特殊教育の新しい理念
一学校教育と社会福祉との接点一
池 田 親
1.問題の所在
近年,特殊教育諸学校において共通してみられる現象の一つは,教育対象の 持つ障害の重度化又は重複化ということである。この現象は,特に肢体不自由 教育の場で端的に現われている。すなわち,従来。学校教育の対象にならない であろうとして入学を認められなかった児童生徒が,次第に入学できるように
なったのである。
このように教育対象が変化してくるにつれて,それに対する教育のあり方が 新しい問題となってきた。特殊学校が,専門家としての教師の定めた固定した 基準によって,すべての児童生徒を選択し得るならばともかく,今日において は毎年希望してくる対象に合わせて基準を変えざるを得ない事態である。しか もその基準は客観性をもった尺度として示せるものでなく,個々のケースによ って判断されるものである。なぜこのような事態が生まれてきたかについては 後に考察することにして,ともかく学校特に公立学校がその社会の必要にこた
えるべきものであるとすれば,教育対象に合わせて教育のあり方を変えていく のは当然の使命である。
だが,学校教育を希望してくる児童・生徒が重症化するとはいっても,彼等 は従来も家庭などにおいて生活していたことは間違いない。そこにおいては,
それなりに広義の教育的営みがなされていたことは事実である。彼等が次第に
学校教育の場におきかえられるようになったとしても,その教育的営みが否定
され全く新しい別のものが与えられるというはずはない。とすれば,今や特殊
教育の場においては従来の学校教育の限界をこえた,広義の教育を包括する新 しい教育理念の確立が必要となってくる。そもそも教育は,極めてヒューマニ スティックなはたらきのはずである。しかし,特殊教育の発達史を通じて考察
してみると,それは限界の中でのヒューマニズムと言わざるを得ない。常に正 常者を基準とし,それからのへだたりの程度をもって教育対象を考えてきたの である。そして,或一定の基準以下は教育対象外として除外され,教育の場か らはほとんど省みられることがなかった。いわば,この限定された中でのヒュ ーマニズムが限界のないヒューマニズムへ移行しようとする過程が,今日の特 殊教育の最先端の状況であるともいえよう。
もちろん,特殊教育の場には,従来のままの教育対象が在学し教育を受けて いる。この役割はそれとして今後も続いていくであろう。しかし,それも,新 しい特殊教育の事態に直面して,あらためて反省を求められているように思わ れる。特殊教育が普通教育にも通ずる教育原理を発堀する場であるとするなら ぽ,特殊教育の新しい理念は,特殊教育の全体を支える柱になるべきものかと
思う。
以上のような問題意識のもとに,教育対象変化の実態をおさえ,従来の特殊 教育観をたしかめ,新しい教育理念の確立を試みようとするのが本論の目的で
ある。
2.教育対象変化の実態
まず,統計上の変化をみてみよう。肢体不自由教育の機関としての光明養護 学校の場合,年間の変化のようすを示すとく表1>のようになる。(1) これに
よると,対象児中脳性マヒ児の占める割合が急速に増加していることがわか る。すなわち,戦前36.5%にすぎなかったそれが,戦後66.7%と半数を越え,
今日では85・6%oの多数に達し,肢体不自由学校はあたかも脳性マヒ学校のよう である。この実態は,単に光明養護学校のみにみられるものでなく,全都的・
全国的にみられる現象である。
なぜこのような事態になってきたのか,その背景にはさまざまな要因が考え
られるが脳性マヒ以外の起因疾患が医学の進歩によって減少していることもそ
の一つである。カリエス,股関節脱臼,脊髄性小児マヒ(ポリオ)などがそう である。この傾向は,今後ますます著しくなっていくことは間違いない。また く表1>光明養護学校小学部卒業生の病類 脳性マヒ以外を起因疾患とする
卒業年度
脊随性小児 マ ヒ
脳性マ
ヒ
結核性
脊 随 関節結核 カリエス
そ の
他 計
脳性マヒの割合
昭和14〜16年度 ・68i 7584413講
昭和24〜26年度 16 3 2
3 2466.71昭和34〜36年度 47 6 3 1
865「72・・羅霧度小学・434 20 16785.6
(光明三十年誌 p.98より)
肢体不自由は単純な障害であ り,社会的な理解の深まりや生 活様式の変化にともなってかな
り一般学校において教育される ようになったことも事実であ る。特に肢体不自由について は,単に障害を持っているとい
うだけでは必ずしも特殊教育の 対象にはならないのである。
<表2>江戸川養護学校生徒身体障害者手帳級別表
に2 対級 者L合 持る割 所すの
請 計
申中
6
級
5級 4 級
3級
12級
1
級
小学部 ・・1261 ・8[・36・・31・・61
48.6%中学部 9・・巨5982・87・
35. 9%高等部 784i 2331 6133i
56.O%f
合計 2644372417687241145.4%
(昭和39年度学校要覧より)
,
で,次にそれらの状況を統計的に概観してみよう。
<表2>は都立江戸川養護学校における身体障害者手帳級別表であるが(2)
未所持者がかなり多数いるけれども,所持者のうち約半数は1,2級に該当す る。1,2級は介護者なしでは旅行のできぬ程度であって,重度障害者というこ とができる。<表3><表4>は,同じく都立江戸川養護学校における社会生 活能力調査の結果であるが(3), 小学部において身辺自立能カー段階及二段階 の児童が53%を占め中学部においてSΩ69以下の生徒は約54%を占めている。
更に,重複障害の状況をみてみよう。脳性マヒ児の持つ重複障害の種類とし ところで,脳性マ
ヒが多くなったとい
うことは,教育的に
はどんな意味をもっ
ているのであろう
か。それは,障害の
重度化と重複化とい
うことである。そこ
<表3>小学部社会く表4>中学部SΩ分ては知能障害言語障害知覚的 生活能力(身辺自 布 障害,感覚的障害,てんかん発 立)分布状況
作,以上のすべてに関連した情緒 SΩ 実数 %
段 階 実数 %
的性格的異常などが考えられる。
釜90〜109
9 25.7 1段階 45 43
まず,知能障害については,かな 20.0
80〜89 7
2 〃 10 10
り以前から研究調査が行われてい 70〜79
3
8.6
3 12111
るが,1950年以後の比較的新しい 60〜,gl g
25.7
4 〃 9 9
調査結果は諸外国においてもわが 50〜591 6
17.1 5 〃 10 10
国においても共通の傾向を示して 49〜以下 1
2.9
いる。すなわち「これまで掲げた
6 〃 12 11
計 35
17〃 44 1°° °
全体の調査報告を通じてみて,脳 (江戸川養護学校紀要1)
8〃 2 2 性まひ児の知能は著しく劣ってお
9 〃 0 0
10〃 0
0十
ゴニロ
104 100
り,普通知以上の者と,境界線級以下の者との出現率は 大体一対三ぐらいの割合であろうと考えられる。全体の 約3/4もの多数が知能的問題をもっているのである」(4)
(江戸川養護学校紀要1)と整理されている。これを江戸川養護学校の例で示せば く表5>知能指数分布表 く表5>となる。(5)すべ
49
ネ下
難鵬墨1㍊駕1量 計
小学部 111417
中学部 5 4
・7i・7t23[・d 9・・8
・41・旨・71・415569
1
1高等部
i
・325141・・14333
計
%
172・3327・Sl 48・9・722・
7・79・615…2・・1・7・・3i・…8・・61・7・7…1
(江戸川養護学校「学校要覧」)
ての疾患を含めた全障害児 の中で,Ig79以下の者が 44.6%の多数を占めている
こと,しかも1950以下の 者が17名も在籍していると いう実態である。
次に言語障害であるが,
脳性マヒ児だけについての 調査では,全体の84.7%68.3%などが何らかの言語障害を持つものと報告され ており,江戸川養護学校における全障害児を対象にした調査結果では,<表
6>のようになっている(6)。すなわち,何らかの言語障害を持つものは全体
<表6>言語障害児童生徒数
障害程度 無 軽度 中度 重度 計
人数1・28 i54372224・
%53・・22・・1・5・49・・…
53.1 46.9
軽度殆んどききとれるが障害あり
中度 不明瞭な所があるがなんとかききと
れる
重度 発声ができない又は殆どききとりに くい (江戸川養護学校要覧より)
の46.9%に達し,脳性マヒ児だけに ついては,約64%にあたると推定さ れる。特に,重度者が22名も在i籍し
ている事実を指摘しておきたい。
知覚的障害についての統計的な調 査報告はまだなされていないようで あるが外国におけるドルフィソ氏ら の研究日本における佐橋文寿氏らの 研究によってかなりの事例が報告さ れている(7)。 例えば,知覚心理学でいう図形と素地の関係や形と余白との関 係を正当に弁別したり再生したりすることが困難であっfFり(視知覚や触知覚)
概念構成において事物の本質的でない二次的な性質に基いて反応する傾向があ
ることも指摘されている(8)。
また感覚的障害についても,さまざまに調査報告がなされていて,その数値 にはかなりの差はあるがその最低の数値をとりあげてみても脳性マヒ児のうち 視覚障害で13.3%以上聴覚障害で%以上が重複障害を持っているとみられる
(9)。
てんかん発作についても,さまざまな調査報告がなされているが,岡田良甫 氏は「脳性小児マヒ全体でみれば20〜40パーセントぐらいが小児てんかんの治 療を必要とします」(10)と指摘しており,他の報告をみても最低20%以上はて
んかん発作を持っていると考えられる。
以上において,脳性マヒの持つ重複障害の実態を概観してきたのであるが,
最後にこれらと密接な関連をもつ情緒的性格的異常の問題がある。しかも,教 育の次元においては,疾患や障害そのものよりも,それらの障害に起因する学 習意欲の減退や情緒の不安定や性格行動のゆがみなどが直接的に問題となるわ けである。そこに教育が医学や心理学と密接な関連を持ちながら,なお独自の 役割を持ち得る根拠があるのである。
右に述べてきた事実は,肢体不自由養護学校における実態であるが,これと
同様の傾向は他の特殊教育諸学校においてもみられるようである。すなわち精 神薄弱児のための特殊学級や養護学校では,従来教育対象でないとされていた 1950以下の児童生徒が,かなり在籍しているし,盲学校やろう学校においても 精神薄弱を伴う重複障害児が入学を認められ,それぞれ特殊学級に編成されて 教育を受けている。従って,以下の論も,本質的には特殊教育諸学校に共通し
た問題であると言える。
さて,最後に,最も厳しいケースとして,進行性筋萎縮症をあげておきた い。この疾患は現象的には筋肉が次第に萎縮して細くなっていき,大体小学校 を卒業する頃からひとり歩きができなくなり,その後はほとんどすわったきり の生活を余儀なくされ,悪性の病型では20〜30才以前に他の病気を併発して早 死にする傾向が強い。このように,現代の医学では如何ともなし難く,しかも 絶えず進行していく疾患を持った児童生徒が,現に相当数養護学校に在学して いる事実を特に指摘しておきたい。そして,この種の児童生徒は,昭和28年度 以前には1名も養護学校を卒業していないのである。(11)
3.従来の特殊教育観
従来,特殊教育を支えてきた教育理念は何であったのだろうか。一般普通教 育との対比においてその特殊性をどう考えてきたのだろうか。
まず法制的側面をみよう。法規の上で特殊教育をきめているのは, 「学校教 育法第6章特殊教育」の部分である。その第71条には盲・聾・養護学校の目的 として「盲学校,聾学校又は養護学校は,夫々盲者,聾者又は精神薄弱,身体 不自由その他心身に故障のある者に対して,幼稚園,小学校,中学校,又は高 等学校に準ずる教育を施し,併せてその欠陥を補うために,必要な知識技能を 授けることを目的とする。」と定められている。この規定の意味や問題点につい
てはすでにあらゆる場で論じ尽くされている観があり,一致した見解として準
ずる教育であってはならないとされる。すなわち,もっと質的に異なった特殊
教育の独自性をうち出すべきであると主張される。たしかにこの規定の仕方に
は,あくまでも普通教育を基準とし,それから少しずつ範囲をひろげ,またそ
れにできるだけ近づけるという基本的な姿勢が感じられるわけである。
次に,実際に特殊学校にはどんな対象を入れるべきなのか,その判別基準を みてみよ5,。これは,昭和37年3月31日付で改正された「学校教育法施行令第 22条の2」の規定により定められているが,そのうち肢体不自由養護学校に入 学せしめるべき心身の故障の程度をく表7>のように定めている。
<表7>心身の故障の程度
12345
この規定によれば,少くとも肢体の単純障害である限り,
っても養護学校の教育対象になり得るはずである。しかし,あくまでもここで は肢体の不自由についての単純な規定であって,重複障害については積極的に 考えられていない。しかし,現実には養護学校の大部分は脳性マヒであり,脳 性マヒの大部分は何らかの重複障害を持っており,しかも重度になればなるほ どその重複の程度も強くなるのが一般である。このような実態からすれば,す でにこの規定すらが養護学校の実情に合わないのである。
さて,次には,従来の特殊教育の諸領域において,特殊教育観をどのように 持ってきたか,二,三の文献によって考察してみる。
(1)盲教育の場合
榊原清教授はその著「盲児の心理と教育」の中で「よくいわれる盲人の教育 は正眼者にまでの教育であると考えるのは誤りであって盲人はどのようにして
も正眼者にはなり得ないように,盲教育もいわゆる盲人としての教育であって よい。ただ,社会が正眼者のための社会である以上,それに適応できるような 盲人にしなければならない。すなわち,正眼者に伍して幸福な社会生活を営み
うるような盲人となることを除いて盲教育の目的は考えられない。」(12)と述べ ている。これだけでは必ずしも榊原教授の準ずる教育に対する見解を示してい ることにはならないが少なくとも盲教育の特殊1生がかなり強調されていると理
体幹の機能の障害が体幹を支持することが不可能または困難な程度のもの 上肢の機能の障害が筆記することが不可能または困難な程度のもの
下肢の機能の障害が歩行をすることが不可能または困難な程度のもの 前号に掲げるものの外,肢体の機能の障害がこれらと同程度以上のもの
肢体の機能の障害が前各号に掲げる程度に達しないもののうち・6月以上の医学 的観察指導を必要とする程度のもの
どんなに重症であ
解することができる。しかし,その独自性の強調は主として教育の内容や方法 についてであって,盲教育の究極的な目標はあくまでも普通教育で言われてい るように「価値的生産者を作る」 (小林澄兄「教育原理」) 「新しい社会をつ
くる実践者をつくる」 (海後宗臣「教育原理」)などにある。すなわち「盲人 に一定の職を与えて,かれらの生活の安定を図るということは盲教育における 究極の目標である。学校においては,この究極の目標である職業への陶治をす
ることが肝要である」(13)と述べられている。
(2)ろう教育の場合
教育大学協会編「ろう教育」を播いてみると,教育の目的のところで「本質 的には,彼らは決して普通とは違った特殊な人間ではないこと,彼らはまず普 通児と同じ児童であり生徒であり,第二次的には聴覚障害をもっているに過ぎ ない普通の児童生徒であると考える。そして第三次的に取り扱いや指導の未熟 が種々の心理的身体的な遅滞偏向のケースを現実に余儀なくせしめていると考 えるべきである。従って,ろう教育の課題は彼らの指導の技術をいかに進歩さ せ教育の効果をあげて彼らの現実的なギャップをなくさせるかということであ
る。」(14)と述べている。すなわち,この後の部分においても,ろう教育の一般 目標は普通教育のそれと全く変りなく,特殊目標(方法上の課題)として独自 性が生まれてくるとしている。従って「独立し,その能力に応じて幸福な生活 をたて,立派な社会人として社会の進歩向上に貢献することを望んでいる」こ
とになる。
(3)精薄教育の場合
小宮山倭氏は精神薄弱児講座第2巻における論文の中で「正常児と同じよう になることを目標とするというならば,かれらの知能の欠陥を補って,知的経 験の訓練を,すなわち抽象的な記憶や,推理や,概念化の力や,判断力等を練 磨しなければならないことになる。しかし,はたしてこうした目標に達するこ とができるであろうか。……正常児とはちがってもやむをえないから,知能の 欠陥をもったままの人間として,社会に失敗少なく生きることを,どのように
して達成させるかをねらうべきである。……。精薄児の教育は,よい精薄児を
つくることであるという意味は,このような考え方を指してもいる。」(15)と述 べている。更に,この前提の上に立って社会に一個の社会人として生きていく ために要求される最低の必須条件として三つをあげその一つ生産者的条件の中 で「そこでかれらの教育目標としては,社会のマイナス,つまりやっかいもの にならないという最低目標から,各自のもっている体力・能力に応じて適度な 寄与能力,生産能力を発揮できるところをねらわねばならない。いわゆるく職 業教育 が一般に精薄児教育の主目標とされるのはこの理由による。」(16)と述 べている。この主張を通じて考えられることは,精薄教育は盲教育やろう教育 以上に更に普通教育に準じられない特殊性を持っているのであり,現実に行わ れている教育のあり方もそのようになっている。ただ,それにしても目標とし てはあくまでも社会生活の中で職業を持った人間として生きていくことであ
り,その点については普通教育における目標と本質的には変りない。
(4)肢体不自由児教育の場合
橋本重治教授はその著「肢体不自由児の心理と教育」の中で「肢体不自由児 は,さまざまの障害を有しているとはいえ,やはり世間並みの子どもであっ て,正常児たちと同様の要求をもっており,また社会の必要からいっても,彼
らは,将来,良い市民の一人として成長しなければならない。そこで肢体不自 由児の教育目標も,普通一般の児童の場合と,本質的に異なるということはと うてい考えられないわけである。」(17)と述べ,更に「しかしながら,そうはいって
も,彼らは,やはり普通児とは違った特異性や差異性をもっていたのであるか ら,その教育目標にも,それだけの特異性をもたなければならないことも理の 当然である」とし,一般性と特殊性とを包括した肢体不自由児の学校教育の目 標として項目をあげ,とくに職業能力の酒養について「なるべくは,将来彼ら が独立の生計を立て,社会の生産に参加できるように,勤労意欲とよい作業習 慣,およびその技能とを身につけてやらなければならない。中学部から高等部 になると,この目標が次第に強調され,高等部など,むしろこれがすべての教 育計画の中核となってもよいであろう。」(18)と主張している。以上を通じて
も,準ずる教育は普通教育をまず基準にして,障害の特異性に適合するように
それを修正するという意味に解される。同時にそう簡単ではないと問題を残し ながらも,独立して社会的生産に参加することを目標にしている。
以上において,特殊教育諸領域における従来の代表的な教育観を概観してき たのであるが,これらに共通するものは究極的な目標として社会的自立を掲げ ていることである。普通教育に準じてということに対しては,諸領域ともにそ の教育対象に合わせて独自な内容や方法を確立してきつつあるようである。だ が,教育目標においては,それぞれの障害を持ちながらも,それなりに社会生 活に参加し何らかの職業に従事することをはっきりと持っている。古い文献で はあるが,三木安正教授は「1950あるいは40以下の子供たち,私はあえて申し ますが,これは学校教育の対象ではないとはっきり申上げたいのであります。
なぜ,学校教育の対象でないか。これは大体において将来も一もちろん適当 な環境におけば何か仕事はできますけれども一一社会的な生活というものはな かなかできないのです。保護をしながら何かさせるという連中であります。す なわち,学校教育の対象でないということは,そういう点もありますが,こう いう連中は実は集団生活というものをほとんど理解できないのであります。」
(1g)と述べている。すなわち。将来の社会生活が予想できるかどうか,集団生 活を理解できるかどうかという観点から教育対象をしぼるべきだとする立場で
あり恐らく従来の極めて一般的な見解であったかと思う。もちろん右の見解は 余りにも単純にすぎ。今日においては三木教授も「精神薄弱児の判別が知能検 査中心で行なわれるという時代は去りつつあるといってよいであろう。……こ こまでが特殊教育の対象でここからは対象でないとはっきりいうことはできな い。……医学や心理学の発達によって,特殊教育の対象となるものもかわって
くることに留意する必要があろう。」(20)などと述べている。しかし結局は「社 会人として有為な人格を作る」ことには変りない。
更に,従来の特殊教育観のあらわれの一つは,右のように学校教育の対象を
限定しながら,それ以下の対象外の子どもに対する配慮をほとんど持たないこ
とである。教師自身も与えられた教育対象への配慮で精一杯であり,対象以下
の子どもの問題にまで関心を寄せる余裕はほとんどない。まして,教育行政の
担当者にそうした期待をかけることが無理かも知れぬが,少くとも就学猶予者 に対する措置後の連絡指導の体制を全く欠いているとすれば,憲法上の責任を 公的機関が回避しているというべきである。
4.新しい理念の確立 (1)教育可能性について
新しい特殊教育の理念を確立する上で,まず主張されるべきことはすべての 心身障害児に教育の可能性を認めることである。教育対象になり得ないとする 限界をすべて取除き,どんな重症児であっても彼が生きている限り,彼に最も ふさわしい教育的環境が与えられなければならないと考えることである。
前述のように従来,特殊教育の対象は法令によって定められているが,この 規定は極めて不備であり,特に重複障害の取扱いについて積極的なとりあげが なされていない。けれども,この判別基準を実際にどう運用するかを指示し た文部省通達(昭37和10年月,文初特第380号)の中で「白痴,重症の脳性マ ヒ,現在進行中の精神疾患,脳疾患その他これらと同程度の高度の障害を有す るか,または二つ以上の障害を有し総合するとその程度が高度になるものなど 盲学校,聾学校または養護学校における教育にたえることができないと認めら
れているものについては,その障害の性質および程度に応じて就学の猶予また は免除を考慮すること」と定められている。
一体「学校における教育にたえることができない」とはどんな意味なのであ ろうか。それは,あくまでも学校における教育を固定しておいて,そのレベル から対象をみた場合に下される判定である。逆に対象をありのままに認めそれ に対応した教育のあり方を考える立場にたてば,このような判定はなされない はずである。教育の意味を広義に解釈するならば,人間が生きている限り教育 があり得るといってよい。どんな重症児であっても,心身いずれかの面での成 長がある限り,それに対する指導や援助があり得るはずである。何人といえど も,他の人間の成長の可能性,つまり教育の可能性を否定することはできない はずである。かりに学校という場でそれを否定し対象から除外したとしても,
彼はどこかに(施設か家庭かに)位置を見出すはずであり,そこで何らかの教
育的営みが行われることは事実である。その時は,教育の場としての学校は,
自らの存在理由を,自ら否定することになるであろう。
このように考えてくると,従来のような「教育の可能性がない」「教育効果 が期待されない」「反応がない」などの理由で,教育対象から除外すること は,極めて非人間的な態度であるといわなければならない。教育が,ヒューマ
ニズムに立脚したはたらきであるとするならば,教育可能性や教育効果を問題 にする以前に,まず人間が生きているそのこと自体に価値を認め,何らかのは たらきかけを開始しなければならないはずである。
また,就学免除・就学猶予とは言っても,保護i者が国家社会に対して負って いる義務規定に対して免除・猶予はあり得ても(それも保護者からの願いに対
して),子どもが基本的人権として持っている教育を受ける権利に対しては,
何人といえどもそれを否定することはできないはずである。早晩,養護学校へ の就学義務制が実現した場合,明らかにそのことが確立するのである。
しかしながら,教育の中味の問題は,法律的な権利義務の関係では律しきれ ぬ問題であり,究極的には権利が満たされたかという形式上の問題よりも,彼 に最も適切な処遇が与えられたかという実質上の問題となる。すなわち,その 子どもに最も適切な教育はどんな形態どんな内容どんな方法であるべきかが,
ぎりぎりのところで問われなけれぽならない。そして,そのためには既成の学 校の枠をこえて,もっと適切な教育的環境が用意される必要がある。この次元 では,もはや学校と施設とは本質的な相違がなくなるのであって,どちらの持 つ条件がその障害児の教育により適切であるかという観点が残るだけである。
従って,今日における特殊教育の課題は,現実にある限りでの教育的環境を 最大限に活かし,また:豊かな創造性を発揮してより適切な教育的環境を生み出
していくことである。将来,教育・福祉の両面の充実につれて或いはそれぞれ が隙間なく役割りを分担することになるかも知れないが,少くとも今日,学校 教育と社会福祉とを分離して考えることは,問題があるといえよう。
さて,このような理念が確立されたとしても,なお,現実にすべての障害児
を特殊学校に直ちに受け入れることはできないであろう。それは,受け入れ側
のもつ労働の限界につき当るからである。これは,理念に向っての,研究と実 践と運動とによって打開していかねぽならない問題である。
(2)社会的自立について
前に従来の特殊教育観を検討した際に述べたように,それらに共通する理念 は,最終目標をあくまでも社会的自立におくことであった。だが,新しい特殊 教育の理念を確立する上で,第二に主張されるべきことは,もはや社会的自立
を最終目標にしないということである。
およそ教育のあり方を考える場合には,児童生徒の将来の具体的な生活への 見通しのなかで考えねばならない。卒業後に予想される生活のために今なにが 与えられなければならないかを考えるのである。この原理は教育全般を通じて 適用される原理である以上に特殊教育においてこそ強調されるべきものであ
る。なぜなら,障害者にとってその社会的自立は,健常者ほどに容易ではない からであり,特殊学校における教育のすべては究極的にここにしぼられてくる
からである。
ところで,教育対象の変化に伴って増加してきた重度障害児や重複障害児に おいて,その進路の見通しとは一体何であろうか。少なくとも現在の社会体制 を固定して考える限り,彼等には独立した社会人として職業生活を営むことは 極めて困難である。その間の事情が光明養護学校の卒業生の統計が端的に物語 っている。すなわち,<表8><表9>によれば,中学部卒業時で14.7%,高 等部卒業時で26.4%が家庭に入っていることである。(21)比較的軽症児が多か
った過去の養護学校においてこのようであるから,今後はますます増大すると 言えよう。
家庭以外に彼等が落着き得る可能性のあるところとしては,身体障害者福祉
法にもとずく身体障害者更生援護施設や身体障害者収容授産施設など,及び精
神薄弱者福祉法にもとずく精神薄弱者援護施設(通所・収容)精神薄弱者収容
授産施設などがある。また,生活保護法にもとずく救護施設や更生施設なども
該当するし,国立保養所なども考えられる。しかしながら,重度の重複障害を
持つ希望者がこれらの施設へ入所するためには,これらの施設の収容能力は極
<表8>中学部卒業時の進路 <表9>高等部卒業時の進路
進 路男隊計%
進本校離部1・sl 2459 他の高校へ1・21638
学降騨校「・3P・
62.5
職業訓練所61・「・・6・
就 馴g3・217・・
家 業S!・63・7
家 庭ig・324・4・7
自
営・1
1 0.6進 路 男 女 計 %
大学進劉・
2 5.9牒構所156・・32.・
就 職31・囹・4・8
家 業…・…8・・8
家 庭613gl 26・4
各欝校など・1・138.・8
自
営 1 ・1・・9
合 計・gl・5134・・…
不 明 9 gl 5・5
合 計・・gl 54・63・・…
(「光明三十年」誌より)
(「光明三十年」誌より)
めて少数であり,入所基準にも一定の限界がある。いずれにしてもこれらの施 設は保護をたてまえとするものであり,社会福祉の体系に属するものである。
これらの障害者は,たとえ社会体制が変化したとしても,何らかの形で保護的 環境の中でしか生きられないであろう。
最も極端な例をあげよう。前述の進行性筋萎縮症の場合がそれであり,将来 の社会的自立が完全に否定されていても,現に教育対象として在学し,学校教 育を受けているのである。すなわち,従来の教育対象選択基準の一つが社会生 活の見通しであったのに,すでにこれは無視されていると同時に,教育の中味 においても,最終目標になり得ていないという事実である。
こうしてみると,もはや特殊教育においては社会的自立は全体の目標になり
得ないのであって,むしろ積極的に福祉施設に将来をつなげていく役割りを持
つべき時点にきている。社会的な有用性を少しでも身につけるという積極的な
目標だけでなく,周囲の人々に与えるマイナスをできるだけ少くしようという
消極的な目標がとりあげられてくる。この意味でも,特殊教育は新しい理念に
到達しているといえよう。同時に,特殊学校と福祉施設とは,質的に重なり合 ってきているのであり,特殊学校は学校教育と社会福祉との接点におかれてい るといえよう。
(3)教育のあリ方について
以上で主張してきたように,教育可能性の限界を全くとり除き,社会的自立 を必ずしも目標としなくなると,一体,そこでは如何なる教育が行われること
・になるのであろうか。この全体の姿を明確にすることは,今日の段階では未だ 及び得ないことである。しかし,その教育を支える根本理念だけは,いくつか 々こまとめて主張し得ると思う。すなわち,自然主義の教育であり,全人主義の
教育であり,全生活主義の教育である。これらの原理は,筆者の教育実践の中 からひき出されたものではあるが,もともと近代教育思想の中に含まれている ものであり,また,精神薄弱児教育においては古くから実践を支えてきた原理 でもある。従って,これを新しい理念として主張することは必ずしも適当では ないが,今まで述べてきた新しい特殊教育の事態を前に,再び強調することの 意義は極めて大きいものであると考える。以下,三つの原理について概略論述
しておきたい。
まず第一・に自然主義の教育である。すべての教育活動の出発点は身体の健康
;QCあることは論ずるまでもないが,普通教育においては,余りにも当然すぎる ことのためにかえって軽視されている傾向がある。しかし,重症児の教育にお いてはこのことを軽視しては一切の教育が無効に終るといっても過言ではな い。子どもたちによい健康の習慣を形成することが何よりも重要であり,その ためには,できるだけ自然の原理に従うことである。
自然は人間に極めて多くの身体的な可能性を与えている。しかも,自然は無 意図的のうちに,それらの可能性をひき出そうと鍛錬する。逆に,文明社会の 生活様式は,意識的にそうした鍛錬を避けようとし,結果として人間の可能性 を小さく閉じ込めてしまい,体力的に弱く感覚的に鈍い人間をつくりあげるこ
.とになる。教育はこの点に再び鋭い反省を向けなければならないと思う。
身体的に障害のある子どもは,障害のない他の部分をもって代償機能を獲得
しなけれぽならない。盲における聴覚や触覚の発達もそうであるし,両上肢欠 損者における下肢機能の発達などもそうである。これらを通して,右に述べて
きた人間の可能性が如何に大きなものであるかを教えられる。また,他の障害 のある子どもは,障害それ自体を克服するためにはげしい機能訓練を続けなけ ればならない。脳性マヒなどがその例である。健常者が生後1年で獲得する歩 行機能を10年もかかって辛うじて獲得する例などざらにある。これらの場合の 訓練の方向もすべて自然の原理に適合したものでなくてはならない。
ここに述べた自然主義の教育原理については,教育思想史の上でルソーに学 ぶところが大きいと考える。あらためて説明するまでもなく,彼はその著エミ ール」の冒頭で「造物主の手を出る時は凡ての物が善であるが,人間の手に移 されると凡ての物が悪くなってしまう」と述べ,教育は自然が人間に与えた諸 能力を最大限に伸ばすための助力であると説いている。特に,第1篇「幼年 期」第2篇少年期の教育において体力及び感覚の訓練を重視していることは極 めて重要であり,多くの学ぶべきものを持っていると思われる。
第二に全人主義の教育について述べよう。
人間の持つ能力や要素を部分的分析的にみると,身体的能力,知的能力,学 習能力,情緒性,意志力などさまざまに分けて考えられる。そして,教育の具 体的な場面では,それらの部分的な能力や要素に対して,バラバラに働きかげ ることが多い。例えば最近の一般学校の教育は,ますます知的能力又は学習能 力が重視されているように思われる。このことは,それとしてかなり問題であ
るが特に重症児の教育においては障害に伴うゆがみの是正が課題なのであり,
あくまでも人間全体としての態度や生活能力が重視されなければならない。能 力が低くなればなるほど諸能力は未分化となり,従って,その子どもの持って いる総合的な生活能力を全体としてひき上げていくことが課題となるべきであ る。別の観点からすれば,絶えずその子どもの将来における生活主体としての 現実的なあり方を念頭において,教育がなされなければならないということで
ある。
例えば,知的障害のある子どもに,いくらドリルによって計算力をつけたと
しても,それを使用する場面でのより総合的な人間関係の処理能力が欠けてい るとすれば,その部分的な計算力は総合的な生活能力のひき上げにはならない であろう。また,重複障害児の教育のためには,今後医学や心理学など関連諸 科学の成果に学ぶものが多いと思われる。てんかん発作にしても知覚障害にし ても医学的な対処の仕方が不可欠である。しかし,ここでも教育の場において
・は人間形成の全体像を見失ってはならぬと言えよう。てんかん発作や知覚障害 そのものが対象なのではなく,それらに伴う人間のゆがみが対象であり,彼の 将来における見通しの中で今何がそのゆがみに対してなされなければならぬか が教育的課題なのである。従って,場合によっては,知覚障害への配慮を欠い ても,全人教育があり得るはずである。特殊教育における心理学主義や医学主 義におち込むことなく,関連諸科学の成果を生かすことが必要である。
第三に全生活主義の教育について述べよう。
上に主張してきたような自然主義の教育や全人主義の教育は,決して抽象的 な言葉による教育ではなく,極めて具体的な日常生活を素材とした教育であ
る。自然にそくし,全体的な態度や生活能力を高めるためには,日常生活にお ける具体的な事実の継続的な積み上げ以外にないと考える。
態度や意志を育てる教育は,知識を学習する以上に重要であるが,その方法 は未だ科学的に究明されていない。少くとも知識学習のプロセスが学習過程の 研究として大脳生理学を背景にかなりの研究が進められていることと比較すれ ば,はるかにおくれていると言えよう。しかし,実践的な方向としては,先に 指摘したように H常生活における具体的な事実の継続的な積み上げ である と言える。自分の能力よりやや低い目標からはじめて,着実に実践し習慣化す
ること,それが自信となりよい態度を形成してゆくことになる。そこからまた 薪しいより高い目標が生まれてくる。こうした事実の循環こそが,総合的な生 活態度や生活能力を高めていくことになる。
しかも,この場合には,限られた時間での断片的な指導であっては効果的で
はない。全生活を通じ,あらゆる時と場において一貫した指導がなされること
が必要である。子どもをとりまく環境そのものが,こうした意図をもって組織
化され常にそこに焦点がおかれている体制が望ましい。その意味でも,寄宿舎 は極めて重要な教育の場となる。重症児であればあるほど,全生活の管理と指 導とが必要となってくる。しかし,現実に全寮制が望み得ないとすれば,家庭 と学校とが充分に連絡をとり合って,一貫した方針で指導の継続がはかられる ことが必要である。
最後に,以上のような教育を実践していく場合には,その成否はほとんど教 師と生徒との人間関係にかかってくる。知識という客観的なものの伝達におい ても人間の問題は無視できないけれどもはるかに強く人間のふれ合いにかかわ ってくる。結局のところ,教育主体である教師自身の生活態度そのものの問題 となる。よき生活態度を身につけようと意図する教師でなければ,よき生活態 度を指導することはできないという,古くて新しい教育の原理に到達すること になる。これは,前近代的などと片附けられない教育そのものの本質にかかわ ることであって,教育とはそれほどにもヒューマンなはたらきなのである。こ のあたりの反省の欠如が,今日における一般学校の教育問題の重要な一因では ないかと思われる。
5.残された問題
筆者は,現在,肢体不自由養護学校に勤務するものである。本論は,そこに おける教育実践をもとにまとめた試論であって,特殊教育の理念とするには余 りにも偏りすぎているかも知れない。しかし,本質的には全領域を貫いている と考えている。そして,今後の実践を通して,この試論を裏付け,文字通り理 念の確立をはからねばならないと考えるが,その意味で,残された問題を整理
しておきたい。
本論は,学校教育と社会福祉との接点という課題に,主として学校教育の側 からアブP一チしたわけであるが,もう一方社会福祉の側から追及してみるこ
とが必要である。この両者が結び合ったとき,まさに接点の課題が明確となり より正しい解決の方向が示されるであろう。
また,最後の教育のあり方は極めて抽象的な論述で終ってしまったが,実践
を指導する理念となるためには,もっときめの細かい具体的な方向が示されな
ければならない。紙数の都合もあって,ここでは果せなかったが,これも次の
課題である。
特殊教育における教育と医学及び心理学との関係も新しい理念に関係して一 層重要である。特に,教育の側からの医学や心理学への註文をもっと整理して 提出することが必要であり,同時に教育独自の営みについても明確にしたいと
思う。