心変り猶々定難く候 : 貞享三・四年の芭蕉
著者 濱 森太郎
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 1
ページ 61‑72
発行年 1990‑06‑03
URL http://hdl.handle.net/10076/2600
心変り猶々定難く候
‑貞享三・四年の芭蕉‑
芭蕉の懸念は、其角・嵐雪の独立の仕方にあった。 この二人が争って独立し、その争いに芭蕉自身が巻き
込まれた時、芭蕉は自分の拠って立つ門弟の大半を失 うのである。この困難を乗り越ろ蕉門を新風の担い 手として健全に育成するためには、彼は是非とも其角 と嵐雪とをともに円満に独立させることが必要だった。 本稿は、こうした宗匠としての芭蕉の言動を吟味する
ことで、従来風流に安住しがちな時期とされていたこ の時期の芭蕉像に多少の修正を試みるものである。
一芭蕉と其角
貞享三年(一六八六)正月、弟子の宝井其角が歳日帳を発行 して独立を宣言した時、蕉門の内でも新しい時代の歯車が回り
始めたへ〉
俳討はまだ「文学」ではなく、「芸匪だった。当然、俳諸
には日々の暮しの「娯楽」や「たしなみ」であることが求めら
濱
森太郎
れたG従って、その宗匠の資質には芸人にふさわしい当為即妙 の才と娯楽を主催する興行王の才覚とが不可欠だった。
上方の譲匠たちはすでに進んで月次の句会を主催し、その句 会への投句を募っていた。投句にはいちいち占首付け、高占著 には景品を配り、その曹筍を集めて出版することが宗匠の仕
事になった。投稿料と入集料とが彼らの生計を支えたからであ
宝井其角は新宗匠の常として、まず門人の獲得に努めなけれ ばならなかった。パトロンを捜七句会をま催し、句集を出版す
る必要もあった。幸い、師匠の芭蕉庵桃青は新風の開拓には熱
心でも、門葉を拡大して勢力を誇元する男ではなかった。その
分、門人の獲得に伴う師匠との摩擦は少なかった。 星阜三年正月、其角の独立に合わせて彼を囲む「日の春を」
甫嶺一巻が企画された。この句会への参加者は、芭煮・其角を
含めて十四名っ萬旬の興行や秘伝の伝授といった儀礼の部分は
省喝しての、簡素な独立であるっ
‑61̲
さて、この盲韻の冒頭は、其角の発句 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
に始まり、文鱗の脇の句
梱に高き去年の桐の実
へと続く〇其角の句は、宗匠としての晴れがましさ・おばつか
なさを鶴のもどかしい足さばきにたとえて言い表したもの。ま
た、文鱗の脇の旬は、その鶴を見おろす汀の「桐の実」を描い
て、円満に流れる歳月の歩みを暗示したもの。そして、この背
景には、かつての其角自身の歳旦句「掛かむかか顔淵生て千々
の春」 (『虚棄』)が隠されている。つまり、其角は、詩文を
愛し鶴のように痩せていた顔淵にたとえて我身の《志》を暗示
したのである。
この隈りでは、其角は『虚棄』から『続虚粟』に向かつて順
調に成熟するかに見えた。ごの明るい新時代が、本当に其角の
物となるかどうかはまだ未知数だったが、少なくとも其角自身
は、それを遣り抜く準備と気構えとがあった。この時、越後高
田にあってやむなく欠席した服部嵐雪は、この年の其角の歳旦
帳に旬を寄せて、「正月も身は泥(ひじりこ)のうなぎ哉」と
僻地での年越しを嘆いていた。
しかし、いつの場合にも、会席の盛況と作品の出来映えとが
一致するとは限らない。この時期の其角・嵐雪の連句手法が芭
蕉の新風から遅れをとっていたことはすでに述べた(注l)。 まして豊焦は、貞孝二年正月以来、「『みなし粟』▲などもさた のかぎりなる句共多(く)見え申(し)候」 (正月二十八日付、 半残察巴煮書簡) と語るほど醒めた目で其角逐を眺めているっ
その≠巴蕉に自分と其角との厳しい落差が見えないはずはない。
たとえば一見賛辞に満ちている『初懐紙評詑』 (屋号三年成)
の「日の春を」膏韻批評も、一皮剥げば、まったく別の読み方
が出来る。
(憎ま執し宿の木種の散たびに 文鱗)
後住(む)女きぬたうち1く」
其角 後任(む).女は、後添の妻といはんため也。 「憎まれし」
と言(ふ)にて、後添の物ごと和せざる味をこめたり。(
中嶋)′翫味浅からず1
(『初懐紙評証』、校査巴蕉全集「俳聾
・‑62‑
不思読なのは、この「憎まれし」とい、つ言葉の強調の仕方で
ある。この「憎まれし」は、確かに『初懐砥標札藍では「憎ま
れし」と記されているが、其角自筆の「日の春を」召簡を収め
た鶴歩の『鶴のあゆみ』 会阜保二十年二月刊) では「にくまれ し」とある(注2)。そして、また芭蕉自身も『初懐概評藍 の前句の注釈では「恋の旬を思ひ儒たり」 「我身の息ひしほる
と菖より、「にくまれし」と五文字置なり。」
(『聾
)と書いている。
もとより、ことは単なる表記の問題ではない。この部分が仮
名書きなら、それは前後の文脈によっては、憎しみ毒する
「にくむ」とも、愛情の感情を下敷に 「こ奴め」と軽く怨Hめる
rにくむ」とも理解することが出来るからである。
ちなみに、この「にくまれしjは、義則の旬型をとどめて
いると推測される『丙寓初懐紙』 轟齢堂絹、宝磨十一年型
以下の諸本では、いずれも「悟れし」と記されている二】の「
鰭れし」なら、解釈は先ず間違いなく先の愛惜の心を下敷にし
た「にくむ」に落ち着くはずである。
一方、この其角の句が文学の中の碓の伝統を踏まえているこ
とは亨っまでもないが、その碓の伝統の中では、妻は不在の未.
を偲びつつ堪を打つものとされている〇したがって、この点か
らも其角の旬の「後任む女」は、亡夫あるいは不在の夫を偲ぶ
女と解する方が穏当に思われるっつまり、この句は本来「アノ
方ハ・太極の花ガ散ル度ニソノ花ヲ惜シンデオイデデシタガ‥ ‥」と・庭の大権に不在の夫を偲ぶ妻の心を描いたものと解す
べき旬なのである。「あらざらむ後忍べとや袖の番をはな橘に
とゞめ置きけむし (新吉今集八四四)など、古来庭の草花を
よすがとレて亡き人を偲ぶ例は多いのである。
しかし、それにも関わらず松尾芭蕉は其角の句から強いて「
後添の物ごと和せざる味」を読み取ろ、つとしてい奄 「憤れしj
「にくまれし」 「憎まれし」という表現の推移がそのことを暗
示している。この推敲の理由は、おそらく夫を偲ぶ妻の心なら
ばすでに前句に尽くされており、したがって、むしこの上にさ
らに亡夫を偲ぷ妻の姿を重ねようとすれば、それは当然「三句
がらみ」の非難を浴びるからであろう。そして、それにも関わ らず、芭蕉は強いて「翫味浅からず」と強弁している。
次に、その強弁をもう一つだけ引用しよ、つ。
(葉分(け)の風を矢箆切{り)に入(る)
か1れとて下手の懸たる狐わな コ斎) 其角
薮魔の有様、ありーくlと見へ侍る。しかも、句作風情をぬ きて、たゞ有りのまゝに舌捨(て)たる旬続き、心を付べ
し〇
(『初聾)
この批評の焦点は、載陰の有様を「風情をぬきて、たゞ有り
のまゝに言捨(て)た」其角の手腕にある。しかし、肝心の其
角の句は、必ずしも薮陰の有様をただ有りのままに言い捨てる ・ことを狙ったとは考えがたい。たとえば「かゝれとて」・「下
手のかけたる」などは、いずれも薮陰に無様に仕掛けられた狐
畏を見つけた猟師の内心を表現する言葉である。したがって、
この旬を批評して「たゞ有りのまゝに言捨(て)たる旬続き、
心を付べし。しとlま、明らかに芭蕉の曲書モある。
振り返ってみれば、彼が江戸に帰着してからこの貞阜三年正 月までに満尾した連句の数はわずかに二苛また、この貞孝三 年二月からこの年の年末までに滴尾した連句の数も同じく二背 これを・貞享四竺月から±万までに薗尾した連句十一巻と
比較すれば、その低調さが分かるだろう。 一カに、其角・嵐雪でさ、五菜の直言に値する旬を作れない
現実があり、他方に、その其角・嵐雪を煮門の後継者として育 てなければならない宗匠としての芭蕉の立場があったその矛
‑63‑
眉の中にあって、一「日の春を」盲韻の自注を書く芭蕉の筆は、
曲言に向かつて伸びている。
古園
花みなかれてあはれをこぼすくさのたね
二
発病
むろん、芭蕉の曲言にも限度はあった一点孝三年一月、発病
のために先の頁鯛自注を五十旬まで打ち切った芭弄は(『初懐 紙評詮』後葦、その一方で、早くも江戸脱出を考えていた。 この年閏三月、芭蕉は京都の向井去来に宛ては「当準冬、晩
夏乏内上京」 (注3)と伝え、尾張鳴海の寂照に宛てーま羞之
中には登り可申候」 (注4)と書いている。ちなみに、この寂
覿宛の書簡には、「何角障事共心にまかせず候而、いまだ在席 罷有候」という旅立の延期を告げる言葉まで見えている。した
がって、早ければ貞孝三年春早々には芭蕉はすでに江戸脱出を
考え、その気持ちを上方の門人達に伝えていたことになるだろ
.確かに、真卓二年四月末、無事江戸に帰り着いた苫案の庵住
生活は、一見順調に見えた。芭蕉庵への来客も絶えず、苗煮は
その合間を縫って、『野ざらし紀行』・『野ざらし紀行画巻』
の執筆にいそしんでいた。 ところが、鼻孝二年冬の芭蕉の旬には、なぜかも、ユ洛莫・落 月白き師走は子蕗が寝覚哉
もらふてくらひ、こふてくらひ、
飢寒わづかにのがれて
めでたき人のかずにも入ン老のくれ
第一に肝心の体調が崩れ七ままだった。
貞孝三年の桜は病床から見送った。
煩へば餅をも喰はず桃の花
観音のいらかみやりつ花の雲 (『あつめ句』)
(詔軟禁こ
(真蹟詠革)
病床の日々が続き、
(『夜話ぐるひ』)
(『末若葉』)
胆・自嘲といった暗い表情が現れ始める。
木枯やたけにかくれてしっまりぬ (『鳥の道』) そして真阜三年間三月、苗薫は、いったんは「何角障事」のた めに上方行脚を中止した8ただ、その時点では、まだ次の上京 の予寛が負号三年の秋または冬の頃と見積られていた。 江戸では『続虚棄』の編集作業が始まり、越後からは嵐雪が帰
着した。加えて、大津では『匪ロの編集作業が着々と進行し、
この秋には終盤を迎える予定だった。芭蕉は体調の快復と江戸
・大津の句集の編集作業とをにらみながら、上京のタイミング
を計るのである。
しかし・予定の貞孝三年冬を過ぎても、芭蕉はやはり動けな
かったa隣庵に住む宗波が行脚に旅立ち、替わって曽艮が芭蕉
のおぼつかない生活を助けていた。『臣の編集は捗る一方、
『続虚粟』は遅滞していた。また、体調は引続き思わしくなか
った。
‑64‑
この年十月二十九日、苫蒸は年内の出立を諦めると、再び寂
照に宛てて「来年はかならず上り候而、可得御意候」 裏革三 年十月二十九日付)と施立の延期を通知する。延期の理由は、
またまた「何角心中障る卓共」 (貞孝三年十二月一日付注5) のためだというが、この釈明はいかにも簡喝である8
だが、その簡略さにも関わらずこの貞幸三年十二月の薮原宛
書簡は極めて重要である。何故なら、例えばこの書簡には、従
来風流に安住する時期とされている芭蕉の「此比ハ発句も不仕、
人のも不承候」 (注6)という苦い述懐が満ちされているから
である。この述懐からは、当然芭蕉の創作意欲の蓋えと、江戸
における『続虚棄』編集作業の停滞とが匂うだろ、つ。その匂い をもっと明瞭な形で示すために、私は、さらにこの冬の芭蕉の
俳文「閉居ノ歳」・(貞孝三年冬成、本朝文鑑) からその一部を
引用しよう。
日比は人のとひ来るも、つるさく、人にもまみえじ、人をも
まねかじと、あまたトび心にちかふなれど、月の夜・雪の
あしたのみ友のしたはるゝもわりなしや。物をもいはず、
ひとり酒のみて」心にとひ心にかたる。魔の戸おしあけて、
雪をながめ、又は盃をとりて、筆をそめ筆をすつ。あら、
物ぐるおしの翁や。 (閑居ノ歳)
かくして、・延々と江戸出発を延期する芭蕉の心中に、まこと
に菱欝な孤立感が渦巻いていたことが明らかになった。大津で
は、『孤松』の編集が芭蕉を抜きにしたまま終盤を迎Tえている。 このままこの句集を尚白等の手に任せれば、『孤整は純蕉風 の句集とはなりがたい。また、江戸切其角・嵐雪の間には隠微 な確執があり、『続虚粟』の編集作業は遅滞している(注7)■ ≠巴煮の期待は天下の衆目に薫風の魅力を鮮やかに刻印すること にあったが、このままでは、衆目を煮門の句集の上に集めるこ とさえ不可能である。星阜三年寄から冬にかけて、時の経過と ともに芭蕉の期待は萎んでいくそしてその年束、芭希は幾た びか閉門を誓、つ。芭蕉の憂欝は門人達への不満を通り越して、 人間その物を厭う倦怠感に姿を変えている。 しかし、これはまた芭蕉の転機を語る文章でもある三言うま でもなく門人有っての「煮風俳詣」である。無理に頭数を揃え る必要は無いにしても、「月の夜」 「雪の朝」、風流を愛する
知友が居なければ煮門の意味がない。披は、倦怠感の只中に座 り込みながら、「物ぐるおしい」気持ちで、その「友」を求め
ている。この「友」を求める「割なさ」こそ、変革者の宿命で
ある。その芭蕉の目の前にやがて「友」が現れるぅそして・生
活に活気が蘇る。
対友人
君火をたけよきもの見せむ雪まるげ
年の市線香実に出ばやな
月雪とのさばりけらしとしの昏(『続虚乗』)
‑65‑
三
内に兵志》を立つべし
明けて貞享四年一月、恒例の歳日頑を京都で発行した苗煮庵
桃青は、引続き再度の上京を願っていた。だが、彼の旅立の目
途は容易に立たなかった二塁阜四年の春は、「夏中可得御着候」
(春、寂照宛)、「秋登り候はゞ、一板行とすゝみ申候」
(三
月十四日付、東藤・桐業容と、次々に薗言を翻しながら過ぎ
ている8 そして、その新⊥い約束が、さらにまた撤回された。
彼の病は、まだ治まらなかった。 この年の春には、病気を暗示する次の旬が読まれている。
花の雲鐘は上野か浅草欺∵■⊥唐草四雇、『続虚棄』) ・神早庵 自詠
髪はえて容虞蒼し五月雨 (鼻阜四年夏作、『続虚乗』) この「花の雲j.の旬が、前年春のコ撃日のいらかみやりつ花
の雲
」と一対をなし、同じく謡曲『西行餅ロの詞章を前書に
していることは有名だが、その『西行桜』の主題が「げに得難
きは時、遷ひ難きは友なるべし」という富農に集約されること を指摘する人は少ない。星孝三年冬から翌年の春にかけて、芭 蕉は病床にありながら切に「時とをとに聾まれることを蘇っ て過ごしたのである。また、「自匪と慈した「髪は、手容顔
蒼し」からは、芭蕉の体調の悪化が匂ってくる。 さて、こうして芭蕉庵桃青の実際の旅立は、真阜四年十月二
十五日まで延期された。それは、『続虚棄』の刊行(十一月十 三日) を間近に控えながら、それを決して手に取ることの無い
真冬の旅立であるへ】
その間、『続虚粟』の編集を巡る其角・嵐雪の陰微な鞘当て
がど.の様に収拾されたかを正確に誇る資料は無いeだが、芭蕉
とその友人達が、ノ貞孝三年夏以来絶えて対座することが無かっ
た其角と嵐雪の接近を計った形跡だけは残っていり曾
その発端は、貞享三年冬.(多分十二月)、折から東下した向
井去来を迎えて、風雪・其角一座の歌仙興行 ただし、この時
は両人とも不興と見えて、歌仙は表六旬で終わっている(『い
っを昔』藁角編)。同じく貞孝三年十二月、
おもへばや拉れ実はれとしのくれ 嵐雪(『続虚菓』) と述懐する嵐雪は、♯義に正月の晴れ着を贈る。
翌月亭四年一月、正月の小袖を着た芭蕉は幾分おどけて風雪
に一句を贈る。
誰やらが形に似たりけさの春 (『続虚粟』) 貞享四年春、再び京都の向井去来を迎えて、芭蕉・其角・風
雪一座の「久カや」歌仙辟平 岡じ頃、内藤蕗清を迎えて、其角・姑徳・露荷・嵐雪・虚谷
一座の「川尺て」歌仙成立(『続虚棄』) (注8)。
貞写四年五月十二日、芭蕉を迎えて、其角・嵐雪二比の「三
つ物」′成立(『続虚粟』)。
さらに眉享四年歌、拳白・才麿・嵐雪・其角一座の 「馬蹄今」
育韻他、石塊三者成立(『たれが家』其角将)。
‑・66‑
ちなみに、この『たれが家』
(一議三年刊)所収の首韻三者
は、作風が『虚棄』に似ていることから、従来(俳清文庫『其
角全整
「解説し・『俳御大辞典』 「たれが家」)、天和から
貞享初年の作と考えられてきた。しかし、石川真弘氏はこれを
覆して(『蕉門俳人年靂
(「服部嵐雪」 「宝井其角」)、 負号三年秋の作と推定している〈‑これは、作風が『虚棄』調よ
りはやや蕉風に近く、しかも、その蕉風が開花する貞享初年を
考えると、貞享元年の秋は其角が上方旅行中・貞享二年の秋は
嵐雪が越後下向中で、残りは貞孝三年秋・貞阜四年秋あたりと
推定されるからであろう(注9)。
しかし、私の立場からすれば、其角・風雪の一座する句会の■ 時期が、鼻単三年秋または垂与四年秋と揺れるのは不都合であ る。私としては次の理由でこの三石親の成立を貞阜四年と判断
している。第一は『たれが家』 「電の」の巻に登場する「氷花」
「消橋」
「湖水」 「普船」等が、いずれも貞与五年正月の『戊
辰歳旦』以後、嵐雪の弟子として登場すか人物であること、第
二には『たれが家』所収の
髪淀のわたりと申せほとゝぎす 其角(「州の葉を」の巻)
乞巧にもにほふはつ梅 自燕(「電の」の巻)
の二句が、『続虚粟』所収の次の其角の二句を踏まえているこ
淀舟や犬もこがる〜ほとゝぎす 其角(眉享元年作喜
梅が香や乞食の家ものぞかるゝ 其角(鼻阜四年春作か) さらに第三には、この†日韻三巻が貞阜三年秋の作である場合、 それは当然云続虚栗』に掲載する積もりで製作を急いだものと 予想されるが、『続虚棄』にはこの三巻がいずれも掲載されて いないこと。このため、私はこの百韻三巻は真阜四年秋・其角 ・嵐雪融和の一助として興行されたもの考、えるのである。
さて、この同じ屋号四年秋、芭蕉と嵐雪との間には再び次の
ような贈答がある。
嵐雪がゑがきしに、さんのぞみければ
葬は下手のかくさへ哀也 貫享四年秋作、『いつを昔』) 「下手のかくさへ哀也 」からは、とかく拙劣な嵐雪を哀惜す
る気持ちが窺われる。また芭蕉からは、
蓑虫の音を聞に釆よ州の庵 (貞享四年秋作、『続虚粟』)
の旬が嵐雪に贈られる。 また貞阜四年十月、芭蕉・其角・嵐雪ら」座の「旅人と」四
十四旬(『続虚乗』)。 同じく、貞享四年十月、芭蕉・嵐雪・其角ら一度の「江戸桜」
半歌仙(『句餞別』)・「時雨‑1に」十旬(『旬鰻別』)成
立。
貞孝三年とは打って変わったこうした頻繁な句会の開催には、
もちろんそれぞれ個別の理由がある。例えば、去来歓迎・其角 の母の追悼⊥義の送別など。しかし、これらの句会の開催理
由を一つに限って考える必要はないt】 たとえば私達の会食でさ
、そ表向きの理由の外にメンバーの融和を計る心意が隠されて
‑67‑‑‑‑‑
いる〇
これらの句会の主催者・参会者がその心蕃を承知してい
たと考えて差しっかえはないのである。
主催者・参会者の顔ぶれを見れば、、これらの会席を通じて其 角・嵐雪の接近を計ったのはおそらく芭蕉・裔姑・素堂・拳自
といった蕉門の支柱、あるいは後見人達である。
たとえば、『続虚棄』所収の「素堂序」には、次のような暗
示附な一文がある。
′・来る人のい八るは、「われも又、さる翁のかたりける事あ
り凸
「鳩の淵渕の時にうき、時にしづみて風波にもまれざ
るがごとく、内にこ〜ろざしをたつべし」となり」。余(
*素望)笑ひてこれをうけがふ。いひつゞくればものさだ
めに似たれど、屈原楚国をわすれずとかや。(*は筆者)
言うまでもなく∵江戸煮門の中で尊敬を込めて「翁」と呼ば
れる人物はそう多くはない。加えて、彼は、「鳩の浮巣」に喩
えて来客に師たる者の心得を説くような「翁」である。この二
つの条件を踏まえるなら、この「翁」が芭蕉か≠巴煮に替わって 「『続虚棄』序」を書く山口垂あたりを指すことは想像に難
くない〇しかし、この場合素堂は対象外である。なぜなら、も
し素堂が「さる翁」なら、来客がその素堂を儀の前にして「わ
れも又、さる翁のかたりける事あり1」と回りくどく話すはず
が無いからであるdとすると残る候補者は芭蕉となるが、幸い、 この小義は鼻阜四年五月、内藤蕗姑に宛てて「五月雨に鳩の溜
鼎を見に行む」 (笈日毎と意味深長な一旬を書き送っている。 しかも、この時期の芭萄か、《志》を高く拘げ、「天下の俳裾」
(星阜三・四年三月十四日付置青書簡)を標模していたことは
すでに衆知の事実である。 、さて、その義堂の「『続虚棄』序しをさらに丹念に読むと、
少々興味深いことが分かる。素望を尋ねたさる客人は「われも
又、さる翁のかたりける事あ〓て」とい、つ吉葉を皮切りに、「 さる翁」から師たる者の心得を聞かされた次第を語るが、これ
は多分素堂自身がこの客人を前にして、.「さる翁」碍師た
る者の心得を説いたからであろう。つまり、客人はその東壁の
説得に応えて.「瑠叫判刃、さる翁のかたりける事あり」とかつ
て「さる翁L に説得された次鮨を語りつつ、素堂の説得を受け
入れたのである。この承諾に気を良くした東壁は、さすがに「
周周楚国をわすれずとかや」とその来客の《志》を暮してい
る。
ところで、問題は、この「屈原」 に例えて貸費される客人の
名前である。ノ時期は、貞亭四年五月以降。山方で、『続虚棄』
の編集作業が急ピッチで進み、他方で『続虚棄』の序文が、芭
蕉を避けて素堂に依頼される時期である。この時期、芭蕉は藤 池七宛てて「鳩の浮挙の旬を送り、.その蕗清の協力を縛て、
其角と嵐雪とが一座する句会が計画される。また、眉宇四年秋
には、嵐雪が芭蕉に朝顔の絵の賛を求め、逆に芭燕が「蓑虫」
の句をもって嵐雪・素堂を芭蕉播に招いている。この時期に、
榊巴煮と義堂が二人がかりで師たる者の心得を説く必要のある人
‑68‑
物を捜すとすれば、侯補者は、先ず其角か嵐雪に絞られるに適
いない。中では、其角と競合しっつ独立を目指す、とかく拙劣
な嵐雪が最適の人物に思われる。また、嵐雪が、時に「屈原」
を自称する男であったことは、『虚乗』所収の次の脇の旬によ
って確かめられる〇
鶴さもあれ顔淵生て千々の容
共角 身の正月ヲ周周期醐・ ∴風雪 辟部嵐雪、当時三十四萄寛文年間は新庄壱岐守に仕えたが・ 延宝四年(一六七六)六月二十一日、主君急死の後、領地投喝 嵐雪は失喝その後、土方河内守に仕えていたが、その土方河
内守も建玉七年(〓ハ七九)十一月二十七月致仕(往1.〇)。そ
の嵐雪が、今は井上相模守に従って越後高田城で真孝三年の正
月を遮ろ 問三月、江戸に帰着する。宝井其角より八歳年長の
彼は、その経歴かち見てもまことに時代の申し子である。その
彼が、今は、宗匠として独立することを願っている。この彼に
も、もちろん内に《志》を立てる必要があったに違いないっ
振り逼って見れば、《志》の詩人杜甫を我身に擬することが、 芭蕉庵桃青の文学の出発だった。杜甫と自分とを秘か丈比べ見
て、杜甫に勝るのはひとり多病のみと嘆くこともあった(注‖)
が、その心の内には、杜甫と自分とを秘かに見比べるほどの強
烈な自負心が潜んでいた。 その苗貢が、貞享元年秋大和の国に行脚する噴から、「露と
く∫ノ、・心みに浮世すゝがばや」 (『野ざらし紀行』)・「幾箱 に心ばせをの松かざり」 (盛暑三年正月、其角歳旦嘩と《志》 の健在ぶりを語り始める。また「凡天下の俳群にて御座候間、 随分御敬候て御はげみ可被成候」 (真孝三・四年三月十四日付) と《志》を掲げて門人を鼓舞することもある。おまけにこの年 五月、藤清には、■ 《志》の自在を説く「鳩の浮巣を見に行ん」
の一旬を贈った。「詣ハ志ノユクトコロ也し (『詩経ロ)とい ぅが、その《志》を持続することが訴人の王道であることに変
わりはない。
四
鳴の浮巣 しかし、問鰭は、その持続の困難さである。一方には、維俳 を愛好する江戸の庶民が居り、他方には、俳舘的表現の自呂を
抑圧する将軍が居る。この江戸の宗匠でいる限り、彼等の《恵》
は常に風化と抑圧との危機に備えて眉なければならないっ
例えば、今試みに、生類哀みの令に関わる「犬」の例を挙げ
てみよ、つ。 ・天和元年刊『俳討次顔ロには、まだ芭蕉自身の手になる犬殺
しの句が掲載されている。
(1)とひやう仁うは気より世を常て
揚水
‑69‑
大切って其声のかなしく 桃青(「毒にとへ」
毒
さらに、天和三年刊の『虚棄』でも、事情は似通っているっ
(2)朝兄の暁花もる犬の声帽し
(3)犬引てとうふ狩得たり里夜興
(4)僕が雪夜犬を枕のはし麻哉
(5)雪の大器になくや姥捨山
其角 樵花 四友 杉風
ところが、この犬の扱いが生類哀みの令が発令された星亨二
年以降は一変する。
(1)痩覚時鳥明なば犬に礼い・ふべし
元順
(2)㌧淀舟や犬もこガる〜ほと〜ぎす
其角
(3)筍よ竹より奥に調剤引力
其角
(4)萩原や一夜はやどせ山の刃
≠巴煮
(『続虚棄』) (覇監)
(『続虚棄』)
(亘続虚棄』)
(5)
あき乗物のたて所かる
・野鳥
袈その夜を犬のとがむらん
孤屋(『肇)
ことに将軍のお膝元で編集された『続虚棄』では、人間はお
大様を恐れながら戦々恐々と暮らしている。これを描ノ立巴煮や
其角達は、多分少々複雑な面もちだったに違いない。「蕎麦切
・俳舘は、都の土地に応ぜず」
(「蕎麦切感」萎とは、京
都の文学風土を批評した芭蕉の言葉だが、この言葉は、おそら
く当時の江戸の町にも当てはまる。こうした困難な文学風土の
中で、彼等はどの様に前途を見通せば良かったのだろうか。
貞幸三・四年当時の芭蕉の文学上の主題が、「行脚Lと「庵
住」の二つに絞られることは、すでに井上敏幸氏によって指摘
されている(注ほ)っ この主盤に文学としての形象を与ぇるべ
く、義は『鹿島詐巴・『あつめ句』を相次いで執筆してい奄
彼はもともと「中心」よりは「周辺」に、「秩序」よりは「野
生」の側に所属する男である【〉 「湖山甲余り自由さに心変(は り)猶々難定囁」 (往ほ)、「朝錮.とし明(け)候ヘバ、
又Jlたびご〜ち」 (江14)など、旅立を前にした彼の卓棄に
はその性格が端的に現れる。その彼には、垂を飛ぶ鳥の両翼の
ように「行脚」と「庵住」とが必ず一対でなければならなかっ
たのである。
その意味で、この点享四年秋または冬、芭蕉が折から『続虚
粟』編集中の其角の手元に届けた句々が吟行の句であるよりも、
庵住の日々を描いた句であることは興味深い(注ほ.・)。『続虚
粟』編集の最後になって、この句集の中にこれらの芭蕎の旬々 がちりばめられることで、とかく賑やかな「旅行」の句の後に
「家居」の句々がひときわ清楚な余観を響かせるからである。
また、編者の其角が「旅行」の旬を収拾する一方で、この摘楚
な「家居」 の心を意識的に探求していたことは、「春朝」・「 春昼」・「春夜」と越する嵐雪・蚊足・其角の連作旬の試みや、
次のような対照の鮮やかな「端居」の句々からも窺われる。
春夜
たそがれの端居はじむるつ〜じ哉
其角
和好柳子
人をみん冬のはしゐも夕涼み 其角(『続虞柴』)
さらに、もっと端的に、「家居」の心を語った其角自身の次の
秀句もある。
・‑70‑
雀子やあかり障子の笹の影
結鷹在人境
夕日影町単に飛(ぷ) こてふ哉
雨重し地に遥菊を先折ん
草庵
門の雪椋ありやと訪れけり 其角(『続塵藍)
これらの秀句に、さらに次のような其角の吟行の句を加えれば、
さながら『あつめ旬』の世界のようにシンプルに洗練された俳
討師の日常生活が浮かび上がる。
春暗
嘩つらの虹をけしたる燕かな
合羽着て友となるべき訂描かな
其角
其角(『続虚棄』)
これらの美しい日常の一コマがすっきりした絵のように句集
の申に割り付けられることで、この句集の一葉はさながら奥ゆ
かしい贈物のような気品をたたえるヱとになる。
これらの旬々が深化すれば、その先には当然新しい風物の発
見、新しい自然の発見が待っている。しかし、それが蕉門の人
々を『野ざらし紀行』の芭蕉のヰっに生きて呼吸する生命体と
しての天地自然の発見へと導くかどうかはまだ未知数だった。
五
終りに
貞享四年正月から秋にかけて、其角と嵐雪との関係は一応修
改される。それに連れて『続虚粟』の編集作業は急速に捗り始 める。貞享四年歌(または冬)、其角が芭蕉から二十数句の寄 稿を受け取ったとき『続虚棄』は多分あら方その形を製えただ ろ、つ.。
『続虚粟』が編集され嵐雪の独立が達成された時、苗煮に残 された課題は一つである。自分の俳詣を「天下の俳押」に仕上
げること。ただし、そのためには是非とも必要なことが一つあ
った。それは、ノ同じ時代を生きる人々が心の内で共通に願いな
がら、しかも未だ鮮烈なイメージの形では見ることが出釆なか
った
「新しい夢」 の発明であるD これが出来れば、芭煮は強力
な磁場となって地蘇や血縁に縛られた人々を解き放つことが出
来るだろ、つ。嵐雪独立の準備が調うと共に、その夢を求める新 しい旅が芭蕉庵桃青に近付いている。「我が心はむ心ろにあら
ず、巻くべからざるなり。」 (『詩経』 「柏舟」)。戸外は、
すでに貞亭四年の冬を迎えていた。
‑‑71‑
注l
「『春の日』の光芭」 (『国文学致』77号広島大学
国諸国文学会は準
注2
『鶴のあゆみ』所収の「日の春を」石鯛は、原刊本『丙
京初懐紙』を元にしたかぶせ彫りの 可能性もある。
大磯義雄「其角の原刊本『丙東初懐紙』.、『連葦研
究』32号」。
注注注往注
7 6 5 4
3注10 注‑12 注・11
圭工3
、ソLl 注・1・4 注15
貞孝三年間三月十日付、去来宛♯蓋
貞幸三年間三月士ハ日付、寂照芭蕉書簡
貞幸三年十二月一日付、寂照宛芭蕉書簡
只事三年十二月一日付、寂照宛芭蕉書簡 「『続虚棄』その人間の磁場(上)・(申)」 人『国文学 改』96号・99号広島大学国諸国文学会轡に既に
述べたので省筆す奄
この歌仙切成立は貞孝三年春の屈性もあるが、貞与三
年の「さくら」の季節には、連衆の一人嵐雪がまだ越後 に滞在中のため、貞享四年春の作と判断した。
この『たれが家』 (元禄三年刊)所収の盲韻三巻は、作
風が『虚棄』にやや似ていることから、天和から星阜初
年のものを後に其角が編集して出版したものと考えてい
るが、其角・嵐雪が意外に遅くまで古くさい作風を引き
ずっていたことはすでに述べたので省喝する。
石川真弘縮『蕉門俳人年譜複監 「服部嵐雪」.
俳文「乞食の翁」 「芭蕉魔の形象‑『あつめ旬』序論‑」、『文学』19
75年12月号
し具孝三年十二月一日付、寂照宛≠巴煮書簡 一藷二年三月二十三日付、落梧宛芭蕉書簡(『俳句研究』
六十二号に尾形助氏が紹介されたもの)。
詳しくは「『続虚棄』その人間の磁場(上)
(中)」
(
『国文学放』96号・99号広島大学国諸国文学ム毎
に述べたので省筆する。
※本稿は満ともと三続虚棄』その人問の磁場(上)・(中) (『国文学辞ロ96号・99号広島大学国語国文学会絹) に続く「『続虚棄』その人間の磁場(王」として構想した
もので虜る。前稿を書き終えてから時間が経ち過ぎたこと、
叙述の中心が貞孝三・四年当時の≠巴蕉にあることから、輝名 を変更してここに掲載した。その事憎から叙述が一部前橋と
重なること、また資料の引用に当たっては、一部読み安さを
考慮して表記を改めたことをお断りしたい。
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