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大正デモクラシー期の文部省社会教育課と特殊教育

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大正デモクラシー期の文部省社会教育課と特殊教育

一1920年代における就学児童保護事業の成立と劣等児・低能児教育振興策の展開一

平 田 勝 政

〈目  次〉

はじめに

第1章 社会教育行政の組織化と特殊教育  第1節 中央社会教育行政と特殊教育   (1)第四課=社会教育課の設置と特殊教育

  ② 第四課文部行政官における社会教育としての特    殊教育の成立一乗杉嘉寿を中心に一

 第2節 地方社会教育行政の組織化と特殊教育   (1)社会教育主事の設置及びその職務規程と特殊教    育

  ② 全国社会教育主事会議と特殊教育 第2章 就学児童保護事業の成立とその背景

 第1節 特殊児童問題の社会問題化と特殊教育振興要     求の高まり

 第2節 就学児童保護事業の成立とその構想

第3章文部省社会教育課の特殊教育振興策の展開一劣    等児・低能児教育を中心に一

 第1節就学児童保護施設講習会

 第2節 低能児教育調査委員会の設置と低能児教育講     習会

  (1)低能児教育調査委員会の設置とその活動   (2)低能児教育講習会とその影響

 第3節 青木誠四郎(特殊教育調査嘱託)の活動 おわりに

く註〉

は じ め に

 第一一一次世界大戦後における大正デモクラシー運動の高 揚は,特殊教育を大きく前進させる契機となった.その 端的な現れが,盲唖教育令制定運動の高揚と「盲学校及 聾唖学校令」の成立(1923年8月)であり,他方,大都 市を中心とした全国的規模での特別学級のめざましい普 及増大であった.本研究と関わる後者の先行研究に関し て言えば,その全国的規模での普及の主導的推進力が,

当時の文部省学校衛生課にあったとして,学校衛生行政

(思想)と特殊教育との関係を解明した杉浦氏の先駆的

な研究がある1). しかし,当時,学校衛生課と同様,特 殊教育を管掌事項としていた文部省普通学務局第四課=

社会教育課が,特殊教育の振興に果した役割とその具体 的事実については,ほとんど明らかにされてこなかった

と言ってよい2).

 本研究は,その点の実証的解明を通して,大正デモク ラシー期(主に1920年代)における特殊教育振興の全体 像を明らかにしていく手がかりを得ようとするものであ る.より具体的に言えば,本研究は,文部省第四課=社 会教育課(1919.6〜1929.7)の就学児童保護事業として の特殊教育振興策(主として劣等児・低能児教育)を分 析対象にして,その成立背景,具体的振興策の展開と影 響,及びその振興策に関わった文部省の担い手たちの特 殊教育観を検討しようとするものである.

第1章 社会教育行政の組織化と特殊教育

第1節 中央社会教育行政と特殊教育

(1)第四課=社会教育課の設置と特殊教育

 臨時教育会議は,1918(大7)年12月,諮問第八号  (=「通俗教育二関シ改善ヲ施スヘキモノナキカ若シ之

アリトセハ其ノ要点及方法如何」)に対して,11項目の

「通俗教育ノ改善」諸策を答申した.その答申の第二項

(=「通俗教育二関スル施設ノ計画及実行ノ任二当ル為 文部省二主任官ヲ置クコト」)に基づいて,1919年4月,

「文部省官制」が改正され,「通俗教育」の「主任官」

として,乗杉嘉寿(1878〜1947)が任命された.そして,

同年6月の「文部省分課規程中改正」により,文部省普 通学務局に「第四課」が設置された.その「第四課」の 管掌事項は,「一,通俗教育二関スルコト,二,図書館 及博物館に関スルコト,三,盲唖教育及特殊教育二関ス ルコト,四,青年団体二関スルコト,五,教育会二関ス ルコト」3)(傍点筆者)であった.それまで普通学務局第一 課の所管であった特殊教育(広義)は,ここにきて,第 四課の所管となり,通俗(社会)教育行政の一環として 位置づけられることになった.その後,1921(大10)年

(2)

「教育科学研究」第5号 1986年7月 6月には,「文部省官制」中の改正があり,「通俗教育」

という用語は,「社会教育」に改められた4).そして,

1924(大13)年12月には,「文部省分課規程」を改正し て,課の番号制を廃し,「第四課」は名実共に,社会教 育の主務課である「社会教育課」となった.その管掌事 項は,①図書館及博物館,②青少年団体及処女会,③成 人教育,④特殊教育,⑤民衆娯楽,⑥通俗図書認定,⑦ その他の社会教育関係事項,の七項目であった.この改 正で,それまでの「盲唖教育及特殊教育」が,単に「特 殊教育」とされたのは,「盲学校及聾唖学校令」の施行

(1924年4月)に伴い,盲唖教育が「学務課」に移管さ れたためであった.そして,1929(昭4)年7月の「文 部省管制」中改正(勅令第217号)によって,社会教育 局が誕生した.その社会教育局は,青年教育課,成人教 育課,庶務課の三課編成で,管掌事項は,①青少年団 体,②青年訓練所,③実業補習学校,④図書館,⑤博物 館その他観覧施設,⑥成人教育,⑦社会教化団体,⑧図 書の認定・推薦,⑨その他,であった.この社会教育課 の社会教育局への昇格に伴い,「特殊教育」は,普通学 務局学務課に移管され,中央社会教育行政の一環として 特殊教育の時代は終った5).

② 第四課文部行政官における社会教育としての特殊  教育の成立一乗杉嘉寿を中心に一

 前項において,特殊教育が中央社会教育行政の一環と して法規上位置づけられたことを確認してきた.それで は,社会教育行政の「草創期」(小川利夫)をパイオニ アとして担った文部行政官たちは,それぞれの社会教育 認識(概念)と関わって「盲唖教育及特殊教育」をどのよ

うに把握し,位置づけていったのであろうか.その点に 注目して,第四課員の社会教育論をみてみると,そこに は特殊教育の位置づけをめぐって二つの立場が確認でき る.ひとつは,特殊教育を社会教育の一環として明確に 位置づけ積極的に推進していこうとする立場の論者(例 えば,乗杉嘉寿,川本宇之介6),江幡亀寿7))であり,い まひとつは,そのことに批判的でむしろ特殊教育を学校 教育として位置づけてとらえようとする立場の論者(例 えぽ,嶋内俊三8))である.ここでは,前者のうち第四 課の中心人物で初代社会教育課長ともいうべき乗杉嘉寿 の社会教育観をとりあげて検討していくことにしよう.

 乗杉と特殊教育との関係は,欧米留学(1917〜1918)

が重要な契機となっている.帰国直後の講演で,乗杉は 次のように述べている.「米国は基礎教育に非常に注意 して居る.小学校時代を既に五種に別って,O精神的に 劣るもの,⇔身体上劣るもの,㊤内部的病気の者,⑳結

核性のもの,㊨移民の児童等で心理学者と医師と検査官 によって其児童が何れの種の学校に適すべきかを決定し てそれぞれの学校に送る.精神上足らぬものは職業性の 学校に,内部疾患者又は結核性のものは開校学校と称し て窓を開いたもの又は全然野外或は林間等の教授法を採 るそれ等の児童を入れる特種の学校は完備されている.

日本の如き各種の児童を混合した突っ込みの教育法では ない.斯くの如く児童の精神上からの其特典に依って啓 発の方法を異にして適応した方法を執っている」9).講 演記録のため文章表現に難があるが,少なくとも乗杉 は,第四課の発足以前に,欧米と比較して,日本におけ る特殊教育の遅れ(不振)を認識していたことが確認で きる,そのことは,第四課長就任後,ただちに文部省と してははじめての全国盲唖学校長会議(第一回)を開催

(1919年12月)したことからもうかがえる10).

 しかしながら,乗杉の諸論稿において,特殊教育が社 会教育の中で重要な比重をもって論じられるのは,次章

で検討する就学児童保護事業成立期(1920年8月〜9 月)からである.そのことを示す論文が「民衆の教化運

動」11)と「社会教育に就て」12)である.

 前者の論文の中で,乗杉は,「社会教育と言う事業其 れ自身が文部省の事務の一ツとなったと言う事は,如何 に時勢の趨勢とは言え髄かに一種の奇蹟の如き感を起さ せるものがある.数年前までは社会と言う文字其れ自身 に就て政府当局は余りいい感じを持って居なかったので ある.処が今日となっては其の社会を相手としての仕事 は頗る重要になって来て,寧ろ学校教育の効果を完全に 収め,又は其の欠陥を救済する道は,此政策を措いて他 に侯つべきものがない,と言う如き考えを抱くに至った のは,我国教育史上に一大時期を画するものと言って差 支なかろう」(pp.9〜10)と述べ,その「社会教育の範 囲」を積極・消極の二方面から捉えようとした.すなわ ち,乗杉は,「学校教育の効果を完全に収め」(p.9),

 「学校教育そのものの進歩発達を促し」(p.12)ていく  「積極的」方面として,「学校教育を終えた者に対して 生きたる教育」「実生活に接した教育」(=一般社会のた めの各種教化事業)の必要を説き,他方,学校教育の  「消極的方面」に,「貧困児童の教育」,「盲唖者の教育」

 「不良少年の感化事業」,「病弱児童,結核児童,不具児 童等の教育」を位置づけた.そこには,これらの特殊児 童の問題を感化救済事業(社会事業)としてみるのでは なくて,「精神的に……救う」という「精神的教化」の 事業,換言すれぽ,特殊教育の振興という方向で「民衆 教化運動」を展開していくことの必要性が高調されてい た.そして,文部省に設けられた「社会教育の一課」

(3)

 (=社会教育課)と各府県の「社会教育主事」は,その  積極・消極の二方面からなる 「民衆教化運動」を系統  的,組織的に推進していく使命をもち,その使命を達成  していくことによって「社会」を「教化」し,我国教育 史上の一大画期をつくるのだとする.その主張には,乗 杉の社会教育にかける期待と意欲が力強く表明されてい

 た,

  また,後者の論文においても,乗杉が明確に特殊教育 の振興を打ち出していたことが確認できる.この論文で 乗杉は,「我が国社会教育の今日迄目標として来た重大 事項が三つある」として,「思想問題」「生活改善の運 動」「職業の指導」を「三大要目」として挙げたが,「然 し吾人の所謂社会教育は単にこれ丈けの問題を以て満足 すべきではない,殊に我が国の教育の現状よりすれば,

小国民特に普通でない所謂特殊児童の教育的救済問題 が,我等の前面に横はって居るのであって,之は可成り 近き将来に其の問題の解決を与えなければならぬ重要な

る事項」(p.24)であり,「急務中の急務に属する」(p.

24)と述べた.

 このように,乗杉の社会教育論には「教育的救済」と しての特殊教育が明確に位置ついていると同時に,問題 の「可成だけ近い将来」の解決をめざす具体的諸策の実 行が暗示されている.それは,管掌事項である一方の  「盲唖教育」にとっては,「盲学校及聾唖学校令」の制 定へ,他方の「特殊教育」にとっては,第3章で検討す る就学児童保護施設講習会の開催等のとりくみへと連続 していくものとみてよかろう.

 以上みてきた乗杉の社会教育認識における特殊教育の 位置づけは,最終的には,著書『社会教育の研究』(同 文館,1923年5月発行)において確定される.この著書 で乗杉は,「社会教育とは,個人をして社会の成員たるに 適応する資質能力を得せしむる教化作業である」(p,1)

と定義し,又,その定義にいう「社会とは,精神的交通 を有する個人の形成する団体」(p.2),すなわち,「共 同目的を有する人格者をその要素とする有機的の団体で ある」(p.2)と述べて,乗杉自身の社会教育概念とそ れを支える社会観を明記した.また,別の所では,「社 会教育の根本」は,「社会連帯の観念に基づいた新時代 の国民訓練」(p.213)にあると述べており,乗杉の社 会教育論は,大正デモクラシー期特有の社会有機体論,

社会連帯主義に影響された社会観に支えられていた.

 乗杉は,以上のような社会教育本質観に立って,「社 会の成員」の育成に重要となる「社会教育の施設」(事 業)として,次の「十種類」を挙げた.すなわち,①「学 校の拡張開放」,②「公開講演事業」,③「図書館及巡回

文庫の事業」,④「教育的観覧施設」,⑤「各種の修養団 体の指導」,⑥「職業指導」,⑦「民衆娯楽の改善問題」,

⑧「公衆体育の奨励」,⑨「生活改善の運動」,⑩「特殊 児童の保護教育の問題」である.そこでは,社会教育の 積極的方面の事業(①〜⑨)が整備・拡大する中で,消 極的方面の特殊教育は最下位(=⑩)に位置づけられて はいる.が,しかし,乗杉は,「是等の貧困児童や精神 薄弱児や,性格異常児童等の如き特殊児童に対して……

保護教育を幼少年の間より加えることは各種の社会問 題,各種の犯罪等を事前に予防するのみならず,積極的 に社会の進運福祉に貢献すること」(p.27)に重要な意 義を認めた.それ故に,「社会や家庭の欠陥から生じて 来た不幸なものに対して,特に教育的救済或は矯正の手 段を講ずることも,亦社会教育の施設の中に重要なる部 分を形造るものといわねぽならぬ.蝕に教育的救済とい うのは社会に於ける弱者を救済するに,物質的に之を行 うに対し,精神的に行う意味である.かくの如き事業が,

将来社会教育の重要なる部分を占むべきことは,最早疑 を容るべき余地がなくなった.」(p.11)と断言した.そ れだけにとどまらず,さらに,乗杉は,学制五十年とい う国民教育制度の発展過程をふまえた上で,これらの「貧 困児童」や「特殊児童」に,「教育的救済の施設」として

「我国民教育の大方針」である「デモクラティックな教 育の精神」を拡充することが,「最もデモクラティックな る我国民教育を宣揚すると同時に,それが完壁を期す」

方途であると述べて,特殊教育振興を国民教育完成の最 重要課題に位置づけていた13).

第2節 地方社会教育行政の組織化と特殊教育

(1)社会教育主事の設置及びその職務規程と特殊教育  では,前節で確認した中央社会教育行政の一環として

の特殊教育は,地方社会教育行政の整備・組織化過程で どのように位置づけられ各地方に波及していったのであ

ろうか、

 前節でみた臨時教育会議の通俗教育に関する答申の第 三項(=「地方団体及教育会其ノ他ノ公益団体ノ協力ヲ 促シ可成各地方ニモ通俗教育二関スル主任者ヲ置カシム ルコト」)を承けて,1920年5月,普通学務局長から各地 方長官宛二,「貴庁学務課内二専ラ社会教育二関スル専務

ヲ担任セシムル主任吏員ヲ特設」するよう求める通牒が 発せられた14).これを承けて,各道府県に社会教育主事 等の名称をもって「社会教育事務専任吏員」が設置され ていく.その設置状況をみると,「大正9年度に於て設置 したるもの25府県,大正10年度に設置確定せるもの12

(4)

「教育科学研究」第5号 1986年7月

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(5)

    表2 全国社会教育主事会議一覧 全国社会教育主事会議

  (開催期間)

第一回全国社会教育主事会議   (1921.10.25〜29)

第二回全国社会教育主事会議   (1922. 5.12〜16)

第三回全国社会教育主事会議   (1923.11,20〜21)

第四回全国社会教育主事会議

  (1924.11. 3〜 5)

第五回全国社会教育主事会議   (1925.10.18〜19)

第六回全国社会教育主事会議   (1926。 4.10〜12)

第七回全国社会教育主事会議   (1927. 5.10〜12)

主な内容(諮問案・協議題)

(諮問案)処女会振興に関し最も適切なる施設     如何

(協議題)

1.職制に関する件,2.社会教育事務に関する 件,3.社会教育館・博物館等に関する件,4.

青年団体に関する件,5.青年男女指導に関す る件,6.社会教育施設に関する件,7.学校を 中心とする社会教育に関する件,8.娯楽に関 する件,9.活動写真に関する件, 10.雑件

(諮問案)公衆体育の振興に関し最も適切なる     実施方案如何

(協議題)

1.社会教育主事官制職制制定建議案 2.図書館,博物館,展覧会等に関する件 3.少年団施設に関する件

4,出稼青年処女指導に関する件

5.青年団員に対し政治的方面の知識を与える  可否6.社会教育振興に関する件

7.農村娯楽に関する件

(諮問案)今次の変災に鑑み国民精神の振作上     特に執るべき最良の方案如何

(協議題)

1.青少年の指導に関する事項

2.活動写真「フィルム」巡回貸与並に相互交  換に関する件

(指示事項) 8項目(省略)

(諮問案)農村社会教育施設の具体的方法如何

(研究題)

1.青少年の指導に関する事項 2.成人教育に 関する事項

      3.映画の交換紹介に関する事項

(諮問案)選挙権拡張に伴い社会教育上最も緊     要なる施設如何

(協議題)

1.青少年団体の指導に関する件 2.教育映画の普及に関する件 3.教育的観覧施設に関する件

・青年訓練に関する文部大臣の訓示

(協議題)

1.社会教育統制に関する件 2.青年団処女会に関する件 3.少年団に関する件

参 考 文 献・出 典

・「文部時報」第53号P.261921 年10月11日

・「社会と数化」第1巻第11号

(p.88),第1巻第12号(p.87−

88),第2巻第1号(p.58−59),

1921年11・12月1922年1月

・田淵旗山:勃興せる我が社会教 育の使命一第一回全国社会教育 主事会議を評す一「教育学術 界」第44巻第3号,1921年12月

「社会と教化」第2巻第6号 pp.54−551922年6月

「文部時報」第124号pp.40−41 1923年12月21日発行

「文部時報」第151号p.451924 年10月11日発行

「社会教育」第2巻第11号p.118 1925年11月

「社会教育」第3巻第5号p.126 1926年5月

・文部大臣の訓示,普通学務局長の指示

・協議題についての意見交換の結果,「社会教 育の根本方策に関する建議」「青年訓練所学 科に関する調査報告」あり,

1「社会糖悌4巻第6号・P.・66

−671927年6月

(6)

「教育科学研究」第5号 1986年7月 県」15)であり,1921年4月の文部省調査では,34道府県

であった16).そして,1921年度中には,ほとんどの道府 県で設置され,郡市段階でも設置がすすんでいった.こ の社会教育主事の設置(任命)に伴い,社会教育主事職 務規程も制定施行されていった.

 では,その職務規程の中に第四課の所管事項である

「盲唖教育及特殊教育」はどう位置づけられていったで あろうか.その点を,現在,筆者が把握している11県の 社会教育主事職務規程を手がかりにして検討してみよ

う.(表1参照)

 結論的に言えぽ,それらの諸規程は,二つに大別され る.ひとつは,中央の文部省と同様,その職務規程の中 に特殊教育を明記しているものである.例えぽ,徳島,

佐賀及び和歌山がそれである.具体的に例示すると,

「佐賀県社会教育主事職務規程」は,次のように規程し

ている.

 「第一条 社会教育主事ハ上司ノ命ヲ承ケ左ノ職務二      従事ス

 ー一,青年団処女会及少年団二関スル事項  二,補習教育二関スル事項

 三,特殊児童及貧困児童ノ保護救済二関スル事項  四〜十一(省略)

 十二,其他社会教育二関スル事項」(傍点筆者)

 また,「徳島県社会教育主事職務規程」も 「第二条」

で規程している職務事項(全11項目)中の5番目に「盲 唖教育,給任教育等ノ各種特殊教育二関スル事項」を明 記している。なお和歌山の場合は,「職務規程」の中で は,「児童保護二関スル事項」としているが,その規程 と一体の「事業要目」において,「保護児童,低能児童,

及発育不良児童ノ教育及保護」が明記されている.

 もうひとつは,逆に特殊教育を明記していないもので ある.(残りの8県)これらの県では,「児童保護」や  「其ノ他社会教育上必要ナル事項」といった規程の中に 特殊教育が含まれていることが考えられるが,そのこと 自体,中央レベルで強調される特殊教育振興の重要性が 十分自覚されるまでに至っていないことを物語ってい

る.

 このように,中央社会教育行政の所管事項として明記 されている特殊教育は,地方段階においてはまちまちに 受けとめられており,きわめて不徹底・不統一であった

ことが確認できる.

② 全国社会教育主事会議と特殊教育

 では,全国の社会教育主事が一同に会し,いわぽ,中 央と地方の接点ともいえる全国社会教育主事会議におい

て,特殊教育はどう位置づけられ,あるいは,論議され たのであろうか.全国社会教育主事会議は,現在のとこ ろ,第一回(1921. 10,25〜29)から第七回(1927.5.10

〜12)を確認しているが,(表2参照)その会議の内容 中,特殊教育が,「社会教育の重要なる部分」(乗杉)と して論議された形跡は確認できない17).ただ,第三回の 会議(1923.11)の「指示事項」に「盲学校並に聾唖学 校令発布に関する件」があるのみである.しかし,重要 な事実として注目すぺきことは,第一回,第二回の主事 会議において,中橋徳五郎文相(在任期間 1918.9.29

〜1922. 6. 12)がその訓示の中で特殊教育の振興に言及 したということである.とくに,第二回全国社会教育主 事会議(1922.5.12〜16)において,中橋文相は,「就中 貧困児童の就学奨励,特殊児童の教育の施設の如きは,

現下の情勢に鑑み頗る重要の事であって,特に力を加え られんことを望む次第であります18)」と述べた.この中 橋文相の訓示は,当時,京都市視学として特殊教育振興 の任についていた城野亀吉をして,次のように言わしめ る結果を産んだ.「本年6月東京に於ける全国各府県社 会教育主事会議に於て,文部当局に大に之が救済保護の 必要を感じ,文部大臣は之が為めに特に訓示して特殊児 童,低能児,貧困児の保護教育を力説したるは大に吾人 の意を強うせしものあり.」19)と.

 このようにみてくると,中央レベルでの特殊教育振興 による社会問題の事前の予防と国民教育の完成という乗 杉らの意図は,全国社会教育主事会議の場では,ほとん ど反映されず,その結果,地方への波及効果もきわめて すくなかったと考えられる.このことは,逆に言えぽ,

特殊教育問題は末端の地方レベルでは,ほとんど重要問 題として浮上し自覚されていなかったことを物語ってい る.結局,特殊教育振興の重要性は,中央のきわめて一 部の先見的な文部行政官によって自覚され,上から推進

されたにとどまったとみてよい.

第2章 就学児童保護事業の成立とその背景

 文部省社会教育課が特殊教育振興(盲・聾教育を除 く)のたあに最初におこなった施策は,次章でみる就学 児童保護施設講習会(1920.9.24〜30)であるが,その 背景には,次のような経緯があった.

 第一に,特殊児童,とくに劣等児・低能児問題が社会 問題化し,特殊教育振興の必要性が高まってきたこと.

そのことは,とくに,第43回帝国議会(特別議会)の衆 議院(1920.6.29召集,7.1開会〜7.28閉会)における松 下禎二の質問や,河上哲太らの特殊教育振興を求める建 議案の提出・審議において確認することができる.

一54一

(7)

 第二に,その帝国議会での論議を承ける形で,文部省 内でも第四課(社会教育課)が,特殊児童問題への対応 を積極化し,これが内務省社会課の児童保護事業の動き ともからまって,就学児童保護問題が,内務省から文部 省に移管されたこと,が挙げられる.以下,具体的にみ ていこう.

第1節 特殊児童問題の社会問題化と特殊教育振興要    求の高まり

 1920年7月22日,第43回帝国議会の衆議院において,

元京都帝国大学教授の松下禎二(鹿児島県第五区選出,

庚申倶楽部所属)は,「危険思想防遍及教育に関する質 問」の中で,低能児問題をとりあげ,次のように述べ

た.

  「少年法,矯正院法なるものが本会議に提出されまし  た.是は不良少年を取締る法であって不良少年の現れ  るのを未然に防ぐ法ではない.不良少年の行為を矯正  するに過ぎないのであります.不良少年の多くの者  は,脳の発育及智力の発達に於て,先天的又は後天的  に欠陥がある者である.随って不良少年は即ち低能児  であります.最近大阪附近に於て少女を殺害したる五  少年の写真が新聞紙上に出て居りましたが,其写真を  見ますと,一見して此五人の少年は低能児であると言  うことが分る.低能児には特殊の教育を施さなけれぽ  ならぬ.併ながら我国には此種の教育機関がありませ  ぬ.是れ吾人の大に遺憾とする点である(中略).一  般に能力相応の教育を施さなければ,児童は遂に不良  少年に変ずるものである.でありますからして,理想  的の教育法と言うものは,個人々々に就て教えること  である.けれども是は不可能でありますから,せめて  低能児と普通の児童と天才児と,此三つ位いに別っ  て,教えなければならぬのである.一中略一犯せる罪  悪を処分する法が有って,之を未然に防ぐ法の無いの  は,実に本を忘れて末を iふの識を免れないのであり  ます.要は,児童を本位とした所へ国民教育に主力を  注ぎ,其脳髄の発達の良否に鑑みまして,真に有意義  の教育を施さなけれぽならぬ.」2°)この松下の質問は,

 次のような当時の憂いの広がりを代弁するものであっ  たと言ってよい.

 「近頃不良少年が多過ぎるので,単に警視庁ばかりで なく,広く世の識者で之が救済に心を悩まさないものは ない.何うすれぽ不良少年をなくす事が出来るか.全々 それを絶滅する事は不可能であるにしても,年々それが 増加しつつある傾向を一転して,年々それが幾らかつつ でも減少して行く様な傾向にする事は出来ないものであ

ろうか.それが実際に出来るとしたならば,それは髄か に社会上は勿論,教育上,政治上に於ける一大貢献であ ると言わなければならない,之は言う迄もなく,吾々の 現下に於ける他の如何なる問題にも優るとも劣らぬ一大

問題である.」21)

 松下の質問に対する政府側の答弁は,他の案件の審議 と関わって,結局ひき出せないままに終ったのである が,松下の質問は,後述の川本(第四課嘱託)の不就学 者絶滅策の提起に敬意をもって受けとめられた22).

 さて,この松下質問の翌日(1920.7.23)には,河上 哲太(愛媛県第二区選出・無所属倶楽部→立憲政友会)

他3名による「不具病弱児童の教育振興に関する建議 案」と「貧困児童就学保護に関する建議案」が衆議院に 提出された.そして,7月28日に両建議案の提出の簡単 な趣旨説明がおこなわれ,即日,委員会審議となった22).

委員会は,前述の松下禎二を含む9名で構成発足し,政 府側からは赤司鷹一郎(文部省普通学務局長)が出席し た.その委員会において,河上哲太は,冒頭,両建議案 の具体的内容を説明して,次のように述べた.

 「我国民教育は偉大の進歩を遂げたのであるけれど  も,之は単に普通一般の児童に対する義務教育が普及  したと謂うことであって,現に我国の義務教育の制度 上に於ては彼の貧困者の子弟や盲唖の児童や,又は其  他の身体的或は精神的に欠陥ある病弱不具或は低能白 痴等の児童に対しては,或は就学を免除したり,或は 猶予する規定を設けて,殆ど是等不幸の児童に対して は,其就学の途を得させるようにはなって居ないので  ある.加之戸籍の整理不完全なるが為めに,上述の児 童の就学を十分督促し,又奨励する事が出来ない状態 で,是等多数の児童は全く就学せず,又仮令就学する  も甚だ不完全なる状態に於て教育せらるるのであっ

て,結局是等の特殊児童に対する教育は,極めて其成 績挙がらず,寧ろ全然教育の方法が立って居ないと言 っても過言ではないのである.即ち国の教育事務であ  る国民の義務教育の制度に於て,是等多数の不幸なる

児童に対して,国家は殆んど何等の施設を講ぜぬ,其 保護をなさぬものと見ても差支ないと思う,此点より 考えれぽ,大体として整頓された我義務教育の制度 は,外国の国民教育に比較して大なる欠陥を妓に見出 すのである.即ち我国の義務教育には,其社会政策の 施設に属すべき方面が全く欠けて居るのであって,此 点が現代文明諸国に較べて非常に見劣りする点であ

る.又国家の将来に重大なる関係を有する点である.

一中略(貧困児童,盲唖児童,白痴低能不具及病弱 児童の数及び教育状態について詳細に言及)一貧困

(8)

「教育科学研究」第5号 の為めに不就学となり,又は不完全なる教育を受けた

るものは,其の智徳に於て欠くる所大なるものあるの みでなく,其思想上にも由々敷一大欠陥を来し,将来 社会に対し反感を起さしめる虞がある.又精神薄弱な る児童に就て之を見んか,留に智力に於て薄弱なるの みでなく,常に道徳的欠陥を伴い,犯罪的潜勢力を蓄  うるものである.要するに是等不幸なる憐むべき児童

の教育保護を等閑に附することは,即ち社会問題をし て益々其事態を重からしめ,其解決を困難ならしめる 所以である,之に反し適当なる教育上の施設を為し教 育保護を加ふることは,国家社会の安寧福祉を増進  し,不祥なる社会問題を防ぐ最善の施設方法である,

況や邑に不学の戸なからしめ,家に不学の徒なからし めんとの明治天皇の御聖旨に副ひ奉る所以なるに於て  おや,以上の始き現状なるか故に,文部当局は至急是  等に関する法令を立案し,適切なる施設を講じ,自ら 経営すべきは之を経営し,地方自治体に行はしむべき  は之を行はしめ,之を補助すぺきは補助せねばなら  ぬ,是は実に喫緊なる国家の要務である,之が為めに  如何支出するとも決して高い者とは申されぬ,宜しく  文部当局は現下の社会の状勢に鑑み,将来の安寧の為  めに鋭意適切なる方法を講ぜられんことを望んで己ま  ない次第である」24)

 この河上の提案趣旨説明をめぐる質疑応答の後,赤司 は,最終的に「無論異議はありませぬ」と答弁して,両 建議案は満場一致で可決された.こうして,文部省は,

特殊教育振興のための具体的対応策をせまられることに なったのである.

第2節 就学児童保護事業の成立とその構想  前節でみた帝国議会での論議に即応するかのように,

1920年8月〜9月にかけて文部省内の関係筋の動きがに わかに活発化する.それは,具体的には,赤司(普通学 務局長)→乗杉(第四課長)→川本(第四課社会教育 調査嘱託・1920年7月文部省入り)という系列において 確認できる.そのことを示すのが,赤司の論文「我邦教 育と社会教化運動」25)(1920.8.13執筆)であり,乗杉で は,前章で検討した論文「民衆の教化運動」と「社会教 育に就て」である.そして,川本では,代表論文として

「不就学者絶滅策と其の準備」26)を挙げることができる.

そのうち,赤司論文は,実は乗杉論文「民衆の教化運動」

とほとんど全く同一内容であり,おそらく乗杉が,(に)

逸早く執筆した(させた)ものを,赤司の名で発表した ものと考えられる.そこで,両論文を便宜上,赤司・乗 杉論文とすると,それは,前章で検討したように,特殊

  1986年7月

教育を社会教育の消極面としていくことの必要性と重要 性を高調した,意欲的なものであった.また,乗杉論文

「社会教育に就て」では,社会教育における特殊教育の 位置づけが強まり,その振興が「急務中の急務」とされ たのは,背景に前述の国会論議があったと考えられる.

こうした社会教育としての特殊教育の明確な成立が,同 時期の内務省社会課(課長・田子一民)の社会局への昇 格(1920.8.24)に伴う管掌事項の整備の動きとま絡っ て,すなわち,社会教育課(乗杉・川本)と社会課(田 子)が相互に作用しあって,最終的に就学児童保護問題 を内務省から文部省に移管させたものと考えられる.そ の点に関する実証的解明は今後の課題に譲るとして,当 時の「教育時論」(第1273号 1920年8月25日発行)は,

次のように伝えている.すなわち,「内務省社会課にて は予て調査計画中なりし就学児童保護に関する件は,小 学校令の関係上,之を文部省の所管とし,先頃一件書類 を同省に回附した」(p.17)と.その記事と同時に,同 誌は,後述する就学児童保護施設講習会の開催要領を

「学童保護施設講習会」として報じている.

 こうして,就学児童保護問題が文部省の所管となり,

就学児童保護施設講習会が準備される中で執筆されたの が,前述の川本論文である.この論文には,川本個人の 強烈な個性と先見性が随所にうかがえるが,社会教育課 の就学児童保護事業の基本構想(方針)が私案という形 で大胆に提起されており,注目に値する.この論文で展 開されている川本の就学児童保護事業=不就学者絶滅策 の基本構想には,注目すべき4つの特徴がある.

 第一は,その構想の基本理念に「社会的正義」の実現 を据えたことである.すなわち,川本は,言う.「不就 学老絶滅」と「その準備」という課題は,「義務教育の 本旨を達成し,社会的正義の観念を実現する意味に於 て,大なる仕事」(傍点筆者)である,と.川本は,同 時期,「デモクラシーを以て,上下の協調,個人と社会 の協調,個人の社会奉仕,社会と全個人の福祉の増進等 をその理想なり」27)と解していたが,「社会的正義」は,

その「デモクラシー」を構成する「社会的デモクラシ ー」の理念であった28).後に整理された定義に従えば,

 「社会的正義」とは,「社会の各員が其の社会上に於け る本分をその才能に応じて恪守し以て社会生活を健全な らしめ,個人の最高使命である倫理的社会的理想の実現 に貢献する」29)ことを言う.また,それは,当時の社会 改造の原理でもあった3°).

 第二は,その「社会的正義」を実現していく対象児童 についてであるが,川本は,実に多種多様な児童を対象 に挙げている.それは,東京市視学時代(1916.4〜1920.7)

一56一

(9)

の体験に基づくところが大きい.具体的にいえぽ,まず

「特殊児童」としては,「盲唖児童」「病弱児童」「白痴 低能児」を挙げ,「貧困児童」としては,「戸籍の整理が 不完全」なために不就学となっている児童,「幼年労働」

による不就学児童,東京市の「直営小学校」や「尋常夜 学校」のような不正常な義務教育を受けている児童,さ らに,農村部に多い「子守奉公」をしている不就学児童 等を挙げている.その他,「船頭の子供」すなわち不就 学水上生活児童,をも対象に挙げている.

 第三は,上述の多種多様な児童の実態把握の上に立っ て,それぞれの対象児童に応じた保護・教育振興策を提 言していることである.

 ここでは,次章とも関わって,「特殊児童」の中の

「白痴低能児」に限定して検討しておこう.

 川本は,「現在精神薄弱即ち自病(=白痴一筆者注)

疲癩の為に就学を免除されたる者四千三百五十三人」と 把握し,その「白痴でさえもその八十パーセントは独立 自営が出来るまで教育することが出来」るという認識に 立って,「白痴」のための「特別の学校」の必要性を提 起している.一方,「低能児」については,「全国に少く とも15,6万人は居る」と概算し,その「低能劣等児」が 普通の学校(学級)に混在していることは,「彼等自身

にも非常に損失のみならず,他の中等,優等児までも大 なる損害を与える」として,「少くとも特別補助学級・

進んでは特別学校を設立して,彼等に適する教育を施し てやる必要がある」と提言している.そうすることによ って「普通児童の教育能率」が増し, 「天才児童の教育 も大いに顧みる余裕が出来る」としている.その他,川 本は,地方における特別学校(学級)の設立・普及に対 応して,中央に「研究の中心となり」かつ「教員養成の 機関となる」白痴低能児学校の設立を提案している.こ のように,きわめて積極的な提案をしている川本である が,その「白痴低能児」観は,前節の松下禎二と同様,

彼らを「犯罪性を有する」もの,すなわち,「不良少年 になるもの」ととらえていた.結局,川本にあっては,

「白痴低能児」に「社会的正義」を実現するとは,教育 の保障によって彼らを「独立自営」の人間(=職業人・

社会人)たらしめ,それによって不良化と犯罪を防止し さらに,他の児童の教育能率を向上させる,という一石 三鳥の効果が期待されていた.そして,今や「白痴及低 能児教育は……議論の時代をすぎて実行の期に入った」

と述べて,具体的振興に踏み出す意欲を表明していた、

 第四は,各振興策を実現していくために必要な財政的 措置=教育費の保障(国庫補助)を,具体的に数値をあ げて提起していることである.すなわち,「白痴低能児」

に限定していえば,川本は,「白痴学校十校出来るとし て約一校に二万円,計三十万円,低能児十六万人中五分 の一を特別学校に収容するとして一人当十五円補助とす るも二十万円」,合計50万円を算定・計上している.そ して,それは当局の「熱誠と断行」によって可能である としている.

第3章 文部省社会教育課の特殊教育振興策の展    開一劣等児・低能児教育を中心に一

第1節 就学児童保護施設講習会

 前章で検討した基本構想をもつ川本が中心的な役割を 果たして開催されたのが,就学児童保護施設講習会

(1920. 9. 24−30)であった.

 講習の目的は,一言で言えぽ「救済教育従事者の養 成」31)であり,より具体的には,「一般児童の就学上並に 就職上に関し,父兄及教育者の注意すべき事項の外,病 弱児,劣等児並に低能児に対する特殊の教育施設の方法 並に広く一般児童保護に関する施設の基礎たる研究及調 査を紹介する」32)(傍点筆者)ことであった.

 講習の対象者は,「各府県学務当事者一名,各市視学 又は学務当事者一名及聴講者として小学校長及学務委 員」33)で,実際の出席者は,「東京府社会教育主事吉田幹 氏以下全国各府県よりの聴講者百三十名」34)であった.

 講習題目(講師名・所属)は,次のとおりである.

①就学児童保護の諸問題(久保良英・東京帝大文学部講

 師)

②児童身心発育の相互関係(寺沢厳男・東京高師講師)

③劣等児教育の実際(黒沼勇太郎・東京高師訓導)

④児童相談事業経営法附職業指導に関する要項(三田谷  啓・大阪市社会部児童課長)

⑤病弱児及其教育施設(古瀬安俊・農商務省工場監督官)

⑥低能児の調査法(樽崎浅太郎・東京高師教授)

 その他に「乗杉文部事務官,北学校衛生官」の「科外 講演」(内容不明)があった35).

 ここで注目すべき事実は,第四課=社会教育課主導の 講習会に,第五課=学校衛生課の課長・北豊吉が参加し ている事実である.後述する特別学級の全国調査(表3 参照)は,社会教育課と学校衛生課とが,相互に協力し あうことなく各々独自におこなっているのであるが,そ のセクト的関係を考える時,就学児童保護施設講習会の 時点で,乗杉・北両課長が「科外講演」者として位置つ いている事実は注目されてよい.

 こうして開催された講習会の講義録が,川本が編集し たという周知の『就学児童保護施設の研究』(中文館

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(10)

「教育科学研究」第5号 1986年7月 1921年9月)であった36).本書の内容は全体として国内

外の研究・実状の「紹介」の域を出ていない.また,多 彩な講師陣によって紹介される多様な内容の根底に一貫 する共通の考え(思想)を,本書からだけでは見出すこ とはできない.それには,各論者に即した検討が必要と なろう.ここでは,本講習会の総論部分を担当し,その 後も社会教育課の特殊教育振興策に関わりをもつ久保良 英に注目して,その就学児童保護観(対象と理念)につ いて若干の検討をしておきたい.

 久保は,本書の「第一編 就学児童保護の諸問題」

(pp.1−88)の中で,問題の対象となる児童として,大 きく,「欠陥児童」「不良児童」「貧困児童」をあげた.

そのうち,「欠陥児童」は,さらに①「身体的欠陥児童」

(盲目児童,吃音児童,聾唖児童,不具児童,病弱児 童,結核児童他)と②「精神的欠陥児童」とに別けてと りあげられた.就学児童保護施設講習会は,全体として 劣等児・低能児の教育振興に重点がおかれているが,本 来の就学児童保護事業は,川本の構想がそうであったよ うに,特別な保護・教育を必要とする広汎な児童を対象 として出発した.

 これらの対象児に対する就学児童保護事業(社会事業)

のあり方(理念)に関わって,久保は,次のように述べ た.すなわち,社会事業は,「最初は,宗教的並に慈善 的の事業」としてはじまり,「それから段々国家事業が盛 んになって…国家的の考えから各種の社会施設が起」こ り,「現在に於ては,各人の権利…,民主思想…が,勃 興した為めに,貧乏人でも片輪でも人間である以上,同 等に生活し得る権利がある.正常の人は異常な者にも相 当な生活をせしむるように努むる義務があると言う考え が起って来た」(p.7)と.このように久保は,大正デ モクラシーの高揚を背景として,「各人の権利」を重んじ る精神,換言すれば,欧米先進国に顕著である「人間の 子として生まれた以上,人間らしい生活をやらすという 一種の人道主義」(p.88)の精神,に立って就学児童保 護の諸施策が多少なりともわが国で実施されることを

「大変宜いこと」(p.88)としていた。このように,久 保の就学児童保護事業の理念には,人権尊重と人道主義 の精神が出発点に位置ついており,注目されてよい.し かし同時に,久保は,その精神(理念)にもとつく諸施 策の実施方法には,次の点に留意する必要があることも 指摘していた.すなわち,「何れの社会事業も環境と言 うものを非常に重く見過ぎる傾がある.即ち万人一様な る素質を有って居る,同じ素質に生れて居るという前提 に於て,同胞の不具,不良,低能に対して色々な施設を 試みて居るように見えるものが,非常に多くあるように

思える.現在社会施設を色々やって居るが,其努力の大 なるに拘らず,其効果が余り挙がらぬと言うのは,確か に此の遺伝的の方面を看過した結果ではないかと思うの である」(PP.7〜8)

 要するに,久保は,理念(精神)としては等しく「各 人の権利」が尊重されることを承認したが,現実には,

人間の素質は遺伝的には一・様ではないから,その理念の 実施方法が一様であることには問題があるとしているの である,すなわち,環境に起因し,環境改善と教育によ

って効果・進歩が期待される場合は別として,素質的に みて改善進歩が期待されない者を,他の者と等しく処遇 することは徒労であり,無駄が多いと主張しているので ある.近代的人権である幸福追求の権利は,素質という 自然的不平等によって一定の制約がありうることを示唆 しているといえよう.

第2節 低能児教育調査委員会の設置と低能児教育講    習会

 (1>低能児教育調査委員会の設置とその活動

 明けて1921年4月,文部省は低能児教育の「根本調査 の為,部内に委員会を設置する」37)という方針を決定し た.続いて,5月には, 「精神薄弱者の保護教育」を実 行するための「方針」を次のように打ち出した.

 「一,我国現今の状態にて欧米の如き完全なる施設を  全国各町村に実行するのは経済上許さざれば先ずこれ  を大都市に求むる事とし其方法として特殊学級の編成  より始むる事

  二,特別学級の編成に伴い同問題に興味と熱心を有  する篤志教師養成の為めには適切なる講習会を開催す  る事

  三,特別学級其他の保護機関に収容されたる児童は  其能力と性情により相当の指導を与え或は一種の職業  教育に導き自活力の養成に努め精神薄弱者の社会に及  ぼす悪影響を未然に防止する方針を執る事」38)

 ここには,文部省の当面の方針とその特徴がよく表わ れている.すなわち,①大都市を中心とした特別学級の 設置,②その特別学級の担い手である教員養成のための 講習会の開催,③職業教育による「自活力の養成」すな わち,職業人としての社会的自立(積極面)とその結果 としての犯罪・貧困等の社会的害悪の防止(消極面)で

ある.

 前述の4月の決定を承けて,同年秋(10月頃)樋口長 市(教育学)を委員長として,久保良英(心理学),杉 田直樹(医学)の三氏が調査委員として嘱託され,ここ に低能児教育調査委員会が設置された.その調査委員会

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(11)

は,「先ず,劣等児,低能,白痴,痴鈍等の名称の統一 や,其の心理測定の方法の撰準,智能指数の算定等に関 する標準を調査し,次で其の教育の制度等に及び,更 に進んで教育方法の実際問題をも取扱って調査研究す る」39)ことを主要な任務とした.そして,発足後,間も なく「第一回の委員会を開き,学級区別問題,特別教育 問題其他」4°)について協議した.

 続く第二回目の会合(1922.1.27 於・文部省普通学 務局長室)において,出席者の乗杉第四課長,川本調査 主任と樋口,久保,杉田らは,「我国には低能児を教育 するにしても,まだ低能児の標準が確定して居らず,同 じく低能児でも耳や眼又は喉頭の故障等によるものと,

先天性に精神の欠陥あるもの等,種々ある」という現状 をふまえて,まず「低能児の標準」を明確にするための 調査研究として,次のような方針を打ち出した.すなわ ち,その方針とは,「先ず,今回は第一着手として久保 氏を煩し,2月15日より6日間市内山ノ手,下町の小学 校を選び,3万7千百校の心質検査票を作り,之を2千 5百人の生徒に配布して低能児と目さるる3年生以上の 男女生徒にある方法を施したる上,前記カードの中に記 入せしめ,之によって一通りの調査が済めば,更に斯道 の大家杉田博士が医学的の研究をとげ,其調査結果を印 刷して日本全国の小学校に配布し,低能児救済の参考と する」41)というものであった.

 方針どおりこの調査の結果がまとめられて印刷配布さ れたかどうか,さらに,その後の調査委員会の活動がど のようなものであったのか,目下のところ,筆者は確認 しえていないが,調査委員の樋口,久保,杉田らの研究 成果は,次にみる低能児教育講習会において全国の関係 者に還元されたとみてよい.

 ②低能児教育講習会

 1922(大11)年7月25日〜31日,「道府県,郡市視学,

小学校教員其他特殊教育二従事スルモノ」を対象に,低 能児教育講習会が東京帝国大学医学部法医学教室におい て開催された,当初,文部当局は,「会場の都合で,聴 講人員は全国から百名位を限度に募集をしたところが,

意外に申込者が多く忽ちにして,二百名を越えるの盛 況」ぶりであった42).このことはすでに各地で劣等児低 能児教育の振興の動きが徐々に高まりつつあったことを 物語っている.

 講習題目(講師名)は「低能児及病的児童の診断及治 療」(杉田直樹),「低能児の学級編成及其取扱」(樋口長 市),「個人及団体精神検査法」(久保良英),「知能と学 習作用」(青木誠四郎)であった43).この講師陣は,低 能児教育調査委員会の三氏に新たに青木が加わらたもの

である.講習会記録が,就学児童保護施設講習会のよう に出版物として残されていないため,その内容は不明で あるが44),講習会の様子については,次のように報じら れている.

 「過般開催せる低能児教育講習会は,内地は勿論遠く  は台湾,満州,朝鮮,関東州より来会するもの二百五  十名の多数に上り何れも斯道の経験浅からざる人々と  て九十度内外の苦熱をものともせず熱心に聴講して欠  席者の少なかりしことなど他講習に其比を見ざる所に  して各講師の擾刺たる講義,松沢病院見学等,会員を  して倦むところを知らしめざりき,而して同講習修了  者二百三十二名に対し修了証書授与,次で乗杉課長一  場の挨拶をなし翌日宮城拝観を為し非常なる盛会裡に

 終了せり.」45)

 これらの講習修了者が,内地及び植民地の各地方で,

特別学級の開設・実践に中心的な役割を果たしていった ものと考えられる46).こうして,二度にわたる講習会が 重要な契機となって,劣等児・低能児のための特別学級 が全国的規模で急速に普及していくのである47).社会教 育課の調査(後述の青木誠四郎の調査)によれぽ,表3

(比較のため同時期の学校衛生課の調査結果を含む=表 中①④)にみるように,1923年度調査(表中②)で235 学校,463学級・収容児童数18,654人,1925年度調査(表 中③)では,138学校,232学級・収容児童数6,298人で あった.しかしながら,このように特別学級が全国規模 で急増・普及していくのとは裏腹に,社会教育課には,

低能児教育講習会の開催以降,若干の動きはあるが注目 に値する積極的とりくみがみられなくなる48)。そこには,

社会教育課内にあって特殊教育振興の中心人物であった 川本が,1922年10月より文部省在外研究員として欧米留 学したこと(1924.6帰朝),さらに,川本を支えた乗杉 も,1924年6月,松江高等学校長として転出したことが,

大きく関係しているように思われる、

第3節 青木誠四郎(特殊教育調査嘱託)の活動  川本が在外研究委員として欧米に留学して以降,社会 教育課において特殊教育振興の中心を担うのが,心理学 者の青木誠四郎(1894〜1956)である.青木は,1920年 代の初頭から文部省の嘱託として学校衛生課と関わって 特殊教育の調査研究に従事していた49).前述の低能児教 育調査委員会のとりくみに対しても,「余は,日本の将 来のため,この委員会が充分な結果をあげんことを祈る 次第である」5°)と述べて期待をよせつつも傍観していた.

しかし,先にみた低能児教育講習会には講師陣として加 わり,社会教育教育課の特殊教育振興施策の一役を担う

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