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「運ぶ」伊勢と「書く」伊勢 : 版本『伊勢物語』に みる伊勢図像

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

「運ぶ」伊勢と「書く」伊勢 : 版本『伊勢物語』に みる伊勢図像

日高, 愛子

熊本大学大学院人文社会科学研究部 : 准教授

https://doi.org/10.15017/4774143

出版情報:語文研究. 130/131, pp.119-130, 2021-06-02. 九州大学国語国文学会 バージョン:

権利関係:

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一  版本『伊勢物語』の挿絵

古くより、絵は婦女童蒙のためのものであった。そのことは、平安・鎌倉時代の絵巻が一部の例外を除いて平仮名の本文を持つことや、室町時代の御伽草子などにも明らかである。そしてそれは江戸時代の版本挿絵においても継承されていった。例えば、江戸時代初期から盛んに出版された『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などの軍記物は、まず漢字片仮名交じり本が出た後に平仮名版本が現れるが、最初に出版された漢字片仮名交じり本にはいずれも挿絵はない。これらの本に挿絵が現れるのは平仮名版本の出現を待たなければならなかった。それも『平家物語』の場合、平仮名の古活字版や寛永三 年(一六二六)平仮名製版本などの初期の出版よりは後のことであった (注。では、もとより平仮名文である物語の類はどうであろうか。例えば『源氏物語』の場合、嵯峨本を始めとする古活字版には挿絵はなく、次いで出版されたと考えられる無跋無刊記整版本 (注にもまだ挿絵は見られない。挿絵の出現は、慶安三年(一六五〇)刊『絵入源氏物語』が嚆矢とされる。一方、『伊勢物語』は最初の出版、すなわち慶長十三年(一六〇八)刊の嵯峨本からすでに立派な挿絵を備えていた。その図様が以後の『伊勢物語』版本挿絵に継承されていったことは周知のとおりである。さらに貞享・元禄期になると、嵯峨本とは異なる趣向の絵入本も現れるようになった。山本登朗氏は、『伊勢物語』版本

日 高 愛 子 「運ぶ」伊勢と「書く」伊勢 ― 版本『伊勢物語』にみる伊勢図像 ―

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の挿絵が元禄期頃からしだいに近世絵本としての趣を有するようになり、物語本文から独立して挿絵が鑑賞されるようになることを指摘している (注。また片桐洋一氏は、商業出版の時流に乗って『伊勢物語』が数多刊行され、広く一般に浸透したことについて、そこに次の二つの特徴が見られることを述べている (注。第一に、既に刊行されて市場性を持っていた本の再版や覆刻の盛行、第二に、携帯に便利な小本、注や読み癖・清濁などを示した頭書本、『百人一首』や『源氏物語』などの知識を付録した合刻本といった一般読者に応じたサービスの提供である。こうした古典文学の啓蒙化や通俗化の特色の一つに「図像性」があることは鈴木健一氏も説くところだが (注、『伊勢物語』絵入版本の多様な展開は、『伊勢物語』が堂上の学問から解放されて、初学者向けの教養として浸透していくさまを顕著に物語っているといえる。さて、元禄に先立ち、貞享二年(一六八五)に吉田定吉画『伊勢物語絵入読曲』が嵯峨本などにはない口絵を付して出版された。その口絵とは、物語を書く業平と、『伊勢物語』とおぼしき冊子を運ぶ伊勢の図像である(図1) (注。『伊勢物語』の成立に伊勢が関わったとする説は、古くより注釈の指摘するところであった。嵯峨本以来の『伊勢物語』版本の挿絵が国学以前の旧注 (注における『伊勢物語』解釈を踏 まえていること、したがって口絵の伊勢像についても同様であることは夙に山本氏が指摘する (注が、その伊勢図像は一様ではなく、二つの型がある。一つは冊子を「運ぶ」伊勢、いま一つは『伊勢物語』と思われる物語を「書く」伊勢の姿である。本稿では、この『伊勢物語』版本に見出される二種の伊勢図像について考察を試みる。

二  伊勢筆作説

『伊勢物語』の成立に伊勢が関わったとする伊勢筆作説が生じた背景については、木戸久二子「『伊勢物語』古注釈における業平と伊勢

史実と享受

」に詳しい (注。業平と伊勢を夫婦とする言説は古注から存在したことが知られ、また伊勢

図1 貞享二年刊『伊勢物語絵入読曲』98-430

(上冊)

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くはしきことは、けつぎ其外万のまつしよにみえたり。わかはもと我朝の物なれば、神代よりもはじまり、人代におよんで、甚 はなはだもてなすこと也。其れより数 せんざい載の下には、定家卿、哥を改 あらため、心のたらぬをちうを付、こんぼん哥の所を今の世迄ぞんぜしこと、偏に定家卿の御おんぞかし。此物語、いせが家 (ママ)のぶんていにたる故、定家卿のみ給ひしは、いせ十三歳の時、これをかきぬとあり。然故、いせが作と心えべし。かくのごとくみては、ひがことに有まじきかと、ぐちの身なれば思ひぬれとなん。傍線部の伊勢が十三歳で『伊勢物語』を書いたとする説は、幽斎が「世間之流布本」と称した定家本奥書の記述による。抑伊勢物語根源古人説々不同。或云、在原中将自記云々。因茲有其嫌還比興之詞等。又云、伊勢筆作也。或云、生年十三幼書之 似彼家集文体。是故号伊勢物語。以此両説案之、更難決之。(以下略)だが、武田本でも流布本でも、定家は業平自筆説と伊勢筆作説を示すだけで、「強不可尋其作者」あるいは「難決之」として言明を避けているのに対し、承応三年刊小本の序は「いせが作と心えべし」とあたかも定家が伊勢筆作説を主張しているかのように記している。この伊勢補筆説について、延宝二年(一六七四)刊『伊勢 が『伊勢物語』を補筆したとする説は顕昭の『古今集注』や定家本の奥書などに見出される。だが、絵入版本の場合、慶長十三年刊の嵯峨本、そして整版になっても寛永版や正保版の刊語には、京極黄門一本之奥書云、此物語之根源古人之説々不同云々。(以下略)として定家本の奥書を引くものの、作者に関する具体的な言はもともとなかった。絵入版本で伊勢の筆作に言及する武田本奥書を付載するのは、慶安四年(一六五一)刊本が最初である。近代以狩使事為端之本出来、末代之人今案也。更不可用之。此物語古人之説々不同。或云、在中将之自筆、或称伊勢筆作。就彼此有書落事等。上古之人強不可尋其作者。只可翫詞花言葉而已。        戸部尚書在判右の奥書では、定家は業平自筆説と伊勢筆作説を提示するに留まり、強いて作者について特定しようとはしていないが、慶安四年版以後の多くの絵入版本にこの武田本奥書が付され、「或称伊勢筆作」との言が浸透していったことに注目したい (注

(注。その三年後の承応三年(一六五四)には、次のような序を付す小本が出版された ((

(注。此いせ物がたりと名づけし事、あまたのせつ有。しかし、

(5)

物語抄』の巻頭に付された「大意」には、次のように解説している。一、業平かきおけるを没後に伊勢中書して亭子院に奉る。あるひは年十三幼少にして書。このゆへに作者におほせて伊勢物語といふなり。一、業平みづから書作なる事、うたがひなし。其故は我身の事をへりくだりて、かたいおきななどいひ、哥の事はしらざりければなど卑下のこと葉あり。右、いづれも古注にして当流には不用。伊勢は七条后の女房なるによつて、彼后に書てたてまつる作物語也。其中に業平の身上誠にありける事をも書、又、万葉集已下の哥、其外さもなき事をも業平をぬしになしたる事おほし。只作物語と見るなり。(以下略)これは、次に示した宗祇の『伊勢物語山口記』(以下、『山口記』)に拠る (注

(注。又同奥書に此物語 名字非ンハ筆者セン伊勢と云へり。以当流に用る題号は、或説 云、伊勢書之、奉

ルノ宇多 御門之由云へり。此 儀不然。 伊勢は七条の后宮の宮女たる間、彼 宮に書て奉りし作 物語也。其 内業平身上に在ける事もあり。又万葉集以下の哥其 外さもあらぬ事を業平を主 になして書る処多 侍るべし。(以下略) 延宝二年刊本の「大意」が『伊勢物語肖聞抄』(以下、『肖聞抄』)よりも『山口記』を参考としているのは、『山口記』が「初心之輩所望之間書之」と跋文に記すように、初心者向けの書であったことも影響していると思われる。さて、『山口記』の記述に明らかなように、『伊勢物語』を伊勢筆作の作り物語としたうえで、七条后献上説を「当流」の説とし、宇多院献上説を斥けたのは宗祇であった。すなわち、先の承応三年刊小本の序が「いせが作と心えべし」と断じるのも、こうした宗祇の言説を承けるものであろう。かくして、『山口記』や『肖聞抄』で宗祇が示した伊勢筆作説と七条后献上説が絵入版本のなかに記述されるようになる。そして延宝二年刊本で示された「大意」は、貞享二年刊本や元禄三年(一六九〇)刊『伊勢物語伝受入』、元禄十年六月刊本、元禄十四年刊本などの以後の絵入版本にも引き継がれていった。しかし図像の側から見ると、延宝前期までの版本挿絵は嵯峨本の踏襲に終始し、『伊勢物語』の成立に関わった人物としての伊勢はいまだ図像化されるに至らない。『伊勢物語』の口絵に先に示した二種の伊勢の姿が最初に確認されるのは、延宝六年に出版された『伊勢物語』の俗語訳である『伊勢物語ひら言葉』(菱川師宣画。以下、『ひら言葉』)においてであ

(6)

(注

(注。そして『伊勢物語』の絵入版本では、吉田定吉画の貞享二年刊本に初めて出現するのである。

三  「運ぶ」伊勢

前述の『ひら言葉』には、上之一の口絵に物語を「書く」伊勢の図があり、上之二の口絵に冊子を「運ぶ」伊勢の図がある。上之一の口絵については後述することとし、まず上之二の口絵を見てみたい(図2)。奥に七条后とおぼしき女性が坐し、そこに『伊勢物語』と思われる冊子を献上する伊勢の姿が描かれている。 このような『ひら言葉』の口絵の図様は絵入版本にも用いられた。前掲(図1)の貞享二年刊本の上冊口絵には見開きで、物語を書く業平と、冊子を「運ぶ」伊勢の姿が描かれるが、その伊勢の図像は『ひら言葉』の構図を踏襲したものである。『伊勢物語』と伊勢との関係について改めて古注を参照すると、『和歌知顕集』 (注

(注では、伊勢を業平の妻とし、そしてその伊勢が業平没後に『伊勢物語』を世に残したと説く。そのうえで、伊勢が七条后に仕え、宇多院の寵を得たことを述べ、作者たれとなきやうにてとりいだしたりけるを、伊勢が筆にてかきてよりいだしたりければ、やがて伊勢がふでとおぼしめして、御門、ことに御もてなしありて、殿上にて御覧ありしかば、世こぞりてもてなして、おほくかきとりてけり。として、宇多院のもとに『伊勢物語』が献上されたとする説を唱えている。このような説はまた『冷泉家流伊勢物語抄』 (注

(注にも、伊勢が中がきの本とは、業平伊勢を妻としたりし時、伊勢物語の草案をして書たりしを、業平滅後に宇多院より召されければ奉之。と注されており、古注では宇多院の所望を受けて伊勢が『伊勢物語』を献じたとする宇多院献上説が優勢であった。だが、

図2 『伊勢物語ひら言葉』98-951-1

(上之二)

(7)

この宇多院献上説を誤りとし、後宮での『伊勢物語』の享受を述べる七条后献上説を「当流」の説として主張したのが、先に示した『山口記』や『肖聞抄』である。宗祇が「当流」の説とした七条后献上説は、江戸初期に出版された『闕疑抄』にも一説に、七条后温子昭宣公女に、伊勢が書て参らせたると云。宇多御門へ奉ると云儀は不用之。伊勢は七条后にさぶらひたるものなり。と相承され、定説化した。つまり、図1に示した貞享二年刊本、そしてこれを引き継ぐ元禄三年九月刊『首書伝受入』や元禄十年刊『伊勢物語大成』の口絵は、こうした旧注における七条后献上説の反映であった。なお、宝暦三年(一七五三)に出版された寺井重房画『伊勢物語よみくせ付』の口絵に、物語を書く業平と冊子を運ぶ伊勢の姿が併せ描かれているのは、業平と伊勢を夫婦とする古注釈の残影かと思われる(図3) (注

(注。貞享二年刊本は中冊の口絵にも「運ぶ」伊勢の図を載せる(図4)。これと同様の図様は元禄十年刊本などの後の版本にも用いられ、延宝八年に出版された『伊勢物語拾穂抄』(以下、『拾穂抄』)に拠る伊勢の略伝を添えるなどして流布していった (注

(注。 他方、宝永五年(一七〇八)刊『七宝伊勢物語大全』の上冊口絵のような一風変わったものも現れた(図5)。この見開

図3 宝暦三年刊『伊勢物語よみくせ 付』98-633-1

図4 貞享二年刊『伊勢物語絵入読 曲』98-430(中冊)

(8)

き図は一見、伊勢が業平のもとに冊子を運んでいるようだが、果たしてそうだろうか。これは、書く業平と「運ぶ」伊勢という異なる構図を見開きに収めようとした絵と解すべきではあるまいか。この図は、例えば、初段の春日野を描く嵯峨本の第一図において、屋外で男と対面する女房を描きつつ、一方で屋内で「女はらから」に取り次ぐ女房の姿を描いた手法を思わせる。すなわち、時間の推移を同一画面上に描出する「異時同図」の手法である。「異時同図」とは「異事同図」でもある。宝暦五年刊本の絵師はこのような手法で、業平自記、そして伊勢の七条后への献上という古来の注釈に基づく説の一括絵画化を目論んだのであろう。このように、七条后献上説による「運ぶ」伊勢の図像が幾 つかのバリエーションを生みながら継承される一方で、元禄期頃から別の構図による伊勢の図像化が見られるようになる。それが物語を「書く」伊勢の口絵である。

四  「書く」伊勢

既述の通り、伊勢の図像化は絵入版本に先行して『ひら言葉』の口絵に確認されるのだが、その上之一の口絵には「書く」伊勢の姿があった(図6) (注

(注。このような「書く」伊勢の姿は、業平没後に伊勢が『伊勢物語』を筆作したとする古注以来の伊勢筆作説を図像化したものである。絵入版本においては、元禄三年に出版された豆本の上冊口絵に、物語を「書く」伊勢の図像が初めて出現する

図5 宝永五年刊『七宝伊勢物語大全』98-483-1

(上冊)

図6 『伊勢物語ひら言葉』98-951-1(上之一)

(9)

(図7)。画面左奥に描かれるのは七条后であろう。ここでは、伊勢が『伊勢物語』を筆作したとする伊勢筆作説と、七条后献上説とが併せて図像化されている。すなわち、前掲の宝永五年刊本の上冊口絵(図5)と同様に、「書く」伊勢と「運ぶ」伊勢を「異時(事)同図」として見開きに収めたものである。次いで元禄十年六月刊本の上冊口絵を見てみると、「書く」伊勢だけが図像化されている(図8)。これと同様の「書く」伊勢の姿は、宝永二年刊本や正徳五年(一七一五)刊『新版絵入伊勢物語』(「薄雪物語」合刻本)にも見いだされるが(図9)、その右手には冊子らしきものを伊勢のもとへ運ぶ女房などが描き足されている。一体この三人の女たちは何なのか。ここで改めて、図1に示した貞享二年刊本の上冊口絵を見 てみよう。両図を較べると、宝永二年刊本に描かれる三人の女たちが、貞享二年刊本の口絵を援用したらしいことが判明する。このような「書く」伊勢と「運ぶ」伊勢を同一画面上

図7 元禄三年刊豆本98-546(上冊)

図8 元禄十年六月刊本98-678-1  図9 宝永二年刊本98-478-2 (上冊)

(下冊)

(10)

に描く「異時(事)同図」の構図は、さらに延享四年(一七四七)刊『花王伊勢物語』 (注

(注の見返しにも見られる(図

伊勢物語』下冊口絵を見てみたい(図 いま一つ、明和四年(一七六七)刊の下河辺拾水画『新版 10)。

伊勢年十三、ようちにして、かきそへ、后に奉りけり。 としきさき につかへり。此物がたりは、業平かきおき給ひしを、後に なりひらのち 伊勢は、いせのかみつきかげのむすめにて、七条のきさき の上部には、次のような記述が添えられている。 11)。「書く」伊勢図像    故 ゆへに、さくしやにおほせて、いせ物 ものがたり語となづけ給ひしとなん。

   また伊勢の二字

を男 なんによとよむゆへに、題 たいがうとすと云。伊勢が筆作した作り物語であるから、作者の名によって書名を『伊勢物語』と称すのだとする伊勢 作者説である。先に見たように、この伊勢作者説は、定家の流布本奥書の記述を端緒とし、『肖聞抄』が、非彼筆作者何称伊勢乎と侍れば、黄門の心も、伊勢作をもつて此物語の題号とすとみえたり。されば、当流用之 注注

(注。と敷衍して「当流」の説としたものであった。『肖聞抄』はさらに、例えば第三段の「二条の后のまだ帝にも仕うまつり給はで…」という、いわゆる後人注記に対して、伊勢がかけるなるべしと注すなど、『伊勢物語』章段中の作者の評言と思われる箇所に、それが伊勢の補筆によることを逐一注記し、『伊勢物語』が伊勢筆作の作り物語であることを強調している 注(

(注。絵入版本がこうした伊勢作者説の影響を多分に受けていることは、先

図10 延享四年修『花王伊勢物語』サ4-69

図11 明和四年刊本98-511-1

(下冊)

(11)

に触れた延宝二年刊本の「大意」の記述などからも明らかである。一方で、元禄六年刊『新注絵抄伊勢物語』は巻頭に「伊勢物語作者之説」と題して、次のように『拾穂抄』を引用している。いせ物語は伊勢の御の筆作せるゆへに、いせ物かたりと云といへとも、なを説々有て、決し難し也、定家卿の奥書にも見えたり。……又なりひらの自記のみにはあるべからず。されば古人の御説にも、まづ業平自記の双紙ありしうへに、伊勢さま〳〵の事を書そへて、作り物語となして、宇多院の后宮七条のきさき温子のかたへ奉りしといふに決せり。同様に、元禄八年刊本も「伊勢物語作者之説」に、伊勢物語の作者、古来よりまち〳〵説ありといへとも、畢竟する所は、なり平みづからわが身のうへの事をつくり給双紙なり。その上に伊勢といふ女房さま〳〵の事を書そへて作り物語となして、宇多の院の后宮七条后温子へ奉りし双紙也。よりて伊勢物語と云。と記す 注注

(注。元禄期にこのような「伊勢物語作者之説」が付されるようになったのは、伊勢が『伊勢物語』を誰に献上したかという問題、すなわち誰の所望によって物語が書かれ、享受 されたかという問題から、伊勢が『伊勢物語』の作者だとする物語成立の根幹に関わる問題へと関心が向いたためと考えられる。「伊勢物語作者之説」で引かれる『拾穂抄』は、『山口記』や『肖聞抄』などの旧注で示されてきた伊勢作者説を受け継ぐものであった。また『拾穂抄』は旧注を取捨選択し、頭注・傍注形式で示す点で、先行する『闕疑抄』などの注釈書よりもわかりやすく、利用しやすい注釈書として広く流布した。そうしたことから、絵入版本でも元禄中頃から右のような伊勢作者説が多く記述されるようになった。その結果、それをより強調し、印象付けるものとして、「書く」伊勢の図像が流布していったと考えられる。

五  伊勢図像のゆくえ

しかしながら、このような古来の伊勢をめぐる言説は、やがて新たに勃興した国学によって批判に晒されることとなる。此いせが作といふ妄説あるを妄説ともしらずしてその説にしたがふ人、文体の似ざるをも似たりといふは、馬を鹿といふ人にしたがふに異ならず。伊勢は婦人なり。此物語の文体、婦人の文体とも見えず。しかのみならず、

(12)

時代の相違有をもかんがへざる人の憶説と知るべし。(伊勢物語童子問) 注注

(注

という春満の批判に端を発し、さらに真淵の、業平朝臣の書たる物の有しに伊勢が筆くはへて七条后

へ奉れりと、是はいよゝ僻 ひがこと也。……又伊勢が書ずば伊せ物がたりとはいはじてふもいかにぞや。おほよそ物語に竹とりよりはじめて、おちくぼの君、うつぼ、光源氏の君、其ほかにもみな中に専らとする人のうへをこそ書 ふみの題 とはしたれ、記者の名を題 とせし物を見ず。其うへかゝるふみは記者の名をあらはすまじきをや。(伊勢物語古意) 注注

(注

という弾劾を受けて、『伊勢物語』の形成に関わったという伊勢をめぐる言説は「憶説」から「僻こと」へと貶められ、学問の世界では顧みられなくなった。だが、絵入版本という啓蒙書の世界では、再版や覆刻などによって、伊勢図像はその言説とともに以後も生き続け、人々に親しまれたのである。

注1西郎「

」(国文学』三○、二〇一四年三月)注2九州大学附属図書館貴重資料(九大コレクション)参照。 注3朗「る『

」(『日本文学と美術』和泉書院、二〇〇一年)「伊勢物語版本の世界」(『伊勢物語版本集成』竹林舎、二〇一一年)注4片桐洋一「元禄時代の伊勢物語」(『上方の文化元禄の文学と芸能』和泉書院、一九八七年)注5鈴木健一『江戸古典学の論』第一部第一章「注釈書の江戸時代」(汲古書院、二〇一一年)同編『浸透する教養

江戸の出版文化という回路』(勉誠出版、二〇一三年)注6以下、版本の画像および本文の引用は、国文学研究資料館「新ータース」ータる。注7や『釈を古注とし、一条兼良の『伊勢物語愚見抄』以後を旧注とする従来の区分による。注8注3参照。注9「『伊語』

享受

」(『三重大学日本語学文学』一六、二〇〇五年六月)

10奥書については、注3山本「伊勢物語版本の世界」に詳しい。

11『伊勢物語版本集成』の影印により、句読点を付した。

により一部改め、濁点を付した。 の本文の引用は、寛文八年刊本を用い、『伊勢物語古注釈大成』 12一つ書きの記述形式は『肖聞抄』に倣ったか。なお、『山口記』

までもなをのこし給ふ」と記される。 にこのみたまふゆへ、いせものがたりをつくり給ひて、今の世 かくれなき哥の上手にて、ことにぶんしやう、しよかんをつね 『伊勢物語』を書く伊勢の図があり、「いせといひし人は、よに 図書館善本叢書師宣政信繪本集』八木書店、一九八三年)にも 13同じく菱川師宣の絵による天和三年刊『美人絵づくし』(『天理

(13)

より、濁点を付した。 14は、 一九九三年)による。 15本文の引用は、片桐洋一『伊勢物語の研究資料編』(明治書院、

『大字改正伊勢物語』にも見られる。 16は、 こでは一般に流布した延宝八年版を用いる。 17『拾抄』が、 郎『通俗伊勢物語』(平凡社、一九九一年)参照。 18い。西 される。 ば、は『で、 19美「」(』)

20本文の引用は、慶長十四年古活字版により、濁点を付した。

りをめぐって

」(『詞林』四七、二〇一〇年四月)に詳しい。 21「『伊抄』

ながら書かれたことが指摘される(注 22享保十六年(一七三一)『昔男時世妝』『拾穂抄』により

談」として『拾穂抄』の伊勢作者説がそのまま引用されている。 18)が、巻五末には「実 る。 23は、 24本文の引用は、寛政五年刊本による。

(ひだか  あいこ・熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授)

参照

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