314 (1)
芸術は自らの内面の美的理念を表出する営為であるが、その際、技術によって作品という感覚体を介在させなければ、その機能を全うすることはできない。芸術の本質は、内なる美的感動を外部に向けた表現、すなわち技術で
ある。作家の芸術理念を表現する媒体となる作品のスタイルをここでは表現様式を呼ぶことにすれば、芸術の表現
様式は、その技術の種類によるジャンルを問わずさまざまである。まず、叙景、叙事、嘱目、写実、といった表現様式があるが、これらは眼の前の事物を対象とした客観的な描写 様式である。たとえば、絵画なら風景画や静物画といった叙景画、詩なら叙事詩あるいは写実詩、文学なら歴史小
説ないし伝記小説、記録文学あるいはノンフィクション、音楽なら描写音楽あるいは標題音楽、等である。つぎに、叙情へ感情表現といった様式が考えられる。これらは、内面の主観的な理念の表出の様式で、自己充足的な芸術表現をめざす。たとえば、文学ならフィクションあるいは観念小説、詩なら叙情詩、絵画なら抽象画あるいはシュールレァリスム、音楽なら絶対音楽あるいは無調音楽、等がこの表現法を採る。また、象徴、隠嚥、暗噛、比嚥、あるいは寓意、類比といった表現様式も論じられているが、これらをどのよう芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点
竹内
昭
芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点
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以上で数え上げたさまざまな表現様式は、体系的な分類ではなく、ここでの主題を浮かび上がらせるために、参考のために志意的に列挙したまでである。表現様式の分類は論者によってさまざまで、これについての検討はまた別の主題としなければならない。もちろん、これらの様式が単独に使われる場合もあるとしても、むしろ、多くはさまざまな様式が複合して、複雑な作品の性格を構成している。また、芸術のジャンルによっては、その分野特有の制作技法上の制約があって、これらの表現様式が等しく用いられるのではないことはいうまでもない。ここでは、最後に挙げた自己描写という表現様式に注目し、その視点を〈自己言及性〉と規定して、その表現法の意義を芭蕉の発句に即して吟味する。その意図で、ここでは、〈自己言及性〉の視点で読まれたと見なされる句
を通覧し、芭蕉の芸術の本質の一端を探り、広くはく自己言及性〉を原理とする芸術哲学の一つの可能性を試みて
表現する手法である。 に排列するかl鬮列に置くか、上位概念・下位概念に分類するか、その場合もどれを上位としどれを下位として括るかlは、論者によって一様ではない.いずれにしても、これらの表現様式あるいは修騨法は、多かれ少癒かれどの芸術ジャンルにも適用される。さらに、自己描写という表現様式もあり、これは、自らの姿を素材として自己表現を目指す手法である。文学な* ら自叙伝、絵画なら自画像がその代表的なものである。》」れは、象徴的表現法の一つということができ、特殊を描いて普遍を表現する技法である。すなわち「自己の姿」という特殊を描いて、そこに作家がもつ芸術理念の普遍を*最高の芸術表現を象徴的(ご日す。]】⑫9)と規定したのは、シェリングである。彼によれば、象徴的表現法は、図式(、sの日:⑪日巨⑪)と比嶮(シ]]の岨○国の)の総合である。前者は、普遍が特殊を意味する、すなわち特殊が普遍を通して直観されることであり、後者は、逆に特殊が普遍を意味する、すなわち普遍が特殊を通して直観されることである。普遍と特殊が区別されずに、絶対的に一つであるときに、それは象徴的なものとなる。そうしてシェリングは、芸術は本質的に象徴的であるが、絵画は図式(化)的な表現法をとるのに対して、音楽は比嶮(化)的な表現法をとり、彫刻はそれらの総合として象徴的であるという。(の9の]冒碩・句・三』・喘ぎ』。②8蔑・且亀炭冨園昇シニ頤の曰の】ロのH『の】]・旨ら&。一一費瞬三句爵P三目・旨の『]ロロ』首白⑪○日。【》⑬.出目己一gpQ」①ゴ》国の鳥一切:の『の『|僧晋目Cきき目・一戸。m・冨皀口Cすのご・による)
(3)
312
かって筆者はこう書いた.l「ある思想家の思索の全体像を理解するためには、その思索の時代の流れに変化
* が認められればその後を追うのが一つの方法である。しかし、その変容が何段階に区分されるかは、その思索の理解のための目安であるから、人によって異なるのは当然で、これが絶対に正しいという区分はない。しかも、変化の基準をどこに置くか、すなわち大きく括る大概念とするか、その中に含まれる小概念にするかで時期の数え方は一変してしまうから、一筋縄ではいかない」(「西田幾多即」『二○世紀の思想家たち』二○○四年、梓出版社)。ここで「思想家」を「芸術家」、「思索」を「創作」と言いかえれば、そのまま芭蕉の場合に当てはまる。*この時点では、二つの方法」と控えめに書いたが、むしろ「方法」に〈有力な〉あるいはより強調して〈本質的な〉という形容句をつけた方がよかったかもしれない。ある思想家の、あるいはある芸術家の生涯をかけて探究した理念は、その思索あるいはその創作の変化の流れの全容の中で、その本当の姿を育み顕わにしていくといっていいでからである。西田のあと芭蕉を読んでいよいよそのことを確信するにいたった。芭蕉の作風の変容ないし展開の区分けについては、従来研究者によってさまざまな説があり、一様ではない。ここでは、芭蕉の創作の軌跡の全容を把握する手がかりを見るために、その時期区分を簡単に検討してみよう。ここは時期区分そのものの研究の場ではないから、参考のため、多段階に分けるもとのして今栄蔵説(使用本)、少段階に分ける例として佐藤信衛説(参考文献)の二例をあげるにとどめる。 * みよう。
*筆者は、ここで主題とする〈自己言及性〉の原理については、その一般的な意義、さらにそれを原理とする哲学の可能性を、哲学のいくつかの部門にわたって考察した(『〈自己言及性〉の哲学l知の枠組み転換のために」二○○二年、梓出版社)。この論文は、そこで論じた芸術哲学の展開のための一つの試論である。
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(4) 芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点 311
前者は、全体を八期に分け、⑪貞門風(『貝おほい』)、②宗因風(談林風)、③転換期、側新風樹立I野ざらしの旅(『野ざらし紀行』)、⑤貞享ぶりl超俗唯美の句境、⑥旅と貞享ぶり(『笈の小文」『更科紀行』、、新たなる転生(「おくのほそ道」から『猿蓑」へ)、⑧庶民詩の創造lかるみの深化、としている。今によれば、Ⅲから②までを模索期、③を独自の句風の萌芽期とみなし、これを「誠の俳譜」すなわち芭蕉がめざした本来の句境への前段階とする。さらにそれを受けて、「誠の俳譜」の発展段階は三期にまとめられる。まずその句境への第一歩を踏み出すのは、側の『野ざらし紀行』(貞享元年、一六八四年、四一歳)の旅からで、このとき芭蕉の純粋詩としての基本的性格が定まったとする。さらに、⑤から⑥の貞享期に超俗的な唯美主義へと飛翔する。これらの段階を「誠の俳譜」への第一期とすれば、第二期は、、の『おくのほそ道』の旅を経て『猿蓑』にいたる時期で、ここで唯美主義の弊を超克して、現実的なものへの回帰を志す「かるみ」が展開された。さらに第三期に当たるのが⑧で、ここで、第二期の「かるみ」の風調を徹底して深化し、日常の平俗な言葉の中に実人性の真理が求められた。「かるみ」とは、今が芭蕉自身の言を借りてまとめるところによれば、日常の俗語で日常卑近な場に推移する人間や風物に新しみを探ることで、その表現は「軽く」ても、繰り返し玩味すればするほど「新しみ」や「意味深きところ」が見えてくるような作のことである。後者は、芭蕉の求めた芸術理念を「蕉風」とし、その発展段階を三期に分ける。第一期は『野ざらし紀行』期で、ここに前年の『虚栗」の句風を脱皮して、ようやく芭蕉独自の句風の萌しが見られるとする。第二期は『猿蓑』期(元禄四年、’六九一年、四八歳)で、ここで『曠野』とも『おくのほそ道』とも違う新風が試みられた。最後の第三期は『炭俵』期(元禄七年、一六九四年、五一歳)で、ここに蕉風が完成されたとみる。ただし、佐藤は、第一期を大変化と見、あとの二期ははじめの変化の小変化にすぎないとし、最初の大変化の中で醸し出されたのが芭蕉風で、これは『野ざらし紀行』の旅の間に徐々に出来上ったという。こうして、芭蕉は自ら求めて作風をつぎつぎに変化させ、貞享初年の旅の間に句風は徐々に変わり、やがてまったく新しくなった.では、求められた「蕉風」とは何か.佐藤は簡潔にこういう。l「蕉風と一一一口われるものが他
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310
これは、貞享四年一○月から同五年四月(一六八七~八八年、四四~四五歳)にかけての旅をもとにして成った紀行作品(宝永六/一七○九年刊)の冒頭の部分である。この時期は、貞享元年『野ざらし紀行』の新風樹立を経て、それがさらに洗練される「誠の俳譜」確立期に当たる。「百骸九駁」とは『荘子』「斉物論篇」にいう「百骸九騒六蔵」のことで、百の骨節、九つの穴、六つの内臓、す とちがうのは、〔略〕何より詞より先に実感を重んじることである」「芭蕉がひそかに求めたのは俳譜に実を備えるということで、風体を改めるということは心になかったように見える」「俳譜は耳目がとらえる景物を写し、そこにまたこころの動きを寓することである。じじつ芭蕉のその後の作品はすべてそのようなものであり、そのように読んでよいものである。句を作るにも読むにも、故語故事の知識はいらない。俳譜は詞ではなくて、実物実感でなければならない。〔略〕故語も知らないのが実物であり、その詞を求めれば俗語の外にないのである。つとめて俗事に目をつけ、俗語を用い、そしてまた常に遊びの気持(滑稽)を忘れずに詠んだのである」(「芭蕉捜(三)」)。これで見ると、両説とも核心部分を三期に分ける点、またその変化の過程の見方も大枠では一致している。さらに、その求める先の精神も、前者では「誠の俳譜」といい、後者では「蕉風」といっているが、その中身は「日常の平俗な言葉」「俗語」で同じである。では、その精神の根底は何か。それを芭蕉自身の言葉で敷桁してみよう。
ひやくがいきういうふうらばう百骸九駁の中に物あり、かりに名付て風羅坊と言ふ。誠にうすものの風に破れやすからんことを一一一一口ふにやうはうてきあらむ。かれ狂句を好むこと久し・つひに生涯のはかりごととなす。ある時は倦んで放榔せん一」とを思ひ、ある時は進むで人に勝たむことを誇り、是非胸中に戦うて、これが為に身安からず。しばらく身を立てむことを
か、願へども、一」れが為にさへられ、しばらく学んで愚をさとらんことを恩へども、これが為に破られ、つひに無能無芸にして、ただこの一筋につながる。(「笈の小文』)
芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点
(6) 309
芭蕉は、元禄二年(一六八九年、四六歳)三月に江戸を出立、日数一五○日、旅程六○○里にわたる大旅行を完遂
したが、『おくのほそ道』は、そのとき作られた句文をまとめた紀行作品(元禄七/一六九四年、清書本完成)で、これはその冒頭を飾る文章である。ここで芭蕉は、去来する月日、年々歳々、すべて永遠の旅人だといい、旅こそ真の常住の姿だという自らの世界観を表明し、自分が旅に恋焦がれる心境を語る。旅とはまさに自分自身を見つめる最良の営みとすれば、この文章の背後にもまた〈自己言及性〉の視点が流れていると読むことが可能であるし、この紀行文全体も〈自己言及性〉 こから芭蕉の俳譜は「一一一一一転換し」(今)はじめる。同じ精神は、つぎの▽なわち人体を意味する。その中に「物あり」とは、芭蕉が自らの身体の中に自分の心があるという感慨を述べたも
ので、ここには明らかに自らが自らを客観的に見るという〈自己言及性〉の視点が見られる。続いて、「かれ狂句を好む」といって、自分は狂句すなわち俳譜を一生の仕事とするという決意を表明する。「かれ」とは風羅坊たる芭蕉自身のことで、ここにも自らを客観視して言及する姿勢〈自己言及性〉の視点の現れが読み取れる。この文章いつに続いて、西行の和歌、一不祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶を引き合いに出しながら、「その賃道するものは一なり」といって自らの俳譜の根本精神を語る。『笈の小文』の冒頭の文章は、あげて「かれ」という〈自己言及性〉の視点から、自らの生涯の進むべき道を選択する決意を表明している。これはまた「誠の俳譜」への決意でもあり、ここから芭蕉の俳譜は「言語遊戯の戯笑文学から、自然と人生と言葉の特性とに深く根をおろした純粋詩へと大きくつきひはく土いくわかくたびぴとおい月pHは百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらへて老を迎ふる老ひびへんうんは、ロu々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。(『おくのほそ道』) つぎの文章にも読み取れる。
(7)
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この仮説を論証するために、ここで全芭蕉発句の中で、〈自己言及性〉の視点で詠まれたとみなされる句を摘出して吟味してみよう。作風の変容の時期区分は、前述の今説を若干整理したうえで、ほぼそれに即しながら検討を進める。〈自己言及性〉の句の作風の変化こそ、この区分を支える典型的な要素と読めるからである。引用句の句尾に記されている数字は、使用本『芭蕉句集』に施されている句頭の通し作品番号で、引照の便宜のためにこれを付した。 の精神で書かれたと見なすことができる。これらの二つの紀行文、すなわち『笈の小文』と『おくのほそ道』は、三年間という短い期間に相次いで敢行された旅にもとづいて書かれたもので、前者では自らの進むべき道の理念を明かし、続いて後者では、さらにその理念を旅のうえで実現しようとする実践への決意を語る。両者に底流するのは、自己が自己を見つめるという〈自己
言及性〉の視点であり、この視点を実現するのは旅が格好の場である。この時期は、あたかも芭蕉独自の句風が展 開する段階の第一期の終わりから第二期に当たる。したがって、この〈自己言及性〉の精神こそ、「誠の俳譜」「蕉 風」を構成する要素の一つではないか、〈自己言及性〉の視点で読まれた発句を通覧することによって芭蕉の芸術
の本質の一端が見えてくるのではないか、というのがこの論考の仮説である。前に掲げた句九○は、朝の寝覚めに身の安全を確認して、謡曲の文言「あら何ともなや」をもじって借用し、お ばにきのふふくとじるあら何とみじなや昨日は過ぎて河豚汁俳譜江戸三吟延宝五/一六七七年・’一一四歳(九○)ばつくたうせいやど発句なhソ松尾桃青宿の春知足写江戸衆歳日一延宝七/’六七九年。三六歳(’○三) 一一一
(8) 芭蕉発句にみる〈自己言及性〉 の視点 307
どけているものであるし、後の句一○三では、宗匠の身分になった自らの境遇を祝う気分を無邪気に詠んでいる。 この二句は、最も早い時期の〈自己言及性〉の視点が見られるものであるが、「宗因風(談林風)」の時期で、自ら
をさらけだして泗落のめしているだけのもので、滑稽・戯笑が主体である。つぎに掲げる一八句(一二六~一八六)は独自の句風への「転換期」に入るもので、ここで詠まれたものは、本来
の意味での〈自己言及性〉の萌芽と確立が見られる。ろばらわ允櫓の声波一プ打って腸氷ル夜や涙武蔵曲延宝八/一六八○年。三七歳(一二六)あしたひとからざけか雪の朝独り干鮭を噛み得々ジリ誹譜東日記延宝八/一六八○年,三七歳(一二七)をぎかなばせを植ゑて一まづ憎む荻の一一葉哉続深川集天和元/一六八一年。三八歳(一四一)わつきわびざい侘びてすめ円呵侘斎が奈良茶歌武蔵曲天和元/一六八一年・三八歳(一四七)ばせうのわきたらひかな芭蕉野分Iして盤に雨を間ノ、夜哉武蔵曲同二四八)こだまわび、暮れ暮れて餅を木魂の侘寝哉天和二年歳旦発句牒同二五一)ぬしかな朝顔に我は飯食ふ男哉虚栗天和二/一六八二年。三九歳(一五六)つきじふよつかこよいわらぺ月十四日今宵一二十九の童部真蹟短冊同C五八)さらそうざかな世にふるみb更に宗祇の宿り哉真蹟懐紙一同二六○)よ志ごてん夜着は重し呉天に雪を見又》あらん真蹟短冊同(’六一)元日や思へばさびし秋の幕真蹟短冊天和三/一六八三年。四○歳(一六二)ぬし花にうき世我が酒門口く飯黒し虚栗同二六四)かな馬ぼ/、ぼくわれを絵に見る夏野哉水の友同二六九)あられふろがしわ綴聞くやこの身は多bとの古柏続深川集同二七○)しば笑ふくし泣くべI)わが朝顔の凋む時真蹟懐紙天和年間・三八~四○歳(一七四)
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これらの作風に共通するのは、現実体験から生まれた実感そのままの表現であって、現実から離れた観念や言葉 遊びの技巧から生まれたものではない。そうした実感を語る絶好の手段は〈自己言及性〉であり、これらの句はす べてそのことを明示している。こうした自らを語る視点こそ、「誠の俳譜」への目覚めということができる。こと に一六○「世にふるも」の句は、その精神の自らの表明であり、その前書きにある句文「〔略〕草庵のつれづれ、 手づから雨の渋笠を張りて西行法師の侘笠に習ふ」でさらにその精神を強調し、自ら進むべき道への決意を語って いる。今は、とくに一四一「ばせを植ゑて」と一七○「緩聞くや」と取り上げて、「これらの中にはもはや知巧の 影はない。沈静した文体の中に心がかよっている。これがこの模索期の中で芭蕉の探りあてた新俳譜の最初の典型
的な姿だったといえる」といっているように、「誠の俳譜」への転換期の典型句をいずれも〈自己言及性〉の句に的な姿だったといえる」見ているのは興味深い。さらに、この時期の術
さらに、この時期の典型的な句を取り上げて評釈してみよう。一二六「櫓の声」の句や一四八「芭蕉野分して」 の句は、これまでの句に比べて個性的であるが、自らの孤独感をことさらに強調して詠み込んで、若干感情過多な 主観的な自己観照の傾向が見られる。しかし、たとえば一四七「侘びてすめ」の句や一六九「馬ぼくぼく」の句に はlすでに一一一一浸した一六○も含めてl自らを濤的に突き放して眺める乾いた姿勢が読み取れる.繭者は、 表現は多少大げさであるが、自らを「月侘斎‐|と戯称し、新しい俳譜の精神である侘を求める心境を客観的に語る。 後者は、日盛りの夏の野を馬に乗ってのろのろと行くわれとわが身を一幅の絵の中に見るという情景であるが、そ の描写中には、自ずから自分を離れて自分を客観的に眺めるという、まさに典型的なく自己言及性〉の視点が込め
-られている。 はいかいかなほととぎす今は俳譜師な生害世哉つるは我がためか鶴食み残す芹の飯春立つや新年ふるき米五升 かしま紀行同(一八三)続深川集同(一八四)真蹟短冊貞享元/’六八四年。四一歳(一八六)(10) 芭蕉発句にみるく自己言及性〉の視点 305
以上の「転換期」を受けて、芭蕉が自ら求めた「新風樹立」の時期を形成するのは、つぎに掲げる句群二九○ ~四七一一)である。この時期を今説にもとづいて「誠の俳譜」への第一期(貞享元~元禄元年/一六八四~八八年)と みなして、その中を、さらに三段階の小変化に分けて検討する。 まず、核心期第一期のうち、第一段階(貞享元年~同二年)というべき時期を形成するのはつぎの諸句二九○~
一一五三)で、その中心となるのは『野ざらし紀行』の旅である。なお、一二七「雪の朝」、’五六「朝顔に」、一六四「花にうき」の句は、いずれも飯を食うという日常最も卑近 な自らの身辺雑事を客観的に描き、生ける人間的実感を詠むという「誠の俳譜」の原点を示していると見ることが
できる。かな野ざらしを心に風のIしむ身哉野ざらし紀行貞享元/’六八四年。四一歳ととぜかへ秋十年却って江戸を指す故郷野ざらし紀行同二九一)さんむつきけぶり馬に寝て残夢ロ伺遠’し茶の煙野ざらし紀行同二九六)みそからとせだあらし晦口u月なし千歳の杉を抱く嵐野ざらし紀行同二九七)手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜野ざらし紀行同(二○|)ぴば綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥野ざらし紀行同(二○二)●』ひのきがさ木の葉散ヲ○桜は軽’し槍木笠真蹟懐紙同(二○八)死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮野ざらし紀行同(二一二)わらんUかさしぐれこの海に草鮭捨てん笠時雨熱田敏筥物語同(二一九)しのぶ忍と□へ枯れて餅買ふ宿仇ソ哉野ざらし紀行同(二二一)
しぐ笠もなきわれを時雨るるか》」は何とあつめ句同(二二二)こが・わしちくさいかだ狂句木枯の身は竹斎に似たz》哉冬「の日同(二二三) 二九○)
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この時期の出発点となる『野ざらし紀行』の旅は、この紀行文の冒頭で表明する「無何」を目指しての旅であつむかうのさとた。「無何」とは、『荘子』「道遥遊篇」および「応帝王篇」にいう「無何有之郷」の}」とで、何ものもない村里、有無を超越し何ものにも束縛されない自由の世界、すなわち精神の理想郷である。この紀行を飾る、前掲冒頭の一九○「野ざらしを」の句は、その思想郷を求めての旅に出る悲壮な決意を語っている。しかし、それもただ主観的に自らの覚悟を語るのではなく、自分自身を突き放して、ひょっとしたら自分が旅の途上で「野晒しの白骨」となるかもしれないといい、自らの姿を客観的に形象化して描いている。この句とあわせて、二一一三「狂句木枯の」の句では、自らの内心の激しい思いをさりげなく隠して、自身を戯画化しつつ淡々と語っており、その姿勢は、まさに「戯画的自画像」(今)である。「狂句」とは、すでに『笈の小文』の冒頭の文章を引用して吟味したように、俳譜の別称で、俳譜をこのような別称で表現するところに、風狂に徹してわが道を行こうという決意が込められてい
とくにこの時期の『野ざらし紀行」で読まれた句には、旅中の自らの孤独な姿を、やや自虐的ながら、しかし淡々と他人が描くように、客観的に形象化して〈自己言及性〉の視点で詠んでいるものが目立つ。たとえば、一九六「馬に寝て」は、馬上の姿を一幅の絵のように描いているし、二一二「死にもせぬ」の句では、「野ざらし」を覚悟の旅であったのが、何とか無事であったとの思いが、やや感傷的に語られている。無事であったという安堵の思いは、すでに検討した、九○「あら何ともなや」と同じであるが、詩としての完成度の優劣は自ずから明らかであろう。また、一一二一「忍さへ」の句と二二八「年暮れぬ」の句では、自分が旅中に餅を買う姿を、あるいは笠をかぶ ると見ることができる。 年暮れぬ笠着て草蛙はきながらかきつばた杜若われに発句の思ひありしらけしばねてふ白芥子に羽もぐ蝶の形見哉しくわつ思ひたつ木曾や四月の桜狩り 野ざらし紀行同(二二八)
俳譜千鳥掛貞享二/一六八五年。四二歳(二四六)
野ざらし紀行同(二五二)
幽閲集同(二五三)
(12) 芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点 303
り草畦を履いたまま年の暮れを迎えてしまった思いを客観的に描いている。この時期の句には、総じて、荘子の哲学あるいは精神を背景とした『野ざらし紀行』の理念を基調とし、旅の前途に自身の「野ざらし」の姿を思い見る等、一種の気負いが見られる。しかし、そうしたいわば悲壮感を脱したのが、つぎの第一期の第二段階(貞享二・一一一年~同四年)を構成する諸句(二六○~三一五)である。
めで危いおい目出度き人の数にも入らん老の暮あつめ句貞享二/一六八五年。四二歳(二六○)いくしも幾霜に心ばせをの松飾胸ソあつめ句貞享三/一六八六年。四三歳(二六一)わずらく煩へば餅をも喰はず桃の花夜話ぐるひ同(二六五)
名月や池をめぐりて夜もすがらあつめ句同(二七二)かな座頭かL」人に見られて月見哉木がらし同(二七三)からひさご&㈲)のひとつ我が世は軽き瓢哉あつめ句同(二七四)かめよる瓶割るる夜の氷の寝覚め哉真蹟懐紙同(二七八)あん初雪や幸ひ庵にまかhソあるあつめ句同(二七九)酒飲めばいとど寝られぬ夜の雪俳譜勧進牒同(二八一)としいちい年の市線香回貝ひに山山でばやな続虚栗同(二八四)つきゆき月雪とのさばりけら’し年の馨あつめ句同(二八五)ろすかきば留守に来て梅一己へよその垣穂かなあつめ句貞享四/一六八七年。四四歳(二八九)われぬのせみころもいでや我よき布着たhソ蝉衣あつめ句同(三○四)なでしこ酔うて寝ん撫子咲けz》石の上真蹟短冊同(三○五)
うり瓜作る一君があれなと夕涼みあつめ句同(三○六)邸にばかなさざれ蟹足這ひのぼ翼》清水哉続虚栗同(三○七)
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この時期を、今は「超俗唯美の句境」と命名し、芭蕉は、荘子の自然観・人生観に深く沈潜して俳譜を純粋詩へと高めるべく、句作を実践したという。たしかに、ここにいたって、芭蕉俳譜の真骨頂たる「誠の俳譜」は、その基盤が整えられたと見ることができる。たとえば、二七二「名月や」の句は、月の光の下、月影を宿す池の端をただ無心に歩き回る自身の姿を詠んだものであるが、その光景を一幅の絵に仕立てて、それを外から見る〈自己言及性〉の目によって、独自の視覚的な美意識を描く。これは、すでに検討した一六九「馬ぼくぼく」の句に共通した姿勢である。二七四「ものひとつ」の句は、物を持たぬ自分の生活を文字どおり瓢々と描き、外なる身の軽さは、同時に内なる精神の自由關達さであるとの超俗の美意識を披瀝する。また、三○四「いでや我」の句は、身につけた紹や紗の類の夏の薄衣を詠んで身の軽さを表現し、それによって精神の自由闇達さを暗示して、前句と同じく、〈自己言及性〉を背景にした美意識を展開する。第一期の第三段階(貞享四年後半~元禄元年)、すなわちこの期の完成期を構成するのが、主に『笈の小文』『更科紀行』で詠まれたつぎの諸句(三二○~四七二)である。
ばつしぐれ旅人L」我が名呼ばれん初時雨ぬ寒けれど二人寝る夜ぞ頼条□しきばじゃう冬の日や馬上に氷ブC影法師薬飲むさらでも霜の枕かなやどしはす旅寝よし宿は師走の夕円勾夜すず旅寝して見iしや浮世の煤払ひ かな寺に寝てまこと顔な宝③月見哉
笈の小文同(三二○)
笈の小文同(三二四)
笈の小文同(三二六)如行子同(三三六)
熱田三歌仙同(三四一)
笈の小文同(三四四) 鹿島詣同(三一五)
(14) 芭蕉発句にみるく自己言及性〉の視点 301
からつえつきざか徒行ならば杖突坂を落馬哉笈の小文同(三四五)ふるさとへそを旧里や贋の緒に位/、年の暮真鎖懐紙同(三四六)てふ物好きや匂はい草にと+まる蝶新撰都曲貞享年間・四一~四四歳(三五○)かみきい紙衣の濡ろと4℃折らん雨の花笈日記元禄元/一六八八年。四五歳(三七二)きざらぎあらしかな裸には幸まだ衣更着の嵐哉其袋同(三七四)このほどを花に礼いふ別れ哉真蹟懐紙同(三七八)ひばりかな雲雀より元二にやすらふ峠哉笈の小文同(三八一)うたひ花の陰謡に似たる旅寝哉真蹟懐紙同(三八四)扇にて酒くむ陰や散る桜笈の小文同(三八五)
う危声よくば謡はうものを桜散る砂燕同(三八六)凸どくひび桜狩り奇特や、u々に五里六里笈の小文同(三八八)らちは肱きじ父母のしきりに恋し唯の声笈の小文同(三九四)巾行く春に和歌の浦にて追ひ付きたり笈の小文同(三九五)うしろ一つ脱いで後に負ひぬ衣更笈の小文同(三九六)くたびか草臥れて宿借フ⑨ころや藤の花笈の小文同(四○○)かきつばたかな杜若語る氷・旅のひとつ哉笈の小文同(四○三)まるね・足洗うてつひ明けやすき丸寝かな芭蕉翁真蹟拾遺同(四一二)あかざつゑ宿りせん蕊の杖になるロuまで笈日記同(四二五)いくか旅に飽きてけふ幾口uやら秋の風俳譜石摺巻物同(四三九)送られつ別れつ果ては木曾の秋更科紀行同(四四五)やせのち木曾の痩も+まだなほらぬに後の月笈日記同(四五九)
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その理念が〈自己言及性〉の視点をもって詠まれたと見られる典型的な句は、三二○「旅人と」の句である。これは『笈の小文』の出発に際して、この紀行全体の精神を、ひいては、この時期全体を貫く理念を表明したものと読むことができる。「時雨」によって冬の美意識を表現し、初時雨に濡れて出立する旅で風雅に徹しようとする侘びの心を語る。「我が名呼ばれん」には、まさに外の目で内なる自己を見る〈自己言及性〉の視点が隠されているとみることができる。その心は、「日々旅にして旅を住みかと」し、旅に興ずる侘び人の心情である。三二六「冬の日や」の句は、冬の寒風に晒されながら馬上に凍りついた影法師のように身をちぢめて旅行く自らの姿を客観的に描く。ここにもまた、〈自己言及性〉の目で外から自らを客観視し、あたかも一幅の絵のごとく描くという、芭蕉一流の手法がみられる。この手法は、すでに吟味した一六九「馬ぼくぼく」の句や、二七二「名月や」の句に共通であり、この三句に絵画的手法としての〈自己言及性〉の典型が見られる。三八一「雲雀より」の句では、自分が一休みしている峠の高さを場雲雀の位置と比較しながらやや誇張して詠み、 この期もまた旅の吟が主体となり、いく度かの旅の体験を通じて、いよいよ自らを客観的に見つめる〈自己言及性〉の視点が定まった時期といって差し支えないであろう。この時期の旅は、一種の悲壮感を抱いて出発した『野ざらし紀行』の旅と異なり、心境はおだやかで、余裕をもって自己を眺める姿勢によって、目指す俳譜の理念を獲得するきっかけをなしたと見ることができる。今は、この期の旅で読まれた句を、総じて「唯美的風調の基盤に立っている」というが、その精神の著しく表れているのは、ここに摘出したく自己言及性〉の視点をもって詠まれた句ている」というが、シであるといっていい。 みのぶとん行く秋や身に引きまとふ二一布蒲団韻塞同(四六こふゆごも冬寵りまた寄りそはん一」の柱尚白宛真蹟書簡同(四六五)壮序つきん米買ひに雪の袋や投頭市岫路通真蹟懐紙同(四七己こもむぐらさ’し寵ろ葎の友か冬菜売り雪まるげ同四七二
(16) 芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点 299
以上で「誠の俳譜」の第一期を形成する小変化を三段階に分けて吟味してきた。その流れを今の説に即してまとめてみれば、「反俗的風狂の侘びの美」の追求から、「超俗唯美」の句境を経て、「唯美的風調」に立って俳譜表現のあるべき姿を確立した時期ということができる。この流れは、いずれも旅という自己を客観的に見つめる〈自己言及性〉の場を通じて形成されたところに共通の特徴があるといっていいであろう。この第一期を経て迎えるのが、第二期(元禄二~元禄四年/一六八九~九一年)、すなわち「新たなる転生」期である。『おくのほそ道』と『猿蓑』で詠まれた句が、この時期を代表する。この時期の精神を簡潔に物語るのは、すでに検討した『おくのほそ道』冒頭の文章「月日は百代の過客にして……」である。ここで新たに旅に出る決意を語り、さらにその旅を通じて俳譜の真の道を究めようとする。この旅は、従来の旅に比して大規模であり、芭蕉はここに旅の集大成を意図し、ひいてはこの旅に自らの詩作の理念を磨く試みをなしたということができよう。芭蕉は、第一期で自らの進むべき俳譜の道を定めるが、これをさらに確かめようと決意して企てたのが『おくのほそ道』の旅であったといえる。まさにこの奥羽の旅に期待したものは、「話に聞き、古歌文章で知るにすぎなかつしのうた僻地の歌枕〔略〕を現地で確かめ、古典の世界に肌で触れる一」とによって詩嚢を肥やすため」(今)にほかならなかった。ここでは、その背景にはたらく〈自己言及性〉の視点でその精神を検証してみよう。すでに何度も述べたように、自己凝視、すなわち〈自己言及性〉の視点こそ旅の心を形成する主要な要素と考えられるからである。この時期を形成し、〈自己言及性〉の視点で詠まれたと見なせるものは、つぎに掲げる諸句(四七六~七四七)である。 行為を、瓢」感じられる。 やはり絵画的描写で景色の中にいる自己を客観的に描いている。三九六コっ脱いで」の句は、旅中での衣更えの行為を、瓢々と軽やかに詠んだもので、ここにもまた、どこか外に自らの姿を見据えながら興じる作者自身の目が
あさよたがかたこころ朝夜さを誰圭或つしまぞ片心桃舐集元禄二/一六八九年。四六歳(四七六)
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かみこかげろふの我が一眉に立つ紙子かな真蹟歌仙巻一同(四七七)だます汚れ紅梅や見ぬ恋作Z》玉簾桐葉宛真蹟書簡同(四七八)なうを行/、春や鳥啼き魚の目は涙おくのほそ道同(四八五)しばらくこもけ暫時は滝に寵z》や夏の初めおくのほそ道同(四九一)あしだかどでかな夏巾山に足駄を拝む首途哉おくのほそ道同(四九七)田一枚植ゑて立ち去る柳かなおくのほそ道同(五○三)せきもりくひ虹関守の宿を水鶏に問はうみbの何云宛真蹟書簡同(五○七)かさし主さつき笠島はいづこ五月のぬか肘ソ道おくのほそ道同(五一二)わらぢをあやめ草足に結ばん草桂の緒おくのほそ道同(五一三)涼しさを我が宿にしてねまるなりおくのほそ道同(五一九)あつみやまふくうら温海川山や吹浦かけて夕涼みおくのほそ道同(五三七)ひとつやはぎ一家に遊女ふい》寝たり萩と月おくのほそ道同(五四三)塚も動け我が泣く声は秋の声おくのほそ道同(五四八)
ロヮ愛きわれを寂しがらせよ秋の寺真蹟色紙同(五八七)や士しろゐでかごしぐれかね山城へ井出の駕寵借Z》時雨哉焦尾琴同(六○二)あふみ行く春を近江の人と惜しみけZ》猿蓑元禄三/一六九○年。四七歳てふわれさうU君や蝶我は荘子が夢心怒誰宛書簡同(六三○)
ちそう
わが宿は蚊の小さきを馳走かな
泊船集同(六四一)こちら向け我もさびしき秋の暮蕉翁句集同(六四七)しらが白髪抜く枕の下やきりぎ恥りす泊船集同(六四八)びやうかんよさむかな病雁の夜寒に落羊って旅寝哉猿蓑同(六五四)’-,
六 五、ン
芭蕉発句にみる 〈自己言及性〉の視点
(18) 297
四八五「行く春や」の句は、『おくのほそ道』の旅に出立する芭蕉を見送る人たちへの離別の句で、この紀行の 二番目に載る句である。ここでは、惜別の心を惜春の情に託して詠み、しかも自らの心の内を客観的に外からの目 で描いている。春を惜しんで鳥が啼き、魚が涙を流す、といった非現実な幻想的な描写が違和感を抱かせないのは、
かりみやこおしむ雁鯛脚きに京の秋に赴かん怒誰宛書簡同(六五八)おaごたつ住みつかぬ旅の心や置火燵俳譜勧進牒同(六六七)すずは色あらし煤掃は杉の木の間の嵐哉己が光同(六六八)はんじつ半pHは神を友にや年忘れ俳譜八重桜集同(六六九)人に家を買はせて我は年忘れ猿蓑同(六七八)ぶしやうかおこ不精さや掻き起され’し春の雨猿蓑元禄四/一六九一年.四八歳(六八五)くの肋衰ひや歯に喰ひ当てIし海苔の砂己が光同(六九○)
をざ虹竹の子や稚き時の絵のすさび猿蓑同(七○○)
のうわれ百やうぎやうし能なしの眠たし我を行々子嵯峨日記同(七○二)み屯づきふくぴやう水無同月は腹病やみの箸とごかな葛の松原同(七○六)
ばつあきかやよ超初秋や畳みながらの蚊帳の夜着真蹟懐紙同(七○七)
よれ。」よひ米くるろ友を今宵のR何の客笈日記同(七一四)
ひぐ草の戸や日暮れてくれし菊の酒笈日記同(七二五)こがらしふゆずま京に飽きてこの木枯や冬住ひ笈日記同(七四○)
よぎいだ夜着ひとつ祈り山山して旅寝かな真賦懐紙同(七四三)しぐれか江宿借りて名を名乗らすヲっ時雨哉真蹟懐紙同(七四四)かれをばなともかくJbならでや雪の枯尾花雪の尾花同(七四七)
296 (19)
五四八「塚も動け」の句は、前書きにあるように、地方の著名俳人の追善会に手向けられたものであるが、故人への追善の情に託して、自らの無常の心を客観的な視点で詠んでいる。以上『おくのほそ道』の中で〈自己言及性〉の視点で詠まれたと思われるものの何点かを選んで評釈を試みた。つぎに『猿蓑』を中心に、元禄三、四年期の句を吟味してみよう。六三○「君や蝶」の句では、「荘周夢に胡蝶となる」(『荘子』「斉物論篇」)を踏まえて、同じく荘子への傾倒者の蕉門の俳人との荘子の哲学談義を酒脱に詠み、自らの荘子精神への傾倒を示した。「荘周胡蝶の夢」を背景にして詠んだ句は他にも数点あるが、ここでは明らかに〈自己言及性〉の視線が見られる。六五四「病雁の」の句は、病を得て旅寝していたときの作で、夜空を渡る雁の群れから一羽舞い降りた雁の声を聞いて病気と推測し、そこにわが姿を投影して見る思いを描いた。これは自分と雁との観念的な比噛ではなく、芭蕉自身の姿が実感として雁に仮託されている。ここでは、自らの旅中の、しかも病気の孤独な姿を主観的に描くのではなく、外の目で客観的に〈自己言及性〉の視線で眺め、自らの姿を病気の雁に託して、そこに自己投影してい 作者自らの離別の悲しみの情を、そこに託して詠んだからにほかならない。ここにも、自らを客観視する〈自己言及性〉の典型的な視点が見える。五○三「田一枚」の句は、前書きにあるように、西行の故事にもとづく歌枕の確認が下敷きになっている。詠まれた光景は、その土地に住む人の田植えという日常の営みと、それを眺める芭蕉の旅中という非日常の姿であるが、そこでは、日常の生活時間と、非日常すなわち西行への懐古の情に沈潜する時間とが対比され、彼我の時間の経過の差が鮮やかに描出されている。五四三「一家に」の句、西行に憧れる世捨て人たる自分が、思いがけなく、萩と月にも讐えられる華やかな遊女と同じ宿に泊まり合わせた情景を、自ら興じているさまを詠んだものである。ここでも、日常者たる遊女と、風雅を志した非日常人すなわち超俗の人たる芭蕉が鮮明に対比され、その事態が自らの客観的なく自己言及性〉の視点で描かれている。
芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点
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第二期に詠まれたく自己言及性〉の視点の見られる句々を、主として『おくのほそ道」と『猿蓑」に即してこのように吟味してくると、その流れの中で、第一期の『野ざらし紀行』の風狂の精神が徐々に沈潜したものとなり、『おくのほそ道』において〈自己言及性〉の視点によってその精神が定着し、さらにその視点が『猿蓑』において「誠の俳譜」の新境地を円熟させたと見ることができよう。今によれば、芭蕉は、この期の転機となる『おくのほそ道」の旅において、古歌文章に詠まれた歌枕の時代を超越した悠久なる精神と、旅中に嘱目する現物の変化流転のさまをみて、そこに「不易流行」の思想に到着し、貞享ぶり(第一期)を脱皮して新たな俳譜の精神を開くにいたったという。それでは「不易流行」とは何か。今は、つぎのように簡潔にまとめる。 客観的な視点である。第二期に詠まれたように吟味してくるL ろ様が読み取れる。しかも、近江八景の一つ「堅田落雁」を意識して詠んだところに、絵画的表現の効果をもたらす独特の美意識が感じられる。六六七「住みつかぬ」の句は、転々と住み場所を定めずに暮らす漂泊の自らの心を、置き場所の定まらぬ置炬燵に仮託し、世間の日常と自らの日常、すなわち世間から見れば非日常との落差を描く。以上の三句には、わが身を、胡蝶、病雁、置炬燵に仮託し、自らの姿をこれらに投影して客観視する〈自己言及性〉の視線が濃厚に見られ、それがこの時期の独特の美意識を構成すると見ることができる。六七八「人に家を」の句は、こうした自らの生活態度を厚かましいと思いながらも、それを肯定しつつ、世間の日常と自らの超俗の非日常との落差を瓢々と描く。ここに見られるのも、主観的な目ではなく、自己を対象化する
「不易流行」の思想とは、芸術作品に永遠(不易)の生命を与えるものはあくまで深く自然や人生の実相に迫ろうとする真実探究の精神(風雅の誠)によって掘り起された詩的真実であるとする一方、真実探究の精神が本物であればあるほど、物を見る目もその表現方法も、いつまでも同じ状態にとどまっていられるはずもな
(21)
294
自らの姿を、こうした日常生活で嘱目される景物を変化流転する「流行」として表現して、そこにさりげなく自らの非日常たる「不易」の心を託したところに、芭蕉のねらいがあったのではないか。かくて芭蕉は、抽象的な芸術の理念すなわち「不易」を、具体的な事物すなわち「流行」として表現してはじめて芸術における生命があることを、理論ではなく作品の制作という実践の現場で示したのである。こうして、第二期を通して、芭蕉の俳譜の精神が大きく転生し、「不易流行」の芸術表現として、「観念的理想主義から経験的現実主義へ」(今)と本質的な転換が完成の域に達したと見ることができよう。 の句の「病雁」、六六余投影された事物である。 すでに各句の評釈のところで述べたように、自らの姿を非日常と日常との対比によって描かれた句が見られるが、非日常に宿る理念すなわち不易を、日常の景物すなわち流行によって表現する、というのがその特徴である。たとえば、四八五「行く春」の句における「啼く鳥」「涙の魚」、六三○「君や蝶」の句の「胡蝶」、六五四「病雁の」の句の「病雁」、六六七「住みつかぬ」の句の「置炬燵」等は、すべて自らの姿の仮託・象徴・比嶮によって自己 点というなら、この鉋論考での立場である。 この時期には、総じて、いままでにも増して自己を凝視する姿勢が感じ取られるが、それを〈自己言及性〉の視というなら、この視点こそ「不易流行」の思想を推し進める一つの要素となったのではないか、というのがこの く、おのずから新しい境地に向かって一歩を進め変化流行してゆかざるをえず、しかもそのように変化流行して新しい真実を追い求めてゆく自覚的なプロセスにおいてのみ、鮮烈な生命が作品の内部に躍動してくる、とする芸術観である。つまり一見矛盾するかにみえる不易(変らない)と流行(変る)は同じ「風雅の誠」の両面にほかならず、不易を欠くときは真実性が失われて空疎化し、流行を欠いて動かないときは停滞に陥って陳腐化するという、絶対的な相互補完関係にあり、従って作品の永遠不易性を保証するためには常に流行が求めらじれんことわりれなければならない、「千変万化するものは自然の理なり」(『一二冊子』)、という考え方である。(使用本「解説」)
の視点 芭蕉発句にみる〈自己言及性〉
(22) 293
第二期の表現として、このような日常の景物を主観を排して詠むという傾向は、第三期(元禄五年/一六九二年以 降)にいたってさらに徹底してくる.この鯛の特徴を、今は「庶民詩の創造lかるみの深化」と名づけて、「か るみ」の唱導に明け暮れる時期とみなす。ここにいたって、「誠の俳譜」「蕉風」の完成したというのが、どの研究
もほぼ一致した見方である。「かるみ」とは、今によれば、従来の「古び」や「重み」を否定して「新しみ」を追求する表現上の理念である。 芭蕉はそこに、「平凡な日常卑近の生活相の中に詩材を求めることにおいて、近畿滞在のころよりさらに一歩進め、 表現法においては技巧・作意の介入をいっそう厳しく排除してますます枯淡の芸境を深めるようになった」(今)
である。芭蕉自身の意図における「かるみ」の句とは、今が芭蕉自身の言葉を摘出してまとめるところを要約すれば、「不断の所(日辮卑近の場l人生や人闘や風物)に昔より言ひ残したる」情を探り、「不断の言葉(日常の俗週
ばかりにて」詠めば、表現は「軽くても」繰り返し玩味すればするほど、新しみや意味深きところが見えてくるよこの期の主題である「かるみ」が、〈自己言及性〉の視点で詠まれたと見られる句につぎのものがある(七六八~ 九七二)。その中からいくつかの句を摘出し、若干評釈を加えつつ、この期の特徴を検証してみよう。 要するに、「かるみ」とは、身近な句材を身近な言葉で主情を排して表現するという芸術制作上の理念のことと
いうなら、こうした精神の本質は自分自身を語るときに最も的確に現れる。身近な句材を徹底すれば自己にいきつくし、身近な言葉を突き詰めていけば自己を語る言葉ほかならないからである。こうしてみると、「かるみ」を構 成する本質的な要素として、自己が自己を客観的に語るという視点、すなわち〈自己言及性〉が隠されているとみ
ばかりにて」詠めば、うな作のことである。ることができる。かいほ芭蕉葉を柱に懸けん庵のpH『そ初霜や菊冷え初むる腰の綿 蕉翁文集元禄五/一六九二年。四九歳(七六八)荒小田同(七七五)
(”)
292
七八八「年々や」の句は、人間の年々歳々の相変わらずの生活を、猿が猿の面を被った景物に擬して詠んだもの としみ}■しとごつ、めん年々や猿に着せたフ③猿の面真蹟懐紙元禄六/一六九三年。五○歳(七八八)じゃうもん朝顔や昼は鎖おろす門の垣真蹟自画賛同(八○七)あさがほ蕊や是よい)又我が友ならず今日の昔同(八○八)あ盗人に逢うた夜&』)あり年の暮続猿蓑同(八三八)かな麦の穂を力につかむ別れ哉真蹟懐紙元禄七/一六九四年.五一歳(八五七)
かんぺう夕顔に干瓢むいて遊びけり杉風宛真蹟書簡同(八七六)しらが家はみな杖に白髪の墓参り続猿蓑同(八九二)表すかふんべつかばかな升買うて分別替る月見哉正秀宛真蹟書簡同(九一二)この道や行く人もなしに秋の暮其便同(九二○だんこの秋は何で年寄っ()雲に鳥笈日記同(九一八)秋深き隣は何をする人ぞ笈日記同(九二一)めぐ旅に病んで夢は枯野をかけ廻》()笈日記同(九二二)わが宿は四角な影を窓の月芭蕉庵小文庫貞享~元禄年間・四一~五一歳(九四三)くちびる物いへば唇寒I)秋の風芭蕉庵小文庫同(九四四)冬こげんせつかれて年忘れすァ勺機嫌かな芭蕉庵小文庫同(九四五)かかし卜(は借りて寝ん案山子の袖や夜半の霜其木枯同(九六三)
ばかささ別れ端や笠手に提げて夏羽織白馬集同(九六五)
朝な朝な手習ひすすむきりぎりす摩詰庵入日記同(九六七)ばつしぐれはっ初時雨初の字を我が時雨かな俳譜栗津原同(九七二)
(型) 芭蕉発句にみる〈自己言及性〉の視点 291
九一八「この秋は」の句は、漂泊の旅に明け暮れてきた自分が、ふと気がつくとどうしようもなく老いの衰えが
感じられると慨嘆し、人生の悲哀の思いを描く。ここでもまた、雲の彼方に消えていく鳥の姿に自らの姿を仮託し、
感傷を排して、自己を風景の中に描きこんでそれを凝視している作者の視線が見られる。この句、前句九一六と合わせて、自ら歩んできた人生と芸術の道を改めて回顧し、日暮れて道遠しの感を詠んだものと解釈される。九二一「秋深き」の句、晩秋の一時、無柳をかこっていて、ふと気がつくと隣人の気配が感じられる。一個の人間が隣人としてすぐそこにいながら、お互いにまったく交渉をもたないという、考えてみれば不思議だなあ、という思いが、表現はあくまで「かるく」、しかし深い意味を込めて語られる。人間関係、あるいは人間存在そのものの神秘さを的確に摘出している。自分が隣人を感じることは、隣人もまた自分を感じていると想像されるわけで、である。ここにはたしかに、人間を風刺し、翻って自分を郷楡する意が読み取れる。しかしそんな人間を否定的に
批判しているのではなく、人間なんてそんなものさ、と半ば諦観して肯定している気配がある。猿が猿の面を被るとは、人間が人間の面を被ることの仮託であるから、この「猿l猿」の構図には、「人間I人間」の構図が暗示され、さらにそこには、作者自身の「自己l自己」の構図が含まれているから、まさにそこに〈自己言及性〉の視点が顕著に現れていると見ることができよう。八九二「家はみな」の句、郷里の親族一同もいまはみな年老いてしまい、こうして打ちそろって先祖の墓参りをしているという、懐旧の感慨を描く。この一同の中にいる自分の姿を外から凝視視しつつ、感傷を排して淡々と老いの現実を詠む。今は、これを「かるみ」の一極致を示す作だといい、それと対照的に、第一期の二○一「手に取らば」の句や三四六「旧里や」の句といった同類句は、主情の勝ったものとみなしている。九一六「この道や」の句は、晩秋の野中の一本道に佇みながら、景物が醸し出す孤独と寂蓼感を詠む。直接の表現は叙景であるが、むしろそれを素材として自らの姿を外から凝視する目が感じられる句である。「道」は自らが選んだ人生と芸術の象徴であるが、そこにはもはや気負いは見られず、いまそこに立つ自らの姿を淡々と眺めている風情である。(妬)
290
ここにも自分を他者に仮託し、他者の目で自分を見つめる〈自己言及性〉の視線が隠されていると見られるが、むしろこのような見方によって、この句の深遠なかつ普遍的な意味を読み取ることができる。九二二「旅に病んで」の句では、病床でふと目覚めると、旅で野を駆け廻っていた自分の姿を夢に見ていたこと
だ、と死の床にあっても旅に思いを馳せる執念が淡々と詠まれている。いままさに死に臨みながらも、〈自己言及 性〉の視点で自らを凝視している姿を読み取ることができる。ここに、一生を旅に明け暮れし、旅の中で自己の芸
術の理念を追究したという思いが凝縮されている。旅の詩人芭蕉の最後の吟としての面目が深く感じられる句である。芭蕉発句の中で、〈自己言及性〉の視点で詠まれたと思われる句々を摘出して吟味してきた。では、この芭蕉の視点を培ったのは何であろうか。以上の諸句の評釈の過程ですでに何度か指摘したことを改めていえば、それは旅にほかならないのではないか。一人旅は、まさに自分だけが頼りであって、つねに自己を見つめていなければならない。言いかえれば、旅で接する景物に自らの姿を投影して、自己を凝視しなければならない。随行者がいる場合でも、主体はあくまでも自分であるから、事態の本質は変わらない。そうなら、そこに〈自己言及性〉の視点を育む要因があったと考えることができる。したがって、芭蕉を旅の詩人というなら、必然的に〈自己言及性〉の視点がその句作の底流にあったといえよう。ここでは、旅こそ〈自己言及性〉の視点を培う場である、との仮説からとくにその視点の顕著な句を取り上げて検証してきた。この観点から、ここに改めて各期の展開の特徴をまとめてみよう。第一期では、芭蕉は自らの芸術の道を求めて、決意を新たに「野ざらし」の旅を敢行し、新風を樹立した。この
旅の体験によって〈自己言及性〉の視点が確立し、主として絵画的手法を身につけたということができる。この期
四
(26) 芭焦発句にみる〈自己言及性〉の視点 289
第二期では、さらに大規模で本格的な旅「おくのほそ道」の旅が企てられ、それによって〈自己言及性〉の視点が円熟したと見ることができる。ここでは、身近な事物が自己の比噛・仮託・象徴として用いられることによって、自己の客観的描写が徹底され、「不易流行」の思想によって、観念的理想主義から経験的現実主義へと移行する。第三期にいたると、これまでの大小の旅で育まれたく自己言及性〉の視点が、「蕉風」の到達点と目される「かるみ」の境地を深化する要素になったみられる。そうしてそこに、自己の日常の姿をそれが立つ場所(流行)の中に描いて、「誠の俳譜」(不易)を込めるという表現法を読み取れば、それは、特殊を描いて普遍を表現するということで、すでに本論の第一節の注で見たように、まさにシェリングのいう象徴的表現法にほかならない。一般に芸術的な感動は、感覚的な形象に姿を変えてはじめてその普遍的な内容すなわち理念をあらわにすることができる。それを象徴といえば、芸術は本質的に象徴であり、したがって、芸術表現はもともと象徴の性格をもつ。「もの」を借りて「こと」を表す、これが芸術の本質である。あるいは、部分を描いて全体を表現する、特殊を描いて普遍を表現する、と言いかえることもできよう。さらに換言すれば、芸術の本質は、小さなことを描いて大きな世界を享受させることにあるといってもいい。肖像画や伝記はその顕著な例であるが、個人を描いて、それによって表現される感動は普遍的でなければならない。要するに感覚を借りて理念を表現する、ということである。特殊の究極を自己と見なし、それを〈自己言及性〉の視点で描くことを象徴的表現の典型と見なせば、芭蕉の芸術表現の方法は、その意味で芸術の本質を衝いていたことになる。 見られる)。 の例句として評釈・吟味したように、多かれ少なかれ、ほぼこの傾向を示している(ただし、この手法はここでいきなり登場したのではなく、その兆しは、すでにこの期に先立つ転換期の、たとえば一六九「馬ぼくぼく」の句に
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『校本芭蕉全集』全一○巻、一九六二~一九六九年、角川書店大谷篤蔵・中村俊定校注『芭蕉句集』日本古典文学大系、’九六二/六五年、岩波書店杉浦正一郎・荻野清。宮本三郎『芭蕉文集』日本古典文学大系、一九五九/六四年、岩波書店佐藤信術「芭蕉捜」(一)~(三)『むかしの本』第六号~第八号、一九七四~一九七五年、宣協社頴原退蔵「芭蕉俳句新講』上巻・下巻、一九五一/一九七八年、岩波書店同『芭蕉讃本」角川文庫、一九五五/一九六三年、角川書店桜木俊晃『芭蕉事典』一九六三年、青蛙房中村俊定監修『芭蕉事典』’九七八年、春秋社栗山理一監修「総合芭蕉事典」’九八二年、雄山閣福永光司『荘子内篇」新訂中国古典選、一九六六/六七年、朝日新聞社 【使用本】今栄蔵校注『芭蕉句集』新潮日本古典集成、富山湊校注「芭蕉文集』新潮日本古典集成、【参考文献】 一九八二年、新潮社一九七八/二○○二年、新潮社
二○○四年九月下旬脱稿(哲学・法学部教授)