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現実と古典との融合――芭蕉作品中の『隠逸』に関する漢籍典拠をめぐって――

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Academic year: 2021

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茅舎ノ感 松尾芭照が俳諮宗匠生活から隠退して深川草庵を杜甫の詩に因 んで「泊船堂」と称する年代(延宝八年)から、「南華老仙の唯 利害を破却し、 老若をわすれて、 閑にならむこそ、 老の楽とは云 ペけれ。 ...... 孫敬が戸を閉て、 杜五郎が門を鋲むには」 と「閉関の説」を言う晩年に至るまで、 その俳句、 俳文、 紀行文 という一連の作品の中には「隠逸」に関する洪栢典拠が大滋に使 用されていることが目立ち、 始終中国古典からの「厖逸者」の面 影が揺曳している。 そのよう な漢紺典拠がいか に生かされているかを考えることに よって、 開者俳人としての芭蕉が中国古来の「陸逸者」や「阻逍 意躁」をどのように理解し、 どれほど受容しているかが分かって くるはずであり、 芭蕉と中国古典との関述の一側面が理陪できる に違いない。 『武蔵曲」には、 天和元年の作で次の句が目につく。

現実と古典との融合

ー—芭蕉作品中の

「隠逸」 「盟に 雨を間く」は「茅屋為秋凪所破歌」(杜甫)中の詩句 「沐頭屋漏無乾処、 雨如麻未断絶」と「林沐避漏座人家、 浦補移 家斑子船」(連雨江朕一_首・蘇束披)を踏まえたものである。「其 夜の雨」とは杜甫の「屋源」の 雨、 蘇束披の「避漏」の雨である ことは明らかである。 芭煎は、・「其夜の雨」を監に間くということで、 古代庖・宋の 詩に詠まれた雨を遠い時間と空間を超越し て、 現世に呼ぴ寄せて きて「林頭屈漏無乾処」と「沐沐避漏幽人家」の古典世界を「独 行」) 其世の雨をばせを葉に開きて、 老杜茅舎破凪の歌在り。披翁ふたたぴ此句を佗て屋漏の句作る。 独森の的の戸。(屈柳「伊勢紀 z の句にはまた次の前班のついたものもある。 芭蕉野分して盟に同を開く夜哉

に関する漢籍典拠をめぐって1

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-梅白し咋日ふや鵡を盗 れし。 と見える。 発句は山荘を訪ねてその主人談林派の俳稔者の三井秋 凰の阻逸ぶりを嘉賞した挨拶吟であるが、「梅」「鶴」を織り込ん だのは、 梅花と鶴を愛した宋の隠士林和培に比した趣向からであ る。 ところで、 懇士林和靖に比して三井秋凪の山荘は「梅白し」 であるが、 林和靖につきものの「鶴」の姿が見えな いのである。 芭蕉は「昨日ふや鶴を盗まれし」と主観的にその欠損を補ってま でして、 古典世界の林和靖の形象に三井秋風を完全に合わせよう とするように見える。現世の俳隠者を窃潔な古代の昆士に比する ことによって古典的情趣と限前の情兼との複合が現れる。古典的 京にのぼりて、 三井秋風が嗚滝の山家をとふ 梅林・ 謀の神の戸」の芭蕉卒庵と結び付けて現実に再現させようとして いる。そうして、 老杜・披翁に拠る古典の詩境と感触の実態と一 体化した所へ自分も身を晒し、 体験して「茅舎ノ感 J が出来たの である。 それは漢紺古典の詩境と生活実態とを、 屁党に訴える雨 漏りの音で以て接合させた所の感慨である。 「其世の雨」を今に聞く、 今の雨を「其世の雨」と間くという ことに依る現実と古典の融合は 芭蕉 の発句の世界に実現された。 「野晒紀行」には 偕趣への契合は現世の俳恐者の隠逸ぶりを嘉賞するためである。 夏に、 同じ「野晒紀行」の 中の一節を見てみることにする。 西上人の草の庵の跡は、 奥の院より右の方二町計わけ入 ほど、 柴人のかよふ述のみわづかに有て、 さがしき谷をヘ だてたる、 いとたふとし。彼とくとくの消水はむかしにか はらずとみえて、 今もとくとくと雫洛ける。 露とくとく心みに浮世すすがばや 若これ扶桑に伯夷あらば、 必口をすすがん。 もし是、 由に告ば、 耳をあらはむ。 その中には伯夷と許由という中国古代の阻士が二人出ている。 伯夷は因の人、 姓は墨胎氏、 名は元、 孤竹君の子、 弟の叔斉とお 互いに父の後を母ぐことを譲って逃れる。 そのうちに周の文王に 身を寄せたが、 武王が殷の対を討伐することを「以暴易暴」の不 義として馬を押えて諌めたが、 容れら れなかったので首陽山に阻 栖し、 周の粟を食うのを潔しとせず、 武王の扶持米を退け、 山菜 などを常食として生活をおくり、 ついに餓死した中国史上 の有名 な賢者阻士である。伯夷の限逸については「立干悪人之朝、 輿悪 人g・如以朝衣朝冠坐干検炭」(孟子・公孫丑上)、「不降其志、 不罪其身」(孔子・徴子)というのが ある。不正の 浮き世に 立つ のは、 正装で、 泥や炭の上に座っているようなもので、 たとえ、 156

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-世に屈れて生き ていようとも、 志や操を窃く保ち、 いかに困窮し ようとも我が身を辱め、 汚す ようなこと をしないということで、 「求仁而得仁」 「古之賢者」 「伯夷型之沼者也」 「間伯夷之凪者頑夫廉、 憐夫布立志者」 (論語・述而) (論語・述而) (孟子・庖章下) (孟子・筋章下) と孔子、 孟子から高度な評価があったのである。許由は上古の布 士、字は武仲、 油沢の中に阻れ、 また癸帝が天下を譲ろうとする のを拒んで、 舘山に阻れた。我帝から天下を誼ろうと言われ、 汚 れたことを間いたと、 穎川で耳を洗ったというほどの窃楳な士と 伝えられ ている。 西上人の草屯の跡を訪ねて、 目に見え てくる「彼のとくとくの 消水」は、 西行も 「とくとくと落つる岩間の苔活水くみほすほど もなきすまひか な」と詠じたが 、「伯夷あらば、 必口をすすがん」、 「許由に告げば耳をあらはむ 」 という芭蕉の世界との連結によっ て、 賢者高士の志向と情保を汚す俗世間の歴を洗い湿ぐ「雫」に なるのである。 ここでは現実の「とくとくと雫落ける」消水と昔 西行の詠んだ「とくとくと落つる岩間の苔済水」と煎なった背保 に対し、「心みに浮世すすがばや」と芭葱自身を 樅い た上に、 更 に漢籍の世界の 「口をすすがん」とする 伯夷、「耳をあらはむ」 とする許由を投影し ようとするの である。 この匹瓜の平面の上に できる古今の立体的詩境を芭照の隠逸時想が往来しているように 見える。 眼前の梢依と古典的世界との映しfilね の詩榜を現出した例とし て「おくの細道」の中には とある。妙禅師は、 宋の原妙禅師。杭州天目山の張公洞に入り、 「死関」の篤術を掲げて十五年間も出 なかった。 法栞法師は、 梁 の高俯、 晩年、 岩上の虎にいて終日論談したとい う。仏頂和尚の 旧居を訪れ た芭蕉は、 目の前に見る石の上に岩屋を背にして造っ てある小さい滝と、 中国の故事にある「妙禅師の死関」「法雲法 師の石室」との両方に、 ピントを合わせようとしている。百い換 えれば 、現実の偕景と故事の世界の像を重ねて見ようとするので ある。 それは現実と古典との二重映像であると言うことができる なら、 その焦点の合った所にこそ、 意滋的に両方を溶け合わせよ うとする芭蕉独自の意図があるのである。 芭蕉の貞享元年の発句に次の句があった。 虹釣らん李(子)陵七里の浪の笛 妙禅間の死関 、法栞法師の石室をみるがご とし 。 157

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-「栄華暫時事 「泥泣軒免」 「不事王侯高尚其事」 誰織子陵心」 「山石水長」 「使貪夫廉、 憐夫立」 の高きを 子陵は、 本名厳光 字は子陵、 中国後漢光武帝と幼時からの同 窓且つ親友であり、 光武帝即位後、 諫議大夫に召された が、 官途 につかず、 わが姓名を変え、 宮春山に身を限し 州桐険県の名 勝七里渥近くに独り釣糸を垂れて毘居生活をしていたと伝えられ ている。後世では厳子陵の高徳を慕う詩人高士が多く、 その徳風 (許渾「七里灘」) (苑文正公「設先生祠堂」) (苑文正公「設先生祠堂」) などと訊論がある。 舷子陵は「栄華」を「暫時事」と見、「軒晃」 の宮貨・権勢を「泥塗」として捨てて王侯・貨族に仕え ず、 隠居 までして自分の志節を高尚に保つ高潔の士であると見られている である。「熱田に移ルB」と姐したこの発句 における「七呈」 ・は桑名•宮(熱田)間の海路を言う「七里の渡し」を指す。 七里 の渡しを七里濯に擬した先例として、 那波活所の「安力敢光ノ輩 と褒めたたえている。厳子陵の隠逸した動機については (苑文正^ム「綬先生励堂」) (苑文正公 敢先生嗣堂」) 花にやどり瓢

m

斎と自いへり。 芭蕉の延宝八年の句には 在ラン、 同名七里渥」というのがある。 「七里の渡し」の「浪の雪 J を望みながら、 七里滋 で、 独り釣 糸を垂れて屈居生活をした猷子陵を目の前に浮かぺる。歎子陵に 倣って「鮫釣らん」とするのは、 既に人気稼業の俳諧宗匠生活を あっさり放菜して、 深川 三つ股の辺りに退氾した芭蕉は古典中に おける世利を営まない高襟な陪者賢人の求める境地を更に求める 芭照の心境を示している。 そのような境地へ身を以て一陥接近し ようとする意志が現され、 そこには芭蕉の古典的隠逸への憧恨が 見られる。 というのがある。 その中で芭蕉自ら号した「瓢煎斎」は、 顔淵の 故事や「瓢斑限限空シウシテ、 卒顔回之巷二滋シ」(和淡朗詠集) の詩句を跨まえたと言われている。頻淵は、 名は回、 字は子、 秋時代の秘国の人、 孔子の高弟で、 亜型、 復型の称がある。願油 の阻迎生活の故事は「論語・班也紺 j にある次の一節を原典とす るとされている。 「子曰、 賢哉回也、 一箪食一瓢飲、 在廼巷。人不堪其砥、 回也 不改其楽、喪哉回也。」「一箪の食一立の 飲、 洒巷に在」という生 活ぶりは、 人は「其憂に堪え J ぬところであるが、賢人願回は、 158

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-とある。 孫敬は「孫敬は字は文宝、 霜に戸を閉ぢて、 杏を読み」 とある「蒙求」に拠ったものである。 杜五郎は「頴昌の人、 三十 年間、 門を 出なかった。」と見える。 かの孫敬のように一Pを閉ざ し、 杜五郎のように門を閉めて一歩も外へ出ないこと は、 ここで 芭蕉の行動様式の手本にな り、 自らへの戒めになるのである。 芭蕉の俳文「芭蕉を移す詞」の冒頭部には 菊は束緬に栄、 竹は北窓の君となる。牡丹は紅白の是非にあ りて、 世盛にけがさる。荷紫は平地にたたず、 水消からざれば 孫敬が戸を閉て、 杜五郎が門を鉄むには。 そうした中でも道を求め、 楽しむところを改めない。 こうした故 事から、 後世では、「斑食瓢飲」は、 貧乏な生活状態でありなが ・ら、 道を求める賢人の生活状態や、 賢人が求道して、 楽しむ焚境 として、 一般化される。いわゆる賢人高士の「風雅」となるので ある。毘退して「煎食瓢飲」といった貧乏な状態に身を位いた芭 蕪は「瓢箪斎」と自称して、 頗淵の境地を体験し、 その楽しむ所 を一陪楽しんでみるという意識があるのではない か。 芭蕉は意識 .的に、 実生活では現実を古典的世界へと、 詩境では古典的世界を 現実生活へと、 切り換えているのだろう。 芭蕉の俳文『閉関の説」の後部には 花さかず。 いづれのとしにや、 栖を此境に移す時、 ばせを一本 を植。風土芭蕉の心にや叶けむ。数株の茎を備 へ、 其菜茂諏り て庭を狭め、 翌が軒端もかくる計也。 人呼て草庵の名とす。 芭焦はここで、 菊、 竹、 牡丹などの古典に出てくる立派な草花 ではなく、 この草庵を覆ってしまうほど仲ぴたパショウによって 芭蕉庵と呼ばれるようになった。すなわち芭蕉は、 菊、 竹、 牡 丹 を現実のパショウとの突き合わせとして使っ て、 自分のわぴ住ま いを諧諮的に述べている。芭蕉はあとで、 彼山中不才類木にたぐへて、 其性隙し。俯懐紫は、 これに策 をはし らしめ、 張横渠は、 新菜をみて修学の力とせしとなり。 予其二つをとら ず。唯このかげに遊て、 風雨に破れ安きを愛す と唐の術家、 懐素と宋の張横渠が芭蕉を愛する原因とは違って、 伝統的な美意識(それは漢藉 古典のものでも ある)から切り渡さ れたところでバショウという植物を選択した理由を述ぺたのであ る。 これは芭蕉が漢藉古典を学ぴつつへ新たに切り拓いていった 「わぴ、 さぴ j という美意織の沿緒を何わしめる。 ここに漢籍古 典に対する態度の―つの変換が見られる。 芭蕉は「閉関の説」の最後で、 閉関の動概を明確に述ぺている。 るのみ 159

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-煩悩増長して一芸すぐるるものは、 是非の勝る物なり。是を もて世のいとなみに当て、 貪欲の戌界に心を怒し、 溝濾におぽ れて、 生かす事あたはずと、 南華老仙の唯利害を破却し、 老若 をわすれて、 閑にならむ.こそ、 老の楽とは云ぺけれ。 人来れば 熊用の弁有。出ては他の家業をさまたぐるもうし。 孫敬が戸を 閉て、 杜五郎が門を鎖むには。 友なきを友とし貧を宮りとして、 五十年の頑夫自世、 自禁戒となす。 南華老仙は、 荘子と敬称される中国古代の思想 家、 荘周であり、 南華真人と追陪される。荘周は、 楚の威王が宰相に迎えようとし .. たが、「祭礼の犠牛として厚遇されるより汚禎の孤豚でありたい」 と言って謝絶し、 山野に悠々自適した、 という。荘屈は理論的に 広くすぺての事物の成立する唯一の根本の道を探求 し、 人間の相 対的知を撤底的に否定する絶対的撫の境地を体得した。無を確定 し、 且つそれは、 実践的には「無可有の郷に遊ぶ」ような超世俗 的独立と広大な自由(遊ぴ)であるとし、 著宙の.「荘子 j では、 道家の様々な思考が混和して展開されており、 脱俗的であっても、 枇俗順応であっても、 自適が人間の奥の生き方であるとする思想、 すべての物は道の流行のままに自然に展開してお り、 自然に任せ ろのが天楽であるという思想、 とくにすぺての物は根本でも、 自 然展開でも、 万物一体なので、 無心でこそ自然の大綱和があると する思想、「焦為にして為さざるなし」という弁証法的論理など の思考が、 後枇の阻迅、 隠逸の意紐へ大きな影響を与えたもので ある。芭蕉は批俗の煩悩にあきて「閉関」を決意するにあたって 「南華老仙の唯利害を破却し、 老若をわすれて、 閑にならむこそ、 老の楽とは云べけれ」と百って荘子の思想が自分に適応すること を改めて確認して、 それを行動の指針したのである。 上に述ぺてきたように中国古来の「隠逸」の典拠は、.芭蕉の作 品の中では現実と結び付けて使われているところが多いことが分 かる。古輿世界の隠士の故事で以て、 目と耳による現実を感知し、 自身の陰退生活の実態を描写し たり、 またその現実を古典の隠逸 世界へ転換させたりして、 古典と現実の一体化を図 る。 それの一 体化されたところで「古人の求める所を求め」、 古代の阻士と共 通の感慨を得ようとして自分なりの感慨や感咲を発する。 言い換 えれば、 その古典と現実の融合したところに芭蕉の独自の詩境、 詩想、 詩的作品が産出される。 中国古代の隠逸思想と芭熊を取り 巻く日本の風土と融合された所に芭蕉の隠者的俳風が形成される と言えるであろう。 参考文献 「日本文学佐炊辞典・古真編 l 吉田梢一編 束京党出版 「芭燕俳句鑑賞j 赤羽 学宅 沼水弘文堂出版 「中国息想辞典j B原利国編 研文出版 「中国古代文学理論辞奥」 趙則誡 張述弟 県万沈主編 吉林文史IIJ

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-160-版社 「B委学史辞典・古兵編」 角川小辞央1131 川甘店 (遼寒外国栢師範U門学校) 三谷栄一 山本他吉 嬰による述体修釘 ー中古の和歌と散文との比較ー 式子内親王の「うたた寝の波ク」 「源氏小鏡」に関する一考察 ーその梗概化をめぐって1 「寸錦雑紘」考 ー非森島中良作であることを中心にー 「夢応の鯉魚」と「二世の様」 祠語類解」の日本漢字音と その記戟方法との関迎についてー 「浮誌」の破綻 霊`家物語」の横笛説話と高山樗牛の『沌口入道』 返藤周作における軽小説の意味 ー「おパカさん」を中心にー 「小右記」における病気・怪我に関する表現 発話機能から見た日本語の会話の構造 YEs'z0疑問文における片寄りと否定 機能概念法と外OO託教行 書評•新刊紹介 大坪併治拇士若 「石山寺本大方廣佛殺殿経古姑の固語學的研究」 赤羽 学著「俯前沿月」 赤羽 学著「芭照と人 j 三村兄功紺若『絞五明題和歌集」 勢田勝郭若「述歌の新研究・論考編 J 鎖芳「追明新日本話文法」 『おもしろい進明日本梧文法 j 『日本語講読」 林省之介・ 上地敏彦硲『林のらくらく古文単語』 リズム&マンガの磁ー・ 蘊原 勝巳 江口 寮生 工藤進思郎 井上 宗雄 岩下 紀之 羅邸 i1It汐 根水田 伝相智教蜂 作哲恵子子 吹村 陪敦8� 子之屈 石上 宮地 弘美 増田 京子 佐藤 一恵 見尾久美恵

II

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