アリストテレス トポぐスと「形而上学」 一諸トポスの「形而上学」における適用例− 池 田 康 男 ‥● ● この小論では,「トピカ」に挙げられている諸々のトポスのうち,どのようなものが,そして, どれだけ「形而上学」においてその適用例を見い出しうるのかを見ておきたい.その適用例を多く 見い出せることに応じて,アリストテレスの諸著作中における「トピカ」の評価も高められるであ ろうし,また,「形而上学」と「トピ゜カ」の関連も密接なものであることがわかるであろう. 適用例を挙げる前に,弁証論の存在の学に対する,また,学的論証に対する関係について簡単に 触れ,次いで, J. Brunschwig及びW. A. De Pater がトポスについでおこなっている解釈を 紹介しておきたい. ,= I 内容的に見るならば,弁証論的諸命題(弁証論的問題及び推論の前提と結論をなす命題一切をい う呼ぶことにする)は通念(l'である.しかし,弁証論的諸命題は,その形式の点から見るならば, 主語述語から成る.この主語述語の関係を仮りにS−Pという式で表わすとする. この場合,Pが Sについて何を表明しているかは,四つに分類される.定義・特有なもの・類・附帯的なものがそ れらであり(2)後にPraedicabiliaとして知られたものである. これらの各々は次のように規定されている.定義は本質を表わすロゴスであって,.名前の代りに ロゴスが与えられたりするC3)且つ,定義されるべき当のものにのみ帰属するものを表わすロゴス である(■・)特有なものは本質を明らかにしないが,当のものにのみ帰属し,且つ,当のもの・と主語 述語関係において換置できるものである(5)類は種的に異なる多くのものについて,何であるかに おいて述語されるものであ・る(6)_附帯的なものについては二つの規定が与えられている.即ち(イ)定 義でもなく,特有なものや類でもなくして,しかも事物に帰属するものである.又は,(ロ)何にてあ れ,同一のものに帰属することもしないことも可能なものである(7) これらPraedicabilia相互の相違は上記の如くであるが,他方,.それらのうち,定義以外の三者 はいずれも定義的なもの(印ご4)であるという点で,定義への関連をもつ(8)何故なら,定義は その主語と換置可能であるという点で特有なものと共通するし,また,定義のうちには類が入って 来るという点で,定義は類と共通するからである.更に,定義の構成要素のうちの或ものか,定 義される当のものに帰属するのでなければならないという点で,また,或もの甲について乙が述べ られるとき乙についての定義も真なるものとして,甲に.ついて述べられなければならないという点 で(9)定義は附帯的なもの,と共通するからである. アリストテレスによって,このように,弁証論的諸命題が,S−Pという形式の下に把握されて いること,そして,P即ち述語の諸形式がPraedicabiliaに分類されていること,更に, Praedica-biliaのうちの,定義以外のすべては,定義に関連づけられていることは,次の(A)∼(C)の事柄に とって極めて重要である. (A)トポスの設定にとって 「トピカ」という作品がそれから標題を得ているところのトポスについて,この作品はなんら定 義を与えていない.弁証論的推論において,トポスの果たす機能と本質は何分あるのか.このこと についてはすぐれた論文があるので,後程それらを紹介することにして,‥ここでは述べない. トポスの設定が弁証論的諸命題をS−Pという主語述語関係として捉えるこ,と,及び,述語の諸
56 高知大学学術研究報舎`蛍27巻・ 人文科学 形式をPraedicabiliaに分けることに基づいていることば明らかである.「トピカ」II―VIIに見 られる通り,各々のトポスはPraedicabiliaに応じて設定されているからである. (B)弁証論一存在の学との関連にとって / 「トピカJI.10では,10個の範暗が挙げられている」そして,`‘Praedicabiliaによって形成され る命題はすべて,いつも10個の範暗のどれかを表わしている(10)'これは次のことを意味する.命 題はすべてS−Pという仕方で表わされるとした場合,Sクは必らず10個の範暗のどれかに分類され うるものであり,PはそのようなSについて, Praedicabiliaの→つを表わしている.換言すれ ば,Sはどの範瞬におけるものであれ,それについて, Praedicabilia ・のうちのいずれかを述べる 命題が成立するということである.したがって,Sがどの範暗に入るものであるかということには 全く関わりなく,例えば,定義は,どの範鴫に入るものについての定義であれ,共通的な性格を備 えているべきであり,このことは,他のpraedicabilia についても同様である.そして,その共通 的な性格こそ,夫々のPraedicabiliaに応じた諸トポスによって規定されているのである(11) つ まり,(イ)如何なる命題であれ,その主語となるものは諸範嗚のうちのいずれかに入るものである. (ロ)その主語は仮令如何なる範鴫に入るものであるにせよ,その主語の述語となるものは, Praedi-cabiliaのうちの一つを表明している.㈲そのPraedicabiliiaの夫々に応じて,’諸トポスが設定さ れる. , このようにして,弁証論は,或命題の主語が如何なるものであれ,それについて或述語が帰属す る又は述語づけられるか否かを,トポスに基づいて吟味する手だてを得ることになる.弁証論の 核心は,或命題をS−P関係として捉え,且つ,それを,諸範暗の分類・Praedicabiliaの分類・ 諸トポスという相の下で捉えることにある. △ i 弁証論に帰せられている諸特性の幾つかは,そのことに基づいているのである.諸特性とは,例 えば,弁証論は,その対象が特定の類に限られぬものである.とと(1町それ故にまた,一切のもの について論じうること(13)凡ゆる探究の原理に向けて=道をもっていること(14)などである. 弁証論についてのこれら諸特性は,結局,その対象が特定の類に限られぬものであるということ に尽きる.ところで,このことは,弁証論が普遍的な方法を有っていることを意味する.何故なら ら,「形而上学I IV.2, VI. 1において,特殊学はその対象を特定の類に限定するか故に,普遍的に 考察するのではないことか語られているからである呻.ところか,その対象が特定の類に限られ ぬことか弁証論の特質であるとするなら,存在の学も弁証論と極めて似た姿をしていることになる る.何故なら,存在の学は,特定の類に限定されないととろの,ご存在である限りの存在(rb liv fi 昴)を探究するからである(16) jl ダ ! 今ここでは次の点を指摘するにとどめて,存在の学ど弁証論との相違点と類似点には深く立ち入 らぬことにする.弁証論は方法論なのであって,学なのではない,しかるに存在の学は,仮令,そ の対象たるr占加力加か特定の類に限定されぬものであるとしても.ともかく,対象としてrゐ 加?5恥をもっているのである. また,弁証論は,主語に対する述語の釆当性を, Praedicabilia ・ 諸トポスから論じることができ,したがって,主語は如何なる範範におけるものでも, Praedica-bilia・ 諸トポスという図式は決定されている,という意味で(弁証論は)主語となるもの(即ち諸 範暗のいずれかに分類されうるもの)の存在の依存関係には全く無関心でありうる.それに対し て,存在の学においては,まさに,主語となるものの存在の依存関係こそ,最も重要な関心事であ る.存在の学は,一方ではその対象が特定の類に限られなりということを以って,弁証論に相通ず る面があるが,他方では,第一哲学即ち,究極的実体の探究というq.とを要請されているのであ る. L‘ ’・1” ’ jJ 弁証論と存在の学との間には,上のような相違点と類似点があるのであるが,その類似点に関し て,次のことを指摘しておきたい.
アリストテレス トポスと「形而上学」 (池田) 57 弁証論の普遍的性格は, Praedicabiliaとそれに応じ・た諸トポスという図式から,諸命題を吟味 = − − − しうるということにあるのであるが, / / ffi i f r尹 fまま スの核心を成す法則(17)があり この普遍的方法としての図式は,結局のところ,各々のトポ f/ / f タノノjタタノj/Fノノノタ 1タ タ タタ タノ♂ 戸 且つ,その法則を構成する基本的諸名辞諸概念が,範鴫を異にす f fタf き p≫ 尹きf iノ タ タ タ F タ ff f f タ タタタタf rt r r rタ るところの多くのものに妥当するものであることに環元されると思われる.この環元が証されるた めには,次の二つの手続きが必要とされるであろう.(a)各々のトポスにおいて,その核心的部分 を構成する基本的諸名辞又は諸概念を集めること.そして,この手続きとは別に,(b)アリストテ レスは諸範鴫における如何なるものにも妥当するような諸名辞又は諸概念という考えをもっていた かを調べること.そして,そのような考えをもっていたならば,それらはどのような諸名辞又は諸 概念であるかを調べること.以上,二つの手続きが必要とされる.そこで,もし, (a)の手続きで 集められた基本的諸概念が,(b)の手続きによって集められたものと合致するならば,弁証論に おける普遍的性格は,トポスの核心を成す諸概念が,範鴫を異にする多くのものに妥当するもので あることに還元されることになる. さて,(b)で要請されているような手続きについての答えは「トピカ」では何も与えられない. しかし,「形而上学」において見い出すことができる.即ち,アリストテレスは,諸範鴫における 如何なるものにも妥当するような諸概念という考えをもっていたのであり,それらは,存在である f ●∼タ ノ∼タ 11戸戸 fj∼〆∼f / 限りの存在に自体的に帰属するものどもである.では,具体的にそれら諸概念はどのようなもので あるか. このことについては,筆者は既に別の論考で述べておいたので(18)ここでは省略する. (a)の手続きか成功を収めるためには, 260余(19)の各々のトポスにおいて,核心的部分を成す法 則がはっきりと表明されているを要する.しかしその要件を満たさないトポスも多々ある.また第 III巻におけるトポスの如く,特定の範鴫のものにしか妥当しない価値論的トポスもある.したがっ て,(a)の手続きは,きっぱりとした型で成功するというわけではない.しかし,凡てのトポスを 取り出して,上述のことを念頭に検討した限りでは,蓋然的にであるにせよ,次のことが言えるの である.即ち,トポスの核心的部分を成す諸概念の多くは,存在である限りの存在に自体的に帰属 するものどもと合致するのである. ヽ 「形而上学」と「トピカ」は,したがってまた,存在の学と弁証論とは密接な関連をもっている のである.後に見るであろうように様々な種類のトポスが,そして一種について何回となく「形而 上学」には用いられているのである. (C)学的論証にとって 「分析論後書」は学的論証について述べた作品である.ところか, f f ff ff学的論証についての論その ものが,その論によって規定されているところの学的論証の形態を成してはいないのである.J. Barnesは,この事態をどのように理解すべきかを考察して,次の如き結論を出す.論証そのもの は探究の手だて(the instrument of research)ではなくして,一旦獲得された知識を順序だてて 表明,教授するための形式的な手だてなのである,と(2°'. J. Barnesのこのような指摘は正しい と思われる.学的論証をこれら二つの面から,即ち,学的論証そのものと学的論証についての論か ら捉えた場合, Praedicabilia・諸トポスからの吟味という点で捉えられた弁証論は,それら二つと どのように関連するのか. (a)学的論証そのものとの関連 学的論証といえども,その前提及び帰結を構成する諸命題はS−Pという形式をとることは,弁 証論的諸命題の場合と何んら変ることはないC21> 内容的に見て,学的論証の諸命題を弁証論的諸 命題と対比するならば,後者は通念であるのに対して,前者は真にして,主語と述語の結びつきは 必然的でなければならない(22)では,主語にとって述語が真なるもの,必然的なものとはどのよ うなものか.それは,主語に対して自体的に帰属するもの,及び,主語が主語である限りにおいて
58 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学 帰属するものであり,結局,述語は定義か特有性か類(種差を含む)の範囲に限られることにな る(23)したがって,学的論証の諸命題も,それらがPraedicabiliaという次元で把握される限りに おいて,諸トポスによる吟味を受け容れうるのである.では,附帯的なものについての諸トポスは どうか,それらも,定義的ロゴスが真なるものとして主語に帰属するか否かを吟味するのに有効な のであり,それ故にこそ,附帯的なものも,類や特有性と並んで定義的なもの(optica)と言われ ているのである(24) ・. このように,学的論証の諸命題に関して,しかも前提の設定に関して(何故なら,真であり必然 的なものとして前提か設定されてしまっている場合には,論の余地かないからである),その前提 かPraedicabiliaという次元で捉えられる限りにおいて,そのいずれかを満たすべき諸条件は,ト ポスによって提供され,支えられているのである.トポスは弁証論的命題にも学的論証命題にも共 通なのであって,それに支えられて具体的な命題を構成していく場合,真にして必然的なるもので あれば,それは学的論証命題であり,通念であれば弁証論的命題であるにすぎない. Praedicabilia ・ 諸トポスという図式は,このように,学的論証の諸命題に関して密接な関連のあ ることは,アリストテレス自身によって語られている.「分析論前轡」ト27の冒頭で次のように述 べられている.「さて,どのようにしたら,提出された主題に向けて,我々自身いつも,諸推論の 備えか十分できていることになるのか,また,どのような方法によって,我々は個々の主題に関し てその諸原理(i.e.諸前提(25))を獲得するのであるかを今や述べなければならない.というのは, 恐らく,単に諸推論がどのようにして生じて来るのであるかを,我々は考察しなければならないば かりでなく,それらを作る能力をも亦持っていなければならぬからである(26)」.これに続いて,27 −30章では,ここに提出された問いのための検討がなされた後,30章末尾で次のように言われてい る.「どのような仕方で諸前提を選び出さなければならないかは,概括的にではあるが,かなり よく述べられた.しかし,弁証論についての著作の中で,j もっと厳密に我々は述べておいた(27)J 傍点を付した著作とは勿論「トピカ」である.このように,学的論証の前提の設定に関わる考察に おいて「トピカ」が参照されるべきものとして,プリストテレス自身によって明確に述べられてい ることは注目に値するし,我々の上述の見解への支持ともなるのである(28) (b)学的論証についての論との関連 Praedicafilia・諸トポスに立脚しての議論はこのように,学的論証そのものに関して有効である ばかりでなく,他方では,学的論証についての論そのものにとっても有効であると思われる.これ は今のところ単なる予測であるにすぎない.しかし,「分析論後書」における学的論証に’ついての 論そのものにおいて,「トピカ」に枚挙されている諸トポスがどのように用いられているかを調べ てみることによって,その予測は実証されることになるであろう. さて,以上のようであるとするならば,「アリストテレス自らの『分析論』は『トピカ』を時代 おくれのものとなした(29)」というD. Rossの見解は正しくないであろう(30J彼がこのような見 解を抱く理由は次の2点にある.即ち,「トピカ」の中心巻をなすII-VII2は「分析論」における 如き論証がまだ発見されていなかった頃の作品であること/また,「分析論」で扱われるのは学的 論証であるのに対し,「トピカ」では通念からの推論が扱われていることによる. D. Rossの二つ の理由に対して,「トピカ」の中心的諸巻II-Vlhはアリストテレス初期の作であることは我々も 認めるとしても,第2のj理由に対しては異議を唱えたい.結果として型の上に現われた双方の推論 を,内容の点から見るならば,一方は,真にして必然的なる儲前提から成るものであり,他方は通 念から成るものである.しかし,いずれの推論も,その前提を設定していく段階で捉えるならば. 双方共, Praedicabilia・諸トポスによる諸条件を満たさなければならないのである.学的論証の前 提そのものかトポスによる吟味を受け容れるのであり,また,学的論証についての論そのものは,
アリストテレス トポスと「形而上学」 (池田) _ 学的論証の形態を成していないのである. 59 II トポスについて トポスという言葉はこれまでにしばしば用いられて来たが,それが如何なるものであるかは述べ られなかった.それ及びそれに関する事柄については,幾つかのすぐれた研究がなされているの
でC3UそれらのうちJ. Brunschwigの見解とW.A. De Pater のそれをここに紹介しておくに とどめる(32)前者はトポスの機能と本質とを,そして後者はトポスの種類について主として教え てくれるからである. (A) J. Brunschwigの見解 質問者と答え手(33)の前に問題‘3oが提出され,答え手が肯定もしくは否定の立場をとることによ って,答え最の支持する命題が確定した場合,この時点から質問者は弁証論的議論(即ち推論)に とりかかる.その推論の諸前提は,相手がもはや同意せざるをえないような性格のものであり,そ の推論の結論は,相手か主張するものと相矛盾するものでなければならない.結論となる命題は, 質問者が自分の任務を開始する時点においで,具体的に決定されているのである.それ故,質問者 の仕事はその結論にとって好都合な諸前提を見い出すことにあることがわかる.諸前提は二つの性 格をもっていなければならない.一方では目当ての結論を論理的にもたらすものでなければならな いし,他方,諸前提はそれ自体で,そのような結論に矛盾する命題を守ることに腐心する相手の向 意を余儀なくせしめるものでなければならない.ところでこの問題に対する解決策こそ,トポス概 念のうちに含まれているのである. トポスの本性を規定することは見かけ程容易ではないのであるが,それでも,その最良の方法 は,トポスが果たすべき諸機能を考察してみることである.質問者は,自分の到達すべき結論を予 め知っているのであるから,そこへ到達することを許すような諸前提を探さなければならない.そ れ故,トポスとは,与えられている結論から出発して諸前提を作るための仕掛け(une machine 11 faire des premisses a partir d’・une conclusion donnde)である.或は次のように言われうる.
トポスとは,諸命題を産出するための道具(outil)であり,与えられたーつの命題(即ち到達すぺ き結論)から出発して,最初の前提と共に諸前提から結論への関係を保ちなから,一つ又は多くの 異なった命題を限定しうる道具である.そして,同一のトポスが異なった多くの命題を扱いうる
し,また,同一の命題が多くの異なったトポスによって扱われうる.〔以上, J. Brunschwing : Aristote,Topiquei.pp.χχχ VIII-χL〕 1
トポスの果たすべき機能か上述の如きものである場合,その機能を果たすための,トポスの本性 とはどのようなものであろうか.様々な変型かおるものの,アリストテレスの諸トポスは,その基 本構造において一つの同じものに還元できると思われる.即ち,どのトポスも規則(r6gle)とし て現われるのであるか,その規則は,命題の構成手続きへと関係づけられており,且つ,法則 (loi)の上に建てられているものである.規則は,或命題(もしくは或命題ども,即ち複数である ことも可.しかし,簡略を期するため,命題が一つの場合を想定しておく(3y)が実質的に確保さ れうるものであるかどうかを調べてみることを命ずる.そのI或命題を,(質問者が)確立もしくは くつ返そうとする命題一一これを第1命題と呼ぶことにするーと区別するために,第2命笛と呼 ぶことにする.構成手続き.は,第1命題の内容を出発点として,第2命題の内容を具体的に決定す ることを可能ならしめる.最後に,法則は,第2命題と第1命題との間に,前件の後件に対する関 係を設定するのであるが,その場合,夫々第2命題及び第1命題の一般様式であるところ.の二つ・の
60 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学 ることを想定しながらそうするのである.この含意関係は,そめ上,異なった装いを帯びることが できる.即ち,第2命題が第1命題を含意しているときには,第2命題は第1命題を肯定によって 確立するのに役立つ<3 7)_これに反して,第2命題か第1命題に含意されている場合には,第2命 題は第1命題を否定によってくつ返すのに役立つ(38)最後に,第2命題と第1命題とが相互に含 意関係にある場合には,第2命題は第1命題を確立するためにも,また,くつ返すためにも用いら れるる. それ故,トポスによる手続きは次の四つの段階に分解できることになる. (1)第1命題PIは,一 般様式命題Σ1を具体化したものである(次の意味においてそうなのである.即ち,P1の具体的諸 名辞は,Σ1においては,P1の具体的諸名辞に該当するだけの空白一一その空白を記号で示すこと もできるのであるかーで代用されているのである).(2)Σ1は含意関係によってJ2に結びつけ られている. (3)それらによってP1は2’1を具体化したところのそれらに応ずる具体的な諸名辞 の助けを借りて,J2を具体化することによって,P,が得られる. (4) P2は,念頭に置かれている トポスによって,P1へ結びつけられている前提である.〔以上,0夕. Clt.pp.XL-XLI〕 次に,上記の分析を,任意に選び出された例(39Jにようで明らかにしてみよう. IV. 2. 123" 11-4 におけるトポスは次のように述べられている.「類の種差どものうちのどれも,類の種と見倣され ているものに述語づけられないならば,そのよう’な種については,類も亦述語されないであろう. 例えば,魂には奇も偶も述語づけられないので,数も亦述語づけられない」.或具体的な命題がこの トポスの適用を受け容れるのに適したものであるためには,その具体的な命題は,その主語につい て述語を類という資格で配するのでなければならない.PIなる具体的命題(例えば,「魂はその類 として数をもっている」)は,一般様式命題2’1(この場合, 2"!は「Sはその類としてGをもって いる」)へ還元される. I'lは直接的な含意関係によって,第2の一般様式命題2’2へ結びつけられ る(この場合, Di, D2を類Gの種差であると仮定すると,2’りま,「SはD1もしくはD2であ る」となる).いま,PIによって与えられる内容の勘けを借りて, IIを具体化すると次の命題P2 を得る,即ち,「魂は奇であるか或は偶である」.このP2はPIによって含意されているのである. そこで,上例のトポスにおいて見られる如く,P2が破棄されるならば■ Pi も同様に破棄されなけ ればならないのである.〔以上, o!>. cit. p.XLII〕 J. Brunschiwigによるトポスについての分析の紹介は以上である. (B) W.A. De Pater の見解 . トポスの何であるかは,「トピカ」では定義的な仕方では何も与えられていないことについては すでに述べた.しかし,「弁論術」においてただ一箇所だけ,トボスについての定義的な説明か与 えられている.「私は要素とトポスとは同じものだと言う.何故なら,要素もトポスも,それの下 に多くの弁論術的推論が服するものであるから(40)」.アリストテレスのこの規定をより明確にする ために, Paterは「トピカ」で与えられているトポスの一例を分析している.例えば「(a)それに反 対のものかあるような或附帯的なものが相手によって置かれる場合,その附帯的なものを受け容れ るものが,その附帯的なものに反対な或ものを受け容れるかどうか,考察してみなければならなり い.(b)なぜなら,反対のものどもを受け容れるものは同じものだからである(41)」という例からわ かるように,一般にトポスは二つの部分に分けられる.いつも,トポスの最初に出て来る「……1こ ついて考察してみなければならない」という(a)の部分と,「何故なら……」によって引き出され る(b)の部分とである.(b)の部分は論理的(或は,(トピカJ III. 1-4では価値論的)法則(une 101 logique ou 《dans TOP. iii.1-4》une Ioi axiologique)(42’である.これに対して,「……1こつ
いて考察しなければならない」で結ばれる(a)の部分は規則(r^gle)であって,トポスを用いる人 がそれに注意を向けるべき対象を示している.そして,その対象は二つに分かれて,その前半,即
アリストテレス トポスと「形而上学」 (池田) 61 ち一般に,「相手が斯々だと言ったとするならば」或は「相手が斯々だとしたかどうか」と述べら れている部分は,問題(即bβMμa)ないし,擁護或は反駁すべきテシスを示している. しかるに, 後半即ち,「……に:ついて考察しなければならない」と述べられている部分は,提出された問題と 関わりをもった与件(donn6e)を示している・ 要するに,トポスを構成する(a)の部分は,探究の規則であって,提出された問題とその問題に 対応する与件とを,弁証家が考察するための視点を形づぐるものであり,(b)の部分は,提出され た問題を,それによって肯定的に証明するか或は否定的に論駁する推論の,その法則をあらわして いる.換言すれば,規則は探究的な形式のもの(une formule de recherch)であり,法則は証明 的な形式のもの(une formule probative)である{<3)・
では,トポスはこのように規則と法則との二つの部分を含んでいるのか,それとも,いずれか一 方と同一視されうるのか,ということが次に問題となる.この問題のために, Paterは「弁論術」 の考察へと赴いた後,次の結論に到達する.即ち,規則か探究形式のものでありうるのは,すでに そのうちに法則を含んでいるからであること,また,規則は法則を明らかにしていること,更に, 規則は法則から引き出されるのであってその逆ではないことなどから,トポスは本質的には法則で あるとする(44)_ また,アリストチレスによって,トポスはストイケイオン(0でotXetoひ,要素,原理)と同一視 されているC45)ことから, Paterは次のように論じる. ユークリッド幾何学において,ストイケイ オッは,予め前提されるべきものであり,証明されえないものであって,それに基づいて証明かな されるべき命題なのである.アリストテレスの場合にも,夫々の問題か,それを原理とし,それに 基づいて証明がなされるそれを意味する(46)したがって,アリストテレスかトポスとストイケ.イ オッとを同一視しているのであれば,そのことは,トポスが単に探究的形式のものであるばかりで なく,もはやそれ自体問題とされえないところの,証明的な形式のものだからである.即ち,トポ スは或普遍性をもっており,それ故にこそ,多くの証明に役立つのである.このことは「弁論術」 でトポスに与えられている定義に照らしても明らかである.したがってトポスは法則である限りに おいて,証明の決定的な契機をなすものであり,原理であり,多くの議論に共通する命題(πμΓα- 0£?KOtVt)(47’なのである(48’. このようにして, Paterの見解によるとトポスの核心は法則にあることになる・ さて,形の整ったトポスは,法則及び法則をすでにそのうちに含んでいる規則から成るのである ‘が,法則を欠いていても規則の中にすでに法則を明らかにしている形式のものもトポスと言われう る.しかし,これらいずれでもないものはト’ポスと言われうるのか. Paterはそれを,弱い意味で のトポス(lieu en un sens plus faible)だとしている.例えば「トピカJVIIIにおける如き, 問いを出す順序と仕方についてのトポスがそれである.このようなものをもアリストテレスはトポ スだと呼んでいるが,このことは彼における不整合な点だと, Paterは指摘している(49) トポスという名の下に,凡ゆる類のものに妥当する共通的トポス(でb7to? と,特定の類のもの にのみ妥当する特殊的トポス(ejSoS')の二種があることをPaterは指摘した(50)後,次のように 言う.「弁証家アリストテレスの関心を惹きつけていたのは共通的なトポスである.したがって, 共通的なトポスは,単にトポスとだけ呼ばれもしたのである.それ故,トポスという語は,特殊的 トポスに対立したものとしての共通的なトポスを意味することもあれば,また,トポスー般をも意 味しえたのである.だから,特殊的トポスは,或意味ではトポスであるか,或意味ではそうではな い(5J)」.では特殊トポ.スにはどのようなものがあるか.「トピカ」においては, III. 1-4において 見られるように,「より望ましいもの」,「より善いもの」に関して挙げられているものか,特殊的 トポスである.
62 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学 Paterの見解については以上である. ,以下,「形而上学」に現われている諸トポスを「トピカ」から抽出するに当って,法則か明確に 現われている場合にはその部分を,また,明確に現われていないで規則のうちに込められている場 合には,その込められていると思われるものを記すことにする.また,特殊的トポスも抽出するこ とにする.しかし,「トピカJVIIIは除外するので,バ Ill 「形而上学」における諸トポスの用例` ,最初に「トピカ」からのトポスを挙げ,次いで「形而上学」からその用例を挙げることにする. 110“13−22: どのようなものどもを多くの人々が呼ぶように呼ぶべきであるか,どのような ものどもをそうすべきでないかを区別しなければならない. IV.1010°11-4 : 「更にまた,プラトンが言っている・ように,未来の事柄に関しても,例えば, 当の人が健康になりうるのか否かについて,医者の意見と医術に無知な者の意見とでは,決して同 等の権利をもってはいないのである」 ヽ 111°12-6 : テシスヘ向けての弁証論的証明がうまくいかない場合,当面する事柄を定義の 点から考察してみなければならない. IV 1011°23-9 : ところで,二つの矛盾したものどもの間には,中間的なものは何もありえず, 或一つのものについては,何であれ,一つのことを肯定するか否定するかでなければならない.だ がこのことは,先ず真とは何か偽とは何かを定義してみれば明らかである.即ち, r r f f あるものをあら f/∼ ∼ ぬということ或はあらぬものをあると言うことか偽であり,あるものをあると言いあらぬものをあ らぬと言うことか真である.したがって,あるとかあらぬとか言う者は,真を言うか偽を言うかの J●f・f f●● いずれかであろう.しかし<中間のものかあるとすれば>あるものにしても,あらぬものにしても も,あらぬとも言われないしあるとも言われないことになるJ cf. IV. 1012り-8 112"24-31: a がAもしくはBの二つのおり方しかとりえない場合,aがAのとき,a はBではなく,aがBのときaはAではない. IV. 1008°34−゛1 : 「更に,肯定が真であるときには否定は偽であり,否定か真であるときには肯 定は偽であるとするなら,同じものを同時に肯定し且つ否定することは真実にはありえない」 cf. IV. 1012°9-11 IX. 1051°22− 1052":4 この箇所では,非複合的で現実態にあるものに関しては真偽はどうなって いるかか述べられている.そのようなものについては,触れてその通りに主張すること(rb dtrelリ f辰卿りな)か真であり,また,そのようなものについては偽はあり,えないので,触れないでいる ことが無知であるとされている.つまり,そのようなものに関しては直知するしかないか(voecリ ガ附)だけのあり方しか我々はとりえない. H2° 1-20:必然的にあるもの,たいていの場合にあるヽもの,たまたまそうあるものを,順 次A, B, C,といすると,AGBOCeAという・ように措定してはならない. IV. 1026°27-1027"28 : この箇所では,知(k'ZlOT力μη)の成立しうるのは. A, Bのものに関し
アリストテレス トポスと「形而上学」 (池田) 65 てであって,Cについては成立しないことが述べられている.いずれにしても,この箇所には, A, B, Cの区別が必らずしも明確にではないが一一何故なら,BをCと同一視したり区別したり しているからであるが一一述べられている. 113" 20−3 : 反対のものが同時に同じものに属することはできない.・ IV.1011° 17−8 : 矛盾律との関連でそのことか述べられている. V.1018“ 26-7:「類的に異なっているが故に,同じものにおいて同時にあることが不可能なも の」と述べられている.これは,反対のものについての諸意味のうちの一つである. IXバ046り5−6:理(λ好心)を伴なった能力は相反対のものの両方に関わりうるのに,理を伴 なわぬ能力は相反するものの一方にのみ関わるということの関連で,「反対のものどもは同じもの において生じることはない」と述べられている. IX. 1051り1−2:現実態の方が善い可能態よりも一層よい,ということを論ずる箇所において, 「反対のものどもは同時に存在することは不可能だ」と言われている. X. 1055° 37−8 : 二者択一的な問い(wbで巳pOリ……が)がどのようなものに関して適用されうるの か,ということとの関連で,「対立的なものどものみが同時に存在しえない」と言われている. 113" 24-32 : 或ものAについて或ものBが語られた場合,AとBとの間に不整合かないかど うか. III. 998‘114-5 : 不動なる中間的なものがイデアと感覚的事物との間に存在しはするが,そのよ うな中間的なものは,感覚的事物から離れてあるのではなしに,感覚的事物に内在すると,或人々 は主張する.この場合,中間的なものは「感覚的な事物のうちにあるのだから,不動なるものでは ないことになる」 IV 1012° 15-8 : 「すべてのことを真であると説く者は,自説に反対のものをも真であるとす ることになり,したがって,自説を真ではないとすることになる.というのは,反対の説は,彼の 説を真ではないと言うからである.また,すべてのことは偽であると説く者も自らの説を偽だとす ることになる」 IV. 1012° 22-7 :「すべてのものは静止していると説く者も,すべてのものは動いていると説く 者も,真を語っていないことは明らかである.何故なら,或同じ事柄は永遠に真であり,また或同 じ事柄は永遠に偽であることになるが,しかし明らかにそれらは変化する.というのは,そのよう な説を主張する者自身が,かつては存在していなかったし,またふたたび存在しなくなるだろうか らである.しかしまた,すべてが動いているとすれば,真理は何も存在していないことになり,し たがって,すべては偽だということになる.しかしこれは不可能だということはすでに示された」 113° 33−゜14 : 反対のものどもを受け容れうるものは同じである・ V 1018" 27-31 : 反対のものどもとは「同じ類においてあるものどものうち,最も相反するも のども,また,同一受容体のうちにあるものどものうち,最も相反するものども,また,同一能力 の下に入るものどものうち,最も相反するものども」と言われている. cf. X. 1055" 27-31. 113° 27− 1 14“6 : 反対のものどもにおける随伴関係,即ち,aとbとか反対のものである なら,aにA, B,……ヵ1随伴するのであれば,bにはA, B,……とは反対のも,のが随伴す る(ただし,随伴関係が逆になる場合もある).
64 高知大大学術研究報告 第2?巻.人文科学 V.1017“ 3−6 : 「また,多は一と対立的に語られることは明らかである.まぜなら,或ものど もは,連続的なものではないということの故に,また,或ものどもは第一の質料にせよ或は究極的 な質料にせよ,ともかく,質料の点で種的に分けられうフるも^のをもっているということの故に,ま た,或ものどもは本質を言い表わすロゴスが多くあることの故に多と言われるからである」.これ に対して,連続的なもの,質料の点で種的に分けられえないもの,本質を言い表わすロゴスか一つ のものか,一つのものと言われる. cf. X. 1054" 21-3. V.1018“ 9−11 : 種的にせよ数的にせよ,それらの質料か一つであるものが同じものどもと言わ れ,また,それらの実体が一つであるものどもが同じものどもと言われる.「これに対して,それ らの種か多なるもの,質料が多なるもの,実体のロゴスが多なるものが,異なるものどもと言われ る」 V. 1018" 18−9 : 類似したものと言われるものか.三つの仕方で語られることを述べた後で, 「非類似的なものは類似したものどもとは対立的な意味で語られる」と言われている.したがっ て,例えばそれらの諸属性が凡ゆる点で同じものどもが類似したものであるとすれば,それらの諸 属性が凡ゆる点で同じでないものどもが非類似的なも.のだということになる. V.1018゛ 7−8 : 種において異なるものとは如何なるものであるが,六つに分類された後,「これ らと対立的に語られるものどもが種において同じものだ」と言われている. XIV. 1091" 23-4 :「ところで,奇数には生成はないと,彼等は言っているのであるヵ卜彼等が こういうのも,当然,偶数には生成があると考えてのことなのである」 XIV. 1019° 19-32 : 一を善そのものであると見傲すならば,一とは反対のもの(それか多さで あろうと,不等または大と小であろうと)は悪そのものであることになる,と言われている. 114" 7-12 : 所有と欠如としての対立における随伴関係,即ち,aを所有,bを欠如とする と,aにA, B,……ヵ1随伴するなら,bにはA。B,……の欠如か随伴する。 V. 1019° 15-21 : 恥vaμ呪(能力)と&柚・αμjα(無能力)は所有と欠如としての対立である. V. 1019" 15-32には,δ加αμご9の諸義が分類されている.そして1019° 15-21 では■ (xSlルαμ2αの 諸義は,δ加αμ心の諸義に対立的に応じているとされでいる. cf. IX. 1046・29-31 114“ 26-゜5 : 同列にあるものどもとは,例えば,正しいもの事や正しい者は正義と同列にあ り,勇敢な事柄や勇敢な者は勇気と同列にあり,それを作ったり,それを保全したりするそ れと,それを作ったり保全したりするものとは同列にある. aとaへa″とが同列にある場合,aについてA, B,……のことが言われうるとすれば, が,a″についてもA, B,……と同列的なことか言われうる. IV. 1003" 33-'>3 :「あるということは様々な仕方で言われるが,しかし,一つのもの,或一つの 本性との関わりにおいて言われるのである.しかも向名異義的にではなくして,丁度健康的なもの がすべて健康との関係において健康的なものと言われるように,あるということも,一つのもの, 一つの本性との関係においてそう言われるのである.即ち,或ものは健康を作り出し,或ものは 健康のしるしであることの故に……… 同様に,医術的なものも医術との関係においてそう言われ うるのである.即ち,或ものは医術をもっているが故に,また,或ものは医術に適しているが故 に………J cf. 1030° 35-゛3 V.10118“ 31-5 : これに先行する箇所(1018° 27-31)で,反対と言われるものについての諸義 を分類した後,この1018a 31-5では次のように言われている.「その他反対のものと言われるもの どもは,上記のものを所有していることの故にか,受け容れるものであることによってか,上記の
アリストテレ戈 トポスと「形而上学」 (池且L_ 65 ものに働きかけたり働きかけられたりすることによってかである」 V. 1019" 33−゜15 : これに先行する箇所(1019" 15一一32)において.・jBovaμ氏 の諸義が分類され ている.そしてこの1019° 33°一゜15 では,a9α7&について述べられている.&ルαΓ恥はa6ソaμ心 の同列語である.それ故,その諸義も∂加αμぐ9のそれに同列的に対応する. ・ V. 1019° 21-2 : これに先行する箇所(1019°15-21)において, aSiルαμ4について述べられて いる・.そしてこの1019° 21-2に述べられている&a加Γαは&δ叫αμ必の同列語である.それ故, その諸義も&沁・αμ4のそれに同列的に対応する. ・V. 1022" 1−3 : これに先行する箇所(1021* 31-1022" 1)において,完全と言われるものの諸 義を分類した後,この1022° 1−3で次のように言われている.「しかるに,・その他のものどもは, これら諸義に則して,そのような完全なものを所有していることの故に,或はそれに適合している 故に,或は,要するに,第一義的に完全なものと言われるものに何んらかの仕方で関係して語られ ることの故に,完全なものと言われる」 114°29-36 : 類似したものどもの或ものに関して斯々であるならば,類似したものどもの 他のものに関してそのようである.しかるに,或ものについて斯々でないならば,他のもの についてもIそのようではない. III. 997° 12-33 : もし人が,イデアと可感的な事物とは別に,中間的なものがあるとするなら ば,同様に,線そのものと可感的な線とは別に,中間的な線があることになり,他の類のものども に関しても夫々中間的なものがあることになる. したがってまた,天文学は,これら中間的なもの どもを対象とする数学的諸学の一つであるが故に,可感的な天界とは別な天界や太陽や月が,天文 学の対象としてあることになる.同様に,動物そのものと可感的な動物とは別に,中間的な動物 が.また,可感的な健康と健康そのものとは別に,或種の健康かおることになる. IV. 1003° 33−゜3 :(この箇所は,先に,同列にあるものとの関連で引用された.その場合には, 第一義的にあると言われるものと,それとの関係であると言われるものとが同列にあり.また,康 健と健康的と言われるものとか同列にある,とヤうように把握されているのである.しかし,第一 義的にあると言われるものと,それとの関係であると言われるものとを夫々, a, Aとし,健康と 健康的と言われるものを夫々, b, Bとするなら,a:B=b:B であり,このように捉えるなら, この1003" 33−゜3 は類似したものについてのトポスに関連づけられる) cf. 1030°35-゜3 VIII. 1043° 34− 1044" 6 : 定義は一種の数であは.なぜなら,定義は分割可能なるものであり, しかも分割不可能なるものになるまで分割されうるものであるか,数もそのようなものだからであ る.また,或数からたとえどれだけであるにせよ,その部分か取り去られたり,或はつけ加えられ たりしても,もはやその数は元のものと同じではなくして,異なったものであるのと同様,定義や 本質から,その或構成要素が取り去られても,また或ものかそれに加えられても元の同じ定義では なくなる.更に,数は,それによって一つのまとまったものであるような,そのような何ものかを ・もっていなければならないのであるか,定義の場合にも同様である. IX. 1046° 29− 1047" 10 : メガラ派の人々は次のようなことを主張する.即ち,或能力を現実に 働かせていない場合には,その能力がないのである,例えば,現に家を建てていない者は建築する 能力がないのだ,と主張する.メガラ派のこのような主張からすると,冷た.いもの,温かいもの, 甘いものetc.の如く,感覚されうるものどもも,現に感覚されていない場合には存在しないこと になり,また,もし人が何ものをも現に感覚していないなら,その人は感覚能力を有ち分わせでい ないことになる.このようなメガラ派の説は, SuuotW’.?と6りrしαとを同一視することに依って いる.
66 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学 - IX. 1047" 17-24:上記の如きメガラ派の説は誤ったものである.したがってヽa岫aμ収とeve-or teaとは異なったものであるとしなければならない.そうすることによって,或ものは存在する ことも可能ではあるか,現実には存在していないことも許されるし,また存在していないことも可 能ではあるが,現実には存在していることも許されることになる.同様に,歩くことの可能なもの ではあるが,現実には歩いていないことも,逆にi歩かないことも可能ではあるが,しかし,現実 Iには歩いているということも許される. 114°37-115“ 14 :「より多く」と「より少なく」というトポス.これには次の四つがある. (a)快楽が善であるな’ら,より多くの快楽はより多くの善であるというように,主語となる ものの増減に述語となるものの増減が伴なうなら,述語は主語に附帯しているのである. (b)a−A, b−Aの如く,aとbについてAが語られる場合,Aがaに帰属する方がb に帰属するより一層ふさわしいと思われているが,しかし,実際にはa≒A(≒はAがa に帰属しないことを意味する.以下同様)なら,b一入.逆にb−Aならa−Aも成立. (c)a-A,a−Bの如く,aについてAの方かBよりも一層帰属すると思われているか, しかし実際にはa≒Aであるなら,a≒B.逆に, a-Bならa−Aも成立.(d)a−A. b−Bにおいて,bにBが帰属する度合よりも,aにAが帰属する度合が高いと思われてい るのに,実際にはa≒Aであるならb≒B.逆にb−Bならa−Aが成立. 111.999" 6-15 : 「更に,より先のものとより後のものという区別があるものどもについて,或も のが共通に述語づけられる場合,その或ものは,それら各々とは別に,それだけで存在することは ないのである.例えば,二が個々の数のうち最も先のものであるとすれば,諸種の数とは別に或数 なるものがそれだけで存在するということはないであろう.同様に,諸種の図形とは別に,或図形 なるものがそれだけで存在するということもないであろう.そこで,図形や数においてさへないの だとすれば,その他のものどもの場合にも,諸々の種とは別に,類がそれだけであるということは 殆んどありえない.というのは,ありうるとすれば,図形や数にこぞ,そのような数が最もあるは ずだからである」 111.1001り9−21:「もし人が,一や存在をなんらかの実体であるとしないならば,その他の如 何なる普遍的なものも実体ではないことになる」 111.1001° 28− 1002° 14 : 次のことか言われている.多くの先人たちは,数や面,線,点などを 存在するもの或は諸存在の実体であると考えていたのであるが,しかし,もしそれらさへそうでな いとするならば,何か存在するものであるか,何か諸存在の実体であるのかわからなくなる. cf. 1002" 26-8. IV. 1006" 34− 1007“ 8 : 「人間であること」と「白・であること」でさへ異なっているのであるか ら,「人間であること」とその否定たる「人間であらぬこと」とは異なっている.しかし,矛盾律 を否定する者たちのように,人間と白の場合よりはるかに対立的な「人間であること」と「人間で あらぬこと」とが同じことであるなら,「人間であること」と「白であること」とは同じことであ り,このようにして,すべてのものは一つだということになってしまう. cf. IV. 1007°29− 1008“ 2 IV.1008り6−8:「そして,否定(何であらぬとされるもの)か確実な何ものかであり,知られ うるものであるなら,これとは対立的な肯定(何々であるとされるもの)は一層知られうるもので ある」 IV. 1008" 31-3 :「また,能う限りすべてのものか斯々であり,且つ斯々でないとしても,とに かく,『より多く』と『より少なく』ということは,諸存在のピユシスに内在しているのだ」
アリストテレス トポスと工尨匝上乞L__(池田)_ 67 VII. 1031* 9−10 : 「ものの本質すべてについて同様に言えることは,それが存在するか或は存 在しないかのいずれかであるということだ.したがって,もし,存在の本質さへ存在ではないとす るならば,そのほかのものどもの本質はどれも存在しないことになる」 VII. 1040° 18-22 : 「……,要素であることや原理であることなどが,諸事物の実体でありえ ないように,一や存在もそうではない,……ところで,これらのうち,存在や一の方が原理である ことや要素であることなどより,一層実体であるが,しかし一や存在さへ実体ではない」 XII. 1071° 5−6 : 「なぜなら,諸存在のうち,実体は第一のものであり,もし実体がすべて消 滅的なものであるなら,存在するものはすべて消滅的なものであることになるからだ」 115°15-24: 同様に帰属するというトポス.次の三つがある. (a) a - A, b - Aの如く.aにもbにもAが帰属する或は帰属すると思われており,しか るに実際にはa≒Aならb≒A.またb≒Aならa≒A. a-Aならb-A,b一Aならa−
A. (b) a-A, a -Bにおいて,a≒Aならa≒B,a≒Bならa≒A, a-Aならa− B, a-Bならa−A.(c)a−A,b−Bにおいて,a≒Aならb≒B,b≒Bならa≒ A,a一Aならb−B,b一Bならa-A. VIII. 1031°6−9: 「というのは,個々のものの本質を我々が知っている時,そのものの知識が あるのだからである.善についても,その他のものについてもこのことは同様である.したがって て,もし善の本質が善でないとするなら,存在の本質は存在ではなく,一の本質は一ではないこと になる」 XIII. 1076°4−8: 「……,明らかに,如何なる物体も分割されえないことになる. なぜなら, 物体は面によって分割され,面は線によって,また線は点によって分割されるであろうから.した がってもし点を分割することができなければ線を分割することもできないし,また,もし線を分割 できなければ面や物体を分割することもできないことになろうから」 115°3−10 : a についてAが「より多く」又は「より少なく」として語られるならば,Aは aについて端的(&λa9)にも語られるのでなければならない.しかし,端的に語られるも ’のが必らずしも,「より多く」又は「より少なく」として語られるわけではない. IX. 1046°25-8 : 「よく働きかけたり働きかけられたりする能力には,単に働きかけたり働き かけられたりする能力が伴うが,しかし後者には必らずしも前者が伴うわけではない.なぜなら, よく働きかけるものは必らず働きかけるのであるが,働きかけるだけのものは必らずしもよく働き かけるわけではないからだJ cf. IX. 1046" 16-9 116° 29-31 : それ自身の故に望ましいものは,他の故に望ましいものより望ましい. I . 982''14-6 : 「諸学のうち,それ自身のために望ましく,知ること自身の故に望ましい学は, その学によってもたらされるものどものために望ましい学よりも一層知恵であるJ I . 982"30-2 : 「知ることそれ自身のために知り,認識することそれ自身のために認識すると いうことは,最も知られうるものを対象とする知識に最も帰属している」 I . 982*19-21 : 「したがって彼等は無知からのがれようとして知恵を愛したのであるからに は,知らんがために知ることを追求したのであって,何らかの用途のためでないことは明らかだ」 cf. 982°24-フ XII. 1072°34-5 : 「しかし美なるものやそれ自身の故に望ましいものもまた,同じ欄のうちに ある」
68 高知大学学術研究報告 第27巻 ’人文科学 116*12-3 : よりすぐれたものや,より貴いもめに帰属しているも’のは,そうでないものに 帰属しているものより望ましい. 」:983“6−7 : 「何故なら,諸学のうち神が所有するのに最もふさわしい学は神的な学であり, また,或学か神的なものを対象とするのであれば,それも神的な学であろう」 VI. 1026"18-23 : 「したがって数学,自然学,神学という三つの論理的哲学かあることにな り,……最も貴い学は最も貴い類のものを対象とするのでなければならない.このようにして,こ れら論理的諸学は他の諸学よりはるかに望ましいものであるか,論理的諸学のうちでも,神学が望 ましいものである」 XII. 1074°28-35 : 「ところで第一に,もしその神的理性か現実態としての思惟ではなくして, 可能態としてのそれであるとするならば,思惟し続けることはそれにとって勿論苦労なことであろ う.次にまた,そのようなものであるとするならば,そうした可能態としての理性とは別な,もっ と貴いもの,つまり思惟されるものが存在していることは明らかである.何故なら,思惟や現実態 としての思惟は,最も悪しきものを思惟するものにも帰属しているからである.したがって,もし 悪しき事物か避けられるべきものであるなら……現実態としての思惟は最善のものだというわけで はないだろう.それ故,神的理性は,その思惟か最もすぐれたものであるからには,自己自身を思 惟する,つまりその思惟は思惟の思惟である」 116''22-3 : 目的となるものは手段となるものより望ましく,手段となるもののうちでは目 的となるものに近いものの方が,そうでないものより望ましい, IX.1050“23−9 : 或能力の場合にはその使用そのものが終極的なものであり(例えば,視る能 力の場合にはその使用が終極的な事柄であって,その能力から唸その使用のほかに別の何ものも生 じて来たりはしない),或能力の場合には,或別のものが生じて来るのであるが(例えば建築術か らは,その能力の使用とは別に家が生じて来る),前者の場合における能力の使用は,それでも なお目的である.また後者の場合,その能力よりも,その使用の方が目的である.J cf. IX. 1050"フー10 117°28−30 : より困難なもので,より共通的でないものが望ましい. I. 982"10-2 : 「更に,むずかしい事柄を知ることのできる者や,人間にとって知ることの容易 でない事柄を知ることのできる者を我々は知者だと考えている.なぜなら,感覚的に知ることはす べての者に共通することであり,それ故に容易であって,何ら知恵ある事柄ではないからである.」 118“6-15 : 余剰からのものは必要なものよりも善い, I. 981*20-2:「そのようなわけで,すでにそうした諸技術か獲得されてから,快楽や生活に必 要のためのものではない諸学が発見されたのであるJ cf. 982°22-4 120°21-9 : 類は何であるかにおいて述語されるものである. III. 998°4−6: 「定義を通して我々は個々のものを知るのであり,そして類は定義の原理となる ものであるとすれば,類は定義される事柄の原理でもある」,ノ V. 1022''27-9 : 自体的なものと言われるもののもう一つの意味は,「例えば,カリアスかそれ
アリストテレス’トポスと「形而上学」 (池田) 69 自体で動物であると言われる如く,何であるかの説明のうちに含まれている限りのも.のがそ.うであ る.なぜなら,カリアスの何であるかの説明のうちには,動物か含まれているからである.」 V. 1024°−45 : 「事物の何であるかにおいて語られるもの,それか類である.」 112°12-7又は144“20−2 : 種類はどのような;というごとをあらわす. ’ V.102093°−2 : 「一つの仕方では実体の差異(種差)が,どのようなと言われる.例えば, 人間は二足であるが故にこれこれの性質の動物であり,馬は四足であるが故にこれこれの性質の動 物であり,円.は角のないものであるが故にこれこれの性質の図形であるが,それは,実体に則して の差異(種差)は性質だからである.J cf. V. 1024°5−6 ・ 123"!-10 : 類は粗差より広い範囲で語られる. \ V.1014゛12−4 : 「何故なら,種差が帰属するところのものには類もまた伴なう都,類が帰属す るところのものには必らずしも種差が伴なうとは限らないからである」 1 . ● 123°23-7 : 類的に反対のものかなくて,種的に反対のものが同一類内にある場合,・それら 種的に反対なものの中間のものも同一類内にある(しかしこのことについては反論も成立). X. 1057≪19-20 : 「何故なら,凡て中間のものどもと, らとは同じ類のうちにあるからだ.」 中間のものどもがそれらのであるそれ 127°26-34 : すべてのもにに随伴するもの,例えば一も存在も類ではない. III. 998°22: 「−も存在も,存在するものどもの一つの類ではありえない.」 VIII. 1045°5−6: 「何故なら,個々の諸範鴫は,類としての存在や類としての一のうちにある が故に,存在するものであり一つのものであるというのではなくして,本性上存在するものであり 一つのものなのであるからだ」. `’ X 1053°22- 4 : 「存在や実体が類ではないのとまさに同じ理由によって,一も類ではありえな い.」 131゛37−132''9: 特有性は本質を明らかにするものではない・ V. 1025°30−2: 「附帯的なものということはまた別の仕方でも語られる.例えば,内角の和が 二直角というこ,とが三角形に帰属するように,事物の本質のうちに含まれるのではないか,しかし 事物に自体的に帰属する限りのものも,附帯的なものと言われる.J X. 1058°21-3 : 「雄であることや雌であるごとは動物にとって固有の属性ではあるが,その実 体に則してのことではなくして,むしろ,質料すなわち身体においてあるものだl」 ‘ 133°31-6 : 基体と,附帯的なものと一緒に捉えられた基体とは無条件的に別のものないで はなくして,それら両者にとっては,あるということか異なることによって,両者は別のも のと言われるのである.何故なら,「人間であること」は「人間」と同じものではなく,ま た「白い人間であること」は「白い,人間」と同じものではないからである. ’ヽ VII. 1031“19-21 : 「附帯的なものによって語られるものどもについては,そのものと,その本 質とは異なると思われる.例えば,白い人間と,白い人間であることとは異なるように.よ ゾ
70 高知大学学術研究報'告 第27巻 人文科学 cf. VIII. 1043*3 139°28−9 : 定義は類と種差から成る. cf. 103°15-6, 153°14-5 VII. 1038“1−3: 定義について:「一般的に言うと,定義は多くのものによって述べられるの であろうと,僅かのものによって述べられるのであろうと何らかわりはない.したがって,僅かの ものによってであろうと二つのものによってであろうとかわりはない.二つのもののうち,一方は 種差であり,他方は類であるJ cf. VII. 1038°8-9, 1038“28-30 VIII. 1043''30-2 : 「定義的な説明が,或ものについて何ごとかを表わすのであり,そのうちの 一方は質料の如きものであり,他方は形相の如きものでなければならないとすれば……」ここに 言われている一方とは類のことであり,他方とは種差のことである(cf. D. Ross, Aristotele's Metaphysics, Vol. II. p.233). 犬
139°32−140''2: 比喩で語ってはならない. I . 991°20-2:「諸イデアは範型であり,他の事物はそれらを分有するのだ,と語ることは, 空しいことを語っているのであり,詩的比喩を語っているにすぎない」 140°18-22 : 立派に与えられた定義は,その定義されるべきものとは反対のものをも併せて 明らかにしている. cf.153゛15 III. 996"20-l : 「それらの諸原理は反対のものでもないのに,それらを知ることがどうして一 つの知(学)のすることでありえようか.」 IV.1004°9−10 : 「反対のものどもを研究するのは一つの知(学)のすることなので………」 VII. 1032°2−3: 何故なら,反対のものどもといえども,或意味では同じ形相をもっているから である.」 IX. 1046°4−9: 「そして理を伴った能力は,すべて同一のものでありながら,相反する事柄に 関わり合うが,理を伴わない場合の能力は,一つの能力か一つの事柄に関わる.というのは,熱は 熱することにのみ関わるか,医術は病気にも健康にも関わる.その故は次のことにある.知は理で あり,同じ仕方においてではないが,同一の理は当の事柄と,それの欠如態をも明らかにするから である.」 140"33-゜15 : それが取り除かれても,残っている部分で定義されるものを明らかにしてい る場合,それは余分なものである. VII. 1029*31-3 : (定義か定義されるべ当の事物に7)いて,自体的に真でありえないのに二つ の仕方かある.一つは付加によるものであり,もう一つは省略することによるものである.前者の 場合,その定義は自体的に真ではない.何故なら,定義されるべき当のものが,別のものにつけ加 えられているからである.例えば,白の本質を定義するのに,白い人間の定義を述べるような場合 である.」 VII. 1040"29- 31 : 「何故なら,それらか取り除かれても太陽は存在するであろうような事柄 一例えば,地球のまわりを運行するものとか,夜には隠れるものというようなーをつけ加えて 定義するという誤りを彼等は犯しているばかりでなく………」 140"27- 141“14: 定義において同じことを何回も語ってはならない. VII.1038“18−23 : 「実際このようであるとするなら,最下の種差が事物の実体であり定義で