『伊勢物語』古注釈における業平と伊勢 : 忠実と 享受
著者 木戸 久二子
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 16
ページ 47‑55
発行年 2005‑06‑26
URL http://hdl.handle.net/10076/6631
『伊勢物語』古注釈における業平と伊勢
‑
史 実 と
享 受
‑
木 戸
久二子
はじめに
『伊勢物語』に何故「伊勢」という書名が付けられたかは、
古来、謎とされてきた。種々の説が提出されているが、現在も
最も説得力を持つのは、伊勢斎宮を舞台に昔男と斎王との恋を
描いた第六十九段が物語全体を代表するような優れた章段だっ
たから、という説であろう。
伊勢斎宮説以外の有力な説に、女流歌人の伊勢がその成立に
関わったから、というものがある。平安時代、『伊勢物語』は在
原業平が自ら記したと見るのが一般的だったが、業平死後の事
件が物語中に存在する以上、補筆者を想定せざるを得なかった
のである。
鎌倉・室町時代の古注釈である『和歌知顕集』や冷泉家流古
注は、伊勢を業平の恋人の一人だとする。しかし、業平と伊勢
には五十歳ほどの年齢差があって生きた時代がほとんど重なら ず、夫婦関係にあったとの見方は明らかに史実と反している。
本稿では、業平と伊勢を結びつけるという史実に反した『伊
勢物語』享受が生まれた背景を、書名由来や伊勢の生涯と絡め
て明らかにしてみたい。
伊勢物語和歌二百五十首。ただし木々不篭
業平朝臣の所為なり。偏にかの人の作れる歌のみに非
ず。(中略)また雪間りー。①習胡1
と
せんとするの由にて、{物㍍と弓。諺に
伊勢は僻と云ふ故なり。②」咄要
綱瑠叫例勢い日朝刊。これ正義か。泉式部本は、斎宮の
事をもつて最先に書く。(注こ
傍線木戸。また、便宜上、①②等の数字を付した。以下同じ。
藤原清輔『袋草紙』の『伊勢物語』に関する記述を掲げた。
清輔は「その名目に二義あり」として、まずは「伊勢は僻」と
いう諺を引き、ひがこと物語の意味だという説を載せる。そし
て二番目に伊勢斎宮説をあげ、「これ正義か」とし、「泉式部本」
が
「斎宮の事をもつて最先に書」いていると記している。これ
は「泉式部本」が第六十九段から始まる『伊勢物語』の伝本、
いわゆる狩の使本であったということである。
清輔の義弟・顕昭の『古今集注』巻第十三・恋三(六四五二ハ
四六)の『伊勢物語』に関する注記を見てみよう。
①又コノ曹宮ノコトヲ、ムネトカクユヱニ伊勢物語卜刊勇
列刃トハ、大外記師安ガ顧輔卿之許二束テ申侍シ、比定也。
其上伊勢物語一本モテ来テ侍キ。小式部内侍ガ事案也。普
通ノ本ニハ、春日野ノ若紫ノ摺衣トイフ歌ヲコソ、ハジメ
ニハカキテハベルニ、此ハ置本ニテ、此君ヤコシ我ヤユキ
ケムノ歌ヲハジメニカケル、伊勢物語トナヅクルユヱトゾ
申侍シ。サレド初ニカヽズトモ、其事ヲタマシヒニセバ同
事也。又業平ハニ條后ノ間ノ事コソ始終ワリナキオモヒト
ミエ侍レ。始ニヌスミイダシテウバヒカヘサレ、又カクサ
レ、又カヨフミチヲフタガレ、後ニハ人ノクニヘツカハサ
レナドシタリ。伊勢物語ノ名ニモツケ、古今轡部ノマナコ
ト、此蒼宮ノコトヲスべシトモオボニズ如何。②例刻捌詞
トー云事ハ、密事ヲアラヌサマニ書ナセバ、伊勢ハヒガノ痢
ニテツケタリト中人モアリ。③又伊勢ノ御ガ書集タルト申
刃召。(中略)伊勢物語卜
云名l「有二三義一之中ニ、是(1伊勢ハヒガ)ハ一ノ義ナリ。
但伊勢ノ碧宮ノ事ノ、殊ニイミジキコトナレバ、其ヲ本鉢
ニテ伊勢物語卜名クルト云義ハ、尤宜也。伊勢ガ書タレバ
名卜云義ハ、殊劣ナル義ナリ。(注二)
括弧内は木戸による補筆。
顕昭はまず伊勢斎宮説に触れ、「業平ハ二條后ノ間ノ事コソ
始終ワリナキオモヒトミエ侍レ」と疑義を挟む。また、『袋草紙』
では「泉式部本」としていた狩の使本について娘の「小式部内
侍ガ事案」した本だと記し、顕輔のところに師安が持ってきた
という。次に「伊勢ハヒガ」説を載せ、三番目に歌人の伊勢が
関わったという新しい説をあげる。そして、「イヅレトサダメガ
タシ」と書きつつ、結局は「但伊勢ノ膏宮ノ事ノ、殊ニイミジ
キコト」なので、「其ヲ本鉢ニテ伊勢物語卜名クルト云義ハ、尤
宜也」と、清輔と同じく伊勢斎宮説を七っている。
次に、藤原定家が書写した『伊勢物語』の奥書を掲げる。
抑伊勢物語根源古人説々不同。或云在原中将自記云々。因
姦有其嫌退比興之詞等。
①又云伊勢筆謁瑚。
以此両説案之更難決之。心中秘密身上奥言他人推而難注之。
以之恩之可謂其自書歎。但疑万葉古風之中多載撰集之寄。
仁和聖日之間粗記臨幸之儀此等事又有不審。
伊勢家集其端文鉢偏以同之。是又見先達之曹記庶幾其鉢欺。
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両不知之。加之此物語名字非彼筆者何稀伊勢哉。
②劫制覇。其説又難信」始則載南
京春日之詞次又注西封夜月之思富士山之雪武蔵野之煙凡非
伊勢国事。多以為此物語之肝心。仇両説共有不審。古事只
仰而可信。
又或説後人以狩使事改為此草子之端為叶伊勢物語之道理也。
件本狼籍奇惟者也。伊行所為也。不可用之。(注三)
出だしが「抑伊勢物語根源古人説々不同」となっているのが
特徴で、それ故に一般的に「根源本奥書」と呼ばれるものであ
る。
まず定家は、『伊勢物語』は「在原中将」の自記であるという
説を引き、次に伊勢の筆作であるともいうとして、『伊勢集』と
文体が似ており、それ故に『伊勢物語』と号すのだと述べる。
そして、作者に関するこの両説についてどちらかに決めること
は難しいとして、業平自記説は業平死後の仁和帝すなわち光孝
天皇の芹河行幸の話が存在することから不審があるし、伊勢筆
作説は文体の真似をすることが可能だとどちらにも疑問を呈す
る。その上で、「此物語名字非彼筆者何稀伊勢哉」と、伊勢筆作
説を消極的にとるかと思わせるような物言いをしている。
ただし書名由来では、伊勢斎宮説についてははつきり「其説
又難信」と記す。『伊勢物語』には第六十九段以外にも著名な章
段はいくつもあって、たとえば奈良の春日の里が舞台の第一段、
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ」の名歌で知られた西の対(第 四段)、富士山の登場する東下り等、多くの話が物語の「肝心」
になっているというのである。ただし結局は、両説共に不審が
あるとして、「古事只仰而可信」と結んでいる。
定家は最後に狩の使本に触れるが、それまでの遽巡するよう
な物言いとはうつて変わり、「件本狼籍奇惟者也」と厳しく非難
している。さらには、「伊行所為也。不可用之」と、藤原伊行の
しわざであり、用いるべきではないと記す。
伊行は『源氏物語』最初の注釈書『源氏釈』の著者であると
され、『伊勢物語』の普通とは違った本を写すということもあり
えそうな話である。だが、定家によって伊行の名が出されると
いうことは、狩の使本が『伊勢物語』本来の形でないことを示
唆している。狩の使本に対する定家の厳しい姿勢を見ると、清
輔や顕昭‑六条家‑に対する対抗意識が介在しているよう
にも思われる。その批判の激しさのせいもあるのか、次節で見
るように、『伊勢物語』の旧注、特に宗祇・三条西家流の注釈で
は、定家が伊勢筆作説をとつているかのような誤解を生じてし
まう。
二
『伊勢物語』注釈史の時代区分は、髄脳・古注の時代、旧注
の時代、新注の時代の三つに区分するのが一般的である。髄脳・
古注の時代を代表するものに、『和歌知顕集』と冷泉家流古注が
ある。古注は、『伊勢物語』本文に単に女としてしか登場しない
人物に具体的な名前を当てて読む、という特徴を持つ。
『和歌知顔集』冒頭の総論部分の一部を掲げる。
このものがたりは貞観七年に業平、長岡の籠居の時、かゝ
んとおもひはじめてかきたりしを、元慶三年に、きよがき
おほせて、蓋
はき年にあ一あたりたり。一少さだめなけわ̀、まカる
‑ぁらi、カ1るものがたりあり.∪ほど.てのち、我した
るものとはしらせ、‑して、人のカきたる‑うにて、此{.
ものがたりをとりいだして、Lにあまねく一ろめ鮎ノ、お
ほ
う..み鮎しこと也、それを・して、カきあつめたる也
といひけれども、伊勢はまこと1もおもはず、あらましの
やうに恩ふほどに、あくる五月に業平うせにけり。(中略)
ほどへてのち、さは、ふる人のいひをきし事のありしもの
を、あらましながら、まことにやと恩ひて、ふるきはこの
中をもとむるに、伊勢物語とかきたるものあり。さは、こ
れなりけり、と思て、とりいださんとするに、おほくこの
物語に、伊勢が事をいれたり。(中略)句捌村雨詞剖
たるところをは、きいだして、それにさにたるものがた
りをJ〃きカ′iして、おのれがヰをは、一∪とつもいれず
u可当。
(注四)
伊勢は業平晩年の妻で、彼の死後『伊勢物語』を補筆訂正し
て世に広めたとしているのである。その際、自分との関係を書 いた章段は差し替えたということで、奏廃『知顕集』には女に伊勢を当てる章段は存在しない。ただし、唯一の例外が第六十九段である。
ちゐさきわらはとは、うへ童なり。これは大和守継景、そ
の時は伊勢のかみにて、いつきの宮のかみかけて侍ける。
そ がむ
め、七より青首につカぅまつる、上一∪とのま′
と申けり。のちにはイ.と申。
伊勢は幼いとき、斎王に仕える「よひとのまへ」という名の
上童で、業平と斎王の秘密の恋を目撃していたというのである。
つまり、『伊勢物語』第六十九段の本文、
女、人をしづめて、子lつばかりに、男のもとに来たりけ
り。男、はた寝られざりければ、外の方を見いだしてふせ
るに、月のおぼろなるに、小封剖萄をさきに立てて、人立
てり。(注五)
の「小さき童」が幼かった伊勢だというわけであるが、これは
伊勢の父継蔭が伊勢守だったという事実から思いついたのであ
ろう。「よひとのまへ」という名は、斎王の歌に対する男の返歌、
かきくらす心のやみにまどひにき夢うつつとは剖固割増
めよ
に原因がある。傍線部は、『古今和歌集』の該当歌は多く「よひ
とさだめよ」となっていて、『伊勢物語』の非定家本にも「よひ
とさだめよ」のものが少なくないのである。
なお、『知顕集』では書名由来については、伊勢斎宮説・業平
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が神宮に詣で託宣によって物語制作を思い立ったという説・伊
勢補筆説を順にあげてそれぞれ否定し、四番目にあげる「伊勢
や日向の物語」説をとつている。
冷泉家流古注も伊勢を業平の恋人の一人とするが、『知顕集』
とは異なって特に晩年の妻とは見ていないし、『伊勢物語』の成
立や書名とは全く結び付けず、補筆者は業平息の滋春とする。
冷泉家流の中でも本によって多少の差はあるが、神宮文庫蔵
『伊勢物語注本』(注六)の場合、全部で六章段の女として伊勢
を想定している。そのうち、第十九段「宮仕へ」・「御連なりける人」、第三十一琴「御達の局の前」、第四十三段「親王、女を
思し召して」と、実際の伊勢の経歴と関わりそうな設定の章段
を選んでいることがわかる。
第六十九段では、斎王に仕える上皇「よひとのまへ」だった
とする点は『知顕集』と同じだが、「椙子の前」という名の童が
もう一人いたとしている。これは、第七十一段本文、
むかし、男、伊勢の斎宮に、内の御使にてまゐれりければ、
かの宮に、ヨ川引封、わたくしごとにて、
の傍線部「すきごといひける女」の解釈によっている。つまり、
当時は濁点表記をしなかったため、「すきこと」の部分が「椙子
と」と女の名前を表していると見るのである。
冷泉家流古注の書名由来論は、伊勢補筆説・伊勢斎宮説・「伊
勢や日向の物語」説を否定し、「妹背物語」説をとつている。大
筋では『知顕集』の注を継承しっつ、独自の解釈を付け加えよ うという姿勢が顕著である。
次に、旧注に属する一条兼良『伊勢物語愚見抄』の総論部分
を見てみよう。
此物語の名字につきて、伊勢がかきたるといふ説あり。又
在五中将みづからをのれが事をむかしの事にかきなしたる
といふ説あり。岡笥「測せ嘲雪仁和の御門の芹河の
行幸は業平没後の事也。尉到頭畠山引
いぶそl初日面河あー別。身づから書たるといふにとりては、
かりのつかひとして伊勢に下向して斎宮にあひたてまつれ
る事、この書のかんようたるによりて物語の名とせりとい
へり。是によりて、かりのつかひの事をはじめにのせたる
一本あり。是は伊行が今案の所為也。用るべからざるよし、
定家卿の奥書に書侍べり。(注七)
兼良は『伊勢物語』の書名について、「両説いまだ一決せず」
と結論を示さない。その上で、芹河の行幸が業平死後の出来事
だということを思うと、「伊勢がかきたるといふそのいはれ」が
あると記し、狩の使本を否定した定家の奥書を引いている。
ところが、同じ旧注でも宗祇・三条西家流の注釈になると、
黄門の心も、伊勢が作をもて、此物語の題号とすと見えた
り。されば当流用之。(注八)と、定家が根源本奥書で伊勢説否定の根拠をあまり示していな
かった点にとらわれ、定家や兼良があえて結論を示さなかった
意図を無視してしまう。この流れはしばらく変わらず、新注が
旧来の説を打破していこうという姿勢のもと、伊勢斎宮説・伊
勢補筆説の双方を否定するまで続いたのである。ただし、旧来
の説を否定した新注がどのような説をとつたかというと、伊勢
人は僻事すという、清輔・顕昭が唱えていたもう一つの説であ
った。
lニ
ここで伊勢の経歴について見る。在原業平は天長二年〔八二五〕
に生まれ元慶四年〔八八〇〕に五十六歳で没している。一方、伊
勢についてははっきりした生没年は不明で、『古今和歌集目録』
(注九)を見ても父親の履歴が大半を占め、七条后に仕えたこと
が記されるのみである。彼女と交流のあった人物の年齢等から
推測して、たとえば『和歌大辞典』(注十)では鼻観十六年〔八
七四〕頃生まれ天慶二年〔九三九〕頃に没したと見ていて、そう
すると、業平とは約五十歳の年齢差があることになる。
『和歌知顕集』や冷泉家流古注は何故、年齢が五十歳ほども
離れている業平と伊勢が夫婦関係・恋愛関係にあったとするの
であろうか。業平は五十六歳で亡くなっていて、史実として見
た場合、二人の間にそのような関係が生じることはありえない。
最大の要因は、伊勢が恋多き人生を送った女性だったという
事実であろう。
『伊勢集』冒頭、一番歌の詞書を掲げる。 寛平のみかどの御時、大宮す所ときこえける御つぼねにやまとにおやある人さぶらひけり、おやいとかなしくしてなべてのをとこはあはせじとおもひてさぶらわせけるに、宮すどころの御せうといとねむごろにいひわたりたまふを、いかがありけむ、おやいかがいはむとおもへど、さるべきすくせにこそあらめわかき人たのみがたくぞあるやとぞいひける、としふるほどに、その時の大将のむこにぞなりにけり、おやききてさればよとおもひけり、人注十一)
「宮すどころ」は七条后温子、「御せうと」は四番歌の詞書に
「びはのおとどの御かへし」と見えることから、后の兄の一人
である仲平である。ところが、仲平が他の人と結婚することに
なり、傷心の彼女は大和守だった父のもとに身を寄せる。その
後、后に請われて再度出仕すると、…このをとこのあになる人、今はそのをとこををとことた
のみたまふか、あなをさな、我をおもひたまへ、などいへ
ど…
(九番歌詞書)
と、今度は仲平の兄である時平から言い寄られる。さらには、
宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産み、天皇死後は天皇息の敦慶
親王に愛されて娘の中務を産む、という波乱の人生を送った。
摂関家の御曹司の兄弟それぞれと恋をし、天皇とその親王とい
う親子それぞれの子を産むという、業平の女性版とでもいえそ
うな華やかな恋愛模様である。たとえ少々生きた時代がずれよ
うとも、業平と伊勢という男女の組み合わせが誠にふさわしい
▲l
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と考えられたのは当然といえよう。
『後撰和歌集』巻第十三・恋五には、業平と伊勢の贈答歌が
存在している。
①巻第十三・恋五(八九一・八九二)
題しらず在原業平朝臣
伊勢の海に遊ぶあまともなりにしか浪かきわけてみるめか
づかむ
返し
伊勢
おぼろけのあまやはかづくいせの海の浪高き浦におふるみ
るめは
②巻第十三・恋五(九六七・九六八)
ひさしくいひわたり侍りけるに、つれなくのみ侍りけれ
ば
業平朝臣
たのめつつあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人はしらな
ん 返し
伊勢
夏虫のしるしる迷ふおもひをばこりぬかなしとたれかみざ
らん
これは一体どういうことなのだろうか。
『後撰集』の校異を確認すると、八九一番歌の作者に「枇杷
大臣寄也諸本如此非書写之誤」という書き入れを持つ本があ
る(注十二)。「枇杷大臣」すなわち仲平の歌だというわけである。
ひらがなで「なかひら」とあれば、「か」と「り」とを間違えて 「なりひら」と読んでしまった可能性は考えられる。ただ、勅撰集の作者名表記は大臣については実名を記さないのが普通で、仲平も「枇杷左大臣」と表記されている。
一方、九六七番歌の作者には、書き入れで「古今窮恒寄也諸
本皆同」とある(注十三)。この歌は『古今和歌集』巻第十二・
恋二(六一四)、『古今六帖』(二五六七)では「みつね」の歌とな
っているのである。窮恒と伊勢については、年代的に歌の贈答
があってもおかしくない。『古今集』・『古今六帖』のほうが正し
いと見るのが穏当であろう。
なお、作者名の枇杷左大臣と業平が入れ替わっている例とし
ては、『後撰集』巻第十一・恋三(七五六・七五七)の伊勢との贈
答歌で、七五六番歌の作者が「業平朝臣」となっている本の存
在が確認できる(注十四)。
③巻第十一・恋三(七五六・七五七)
宮づかへし侍りける女、ほどひさしくありてものいはむ
といひ侍りけるに、おそくまかりければ枇杷左大臣
夜ひのまにはやなぐさめよいその神ふりにしとこもうちは
らふべく
返し
伊勢
わたつみとあれにしとこを今更にはらはば袖やあわとうき
この歌に関しては、『伊勢集』(一四)に同じ歌が載り、その詞 なん
書に「はじめのをとこ」と書かれていることから、仲平の歌に
間違いない。この点に関しては『袋草紙』でも、
予これを案ずるに、この始めの男と云ふは、集の如きは仲
平なり。御息所は七条后也。もし仲平を書き誤るか。ただ
し後撰の時仲平は大臣なりバ名を書くべからずといへども、
和議の人の所為なり。また業平は元慶四年に卒すと云々。
七条后は仁和四年十月六日入内す。かくの如く時代相違す。
およそ業平の伊勢に会合せし事疑ひ有り。
と、「和語の人の所為なり」と述べている。『後撰集』に見える
業平と伊勢との贈答歌については、覚え書き・注記として書い
てあった名前から勘違いされたと推測しておく。
このような作者名の混乱状況を生じかねないと思わせる事実
として、『後撰集』の官位表記は諸本によって不統一であった
り、重なって入っている歌があったり、という点を指摘できる。
また、私的な色好みを題材に歌語り的なものを含む『後撰集』
は、「在原業平」という名前に引きずられてしまっているとも考
えられる。
おわりに
以上、『伊勢物語』古注釈における業平と女流歌人伊勢との関
係について、史実を明らかにしつつ、『伊勢物語』の成立と書名
由来に関する説、また『後撰和歌集』本文と絡めて考察してき
た。五十歳前後年齢の開きがある業平と伊勢が恋愛関係にあつ たとする『和歌知顕集』や冷泉家流古注の説は、一見、あまりに荒唐無稽である。しかし、その説が生まれた背景には、『伊勢物語』の成立と書名由来が古来謎とされてきたという事実、女流歌人の伊勢が、『伊勢物語』に描かれた色好み・業平に匹敵するほど恋多き波乱の人生を送ったという事実が存在している。さらには、すでに『後撰集』に、伊勢と業平が恋人関係にあったと理解する流れの萌芽が存在することを確認できる。点在する事実を紡ぎ合わせて、一つの伝説、一つの解釈が生じた例であるといえる。
〔附記〕本稿は、二〇〇三年八月二十八日、ヨ↑‑ロッパ日本研究協
会声巴蓼第十回国際会議9ルシャワ大学、ポーランド)において、
FietiOna=raditiOn
andF賢Orica‑rea‑i‑y‥Narぎiraand
LadyIseinmedi宅alcOmmentari涙象〓訂≦岩層慧恵已
と
.題して発表した内容をもとに、新たに論文化したものである。
【注】一『袋草紙』(新日本古典文学大系、岩波書店、一九九五年)。
二
顕昭『古今集注』(日本歌学大系別巻四、風間書院、一九八〇牢)。
三
天理図書館蔵『伊勢物語(千葉本)』(天理図書館善本叢書和書之部第
三巻『伊勢物語諸本集一』八木書店、一九七三年)。
四
宮内庁青陵部蔵『和歌知顕集』(片桐洋一氏『伊勢物語の研究〔資料
篇〕』明治書院、l九六九年)。
54
五
『伊勢物語』本文は、学習院大学蔵『天福本伊勢物語』(武蔵野書
院、一九六三年)により、適宜表記等を改めた。
六
「翻刻『伊勢物語注本』(上)(中)(下)」(廣同義隆・山口悦子・木
戸久二子『三重大学日本語学文学』第三・四・五号、一九九二・一九九
三二九九四年)。
七
『伊勢物語愚見抄』(冷泉家時雨事業書第四十一巻、朝日新聞社、一
九九八年)。
八
『伊勢物苛肖聞抄』(『伊勢物語の研究〔資料筆』)。
九
『古今和歌集目録』(『群書類従』第十六輯、和歌部巻第二百八十五)
十
島田良二執筆「伊勢」の項(『和歌大辞典』明治書院、一九八六年)。
十一『伊勢集』以下の歌集本文は『新編国歌大観』による。
十二
『後撰和歌集総索引』(大阪女子大学、一九六五年)による。
八九一番歌書き入れ「枇杷大臣苛也諸本如此非書写之誤」(天福本・
貞応二牛木)。
十三
九六七番歌書き入れ「古今窮恒寄也諸本皆同」(天福本・貞応二
牛木)。
十四
七五六番歌「業平朝臣」(中院本・堀河本)。
[きどくにこ東海女子短期大学教員]