フランスの特殊教育と日本の特殊教育圓
赤 堀 哲 雄
は じ め に
臼本の特殊教育が学校教育法によって規定されている特殊教育諸学校と小学校および中学校の特殊学級で の学校教育を指すこと,つまり幼稚園,小学校,中学校,高等学校での教育に相当する年齢段階での教育を,
原則として,それぞれの障害に対応した学校/学級で「施す」ものであることについては昨年度に述べた。
いっぽうフランスの特殊教育がこのように巨本化されたものではないことを紹介し,その原因については,
歴史的な背景と義務教育の制度の違いとしながらも,なお思想や方法の差異について肢体不自由児教育を中 心にして比較教育学的な検討を試みることを今年度の課題とすることにしたのであった。
特殊教育の学習指導要領
日本の特殊(学校)教育を教育課程行政(教育指導行政)のコトバで説明すると,小学校,中学校の学習 指導要領が道徳,各教科,特別活動の3領域からなるのにたいして盲学校,聾学較,養護学校の学習指導要 領では道徳,各教科,特別活動の3領域のほかに「養護・訓練」という特別の領域を持つことが特徴だとい
うことになる。
これを外国語で説明することになると,おおいに苦労することになる。
そもそも「養護・訓練」というコトバを臼太人にたいして説明することが困難なのである。まして外国人 にたいしては……ということになる。だが運動機能障害(肢体不自由)児教育の場合には,これをリハビリ テーションのことなのだといってしまえば,なんとなく合点がいくことかもしれない。フランス語ならレエ ノノ デュカシオンReeducationである。しかし,重度の障害の子どものための教育課程の場合には,この
「養護・訓練」だけで,他の領域を欠くことになってもよろしいということになっているので,またまた混 乱することになる。同じコトバでも,明らかに別の意味内容だということがわかるからである。後者は学校 教育の対象にはならないということで就学猶予や免除になっていた子どもたちを養護学校に就学させた場合 の教育課程について,その説明に窮して使っているのであって,そこに固有のリハビリテーションについて の目標なり内容なりが示されているわけではないのである。
4領域にわたる教育課程による教育をうける子どもたちのリハビリテーションもまた,運動機能障害の種 類と障害の程度まで細分化して,誰がどういうリハビリテーションを担当するのかという説明を求められる
ことになると,かなりややこしくなって来る。脳の運動機能を司る部分に受けた障害の結果として現れた運 動機能のコン1・ロールの失敗や失調を正すのと骨折の修復後に行なわれる運動機能の回復に必要な訓練とは 全く異なった原理と方法によるものだということは容易に理解されることであろう。
それを教師たちがやるのだということになれば,そのための教員養成はどうなっているのか,それはどう いう資格なのかというような問題になるのが国際的な常識だろう。したがって,目本では,それに見合う教 員養成がなされているわけではないし,資格もいらないのだということになると話は混乱してくるばかりで
ある。実際には肢体不目由児教育教員養成課程なるものが,いくつかの大学にあるのだが,それらの大学で
106
茨:城大学教育学部教育研究所紀要21号(1989)の教育課程は教育職員免許法に指定されている単位の取得を可能にしてはいるが,その教員免許状の取得が,
運動障害の治療/訓練の適格者であることを意味するわけではないし,まして資格試験と同等のものだなど とはいえないのである。たまたま肢体不自由児養護学校に就職することになった場合にだけ,あたかも資格 を有するがごとく機能するだけのことであって,その場を離れたときにも公的な適格者として認められることは なく,それを資格として訓練士となることもできないのである。
これらのことは,学校教育の制度内の特殊教育(アンセーニューマン/スペシャリゼ)から出発するため の混乱であって,個々の運動機能障害児の医療と教育の問題(エデュカシオン/スペシァル)から出発する ならば,共通理解を得るために,さして困難があるわけではない。どのような医療が必要かということのほ うが先で学校教育のことは,それまでの医療の経過によって左右されるものだろうからである。多くの肢体 不自由児は治療や訓練の必要がなくなり,そして,通学や学校生活についてのいくらかの条件が解決されれ ば,自宅にもっとも近い普通の学校で普通の子どもたちと同じ生活をすることができるのである。学齢に達 してもまだ特別な治療/訓練を必要とされているとしても,やがては普通の学校での生活ができるようにな ることを目標にしていなければならないだろう。その先には社会生活での適応が控えているし,社会生活で のインテグレーションこそ真の目標なのだといえる。
だが,日本の養護学校では学校教育の体裁のほうが先行し,それに束縛されているために,その学習指導 要領/教育課程もまた独善的なものになってしまっているのである。もっとも,かつて肢体不自由ではなく 不治永患とされリハビリテーションの対象とはされていなかった脳性まひ児,とくに知的発達の遅滞をとも なう重度/重複障害児が在籍者の多数を占めることになっているという事情を考慮すれば目標概念としての インテグレーションの比重が相対的に軽くなってしまうということはあるだろう。
フランスの運動障害児教育にあたっている人々に対しては次のように説明するこ.とになるだろう。
一運動障害児についてのエデュカシオン/スペシアルはE]本では義務教育の段階ではすべてアンセーニュ マン/スペシァリゼとして組織されているが,訓練士(再教育士==レエデュカトゥール/レエデュカトゥリ ス)によるレエデュカシオンも教育課程の一部とされている。またレエデュカシオンは教師の職務のなかに も含まれ教師がそれを担当する場合もある。学校教育としての教育内容の学習が困難な知的障害の重い子ど もたちの場合には学校の教師による特別な教育活動=エデュカシオン/スペシアリゼが教育課程の中心にな っている。教師によるエデュカシオン/スペシアリゼも教師や訓練士によるレエデュカシオンも共に教育課 程の上では「養護・訓練1といわれている。と。
わたし自身の肢体不自由児との最初の出会いは,わたしが生まれた家の隣に,わたしより少し年長の脊椎 カリエスの男の子がいて,おたがいになんのわけへだてもなく遊んでいたことだろう。インテグレーション が,どうのこうのというよりは学校でも地域でも一緒に生活するのが当然であったといえる。
このカリエス児がどういう治療を受けていたのかは不明だが,一定の治療/訓練の期間を経て肢体不自由 児が普通の学級で生活することになるのは当然のことだったといえる。東京の下町の,お互いの生活の状態 が筒抜けの開けっ広げな空間であったこともあるのだろうが。ところが,この子どもは小学校の校内では露 路裏と違って差別とイジメに会うこともあった。それが当時の学校教育の制度の姿そのものであったという ことだろう。(東京に日本で最初の肢体不自由児学校/東京市立光明学校ができたのは昭和7年のことだが,
それは「山手」の住宅街でのことだ。)
教師としての出会いは・昭和31年,文部省の調査課を辞めてすぐに奉職した,東京/ij\平市の小平市立 小平第一小学校でのことであった。結果的には,このときの子どもとともに養護学校に移籍してしまうこと になるのだが,普通小学校の普通学級で次の年からの3年間を担任として過ごした。この場合にも,まった
くインテグレーションという意識はなかった。(だいたい脳性小児まひという病名もしらなかったし,脊髄 性の小児まひとの違いもわからなかったのである。同じ学区内に東京都立光明養護学校の多摩分校があった のだけれども,そこに同じような障害の子どもたちがいるということは意識にのぼらなかった。特別な医療 が必要だということであれば当然その処置について考えたことであったろうが。)この子どもはアテトーゼ
=・
。x随意運動のひどい脳性まひであったが,言語が不明瞭であること,書写が困難であること,手足の運動 のコントロールがうまくできないので体育の授業に特別な配慮が必要であることなど,いろいろな困難はあ ったが,学校に歩いてくることもできたし,わたしの指導で自転車を乗りこなすことも可能になった。知的 な障害があるために極端な学業不振であることが問題であったが,学級の人気者でインテグレーションとし ては成功していたといえる。
この子どもについてのセグリゲーションが,どのような形で進行したかということになると,それは学習 指導要領の改訂,勤務評定制度の導入,全国一三聖力テストの実施などを通じての管理体制の強化によるも のだといえる。教師たちが子どものほうを向かなくなり問題のある子ども障害のある子どもの厄介払いの機 会を狙うようになってしまったのである。特殊学級と養護学校の子どもたちは全国済学力テストの対象か ら除かれるということで精神薄弱児のための特殊学級は急速に増設された。だが,そこに入級させられた子 どもたちは必ずしも精神薄弱といえる子どもたちではなかった。
東京都立光明養護学校多摩分校が独立して東:京都立小平養護学校にな?たのは昭和34年のことであった。
わたしが移籍/転任したのは次の年である。この学校は多摩悪病会整育園という肢体不自由児療育施設に入 所している子どもたちのために昭和26年に作られたもので通学してくる子どもは,きわめて少数であった。
この施設は戦災孤児/浮浪児の収容施設に収容された子どもたちのなかに肢体不自由児が多数いたことから 緊急の措置として設けられた民間の施設であったので施設そのものもアバラヤという蓑現が相応しいもので
あった。もっとも,戦後の経済成長にともなつで部分的に設備/施設が更新されていったから,現在では,
痕跡は殆ど認めることができないといっていい。わたしが小平養護学校に在籍していた頃には立川/横田周 辺のアメリカ駐留軍の将兵たちによって維持/管理されている病棟が残っていたのだけれども。引き取り手 のない戦災肢体不自由孤児は別として,この療育施設の子どもたちで中学部の卒業まで養護学校に籍を置い ている子どもは少数で,施設からの退所の時期を学年/学期末に合わせることはあっても学校教育を保障す るために子どもを施設に置くということはなかった。
養護学校として独立してからの最も大きな変化は,療育施設からの子どもたち以外に,地域からの通学生 が増加していったことだろう。スクールバスをチャーターして走らせることによって通学生がいっそう増え ることになり間もなく施設からの子どもたちを上回るようになる。こうした子どもたちのなかには障害その ものは軽いのに養護学校に通学する者もいて,そうした子どもは卒業するまで養護学校にいるのであった。
治療/訓練を終わって施設を退呈したのだけれども,通学生になって養護学校に通い続ける者もいた。親に は地域の学校に通わせようとする積極的な姿勢がなく,地域の学校もまた積極的に受け入れる姿勢に欠けていた。
養護学校ができたということで安易に養護学校を選ぶようになってしまったのである。これをセグリゲーシ ョンだとするのは筋違いだろうが,インテグレーションを妨げる原因の一つになっているということはいえ るだろう。
もう一つの大きな変化は,それまで肢体不自由児の療育施設でリハビリテーションの対象としていなかっ
108
茨城大学教育学部教育研究所紀要21号(1989)た,そしてまた在宅のまま就学の機会にも恵まれずにいた障害児が通学生として養護学校に就学することに なったということである。施設もまた「将来生業につく見込のある者」という古典的な肢体不自由児の減少 にともなって不治永患児のなかから比較的障害の程度が軽く,訓練効果のありそうな脳性まひ児を収容する ようになった。かくて養護学校も肢体:不自由児施設も多くの重度/重複の運動機能障害児を抱えこむことに なる。そして問題は,それに伴って学校の教育にどのような変化が起こったのかということであろう。わた
し自身にとっては昨日のことのようなのだが,話は30年近く前に遡る。
体育・機能訓練
最初の養護学校の学習指導要領の作成のための作業が開始されたのは昭和35年のことであった。養護学 校の校長会と文部省当局との間にどのような協議があったのかわからないが,小平養護学校は肢体不自由編 の国語科の原案を担当することになった。国語の教育をするに当って肢体不自由であるためのハンデキャ ップをどう克服するかが主題であった。わたしが肢体不自由児養護学校の教師になって最初に当惑したこと は授業中に子どもたちが次々に教室を抜け出していくことであった。
一アシタヤッテモ,キノークンレン/とかなんとかいいながら隣接する施設の機能(回復)訓練室へ行っ てしまうのであった。田斉に欠けるわけではないので授業を中断して子どもたちが教室に帰ってくるのを待 つとすれば,どの授業も小間切れになってしまうのであった。パーカストのダルトンプランがシカゴの肢体 不自由学校で考案されたということが実感としてよく理解できた。わたしとしては自学目習の個別学習のプ
ランを作るのが最上だと思われたのだが,授業時間数をどうやって確保するかということが眼目になったり,
不足する授業時間数に対応した教科書教材の精選が主題になったりで一斉授業からのma i]学習への転換は,
わたし自身の個人的な研究課題の範囲を越えることはなかった。しかし,教師としての専門性が問われるの は,こうしたカリキュラム作りについてであって,授業の体裁を整えることではないことは明らかだ。(こ の点については稿を改めて論ずることになる。すでに,これまでに書いた論文のなかで何回かにわたって論
じていることなので,ここでは割愛する。) ・
国語の授業をするに当たっての子どもたちの困難は筆記/書写や構音/発話などにも見られ,それに対す る教師の配慮もまた養護学校における授業の特殊性として挙げられることではあるが,これらは国語の授業 だけではなく他の教科の授業においても配慮すべきものであったから,教科としてではなく領域として取り 上げるのが妥当ではないかというのが,他の教科を担当した養護学校とも共通の意見であった。もっとも,
ここでいう領域というのは,教科ではないあるもの,といった程度の概念であったといってよい。
わたしが昭和36年度の東京都特殊学校教職農組合の執行委員長であったことはすでに述べた。次のff度
もまた執行委員長であったのだが,わたしが解決しなければならない問題の一つに肢体不自由養護学校の機
能訓練士の雇用の問題があった。わたしのいた小平養護学校には機能訓錬士はいなかった。機能訓練は学校
ではなく施設のほうで医療行為として施設側の機能訓練士によって行なわれていた。だがわが国の肢体:不自
由児教育の草分けである東京都立光明養護学校では非常勤職員の機能訓練士が機能訓練を担当していた。多
くは盲学校の卒業生でマッサージ士の資格をもってはいたが,機能訓練士としての資格を持っていたわけで
はなく,機能訓練士の資格を持っていたり,経験を持っていたりする者が見当らないということで学校医の
指導監督のもとに訓練を行なっていたのであった。高木憲次その人が指導に当たっていたこともある伝統校
でのことであったが,高木の弟子であり多摩緑成会整育園長であった(もちろん小平養護学校の子どもたち
の主治医であった)多田富士夫などは盲学校出身のマッサージ士が肢体不自由児の機能訓練に当たることに
強く反対していた。リハビリテーションの専門家の養成計画の構想と合わないということがその理由であっ た。だが,わたしにとっては非常勤職員であるのに常勤職員なみの勤務をさせられていることが問題であっ て,それはあくまでも労働者としての身分保障/権利の問題であった。
東京都教育庁の労働条件や人事の担当者たちは,この問題をよく理解してくれたが,文部省の方針が決め 手になるということで,この問題を文部省交渉に持ち込むことにした。ff教組の特殊学校部長の永田は聾学 校の出身であって養護学校のことは理解していなかったし,臼教組と文部省との間に団体交渉権があった わけではないから,わたしが直接文部省当局との交渉にあたるより方法がなかった。わたしが文部省の職員 であったのは昭和30年度の1年間だけのことであったが,いろいろなことで文部省の役人たちとの交際は 続いていた。特殊教育課(まだ主任官室だったかもしれない)の課長補佐の田健一は東京大学の教育学科の 先輩であったしフランスの教育制度の調査官としても先輩であった。また肢体不率由と病弱の学習指導要領 を担当していた中川秀夫教科調査官も東京大学教育学科の出身であった。だから,これは交渉というよりは 懇談とお願いの繰り返しのようなものであった。
肢体不自由学校に機能訓練士の配置が必要なことは,すぐに理解してもらえることであったが,それを学 校の職員として位置づけるためには学校教育法をはじめとする多段階の法改正が必要であることがわかった。
しかし,法改正の手続きをとるのには,それ相応の条件があり,この件だけでの法改正は無理なので学習指 導要領のレヴェルで問題解決をする方法を検討してみるということであった。学習指導要領に機能訓練の時 間を何時間か盛り込むと,それについての聾学校での総時間数が算出され,それらの時間についてそれを担 当する職員を特別に定員として配当することになるというのである。機能訓練を担当する職員については各 都道府県の教育委員会の裁量にまかせることにしたい。現実に体育の教員が,それに当たっているのであれ ば体育教師でもいいだろうし,現に機能訓練をおこなっている者を実習助手として雇用することでも構わな いというのであった。
こうして肢体不自由養護学校の学習指導要領に「体育・機能訓練」 「保健体育・機能訓練」(中学部)と いう噺教科」が登場することになった。小学校,中学校の体育が週3時間とされているのに対してそれは 週5時間とされた。この結果,各肢体不自由児養護学校に配当された基本定員はたしか2であったと記憶し ている。全国だったか,東京都だけのことだったかは忘れてしまったが。
いまになってみると,この合意は重大なミスだったのではないかと思われる。わたしとしては肢体不自由 児養護学校にもリハビリテーションの専門家たちが配置されることになったという理解であったのだけれど も,学習指導要領で教科となってしまったことが,それをあたかも教師の職務内容であるかのように印象づ けてしまったことである。実際に,それまでは訓練の必要な子どもたちだけが対象だったのに,教科になる と時間割に組み込まれ,教師が手を出し学籍簿に評価が記入されるという本末転倒のことが起こってしまっ たのである。それは学習指導要領が改訂され,教科「体育・機能訓練」が廃止になり領域「養護・訓練」が 登場することになってからも,子どもたちの障害そのものについての認識と治療教育の方法を混乱させてい る最も大きな原因になっていると思われるからである。養護学校の学習指導要領が作成されるときのキャッ チフレーズは「誰にもできる特殊教育」ということであったが,この教育の困難さを学習指導要領を頼りに
して解決しようとする態度に問題ありとしないわけにはいかない。
運動障害児のための治療と教育
養護学校というコトバは外国語にしょうとすると訳しようがないコトバで,実際には対象とする障害の種
ILI O
茨城大学教育学部教育研究所紀要21号(1989)類と学校とをつなぐことになる。盲学校,聾学校と同じように肢体不自由児(運動機能障害児)学校,精神 薄弱(知能発達遅滞児)学校,病弱/虚弱児学校というふうになる。フランス語で養護学校に対応するコト バとしてあげられるのはEcole de Perfectionnement==エコール ド ペルフェクションヌマン である。これは,逆に日本語になりにくいコトバで,課程制の義務教育の制度のなかで落第をかさねても義 務教育修了証書を手にいれることが困難な子どもたちのための学校で,その子どもなりの学校教育としての 完結を職業への橋渡しとしているので,直訳すれば(義務教育)完成学校だが日本で中学校の特殊学級を実 務学級と呼ぶことがあるので,それを真似て実務学校という訳を考えてみたこともある。だが,実際には,
この種の学校は少なく,とくに運動障害児の学校や学級でペルフェクションヌマンという名称を使っている ものは極く少数である。(日本の養護学校というコトバの本流は病弱/虚弱だが,いまはなんとなく精神薄 弱/発達障害が主流になってしまっている。そのために養護学校というコトバがシックリしないわけだが,
フランスのペルフェクションヌマン学校/学級の場合には軽度の知能発達遅滞児のための学校教育というこ とであるから肢体不自由や病弱が含まれないのが当然ということになろう。)
フランスの運動機能障害児/者の教育についての案内は国立教育/職業情報機構ONISEPで無料配布さ れている。パリではRER南北線のポール・ロワイアルの駅の近くのビルの一階にある売店/案内所が便利 である。ここでは前期中等教育段階の生徒の職業の選択にあたっての職業資格ごとの学年別に編集された案 内書とともに,障害を持った子どもの障害別の医療や学校教育や職業についての親に対する啓蒙的なパンフ
レットや施設の案内が配布されている。
フランスにおける,すべての障害児/者の診断,治療,教育,職業自立,福祉などについての総合的な施 ノ 策は「1975年の障害者基本法」<Loi d/orientation en faveur des personnes haBdicapees>
にまとめられている。くわしくは,わからないが20世紀の残り4分の1ということは,いろいろ な分野でそれぞれに意識されていたようで,職業技術教育や高等教育などについてもそれぞれ に基本法がつくられており,その一環をなしているものと思われる。したがって,その具体的な展開のよう すを知るためには常に新しい資料を入手する努力が必要なのだが,自分自身で再渡仏したときにと思うもの だからそれを果たせずにいる。たとえば,インテグレーションについての具体的な施策などは普通の学校の なかに置かれている,それを促進するための学級数の増加のようすなどを判断の材料とすることができる筈だ からである。
この案内書〈etablissement de s colalisation et de formation professionelle pour jeunes deficients moteurs> 1982年版に記載されている学校教育および職業教育の施設の 数は233である。このうち国公立のものは半数にもならない。これはインテグレーション学級
を合わせてのものであって,実際に国民教育省の1981年度の統計でみると,脳性まひ児の就学者のうち学 校といえるところに就学している者は281に過ぎないのに病院や施設において教育をうけている者が3,942 になっており,それ以外の運動機能障害でも学校教育機関1,604に対して病院や施設にいる者6,124で,その ほとんどは私立であり,国立は10に充たない。「障害者基本法」ではF国がすべてに責任を負う」としてい るのにである。おそらく,ここには国だとか,障害だとかについての観念についての日本人とフランス人と のあいだにある基本的な違い,つまり歴史の違いが反映されているものと思われる。
日本の最初の肢体不自由児の療育施設/整肢療妬心が東京/板橋に作られたのは第二次大戦中のことで,
その施設は空襲によって焼けてしまったから,実質は戦後にスタートしたといってもいいだろう。
肢体不自由児療育施設が各都道府県に設置されるようになるまでの経過については省略するが,あまり時
間はかからなかった。それは,逆にいえば民間の人々によって設立され運営されたものは極めて少数だった ということである。欧米における宗教団体や障害児の親の会などを中心とした病院や施設の設立/運営にお ける市民の協力/参加の歴史を欠いていたということになるだろう。さきにも述べたごとく日本における2 つめの肢体:不自由児の民間の(といっても都立ではなかったものの東京都民生局の外郭団体立というだけの
ことだが)療育施設であった多摩緑成会整育園でのボランティア活動を支えたのは日本の民間人ではなくて アメリカ兵だったのである。
臼本の最初の肢体不自由児学校は大正期のなかごろに柏倉松蔵によって設立/運営された柏学園だが,日 本の肢体不自由児「養護学校」としての体裁を整えたものとしては昭和7年設立の東京市立光明学校をあげ
るのが普通だろう。東京市という特別な自治体における市長自身の特別な思い入れがあってのことだったし,
戦前ではこれ一つだけであった。柏倉のそれも光明学校も,ともに東京帝国大学医学部の整形外科教室に支 えられてのものでもあったが,2代目の主任教授であった高木憲次は肢体不自由児施設は医療を中心として,
そのなかに学校教育もとりいれるクリッペル・ハイムが理想で学校教育が中心になるクリュッペル・シュー レでは肢体不自由児の必要と要求に応えることができないと批判していた。厚生省をバックにした整肢療護 園は高木の理想を実現する筈のものであった。いずれにせよ高木の理想は理想として,医療主体のものと,
学校教育主体のものと2通りのものがあるという認識はあっていい。その観点をさらに前進させれば,フラ ンスの運動障害児教育における多様さを,運動障害そのものの多様さと重ね合わせたときには2通りだけで はなく,さらに多様になることが理解できるだろう。
戦後にできた肢体不自由児療育施設が,その経営方針として整形外科手術などによる収入を多くすること を旨としたのはしかたのないことだったかもしれない。これはベッドの回転を速くするという一般の病院の 経営とも共通で,それに見合った患者を選ぶことになる。それでも学齢にある子どもで長期に入院すること になる子どもには施設長は親にかわる保護者として義務教育をうけさせる義務を負うことになり地域の小学 校,中学校に教師の派遣を依頼することになる。学校教育法第75条の2の規定による特殊学級が施設内に 設けられることになるのだが,これをクリュッペル・ハイムだとは,いわないだろう。手術や投薬がカネに なる反面,機能回復のための訓練などはカネにならないということでスタッフも少なく,また意欲的でもな
かった。各都導府県に肢体不自由児の療育施設ができあがり市町村立の小学校,中学校の分教室ができあがって,
いちおうは全国に肢体不自由教育の網が拡がったが,やがてそれらの分教室が養護学校整備特例法の制定に ともなって都道府県立の養護学校の看板を掲げるようになると養護学校の学習指導要領の公示とが重なるこ とから,施設中心の肢体:不自由児教育から養護学校中心の肢体:不:自由児教育への転換が始まる。大都会を中 心にして通学制の養護i学校が次々に建設され,地方でも施設とは別に通学/寄宿制の養護学校力海られる。
未熟のクリュッペル・ハイムが成長することなく文部省/大蔵省/富裕自治体が建設するモダーンなクリュ ッベル・シューレの蔭に隠されてしまう。
施設長の整形外科の医者たちには医学的に手に余る問題があった。まず,治療効果が上からず治療手段も みつからない進行性筋萎縮症の子どもたちを施設から追い出すことになる。この時期の進行性筋萎縮症の子 どもたちは主としてフランス人医師ドゥシャンヌにより発見/報告されたドゥシャンヌ型の子どもたちで小 学校に入学する頃から徐々に下半身の筋力が衰えはじめ,やがて歩行困難になり,寝たきりとなり/J\学校を 卒業するに到らないうちに死んでしまう例が多かったのである。医者たちは肢体不自由の定義を再検討して,
障害というのは,必ずその原因になった起因疾患を持つが,その症状が消え去った後に遣ったもののことで
あり,非進行性のものだとした。この定義からすれば進行駐筋萎縮症は障害ではなくて病気だということに
エ12 茨城大学教育学部教育研究所紀要2エ号(1989)