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芭蕉の月の句 : 西行との比較において

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Academic year: 2021

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-西

二 両 者 . の 共 通 性 西行の﹃山家集﹄を四季別に見ると(日本古典文学大系本によ る)'春一七三首'夏八〇首'秋二三七首'冬八七首で'秋の歌が 最も多い。秋の歌の内'月をよみこんだ歌は'一一六首で'秋歌全 体の約半数をしめている。 芭蕉の発句を見ると(日本古典文学大系本による)'春一七九句、 夏二〇四句'秋二五五句'冬一七二句で'秋の句が最も多い (な お'句数は'諸本によ-異同があ-'﹃芭蕉大成﹄では'春二二〇 句'夏二三六句'秋三〇六句'冬1九九句となっているが'秋の句 が最も多いことは確かである)。秋の句の内'月をよんだ句は'六 二句で最も多-'秋句全体の約四分の一をしめている。芭蕉は、西 行ほどには月をよんでいないが'「月はまつほどもな-さしいで' 湖上花やかにてらす。」 (「堅田十六夜之弁」) には'芭蕉の心おど -が感じられる。また、素堂が' 我友芭蕉の翁'月にふけ-ていつとはわかぬ物から'ことに秋 を待わたりて他の求めなし。(﹃芭蕉庵三日月日記﹄) と述べているように'月に対する情熱がうかがわれる。 か-て、西行と芭蕉とは'秋の月に強-ひかれて最も多-よん だ。両者は'内向性と自在性とを兼備した詩人であって(﹃樟蔭国 文学﹄第七号所収「西行と芭蕉」参照)'澄んだ輝きを持つ神秘的 な秋の月に'其撃にと--み'自由に思索して'深い詩情のある作 品とした。また'月に'人間思慕の心も托している(重複を避け' 詳細は'次項の相違性と関連して述べたい)0 l 「 両 者 の 相 違 性 西行と芭蕉の月の詩を'それぞれ当代の他の詩と比較しっつ'相 違性について考察したい。

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92 -∃ 西行の月の歌では' いかばかや嬉しからまし秋の夜の月すむ空に雲なかりせば ゆ-ゑな-月に心のすみ-1て栗はいかにかならむとすらむ ながむればいなや心の苦しきにいた-な澄みそ秋の夜の月 など'「澄む」ということばが'多-用いられ'その類似語である 「清し」も用いられてiる。あるいは'それらのことばが直接見え な-とも'一首全体'月の澄明な情景を描き出して'月をあこがれ ている。 西行周辺の代表的な月の歌を'﹃新古今集﹄ (日本古典文学大系 本による) から見ると' うき身には詠むるかひもなかりけり心に-もる秋の夜の.月 慈 円 ことはりの秋にはあへぬ涙哉月のかつらもかほるばかりに 皇太后宮大夫俊成女 などといった感傷的な歌や' 秋の色はまがきにうと-成りゆけど手枕なるるねやの月かげ 式子内親王 今宵誰すず吹-風を身にしめて吉野の獄の月をみるらん 従三位頼政 たのめたる人はなけれど秋の夜は月みてぬべき心地こそせね 和泉式部 などの写実的な歌'さらに' 松島や潮くむあまの秋の袖月は物思ふならひのみかは 鴨   長 明 と い っ た 理 -つ っ ぼ い 歌 ' さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたし-うぢのはしひめ 定家朝臣 の抽象的な歌などがある。それぞれ特色があって'個性的ではある が'西行ほどに'内ふかく浸透させつつ'さら-とした澄明な味わ いの歌は見られない。そのことは'当代歌人中でも'西行の澄明な 味わいは'独自のものであったと言えよう。 芭蕉の月の句には'「澄む」ということばをよみこんだものはな -' 「 清 し 」 を よ み こ ん だ も の は ' 元禄二年つるがの湊に月を見て'気比の明神に詣'上人の 吉 例 を き -月清し遊行のもてる砂の上 の一句である。この句は'芭蕉の月の句の内'最も美しい秀作だと 思う。場所こそらがえ'この句と似通った味わいの西行の歌に'

清見潟沖の岩こす白浪にひかりをかはす秋の夜の月 がある。ともに'休言止めで'余情深い。芭蕉の句では'「清し」 と'直裁に述べている。さらに'申七'下五に'歴史の重厚味が月 光に照らされてきわだち'白砂のこぼれるような美しきが浮かびあ がって'絵画的である.西行の歌では'文学ジャンルの相違から' 「清見潟」 「白浪」 「ひか-をかはす」という美辞をつらねて'月 光の清らかさを表現した。そして'場所設定が'上の句から次第に I . . . I . . -︰ 亘 .

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- 93 -細部にわたり'第二'三旬日は音楽的で'第四旬日が上三句と結句 をつなぐ働きをし、結句は色彩的に美し-澄んだ月をすえた。一首 全体'音楽性と絵画性とが融合している。つま-'西行の歌は'よ り音楽的'間接的で'柔軟であ-'芭蕉の句は'よ-絵画的'直叙 的で'重厚であると言えよう。 由]蕉周辺の代表的な月の句を'﹃近世俳句俳文集﹄ (日本古典文 学大系本による) よ-見ると' 哲人のひる寝のたねや秋の月 月影をくみこぼんけ-手水錐 松にすめ月も三五夜中納言 鯛は花は見ぬ里も有けふの月 山寺に米つ-ほどの月見識 など'滑稽味はあるが'深みに乏しい句や' 名月よ今宵生るる子もあらん 此秋は膝に子のない月見哉 松永貞徳 野々口立田 安原貞室 井原西鶴 越智越人 伊藤信徳 上島鬼貫 など、しみじみとしているが'平凡な句であった。彼らには'芭蕉 I のような深みに乏し-'当代俳人中'芭蕉の重厚味が注目される。 また'芭蕉には' 月はやし相は雨を持ながら のような速度感のある句もあるが'西行の歌には速度感はな-' なか-1に時々雲のかかるこそ月をもてなすかざ-成け-と い っ た ' ゆ っ た -し た 味 わ い を 持 ち ' 流 麗 で あ る 。 さ ら に ' 西 行 の代表的な歌' ; ・ ・ ∵   ∵ ㌧ ・ ・ ・ [ ・ 睨 . ・ ・ . ・ ・ / ・ l : ; ・ r J . > ・ ト ・ 了 ・ : I r f こころなき身にもあはれは知られけ-鴫たつ沢の秋の夕碁 は'寂しさの流露した〝あはれ〃をとらえた。一万へ季節は異なる が'﹃冬の日﹄に見える' 田家眺望 カ ウ ツ ク 霜月や鶴の才々ならぴゐて 荷 号 の 付 句 ' 冬 の 朝 日 の あ は れ な -け -          芭 蕉 は、冬ざれのきびしさが鋭-浮かびあがる〝あはれ〃をとらえて' 彫刻的である。芭蕉の句は'より鋭敏で'西行の歌は、より流麗で あると言えよう。 動乱の世をそむいて出家した西行は' 諸共にかげをならぶる人もあれや月の洩りくる笹の庵に とよんで'人なつっこいが'草庵にいて友を待つ受身の姿勢が感じ られる。 慕はるる心やゆ-と山の端にしばしな入-そ秋の夜の月 という西行の歌も'受身的であると言えよう。これは'精神面の充 実をはかるために'外面的には'現実社会から逃避した西行らしい 姿勢であると思われる。西行は'清らかな自然を友とLt心寄りそ う親友の訪れを待っていたのであろう。芭蕉も'人なつっこいが' 於大津義仲奄 三井寺の門たたかぼやけふの月 とよんで'自ら出て行こうとする点'能動的である。 名月や池をめぐ-て夜もすがら

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- 94 という芭蕉の句も動的で'活気ある元禄時代を反映していると思 ^つ. 一方'前掲の西行の歌「ゆ-ゑな-月に心のすみ - て栗はいか にかならむとすらむ」といった'浮かれるような憧憶も'「ながむ ればいなや心の苦しきにいた-な澄みそ秋の夜の月」と'月に懇願 するような姿勢も'芭蕉の句には見られない。芭蕉は' 鎖あけて月さし入よ浮み堂 と'月光を愛で'あるいは'

秋もはやばらつ-雨に月の形 と言って'月の細い形に'晩秋の寂しさを微妙に感じとった-して も'西行ほどにあこがれ、かつ苦しんだ様子は見えない。そのこと は'西行は'より主観的で'芭蕉は'よ-客観的であったと言えよ AつO 以上'西行の歌は'.よ-主観的'受身的'音楽的で'柔軟'澄明 であり'浮かれるような憧憶が感じられる。一方'芭蕉の句は'よ り客観的'能動的'絵画的で'鋭敏'重厚である。当代の他の詩 や'両者の文学ジャンルの相違を考えても'西行の'浮かれるよう な憧憶と澄明な味わい、芭蕉の'能動的な姿勢と重厚な味わいと は'独自のものであったと思う。 三 ' 芭 蕉 の 摂 取 法 芭蕉が月をよんだ句数を'日本古典文学大系本によってしるす と'寛文年間一句、延宝年間三句'.天和年間二句、貞事年間十旬' 元禄年間四十五句'年次不詳二句とな-'合計六十三句である。そ の句数の最も多かった年は'元禄二年で'十三句見え'次いで'元 禄四年九句'元禄元年七句とな-'他は五旬以下であった。元禄元 年及び二年を加えると'二十句とな-'月をよんだ全句数の約三分 の 一 を し め る 。 も っ と も ' こ う し た 句 数 は ' 諸 本 に よ -多 少 異 な る が'元禄初年に月の句を最も多-よんだことは'確かである。作品 の質も'初期の言語遊戯的段階を脱して'次第に'思念の深さと詩 情の豊かさとが見られた。多田裕計氏は'「月を求めゆ-芭蕉」と して' ①「鹿島の月」 (四十四歳) - 月を追い求める捨身風狂の時 代 ㊥「更科の月」 (四十五歳)・・「月に証せられる心のゆとりと 自然随順の時代 ③「敦賀の月」 (四十六歳)1月にあらず己れにあらず、月 光と自己とが融合交流する'不易流行精神の開眼時代 の三つを焦点とされた (﹃芭蕉その生活と美学﹄一〇七ページ参 照)。つま-'貞享四年'元禄元年'元禄二年庵ピークとするもの で'月の句数の多い時期とも一致している。また'芭蕉が'花の句 を最も多-よんだ年を見ると'元禄元年で'十六句に及び'次いで 元禄三年の七句'他は五句以下であった(日本古典文学大系本によ る)。かくて'元禄初年は'詩精神の高揚した時期であったことが わかる。

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-95 -・ 「   . . . I ; . ・ p . . i J ・ ∴ 蚊 ト 1 -・ p . ・ J -I _ 1 , 、 -ぎ ー . _ . I -. ー . , h l l h ー 4 . L d 次に'西行の影響を受けたと見られる芭蕉の月の句を見たい。 とhソゐ 暮て外宮に詣侍-けるに'一ノ華表の陰ほのぐら-御燈処 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ば か り 々に見えて'また上もなき峯の松風身にしむ計'ふかき心 を起して みそか月なし千とせの杉を抱-あらし(貞事元年作) の前書は'西行の歌「深く入-て神路の奥を尋ぬれば又うへもなき 峯の松風」によった。芭蕉は'西行の歌をふまえて'月のない闇の 大景をとらえ'巌粛な気分を深めた点'創造力を思わせる.また' 雲折-\1人をやすむる月見哉(貞享二年作) は'西行の歌「なか∼・、に時々雲のかかること月をもてなすかざり なりけり」をふまえて'一句全体'直哉に表現して、俳詣文学とし た 。 柴のいぼとさけばいやしきななれどもよにこのもしきもの にぞ有ける ヽ ヽ ヽ ヽ このうたは東山に住ける僧をたづねて西行上人のよませ給 ふよLt山家集にのせられた-。いかなるあるじにやとこ のもし-て'ある草庵の坊につかはしける しぼのとの月やそのままあみだ坊(年次不詳) は'西行の いにしへ比'東山に阿弥陀房と申しける上人の庵室にまか りて見けるに'何とな-あはれにおぼえて詠める 柴の魔と聞くは-やしき名なれどもよにこのもしき住居なりけ h ソ にもとづいて'柴の庵に住む主の清月のごとき心境をよんだ。ここ にも'芭蕉の内ふか-西行が住んでいたことを思わせる。しかも' 西行の歌をふまえつつ'柴の扉にさす月をよんだところが'芭蕉の 創造である。 さらに' ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 野の駒'ところえがほにむれあ--'またあはれな-0(中略) ヽ ヽ ヽ 寺にねて誠がほなる月見哉(貞享四年作﹃鹿島紀行﹄) から思いついて'芭蕉作品に見える「何々顔」を調べてみると'他 に ' ヽ ヽ ヽ ヽ 山吹の露菜の花のかこち顔なるや (天和元年作) ヽ ヽ ヽ 菜畑に花見顔なる雀かな(貞享二年作) 四条の川原すずみとて夕月夜のころよ-有明過る比まで'川 中に床をならべて夜すがらさけのみもの-ひあそぶ。をんな は帯のむすぴめいかめし-'おとこは羽織ながう着なして' ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 法師老人ともに交'桶やかぢやのでしこまで'いとまえがほ にうたひののしる。さすがに都のけしきなるべし 川かぜや薄がききたる夕すずみ (元禄三年作) があった。ところで、蕉風革新派と言われた才暦'鬼貫'言水'信 徳'素堂、釆山の句にも'「何々顔」という表現は'全-見えない (﹃元禄名家句集﹄による)。「何々顔」は'当代俳人中でも'特に 芭蕉好みの表現と言えそうである。 そこで'西行等の歌に見える「何々顔」と比較したい。「何々 顔」は'西行好みの表現であったらし-'古典和歌でも'﹃山家

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-96 -集﹄に最も多-見え'十四首である (日本古典文学大系番号4・ 1-3・1-7・1-1・1-6・2-4・2-8・3-9・4-5・6-5・6-8・6-0・6-0・1018)。芭蕉の 用いた「かこち顔」は'﹃山家集﹄6-8「なげけとて月やは物を恩は ヽ ヽ ヽ ヽ するかこち顔なるわが涙かな」の他、﹃風雅集﹄や﹃読後拾遺集﹄ に見え'「花見顔」は'﹃山家集﹄6-0の「よもすがら月を見顔にも てなして心の闇にまよふ比かな」の「月を見顔に」と類似発想であ る。「誠がほ」は'﹃山家集﹄になく'﹃風雅集﹄に見える。 と こ ろ で ' 「 と こ ろ え が ほ 」 や 「 い と ま え が ほ 」 は ' 他 の 文 献 (﹃国歌大観﹄ ﹃雅言集覧﹄や'日本古典文学大系・索引等)に見 えない。しかし'芭蕉が'「いとまえがほ」と述べた頃(軽みを志 向した頃でもあ-'軽みは'西行にもとづ-とされる谷山茂氏の説 ∧大阪市立大学﹃人文研究﹄第三巻第八号∨を想起したい。)∼ 愚眼故能人見付ざる悲しき二㌧ 二たび西上人をおもひかへした る迄二御座候。(元禄三年四月十日付 千川宛書簡) としるLt西行からの深い影響を再認識している。そのことを思い ヽ あわせると'「いとまえがほ」は'﹃山家集﹄3 -9の「こよひはと心 ヽ ヽ 得顔に澄む月のひか-もてなす菊の白露」や6-5の「月をみる心の節 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ を告にしてたよ-得がほにぬるる袖哉」等といった西行の表現にヒ ントを得て'芭蕉が造語したのではなかろうか。 っま-'芭蕉俳譜を通じて'天和元年(芭蕉三十八歳)は'新風 への動きが見え'句境の深ま-を示す年として注目されるが'ちょ ぅどその年に'自ら'西行好みの「何々顔」をそのまま取-入れ た(かこち顔)。次いで'貞享二年(芭蕉四十二歳)には'西行の 表現を学びつつ'そのままの形では摂取しなかった点に'一段の進 歩を見せている(花見顔)。貞享四年には'﹃山家集﹄以外の歌集 からとって'西行にとらわれない境地を開いた (誠がほ)。「とこ ろえがほ」は'芭蕉が他に学んで'造語したものであろう。前述の ご.とく'元禄三年(芭蕉四十七歳)には'「何々顔」においても' 西行へと回帰しっつ造語したと考えるのが自然であろう(いとまえ がほ)。その前年である元禄二年が'西行五百歳忌で'奥の細道の 旅も'西行によるところが多いことは'周知のとおりである。元禄 三年には、さら北拍車をかけて'西行へと傾斜しっつ、新境地を開 拓したものと思われる。 以上'芭蕉は'西行から多-学び'元禄初年の詩精神高揚も西行 によるところが大きいのであるが'たえず創造をめざしていたこと がわかる。 一-抹■tt一一一■.T. t J -, . u T                 4 1 一 †

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