• 検索結果がありません。

芭蕉の一句

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "芭蕉の一句"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

芭蕉の一句

著者

三輪 伸春

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

73

ページ

125-155

別言語のタイトル

A reconsideration on Basho Matsuo

(2)

一二五

   

芭蕉の一句

 

  

  

  

   

    

(一)

芭蕉は『奥の細道』の道中、羽黒三山のうちのひとつ湯殿山を訪ねたとき次の一句を詠んだ。 語られぬ湯殿にぬらす袂かな   手元にある『奥の細道』の研究書、注釈書を見るとこの句の評価は高くない。例えば、潁原退蔵・尾形仂は次のように 評している。 この山中の微細は行者の法式として、他言することを禁ぜられている。そして神秘な御山のありがたさに思わず感 涙に咽んだというのである。この句も湯殿という山の名から、ぬらすという縁語を導き出している。その作為に方が あらわになりすぎて、実感に乏しいと評すべきだろう。     (潁原退蔵・尾形仂訳注『おくのほそ道』 、昭和四二年、角川文庫、一九〇頁)

(3)

三    輪    伸    春 一二六 「 作 為 の 方 が あ ら わ に な り す ぎ て 」 俳 句 と し て の 完 成 度 は 低 い と い う 評 価 で あ る。 な お、 こ の 批 評 に は、 芭 蕉 が 感 涙 に 咽ぶほどの「神秘な御山」の「神秘さ」とは何かがまったく説明されていない。 加藤楸邨は次のように述べている。   「 湯 殿 山 は 行 者 の 掟 と し て、 そ の 微 細 に わ た る こ と ど も を 他 言 し て は な ら な い こ と に な っ て い る。 今 自 分 も 湯 殿 山 に詣でて、その掟どおりに何もいうことはできないが、その秘められたありがたさに打たれて、ただ袂をぬらすばか りである」との意。この句では、感涙に袂をぬらすという意を、湯殿に結びつけているのである。湯殿山は女人禁制 の地であり、また恋の山(古くは「己火(こい)の山」の称で知られていたことが、 『陸奥鵆』の記述などに見える) という別の名もあり、あるいは「語られぬ」に忍ぶ恋の趣が感じられなどして、この句に一脈の艶を感ずるというこ と が い わ れ て い る。 こ の 句 は、 「 湯 殿 山 」 を 市 井 の「 湯 殿 」 を 思 わ せ る 形 で 発 想 し た と こ ろ が 俳 諧 な の で あ っ て、 艶 なる感じはその異称や表現などからくる一般的な連想の結果である。恋の山と呼ばれる湯殿山の神体は温泉の噴き出 る 褐 色 の 巌 で あ る が、 こ の 形 状 は 陽 の 象 徴、 そ の ほ と り の 小 洞 は 陰 の 象 徴 を な し て い る。 「 語 ら れ ぬ 」 の 内 容 に は こ ういう点も秘められていたとも考えられる。 (加藤楸邨『芭蕉全句(中) 』、 一九九八、 ちくま学芸文庫、 二九四頁、 『芭 蕉の山河』 、一九八〇年、読売新聞社、二二六頁) 「感涙」に「袂をぬらす」という連想、それに「恋の山」と「語られぬ忍ぶ恋」という連想に俳諧の技巧があるとする。 また、 「湯殿山ご神体の噴き出る褐色の巌の形状は陽の象徴、そのほとりの小洞は陰の象徴をなしている。 「語られぬ」の 内容にはこういう点も秘められていたとも考えられる。 」また、 「湯殿山を市井の湯殿を思わせる形で発想したところが俳

(4)

芭蕉の一句 一二七 諧」であるという。楸邨の解説もこの句の俳諧としての出来、不出来を表層的に説明しているにすぎない。なによりも   「 感 涙 に 袂 を ぬ ら す ほ ど の 秘 め ら れ た あ り が た さ 」 の 意 味 が 具 体 的 に 説 明 さ れ て い な い。 引 用 文 中「 こ の 句 は、 「 湯 殿 山 」 を市井の「湯殿」を思わせる形で発想したところが俳諧なのであって、艶なる感じはその異称や表現などからくる一般的 な連想の結果である」は、詩歌(漢詩、和歌、連歌)が風雅を本命とするのに反し、俳諧は、詩歌連歌が取り上げない主 題まで取り上げて読み込む。すなわち、 詩 歌 連 俳 は と も に 風 雅 也。 上 三 つ の も の に は 余 す 所 迄、 俳 は い た ら ず と 云( い ふ ) 所 な し。 花 に 鳴( な く ) 鶯 も、 餅 に 糞 す る 縁 の 先 と、 ま だ 正 月 も を か し き こ の こ ろ を 見 と め、 又、 水 に 住 む 蛙( か は ず ) も、 古 池 に 飛 び 込( こ む ) 水の音、といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響きに、俳諧を聞き付けたり。見るに有、聞くに有、作者 感ずるや句と成る所は、則(すなはち)俳諧の誠也。 (能勢朝次『三冊子』 、昭和二九年、三省堂、二五頁) を ふ ま え て の こ と で あ ろ う。 従 っ て、 「 湯 殿 山 」 を 市 井・ 俗 世 の「 湯 殿 」 に 連 想 さ せ、 世 俗 の 事 象 を 取 り 上 げ て い る 点 が い か に も 俳 諧 ら し い 技 巧 で あ る、 と い う 解 釈 で あ る。 現 に、 『 奥 の 細 道 』 も 後 半 に な る と、 蚤( の み )、 虱( し ら み )、 尿( し と )、 糞、 遊 女 と い っ た 俗 談 平 語 が い く つ も 登 場 す る。 詩 歌 連 俳 は 風 雅 を も よ お す 事 象 の み を 取 材 す る が、 俳 諧 は どのような世俗な事象も取材の対象とする。従って、湯殿山も市井の湯殿を連想するので俳諧の対象となる。 しかし、 湯殿山と市井の湯殿を連想するだけで「作者が感」じて「俳諧の誠」の境地に至っているといえるのだろうか。 安東次男は次のようにいう。

(5)

三    輪    伸    春 一二八 語られぬ湯殿にぬらす袂かな―(…)修験道の四季の入峰(にゅうぶ)修行のうち夏の峰は、豊年祈願と心身鍛錬 法を兼ねて、近世に入ると広く一般に行なわれるようになった。湯殿詣もその一つだが、たまたまこれは三山祭(六 月十五日、今は七月十五日)の時分と重なり、一方、湯殿の御神体が女陰の形をした巨大な自然岩でその円丘を絶間 なく涌湯が洗っているところから、とくに有名になったようだ。湯殿が三山の奥の院とされたのは、性器崇拝に因ん でいる。古歌から名を借りて「恋の山」とも呼ぶ。 他言を封じた御山とはいえ、湯殿の御神体を拝んだらさすがに語りたくなった。だがやはりそれはできない、と読 ま な け れ ば 面 白 み は な い。 俳 諧 師 な ら、 秘 法 の 山 を た だ 有 難 が っ て 袂 を 濡 ら し た わ け は な い。 ( 安 東 次 男『 お く の ほ そ道』 、一九八三年、岩波書店、一六七頁) 「性器崇拝」という語がいかにも唐突である。また、 「さすがに語りたくなった」のは、いったい何を語りたくなったの だ ろ う か。 「 語 っ て は い け な い と い わ れ て い る が、 実 は 湯 殿 の 御 神 体 が 女 陰 の 形 」 だ と い う こ と を 語 り た く な っ た と い う のだろうか。 (一) もしそれだけのことであれば、 有名な佳句が多い 『奥の細道』 にこの句をあえて留めおく必要はない。 「秘 法の山をただ有難がって袂を濡らしたわけはない」のであれば、涙を禁じえないほどの有り難い「秘法」とは何か。いず れにしても上記三者の解釈は隔靴掻痒の感をまぬかれない。

    

(二)

芭 蕉 は、 『 奥 の 細 道 』 に 先 立 っ て『 野 ざ ら し 紀 行 』、 『 鹿 島 紀 行 』、 『 笈 の 小 文 』、 『 更 科 紀 行 』 を 著 し て い る。 こ れ ら の 紀

(6)

芭蕉の一句 一二九 行文を順次読み進むと、芭蕉が俳諧の本質を求めて思索を深め、自ら志す俳諧の理念を求めて登りつめてゆく道筋、俳諧 の 理 念 を 芸 道 の 極 致 ま で 高 め て ゆ く た め の 思 索 の 過 程 を た ど る こ と が で き る。 文 体 は 次 第 に 洗 練 さ れ、 思 索 も、 着 実 に、 確実に精緻の度合いを深めて芸術としての俳諧の頂点を極めてゆく。そして得られた結論が『笈の小文』にみられる有名 な次の一文である。 西行の和歌おける、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道するものは一なり。しか も、風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。 (『笈の小文』 ) この文に関して杉浦正一郎は次のように述べている。 『 ほ そ 道 』 こ そ、 芭 蕉 が 足 か け 五 年 推 敲 に 推 敲 を 重 ね て 定 稿 を 完 成 し た 芭 蕉 渾 身 の 作 品 で あ り、 こ れ ま で の 四 つ の 紀行【 『のざらし紀行』 、『鹿島紀行』 、『笈の小文』 、『更科紀行』 】は、 (…) 、この『ほそ道』一編を完成させるための 下準備であり習作であったといえる。 『ほそ道』こそ、 元禄三年ごろ、 芭蕉が「俳文」というものの一格に心をひそめ、 新しい紀行文の工夫をこらして、構想をねり、筆をとり、推敲・彫琢を重ねること数年にして完成した作品で、単に 他の四つの紀行が総合され発展してここに凝集したというだけでなく、恐らく蕉風俳諧のすべての本質が、芭蕉の人 間 観 も 芸 術 観 も、 一 切 を こ め て、 こ の 一 編 の 紀 行 に 具 現 し て い る と こ ろ に、 大 き な 意 義 も あ る。 (『 芭 蕉 文 集 』、 昭 和 三四年、岩波「日本古典文学大系」 、十八頁、二十一頁)

(7)

三    輪    伸    春 一三〇 また、荻原井泉水は次のようにいう。 芭蕉が奥の細道の旅で心身を挙げて苦しんだのも、 要するに芸術の道の上で苦しんだ事である。 彼は地理の上で 「奥」 の「細道」を探ろうとしたのではなく、芸術の「道」の奥秘、その意味での「奥の細道」を探ねて旅をしたのだとい える。されば、彼の旅は、勿論、此「奥の細道」の旅だけで尽きているわけはなく、彼の一生涯が其意味の旅でなけ ればならぬ筈である。 (『この一筋を行く―井泉俳話四』 、昭和四年、春秋社、二一三頁) 『のざらし紀行』 、『鹿島紀行』 、『笈の小文』 、『更科紀行』を経て、 『ほそ道』で芭蕉の芸術は完成する。すなわち、俳句 に つ い て は、 『 お く の 細 道 』 を 歌 仙 に 見 立 て て、 神 祇、 釈 教、 恋、 無 常 の 法 式 に 発 句 を 配 す る こ と で 芸 術 と し て の 俳 諧 の 極意を表現した。散文の部分では、 芭蕉以前の優れた作品である紀貫之の 『土佐日記』 、鴨長明の 『方丈記』 、阿佛尼の 『十六 夜 日 記 』 を 意 識 し、 視 野 に 入 れ て い る こ と を 明 言 し た 上 で( 『 笈 の 小 文 』) 、 五 年 に わ た る 彫 心 鏤 骨 の 末『 お く の 細 道 』 を 過 去 の い か な る 日 記 類、 紀 行 類 を も 凌 駕 す る 作 品 に 仕 立 て 上 げ る こ と に 成 功 し た。 こ う し て 芭 蕉 は 旅 の 実 体 験 を 踏 ま え、 五年にわたり推敲に推敲を重ねて、創作・虚構を巧みに織り込んで詩文と散文とが理想的な形で融合した日本文学史上最 高の文学作品を完成した。 (二) そして「語られぬ」の一句はその中心的位置、ヤマでありサワリの部分におかれている。従って、この句には芭蕉の五 年にわたる推敲に耐えうるほどの存在意義があると考えなければならない。

(8)

芭蕉の一句 一三一

    

(三)

「語られぬ」の句の『おくの細道』における位置付けを検討する。 『おくの細道』は、全体で俳諧の歌仙の形式をなしているとして早くに荻原井泉水は次のようにいう。 文章にヤマということばがある。これは明治時代に正岡子規が言い出したことである。写生文のような平々坦々と 事 を 写 し て ゆ く 文 章 で あ っ て も、 一 編 の う ち に は、 中 心 的 に 高 揚 す る と こ ろ が 必 要 だ。 ( …) 文 章 の 一 編 に は こ れ を リズムとして見れば、調子の一番高いところがなければならない。それを指して云うのである。 ところで、 「奥の細道」一編にもこの意味のヤマというものがある。 それは平泉から折返して最上の庄へ出る、最上越え、である。そして、最上川を下り、三山に登って下りる。この あたりが「奥の細道」のヤマである。このことはいくつかの点から、そう見ることが出来る。 その一は、このくだりが「奥の細道」という紀行の全行程の頂点だということである。芭蕉は江戸を出て、北へ北 へと道をとって(…)つまり奥の国へ奥の国へと足を向けて、 陸中の平泉まで来て、 そこを終点として、 引き返した。 そ れ ま で は 表 日 本 の 部 で あ る。 こ れ か ら 中 央 山 脈 を 越 え て 裏 日 本 に で る。 だ か ら、 全 行 程 の 地 理 的 関 係 か ら 見 て も、 ここがヤマになるのである。 そ の 二 は、 「 奥 の 細 道 」 全 編 を 俳 諧 の 一 巻 に た と え て 見 る な ら ば、 俳 諧 の 歌 仙 と い う も の は 一 の 折、 二 の 折 の 二 つ にわかれ、その各(おのおの)の折が表と裏になっている。 (…) 「奥の細道」という一編の文章も、その構成の中に この俳諧の気持ちが織り込まれていると、私は見ている。俳諧には、雪月花等の他に神祇、釈教、恋、無常というも

(9)

三    輪    伸    春 一三二 のが必ず取材される。それが規則である。というのは、人生というものを象徴したものが神祇、釈教、恋、無常だと い う の で あ る。 だ か ら、 「 奥 の 細 道 」 一 編 を 以 っ て、 芭 蕉 は 自 分 の 人 生 を 書 こ う と し た と す る と 人 生 の 象 徴 と し て の 神 祇、 釈 教、 恋、 無 常 と い う も の も 取 材 と し て 織 り 込 ん で 行 く と い う こ と に な る。 「 奥 の 細 道 」 の は じ め、 江 戸 を 出 て間もなく、下野の「室の八島」の記がある。これは取材として、さして重要なものではないと思われるが、芭蕉は ま ず、 「 神 祇 」 的 取 材 と し て こ れ を 書 い た の だ。 次 に、 「 日 光 」 が「 釈 教 」 に あ た る。 と こ ろ で、 俳 諧 で は、 「 恋 」 と か「無常」とか云うことは、 一の折 0 0 0 にはなるべく出さない、 出すにしても 一の折の裏 0 0 0 0 0 で出す。そして二の折に入ると、 必ず 「恋」 と 「無常」 とが出なければならない。 (…) 松島の章 「美人の顔 (かんばせ) 」 という表現にちょっと触れた。 次 に、 「 象 潟( き さ が た )」 の 章 で、 又、 美 人 の た と え が 出 る。 こ の へ ん か ら、 そ ろ そ ろ 恋 の 文 句 が 出 て き て も い い ところだ。そして「市振(いちぶり) 」でははっきりと「恋」を出し【 「象潟や雨に西施がねむの花」の句、 「遊女」 】、 「金沢」で「無常」を出している【一笑の死、 「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句】 。(…)このように見ると、江 戸から平泉までが一の折、それ以後が二の折というものにあたる。 (…)文章で云えば、それがヤマであって、 「奥の 細道」では、ちょうど最上越えのところがそのヤマに当るのである。 その三に、 ここが 「奥の細道」 の文章としてのヤマであるが為に、 義太夫で云えばサワリというような名文句が多い。 芭 蕉 は そ れ を 意 識 的 に 書 い て い る。 「 松 島 」 の 章 で は、 芭 蕉 は 美 辞 麗 句 の オ ン パ レ エ ド を や っ て い る。 そ れ か ら 平 泉 の章でも同様である。そして最上越えの途中、尿前(しとまえ)の関で関守にあやしまれて―(…)―封人(ほうじ ん)の家に舎(やどり)を求め、蚤虱(のみしらみ)に苦しめられ、それから出羽の国へと、命からがらという気持 ちで最上越えをする。ここがヤマのうちの最高のヤマであって、 文章もまた、 「奥の細道」 らしい困苦というものをもっ とも強調して書いている。 「奥の細道」中のサワリと見ていいのである。その文は、

(10)

芭蕉の一句 一三三 此 道、 旅 人 稀 な る 所 な れ ば 関 守 に あ や し め ら れ て、 漸( や う や う ) と し て 関 を こ す。 ( …) 大 山 を の ぼ っ て、 日 既に暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎を求む。三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す。 蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと (…)かの案内せしおのこの云うやう、 此のみち必ず不用の事有り。恙なうをくりまいらせて、 仕合わせしたりと、 よろこびてわかれぬ。跡に聞きてさへ胸のとどろくのみなり。 義太夫ならばサワリ、 「奥の細道」中の一ばんのヤマはここである。 (…) そ の 四 は、 「 奥 の 細 道 」 全 体 の 中 に、 発 句 が 五 十 二 句 あ る。 そ の 中、 表 日 本 の 部 に 属 す る も の が 十 五 句。 あ と は 裏 日 本 の 部 に 属 す る。 数 の 上 で 二 倍 以 上 で あ る。 だ が、 数 の 多 少 が 問 題 な の で は な い。 「 奥 の 細 道 」 中 の 名 吟 と し て、 人口に かいしゃ 0 0 0 0 されているもの、又、文学批評的に見て秀作と称して然るべきものは悉く裏日本にある。此れに反し て、 文章としては、 名文と云われているもの、 作者が力を籠めて書いたと思われるものは、 皆、 表日本の部にある。 (荻 原『奥の細道ノート』 、昭和四七年、新潮文庫、八六―九三頁) 歌仙に見立てられた 『おくの細道』 の構成が見事に分析されている。 荻原の分析に従えば、 「語られぬ」 の句は、 まさしく 『お くの細道』の中心的位置、ヤマ、サワリに当たる部分におかれているということになる。 また、次のようにもいう。

(11)

三    輪    伸    春 一三四 芭 蕉 は、 清 川 で 川 船 を 上 り、 狩 川 か ら 手 向( と う げ ) に 向 か っ た。 こ こ で 図 師 露 丸( ず し ろ が ん ) に 迎 え ら れ て、 羽黒山の本坊に案内されて、特別の賓客として南谷の別院を宿舎としてあてがわれた。これは露丸が羽黒の御師(お し)であったことが便宜であったと共に、別当代会覚阿闍梨(えかくあじゃり)が俳諧を好んでいた為に好遇してく れたのである。 (…) 芭蕉は六月五日に羽黒の権現に詣り、六日に月山に登った。月山は標高一九七四米。東北地方では高い山の一つで ある。芭蕉として山登りらしい山は、この月山一つである。つまり、芭蕉が足跡を印したところで、一番高いところ はこの月山である。これこそ「奥の細道」のヤマであるばかりでなく、芭蕉の一生に於けるヤマである。 (『奥の細道 ノート』九八頁) 芭蕉の俳諧人生の中で最も重要な位置を占める作品である『奥の細道』には芭蕉が到達した俳諧の芸道・芸術としての 究 極 の 理 念 が 盛 り 込 ま れ て い る。 中 で も、 「 最 上 越 え 」 は『 奥 の 細 道 』 の ヤ マ で あ り、 サ ワ リ で あ る。 ヤ マ、 サ ワ リ と は 芸道において核心をなす究極の理念であり、極致である。芸道におけるサワリについて栗田勇は次のようにいう。   こ ん な 話 を 聞 い た こ と が あ る。 邦 楽 の 名 手 の 極 致 は、 「 さ わ り 」 に あ る と。 で は 何 に さ わ る の か。 実 は、 天 然 宇 宙 の真実にさわるのだと。 (栗田勇『而今の花』 、一九九五年、作品社、五十頁)

(12)

芭蕉の一句 一三五

    

(四)

では、 『おくの細道』におけるサワリ、すなわち「天然宇宙の真実」とは何か。 『おくの細道』の冒頭から再検討する。 芭蕉は、 『おくの細道』の旅を始めるにあたりまず歌枕の地として「室の八島」を訪れている。 「室の八島」は恋多き神、 多くの女性と関係を持ったオオナムチの神(大己貴神=大国主命)を奉る大神(おおみわ)神社の前にある八島が池に浮 かぶ八つの島と池から立ち昇る水煙で有名な歌枕の地であった。が、芭蕉が訪れた時はすでに池はなく、社殿も七年前に 再建されたばかりであったことは、このことに限らず芭蕉自身、われわれの想像以上に、もろもろの古典、歌枕に関連す る名所旧跡について該博な知識を持っていたこと、随行した曾良が神道に詳しいことからもわかっていたはずである。で は、 なぜ芭蕉はわざわざ昔の姿をとどめていない室の八島を訪れたのか。大神神社を祀る室の八島をわざわざ訪れたこと、 吉川惟足に師事し、神道に詳しい曾良が「木の花さくや姫の神」と「火々出(ほほで)のみこと」に言及していることを 考 え る と、 芭 蕉 は 日 本 古 来 の 神 道 を『 お く の 細 道 』 に 組 み 込 み、 歌 仙 に 仕 立 て る た め に 神 祇 の 取 材 を し て い る の で あ る。 大神神社に祀られているオオナムチの神は、子孫繁栄の神であり、男女の営みを再生、多産、豊穣、大漁への神聖な行為 とみなし、敬虔視していた古代人の信仰を象徴する。 次に訪れたのは歌枕の名所として知られていた日光裏見の滝である。 廿餘丁山を登って滝有。岩洞の頂飛流して百尺、 千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、 うらみの滝と申伝え侍るなり。 暫時は滝に籠るや夏の初 (『おくの細道』 )

(13)

三    輪    伸    春 一三六 裏見の滝に至る道も当時は難路であったし、水量も現在よりずっと多かったので芭蕉の表現は決して誇張されているわ けではない。 (三) 裏 見 の 滝 の 裏 側 に は 修 験 者 の 籠 り 堂 が あ っ た( 吉 田 東 伍 著『 増 補 版 大 日 本 地 名 辞 書 』 冨 山 房、 昭 和 四 五 年、 第 六 巻、 九 九 五 頁 )。 滝 の 裏 に あ る 修 験 者 の 籠 り 堂 は 他 に も 例 が あ る。 例 え ば、 山 陰 地 方 の 古 刹 で 蔵 王 信 仰 の 中 心 地 で も あ る 出 雲 国 浮 浪 山 鰐 淵 寺 に あ る 浮 浪 の 滝 の 裏 側 に は 蔵 王 堂 と い う 立 派 な 籠 り 堂 が あ り、 修 験 道 の 本 尊 蔵 王 権 現 像 を 安 置 し て い る。 鰐淵寺の開基は五九四年(推古二年)に、知春上人が霊力を持って推古天皇の眼病を治癒したので、天皇の発願により建 立されたことによる( 『鰐淵寺と山陰の名刹』 「古寺をゆく第四〇巻」 、二〇〇一年、小学館、二頁) 。日光の裏見の滝と鰐 淵寺の浮動の滝との共通点は滝とその裏側にある籠り堂という造形物だけではない。日光は、平安時代の八四八年に三世 天台座主慈覚大師円仁の巡遊により比叡山延暦寺の末寺のひとつとなり、修験の道場として中央にも知られるようになっ た。ちなみに、空海による金剛峰寺開基は八一六年。最澄が延暦寺を創建したのは七八四年。出羽三山に修験の道場が開 かれたのもこの時期。鰐淵寺は五九四年開基、 後にやはり慈覚大師の巡遊で延暦寺の末寺に連なっている。この点からも、 裏見の滝と鰐淵寺には共通点がある。 全国各地の名所旧跡を視察し多くのすぐれた巡遊記を残した明治の文人大町桂月はいう。 「【鰐淵寺の】山水幽邃なるこ と、他に其比を見ず、山高く、谷深く、千年の老杉亭々として山気自から迸り、猿声夜渓水の音に和す。鰐淵滝、水は少 なけれども、奇にして幽峭なること滝の名物なる日光に持ち去るも耻かしからぬ処なり」 (『鰐淵寺と山陰の名刹』 、四頁) とのべて、ほかならぬ日光と鰐淵寺には共通する点があると述べている。 日光は、下野の国生まれの僧勝道が、神護元年(七六五年)にそれまでは麓から神の山としてひたすら仰ぎ見られるだ

(14)

芭蕉の一句 一三七 けであった二荒山を人の身ながら登山し、修行して神霊に触れようとして開いた。時あたかも、日本古来の民間信仰が仏 教と溶け合い始めた時期である。役の行者を祖とする修験道も、東大寺建立を契機として、行基菩薩、義淵、良弁などの 活躍により広く知れ渡るようになっていた。人跡未踏の原生林に道を切り開くことは困難を極めたが、勝道は十七年をか けて男体山を開き、四本龍寺を開基し、二荒権現(オオナムチの神)を祀った。二荒(ふたら)山は観音浄土といわれる 補陀落(ふだらく)山と発音が似ていることもありいつしか神仏が融合していった。やがて、日光は比叡山との関係を深 める。下野の国の生まれである天台座主慈覚大師円仁が入山したからである。日光と鰐淵寺に見られる共通点は偶然では ない。ともに延暦寺座主慈覚大師円仁が関わっているからである。以上のように考えてくると、両者に共通する修験の聖 地、神仏習合、人々の信仰のよりどころ、といったことを芭蕉はあらかじめ知っていた、という確信を抱かせる。あるい は、現今では身近に見聞きする機会がほとんどなくなっているが、当時は全国に同じような形態の信仰の場、修験の道場 が人々の生活圏内のいたるところにあり、修験者の姿も日常的に目することが多かったことを前提としての芭蕉の句であ り、文章であるように思われる。 芭蕉は裏見の滝の裏側を通り、滝と共に修験の聖地男体山を遠く仰ぎ見て、歌枕の意味を実感した。日光を訪ねた真の 目的は東照宮ではなく、歌枕にみられる神仏習合の聖地を体感することであったので「此道【裏見の滝を見るための荒沢 からの滝道】から男體山, 即ち黒髪山がにょっぽりと頭を出してゐるのが仰がれ」 (荻原『奥の細道を尋ねて』 、 昭和五年、 春陽堂、三五頁)たことで十分だったのである。 芭蕉は、裏見の滝を訪れているが、華厳の滝にはいっていない。現代のわれわれからすれば日光に行って裏見の滝だけ を見て華厳の滝を見ないのは不可解と思われよう。しかし、芭蕉が日光を訪れてから約百四十年後の文政年間の『日光山 志』にも当時の華厳の滝がほとんど人を寄せつけない難所であったことが記されている。すなわち、華厳の滝は滝を眺望

(15)

三    輪    伸    春 一三八 する場所もなく、滝から五十㍍ほど東に寄った崖の途中に突き出た危ない岩があり、フジづるなどにつかまってその岩に 下り、フジづるをたよりに頭をのばして飛流する水勢を覗き見るのがやっとで、滝の下の方は水煙がかかってよく見えな か っ た( 『 井 本・ 村 松・ 土 田『 「 奥 の 細 道 」 を 歩 く 』 一 九 八 九 年、 新 潮 社、 十 八 頁 )。 従 っ て、 一 般 の 人 々 が 見 物 で き る ほ ど開発されていなかった難所であり、水量も多く、関東大震災により水量が減りごく普通の滝にみえる現在の姿よりもは る か に 大 き な 瀑 布 で あ り、 滝 つ ぼ か ら 湧 き 上 が る 水 煙 と 霧 が か か っ て い か に も 神 秘 の 滝 で あ っ た( 『 大 日 本 地 名 辞 書 』 第 六巻、九九五頁) 。 日光では次の句を残している。 あらたふと青葉若葉の日の光 こ の 句 は、 東 照 宮 や 徳 川 家 康 に 関 連 さ せ て、 世 の 中 が 平 穏 無 事 で あ る の は 徳 川 様 の お か げ で あ る、 あ り が た い こ と だ、 と解されている。例えば、 古くは『続芭蕉俳句研究』 (一九二四年、 岩波書店、 二八七頁以下)において小宮豊隆が「 (…) 初夏の豊富な日光を受けて、山全体が全体として光ながら動く。それに対して、自然に「あらたふと」といふ言葉が涌き 出たのです。言葉をかへて云ふと、是は自然から直接に得た感動で、東照宮の神徳の尊さを照合して生まれた感動ではな いのです。 」というのに対して、 太田水穂は「それは反対です。日光山の神のあらたかな感動が、 青葉若葉の日の光になっ ているのです。 (…)あの神社のきららかな修飾や神園の幽邃 (ゆうすい) を取り集めた、美しい崇高な感じに打たれるのは事 実です。そこに自然の光がゆらぎ出て「あらたふと」が一層生きて来るのです。 」と東照宮の華麗さ、幽邃さを強調する。 小宮 「(…) とにかく僕は日の光の中に動いている青葉若葉が 「あらたふと」 という心持を誘い出したものだと解釈します。 」

(16)

芭蕉の一句 一三九 (…) 水穂 「紀行文 (…) は家康を心においてのことと思います。東照権現と二荒山とをひっくるめて、 前書きの 「日光山」 としたものとおもいます。 」小宮「家康にかける方が本当なんだらうとも思ひます。唯(…)それを第二に引き下ろして、 第一には自然に撃たれた感じから生まれた句だとしたいのです。 」(…)水穂「此御光一天に輝きて恩沢八荒に溢れなどと いっているのは日光東照宮をさして居ることは勿論であるから、芭蕉自身が青葉若葉の日の光に日光大権現の神徳を示し て い る の は 否 定 で き な い。 」( …) 露 伴「 日 光 東 照 宮 の 壮 麗 と 繁 栄 と が 此 の 句 に 這 入 っ て き て い る。 」 と 続 き、 東 照 宮 が 優 先された解釈に傾いている。小宮は句そのものから初夏の「青葉若葉」に視覚的に強い印象を受けた経験から自然を優先 させたいと考えているのに対して、太田水穂はおそらく自ら実際に仰ぎ見たであろう東照宮の華麗さ、幽邃さに個人的に 強い印象を受けて句よりもその前書きに固執しての見解であろう。 山 本 健 吉 は、 東 照 宮 の 華 麗 さ、 幽 邃 さ を 強 調 す る 太 田 水 穂 の 見 解 に ひ き づ ら れ が ち な 右 の 合 評 を ふ ま え て、 「 日 光 山 全 体のかがやかしさ――それは山の神厳さもあろう、空海の千歳未来の見通しのありがたさも含まれていよう、東照宮の四 海 光 被 の 恩 沢 と い う と こ ろ も あ ろ う、 そ の 建 築 そ の も の の 荘 厳 も あ ろ う。 」 と 出 さ れ た 意 見 を 総 花 式 に 羅 列 し た 妥 協 案 を 記している( 『芭蕉―その鑑賞と批評(全) 』、昭和三二年、新潮社、二三二頁以下) 。 と こ ろ が、 『 お く の 細 道 』 の 地 の 文 に も 句 に も、 東 照 宮、 家 康、 徳 川 へ の 言 及 は ま っ た く な い こ と に 注 意 し な け れ ば な ら な い。 ( 四 ) な ぜ な ら、 こ の 句 と そ の 前 後 の 文 を 東 照 宮、 家 康 に 関 連 さ せ て 読 む と「 空 海 大 師( …) 二 荒 山( …) 猶、 憚 り多くて筆をさしおきぬ」という一文と整合しない。芭蕉は、日光を、家康を祀る東照宮としてではなく、空海に関連さ せて、 男峰、 女峰からなる男体山をふくめ、 周辺一帯を包括的に神仏習合にもとづく修験の聖地としてみているのである。 このような観点から、日本の古代文化にも古今東西の建築にも造詣の深い栗田勇は次のように述べている。

(17)

三    輪    伸    春 一四〇 よく陽明門は、眺めつくしてあきないといわれる。それはまさにその通りだが、じつは、陽明門も唐門も、外側か ら眺められるべき性質のものではなく、内側から、とりまかれて感じられる性質のものである。そこに東照宮の驚く べき独創があったといっていい。 東照宮の空間は、 巨大杉にかこまれた、 動き流れる凝縮した内部空間そのものであり、 人 は そ の 参 道 を た ど り 始 め た と き、 す で に、 建 築 の 内 部 に 足 を 踏 み 入 れ て い る と い っ て さ し つ か え な い。 ( …) 切 り 開かれた、屋根のない日光山一山の内部スペースそのものが、建築空間なのである。私たちは男体山の内部に入って ゆ く。 天 然 造 化 の 懐 に 参 入 し て ゆ く。 そ の 奥 に 神 秘 が あ る。 こ れ は 修 験 道 の 宇 宙、 胎 内 回 帰 ( 五 ) で あ る。 ( …) 一 口 にいえば、東照宮は、ただ、ひたすら将軍廟として切り離された建築とみるべきではなく、千年をこえる山岳信仰の な か の、 ひ と つ の 結 晶 と し て、 は じ め て そ の 真 実 の 姿 が 明 ら か と な る の で あ る。 ( 栗 田 勇「 日 光 東 照 宮 の 空 間 」、 『 日 光東照宮』 「日本名建築写真集」第十五巻、平成五年、新潮社、八三―九一頁) 芭 蕉 が 日 光 を 訪 れ た 目 的 は、 東 照 宮 で は な く、 日 本 人 の 信 仰 の 原 初 形 態 と し て の 山 岳 信 仰、 神 仏 習 合 ( 一 五 四 頁 の 補 注 ) の 聖 地としての日光を『おくの細道』の神祇・釈教の部分に取り入れたかったからである。 東照宮はそのような平安末期の山岳信仰の復活として初めてその意味が明らかとなる。日本人の自然、造化の神秘 への熱烈なる帰依が結晶されているからである。 (栗田、同上書、九四頁) 実は芭蕉の作ともいわれている曾良の、

(18)

芭蕉の一句 一四一 黒髪山は霞かかりて雪いまだ白し 剃捨て黒髪山に衣かへ も芭蕉が釈教を取り入れるために挿入した句と考えることができる。  

    

(五)

ここで歌仙の法式を『おくの細道』の構成にあてはめてみる(下の図表) 。 ( * 古 代 の「 恋 」 は 現 在 の 主 た る 意 味「 相 手 へ の 心 の あ り よ う 」 で は な く「 肉 体 的 な 欲 求 」 の方に意味の重点があった。 ) 室 の 八 島、 日 光、 光 明 寺 で、 一 の 折 に 必 要 な 神 祇 と 釈 教 を 織 り 込 ん だ 芭 蕉 の 次 の 目 標 は、 一 の 折 か ら 二 の 折 に 移 行 す る 最 上 越 え の あ た り で 歌 仙 の ヤ マ・ サ ワ リ を 織 り 込 む こ と で あ っ た。そのことは即ち、 『おくの細道』のヤマ、 俳諧のサワリ、 俳諧の極意、 俳諧の究極の理念、 ひ い て は 芭 蕉 の 人 生 観・ 自 然 観・ 宇 宙 観 を 織 り 込 む こ と で あ る。 そ れ が「 語 ら れ ぬ 」 の 一 句 である。 語られぬ湯殿にぬらす袂かな 地理的配置 主題 一の折 ( 前半 ) 江戸から平泉まで 神祇・釈教=室の八島、日光、 黒羽(修験光明寺) 恋の前触れ=松島「美人の顔(かんばせ)」 ヤマ・ サワリ 最上越え、羽黒山 俳諧の極意・歌仙のヤマ・サワリ 二の折 ( 後半 ) 大垣まで 恋 *=象潟「西施」、市振「遊女」 無常=金沢「一笑の早世」

(19)

三    輪    伸    春 一四二 片山正和によると、出羽三山の峰入りの修行そのものが、死とそれに続く新しい生命の胎内での誕生、成長、そして出 生(でなり)というヒトの再生の過程そのものを象徴している。 「 秋の峰 」 は 「 胎内五位の修行 」 ともいわれ、成長を五段階 に分けている。山伏の峰入りの修行は、まず笈縅(おいからがき)の儀式により入峰者たちは一旦死んで霊を笈に入れ籠 められる(二十一頁) 。笈は行者たちの棺桶を意味する。その後に、 梵天を黄金堂に投げ入れる 「 和合の位 」 が第一位で「夫 婦の和合」を象徴する。この梵天投じにより母親の胎内に新しい生命が宿り再生し新たな生命が付与される。第二の「成 肉の位」で笈は胞衣(えな)におおわれる。この時点で笈の上にかぶせられる班蓋は胎内の生命を包む胞衣(えな)を象 徴する。笈の背中にあたる部分がへこんでいるのは胎盤を象徴し、背負い紐が赤いのは血管を象徴する。第三の「成血の 位」を経て、第四の「成凝骨の位」 、第五に「成支節の位」に達する。 観 音 開 き の 笈 の 扉 の 左 側 の 金 剛 童 子 は 耳 を 手 で ふ さ ぎ、 右 の 扉 の 除 魔 童 子 は 手 で 口 を ふ さ い で い る の は 娑 婆 に 出 て か ら 修 行 の 内 容 に つ い て「 言 わ ざ る、 聞 か ざ る 」 と い う 意 味 で あ る。 修 行 の 過 程 で 繰 り 返 し「 他 言 は 無 用 」 を 誓 わ せ ら れ る。導師の「たとえ親子兄弟なりとも他言は禁制でござる」という下知に修験者は「うけたもう」とくり返し答える。そ れ が 芭 蕉 の 句 の「 語 ら れ ぬ 」 秘 法 と そ の 意 味 で あ る( 片 山 正 和『 出 羽 三 山・ 山 伏 の 世 界 』( 昭 和 六 十 年、 新 人 物 往 来 社、 二 十 一 頁 以 降 )。 従 っ て、 会 覚 阿 闍 梨 に 紹 介 さ れ た こ と に よ っ て 芭 蕉 も 修 行 の 意 味 を 知 っ て い た で あ ろ う。 そ の こ と が 出 羽三山の奥の院であり御神体である女体の腹部と女性の象徴と、そこに噴出している温泉とからなる湯殿山の御神体へと つながってゆく。 「 巨 岩 の 御 神 体 の 左 奥 に 岩 供 養 と 呼 ば れ る 拝 所 が あ る。 手 前 で 神 主 が 塔 婆 と 梵 天、 人 形( ひ と が た ) の 紙、 ロ ウ ソ ク、 線 香 を 渡 し て く れ る。 ( …) 人 形 の 紙 は 水 に 浸 し 岩 に 貼 り 付 け る 」( 千 歳 栄『 日 本 人 の 心 の 風 景 』 六 六 頁 )。 人 形 の 紙 を 水 に 浸 し貼り付けるときに「袂がぬれる」のであって「感涙に袂をぬらす」のではない。 【一五〇頁の補注】

(20)

芭蕉の一句 一四三 湯殿の御神体は、女性がおなかと下腹部をさらしているように見える円丘状に盛り上がった巨岩で、下方には小洞があ る。その全体に温泉の湯が絶え間なく流れ落ち、巨岩全体と小洞を濡らしている。 生命の根源であり、原始生命体を育んだ母胎である水に、諸物質の究極的要素である四体(地、水、火、風)のひとつ である火の力が加わってできた温泉が生命を生み出す母体(母胎)の形をした御神体に流れ落ち、 濡らしている。つまり、 そ の 形 状 は 巨 大 な 陰 石 で あ り、 古 代 人 に と っ て は 生 活 に 直 結 し、 ひ い て は 民 族 の 存 亡 に 関 わ る 問 題 で あ っ た 再 生、 多 産、 豊穣、大漁、豊猟を象徴しているのである。人間を形づくる根源、人間が原始生命体の時代から受け継いできた地球の大 地や空や水の記憶がここに凝縮されて現前する。御神体であるので裸足になって登る。しかし、形状が形状だけに上に述 べたような奥深い由来を知らない人がこの御神体を見て他の人々にどのように伝えるか、それを聞いた人々がどのように 理解するか、を考えた場合、誤解を避けるために、行者の法式として他言を禁じたのである。余り大きくない御神体であ れば「秘仏」のように非公開にして眼に触れさせない方法もあろうが、巨岩で、しかも温泉が絶え間なく流れ落ちている のではそれもできない。というより、 沖縄の聖地御獄(ウタキ)にみられるように元来、 神社には神の依り代(よりしろ) となる森と岩以外には何もないのが原初の姿である。建物としての社殿、拝殿、鳥居、狛犬などは後に寺院建築にならっ て付加されたのである。 (六) 「 語 ら れ ぬ 」 の 一 句 は、 俳 句 と し て 技 巧 の 巧 拙、 言 葉 遣 い の 出 来・ 不 出 来 を 論 ず る よ り も こ の 一 句 に 芭 蕉 の 俳 諧 に 対 す る信念を読み取らなければならない。芭蕉が一生を賭して到達した俳諧の極意・サワリであり、技巧や知識の蓄積だけで は感得できないものである。それだけに「語られぬ」のである。およそ、芸術の極み、サワリは名人・達人と称される人 のみが感得できる性質のものであり、しろうと、初心者はもちろん、相当な修行を重ねたからといって感得できるもので は な い。 お よ そ 日 本 の 伝 統 的 な「 道 」「 芸 」 と い わ れ る も の は す べ て 同 様 に 考 え る こ と が で き る。 例 え ば、 華 道、 歌 道、

(21)

三    輪    伸    春 一四四 剣 道、 茶 道、 香 道、 画 道、 書 道、 能、 狂 言、 謡 曲( 義 太 夫 )、 歌 舞 伎、 浄 瑠 璃、 邦 楽、 造 園、 あ る い は 陶 工、 刀 工 の 世 界 などなど。そのような芸道、芸術の奥義・サワリは口外・他言は厳禁で、一子相伝であったり、限られた弟子のみに伝授 される場合が多い。 (七) 芭蕉が到達した境地に到達できた弟子がいなかったのであれば、芭蕉が俳諧の極致といわれる「軽ろみ」を理解してく れ る も の が い な い と 嘆 い た の も 無 理 も な い こ と で あ る。 ( 八 ) し か も、 『 笈 の 小 文 』 に お い て す で に「 西 行 の 和 歌 に お け る、 宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其の貫道するものは一なり」という結論を出していること を考えると、芭蕉は『おくの細道』へ旅立つ前にすでに湯殿山でその結論を実証し「語られぬ」という句に自分の思いを 託す準備ができていた、少なくともその予感があったと考えることができる。

    

 

では、 俳諧の極意、 サワリとはなにか。この究極の難問にあえて一言で答えるとすれば「俳諧は五七五に、 人生の真実、 日 本 人 の 心 の 原 風 景、 再 生 願 望、 ( 九 ) 自 然 の 摂 理、 世 界 の 根 幹、 宇 宙 の 全 容 を 包 摂 し て い な け れ ば な ら な い 」 と い う こ と に なろうか。このことはおよそ日本の伝統的な「芸」 、「道」と称されることに一貫していると思われる。芭蕉の「西行の和 歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其の貫道するものは一なり」とはこのことで あ り、 い か な る「 芸 」、 「 道 」 に あ っ て も、 そ の 道 の 名 人 は「 ヤ マ、 サ ワ リ 」 を 感 得 し て い る と い う こ と に ほ か な ら な い。 室の八島、 日光に始まり、 湯殿山を頂点とする『おくの細道』全体が、 俳諧の真実、 芭蕉の真実を表現しているのである。 「 語 ら れ ぬ 」 の 句 は 湯 殿 山 参 詣 の 折 に、 俳 諧 を 好 ん で い た 湯 殿 山 の 別 当 代 会 覚 阿 闍 梨 の 依 頼 に よ り 短 冊 に 書 か れ た も の

(22)

芭蕉の一句 一四五 である。会覚阿闍梨は、人が生きることの意味、心の原風景、世界の根幹、宇宙の全容を感得すべく日夜修行を重ねる修 験者の先達であり、湯殿神社をつかさどる地位にあり、同時に俳諧にも心得があったので短冊に記された芭蕉の意図を正 確に理解したと思われる。阿闍梨と芭蕉は多言を要さずとも、おそらく以心伝心で通じあえたであろう。芭蕉が阿闍梨に 句意を説明することはまさしく「釈迦に説法」であり、その意味でも「語られぬ」としか言いようがなかった、あるいは 語 る 必 要 が な か っ た で あ ろ う。 「 語 ら れ ぬ 」 の 句 意 は 筆 舌 を も っ て 語 る こ と は 困 難 で あ る。 説 明 は で き な い が、 か と い っ て俳諧のサワリであり、 『おくの細道』の真実、 芭蕉の真実をこの句が象徴する以上、 五年の歳月をかけた推敲を経ても『お くの細道』からはずすことはできなかったのである。 (一〇) 芭蕉自身が俳諧の極意でありサワリは「語られぬ」という程であるから道を極めていないものが説明するのは至難の業 と思われるので日本の伝統的「道」 、「芸」のひとつである作庭の名人の言葉を借りる。 (一一) 人類は、初めは自然と共に、自然の一員として生きていました。ジャングルの中で狩をし、木の実を採り、その暮 ら し に 満 足 す る と 共 に、 あ ら ゆ る 自 然 現 象 に 対 し て、 敬 虔 な 気 持 ち で 接 し て い た。 ( …) い つ の 間 に か、 自 然 と 離 れ た、 自 然 を 排 除 す る か の よ う な 暮 ら し を す る よ う に な っ た の で す。 し か し、 人 間 も 自 然 の 一 員 で し た。 自 然 は ま た、 人間を形づくる根源でもあります。私たちの中には、 原始生命体の時代から受け継いだ地球の大地や空や水の記憶が、 体の一部として組み込まれているのです。みずからも自然の一員だと実感する時、私たちの体の奥深くに組み込まれ た、 大 地 と 空 と 水 の 記 憶 が 呼 び 覚 ま さ れ、 目 の 前 の 自 然 と 共 鳴 す る よ う に 私 は 思 う の で す。 ( …) 地 球 の「 大 地 」 そ のものとして、 石や木や土を使い、 また池の水、 噴水の水、 滝の水、 小川の水などの、 「水」を使います。また、 「空」 に浮かぶ雲や星、太陽や月、そして雨や風や雪なども、すべてが造園の材料です。これら自然のものを自然の摂理に

(23)

三    輪    伸    春 一四六 従って構成することで、庭全体が無理のない姿となり、本来、自然の一員である私たちにとって、もっとも安らぎを 得られる空間となるのです。 (第十一代植治小川治兵衛『 「植治の庭」をあるいてみませんか』 、二〇〇四年、 白川書院、 九八―九頁) 右の引用文中の「すべてが造園の材料です」を「すべてが俳諧の材料です」と読み替えればそっくりそのまま俳諧にあ てはまる。 「 語 ら れ ぬ 」 の 一 句 は、 人 類 が 原 始 生 命 体 の 昔 か ら 連 綿 と し て 受 け 継 い で き た 生 命、 自 然、 宇 宙 の 真 実 へ の 畏 敬 の 念、 崇敬の念を表わし、壮大な自然の摂理を五七五で象徴することに成功している一句なのである。そして、このことこそ芭 蕉 が 生 涯 を か け て 追 究 し 続 け た 俳 諧 の 真 実 で あ り、 究 極 の 理 念 で あ り、 サ ワ リ で あ る。 「 語 ら れ ぬ 」 の 一 句 が 五 年 に わ た る推敲の後も『おくの細道』のヤマをなす核心部分にとどめ置かれた理由はここにある。 芭蕉の意味解釈に流行はあっても芭蕉の真実は不易である。     注 (一) 何 を 語 り た く な っ た の か に つ い て、 「 性 器 崇 拝 」 に も 言 及 し て 荻 原 井 泉 水 は 以 下 の よ う に 言 う( 表 記 は 適 宜 現 代 表 記 に し て ある。以下同じ) 。 「さて、 何が故にこの山の見聞を他に語ってはならないのか、 何故に左様な方式を作ったのかといふ事が考えられる。古えは、 真 言 密 教 の 行 法 を 修 し た が た め に と い う の も 一 説、 こ の 山 は 非 常 な 険 阻 に し て 危 険 も あ る か ら、 次 に 参 拝 す る 者 の 恐 怖 心 を 起 こ さ せ ぬ た め に と い う の も 一 説。 又 こ の 山 を 何 故 に「 恋 の 山 」 と 称 え る か と い う に、 一 度 こ こ に 詣 拝 し た も の は 年 月 を 重 ね て も こ の 山 を 恋 う て 再 び 参 り た い と 思 う が 為 に、 と い う 説。 ( …) 一 つ の 推 憶 説 と し て い え ば、 こ の 御 神 体 は 上 古 の 風 俗

(24)

芭蕉の一句 一四七 た る 生 殖 器 崇 拝 に 因 を 発 し た も の で は あ る ま い か ―― と 思 う の で あ る。 御 山 の 見 聞 を 他 言 し て は な ら ぬ 程 な 厳 し い 御 神 体 に 対 し て こ ん な、 と て つ も な い 妄 言 を 公 に し た な ら ば、 神 罰 の 程 も 恐 ろ し い よ う だ が ―― た だ、 神 秘 に し て そ の 見 聞 を 他 言 し て は な ら ぬ と い う 点 と、 古 来「 恋 の 山 」 と 称 す る と い う 点 と、 も 一 つ、 こ の 齋 神 は 大 己 貴 命 と 少 彦 名 命 だ と い う 点 と か ら ヒ ン ト を 得 た 考 え な の で あ る。 大 己 貴 命、 少 彦 名 命 は 療 病 の 祖 と し て 温 泉 の 神 に 祀 る こ と も あ る け れ ど も、 こ の 二 柱 の 神 が 男 女造化に関する伝説を語ることは古事記を読んだ方の知っている通りである。 」(荻原井泉水 『おくの細道を尋ねて』 二四頁) 。 古 事 記 の「 男 女 造 化 に 関 す る 伝 説 」、 「 生 殖 器 崇 拝 」 と「 温 泉 の 神 」 の 三 つ の 要 素 に 関 連 さ せ て 大 己 貴 命 と 少 彦 名 命 の 行 状 を 勘 案 し て い る こ と、 日 本 の 伝 統 的 な、 多 産、 再 生、 豊 穣 を 祈 願 す る 原 始 信 仰 を 考 慮 し て い る 点 か ら「 語 ら れ ぬ 」 と い う 字 句 の解釈として傾聴すべきであるが、芭蕉の真意を語りつくしているとはいえない。 (二) 『おくの細道』 が実体験にもとづく創作 ・ 虚構であることはよく知られている。 例えば、 「蚤虱の句も、 このときの即吟ではなく、 『おくの細道』の執筆の際に作って本文に挿入」された句である(井本 ・ 村松 ・ 土田『 「奥の細道」を歩く』新潮社、七四頁) 。 つ ま り、 『 お く の 細 道 』 中 の 句 は 後 か ら 挿 入 す る こ と も、 削 除、 訂 正 す る こ と も 十 分 に 可 能 で あ っ た が、 「 語 ら れ ぬ 」 の 句 は 初案が「ぬるる」が「ぬらす」に変更されているだけである。 芭 蕉 は、 後 に『 幻 住 庵 記 』( 元 禄 三 年 ) に お い て『 お く の 細 道 』 を 七 行 で 回 想 し て い る( 『 芭 蕉 文 集 』 岩 波「 日 本 古 典 文 学 大 系 」、 百 八 十 頁 )。 そ の 中 で『 お く の 細 道 』 中 の た っ た 一 句 だ け が 言 及 さ れ て い る。 そ れ が「 語 ら れ ぬ 」 の 句 で あ る。 こ の こ とから、芭蕉にとってこの句がいかに重要な一句であるかということが推察される。 (三) 明治三二年五月発行の『日光名勝案内記』 (編集人・島村忠五郎、発行人・鈴木角治郎、五三頁)には以下の記述がある。 「( …) 久 次 良 村 と 云 ふ を 十 八 九 町 行 け ば 荒 澤 と い ふ 所 の 茶 亭 に 達 す 此 茶 亭 よ り 左 へ 崎 嶇 た る 経 路 を 往 く こ と 五 六 町 に し て 山 上 の 盤 岩 突 出 す る 鼻 端 よ り 飛 下 る 其 高 さ 十 餘 丈 幅 六 七 尺 水 勢 頗 る 盛 ん な り 其 両 脇 に 亦 小 瀧 相 對 し て 落 宛 も 三 幅 對 の 趣 き な り 瀧 の 裏 は 岩 石 灣 を な し て 其 道 幅 五 尺 餘 あ り、 故 に 自 由 に 渉 り て 瀧 の 裏 面 を 掬 す べ し 瀧 を 潜 れ ば 左 方 に 荒 澤 不 動 の 石 像 あ り (…) 」 鐵道省の 『鐵道旅行案内』 (昭和十一年) にはまだ一般の人々が見物できるほどには開発されていなかった華厳の滝ではなく、

(25)

三    輪    伸    春 一四八 広重の「下野日光裏見の滝」 (『六十余州名所図絵』 )が掲載されており(三五四頁) 、以下の記述がある。 「日光諸瀑    日光山中には霧降、 含満、 裏見、 方等、 般若、 華厳、 布引、 白糸、 相生などを始めいはゆる日光七二瀑といっ て 多 数 の 瀑 布 が 懸 っ て い る。 中 に も 偉 観 な の は 華 厳( 指 定 名 勝 ) で あ る。 瀑 は 大 谷 川 の 源 で、 中 禅 寺 湖 水 の 決 す る と こ ろ 直 下 約 一 〇 〇 米、 幅 は 上 部 で 約 一 〇 米、 滝 壺 は 深 さ 二 〇 米、 主 瀑 の 両 側 に 数 条 の 小 瀑 布 が あ る。 」( 『 鐡 道 旅 行 案 内 』、 鐡 道 省、 三六六頁) 。 広 重 の 裏 見 の 滝 の 絵 図 に は 人 が 優 に 通 れ る 裏 側 の 道( 『 日 光 名 勝 案 内 記 』 に よ れ ば 幅 五 尺 ) と、 現 在 の 滝 か ら は 想 像 も で き ないほど豊富な水量の滝が描かれている。 (四) 荻原井泉水は次のように記している。 「 日 光 は 東 照 権 現 の 御 廟 所 で あ る か ら、 徳 川 の 太 平 に 住 す る 一 庶 民 と し て、 尊 崇 の 心 を 表 わ し た ま で で あ る。 そ の 意 は『 奥 の細道』の本文を詠めば明らかである。 卯月朔日、 御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書きしを、 空海大師開基の時日光と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、 今此御光一天にかがやきて恩沢八荒にあふれ四民安堵の栖穏かなり、   猶憚多くて筆さし置きぬ あらたふと青葉若葉の日の光 斯ういふ文の続きになっている。 」(荻原『奥の細道を尋ねて』 、三三頁) さ ら に、 加 藤 楸 邨 は『 松 尾 芭 蕉 集( 下 )』 ( 昭 和 三 三、 筑 摩 書 房、 二 〇 〇 頁 ) に お い て、 「 い ま、 こ の 東 照 大 権 現 の 御 威 光 は 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 天 下 に 輝 き 0 0 0 0 0 ( …) 士 農 工 商 の 民 は み な 安 楽 な 生 活 を 営 み、 太 平 に 治 ま っ て い る 世 で あ る。 」( 圏 点、 三 輪 ) と し て、 原 文 に な い「 東照大権現 0 0 0 0 0 云々」を書き加えて現代文に訳している。ところが、 『おくの細道』本文には「東照大権現」 、「御廟所」 、「徳 川 」 と い っ た 家 康 に 関 す る 文 言 は 一 切 な い。 楸 邨 は 後 に 上 記 の 文 を す べ て 削 除 し、 俳 句 の 技 巧 面 に つ い て 述 べ て い る だ け で ある( 『芭蕉の山河』昭和五五年、読売新聞社、五〇頁) 。安東次男(一九八三)も技巧面についてのみ論じている。 (五) 本稿には「神秘の山」 、「女人禁制」 (一二六頁) 、「小洞は陰の象徴」 、「豊年祈願」 、「女陰の形をした巨大な自然岩」 、「性器崇拝」 、 ( 一 二 八 頁 )、 「 オ オ ナ ム チ の 神 は 子 孫 繁 栄 の 神 」、 「 男 女 の 営 み を 再 生、 多 産、 豊 穣、 大 漁 を 願 う 古 代 人 の 信 仰 」、 「 胎 内 回 帰 」

(26)

芭蕉の一句 一四九 ( 一 三 五 頁 ) と い っ た 表 現 が あ る。 こ れ ら は、 古 代 の 人 々 が 自 然 の 根 源 を、 再 生、 多 産、 豊 穣、 大 漁 を も た ら す 母 な る 大 地 に あ る と 信 じ た こ と に 関 係 す る。 修 験 の 奥 義 は、 日 本 人 が 固 く 信 じ て い る 霊 の 不 滅・ 再 生 を 前 提 と し て、 人 が こ の 世 に 生 き る と は ど う い う こ と か を 問 い な が ら、 民 族 の 存 亡 に 関 わ る 再 生、 多 産、 豊 穣、 大 漁 を 祈 願 す る こ と に あ る。 再 生、 多 産、 豊 穣、 大 漁 を も た ら す 自 然 の 根 源 は 母 な る 大 地、 つ ま り 海 で あ り、 山 で あ り、 川 で あ る。 従 っ て、 修 験 の 聖 地 そ の も の が い ろ い ろ な 形 で 女 性 が 神 性 化 さ れ て 関 連 付 け ら れ て い る。 従 っ て、 山、 海 は 人 間 の 女 性 が 立 ち 入 る と 嫉 妬 し 実 り を も た ら し て く れ な く な る、 と 古 代 の 人 々 は 固 く 信 じ て い た。 こ の こ と が 富 士 山 を 始 め、 吉 野・ 熊 野、 湯 殿 山 な ど 修 験 の 聖 地 が 女 人 禁 制 で あった理由である。 女 人 禁 制 な の は 修 験 の 聖 地 に 限 ら な い。 山 で の 狩 猟 を 生 活 の 糧 に し て い た マ タ ギ は 女 性 を 山 に 入 れ な か っ た。 女 性 の 前 で は 狩 の 話 も し な か っ た。 獲 物 を も た ら す 山 の 神 は 女 性 な の で、 人 間 の 女 性 が 山 に 入 っ て く る と 嫉 妬 し て 獲 物 を も た ら し て く れ な い、 と マ タ ギ は 信 じ て い た か ら で あ る。 さ ら に は、 初 マ タ ギ と 呼 ば れ る 若 い 男 子 が 初 め て 狩 人 と し て 山 に 入 る と、 そ の 若 者 を 立 た せ た ま ま、 そ の 男 根 を 先 輩 猟 師 た ち が 焚 き 火 で 温 め た 手 で 揉 ん で 勃 起 さ せ、 そ れ に 粗 朶( そ だ ) を 結 び 付 け て 火 を つ け る。 手 で 火 を 消 す こ と は 禁 じ ら れ て い る の で、 若 者 は 身 を よ じ っ て 火 を 消 そ う と す る。 そ の も だ え 苦 し む し ぐ さ を 見 て 女神は喜こび、 獲物をもたらしてくれる、 とマタギの人々は信じていた。 (戸川幸夫『マタギ―狩人の記録―』 、 昭和三七年、 新潮社、一六三頁) 屋久島の東南海岸沿いに屹立するモッチョム(本富)岳という一風変わった名前の山がある。 「 山 の 形 状 か ら、 男 女 両 性 を 象 徴 す る 陰 陽 石 と い わ れ、 山 名 由 来 の 一 説 に な っ て い る。 尾 の 間 集 落 か ら 見 る と 巨 大 な 男 性 シ ンボルに見え、 原集落から見ると巨大な女性美を発揮し、 前面岩場がそのまま玉門に変化する。 (…)種子島の隠語モッチョ ウに由来するという説がある。 」( 『鹿児島県』 、「角川日本地名大辞典」第四六巻、昭和五十八年、角川書店、六六二頁) 「 まっちょやま 4 4 4 4 4 4 の まっちょ 4 4 4 4 は もっちょ 4 4 4 4 の転訛。 もっちょ 4 4 4 4 は種子島の方言で、 女性の陰部をいう。 カツオ漁が盛んだった時代は、 漁 場 に 向 か う 船 上 か ら 漁 師 た ち が、 ま っ ち ょ や ま 4 4 4 4 4 4 へ 向 け て、 男 根 を 剥 き だ し て 大 漁 を 祈 っ た 山 で あ る。 こ れ は 女 性 特 有 の 生 産 力 に 肖 る ( あ や か る ) 儀 式 だ か ら、 こ こ を 産 ( う ぶ ) の 神 が 鎮 ま る 神 聖 な 山 に 見 立 て た、 古 代 信 仰 の 名 残 で あ る。 」( 永 里 岡『 屋 久

(27)

三    輪    伸    春 一五〇 島の地名考』 、昭和六三年、私家版、三九頁)    漁 師 は 海 に 出 る と モ ッ チ ョ ム 岳 に 向 か っ て 船 上 か ら 男 性 の シ ン ボ ル を 誇 示 す る こ と に よ っ て 海 の 神 を 喜 ば せ て 大 漁 を 期 待 す る。一般的にも、 船に女性を乗せないのは、 海の女神が嫉妬して獲物をもたらしてくれない、 と信じられていたからである。 鉱 山 で の 採 鉱 作 業 の 現 場 や ト ン ネ ル の 掘 削 作 業 の 現 場 の 場 合 も、 女 性 が 立 ち 入 る こ と は、 母 な る 大 地 の 女 神 の 体 内( 胎 内 ) に入ることになり、女神の不興を買うといけないと固く信じられていたことが女人禁制の理由である。 【 補 注 】「 ゆ ど の や ま で は 神 域 の 正 面 に 奇 異 な 形 状 の 御 神 体 石 が 鎮 座 ま し ま し て い る た め、 左 横 手 の 霊 祭 供 養 所 に 気 づ か ぬ 人 が 多 い。 し か し、 社 務 所 で は 紙 位 牌、 経 木 塔 婆、 線 香 な ど の 供 養 具 一 式 を 売 っ て お り、 紙 位 牌 に 戒 名 を 書 い て、 し た た り お ち る 水 で 巌 壁 に 貼 り つ け る の が、 有 名 な 湯 殿 の 岩 供 養 で あ る。 山 形 に ち か い 山 寺 立 石 寺 の 岩 塔 婆 は 巌 壁 に 戒 名 を 彫 り 込 む の で、 芭蕉もこれをふまえて 「岩にしみ入る」 などと蝉の声を形容したらしいが、 その祖型がこの岩供養であった。 」(五来重 『吉 野 ・ 熊野信仰の研究』名著出版、昭和五十年、六九頁) 。「したたりおちる水で巌壁に貼り付ける」時に袂が濡れたのである。 (六) 沖縄のウタキ(御嶽)や対馬固有の「天道信仰」には本来社殿がない。 「 ひ と つ 確 実 な の は、 御 嶽 を 通 す と、 本 土 の 神 社 の 成 り 立 ち が よ く わ か る( …) 。 神 社 の 鳥 居、 社 殿、 拝 殿、 狛 犬 と い っ た も のは後年の付加物にすぎず、 とりわけ宏壮な社殿、 拝殿は寺院建築の影響を受けて生まれたもので、 大方の神社も、 本来は、 御嶽同様の、 森だけの場所であったと考えられる。実際、 沖縄以外にも、 一切社殿のない、 森だけの聖地(ニソの杜、 天道山、 モ イ ド ン、 ガ ロ ー 山 な ど ) が 点 々 と 残 っ て い る の で あ る。 ( …) 日 本 の 神 は、 目 に 見 え な い。 そ し て そ の 聖 地 に は、 元 来 は 樹 木 や 岩 以 外 の も の は な に も な い。 そ の 不 可 視 と 無 は、 ゴ シ ッ ク 建 築 に 代 表 さ れ る 西 欧 の 形 と 有 の 対 極 に あ る も の で あ る。 」 (岡谷公二「御嶽(ウタキ) 」、 『芸術新潮』 、「日本の神々」 、一九六六年、三、新潮社、六三頁。森浩一、同上書、一八五頁) 岩 座・ 盤 座( い わ く ら ) と 称 さ れ る 神 の 依 り つ く 巨 岩 を 御 神 体 と す る 例 は 鞍 馬 山、 松 尾 大 社 な ど に 多 く 見 ら れ 地 名 と し て 残 さ れ て い る 場 合 も 多 い( 「 岩 倉 」 な ど )。 奈 良 の 大 神( お お み わ ) 神 社 も 社 殿 が な く、 山 そ の も の を 御 神 体 と し て 山 中 に は 岩 座がある。 巨 大 な 男 根 の 姿 を し た 巨 石 を 御 神 体 と す る 神 社 も あ る。 和 歌 山 県 新 宮 市 の 神 倉 神 社 の 御 神 体 ゴ ト ビ キ 岩 で あ る。 巨 大 な 男

(28)

芭蕉の一句 一五一 根(ヒキガエルとも)の姿をしたこの岩は上下ふたつにわかれ、 下が縦九㍍、 横七㍍、 高さ八㍍ほど、 上が縦七㍍、 横四㍍、 高さ三㍍ほどである。毎年二月に女人禁制で荘重な御燈祭りがとりおこなわれる。 一 方、 湯 殿 山 の 御 神 体 に 類 す る 巨 大 な 女 陰 形 の 盤 座 も あ る。 京 都 府 の 旧 相 楽 郡 山 城 町 に あ る 谷 山 不 動 と 奈 良 県 旧 生 駒 郡 平 群 町にある平群石床神社の岩座がその例である。 『芸術新潮』 、一九六六年、三、 八二―五頁) 重 要 な の は、 男 根 形 の 岩 座 に し ろ 女 陰 形 の 盤 座 に し ろ、 い ず れ の 場 合 も 単 に そ の 特 異 な 形 状 に よ っ て 関 心 を 集 め た の で は な く、 そ の 地 に い に し え の 昔 か ら 住 み な し て き た 人 々 が 再 生、 多 産、 豊 穣 を 願 い、 生 活・ 生 業 と 密 接 に つ な が っ た 深 い 信 仰 が 底流としてある、ということである。 な お、 「 御 神 体 は、 女 性 が お な か と 下 腹 部 を さ ら し て い る よ う に 見 え る 円 丘 状 に 盛 り 上 が っ た 巨 岩 」 は 沖 縄 の「 亀 甲 墓 」 を 呼ばれている墓の形と共通する。意味するところは同じである。 (七) 芸道の極致と仏教の悟りとが一致することについては例えば、以下の証言がある。 「 利 休 は、 道 に 志 す こ と が 深 く、 茶 道 ば か り で は な く、 さ ま ざ ま な こ と の 上 で 悟 り を ひ ら か れ て お り、 そ の 点、 愚 僧 ら の と う て い 及 び 得 な い と こ ろ で あ る。 利 休 は、 ま こ と に 尊 ぶ べ く あ り が た い、 道 に 入 っ て 悟 り を ひ ら か れ た 人 で あ る。 そ の 説 か れるところは、 茶道のことかと思っていると、 単にそれだけにとどまらず、 高僧や仏の体得された悟りのみちでもあるのだ。 じつに尊いことだ。 」( 『南方録―覚書―』 、「筑摩古典文学全集」第三六巻『芸術論集』 、昭和三七年、二七二頁) 「釈尊が説法の際、 花をひねって衆に示されたのを見て、 弟子のなかでただひとり迦葉だけがその意味を悟って、 微笑された。 そ こ で、 文 字 に は 書 き 表 さ れ て い な い 正 法 眼 蔵 涅 槃 妙 心 の 教 法 は 釈 尊 か ら 迦 葉 へ と 以 心 伝 心 に 伝 え ら れ て、 迦 葉 は 優 れ て い ると釈尊はいわれたことであった。 」( 『池坊専応口伝』同上書、二五七頁) また、庭師七代目植治こと小川治兵衛に関する逸話がある。 「 山 県【 有 朋 】 公 は あ る と き、 七 代 目 に『 お ま え は ど ん な 本 で、 庭 づ く り を 学 ん だ の か 』 と お 尋 ね に な っ た そ う で す。 七 代 目は、 適当に思いつく本の名前をふたつみっつあげました。そして、 後日仕事にお伺いしたとき、 (…)山県公が、 庭に入っ てきた七代目を見つけて呼び止められました。 『お前は俺をだましたな。お前があげた本には、 庭作りなど何も書いてなかっ

(29)

三    輪    伸    春 一五二 た で は な い か!』 血 相 を 変 え て い わ れ た そ う で す。 然 し、 若 い 七 代 目 は 臆 せ ず こ う 答 え ま し た。 『 山 県 公 に 私 が、 兵 法 を お 教 え く だ さ い と 申 し 上 げ て も、 お 教 え い た だ け な い で し ょ う。 私 は ま だ 若 い で す が、 造 園 の こ と に つ い て は 一 生 懸 命 勉 強 し て、 一 歩 先 ん じ て い る つ も り で す。 い ち い ち そ う い う ご 質 問 に お 答 え す る こ と は な い と 思 い ま す。 』( …) 山 県 公 は、 そ の 後 もいっそう七代目をご懇意にしてくださいました。 」( 『植治の庭を歩いてみませんか』 、七一頁) こ の こ と は、 一 芸 に 秀 で た 名 人 と、 そ の 道 で は し ろ う と で も 別 の 一 芸 に 秀 で た 者 と は 互 い に 理 解 し あ え る こ と が で き る こ と を表現している。 また、科学・知識・技術と宗教性との違いは以下の例にも見られる。 二 〇 〇 九 年、 興 福 寺 の「 阿 修 羅 展 」 が 東 京 上 野 と 福 岡 県 太 宰 府 の 国 立 博 物 館 で 開 催 さ れ 大 変 な 反 響 を 呼 ん だ。 話 題 と な っ た の は、 最 新 鋭 の ハ イ ビ ジ ョ ン 機 器 を 駆 使 し て の 阿 修 羅 像 内 部・ 外 部 の 徹 底 し た 分 析 と 高 度 な 照 明 技 術 に よ り 照 ら し 出 さ れ、 三 六 〇 度 の 視 点 か ら 細 部 に わ た り く ま な く 観 察 で き る 阿 修 羅 像 で あ っ た。 確 か に 高 度 な 撮 影 技 術 に よ り、 今 ま で 見 え な か っ た 視 点 か ら 仏 像 作 成 に 関 わ る さ ま ざ ま な 発 見 が あ っ た。 奈 良 時 代 の 天 平 年 間 に 高 い 技 法 を 達 成 し た が そ の 後 途 絶 え た 脱 活 乾 漆 造 り の 手 法 も 素 材 も 明 ら か に さ れ た。 そ し て、 画 面 に 映 し 出 さ れ た 映 像 か ら 細 部 に わ た る 事 実 の 発 見 と 知 識 は 得 ら れ た。 し か し、 最 新 の 機 器 と 技 術 に よ り 得 ら れ た も の は 分 析 さ れ た 事 実 の 集 積 に す ぎ な い。 知 識 と 技 術 を ど れ ほ ど 積 み 重 ね て も、 仏 師 が、 阿 修 羅 と 対 面 す る こ と に よ っ て 感 得 し て ほ し い と 願 っ た 敬 虔 な 信 仰 心、 仏 へ の 尊 崇 の 念、 あ る い は 仏 に 自 分 自 身 の 姿 を 投 影 し 自 分 の 煩 悩 を 映 し 見 る こ と に よ っ て 得 ら れ る 悟 り を 得 る こ と は で き な い。 科 学 の 限 界 で あ る。 ( 参 考『 国 宝 阿 修 羅展』 、二〇〇九年、朝日新聞社) 。 他 方、 深 い 信 仰 心 で 阿 修 羅 像 を 造 っ た 仏 師 と 心 を 通 わ せ た の は 写 真 家 の 小 川 光 三 で あ る。 興 福 寺 貫 主 多 川 俊 英 は、 小 川 が 宗 教性にあふれた阿修羅の「サワリ」を感得したことはその写真から伺うことができる、と次のように述べている。 「 被 写 体 の 仏 や 菩 薩 の 美 し さ、 そ の 精 神 性 の 深 さ に 身 震 い す る 写 真 家【 小 川 光 三 】 の 感 性 が 大 き く 出 た 作 品 こ そ、 見 る 者 の 心 を は げ し く 揺 さ ぶ る の で は な い か。 そ し て、 そ う し た 作 品 こ そ、 本 当 の 意 味 で 仏 教 の 真 善 美 の 世 界 に い ざ な う 力 が あ り、 はなはだ宗教的だと私には思える。 」(興福寺貫主多川俊映『興福寺』 「序文」 、一九九七年、新潮社) 。

参照

関連したドキュメント

瓜生坂―入山峠を結ぶ古墳時代のルートを律令期に整

する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

 音楽は古くから親しまれ,私たちの生活に密着したも

が成立し、本年七月一日から施行の予定である。労働組合、学者等の強い反対を押し切っての成立であり、多く

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

白山中居神社を中心に白山信仰と共に生き た社家・社人 (神社に仕えた人々) の村でし

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

ピンクシャツの男性も、 「一人暮らしがしたい」 「海 外旅行に行きたい」という話が出てきたときに、