのものがなかったのであるから,養護学校教育の

歴史としては取り上げるべきいくつかのことがあるのだが,フランスのそれも,日本のそれも学校教育

の制度としては見るべきものがなかったといっていいだろう。もっとも,むしろ医療/福祉の制度とし

ての比較研究が基本的な課題なのだということであって,学校教育の制度としての特殊教育ではなかっ

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茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)

たから無視してよいということにはならない。また,たとえば精神薄弱児の教育でのセガンの方法がフ ランスと日本とでは,どのように受け取られていたかというような問題も視野のなかにおいておかなけ ればならないだろう。セガンがアメリカに「亡命」してアメリカの特殊教育の基礎作りに貢献したこと そして戦後の日本の特殊教育がアメリカの特殊教育の影響を強く受けていることなども忘れてはならな い問題であろう。

 戦前の闘本の義務教育の内側の特殊教育(アンセーニュマン・スペシアリゼ)に大きな影響を与えた のはドイツのマンかイム・システムとフランスの(というよりビネーの)知能テストであろう。

 小学校における特殊学級の設置そのものはフランスのそれより日本のそれのほうが早い。日本もフラ ンスもドイツも課程主義の義務教育であった。まえにも述べたとおり課程主義の義務教育には落第の制 度がつきものである。明治20年代の日本の義務教育の制度がまだ就学率の低さに悩まされていた頃に長 野につくられた特殊学級にはズバリ「落第生学級」という名称のものもあった。とにかく落第だけが解 決策になるわけではないことは確かで,落第(と進級)の問題を制度的なものとして取り上げた最初の 試みはドイツのバイエルン州マンハイム市におけるマンハイム・システムであった。

 マンハイム・システムそのものについての詳しい説明は省略するが,それは課程主義の義務教育のカ リキュラムによる一斉授業をする学級を主体とした能力別のカリキュラムと学級編成,つまり能力別の コース制カリキュラムである。これは,学校教育の制度そのものが中世以来の伝統を持つエリート教育 と,近代の大衆のための義務教育との複線型になっているということとも関連している。だから,いっ ぽうに複線型のエリートコースへと進む道を開きながら,標準的なカリキュラムにおいて落第した子ど もたちは促進学級系と称するコースにおいて一年遅れのカリキュラムを履修させることになる。一一:L年遅 れて標準のカリキュラムの学級のコースに戻ることを保障されているわけだから落第者救済コースとで

もいったらよいだろう。しかし,標準のカリキュラムの学級にもどれないままに義務教育の年限に達し てしまう場合もあるわけだから,そうした子どもたちのためには,それなりの完成を目指す目標が決め られている。このコースにも適応できない子どもたちのためには補助学級系というコースが設けられて いる。これは義務教育の;期間内に義務教育の課程の半分のカリキュラムを消化すればよいことになって いる。促進学級系のように学力上位のコースに進むことはありえないものとされているのである。これ にも適応できないものは白痴(と訳された)施設に収容される。こうした制度が,そのまま輸入された わけではない。この学力別に学級編成されたコースの名前と目標だけが取り入れられるのである。それ が実施に移されたのは,まさに20世紀の初めのことなのだが,このことは当時ドイツに留学していた文 部官僚によって,いちはやく日本に報告される。それは官報に記載されるというかたちで公的に承認さ

れる。

 日本でもマンハイム・システムが実施されたというわけではない。ただ,小学校に特殊学級が設置さ れるための根拠となったということである。これは,いっぽうでは学力優秀児の「跳び級」の制度と対 応していることになる。促進学級というコトバそのものは,その由来とは別に今日でも生きているよう である。だが,補助学級については消滅してしまったようである。そのためか促進学級F6rder Krasse と補助学級Auxiiiar Krasseとが混同されてしまっている教育学事典も見受けられる。

 (比較教育の研究家である松崎巌によるとマンハイム・システムの影響は北欧,東欧では著しいもの

があるとのことである。促進学級や補助学級/補助学校という名称とそのカリキュラムは広く用いられ

ているらしい。このことについては,あらためて検討してみたいと思っている。たとえばソヴィエトの

補助学校のカリキュラムが養護学校のカリキュラムとして紹介されたりするのだが,マンハイム・シス

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テムでいえば,わが国の精神薄弱児養護学校は白痴院と訳されているものに相当するのであって,補助 学級のようなカリキュラムの養護学校などないのである。)

 戦後の小学校,中学校の教育では,特殊学級の促進学級的な経営や補助学級的な経営は歓迎されない ものとなった。それは複線型の学校教育が単線型のものに改革されたこと,義務教育の年齢主義化によ る落第の制度の空洞化と対応しているといってもいいだろう。「跳び級」の制度もなくなる。

 戦前のフランスの小学校における特殊学級は,第一次世界大戦の結果,アルサス地方が再びフランス の領土に編入されるまで数えるほどしがなかった。フランスの小学校のほとんどが複式の学級/学年編 成の小さな学校であることもあったろうが,落第そのものに対するコダワリはあまりなかったもののよ うであり,そのことは今日でもかわらないといっていいだろう。だから「ドイツから輸入された特殊学 級」が蔓延するということはなかった。

 ビネーのテストが,フランスの特殊学級の教育を発展させることになったのは当然のことであったろ う。それはまさに,そのためのものだったのだから。しかし,日本に入ってきたビネーのテストは人間 の能力を品等づけるための道具になりさがってしまった。

フランスの肢体不自由児教育

 わたし自身の特殊教育のなかでの専攻は肢体不自由児の教育である。だが,フランスの肢体不自由児 の教育について研究してきたわけではない。だが,比較教育ということになると,ここを起点とするの がよいように思われる。

 肢体不自由というコトバを造語したのは東京帝国大学医学部の整形外科教室の二代目の主任教授であ った高木憲次である。解剖学の用語である手足に相当する「四肢」と内臓を除いた「体幹」という整形 外科の守備範囲を縮めて「肢体」とし,形態ではなく機能の回復を目指すということで「不自由」とい

うコトバをつけ加えたのである。だから,このコトバ自体をフランス語に訳すことはできない。フラン ス語で肢体不自由に当たるコトバとしてあげられるのはdeficients moteurs(運動障害)であろう。

 日教組の全国教育研究集会では肢体不自由児教育の部会名を「肢体障害」という漫語で代替えしたり していたことがあるが障害というコトバにどうしてもしなければならないとするなら運動機能障害とで もするよりしかたがないだろう。

 高木が造語したときの肢体不自由児には「将来生業につく見込のあるもの」という文言がつけくわえ られていた。そして,障害が重く,将来生業につく見込のないものは「不治永亡児」として治療教育の 対象から除外したのであった。現在では,この定義は修正され,将来生業につく見込のあるものという 表現も不治永患というコトバも使われなくなったけれども。

 わたしがパリに行ったときに非常に重症な障害児の学校として紹介されたのは1979年にパリの南西 の郊外に新設されたEcole Nationale pour Handicapes Moteurs de Garchesであった。この学校の 子どもたちは,かつての日本の肢体不自由児養護学校と同じように「将来生業につく見込のあるもの」

が集められていた。日本では,いまでは見ることのできないポリオの小学生にも出会うことができたし

非常に懐かしい風景に接することになった。わたし自身が肢体不自由児養護学校の教師になったのは昭

和35年(1960年)のことであるから,印象としてはフランスの肢体不自由児教育は日本の肢体不自由

児教育より20年遅れているということになるのだが,そこで実際に見聞したところでは,フランスの肢

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体不自由児学校の教育のほうが充実しているようであった。その学校の百人ほどの教職員の三分の一は N本流にいえば機能訓練士というべき存在であった。日本のように教師が手を出すということはないの であった。教師には教師としての仕事があり,教師はそれに専念するというわけだ。この学校の場合に は落第もあり,子どもたちは中学校段階で進学組と就職組に別れるのであった。これは,もちろんどの 肢体不自由学校も同じだということではない。

 現在の日本の肢体不自由児養護学校は,かつては不治永患児とされていた脳性まひ児が在籍者の大部 分を占めるようになっており,肢体不自由児養護学校というより脳性まひ児学校といったほうがよいく らいなのである。脳性まひ児というのは簡単にいってしまえば脳の運動機能を司る部分を侵されてしま ったために運動障害が起こっている子どもたちであって,整形外科の治療の対象であるよりは脳や神経 の研究をもとにした神経生理学的な治療訓練の対象なのである。わたしが養護学校の教師として脳性ま ひの子どもたちの担任をしていた頃は,医者たちは手のほどこしようがなくて,わたしたち教師にすべ てを委ねるよりしかたがなかったのであった。事実の経過からすれば,わたしたちは日本の脳性まひ児 の治療教育の開拓者であった。だが,教師がそれにあたることが許されるのは特別な場合なのであって やはり特別な臨床的な教育を受け資格試験に合格した専門家の手に委ねるべきものであろう。現在の日 本の教員養成の制度のなかでは,このことは技術的に不可能である。だから,現場に出てから臨床的な 経験を積むよりしかたがないが,実際に養護学校の現場でおこなわれていることは極めて貧寒たるもの であって,根本的に再検討すべきことだらけなのである。

 一人として同じ脳性まひ児はいない,といわれるぐらいで,一口に脳性まひ児の教育について論ずる ことはできない。フランスでの運動障害児教育では,脳性運動障害児(脳性まひ児)は重い知的障害を 併せ持っている者と,そうでないものとにキチンと分けることがされており,学校や施設も別になって いるところが多いようである。このことは,特殊教育の統計からも訂せられる。また,施設の案内から も,いろいろなタイプのものがあることがわかる。わたしが前記のガルシュの学校を訪れたときも近く の病院にも,それらしい看板がかかっていたものだから,そちらを見学してしまい,相手もまた,しば

らくは間違いに気づかないといった次第であった。

 将来生業につく見込のあるものという表現はいわゆる社会復帰をめざすリハビリテーションと軌を一

にするものであった。リハビリテーションの原意は人権の回復であり,フランス語にはその意味しかな

い。社会復帰に相当するコトバはレエデュカシオンー再教育であり,それにたずさわる専門職はレエデ

ュカトゥール(男)レエデュカトゥリス(女)である。教員のほうはアンスティテユトゥール(男)ア

ンスティテユトゥリス(女)である。だが,重い障害をもった子どもたちの教育にあたるのは,それら

の専門家ではなくて,また別の名を持った人々である。      (未完)

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つくることであるという意味は,このような考え方を指してもいる。」(15)と述

明で終わることが多かったが、S4

「ルーヴル美術学校」や「ルーヴル美術学院」などと