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篠原助市は何故に自らの教育規定を転換したのか?:『教育の本質と教育学』(1930)における「理論的教育学」の構想と『理論的教育学』(1929)の論述内容とのズレに着目して 利用統計を見る

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篠原助市は何故に自らの教育規定を転換したのか?

:『教育の本質と教育学』(1930)における「理論

的教育学」の構想と『理論的教育学』(1929)の論

述内容とのズレに着目して

著者

米澤 正雄

著者別名

YONEZAWA Masao

雑誌名

東洋大学文学部紀要. 教育学科編

41

ページ

43-54

発行年

2015

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007937/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

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よねざわ まさお 東洋大学文学部教育学科 1 .はじめに  本論文の課題は、篠原助市(1876〜1957)がそ の教育学理論の形成・展開において、何故に自ら の教育規定を転換したのか─『教育学』(1939年) において「自然の理性化」としての教育から「個 人の歴史化」としての教育へと─を、学位論文『教 育の本質と教育学』(1930年)における「理論的 教育学」の構想と『理論的教育学』(1929年)の 論述内容とのズレに着目して解明することにあ る。  この課題の設定理由を説明する。  篠原は、周知のように、『批判的教育学の問題』 (1922年、以下『批判的』と略記)において教育 を「自然の理性化」と規定する。  「教育とは、自然を理性化し、人を其の現にあ○る○ 状態から、あ○る○べ○き○、あ○ら○ざ○る○可○か○ら○ざ○る○状態に 導く作用である。ある状態は自然之を示し、あら  本論文の課題は、篠原助市(1876〜1957)が岩波全書版『教育学』(1939)において何 故に自らの教育規定を転換したのか(「自然の理性化」としての教育から「個人の歴史化」 としての教育へ)を、『教育の本質と教育学』(1930)における「理論的教育学」の構想と 『理論的教育学』(1929)の論述内容とのズレに着目して解明することにある。篠原は、「教 育の理念」の説明において、『理論的教育学』から『教育の本質と教育学』へと移るに際 して、「自然の理性化」としての教育から「弁証的発展」として再規定される「自然の理 性化」としての教育へと重心移動をおこなっていること。そして、『本質』における「教 育的範疇」として、「教育の理念」としての「自然の理性化」と整合的な「社会」・「自由」 (「自由な人格の自由な結合」)とは異なる、「教育の対象性」把握としての「弁証的発展」 になじみやすい、「客観的精神」・「時代」を挙げていること。そのために、「教育的範疇」 と「教育の一般原則」の区別と関係についての説明が欠如する『理論的教育学』において、 「教育の理念」としての「自然の理性化」および「社会」・「自由」と教育理想としての「客 観的精神」・「時代」(時と所によってその現われが著しく異なる)とが「方法上の原理」(特 に「社会」)において区別されずに癒着し、「教育の理念」としての「社会」・「自由」とは 対極の、学校における「鞏固な団体意識」形成の必要性の主張や「家長制度の家庭」にお ける子どもによる「自然の理性化」の可能性への疑義、をもたらしていることを明らかに した。今後の課題として、満州事変以降の時代の激震のなかでの、「弁証的発展」として の教育観にもとづいた、篠原による「実際的教育学」の具体化過程の解明を挙げた。 キーワード:・・篠原助市、教育の本質と教育学、理論的教育学、実際的教育学、教育の理念、 自然の理性化、個人の歴史化、弁証的発展、教育的範疇、教育の一般原則、 社会、自由、鞏固な団体意識

篠原助市は何故に

自らの教育規定を転換したのか?

─『教育の本質と教育学』(1930)における「理論的教育学」の構想と・

『理論的教育学』(1929)の論述内容とのズレに着目して─

米 澤 正 雄

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と略記)、『教育の本質と教育学』(1930年、以下『本 質』と略記)を出版し、『教育断想』(1938年)を 経て、岩波全書版『教育学』(1939年)において 教育規定を転換するに至る。すなわち、「自然の 理性化」としての教育規定を取るか「個人の歴史 化」としての教育規定を取るか、の二者択一の問 いを立て、前者を廃棄し、これに替えて後者を新 たに採用するのである。『批判的』において「私 は批判的教育学の畑に小さな鍬を入れるために生 まれて来た、若し態度までも改めることがあった ら、夫れは精神的死滅を意味する3)」とまで断言 していた篠原が、自らの教育規定を何故に転換し たのか。篠原による『批判的』から岩波全書版『教 育学』に至る教育学理論の展開過程そのもののな かに、自らの教育規定を転換させるような、理論 構成上の問題点が潜んでいるのではないか。「自 然の理性化」としての教育と「歴史的文化」(「歴 史化」としての教育、あるいは「教育の根本原理 としての弁証法」)との関係についての上記三択 で言えば、篠原による、『批判的』から岩波全書 版『教育学』に至る教育学理論の展開─「理論的 教育学」から「実際的教育学」への─は、第三の 選択肢(「自然の理性化」としての教育に対して「歴 史化」としての教育(「教育の根本原理としての 弁証法」)が従属する関係)から、第一の選択肢(「手 本」として位置づけられた「歴史化」としての教 育(「教育の根本原理としての弁証法」)に「自然 の理性化」としての教育が従属する関係)への移 行である、と見做しうる。  本論文は、篠原における「自然の理性化」とし ての教育規定と「歴史的文化」(「歴史化」として の教育ないし「教育の根本原理としての弁証法」) との関係に着目することによって、篠原における 自らの教育規定の転換(「自然の理性化」から「個 人の歴史化」への)が、『本質』における「理論 的教育学」・「実際的教育学」の構想(理論構成上 の問題点を含む)と、『理論的』から岩波全書版『教 育学』(「実際的教育学の要項」としての)への実 際の理論展開との、ズレ─就中、『本質』におけ る「理論的教育学」の構想と『理論的』の論述内 容のズレ─によって生ずることを示そうとするも のである。  一般的に言うならば、ある論者が自らの教育学 理論を形成・展開する場合、その前提には、その 論者の当該教育学理論の構成を導き、これを方向 ざる可らざる状態は理性の光に照らして之を定め る。教育とは其の語原の示す如く、又多くの教育 者によって考へられてゐる様に「引き出す」働き ではなくて、却って「理性の道に高めるtrain・up作 用である」1)」。  そして篠原は、同書収録の論文「教育の根本原 理としての弁証法」において、「自然の理性化」 としての教育と「歴史的文化」との関係について こう論及する。  「教育は自然の理性化を導く作用であるが、夫れ は自然と理性との間隙を歴史的分ママ化によって埋め ることによって行はれる……。言い換へれば歴史 的文化を手本として、又は之と並行して、自然を 理性化し、歴史的文化を介して被教育者の自然を 理性化する者が教育である。教育するとは歴史化 することであるとは、この謂である2)」。  篠原によれば、教師は、自らの体現する「歴史 的文化」を子どもに対して「投出」し、子どもは この「投出」された「歴史的文化」に自らを「投 視」することによって、この「歴史的文化」を「自 分に取り入れて」「主観的自我」に自らを高める。 「教育するとは歴史化することである」とはこの ことを意味する。この「歴史化」としての教育と 「自然の理性化」としての教育との関係を、篠原 は三通り想定する。第一は、「歴史的文化を手本 として」「被教育者の自然を理性化する」「教育」、 つまり、「手本」と位置づけた「歴史化」として の「教育」に対して、「自然の理性化」としての 教育を従属させる場合である。第二は、「歴史的 文化」「と並行して」「自然を理性化」する「教育」 がなされる場合、つまり、「歴史化」としての教 育と「自然の理性化」としての教育とを「並行し て」おこなう場合である。第三は、「歴史的文化 を介して被教育者の自然を理性化する者が教育で ある」との見解に示される関係、つまり、目的で ある「自然の理性化」としての教育に対して、「歴 史化」としての教育を媒介項(手段)として位置 づけ従属させる場合である。  篠原は、「自然の理性化」としての教育規定と「歴 史化」としての教育規定(「教育の根本原理とし ての弁証法」)とのこれら三択の関係に決着を付 けないまま欧米留学(アメリカ合衆国1922年 3 月〜同年 8 月、ドイツ・イギリス1922年12月〜 1923年 9 月)に出発する。そして留学から帰国後、 篠原は『理論的教育学』(1929年、以下『理論的』

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理念」としてより強調されていること)を示す。 そしてこのズレに対応して、『本質』における「理 論的教育学」の構想(特に「理論的教育学」にお ける「教育的範疇」と「教育の一般的原理」との 区別と関係の不整合を含む)と『理論的』の論述 内容とのズレが、『理論的』「第九章 方法上の原 理」・「第五節 社会」の説明に集中的に現われて いることを示す。最後に、「理論的教育学」の「方 法」としての「理念的抽象」、「実際的教育学」の 「方法」としての「歴史的比較法」とが、それぞ れバラバラに割り当てられているために、『理論 的』に比して強調度が著しく希薄化した「教育の 理念」・「自然の理性化」による制御・方向づけを 失った結果、「実際的教育学」の「方法」・「歴史 的比較法」─「歴史的なものを比較することは歴 史を超越することである。歴史の中に、非合理的 な外衣を去って、或いは寧ろ此の外衣を通して、 一般を見、更に異なった色々の立場から見た一般 の比較と、其の相互制限によって、より高き一般 に達し、歴史の中に非歴史的なものを求めること ができる5)」─が独り歩きを始め、岩波全書版『教 育学』における「個人の歴史化」としての教育規 定への転換を理論的に準備するであろうことを示 唆する。 2 .‌‌『理論的教育学』と『教育の本質と教育学』 との執筆および出版の経緯  自伝『五十年』「第五章 東北大学の教授として」 において、篠原は、『理論的』と『本質』との執 筆および出版の経緯についてこう説明する。  「当時東京の書店から出版の申込みが多く、殊に 教育研究会は前からの縁故もあり、執筆中であっ た「理論的教育学」をと迫られた。私は容易に承 諾しなかった。……なるべく閑寂な生活に入り、 経済的にもあまり配慮しないようにありたい。そ れには「学位」を得ておくのが良かろう。学位な くとも世間は適当に評価してくれるなどとうぬぼ れてはならぬ。かように考え、散歩の途上から引 き返し、すぐその夜から、学位論文の筆をとった。 そしてもし学位論文が通過するようであったら、 その時「理論的教育学」も一所にしてと、教育研 究会に申入れた。異議のありようはなく、両者を ほとんど同時に世に送ることにきめ、私は毎日学 位論文の稿をつづけ、一応まとまったのは、忘れ もせぬ十月末……であった。論文の題は「教育の づけ制御するメタ理論、つまりその論者の教育哲 学が想定されるのが常である。戦前の篠原の場合、 「理論的教育学」から「実際的教育学」への展開(実 際には、『批判的』出版後の、『理論的』提示から 『教育断想』を介した岩波全書『教育学』への教 育学理論の展開)において、彼自身のこの教育学 理論の構成を導き、これを方向付け制御する位置 にある著作は、『本質』以外にはない。つまり、 この学位論文は、戦前の篠原による教育学理論の 展開の前提にある、彼自身の教育哲学論を提示し たものである。このことは、戦後に出版された『教 育哲学』(1951年)が、論述内容から見て4)、こ の学位論文の戦後改訂版に位置することに明らか である。それ故、戦前の篠原による教育学理論の 展開過程において、「精神的死滅を意味する」と まで断言していた上記の教育規定の転換がなされ たとすれば、彼の教育学理論の形成・展開の前提 にある彼自身の教育哲学論に、理論上の問題点が そもそも最初から潜んでいて、その問題点が昭和 前期の時代状況との関わりになかで顕在化し、上 記教育規定の転換に帰結した、と受け止め、その 問題点を究明する必要があるのではないか。『本 質』の論述内容を、『批判的』出版後の『理論的』 の提示から『教育断想』を介した『教育学』に至 る篠原による教育学理論の展開の前提にある彼自 身の教育哲学論として位置づけ、その理論構成と 問題点を吟味する必要があると考える。  このような問題意識にもとづいて『本質』の目 次を見れば、同書「第八章 教育学の自立と普遍 性」の「六、 理論的教育学と実際的教育学」に、 篠原による「理論的教育学」・「実際的教育学」の 構想が提示されていることがわかる。  それ故、以下においては、まず『理論的』と『本 質』の原稿執筆の経緯と順番とを自伝『教育生活 五十年』(1956年、以下『五十年』と略記)によ り一瞥する。両著作の同時出版が、篠原の当初の 意図である(両著作とも、「序」は「昭和五年四月」 に記されている)にもかかわらず、出版は前著が 1929年に、後著が翌1930年に、ズレてしまったか らである。次に、この出版時期のズレが、『理論的』 と『本質』との論述内容上のズレをももたらして いることを示す。具体的には、両著における「教 育の理念」の説明における重点のズレ(前著では 「自然の理性化」が「教育の理念」として強調さ れているが、後著では「弁証的発展」が「教育の

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している。  それ故、次節においては、まず「教育の理念」 について、『理論的』と『本質』との論述内容を 比較し、その異同を示す。そして次に、『本質』 に示された「理論的教育学」の構想と実際の『理 論的』の論述内容とを比較して、当初の構想から のズレとそのズレの有する問題点を解析してみよ う。 3 .『理論的教育学』と『教育の本質と教育学』 との論述内容のズレ ( 1 )「教育の理念」についての説明の異同  『理論的』において、篠原は、「教育の理念」に ついてこう説明する。  「本書に於て、私は教育といふ純粋な姿を把捉し ようとの努力から出発した。自然の理性化として、 価値と存在との両界に跨り、二者を結合し、寧ろ 自然から価値に高まり行く教育現象を如実に眺め、 教育の「対象性」を確立することから出発した7)」。  「教育は一つの弁証的過程である。自然と理性と の対立により、自然的なものを理性的なものに止 揚する論理的、時間的発展である。この弁証的過 程は人格の発展であると共に又価値の発展であ る8)」。  「教育の理念は之を精神発達の姿に就て、縦に眺 むるときは、自然の完全な理性化といふ一語に尽 きる。併し、精神発達の方向は必ずしも一でない。 一でないとすれば、多くの方向は相互に如何なる 関係を保持しつゝ発展すべきか。換言すれば精神 発展の各段階に於て、精神の各方向は横に如何な る関係を保持すべきか。この点に於て、私は古来 多くの人々によって唱えられ来たつた、調和的発 展を教育の理念に定立し、精神各方向の調和と言 ふ点に教育の目標を置きたい。……要約して言ふ、 教育の理念は精神の各方向の調和的(意志を中心 とせる)発展(客観的価値に向へる)である9)」。  「教育の理念は、主観的には普遍的(固より調和 的な)個性であり、客観的には文化社会の発展で あり、二者を統一して抽象的に考えたときは、人 道のより高い表現である。一言に、個人と社会と の弁証的な、有機的な交互関係により人道の益々 完全に表現せられ行く永遠の過程、これが教育の 本質と教育学」。……/しかし学位論文の審査はそ う簡単に運ぶものでない。第一、従来発表せる論 文による業績如何が問題であり、その上すでに提 出せる未決のものとの前後の順序もあり、……少 なくとも二、三年の余裕を見ねばならない。しか し教育研究会はそんなことはお構いなしに、すで に紙型になっている「理論的教育学」だけなりと 刊行したいとあせる。私は「教育の本質と教育学」 の立場から見て、もう一度「理論的教育学」に筆 を入れたいと、二、三の講習会で聴講員の意見を 傾聴しなどして、両書の調整に心をくばった。そ れがかなり無謀な企てであったことは言うまでも ない6)」。  『理論的』と『本質』との執筆および出版の経 緯について、篠原が述べているのは、次の四点で ある。第一に、篠原は、東北帝国大学在職中に、 教育研究会から「執筆中であった「理論的教育学」 の出版を督促されたこと。第二に、その出版を「承 諾」する前に、篠原は、「四月のある日」の「夜」 から「教育の本質と教育学」と題する「学位論文 の筆をと」り始め、「十月末」に脱稿したこと。 第三に、篠原は、この学位論文の執筆中、教育研 究会に対して、「学位論文が通過するようであっ たら、その時「理論的教育学」も一所にして」出 版するよう申し入れ、了承されたこと。第四に、 学位論文の申請中に、教育研究会は「すでに紙型 になっている「理論的教育学」だけなりとも刊行 したい」と督促したが、篠原は、「「教育の本質と 教育学」の立場から見て、もう一度「理論的教育 学」に筆を入れたいと」考え、「無謀な企て」で はあったが「両書の思想上の調整に心をくばった」 こと、である。つまり、篠原による「理論的教育 学」の原稿執筆は、学位論文「教育の本質と教育 学」の原稿執筆に先行するものであり、学位論文 の言わば下書きにあたるものであること。そして 篠原が「教育の本質と教育学」を学位論文として 京都帝国大学に申請し「審査」される過程におい て、「理論的教育学」は「すでに紙型に」組まれ ていたために、学位論文の立場からの抜本的加筆 修正は不可能であったが、篠原は、「「理論的教育 学」に筆を入れ」ようと「無謀な企て」をおこなっ たこと、である。これらのことは、『理論的』の 論述内容と『本質』との論述内容との間に、「「教 育の本質と教育学」の立場から見て」、「思想上の 調整」を必要とする、ズレが存在することを示唆

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原は、刻々の、絶えざる、この「自然の理性化」を、 「教育の根本原理としての弁証法」による「人道 の表現」、として説明し直している。篠原は、「教 育の理念」としての「自然の理性化」を説明する、 一段下のレベルの理論(「教育の対象性」の把握) として、『批判的』において自ら提起した「教育 の根本原理としての弁証法」を位置づけているの である。  では篠原は、『理論的』の翌年に出版した『本質』 において、「教育の理念」をどのように説明して いるのであろうか。  「私は……、陶冶の理念は「人道」であると主張 したい。夫れは個人に於ける多方な具体的意志の 調和と統一を来し、延いては、個人と社会、更に 世界全人類との調和を将来する陶冶の最高理念で ある。/人道は陶冶の最高理念である。……/ ……理念としての人道は、人間一般の本分であつ て、夫れは普遍に妥当する。そして、私は、陶冶 の理念としての人道に、陶冶価値Bildungswert・の 名を与へ、ケルシェンシュタイネルと共に陶冶価 値を普遍的価値の一に数へたい。陶冶価値は他の もろもろの価値と等しく、一の理念的存在ideeles・ Seinであつて、時所を超越し普遍に妥当する11)」。  篠原は、「理念としての人道」を「時所を超越 し普遍に妥当する」「人間一般の本分」とみなす。 「人道は陶冶の最高理念である」から、この「陶 冶の理念としての人道」は「陶冶価値」と呼んで これを「普遍的価値の一に数へ」ることができる。 「陶冶の理念としての人道」は、「個人に於ける多 方な具体的意志の調和と統一」をもたらし、「延 いては、個人と社会、更に世界人類との調和」を もたらすからである、と。篠原は、『理論的』に おいて「可能性としての一切(自然的個性)から、 社会との関係に於て、一歩一歩、現実としての一 切(普遍的個性)に高まり、普遍としての人道を 夫れ夫れの姿に於て体現することが人の使命であ り、教育の理念である12)」、と述べているから、「理 念としての人道」を「時所を超越し普遍に妥当す る」「人間一般の本分」(「普遍としての人道」の「体 現」を「人の使命」)とみなし、これを「陶冶の 最高理念」(『理論的』では「教育の理念」)とし て位置づける。この点において、『理論的』と『本 質』との見解は一貫していると言える。  では、『理論的』において提起された、「人道(の 表現)」以外の「教育の理念」は、『本質』におい 理念であると言ひたい10)」。  『理論的』において、篠原は、「教育の理念」に ついて次の三つの命題を提起する。  ・・ i.「教育の理念は之を精神発達に就て、縦 に眺むるときは、自然の完全な理性化といふ一 語に尽きる」。但し、「教育の対象性」の把握と して見るならば、この「自然の理性化」として の教育は「一つの弁証的過程であり、自然的な ものを一層理性的なものに止揚する論理的、時 間的発展である。この弁証的過程は人格の発展 であると共に価値の発展である」、と再説明さ れる。  ・・ ii.この「教育の理念」としての「自然の完 全な理性化」は、「精神発展の各段階に於て」 見れば、「精神の各方向」の「調和的発展」で ある。  ・・ iii.「教育の理念」は、「人道の表現」、すな わち「個人と社会との弁証的な、有機的な交互 関係により人道の益々完全に表現せられ行く永 遠の過程」、である。  「教育の理念」に関するこれら三つの命題のう ち、「精神発達」の方向に関するi.「自然の完全 な理性化」とiii.「人道の益々完全に表現せられ 行く永遠の過程」とはほぼ同義で言い換えられて いる。しかし『理論的教育学』の用語としてみる ならば、篠原は、i.「自然の理性化」とiii.「人 道の表現」との二つの用語のうち、「教育の理念」 の用語としてはi.「自然の理性化」に重点を置 いている、と解さざるをえない。上に引用した「序」 に「自然の理性化」が使用されているからである。 その上で篠原は、この『理論的教育学』において、 「教育の理念」としての「自然の理性化」を、「精 神発展の各段階に於て」みれば「調和的発展」で あると説明し直している。そして篠原は、「教育 の対象性」を「自然的なものを理性的なものに止 揚する論理的、時間的発展」として「一の弁証的 過程」と把握し直すことによって、刻々の、絶え ざる、この「教育の理念」としての「自然の理性 化」を、「個人と社会との弁証的な、有機的な交 互関係により人道の益々完全に表現せられ行く永 遠の過程」、とも説明し直している。要するに、『理 論的』において篠原は、「教育の理念」の用語と しては「自然の理性化」に重点を置いて(「人道 の表現」とほぼ同義で)使用している。そして篠

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に高まる一の弁証的発展」として再規定されてい る。篠原は、「教育の本質」を説明する用語として、 「自然の理性化」に替えて、(「存在から価値に高 まる一の」)「弁証的発展」を新たに使用している のである。  さらに篠原は、『本質』において、「教育の本質」 を、「自然の理性化」としての教育と「助成」と の「交叉点」において成立するものとみなす。  「教育は縦には自然の理性化、横には助成といふ、 二重の関係概念であり、自然と理性との関係、教 師と生徒との関係、此の二重の関係の交叉点、常 に動きつつある動的な交叉点が即ち教育を表シンボライズ號す る19)」。  「教育の特質は、存在から価値への発展を、前代 と後代との関係、即ち時代の継起といふ立場から 考察する所にある20)」。  「教育とは、……自然としての精神が、前代と後 代との関係から起る助成作用を通して、価値に高 まり行く、特殊の事実である。教育者の個性と被 教育者の個性との相互交渉から、被教育者が次第 に創造的に発展し行く事実である。助成作用を通 しての創造的発展、これこそ教育といふ事実のユ ニークな徴表である21)」。  篠原は、既に、「自然の理性化」としての教育 を「存在から価値に高まる一の弁証的発展」とし て説明し直している。そしてさらに、この「自然 の理性化」としての教育と「交叉」する「助成」 という「教師と生徒との関係」についても、『批 判的』所収の論文「教育の根本原理としての弁証 法」において、自ら体現する「歴史的文化」を「投 出」する教師とこの「投出」された「歴史的文化」 に「投視」して「歴史的文化」を「取り入れ」る 子どもとの「相互交渉」によってなされる、「人 格生長の弁証法」として既に説明している。それ 故篠原は、教師と子どもとの間に行われる「人格 生長の弁証法」を通して、「存在から価値に高ま る一の弁証的発展」として、「教育の本質」を説 明している、ということになる。『本質』におい て篠原は、「教育の本質」について説明する際に、 それまでの「自然の理性化」という用語に代えて、 「弁証的発展」を主要な用語として使用している てどのように位置づけられ、論及されているのか。 ここでは、『本質』において提示された「教育の 本質」についての篠原の見解を検討することにす る。なぜならば、篠原は、『本質』において、二 段構えの教育学構想─「理論学としての理論的教 育学」と「技術学としての実際的教育学」─を提 示しているからである。  「教育学は……技術学としての実際的教育学と理 論学としての理論的教育学とに二分 せられる。 後者は前者を離れて存し得るが、前者は後者を基 礎とし、之を離れては存し得ない。のみならず、 二者は全然、其の成立の動機を異にする。技術学 としての教育学は、他の技術学に等しく、人の需 要に基づいて起こるが、理論的教育学は、凡ての 理 論 的 科 学 に 等 し く、 需 要 よ り も 驚 異 Verwundrungに根ざす13)」。  そして篠原は、「理論的教育学」の方法として「理 念的、現象学的本質直観」を、「実際的教育学」 の方法として「歴史的比較法」を、それぞれ割り 振る14)からである。篠原は、『理論的』において「教 育の理念」として論及した「教育といふ現象の純 粋な姿」について、この『本質』では「教育の本 質」として論及している。なぜならば、篠原にとっ て、「先験的立場」に立つ「理論的教育学」の方 法としての「理念的、現象学的本質直観」とは、「理 念的抽象により、先歴史的に教育本質を発見する 発見法」15)に他ならないからである。  以下、『本質』における「教育の本質」につい ての説明を検討しよう。  篠原は言う。  「教育的発展は、存在から価値に高まる一の弁証 的発展である。存在と価値との間に存する緊張と、 緊張を通しての統一としての弁証的発展である16)」。  「教育は、かく、当為の意識に基づく価値の弁証 的発展である。そして是が教育の対象である17)」。  「教育学の対象は、教育といふ現象である。教育 現象は、存在としての現象でも、又理念的存在(価 値)としての現象でもなく、まことに、存在と価 値との関係から起り、課題として、存在から価値 に高まる一種独特の現象である。この意味に於て、 私は、この現象に「自然の理性化」といふ名を与 へ18)」、云々。  ここでは、『批判的』において初めて提示され、 『理論的』においても引き続き強調された、「自然 の理性化」としての教育規定が、「存在から価値

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由な人格の調和的発展であるから、之より、  一、人格の社会性よりして「社会」  二、発展は自由の発展であるから「自由」  三、・・調和は、もろもろの文化価値の多方均衡な 調和であるから、其の成立条件として歴史 的文化価値即ち「客観的精神」 の三つの範疇を導くことが出来る。然るに、課題 としての教育は、此の発展を前代と後代との関係 か ら 眺 め る か ら、 更 に 之 に 加 ふ る に「 時 代 」 Generationenの一範疇を以てせねばならぬ23)」。  篠原は、このように、「陶冶価値」(「(人道への) 自由な人格の調和的発展」)から、「教育的範疇」 四つ─「社会」、「自由」、「客観的精神」、「時代」 ─を導き出す。「教育的範疇」として「社会」が 挙げられるのは、「人格の発展は、社会によヽるヽ、 社会へヽの発展である」からである。言い換えると、 「教育は寸時も社ヽ会ヽを離れ得ない。手段としての 社会あるにより、人は発展し、目的の社会、即ち 自由な人格の自由な結合としての社会は、教育の 理念の中に含まれねばならぬ」からである。「教 育的範疇」として「自由」が挙げられるのは、「凡 ての陶冶は自己陶冶であり、自己発展であり、自ヽ 由ヽの発展である」からである。「教育的範疇」と して「客観的価値」が挙げられるのは、「陶冶の 内容は客ヽ観ヽ的ヽ精ヽ神ヽである」からである。そして「教 育的範疇」として「時代」が挙げられるのは、「[前 代と後代との]時代の継起は教育に於ては、教師 と生徒との対立となり、対立を通しての助成的関 係である」からである24)  これら四つの「教育的範疇」のうち、「教育の 理念」としての「自然の理性化」の、「社会によ る教育・社会の為の教育」としての展開、に関わ る「教育的範疇」は「社会」と「自由」である。 残りの二つ─「客観的精神」と「時代」─は、「教 育の理念」としての「自然の理性化」を説明する、 一段下のレベルの理論、すなわち「(存在から価 値に高まる一つの)弁証的発展」(「教育の根本原 理としての弁証法」)に関わる「教育的範疇」で ある。これら四つの「教育的範疇」を並列で列挙 することによって、篠原は、「理論的教育学」の「教 育的範疇」(特に「教育的範疇」としての「社会」・ 「自由」)が「実際的教育学」において「時」と「所」 とによる制約をうけて具体的にどのようになるの か、に関する十分な考慮を欠くことになると思わ れる。なぜならば、「陶冶の内容」を構成する「客 のである。  「理論的教育学」と「実際的教育学」との関係 で言うならば、『批判的』および『理論的』にお いて、篠原がより重点をおいて強調している「教 育の理念」としての「自然の理性化」には、「歴 史的文化」の獲得(「教育の根本原理としての弁 証法」による)に対してこれを方向づけ制御する メタ理論の働きを期待することができる。しかし 『本質』の「理論的教育学」の構想において、篠 原が「自然の理性化」に代えてより重点を置いて 強調している「(存在から価値に高まる一つの) 弁証的発展」には、「歴史的文化」の獲得(「教育 の根本原理としての弁証法」による)に対して、 それ故同書の「実際的教育学」の方法として措定 されている「歴史的比較法」に対して、これを方 向づけ制御するメタ理論の働きを期待することが 無理ないし不可能なのではないか。言い換えると、 同書の「理論的教育学」の方法として措定されて いる「理念的抽象により、先歴史的な教育本質を 発見する発見法」は、その「教育本質」に「弁証 的発展」を「発見」する(恣意的に挿入する)こ とによって、同書の「実際的教育学」の方法とし て措定されている「歴史的比較法」─「歴史の中 に、非合理な外衣を去って、或は寧ろ此の外衣を 通して、一般を見、更に異なつた色々の立場から 見た一般の比較と、其の相互制限によつて、より 高き一般に達し歴史の中に先歴史的なものを求め ることが出来る22)」とする思い込み─と共振しこ れを無制限に増幅させてしまう働きを、篠原自身 のその後の教育学理論の展開に及ぼすことになる のではないか。このような問題意識のもとに、『本 質』における「理論的教育学」の構想と実際の『理 論的』の論述内容とを、次節で比較してみよう。 ( 2 )‌‌『教育の本質と教育学』における「理論的教 育学」の構想(「教育の理念」からの「教育 的範疇」の演繹および「教育の一般的原則」 の「定立」)  『本質』において、篠原は、「理論的教育学」の 構想をこう示す。  「教育の理念は、改めて説くまでもなく、陶冶価 値……である。然るに私は……、教育の範疇を此 の理念から導き出す義務を有する。そして是は陶 冶価値の不可欠の条件を発見することによっての み果たされる。陶冶価値は、已に述べた如く、自

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 五 ・・精神的作業の根本原則は教授の方面に於て は、 自 己 活 動 の 原 則 と な つ て 現 わ れ る。 ……25)  篠原は、「教育の一般的原則」として、第一に、 「生徒の精神状態の特質に照らして」、「個性の原 則」・「現在性の原則」・「精神発展の根本動機とし ての興味の原則」の三つを挙げる。そして「主と して教育に関する」「原則」として、第二に、「生 徒と社会との関係よりして」「社会性Sozialitätの 原則」、および第三に、「時代の継起、即ち教育者 と被教育者の間に成立する助成的関係から」、「助 成の根本動機」としての「愛と権威の原則」、を 立てる。他方、「教授即ち陶冶の内容的方面」に 関する「原則」として、第四に、「生徒と客観的 精神との関係から」、「形式的陶冶と習慣の二原則」 を立て、第五に、「教授の方面」における「精神 的作業の根本的原則」として、「自己活動の原則」 を立てる。これら五つの「教育の一般的原則」(一 番目の「原則」が三つなので正確には七つ)を、 篠原は、「教育学の理念」(「人道」)と「教育的範 疇」(「社会」・「自由」・「客観的精神」・「時代」) を「教育の客体たる被教育者の精神状態に結合し、 綜合的演繹によって」「定立」する、と述べている。  しかし、注目すべきは、『本質』における、こ のような「教育の理念」、四つの「教育的範疇」、 五つ(正確には七つ)の「教育の一般的原則」と、 『理論的』の論述内容との著しいズレ、である。 両著における「教育の理念」および「教育の本質」 に関する説明上の異同については既に述べたの で、ここでは、「理論的教育学」の構想(『本質』) と実際の『理論的』の論述内容との著しい異同に 限定する。「理論的教育学」の構想(『本質』)と『理 論的』「第九章 方法上の原理」の論構成─「第 一節 興味」・「第二節 自己活動」・「第三節 権 威」・「第四節 自由」・「第五節 社会」─との著 しい異同は、次の三点である。第一は、『本質』 における「教育の理念」、「教育的範疇」、「教育の 一般的原則」の区別と導出が、『理論的』の論述 内容においては十分に意識されず、「教育的範疇」 の説明を欠いているために、「教育の理念」と五 つの「方法上の原理」とが癒着してしまっている ことである。具体的に述べると、『本質』では「社 会」と「自由」とが「教育的範疇」に帰属し、「興 味の原則」・「愛と権威の原則」・「自己活動の原則」 観的精神」も「前代と後代との関係、すなわち時 代の継起」も、「教育の理念」に帰属するという よりもむしろ「教育の理想」に帰属するものであ り、時代と場所とに応じて、ともに著しく多様な 現われ方をする(それ故、「教育的範疇」として の「社会」・「自由」を、時代と場所とに応じて著 しく多様な仕方で制約することになる)と考えら れるからである。  次に、篠原による、「教育の理念」から導き出 された「教育的範疇」にもとづく、「教育の一般 的原則」の「定立」について検討しよう。篠原は 言う。  「かくて教育の理念と範疇は決定せられた。次の 任務は、之を教育の客体たる被教育者の精神状態 に結合し、綜合的演繹によって、教育の一般的原 則を定立するにある。中にも最も根本的な原則は 根本意志……の教育として、自由な精神的作用の 原則であり、一切の教育はこゝに始まり、こゝに 帰着する。其の他、私の考へてゐる一般原則の大 綱を示すと、  一 ・・生徒の精神状態の特質に照らして、第一、 個性を顧慮せよ、「自然に従へ」といふ…… 個性の原則、第二、精神生活の特質からし て現在性の原則、即ち現在を未来の犠牲と なすなといふ原則、第三、精神発展の根本 動 機 と し て の 興 味 の 原 則 が 立 せ ら れ る。 ……  二 ・・生 徒 と 社 会 と の 関 係 よ り し て 社 会 性 Sozialitätの原則が立せられ、こゝに教育す る社会の如何にあるべきか、如何なる組織 を有すべきかについて論ずる。  三 ・・時代の継起、即ち教育者と被教育者の間に 成立する助成的関係から、助成の根本動機 としての愛と、愛にもとづく権威と、即ち、 愛と権威の原則が立せられ、教育愛と教育 的権威の意義及び其の相互関係について答 へる。  四 ・・社会性の原則及び愛と権威の原則は、主と して教育に関するが、之に対し、教授即ち 陶冶の内容的方面から見て、生徒と客観的 精神との関係から、形式的陶冶と習慣の二 原則が立せられ、こゝに形式的陶冶と習慣 の教育的意義及び其の範囲について解明を 加へる。

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育の理念」と把握し、この方向を目指して「精神 的作業」に絶えず専念・没頭する、主体の「自由」 な態度を「根本意志」と把握する。そして篠原は、 「自然の理性化」への絶えざる駆動を可能にする 「根本意志」への補強材として、この「根本意志」 を個々の主体に身体化する「叡智的習慣」(デュー イ)27)を位置づける。そのうえで篠原は、このよ うな「自然の理性化」の主体へと子どもを形成す るための教材(「文化価値」を子どもに獲得させ るための教材)を、「自然科学的認識」を獲得さ せるための教材群と、「精神科学的」「理解」を獲 得させるための教材群とに区分する。そして最後 に篠原は、このような「自然の理性化」の主体へ と子どもを形成するための「方法上の原理」とし て、「興味」・「自己活動」・「権威」・「自由」・「社会」 の五つを挙げ、「教育の理念」としての「自然の 理性化」に照らした「実際的教育学」構築をめざ した、と解することができる。  しかし、問題は、『本質』での「教育的範疇」(「教 育の一般原則」ではない)・「自由」が『理論的』 では「方法上の原理」・「自由」へと格下げされて いることである。そして、『本質』での「教育的 範疇」・「社会」と「教育の一般原則」・「社会性」 との区別と対応にもかかわらず、この区別と対応 とが、『理論的』では「方法上の原理」・「社会」 に一括りにされてしまうことである。ここでは、 『本質』での「教育的範疇」・「社会」と「教育の 一般原則」・「社会性」との区別・対応が、『理論的』 での「方法上の原理」・「社会」へと一括りにされ ることによって、どのような教育理論上の問題が 生ずるか、明らかにしてみたい。なぜならば、「人 格の発展は、社会によヽるヽ、社会へヽの発展であ」り、 「手段としての社会あるにより、人は発展し、目 的としての社会、即ち自由な人格の自由な結合と しての社会は、教育の理念のなかに含まれねばな らぬ」からである。「教育の理念」としての「社会」 (「自由な人格の自由な結合」)は「教育理念」と しての「自由」なしには成立しないのである。  『理論的』において篠原は、「方法上の原理」・「社 会」についてこう説明する。  「教育の方法としての社会の原理は、社会(方法 としての)によヽりヽ社会にまヽでヽ教育すると言ふ、社 会的教育学の本質、更に推しつめて言へば、教育 其の者の本質から演繹せられる原理である28)」。  では、「教育其の者の本質」(『本質』における「教 は「教育の一般的原則」に帰属しているのに対し て、『理論的』の論述内容においては、『本質』の 「理論的教育学」構想において「教育的範疇」に 帰属するはずの「社会」と「自由」とがともに、「方 法上の原理」としての「興味」・「自己活動」・「権 威」と同列に位置付けられていることである。そ してそのために、『本質』における「教育的範疇」 としての「社会」(「人格の発展は社会によヽるヽ発展、 社会へヽの発展である」と述べているので「社会に よヽるヽ教育、社会へヽの教育」が想定されている)と 「教育の一般的原則」としての「社会性」とが、 区別されて説明し分けられずに癒着して、『理論 的』における「方法上の原理」としての「社会」 ─しかも、「教育方法としての社会の原理は、社 会(方法としての)によヽりヽ社会(目的としての) にまヽでヽ教育すると言ふ、社会的教育学の本質…… から演繹せられる原理である26)」と述べているの で、「目的としての社会」が「社会の為の教育」(『批 判的』)・「社会への教育」(『本質』)から「社会に までの教育」(『理論的』)に、つまり、理念とし ての「社会」が理想としての「社会性」に、格下 げされたうえで─の論述内容に集中的に現われて いる、と推測されることである。  それ故次節では、『本質』の「理論的教育学」 構想と実際の『理論的教育学』の論述内容とのズ レを検討してみよう。 ( 3 )‌‌『教育の本質と教育学』における「理論的教 育学」の構想と実際の『理論的教育学』の 論述内容とのズレ  『本質』において篠原は、「教育の理念」から「教 育的範疇」(「社会」、「自由」、「客観的精神」、「時 代」)を導出し、これら「教育の理念」・「教育的 範疇」を「教育の客体たる被教育者の精神状態」 に結びつける「綜合的演繹」によって、「教育の 一般原則」(「個性」・「現在性」・「興味」、「社会性」、 「愛と権威」、「形式陶冶と習慣」、「自己活動」、の 各原則)を「定立」している。これに対して、『理 論的』において篠原は、「教育的範疇」に一切論 及することなく、「方法上の原理」五つ(「興味」、 「自己活動」、「権威」、「自由」、「社会」)を取りあ げる。言い換えると、『理論的』では、「教育の理 念」から「教育的範疇」を導出する代わり、次の 論述の手続きを経て「方法上の原理」五つに到達 する。すなわち、篠原は、「自然の理性化」を「教

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が高まり深められて行く如きである。第三は、団 体の各員が、殆んど似よりの精神状態を有するこ とである。第四は、各員が密接な集合生活を営む ことである。……学校は是等の条件を最も良く具 備せる一の社会、一の超人格的な統一である32)」。  篠原は、この「社会にまヽでヽの教育」(『批判的』 での「社会の為の教育」でもなく、『本質』での「社 会へヽの教育」でもなく)によって、一気に「学校」 での「国民」教育における「鞏固な団体意識」の 養成、という「切実な直接な目標」に論及するに 至る。この論及によって、篠原は、「教育の理念」 としての「社会」─「自由な人格の自由な結合」─ を、「ヒューマニティ」と同義で説明しているに も関わらず、「社会性」(「切実な直接な目標」と しての「鞏固な団体意識」の養成)の強調と裏腹 に、はるか遠景へと押しやってしまう。  「団体意識の涵養によって、「余ヽといふ意識」 “Ich-Bewustsein” を「 我ヽ々ヽと い ふ 意 識 」“Wir-Bewustsein”に高め、しかも、狭い団体意識から 次第に、より大なる団体意識に、換言すれば、家庭、 学校、郷土より進んで、国民に、国民から更に進 んでヒューマニティに至るまで次第に拡張し行く こと、これが社会にまでの教育の最も重要な内容 である。然るに、近時に於ける学校教育の努力は、 偏へに知的方面に集中し、団体感情の養成に対し ては、さまで深甚の注意を払つてゐない。識者の 三省を要するべきではなからうか33)」。  篠原は、『本質』における「教育の理念」とし ての「社会」を「教育の一般原則」・「社会性」と 十分に区別せずに一括りにすることによって、「教 育の理念」としての「社会」(「自由な人格の自由 な結合」、「ヒューマニティ」)を、『理論的』おけ る、「学校」の「切実な直接の目標」としての、「団 体」を「団体」として「意識」する「感情的体験」 にもとづく、「鞏固」な「団体意識」の養成の必 要性(そのための「作業団体」の位置づけの必要 性)の主張へと自ら転化させている、と言わねば ならない。  従って、篠原は、「教育の理念」としての「自 治の社会」に論及しても、子どもにおける「自治 の社会」の練習・体得に関しては非常に歯切れが 悪い。  「自治の社会は自由な成員の自由な結合としての 一の価値社会である。……夫れは、……倫理的に 育的範疇」からではなく)から「演繹」される「原 理」、特に、「社会にまヽでヽ教育する」とはどのよう なことか。篠原は言う。  「私は、……社会にまヽでヽの教育は、社会の自律的 一員として、社会の道徳化に導くのが其の中心任 務で、社会の文化価値の発展をば第二位に置かう と思ふ。換言すれば、社会にまでの教育は、主と して情意の方面に存し、知的方面は第二次的であ ると主張したい。……社会の文化価値の発展とい ふ如きは、学校教育の主要な任務ではない。文化 価値の立場から見れば、学校は、已存の文化価値 を伝達し、伝播し、生徒の受容能力capacityに応じ て、これを収得せしむるに止まる。文化価値の其 の者の向上発展は、何時でも、天才の創意に基づ く29)」。  この、「已存の文化価値」の「伝達」(「社会の 文化価値の発展」でなく)を「主要な任務」とす る「学校教育」において、生徒は「人格として、 及び、超人格的な価値の代表者としての教師に従 属する」、と篠原は断言する。  「教師と生徒および生徒相互の関係から学校社会 を見るとき、学校に於ては、第一に、生徒は、人 格として、及び、超人格的な価値の代表者として の教師に従属し、第二に、生徒の自然の傾向と教 師から課せられた諸般の義務との間に分離と緊張 を来し、此の分離緊張によって、生徒は次第に義 務感に導かれ、第三に、其の各員は同様な条件の 下に、同一の共同社会に属する30)」。 それ故、  「教育の最も重大な任務は、国民の精神的連関の 意識を渙発し、強き団体感情を起し、且此の意識 に内容を与へ、鞏固な団体意識を養ふにある。か くて、文化の向上発展といふ如き……高い理想よ りも、団体意識もしくは、社会感情、正義感情、 及び、之に応ずる意志を陶冶し、社会の道徳化に 導くことは、社会にまヽでヽの教育の切実な直接な目 標でなければならぬ31)」。  「団体意識、社会的感情の発展に対して、最も重 大な条件の第一は、最も重大な条件の、第一は、 団体の各員が団体を団体として意識することであ る。此の意識や、固より必ずしも知的なるを要し ない。夫れより寧ろ、之を感情的に体験するを必 要とする。第二は、他の団体との交渉である。換 言すれば、他の団体とのとの接触によって、自覚

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自己決定をなす自ヽ由ヽな成員が、相互に他を尊敬し、 正義の旗印の下に平ヽ等ヽとなり、他と自を同一視す る博愛の精神に基づいて本原的に、同ヽ胞ヽとして結 合し、道徳的任務を遂行する道徳的社会である。 併しかかる完全な自治の社会は教育の理念であっ て、夫れは教育期に於て、固より実現せらるべく もなく、一般に人生に於て、十全に実現せらるべ くもない。けれども、個々の課題としての自治は、 一より他へ、次第に進展するものとして教育の範 囲内に属し、且教育によって始めて此の進展が成 し遂げられる。そしてこゝに方法上の原理として の自治の存立根拠がある。しかも夫れは次の二つ の予想の下に始めて教育方法の原理となり得る。 第一に、自治の為には、生徒に於て、自治をなし 得る基礎が存しなければならぬ。自治の精神と自 治の能力が生徒の中に─有意的にか無意的にか─ 生動していなければならぬ。……第二に、自治は 漸進的でなければならぬ34)」。  篠原は、「教育の理念」としての「社会」、「自治」 について論及するものの、「教育の範囲内に属す る」「方法上の原理」・「自治」については、「生徒 に於」ける「自治をなし得る基礎」─生徒に「生 動」する「自治の精神と自治の能力」─とその「基 礎」の「漸進」的進展を不可欠の条件として提言 する。しかし、この「基礎」自体が、学校教育に よって、「環境整理」を伴って育成されるべきこ とに属するのではないか。「人格として、及び、 超人格的な価値の代表者としての教師に従属す る」「生徒」において、いかにして「教育の理念」 としての「社会」・「自由」が実現することになる と篠原は考えているのか。しかも、この「基礎」 の「基礎」、つまり「家庭」において、「教育の理 念」としての「社会」・「自由」は、子どもにおい てはたして実現可能なのであろうか。篠原は言う。  「家庭、特に家長制度の家庭は、第一に、一の経 済社会である。第二に、家長権に服従する一の法 的社会である。第三に、其の各員は、全然家庭に 従属し、家の名誉と個人の名誉とを同一視する社 会である。第四に、家族及び祖先と相合して成る 一の文化社会であり、第五に、又、愛と同情とを 基礎とし、父母は子女を導き、子女は、翻って父 母長老を尊敬し、長幼互いに相補助する最も緊密 な同情的社会である35)」。  「家長制度の家庭」において、子どもは、「法的」 に「家長権に服従」しつつ、かつ「社会」的に「全 然家庭に従属し」つつ、「教育理念」としての「自 然の理性化」、「教育理念」としての「社会」・「自 由」(「自由な人格の自由な結合」、「ヒューマニ ティ」)を、子どもによる「自然の理性化」を促 進するような徹底した「環境整理」なしに、はた して実現しうるのであろうか。篠原の上記引用文 には大きな疑問を呈せざるをえない。「私は自由 が教育の目的であると同時に方法であると言つた と同じ意味で、自治も亦教育の理想であり方法で あると主張する36)」と篠原は述べるけれども、既 に論及した彼自身の見解─「国民」教育における 「超人格的な統一」としての「鞏固な団体意識」 の形成の必要性─によって、自らのこの「主張」 を相殺してしまっているのではないか。 4 .おわりに  以上、篠原が、『理論的』と『本質』とにおけ る「教育の理念」の説明において、「自然の理性化」 としての教育から「弁証的発展」として再規定さ れる「自然の理性化」としての教育へと、その重 心を移動させていること。『本質』での「教育の 理念」の説明におけるこの重心移動は、篠原が「教 育の対象性」把握に「弁証的発展」の用語を使用 していることに由来すること。そして、『本質』 における「教育的範疇」として、「教育の理念」 としての「自然の理性化」と整合的な「社会」・「自 由」とは異なる、「教育の対象性」把握としての「弁 証的発展」によりなじみやすい、「客観的精神」・「時 代」を挙げていること。そのために、『本質』の「理 論的教育学」の構想において、「教育的範疇」と「教 育の一般原則」とを区別して説明しているにもか かわらず、『理論的』における論述内容に「教育 的範疇」の説明が欠如することによって、『本質』 での「教育的範疇」と「教育の一般原則」との区 別の欠如、癒着が『理論的』の「方法上の原理」 五つ(特に「社会」)の説明に集中的に現われて いること、を示した。自伝『五十年』において篠 原が、「批判的教育学から眼を歴史的方面に、カ ント的なものから生の哲学をママ転ぜしめた37)」と強 調するドイツ留学時のフィッシュアイゼン=ケー ラーとの出会いの意味は、篠原自身の教育学理論 の構成のありように照らすならば、本稿が示した ように、「教育の理念」についての説明の重心が、 『理論的』における「人道の表現」と同一視され る「自然の理性化」から、『本質』における「弁

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証的発展」(「教育の根本原理としての弁証法」) による「人道の表現」へと、「教育的範疇」とし ての「社会」・「自由」に新たに加えられた「客観 的精神」・「時代」の強調を伴って、移動している ことに、むしろ見出されるのである。『本質』の「理 論的教育学」の構想におけるこのような理論上の 重心移動にもとづいて、時代の激変(『本質』出 版翌年の満州事変、その翌年の満州国建国、そし て国体明徴、日中戦争の泥沼化へ)のなか、『理 論的教育学』から「実際的教育学」への具体化を 試みるとき、篠原がいかにして自らの教育規定を 転換するに至るか、その詳細な検討(特に『教育 断想』(1938年)所収の「民族と教育」をめぐる 諸論文および岩波全書版『教育学』)は今後の課 題とせざるをえない。 注 1 )篠原助市『批判的教育学の問題』東京宝文館,1922年[以 下『批判的』と略記],pp.・151−152. 2 )同上書,p.・302.参照,拙論「篠原助市「批判的教育学」と 彼の国体論との関係との解明─「自然の理性化」の,「社会に よる教育・社会の為の教育」としての展開─」『東洋大学文学 部紀要 第68集 教育学科』編XL』,2015年 3 月,pp.・145− 154. 3 )篠原助市『批判的』「序」,p.・1. 4 )篠原助市『教育哲学』富士書店,1951年,の「第五章 科 学としての教育学」の論述内容は,『教育の本質と教育学』[以 下『本質』略記]「第八章」〜「第十一章」の論述内容とほぼ 重なっている. 5 )篠原助市『教育の本質と教育学』教育研究会,1930年[以下, 『本質』と略記],p.・311. 6 )篠原助市『教育研究五十年』相模書房出版部,1956年[以 下『五十年』と略記],pp.・321−322.尚,木内陽一氏は,「(お そらく)1927年 4 月から」篠原が『理論的教育学』と『教育 の本質と教育学』の執筆を「並行して」行った,と推定して いるが,根拠は示されていない.参照,木内陽一「[解説]篠 原助市教育学の形成と構造」p.・7,『篠原助市著作集 第 7 巻  訓練原論/解説・略年譜』発行:学術出版界.発売:日本図 書センター.2010年. 7 )篠原助市『理論的教育学』「序」,教育研究会,1929年[以 下『理論的』と略記],pp.・1−2. 8 )『理論的』,pp.・39−40. 9 )同書,pp.・65−66. 10)同書,p.・89. 11)『本質』,pp.・153−514. 12)『理論的』,p.・86. 13)『本質』,pp.・273−274. 14)同書,pp.・308−309. 15)同書,p.・318. 16)同書,p.・53. 17)同書,p.・57. 18)同書,p.・261. 19)同書,pp.・125−126. 20)同書,p.・285. 21)同書,p.・305. 22)同書,p.・311. 23)同書,pp.・339−340.「教育理念」・「陶冶価値」としての「自 由な人格の調和的発展」は,「教育の対象性」把握としての「弁 証的発展」により馴染みやすいのではないか(なお,本論文 の注10)の引用文を参照.) 24)『本質』,pp.・344−345. 25)同書,pp.・346−347. 26)『理論的』,p.・568. 27)同書,pp.・479−480. 28)同書,p.・568. 29)同書,pp.・577. 30)同書,pp.・574−575. 31)同書,pp.・578. 32)同書,pp.・578−579. 33)同書,pp.・579−580.尚,篠原は,この「鞏固な団体意識」 の養成について,『教授原論─特に国民学校の授業─』(岩波 書店,1942年)・「第十三章 学級生活と教授及び教育者」に おいて,「学級生活」の「三方面」─「体験共同体(感情共同 体)」,「作業共同体(目的共同体)」,「行為共同体(道徳共同体)」 ─として説明したうえで,「団体訓練」についてこう論及する に至る.「団体訓練に於ける団体は体験共同体でも,又単なる 作業共同体でもない.夫れは学級又は学校が一つの団体とし て,各員自己の任務を果しつゝ,団体の為にといふ強い信念 の下に行はるゝ訓練である.……訓練夫れ自身が目的である. 其処ではかりそめの利己心も洗浄し尽され,「一切これ団体の 為」といふ精神が打ちこまれ,「われ」といふ意識は背後に退 き,凡てが「われわれ」といふ全体意識に於て行動する.そ してこの「われわれ」といふ意識こそは普く共同体を共同体 たらしむる最初の,そして最後の紐帯である」(同書,p. 450.) と.篠原教授原論(「受動的発動」論)の自壊である. 34)同書,pp.・588−589. 35)同書,p.・571. 36)同書,p.・586. 37)『五十年』,pp.・307.

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