九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
『大塔宮熊重篠繋』のこと
木村, 八重子
http://hdl.handle.net/2324/4742029
出版情報:雅俗. 14, pp.15-20, 2015-07-17. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
◉論考
『大塔宮熊重篠繋』のこと 木村 八重子
ここに掲げた題名は、ある書物に関することを述べようとするものではあるが、その内容について深く研究しようとするものではないことを、まずお断りして置かなければならない。「日本古典籍総合目録データベース」でこの書名を検索すると「大塔宮熊重篠繫(だいとうのみやくましげささつなぎ)」と読み仮名まで付いて「巻冊三巻」「分類黒本」「成立年宝暦七刊」「著作注記〈般〉日本小説年表による。」などの結果が示される。「日本小説年表による。」とあるが、実はこの作品は所在が判っており、確かに十五丁物の「黒本」で上中下の三冊本なのであるが、そのことは暫く伏せて遠回りをしてみようと思う。「日本小説年表」のどこに載るかといえば、その二四二頁の五番目「宝暦七丁丑年出版」の箇所に「○大塔宮熊重篠繋 三 同(鱗形屋)版」とある。「三」は冊数を示し、「同」はそれ以前の版元の記述と同じく「鱗形屋版」ということである。試みに『新修日本小説年表』(朝倉無声撰、春陽堂、大正十五年刊)の「宝暦七年」を見ると、一九二頁の十番目に「○大塔/宮/熊野篠繋 三 同(宝暦七年)」とある。(/は改行の記号として用いてみた、二字と一字による角書である)、三は同じく冊数を示し、こちらは版元名は無く、この欄に刊年が記さ れている。ここで違いを見ると、山崎麓編の現行「日本小説年表」は角書を本題に扱い「熊野」を「熊重」としていることが判る。題名に「大塔宮」とあるからには「熊重」では意味をなさず「熊野」が正しいように思われる。それを証明するために、所見本によって梗概を記すと次のような内容である。 (上冊)後醍醐天皇が笠置の城破れて有王山に捕らわれた時、大塔宮は大和の般若寺に忍んでおられた。按察法眼が嗅ぎ付け五百余騎で押し寄せ、宮は切腹の用意に短刀を抜き持ち、蓋の開いた大般若の櫃に隠れ経文を被って潜む。兵は縁の下まで探し、般若櫃の蓋を取り槍や薙刀で突く。一旦引いた兵が又戻るが、察して蓋をした櫃に隠れた宮は、危うき命を逃れる。宮はその後、十人の田舎山伏に変装して熊野へ落ち給う。廿日余で切目の王子に着き、宮は通夜して祈り夢の告を得て十津川へと志す。妻が物の怪に悩む殿(戸野)の兵衛は、貴き山伏が通ると夢み待ち申す。宮に加持を願い、妻は癒え、主人が止め一行は十日余逗留する。ある夜の物語に「大塔宮が此処に来られたら」と問うと戸野の兵衛が「匿い奉らん」と申すので村上が「あの先達こ
そ二品親王」と名乗る。
(中冊)戸野の兵衛の一門に有徳な竹原入道があり、御館を新築し匿い申す。供人も安堵し、ここに半年居られる間に宮は還俗され、入道の娘歌川を夜の殿に召される。この竹原八郎入道は熊野八庄司の頭領なので一門一家みな宮に御味方申す。熊野の別当定遍はこの事を聞いて実否を糺そうと忍びの名人うし五兵衛、ぜつたい小平六に窺わせ、宮をおびき出し、御首を討って足利へ注進し恩賞に預かろうと、辻々へ宮を捕らえた者に望みの恩賞褒美との高札を立てる。宮はここにも居り難く高野の方へ落ち行く。芋ヶ瀬の庄司に人を遣わすと、芋ヶ瀬は宮を討取ろうと備えていたところで、賺すと家来二人を人質にするか日月の旗を渡されよと言う。二三里遅れた村上彦四郎義光が急いで来掛かると、芋ヶ瀬の家来が日月の旗を差し上げて行くので急に四五人取って投げ御旗を取り返し、打って掛かる大勢と奮戦し、追い散らす。今も奉納の絵馬に描くのはこの彦四郎である。(逃げる者、芋尽くしの駄洒落)。高野のほとり小原を過ぎ三河坊が先達で木樵に尋ねると「玉置の庄司殿がある。お宿なら御頼みあれ」と教える。
(下冊)矢田彦七と片岡八郎が行くと、早くも玉置は討取ろうと掛かる。片岡は矢田を宮へ知らせに行かせ、奮戦し矢を射掛けられ倒れる。玉置は片岡の首を切先に貫く。ここに紀伊国の野長瀬九郎判官は乱世なので兵具を固め士卒を下知していると、ある夕暮、十一二才の小山伏が「明日は大塔宮がここを通って御難に遭う、味方になり助けよ。我が名は老松坊」と触れて通る。九郎は宮を助けたくなり千余本の盾矛を用意して控える。宮が中津川の峠に差し掛かると玉置の勢五百余騎が追い掛け、供の村上矢田平賀らは奮戦、宮が危うく見える。南の 山から下中黒の旗一流れを靡かせ、大勢馳せ来て玉置の勢を皆谷底へ切り落とし、宮を囲い北の山上で両陣の戦いを見る。宮は野長瀬を召して、急難を救ったわけと名を問う。宮は不思議に思い懐の御守本尊を見給うと、肌の御守老松明神の御神体が全身に汗をかいていた。判官の家来は疲れて水を求めたが山上なので水がない。宮は御加持なされ扇で岩を穿ち給うと水が湧き出、皆々喉を潤す。その後、大塔宮は、高野山安善宝塔を戦場とされ、鎌倉と大合戦なし給う。後醍醐天皇が再び御位につかせ給うも、偏にこの二品親王の功である。第十五丁は読み難い状態なので誤読があるかも知れぬが、『太平記』巻第五にみえる「大塔宮熊野落事」の内容に間違いなく、その草双紙化と言ってよいであろう。
所見は二件あり、書誌は次の通りである。
○南山大学図書館本(918w-v.o-33)表紙 黒本 三冊(合一冊)題簽 新/板/大/塔/宮/熊 くま野 の篠 すゞ懸 かけ 上紅地退色。上冊分のみ残存。絵の部分の意匠は鳳凰と桐の枠、冊次下に丸に三鱗の商標ある鱗形屋の初印系。絵は堂の回廊に通夜し夢に童子姿の神の示現を得る山伏姿の大塔宮(三ウの場面)商標 丸に三鱗(一オ、六オ、十一オ)柱題 大とうの宮 丁付 〔壱〕~十五
画作者名 なし印記 四つ花菱にJe(一オ)(Emile Javal)墨記 「めいさち□/山崎彦太郎九歳」(見返)、十四行のフランス語のメモ(後ろ見返に貼付)
○天理大学附属天理図書館本(石田文庫)(913.64-
///題簽新板/大塔宮/熊野篠懸中 くまの〔すゞかけ〕 表紙黒本三冊(合一冊) 15 3 ) イ
新/板/大/塔/宮/熊 くま野 の篠 〔すゞ懸 かけ〕 下紅地退色。絵の部分の意匠は鳳凰と桐の枠。冊次の下に丸に「岩」の商標、鱗形屋の丸に三鱗を入木により変更したもの。絵は、中冊は旗を奪って擬勢する村上(十オの場面)、下冊は懸守りを捧げて立つ大塔宮(該当なし〔十五オの場面〕)商標 削去柱題 大とうの宮 丁付 二~十四(一、十五欠)画作者名 なし印記 「石田文庫」(下冊後ろ見返)墨記 なし*この天理本は「石田文庫」なので、石田元季著『草雙紙のいろ〳〵』(南宋書院、昭和三年刊)を見ると一三九頁に「黒本大塔宮熊野篠懸(宝暦七年)」としてこの下冊題簽が図版紹介されている。ただし図版は大変不鮮明で辛うじて「熊墅」と「下(丸に「岩」)」が認められる状態である。 「熊重」は論外としても、ここで問題は「篠 すゞ懸 かけ」である。「篠懸」とは、『日本国語大辞典』によれば「修験者が着る服の一種。直垂と同形で、背の奥袖と鰭袖の間に紐をつけるのを特色とする。普通、麻で作り、柿色に染める。云々」とあり山伏の道行衣である。題名にこの語が用いられるのは、勿論、大塔宮が「御供ノ者迄モ皆柿ノ衣ニ笈ヲ掛ケ、頭巾眉半ニ責メ、(中略)田舎山伏ノ熊野参詣スル体ニゾ見セタリケル。」(日本古典文学大系
れ、「大東急/記念文庫/善本叢刊近世篇 その第二巻(前の青本部)の自筆稿本のみが大東急記念文庫に蔵さ いる。」とまとめられた。 の合計五巻より成る書目集であったが、その後散逸して今日に至って 第三巻(後の青本部)、第四巻(前の合巻部)、第五巻(后の合巻部) 散人)によって編纂され、第一巻(赤本部)、第二巻(前の青本部)、 作文芸論』に再録)があり、「江戸時代の天保年間に比志島文軒(漣水 学」第十七号、昭和五十二年三月刊。笠間書院、昭和五十七年刊『戯 ては、広瀬朝光氏に「翻刻「稗史提要」並びに研究」(「愛知大学国文 られた『稗史提要』の大切さに思い至った。この『稗史提要』につい り、あちこち資料に当たっているうちに、諸先学が疾うに気づいてお と 最近私は大東急記念文庫の「黒本青本」について報告することにな という文字遣いはどこから来たのであろうか。 表』と現行「日本小説年表」にある「篠繋」(傍点は筆者、以下同じ) 0 た)という姿で落ち行く場面だからである。しかし『新修日本小説年 一六七頁より引用、片仮名の振り仮名は省略し、旧漢字は現行に改め 34『太平記一』巻第五「大塔宮熊野落事」
発売、昭和五十二年刊)に『稗史提要藁本』として収録されている。 12 書目集二」(汲古書院
幸いなことに、「第二巻(前の青本部)」とは黒本青本の部に該当し、その「宝暦七丁丑」には左図のような記録がある。
鱗形屋のもので、その二行目に「大塔宮/熊□□□」が見え、右下に小さく「三」とあり三冊ものであることを示している。この題名の部分を少し拡大してみると
(図1)『稗史提要藁本』宝暦七丁丑
図1の部分拡大図
のようになり、「大塔宮」は凸型に書かれていることが判る。「墅」の崩し字は見ようによっては「重」と見えなくもない。「篠」は良いとしても、次の字は車偏があり下に「糸」がありそうである。「すずかけ」 は『日本国語大辞典』には「篠懸・鈴懸」とあり「篠繋」はない。ところで、私が以前から記録を取っているものに黒本青本の「新板目録」がある。ここで「新板目録」というのは、版元によって形式に違いがあるが、ある年にある作品に付された出版目録のことで、見返に表示する古い例もあるが多くは巻末にあり、「巻末目録」「奥目録」とも呼ばれる書名一覧である。左に図示するのは「新/板/役者/名物/略姿」の新板目録である。
(図2)『新/板/役者/名物/略姿』(十ウ)「丑正月/新/板/目録」
図2の部分拡大図
この作品は原本は所在が知れず、現在では稀書複製会の複製本でしか見ることが出来ない。多少文字の固さは見られるが、忠実に覆刻されているようで、ここでも「大塔宮」は凸型に書かれている。そして、段の区切り方は異なるが、「新板目録」を上段から下段へ、右から左への順に辿れば、題名の順序が(図1)と一致することが判る。
つまり、『稗史提要藁本』を「手控え」として記録していた比志島文軒は、この『新/板/役者/名物/略姿』の新板目録を見て、「丑」を「宝暦七年丁丑」と解し、振り仮名は省略したが角書までほぼ正確に筆
写したことは明らかであろう。おそらく『稗史提要』を参考にした朝倉無声『新修日本小説年表』は、宝暦七年として黒本と青本に分け、五十音順に並べ換えたのであろう。
(図3)『新修日本小説年表』(黒本の宝暦七年の部分、上下段を加工)
図3の部分拡大図
『稗史提要』が角書扱いにしなかった「役者名物略姿」と「浮世めつけゑ」は、やはり角書にしていない。ただし「めつけゑ」には漢字が当てられ、「本 イチ末 ダイ」「略 ヤツシ」の部分と「家 ヤ内 ナ儀 ギ魔 マ離 リ」と片仮名の振り仮名がある。「家内儀魔離」は「ヤナギニマリ」とすべきを「ニ」を抜かしている。現行「日本小説年表」は『新修日本小説年表』の行き方をそっくり踏襲して黒本と青本を分け、五十音順にしている。 (図4)『日本小説書目年表』(黒本の宝暦七年の部分)
図4の部分拡大図
(「重」の傍に「野」とあるのは筆者の書入れ)
ただし、『大塔宮熊重 0篠繋』だけは、おそらく角書部分が三字なので角書にしなかったのであろう。「熊野」を「熊重」と誤ったのは、果たして山崎氏も『稗史提要』を見て見誤ったためと言えるであろうか。振り仮名を平仮名にし「實 さね盛 もり本 いち末 だい記 き」「役 やく者 しや名 めい物 ぶつ略 やつし姿 すがた」としたのは良いが「家 や内 な儀 ぎ魔 ま離 り」はやはり『新修日本小説年表』と同じく「に」を抜かしているのである。
ここまできて、私は、「日本小説年表」なるものが、原本に拠ってのみ編まれたのではなく「新板目録」→『稗史提要』→『新修日本小説年表』→『日本小説書目年表』という系譜をも取り込んで成立したことを確信せざるを得なくなった。
(図5)「新/板/大/塔/宮/熊 くま野 の篠 すゞ懸 かけ」上冊表紙(南山大学図書館蔵)
この作品は『新/ 板/役者/名物/略姿』(十ウ)の「丑正月/新/板/目録」に載っているが、「大/塔/宮/熊野篠繋 0」ではなく、右に図示した通り「篠懸」の題で発販したことが明らかであり、題名は「新 /板/大/塔/宮/熊 くま野 の篠 すゞ懸 かけ」と訂正しなければならないであろう。
小稿は、大東急記念文庫の「かがみ」第四十五号に掲載した報告の、部分拡大というべき内容であるため、一部の記述が重複していることをお断りする。最後に、図版掲載をお許しくださった大東急記念文庫、並びに南山大学図書館に深く感謝申し上げる。