第二章 第二章 第一章 芭蕉俳諧と伝統精神 芭蕉の紀行文・俳文の成立 第一章 序 序 説 はからずも私のライフワークとなった芭蕉の研究に関する本格 的な著密『芭蕉俳諧の精神」を出版した昭和四十五年頃には、 別 にこれを四巻にして績めようなどとは思ってもいなかっ た。 とこ ろがそれを出発点として研究を進めるに従って、 論文の数がたま り、 次々に続篇が出て、 折よく私の定年の年、 平成六年三月がそ の四冊目を出版する時に当り、 それに索引・補正その他の資料を 加えて、 一応の区切りをつけるように計ったのである。次にその 出版年次及びその章立てを示す。 ◎芭蕉俳諧の精神 昭和四十五年十一月三十日刊、 消水弘文堂、 A5判 八頁、 八、 五00円 序にかえて 第一_一章 芭蕉俳諧の研究法 芭蕉俳諧の性格 芭蕉俳諧の手法 芭蕉俳諧の美的様相
『芭蕉俳諧の精神」
一、 0八 第四章 蕉風の連句の手法とその付合の美的様相 結語 追考 引用研究文献索引 参考文献 本書収載論文 本嘗以外の関係論文 あとがき 0二版 昭和五十九年三月三十B、 一八、 000円 「芭蕉俳諧の精神」再版の序六頁、「芭蕉俳諧の精神」補遺 八頁を加つ。o
_二版 平成三年十二月十五日、 二版の補足を脱落したため、 改めて「芭蕉俳諧の精神総集 邑に再掲 ◎統芭蕉俳諧の精神 昭和五十九年二月二十八日刊` 清水弘文堂、 A5判、 一、 00 0頁、 一三、 六00円四巻シリーズを完結して
赤
羽
学
54-第四章 第三章 第二章 第一章 序 第四章 第三章 芭蕉俳諧の表現 芭蕉俳惜の原典 芭蕉の人生と俳諧 芭蕉の作品の解釈と鑑賞 芭蕉の作品の成立 芭蕉の伝統精神の受容 第五章 芭蕉における文芸理念の確立 第六章 俳諧とことば A付録>小論 後記 ◎芭蕉俳諧の精神総集篇 平成六年二月二十八日刊、 改訂版十一月三十日刊、 清水弘文盆、 A5 判、 一、 四二四頁、 三八、 000円(消費税こみ) 践 附録 本害収載論文 本書に関係 する論文(昭和四十五年三月以 降) .本薔に関係する研究発表(昭和二十九年以降〉 補足 後記 引用研究文献索引 「芭蕉俳諧の精神 j 「続芭蕉俳諧 の精神」綜合索引(和歌・俳句索引) 〇芭蕉俳諧の精神拾遺 平成三年三月三十一日刊、 清水弘文堂、 A5 判、 九五六頁、 一 八、 000円(消費税五四0円) 参考篇 7 項目 和歌1 3警簡 4漢詩 第四章 索引篇 第三章 1 「芭蕉俳諧の精神拾遺 j 引用研究文献索引 2「芭蕉俳器の精神総集篇 j 引用研究文献索引 3 「芭蕉俳諧の精神」補遺訂正 4「続芭蕉俳諧の精神」補遺訂正 5 「芭蕉俳諧の精神拾遺 j 補遺訂正 6 「芭蕉俳諧の精神 j 再版の序 7 「芭蕉俳諧の精神 j 補遺 8 「芭蕉俳諧の精神拾遺」収載文献 9 「芭蕉俳諧の精神総集篤 j 収戟文献 以上の如く、 私は第一書以来、「芭蕉俳楷の精神」なる書名を 維持し統けた。 それは私の主眼が一貰して、 芭蕉の精神を俳諧と 芭蕉の文芸 芭蕉に後続する文芸 綜合索引 2俳句 第二章 第一章 論考篤 序 5 人名 6 書名 作品をとおしてみた芭蕉の年謹 芭蕉に先行する文芸 55
-して綴られたその作品の中に追求することにあったからである。 その題辞は岡崎義恵先生の揮亮にかかわり、 それを最後ま で使い 統けることができたのは、 ひとえに先生の御導きの賜物であると 思っている。 一概に百薫俳諧の精神』と言っても、 論を重ねるにつれて、 進展があった。「正篇」はいうまでもなく理念が中 心であったが、 その執築中に文献に対する疑念が湧き、 またその中で誤った文献 操作をした失敗に鑑み、「続篇 j においては、 作品の成立と原典 の追求を中心に据えた。芭蕉の紀行文・俳文・俳書の類で、 私の 研究によって、 あらたに見替えられたものが多くあった。『鹿島 詣』『虚栗」「雪まるけ」はその最たるものであった。 「拾遺篇」においては、 芭蕉の人生と古典或いは古人とをオー バーラップしてみる方向に目が及ぴ、 特に故郷を追われた涙泊者、 就中菅原道真と木曽義仲への芭蕉の同情と共感とを見出したのは、 大きな成果であった。 また同時代人に対しても同様で、 東本願寺 十四世琢如上人の第二子琢慈(俳号古益)の不遇を慰めるために よまれたのが 「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」(野晒紀行)の句 であったとする第三 章第一節「『野晒紀行 J , の桑名の条の成立」 は是非読んで欲しい一篇である。 また 作品の解釈・鑑賞•読み方 .に意を注いだのも同書の特色である。 初め「拾遺篇』をもって一応の区切りをつけるつもりであった が、 そ れ が厖大になり過ぎ、 索引やその他の附属物が入らなく なったので、 いっそもう一密を成し、 索引も完全にして世に出そ うと計画したのが『総集篇」である。平成五年度は、 私が定年に よって岡山大学を退く年にも当たっていたので、 その最後の日を 目標に準備を進めた。 まず論考簾の第一章であるが、 これは普通の歴史的伝記的な年 譜ではなく、 作品の解釈を通して得られた年譜で、 記録に出て来 ない芭蕉の閲歴ないしその心情を知るのに役立つであろう。例え ば、 寛文七年夏に網纂された北村湖春の『続山井」に戟る「岩霧 閑染むる祖やほととぎ朱」の句は、 その前年の四月二十五日に他 界した藤堂蝉吟の追悼句ではなかったかと思う。岩躍閑を真赤に 染めるほととぎすの朱の涸に、 故主を思う芭蕉の万肝の酒が感じ られる。 また従来制作年次不明とされたきた「鶯や柳のうしろ藪 のまへ」(統猿蓑)の句は、「鶯」に芭蕉自身が寓されていると見 ると、 元禄四年冬江戸に戻った芭蕉の定住の居を持たない不安定 なさまが背後にあるものと推測される。 よってこれは、 元禄五年 一月年頭の作である。 第二章は「古今集」『新古今集」等に見られる和歌の解釈、「方 丈記 j 「徒然草」に綴ら れた中世の隠者思想、 連歌の特色、 貞門 俳諧の読解を通して、 芭雀�への流れを辿ったものである。特に第 二節「「を」を含む「の」の用法」 は、 枕詞や序詞を導く「の」 の中に、 下にくる動詞が他動詞で「を」 を要求する場合、「を」 の機能が含まれると説いたもので、「の」の解釈 に新生面を開い 56
-たつもりである。 〗 第 三章は、 二十三節にも及び、 やや羅列的になったが、 貞享五 年二月、伊賀の新大仏寺で作られた芭蕉の「丈六」の句をめぐっ ての今栄蔵氏との論争(第五、 六、 七、 八節)を中心に、 従来あ まり触れられて いな いテーマを取り扱った。 例えば、 第十二節 「芭蕉の「を」の用法」は、 芭花�の俳文「洒落堂記」の一文「長 柄の花を髭にかざして、 鏡山は月をよそふ」の「を」の用法から 切り込み、「を」によってイメージを重ねてゆく芭蕉の表現手法 全般に及んだものである。 また第十八節「芭蕉と党錢」、 第十九 節「芭蕉と道元」は、 故郷を喪失した僧侶の運命と芭蕉のそれと を重ねてみた もので、 「拾遺」の第 一章 に繁がる。 第二十二節 「切字論」は、 紙面不足であったが、 芭蕉以前の切字の「ゃ」は、 疑問をこめた見立てで、「ゃ」の前後に意味の連絡が ある。 それ に対し、 前件と後件と を完全に切 断する近代的意 味の 切字の 「ゃ」は芭蕉の『野晒紀行」あたりに始まる新しい手法であると 説いたものである。 これなどは今後書き足す必要があると感じて いる 。 第四章は、 芭蕉の流れを受ける燕村・一茶・子規の俳風の特色 を明らか にした。簡単に言うと、 蕪村は世俗を超えたところに俳 諧的世界を築き、 一茶は対象をすべて自分の境涯に引き寄せて俳 諧化する。子規は大むね蕪村に倣 い、 新たに写生の手法を導入し て客観的に作句する。 これらに対し、 芭蕉は、 自然に入る姿勢を 自己本位を貫く。 先人の旧套を脱する。 いうまでもなく私はこれに基づいて研究を統けてきた。 これから 学に志す人々の指針ともなればさいわいである。 最後に、 私のこの四巻のシリーズは、 すぺて国庫補助のお世話 になったことを付け加える。 国民の税金を費やしている からには、 いいかげ んなことはできないと肝に銘じている次第である 。 4 3 とり、 それ と心情的に一体になった境地を吟ずる。 これは、 蕪村 以下近代の俳人の遠く及ぴ得ないところである。芭 蕉に帰るには、 芭蕉の頃の、 自然と人間とが渾融した状態を復元しない限り、 そ の実現は不可能であろう。 索引は全四巻の綜合索引で、 その制作に当った詫君には多大の 苦労をかけた。 三十八年に亘る岡大時代のけじめとはいうものの、 よい弟子に恵まれた冥利と思って感謝している。殊に項目索引は、 私の全著作を烏諏す るの に便利である 。 その中に、「芭蕉研究の 態度」として次の四箇条があげられてある。 娯りは速に正す。 原文の腺諏゜ 2 (安田女子大学教授) 57