篠原助市における教育学理論の形成・展開とデュー
イ思想受容との関係の解明-永野芳夫の場合との対
比を念頭において-著者
米澤 正雄
著者別名
YONEZAWA Masao
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
巻
44
ページ
28(193)-43(178)
発行年
2009
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009295/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja篠原助市における教育学理論の形成・
展開とデューイ思想受容との関係の解明
永野芳夫の場合との対比を念頭において
序 論 本 論 文 の 課 題 と 方 法 本論文の課題は,篠原助市(1876-1957)に おける教育学理論の形成・展開とデユーイ思想 受容との関係を,永野芳夫 (1894-1967)の場 合との対比を念頭において,解明することにあ る。 この課題を設定したのは,次の理由による。 理由の第一は,篠原による教育学理論の形成・ 展開過程 (1批判的教育学」の確立,および「理 論的教育学」から「実際的教育学」への展開) において,デユーイ思想への篠原自身の評価が 大きく変化していることである。篠原における デユ}イ思想との出会いは,東京高等師範学校 在学中の1906年「紀元節J
当日,r
学校と社会』 を一気に読了した(1)ことに始まる。篠原は,当 初,論文「ヂューイの教育論J
(1918年3・4月, 後に『批判的教育学の問題j1922年,に収録) において,1
ヂューイは知識の為の知識を認め ず科学其れ自身の価値を否んだ」と批判し, デューイ教育思想を,1
極めて人為的な,物質 的なものとなったJ
1
知識を道具となす実用主 義」の「本土J
1
米国」の「国民性」にふさわ しい,1
米国式」教育思想として論難するは)0 しかし1922年8月,アメリカ合衆国への留学の 帰途,篠原は,デユ}イ『人間性と行為』を最 初「二十貰」読んだだけで,1
立派な本である。 デューイを見直した。早まった批判はひかえね ばならぬほ)J
と 最 大 級 の 賛 辞 を 記 し 論 文 「ヂューイの教育論」におけるデューイ思想へ米 津 正 雄
の論難を訂正する。『人間性と行為J
に示され たデューイの「習慣」論は,1
自然の理性化J
(と しての教育)を絶えず試みる,1
おやみなき意 志J
ないし「根本意志J
を確立・保持するため の,1
容智的習慣」として,篠原自身の『理論 的教育学.1(1925年)および『教育哲学j(1951 年)の理論構成に取り入れられる。しかし篠 原によるデユーイ教育思想への正当な評価は, 敗戦後の「民主主義と教育の精神J
においてよ うやく提示される(4)。戦前・戦後にわたる篠原 の教育学理論の形成・展開過程は,彼自身の テやユーイ思想評価の変化との関連において,精 査される必要がある。 理由の第二は,永野芳夫が,佐藤武との共著 『改造思潮に基ける新学校の主張と実際j(1923 年)において,篠原助市「批判的教育学」によ る千葉師範附小「自由教育」の「基礎づけ」を, こうt
比判していることである。 「いはゆる自然の理性化とは自然性を理性に までもたらすことに外ならぬならば,…[略] …自然性を理性にまねて作るにほかならな い。そうであるとすればそれは決して創造で はありえない。それは模作であるにすぎな い。/…[略]…/創造が説明されぬと同時 に, [自由教育]主張者のいふやうな「児童 本位」といふことも出て来なくなる。子供の 自然性を理性化するときのその理性化の標準 はいったいどこから来るのであらうか。子供 がすでに完全円満絶対でない以上,その標準 は子供以外の高いところから来ねばならなく 28 -(193)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想受容との関係の解明 なる。さうすれば児童が本位ではない。児童 のタトに中心がなければならなくなる(51
J
。 ([ ]内は引用者補足,旧漢字は当用漢字に 変更,以下同じ) 篠原による教育の規定,1
自然の理性化」は, 子どもの「自然性」を,社会人としての大人(特 に教師)の有する「理性」を基準にして,これ に合わせて作る「模作」にすぎないから,1
創 造」ではありえない,ましてやそれは「児童本 位」ではありえない, というのが永野の見解で ある。これは,篠原の「批判的教育学」とこれ に依拠する千葉師範附小「自由教育」論に対す る,同時代における根本的批判である。はたし て篠原は,自らの「批判的教育学」への永野の この批判を受け止め,これに答えたのであろう か ? 戦前から戦後にわたる篠原の教育学理論 の展開は,永野のこの批判および永野による教 育(学)用語「改造」論(
1
校長」廃止論,1
授 業」を「学習J
に,1
教材」を「題材J
に,1
教 授法」をI
[
学習]方法」に,1
興味」を「感賞」 に, I(外的)指導乃至統御」を I(内的)指導 乃至補導」に,それぞれ改めるべきとの提案)(61 に照らして,吟味される必要がある。 以下においては,篠原助市による教育学理論 の形成・展開過程を, 1945年8月15日の敗戦以 後とそれ以前とに大別する(71。そして篠原によ る,戦前における教育学理論の形成・展開(こ の過程で篠原は自らの思想的立場を,1
批判的 教育学」確立期, 1922~23年の米欧留学期,の 二度にわたり自主的に変更する)と戦後におけ るその全面的再編成を,篠原におけるテ相ユーイ 思想、受容のありように焦点づけて,永野芳夫に よる篠原「批判的教育学」批判(教育(学)用 語「改造」論を含む)に照らして,考察してみ よう。 第1章戦前における篠原による教育学理論の 形成と展開 第1
節篠原助市の略歴と主要著作 篠原助市は, 1876(明治9)年愛媛県に生ま れ,小学校卒業後,養正館という「漢籍を主と し英語と数学が傍系を占め」ている塾に「二 年余り」学び, 1893(明治26)年愛媛県尋常師 範学校に入学した。「明治三十三年十月降した まえる教育勅語は教育全般を照らす太陽として 一切の迷雲をふき飛ばした。狭く師範教育につ いても順良,親愛,戚重の三徳が重視せられな がらも,言わば太陽の影に光る月の如くに,教 育勅語の裏づけたるに止まり,三徳を動かす軸 は例の軍隊式教練であった(81J
。篠原は1898(明 治31)年3月同師範を卒業し,岡県内の小学校 に訓導および校長として勤務した。その後, 1901(明治34)年東京高等師範学校(英語科) に進み, 1905(明治38)年3月同高等師範を卒 業,同年同高等師範研究科(一年課程)に学び, 翌1906(明治39)年3月に同研究科を修了,同 年4月より1912(大正元)年9月まで福井師範 附 属 小 学 校 主 事 と し て 勤 務 し た ( 手 塚 岸 衛 (1880 -1936)は1908年に東京高師を卒業し福 井師範に勤務した)。篠原は, 1912年9月京都 帝国大学文科大学哲学科に進み「哲学を専攻」 し1916(大正5)年7月同大学哲学科を卒業, 引き続き同大学大学院において「大学院学生と して教育学(哲学ではなく)を研究」し, 1919 (大正8)年5月より1922(大正11) 年2月ま で母校の東京高師の教育学の教授として勤務す る。この間篠原は, 11917(大正6)年9月」 大阪から「京都に転住J
,1
場所は当時京都市視 学であった手塚君の寓から北の方三件目J(91に 暮らす。そして篠原は, 1918年6月に京都女子 師範から千葉師範附属小学校主事に赴任した手 塚岸衛の要請を受けて,翌1919年7/8月より 同師範附小「自由教育」を指導する(日)とともに 1918年から1922年までに公表した諸論文(同師 範附小「自由教育」の指導理論としての「自然 の理性化」論)をまとめ『批判的教育学の問題』 と題して1922年5月に出版する(尚,篠原が 「序」を記した手塚岸衛『自由教育真義J
は, 1922年3月に出版される)。篠原は1922年 2-8月アメリカ合衆国に, 1922年12月一1923年9 29 -(192)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想受容との関係の解明 月欧州に(手塚岸衛も同行(ll)), 留 学 し 帰 国 後1923 (大正12) 年10月より 1930 (昭和 5) 年 3月まで東北帝国大学教授として法文学部に勤 め,自らの「理論的教育学」を公にする。主著 『理論的教育学j(1929年)(r哲学綱要j1926年, とともに1941年に絶版措置),および京都帝国 大学に提出・受理された学位論文の出版『教育 の本質と教育学j(1930年),である。その後篠 原は, 1930年4月より 1941 (昭和 16) 年 3月ま で東京文理科大学教授を勤め,
i
実際的教育学」 の展開を試みる。却ち,論文「民族と教育」 (1932年 2月)以降「実際的教育学の根本問題」 を考察した論文集『教育断想 民族と教育其の 他j (1938年), これにもとづいて「実際的教育 学の要項J
(,個人の歴史化J
論)を示した岩波 全書版「教育学j(1939年),を経て,r
教授原 論一一特に国民学校の授業一一j(1942年)を 著すが,敗戦を迎える。 戦後,篠原は,占領軍による教育改革に却応 させるべく,自らの教育学理論を全面的に再編 成する。即ち, ,実際的教育学の要項」を示し た岩波全書版『教育学』に代わる『民主主義と 教育の精神j(1947年)の公刊,これにもとづ く「実際的教育学J
の再展開 『訓練原論一 ←道徳教育の原理と方法一一j(1950年),およ び戦前の『教授原論一一特に国民学校の授業 -jの全面的「改訂J
版,r
教授原論 学習 輔導の原理と方法一一j(1953年)-ーである。 そして,この「実際的教育学J
の再編成および 再展開と同時進行で, 1941年絶版にした『理論 的教育学』・『哲学綱要』を見直しそれぞれ『改 訂理論的教育学j(1949年),r
哲学新講j(1951 年)として刊行するとともに,戦前・戦後にわ たる教育学理論の形成・展開を導いた,自らの 教育哲学観をf
教育哲学j (1951年),に示す。 この間,r
独逸教育思想、史j(1947年)とその改 訂増補版『欧州教育思想史j(1950年も)公刊 する。そして自伝『教育生活五十年j(1956年) を著し,翌1957年に亡くなる。享年81(凶。 第2
節 千葉師範附小「自由教育J
の指導理 論としての篠原助市「批判的教育学j (1)福井師範附小主事から京都帝国大学文 科大学・同大学大学院での「哲学J
・「教 育学」の勉学・研究へ 自伝『教育生活五十年j [以下,r
五十年J
と 略記J.によれば,福井師範附属小主事時代の 篠 原 は , 東 京 高 等 師 範 在 学 中 (1906年)の デューイ『学校と社会』との出会いに端を発す る新教育思想受容(エレン・ケイなどを中心と する)にもとづいて,i
心理主義・活動主義・ 実証主義的な教育論(13)J
(特に,ヘルバルト派 の教授段階説の形式性への批判)を公けにして いた。しかし篠原は,京都帝国大学文学部お よび同大学大学院での勉学・研究を通して,当 初のこのような教育研究の立場を変更する。即 ち, 自らの教育研究の立場を新カント派の「批 判的教育学」に定礎し,この立場から,新教育 思想(特に「ヂ、ユ}イの教育論J)への批判的 論及を試みる。篠原における教育研究の立場の このような変更は,京都帝国大学文科大学の教 員のなかで,特に西田幾多郎 (1870-1945) と, 「宅に度々御邪魔した」朝永三十郎(1 871-1951) および小西重直 (1875-1948) との,大 きな影響によるものである。 まず,西田幾多郎と大学在学中の篠原との関 係について説明する。篠原は,京都帝国大学初 年度の1913年 1月, ,先生方をお訪ねして将来 の道しるべにしたいと考丸先ず第一にお伺い したJ
,西田幾多郎先生」からi
i
フン,これか らはもっと倫理,哲学の方面を心掛けたまえ」 とて,懇切な御指導を与えられた(14)J
。西田の 助言は,篠原の教育研究における,この一度目 の思想的立場の変更への呼び水の役割をはたす ことになる。篠原は,第一学年に「哲学概論(桑 木[厳翼]教授)J を受講するかたわら,入学 当初「耽読」していた「同文館の「学芸大観」 の巻頭」にある「西田幾多郎先生の御著作J
,ベ ルグソンの哲学」に接し「西国助教授のベルグ ソンの「物質と記憶J
H. Bergson: Materie und 30 -(191)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデユーイ思想受容との関係の解明 Gedachtnissの講読にも出席した
J
o
I
講義のな いときには,図書室に行って,ベルグソンの 「 意 識 の 直 接 与 件J
Essai sur les donnees immediates de la conscience. (1889)を読んだ。 西国先生の「物質と記憶」の講読に何等か参考 になるであろうと考えた(1汁からである。そし て第二学年の1914(大正3)年9月から,篠原 は西国の「哲学概論」を受講する。「西田先生 の哲学概論は主としてヴインデルパントの「哲 学 入 門J
W. Windelband; Einleitung in die Philosophie.の順序に従い,まま先生のご意見 を加えられたもので,私はヴインデルパントの 入門を一読して先生の教室に入った」。これに 加えて.I
西田先生に御依頼してカントの「純 粋理性批判J
を学生で輪講することになってい たので私もその席に列したJ16)。さらに篠原は, 第三学年で「その頃「自覚における直観と反省」 の想を練られていたJ
I
西目先生の哲学の特殊 講義」一一この科目の試験の論題は「先生の コーへンの認識論,特にその「根源の論理」か 又はヴインデルパントの「批判的方法と発生的 方法」の何れかを選べ」とのことであったので 「私は後者を選んだ」ーーを受講し第四学年 の卒論作成(題目は「自由 J)に際して.I
西田 先生からは,先生が第四高等学校在職中購入せ られた白由に関する二種の小冊子を高等学校の 図書館から借りだしし,精読をすすめられた」は(17引)) 注目すべきは,篠原が,第二学年と第三学年 との聞の「夏休」に,第三学年に受講する予定 の西田幾多郎の「哲学の特殊講義」に備えて, 自主的に「新カント派」について学ぶなかで, ヴインデルパントとナトルプの著作に自らの関 心を収数させていくことである。 「この夏休はかなり勉強が出来た。新カント 派について,西田先生からお話があるので, マールブルヒ派のコーヘンやナトルプ,パー デン派のヴィンデルパントを主として読ん だ。コーへン (1842-1918)では「純粋認識 の 論 理 学J
H. Cohen; Logik der reinen Erkentniss. (1902) ナトルプ (1854-1924) では「精密科学の論理的基礎J
P. Natorp; Die Logischen grundlagen der exakten Wissenshaften. (1910)I
哲 学 と 教 育 学J
Philosophie und Padagogik. (1909)ヴイン デルパント (1818-1915)では「哲学序曲JW. Windelband; Praludien. (1910)二冊「意志 の自由J
Willensfreiheit
.
(1904)等。この異 なった新カント派中,私はパーデン派に引 きつけられた。/ヴインデルパントがー[略] …文化哲学を説き,科学を法則と定立の科学 「自然科学」と「個性を記述する学J
(歴史学) に区分し歴史哲学の基礎を定めたことは, 本来教育学は歴史的でなければならぬであろ うとの,私の,言わば暗中模索的な考えに一 道の光を投げかけてくれた。彼の「哲学序曲」 を丹念に読み,要点を一々抜き書きし(始め は朝永先生に借り,先生のアンダーラインの ある本で,後には自分の求めた本で).不審 の点は先生にお尋ねした。次にマールブルヒ 派では,言う迄もなくコーヘンよりもナトル プに向ったは8)J
。 西田幾多郎の講義は,このように,京都帝国大 学文科大学哲学科において篠原が「哲学を専 攻」するうえでの,大きな刺激の源であり,導 きの星である, と考えられる。 次に,朝永三十郎と篠原との関係について説 明する。篠原は,既に東京高師在学中.I
哲学 的方面では講師であられた朝永三十郎先生に長 い間お世話になった。先生は三年生のときに哲 学を受持ち,パウルゼン哲学史綱要の要点を語 られたのであるが,説明のはっきりして居られ るのに私は先ず引き入れられた(国J
。朝永は 1906年6月京都帝国大学文科大学哲学科に助教 授として赴任し,独・英・仏への留学 (190 9-1913年)の折特にヴインデルパントに師事して 帰国するが,篠原は,既に東京高等師範在学中 に「哲学的方面では講師であられた朝永三十郎 先生に長い間お世話になった」ことに加え,京 都帝国大学の第一学年で、朝永の「西洋哲学史」 を受講し第二学年では「あの有名な「近世に - 31 -(190)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想受容との関係の解明 おける我の自覚史」の稿を続けて居られた時代 のことで,着眼点も主として我の自覚に向けら れていたようである
J
I
西洋哲学史J
I
特殊講義」 を受講する。そして篠原は,第四学年に卒論題 目を「自由」に決める際,まず朝永と相談する(却)。 篠原にとって朝永は,r
近世における我の自覚 史一一新理想主義と其背景一一Jl(1916年)の 著者であるとともに,新カント派に関する大き な情報源でありその勉学上の相談役(原典貸与 を含む)でもある, と考えられる。 最後に,小西重直と篠原との関係について述 べる。篠原は,第一学年で「小西教授のバルト の教育および教授の原理をテキストとせる教育 学の講読」を受講し第二学年で「大学の自由」 および「現代の教育」を主題とする「小西先生 の講義」を受講する一一「特にリンデの「人格 教育学JE. Linde; PersonlichkeitspadagogikJ についての叙述の生々しさは,いまも私の記憶 に焼けついている。口で語るのではなく精神で 話されたのである」。また,I
学年試験で小西先 生のは「自己活動について」の小論文であった。 福井時代から心掛けていた問題でもあり,つぎ はぎながら,どうにか纏めたjC2九 そ し て 篠 原 は,大学院に進学し;教育学を研究するにおよん で,小西の指導を受けることになる一一ちなみ に,小西の論文「社会的教育学の過去及将来」 (初出は1916年4・5・6月,r
教育思想の研究J
1923年に収録)は,後の篠原論文「社会的教育 学の概念J
(初出は1921年8月,r
批判的教育学 の問題』収録)にとって重要な先行研究である。 このように,篠原の『批判的教育学の問題J
の基礎は,京都帝国大学文科大学哲学科におい て「哲学を専攻」し,I
その頃「自覚に於ける 直観と反省J
[1917年, 1913年以降書き継いだ 連続論文の出版]の想を練られていた」西田幾 多郎の講義への準備として,I
あの有名な「近 世における我の自覚史J
[1916年]の稿を続け て居られた時代の」朝永三十郎の指導を受けつ つ,新カント派(特に,ヴィンデルパントとナ トルプ)の著作に自主的に取り組んだこと。そ してこの新カント派の哲学の理解にもとづい て,r
学校教育Jl(1908年)から『教育思想の研 究Jl(1923年, 1914-1922年に著した諸論文を 収録したもの)へと教育研究を展開しつつあっ た小西重直の教育学講義を受講することによっ て,福井師範附小主事時代の教育実践への自ら の関心(特に,I
福井時代から心掛けていた問 題J
,I
自己活動J
について)を深めたこと。こ れらのことによって培われている,と考えられ る。 篠原は,西国・朝永・小西のこのような薫陶 のもとに「哲学を専攻」し,卒業論文のテーマ として「自由J
を選択し提出(辺) 1916年7月京 都帝国大学文科大学哲学科を卒業する。そして 「西田,朝永先生と小西先生とに依頼して,大 学院に入学,教育学を専攻することにした(お)J
篠原は,教育学の研究に専念することになる。 (2)新カント派「批判的教育学」にもとづ くデューイ教育思想、批判と教育学構想 篠原の『批判的教育学の問題j に収録された 諸論文を発表順に並べてみよう。 「最近の教育理想J
1918(大正7)年3月, 「ヂ、ューイの教育論J
1918年3・4月(以上は 京都帝国大学大学院在学中の執筆・活字化,以 下は東京高師での教授として赴任以後の活字 化),I
創造的自由活動と類化J
1919年12月,I
生 活準備と連続的発展J
1920年5月,I
教育即生 活 論J
1920年10月,I
学習動機としての論理的 確信J
1920年11月,I
個性と教育J
1920年12月, 「愛と教育J
1921年2月,I
自由と創造と教育」 1921年5月,I
社会的教育学の概念J
1921年8 月,I
教育の根本原理としての弁証法J
1922年 3月。 篠原による千葉師範附小「自由教育J
の指導 は1919年7/8月以降であるから,新カント派 「批判的教育学」の立場から著されたこれら篠 原論文は,千葉師範附小「自由教育J
の指導理 論としての意義も有している制。 以下,篠原の 「ヂューイ教育論」批判色論文「最近の教育 - 32 -(189)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想受容との関係の解明 理想」に示された篠原の当初の教育学構想と彼 の「批判主義社会的教育学」との関連において 検討し(幻千葉師範附小「自由教育」の指導理 論としての篠原「批判的教育学」の理論構造を 解明してみよう。 篠原は,論文「ヂューイの教育論」において デューイ教育思想をこう論難する。即ち, 「ヂューイ…[略]…は,効果如何によって検 レギュナチフ(ママ) 証された知識は規正的の力を有する…[略]・ と述べている。併し斯く効果如何から導かれた 規範は畢克「ならば」付きの仮設的のもので… [略]…無条件的に服従すべき規範,方向を与 ふるものとしての規範ではないJ,
1
ヂューイは 知識の為の知識を認めず科学夫れ自身を否ん だ1
と篠原は批判する。 「知識を道具となす実用主義は斯くて極めて 人為的な物質的なものとなった。こは実用主 義が行くべく所に行ったのである。…[略] …米国が実用主義の本土である知く,彼の教 育思想は首尾一貫した米国式のものである。 もし教育学が国民牲を基礎とすべきもの,教 育学は特殊的にそれぞれの国家・社会を顧る べきものであるとすれば,ヂ、ユ}イの教育学 の如きは恐らく理想的のものであらう。唯夫 れ米国式である。故に之を他国に移植するに 当つては細心の注意を払わねばならぬ。我国 において実用主義の上に教育を建てんと企て つつある一二の人々は先づ顧みて自己の足場 を精査すべきであらう(2汁。 篠原は,自ら依拠する新カント派(特にナト ル プ 「 批 判 主 義 社 会 教 育 学J)の立場から, デューイ思想を批判する。上に引用したよう に,篠原は.1
効果如何によって検証された知 識は規正の力を有する」とのデ、ユーイ「知識」 論に対して.1
知識の為の知識」・「科学夫れ自 身」を認める立場から.1
斯く効果如何から導 かれた規範」はあくまでも「仮設的」なものに すぎず.1
無条件に服従すべき規範,方向を与 ふるものとしての規範ではないJ
.
と主張する (尚,篠原は,論文「学習動機としての論理的 確信」において.1
真理は事実的検証によりて 定立せられるとの実用主義者の見解」を批判 し.1
真理は論理的必然によりてなるとの見地」 から.1
論理的確信とこれに伴う知識の無関心 なる愛が学習の中心動機であらねばならぬ」と 主張する問。同様に篠原は,テやユーイ教育思想 における「生活準備」説批判および「教育即生 活論」を取りあげ,これらの見解を,デユーイ らの「実用主義」の立場に依ることなく,むし ろ.1
感覚的なものを合理化する理性的意志を 振い起こすことこそ教育一貫の大原則でなけれ ばならぬ(国)J
とする新カント派の立場から基礎 づけを試みる)。 篠原は,デユ}イ思想、へのこのような批判 (新カント派の立場からの)を,彼自身の教育 学構想、 (1理論的教育学」と「実際的教育学J) によって枠づける。即ち,デューイの「知識を 道具となす実用主義」教育思想を「米国式」と してのみ評価し.1
国民性」ないし「国家・社会」 を異にする日本においてこれを安易に「日本 式」として「移植」すべきではない, と篠原は 論難する。(しかしこの論難は単なる毘理屈 である。篠原自身の教育学が「独逸式」である かぎり.1
先づ顧みて自己の足場を精査すべき」 は篠原自身であるのだから。)問題は,この論 難の前提にある,教育学に関する篠原自身の次 の枠組である。「教育一般の形式的目的は理性 の哲学が之を与へ,其の特殊なる具体的目的は 国史の研究と相待って決定せらるべきである と。国家の使命は独自である。一国の歴史は他 国の歴史を以て代用せらるべきでない。国民教 育を説くに当り尚他国人の糟粕に甘んぜんとす る如きは,全く己を棄て、他に就くものと言は ねばならぬ(却)J
(論文「最近の教育理想」結語)。 篠原が自らの教育学研究を新カント派の「批判 的教育学」に定礎した前提には,そしてその後 の篠原による生涯にわたる教育学理論の展開の 前提には,この.1
理論的教育学J
(
1
教育一般 の形式的目的は理性の哲学が之を与へJ) と「実 際的教育学J
(1其の特殊なる具体的目的は国史 - 33一(188)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデユーイ思想受容との関係の解明 の研究と相待って決定せらるべきであるJ)と の教育学の二段構えの枠組みが,強聞な信念と して存在する。篠原による「批判的教育学」の 立場からの「理論的教育学」形成・確立の前提 にあると推定される,そして篠原によって将来 展開されるであろう「日本式
J
I
実際的教育学」 の「基礎」として篠原自身が想定している,日 本の「国民性」を示す,I
特殊的に」日本の「国 家・社会を顧みるJ
,I
国史J
とはいったい何 か ? それは,本稿の論述が示すように,I
理 論的教育学」から「実際的教育学」への展開過 程において,篠原自身によって明示されること になる(尚,篠原は自らの愛媛師範学校時代を 戦後に回顧して,I
明治二十三年十月降したま える教育勅語」を「教育全般を照らす太陽」と 述べている)。しかしここでは,篠原が,ナ トルプ「批判主義社会的教育学」に依拠して, 「教育一般の形式的目的」を「自然の理性化」 と把握すること。そしてこの「自然の理性化J
論をボールドウイン(James M. Baldwin, 1861 -1934)の「人格生長の弁証法」論と接合する ことによって,千葉師範附小「自由教育」の指 導理論を構築すること,を示そう。 (3)千葉師範附小「自由教育」の指導理論 としての篠原「批判的教育学」 卒業論文「自由J
を踏まえ,篠原は,論文「自 由と創造と教育」においてこう述べる。 「先づ我々に,現前の意識と,それを評価す る意識と此の二つの意識を別ける。そして 評価する意識が,現前の意識に,評価の態度 で対したとき,議に我々は「ねばならぬ」と 云ふ意識を起します。例へば私が…[略]・ 空腹を覚えて食を求めるとする。此の空腹 と,食を求めることと二者の関係は自然の因 果的関係である。…[略]…併し其の時に, 我々の評価の意識は此の自然的状態を評価 し時あっては,空腹であっても食ってはな らない…[略]…と命ずるが如く,評価意識 が現前の意識に対した其の時に,其処に「ね ばならぬ」と云ふ働が出てまゐります。… [略]…カントが考えたやうに「ねばならぬ」 sollstといふことが,I
能ふJ
kannstといふ こと即ち自由の存在理由でありますから。-[略]…[現前の意識に対して]評価の意識 を上位に立て一一是を通常意志優位の説と申 します。一一評価の意識が絶対支配を有した とき我々は始めて自由であります。しかも評 価の意識は他を支配するが,他から事末も支 配せられるところがないから,件の自由は絶 対自由 比較的の自由でなくて であり ます。約めて言へば真の自由は意志優位の上 に始めて成立します(却)J
。 篠原は,I
自然J
と「理性」とを峻別し前者 への後者の「支配J
として「自由J
を捉える。 「ヴインデルパントも亦世界を自然の世界と 価値の世界とのこつに分けて,…[略]…「規 範意識によりて経験意識を支配すること J-此の外に自由はない(ヴインデルパント 「プレルーデイエン」巻二六人頁)と論定 しました。要するに此の世界を二重に考へ「な りJ
の世界と「べしJ
の世界,自然の世界と 価値の世界,現前の世界と評価の世界との二 つを分かち,価値といふ点から見た場合に, 初めて自由が立せられるといふに於いては諸 家の見る所大凡一致しているやうでありま す。否,更に進んで,斯かる見方の外に自由 の概念の説明法は恐らくあるまいと,私は, 甚だ大胆ながら,考えるのであります(31)J
。 このような,I
理性」による「自然」の「支配」 は,I
自由」を意味するばかりでなく,I
創造」 をも意味する,と篠原は言う。 「かりに藷に…[略]…一つの自然現象の解 釈が求められたとする。其の時我々は…[略].
I
ねばならぬ」と云ふ規範,何が真である かを決定する所の根本法則に従って,今謀せ られた自然の現象に働き掛け,…[略]…自 然の与へる感覚的素材を理性の活動で統一綜 合し,自然現象から或者を創造する。そして, 此の創造せられたものが即ち物理学上の知識 34 -(187)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデユーイ思想、受容との関係の解明 で物理的真理であります。…[略]…理性で 以て自然の感覚的素材を支配した,即ち自由 の活動によって,始めて物理的知識が創造せ られるので,我々は自由によって始めて創造 し又創造によって始めて自由であります。 同様に,我々の行為に於いても…[略]…総 じて理性の活動で自然の欲望を支配した場合 に道徳が創造せられる,そして夫れが同時に 又自由である。同様のことは美についても言 はれ得る。例えばーの写生をするとする。-[略]…写生と難も,我々の美意識が働き, 美の規範が働いて,自然に手を入れて作った もので,立派な一つの創造であります0 ・・ [略]…要するに…[略]…知識・道徳・芸 術等は,総て理性の自由活動に依って初めて 創造せられるのであります。理性の活動の支 配の下に,従って自由によって始めて,真も 善も美も創造せられるのであります(32)
J
。 それ故,子どもにおいて生まれながら潜在的 に備わっている「理性の活動J
を目覚めさせ, そして,子どもが,自らの「自然」を自らの「理 性の活動」によって「支配」し「真・善・美」 を「創造J
するように教師が援助すること一一 これが,篠原にとっての「教育J
,即ち「自由 教育」にほかならない。「自由教育は…[略] …自然と理性との対立を根本予想となし批判 哲学の眼で以て,まともに教育を見つめゃうと する小さな一つの試みであります(33)J
。篠原は これを端的に「自然の理性化」と呼ぶ。 「私は,教育は自然の理性化に導く働きであ ると考へてゐます。言ひ換えれば絶対自由な 理性の活動を以て自然を支配し,自由を実現 して行く,其の道行きが人間の発展で,此の 発展を導くのが教育であると考へてゐます。 今上に述べて置いた二重の世界観から子ども を眺めて見ますと,自然の方面は子どもには 現実態となって早くから存在してゐます。即 ち,飢えて食を求め,悲しくて泣く,さう云 う風に,自然は本能・衝動として,現実に, 求めずして子どもの上に存在して居ます。併 しながら理性的活動の方面は,現実態として は存在しないで,唯可能態として存在するに 止まる。…[略]…[子どもに]外から理性 の光を注ぎ込む事は出来ませぬが,併し内自 ら此の光に覚ますことは出来ます。教育者の 適当な指導で以て,此の…[略]…潜在的に 存在している理性活動に日を覚まさしめ,そ の目覚めた理性に依って,徐々に一歩々々自 然を支配しつ冶進ましめる。これが教育であ ります。…[略]…然るに理性による自然の 統制は,これやがて自由でありますから,教 育は他の方面から見れば,一歩一歩自由を実 現せしめ,段々自由の領域を拡大せしめ行 く,さうして絶対自由の境地を最後の標的と して進ましめる働きであると申されます。… [略]…自由教育では,故に自由の拡大が其 の教育上の理想であり,又理性に目覚めしむ るといふことを,第一番に,そして特に力説 します(剖)J
。 では,I
自然の理性化J
としての「自由教育」 は,いかにして行われるのか? 篠原は,I
教 師の意志活動に依って,児童の意志活動を促 す」以外にない, とナトルプ「社会的教育学」 に依拠して言う。篠原によれば,I
教育は之を 外から,方法の上から見れば,意志と意志との 相互関係であるJ
o
I
教師と児童とは経験的に見 れば,固より分離してゐますがJ
,I
純粋自我の 活動J
,言い換えると,I
絶対自由な理性活動」 において万人は共通である。この「絶対自由な 理性活動」こそが,I
経験的にみればJ
I
分離」 している「教師」と「児童・生徒」とを「連続」 する「原理」に他ならない。故に,この 「純粋自我連続の原理により,教師の意志活 動で,生徒の意志活動を振起しさうして教 師の考へ方,行ひ方をば示します。すると, 生徒は,自分自身に目覚めた理性で,教師と 同じ考へ方,行ひ方をし,理性の合法的活動 によって, 自ら或知識を作り,自ら道徳を行 ふのである。要するに生徒の意志活動を振起 しさうして生徒自らに合法的活動を営まし3
5
-
(
1
8
6
)
篠原助市における教育学理論の形成・展開とデユーイ思想受容との関係の解明 める。之が教育であります。…[略]…ナト ルブが教師と生徒との聞に末梢的の意志関係 が起り,其の末梢的意志関係が中心的に,生 徒の合法的活動を促がす,それが学習である。 (ナトルプ「社会的教育学」八九頁)と言っ たのは此の意味を語るものであります(お)j。 そして篠原は,
1
教師の意志活動で,生徒の 意志活動を振起し」て「生徒」に「理性の合法 的活動」を行わせ,1
自由」を獲得させるには, 次の三段階が考えられる,と言う。 「第一段は,生徒の意志を振起し,…[略] …教授に於て将た訓練に於ても,先づ斯うし なければならぬとの意志に基づいて活動せし める。其の内容は如何にもあれ,善を行はね ばならぬ,知識を求めねばならぬといふ, [略]…知的動機・道徳的動機を振い起さし め,斯くしなければならぬと云ふ意志に基い て知識を求め,斯くしなければならぬと云ふ 意志に基いて道徳を考へ,生徒を自然の束縛 から脱し形式的自由を得しめねばなりませ ぬ。教育の第二段では,第一段によって振起 した意志により生徒をして自ら合法的活動を 営ましめる。合法的活動と云ふのは,知識な ら思考の法則に従ひ,道徳なら道徳の規範に 合した活動の謂であります。そして合法的活 動によって,実質的自由の足場が作られま す。併し生徒自身が,合法的に活動したと, 主観的に考へでも,其の活動内容が必ずしも 真善美の客観的規範に合って居ると保証は出 来ませぬ。於是,教育の第三段として其の第 二段で、行った活動に反省を加へしめる。之を 教師から言へば,其の活動に批評を加へるこ とになります。反省批評に依って始めて第二 段で、作った足場が確立せられ,真善美其の者 の為に正しく活動したか否かを明らかにし 自我を一段と深めることが出来ます。第一段 で形式的自由を,第二,第三段で実質的自由 を立て,且之を確保する。…[略]…兎に角 真・善-美の活動に対する生徒の意志を振起 し,其の意志で以て反省を基礎としら合法的 活動を営ませ,それを又反省せしめるといふ やうに進むのが,理性の自由の立場にある自 由教育の根本方針であります(3ω。」 篠原の主張する,1
自由教育の根本方針」の これら三段階(
1
生徒の意志の振起j,1
合法的 活動j,1
反省・批評j,尚,論文「教育の根本 原理としての弁証法」において,更に第四段階 「習慣(化)jが加えられている。「反省批評に よって得た統ーを,反復練習して,習慣に形成 すること是が,教育の第四段である(37)jo)は, 千葉師範附小「自由教育」においては,それぞ れ,1
動向j,1
構成j,1
反省」と呼ばれる(制。 しかし教師の「意志」が,何故に,そして いかにして,子どもの「意志」を「振起J
する ことになるのか? その機制を篠原は,ナトル プ「社会的教育学」に依拠するだけでは,1
純 粋自我連続の原理」ないし「意識の連続性j, としか論究できていない。1
1
凡て人聞社会は必然に,或る程度に於て, 意 志 の 社 会Willensgemeinschaftである」 (ナトルプ)。又文化財とは,…[略]…物品 の如く手渡しすることの出来ない限り,唯一 定の考へ方,行ひ方,感じ方として児童に影 響し得るのみである。今社会は意志の交互関 係であるといふ命題と,文化財は考へ方乃至 行ひ方としてのみ児童に影響し得るのみであ るといふ他のーの命題とを結合して考へて見 る。然らば教育は教育者の意志,社会の考へ 方行ひ方を代表するものとしての教育者の意 志が児童の考へんとし行はんとする意志を 振ひ起し児童の構成的自律的活動を促すも のとならざるを得ぬ。此の際構成的自律的活 動の方向を示すものは,又固より教育者其の 者ではなくて,教育者の活動によりて誘発せ られた意識の合法的活動であらねばならぬO , [略]…人は感ずるもの、間にありて感ず る事を学び,考ふるもの、間にありて考ふる 事を学び,意志するもの冶間にありて意志す る事を学ぶとはこの謂であり,社会が教育す といふも亦この謂である。社会は教育する。 36 -(185)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想、受容との関係の解明 併し意識の連続性に基づき,他の意志を振起 し意識の合法的自己活動を促すことにより てのみ教育する。児童が将に始めんとする活 動,何等かの始端を有する活動が,他人によ りて己に完成せられたるを見るとき,自らも 之を完成せんと力むる。完成の方向を疑問又 は其の他の方法によりて導 j 児童の意識の 合法的活動を促すこと,之が即ち教育であ る。…[略]…故に日く。「意志の教育は, ーの人が他の人と同じものとして相対立し ーが他と自由なる一致に於て,同ーの事を意 志することを学ぶ限りに於て成立する。
J
(ナ トルプ)と(却)J
。 そして篠原は,ナトルプ「社会的教育学」を, 万人に共通な,この「意識の連続性」の原理に 照らして,1
デモクラシーの教説」と意義づけ る。 「意識の無限同一なる理想は,各個人の,教 育に対する,無限同ーの権利を要求する。人 間の理想に従って,何人も同様に教育せられ 得るとの教育平等権に対し大なる尊敬を払う べきことを要求する。そして国民教育の大理 想は此の要求の上にのみ始めて樹立せらるべ きである。果たして然らば批判的社会教育学 は又之を真のデモクラシーの教説であり,真 の貧民の味方であるといはねばならぬ(岨)J
。 では,教師の「意志」がいかにして子どもの 「意志」を「振起」することになるのか? こ の機制を明らかにすることなしに,篠原「批判 的教育学」は千葉師範附小「自由教育」の指導 理論となることはできない。篠原は,ナトルプ 「社会的教育学」にボールドウインの発達論 (1人格生長の弁証法」論)を接合することに よって,この間いに答えようとする。 「ボ}ルドウインは人格生長の弁証法なるも のを説いた。其の説によると,児童は先づ自 我を自分の外に見る,他人に於て自我を見 る,これが第一段の投視的自我Projective selfの段階で,次には,自分の中に自我を見 る主観的自我 Subjectiveselfの時代に入り, 最後に第三の段階として他我をも自我に類へ て解する投出的自我Ejective selfの時代に 至るので「自分といふ意識は他の(即ち投視 的自我の)模倣によりて成り,他の意識(即 ち)主観的自我)の項によって生ずる。自我 と他我とは斯く本質的に社会的である。其の 何れもが Sociusであり,何れも模倣的創造 Imitative creationである。J
(Baldwin, Social and Ethical Interpretation p.l5)そしてか、 る弁証的発展は唯個我の発展に現はる、の みでなく,社会にも現はれる。社会が社会 進歩の原動力たる新発見を個人の中に見る 聞は一一新しい発見創作は何時でも個人の手 プロジェクチ}ブ に成る 投規的の段階で,この新発見を社 サプジェクチープ 会の組織中に取り入れるのは主観的の段階 で,最後に之を色々の方法で社会一般の民衆 エジェクチープ に普及するに至って,第三の投出的の段階に 達する。個人より取って之を己」のものとな し然る後に之を一般民衆に与へる。だから, 「社会進歩の方法は,児童及び大人の人格生 長の弁証法に類へらるべき一種の弁証法であ る。社会進歩の弁証法は,社会と個人との聞 に於ける『与へ且取るjgive-and-takeとい ふーの循環運動である」と。 (Baldwin,op. ci,
.
t
p. 570.)(4日
。
ボ}ルドウインは,篠原によれば,1
自我と 他我とは本質的に社会的」であり,ともに「模 倣的創造」である,と捉える。ボールドウイン は,その「人格生長の弁証法」論において,子 どもが,1
他人において自我を見るJ
1
投視的自 我」の段階から,1
自分の中に自我を見る主観 的自我」の段階を経て,1
他我をも自我に類へ て解する投出的自我」の段階へと発達する, と 捉える。この「人格生長の弁証法」論において, 子どもと大人との聞には,どのような「与へ且 つ取るJ
1
循環運動」がなされているのか? 篠原はこう説明する。 「惑に一つの斜道を想定してみる。投視せら る〉他は,自らに対しては斜道の高い所に位 置を占め自らは其の低所に居る。 低所に居る3
7
-
(
1
8
4
)
篠原助市における教育学理論の形成・展開とデユーイ思想受容との関係の解明 から,其処に交流が起って与ふると与へら る、との運動が成立つ。反対に自らが投出的 自我となった場合には,自分に類へて解せら る冶他我は自分よりは低所にある。低所にあ るから,投出といふ活動が起り得るのであ る。…[略]…所謂白と他との弁証的対立は 何時でも非対称的であり,非対称的であるか ら投視せらる〉ものと,投視する自らと,又 投出する自らと投出の対象たる他我との聞に 交流が起りうるのである。此の見地に立っと, 教育といふ事実に於ける教育者と被教育者と の対立は,投視せらる、ものと投視するもの との対立であり,教育の過程は之を教育者の 側から見れば,投出ejectの活動であり,被 教育者からは,投視projectに始まり主観的 自我に高まる其の道行きである。併し一方 に於て他を投視する自らは,又,他よりは投 視せらる、対象となり得るのであるから,自 らは他によりて教育せらる、と共に,又翻っ て常に他を教育する。蓋し一切の社会現象は 投視・主観化・投出の弁証的過程の中に動く ものであるから,有も社会の存する限り,そ れより高きものを投視し低きものに投出す るといふ運動即ち教育といふ作用は社会生活 のある所には必ず常に行はれざるを得ぬ。教 育とは故に其の根基からしてーの社会現象で ある。ヂ、ユーイが社会は Communication よ り成り Communication は即ち教育であるか ら教育は社会生活の本質から必然に起り来る べき現象で,社会生活其の者は己にーの教育 であるといったのは,之と異なった立場から して,上の事実を捉へたものである叫」。 篠原の見解では.
1
一つの斜道」において, 大人がその「高い所」に,子どもがその「低所J
に,それぞれ位置している。「低所J
の子ども は, まず自我を「高所」の大人に「投視」して 「投視的自我」を確立する。そして次に,この 大人に「投視」した自我を「自分の中に見」て 「主観的自我」を発展させる。他方.1
投視j さ れる側の「高所」の大人は.1
他我」としての 「低所」の子どもを「自我に類へて解」しこ れに自我を「投出」する。故に.1
教育の過程 は之を教育者の側から見れば,投出ejectの活 動であり,被教育者からは,投視projectに始 まり主観的自我に高まる其の道行き」である。 ボ}ルドウインの「人格生長の弁証法」論は, 篠原の「批判的教育学」において.1
意識の連 続性」を前提に成立するナトルプ「杜会的教育 学J
(1社会は教育する。併し,意識の連続性に もとづき,他の意志を振起し意識の合法的自 己活動を促すことによりてのみ教育する J) に もとづいて,これを,大人と子どもとの聞の 「与へ且取る」過程に特化して解明する理論と して,位置づけられる(制。 「教育とは斯く投視するものと投出するもの との弁証的対立の上に成り立つ現象である0 • [略]…投視者と投出者との間に成立つ道 は私が嘗て「社会的教育学の概念」に於て柏、 詳しく述べて置いたやうに,意識の連続であ る。それは空間的なものではなくて,純粋自 我の普遍的統一活動として見た連続である。 従って投視者と投出者との対立は…[略]… まことは普遍的統一活動のより高い体現とよ り低い体現との対立である。即ち投視すると は他我の中に,より高い,従って又より普遍 的な統一的な自分を見ることであり,主観化 するとは,他人の中に見た,より高い活動を 改めて自分の中に発見することであり,自分 の更正である。先づ他人の中に見なければ自 分の中に見出すことは出来ない。他の中に見 せしむるといふことを介して自分の中に見せ 0 0 0 しむること, しかも意識的に,投視(教育者 の側からは)せしむることによって,投出し (教育者の側からは)投視と投出とを介して, 自らの中により高い統ーを発見せしむるこ と,是が即ち狭義に謂う所の教育である。… [略]・・・言い換へれば普遍的統一活動といふ 公道の両極に於て,白と他とを対立せしめ, 此の対立を通して次第に我を深めいくこと, そして同時に又他を深め行くこと,一言によ 38-(183)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデユーイ思想受容との関係の解明 り高い統一的文化活動に導き,人の中に真の 人間を発見せしめ,人道の理想、に一歩一歩近 づかしむること,是即ち教育である(叫ん では,子どもたちの側に「投視」および「主 観化」を行わせることによって,
1
人道の理想、 に一歩一歩近づかしむるJ
(1自然の理性化」を 行わせる)ために,彼らの「投視」の対象とな る教師には何が求められるか(
1
教育者の側か らは」いかなるものとして自らを子どもたちに 対して「投出」すべきか)。教師には,子ども たちの側での「投視」を引き出すように,1
歴 史的文化の体現者」としての自らを子どもたち に対して「投出」することが求められる, と篠 原は考える。 「投視せらるるものは,国より他我である。 教育の場合について言えば教育者である。-[略]…投視せらるる他我は,より高い統一 の具体的表現として,歴史的文化の一そう高 い体現者としての他我でなければならぬ。被 教育者に対立し,投視の対象となるものは抽 象的には歴史的文化であり,具体的には其の 体現としての教育者である。歴史的文化の体 現者なるがゆえにその投出によってよく被教 育者を歴史化することが出来るのである。歴 史的文化と言ふ斜道…[略]…に於て教育者 と被教育者が相対立する所に投視と投出との 相互作用が行はれる。是が即ち教育である0 . [略]…すべて歴史的文化は自然の理性化 によって成ったものである。…[略]…教育 は自然の理性化を導く働きではあるが,夫れ は自然と理性との間隙を歴史的文化によって 埋めることによって行はれる…[略]…。言 い換えれば歴史的丈化を手本として,又は之 に並行して,白然を理性化し歴史的文化を 介して被教育者の自然を理性化する者が教育 である。教育するとは歴史化することである とは,この謂いである(45)J
。 論文「教育の根本原理としての弁証法」にお いて,篠原は,教師を「歴史的文化の体現者」 と位置づけることによって, 自らの「教育」規 定を,単なる「自然の理性化」としてではなく, 「歴史的丈化」を介する「自然の理性化J
(1教 育するとは歴史化すること J)として,補足す る(後に篠原はこれを「個人の歴史化」と呼ぶ ことになる)制。 篠原は,このように,r
批判的教育学の問題』 において「教育」を,1
自然の理性化」と規定 するとともに,1
歴史化」を介する「自然の理 性化」とも補足規定している。では,米欧留学 後に篠原は,r
批判的教育学の問題J
に示した これら「教育」規定を,r
理論的教育学J] (1929 年)においてどのように用いているのか? ま た,篠原は,これら「教育」規定を,岩波全書 版『教育学J] (1939年)の「教育」規定,1
個人 の歴史化」へといかにして代替・転換し『教 授原論一一特に国民学校の授業一一J] (1942年) において「少国民錬成」を正当化するに至るの か ? そして篠原は戦後, 自らの教育学理論を いかに再編成するのか? 次節以降ではこれら の問題を解明してみよう。(未完)<注>
( 1) 篠原助市『教育生活五十年j[以下,r
五十年』 と略記]相模書房出版部, 1956年, p.71. (2) 篠原助市『批判的教育学の問題j[以下,r
批 判的』と略記]東京賓文館, 1922年, pp.384, 390. (3)r
五十年.], p.275. (4) 篠原助市『理論的教育学j[以下,r
理論的』 と略記]教育研究会, 1929年, pp.479 -482篠原 助市『教育哲学』富士書庖, 1951年, p.l58篠原 助市『民主主義と教育の精神』賓丈館, p即p.3 32. 43 (刷5別) 永野芳夫.佐藤武『改造思i
潮朝に基ける新学校 の主張と実際』三共出版社, 1923年, pp.65-67. (6) 永野芳夫論文「教育乃至教育学上の用語の改 造J
r
教育問題研究』第33号(1922年12月 1R), pp.36-58尚,参照,米i
畢正雄「永野芳夫の デューイ研究と津柳政太郎の成城小学校教育実 践との関連性(上)--1
経験哲学」にもとづ ← 39 -(182)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想受容との関係の解明 く「新しい教育の諸事実」の「基礎づけ」に焦 点をあてて
J
東洋大学『アジア文化研究所 研 究 年 報-2007年 一 第42号.1(2008年2月), pp.1 -17 (162-146)米 津 正 雄 「 永 野 芳 夫 の デユーイ研究と津柳政太郎の成城小学校教育実 践との関連性(下)-'1
経験哲学」にもとづ く「新しい教育の諸事実」の「基礎づけ」に焦 点をあてて一一」向上[アジア丈化研究所研究 年報ー2009年一第43号.1(2009年2月), pp.33-44 (132 -121).米 津 正 雄 「 永 野 芳 夫 に お け る デユーイ思想受容再考一一篠原助市の場合との 対比を念頭にいて一一J
,r
日本デューイ学会紀 要』第50号 (2009年10月), pp.l37 -147. (7) 戦後の篠原による自らの教育学理論の全面的 再編成は,占領軍という権力の主導する教育改 革への強制的対応の所産として,ある種の「転 向jとみなすことができる。戦前の篠原の教育 学理論の形成・展開過程には,このような,権 力による思想変更の強制,は見られない。先行 研究では,三度にわたる篠原による教育研究の 立場変更(特に敗戦による教育学理論の全面的 再編成)に十分な配慮が払われていない。例え ば,岩本俊郎は「篠原教育学」を『教育断想.1 (昭 和13年)までの「前半」と『教育学.1 (岩波全書, 昭和14年)以降の「後半jとに二分する(岩本 論文「篠原助市の教育思想に関する一考察 「自然の理性化」から「偶人の歴史化」へ一一」 立 正 大 学 文 学 部 論 叢61 (1978年七月), p.32.)。 この区分は,r
断想』に示した教育思想を篠原が 岩波全書版『教育学J
に「実際的教育学の要項」 として示したことを見えなくする。また,林博 常論文「篠原助市に関する研究j昭和女子大学 近代文化研究所『学苑J
第494号(1981年2月), p.87,における篠原教育学「体系本の各関係」図 には,岩波全書『教育学jの戦後対応版「実際 的教育学の要項J
,r
民 主 主 義 と 教 育 の 精 神J
(1947年)が欠ける。同様に,稲葉宏雄論文「篠 原助市教育学における「理論的教育学」と「実 際的教育学 JJ 龍谷大学教育学会紀要第 3~ , 2004年3月, p.8Lに示された「篠原教育学J
の 体系図にも,この『民主主義と教育の精神j は 位置づけられていない。尚,篠原助市に関する 林博常氏の連続論文(上記論文に続く「篠原助 市に関する研究(二)~ (八)Jr
学苑.1500・ 503・504・507・516・524・534号,それぞれ, 1981年 8月・1981年11月・1981年12月・ 1982年 3月・ 1982年12月.1983年8月・1984年6月, 所収)は,詳細な伝記研究にもとづいた篠原教 育学「体系」の解釈であるが,三度にわたる篠 原による教育研究の立場変更に十分な注意が払 われていない。 (8)r
五十年1
pp.3 -4,10. (9) 同書, p.204. ( 1的 手塚岸衛『自由教育真義』東京賓文館,1922年, 「自序J
,p.8 (11)r
五十年1
pp.280 -282, 292, 301
.
306, 311. (12) C.fr
五十年1
梅根悟「解説篠原助市とその 教育学J
r
世界教育学選集 55 批判的教育学の 問題J
明治図書, 1977年, pp.219 -287.および 大浦猛「解説篠原助市の生涯・思想、と『欧州 教育思想史.IJ
篠原助市『欧州教育思想史(下).1 玉川大学出版部, 1972年, pp.475 -520. 同 前 掲 , 大i
甫猛「解説篠原助市の生涯・思想 と『欧州教育思想史(下).1J
, p.494尚,福井師 範時代の篠原が,エレン・ケイを中心とする新 教育思想の立場からヘルバルト派教授法の形式 性を批判したことは,注(12)の梅根悟の見解に詳 しい。また,福井締範時代および『批判的教育学J
期の篠原の教育研究については,木内陽一氏の 論文がある(論文「福井県師範学校附属小学校 主事としての篠原助市の教育実践について」鳴 門教育大学研究紀要(教育科学編)第7巻, 1992年,pp.l09 -130,論文「篠原助市の論文「最 近の教育理想J
(1918年,大正7年)について 本文分析の試み-J
r
鳴門教育大学実技教育研究 31.1993年, pp.l07 -116,論文「実験教育学か ら新カント派哲学へ一明治末年・大正期におけ る篠原助市の外国教育学との取り組みについてJ
同上紀要第8巻,1994年,pp.27-4L論文「篠 原助市教育学と朝永三十郎の西洋哲学史研究」 40 -(181)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデ、ユーイ思想受容との関係の解明 比較思想学会『比較思想研究j28 [2001J. pp.82 -89.など)。しかし木内氏の研究には,篠原の 生涯にわたる教育学理論の展開および再構成(特 に「理論的教育学」から「実際的教育学」への 展開)についての展望が稀薄である。本稿の課 題は,戦前・戦後にわたる篠原による教育学理 論の形成と展開を,同時代のデューイ研究者, 永野芳夫の批判に照らして,篠原におけるデユー イ思想受容のありように着目して,解明するこ とにある。そのため,福井師範時代の篠原の教 育実践への関心と教育学研究のありようについ ての詳細な検討は,稿を改めて行う。問題は, 福井師範時代の教育実践への関心と教育研究を ふまえて,なぜ篠原が,新カント派の「批判的 教育学
J
に自らの教育学研究を定礎したのか, そして「理論的教育学」から「実際的教育学」 へと自らの教育学理論を展開したのか,その理 論的関連性の究明にある,と私は考える。福井 師範時代の篠原における新教育思想、受容は,新 カント派「批判的教育学」によって鴻過され, 包括的な教育規定としては「白然の理性化」に, 教育実践への回路としては「教育方法上の原理」 としての「興味」・「自己活動」・「権威J
.
I
自由」・ 「社会」に,理論上結品するu
理論的教育学J
参照)。 (14)r
五十年1
p.l63. 同 同 書 .pp.l61-163. (16) 同書. p.l72 (17) 同書.pp.l78. 184.篠原への西田幾多郎の影響 は大きい。論文「個性と教育J
において篠原は, 「教育は自然の理性化である」ことを,平面に円 錐体を逆さまに立てた状態を例えにして,説明 する。「自然と言ふ平面に理性といふ円錐体を倒 まに立て,自然の平面が円錐体を切断しつつ, 其の底上り行く様を,或は寧ろ円錐体が自然の 平面に一歩一歩噛ひ入る様を,私は教育の具体 的象徴と考へたいJ(r批判的j.p.203.)。しかし この「平面j に「円錐体を倒まに立て」た図は, 篠原が京都帝国大学の第一年次に受講した「西 田助教授」の講読のテキスト.I
ベルグソン「物 質と記憶J
J
に示されたものである(参照,アン リ・ベルグソン/合田正人・松本力訳『物質と 記憶』筑摩書房.2007年.p.218.)。尚,篠原は, 東京文理科大学における「昭和五年度」の「普 通講義J
を.I
西田幾多郎先生が「自覚における 直観と反省」の趣旨を書籍にたよられずに述べ たに倣って」行い.I
これも先生に傾倒している 一つの証拠となりうるであろう」と言う (r五十 年j.pp.334. 183.)。
(18) 問書.pp.l73 -174.尚,篠原は,京都帝国大学 の1年次学生の折.I
藤井健次郎先生J
の「倫理 学」受講に際して,デューイとタフツの共著『倫 理学j(1910年)を読んでいる(参照.r
五十年1
p.l68.)が,第二学年の折の,西田幾多郎に出席 を依頼した『純粋理性批判』の学生による自主 的輪講に比してさほど影響を受けてはいない。 ( 1助同書.p.61 仰) 同書.pp.l61.172. (21) 同書.pp.l62. 172. 178. 凶 同 書 .pp.l84 -196.尚,篠原論文「自由と創造 と教育J
(r批判的J
所収)の第一節から第五節 までの論述内容を参照のこと。 (ぉ:)r
五十年1
p.l99 (刻 『批判的教育学の問題』に収録された篠原助市 の諸論文は,小中学校教師に向けて書かれ,講 演されていることを我々は銘記すべきである。 例えば,手塚岸衛は.
1
1
大正八 [1919J年JI
八 月下旬四日間」にわたる「小学校教員H
約四百」 を対象にした「篠原教授」による「哲学一般の 手ほどきJ.I
大正九 [1920J年H
冬季H
白楊会」 主催の.I
篠原教授Jによる1
1
哲学と教育jの 講習会J
.
について言及している(参照,手塚岸 衛,前掲『自由教育真義1 I
自序J. pp.8. 9.)。 また,白楊会編輯『自由教育J第6号 (1925年 12月15日)124頁の次頁には.I
哲学と教育講習会」 「 講 師 東 北 帝 国 大 学 教 授 篠 原 助 市 氏J
.
「題目 哲学と教育J
.
I
会 期 大 正 十 五 年 一 月 五 日,六日,七日,八日の四日間J
.
I
時 間 毎 日 午 前 講 義 二 時 間 半 , 午 後 有 志 の 為 に 「 批 判 的教育学の問題jの解説(第一日).講義に関す - 41 -(180)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想受容との関係の解明 る質問に応ずる(第二,三,四日)
J
.
1
会員 中 等教員,初等教員,其他J
. 1
会 場 秋 田 県 山 本 郡浮城尋常小学校」ー の綴じ込み広告が載せ られている(参照.r
千葉師範附小・自由教育 3 自由教育四号 六号1
宣文堂.1974年.1
白 由教育」第六号,奥付の次頁綴じ込み広告裏面)。 尚,この「哲学と教育講習会」が実際に行われ たことは,滑)11トミヱ『飯塚兵治先生小伝一一 秋田の自由教育実践者一一』秋田魁新報社.1990 年.45頁に載せられている写真 (1篠原助市先生 (中央) 大正15年 1月 8日J)で確認できる。 岡篠原の論文「最近の教育思想J
.
同「ヂ、ューイ の教育論」の執筆事情については.r
五十年1
pp.208 -209. 210 -211.を参照。 例~r
批判的j.pp.379 -380. 384. 390. 間 同 書 .pp.323 -324 論文「ヂユ}イの教育論J
執筆に際し,篠原は,デューイの「学校と社会J
.
「如何に考えるかJ
.
1
民主主義と教育J
.
1
実験論 理学J
. 1
児童とカリキュラムJ
. 1
明日の学校J
.
「教育の基礎たる道徳的原理J
.
i
創造的知性」な どを参照し.1
特に主著「民主主義と教育」は繰 返 し 精 読 し たJ
o
(参照.r
五 十 年1
pp.21O 211.) 倒 「五十年j.p.223. 倒 『批判的j.p.48. 同 同書.pp.257 -258.尚,千葉師範附小「自由教 育」の指導理論としての篠原「批判的教育学」 についての先行研究として,松井春満論文「大 正教育と新カント派(1)一篠原教育学と手塚 岸衛の実践をめぐってーJ
.
同1
(
2
)
J
r
大阪経 大論集」第103・104号(1975年3月).243-268頁, 同誌第105号 (1975年 5月).55-84頁,がある。 しかし「篠原教育学」と手塚岸衛「自由教育J 論・千葉師範附小「自由教育」実践 (1手塚岸衛 の実践」でなく)とを相対的に区別しなければ, 中島義一 (1893-1933) の「自由教育J
論・「こ ども哲学叢書J
(全七編.1924-1931年)は解明 できない。 倒 同書.p.264ヴィンデルパントの引用箇所を次 に示す。「道徳的自由とは一切の衝動をば,認識 せられたる道徳律に意識的に従属せしむること である。自由とは良心の支配である。独り此の 名を受くるに値するものは,規範意識による経 験的意識の規定である。我等は規範の総体をば • [略]…理性と呼ぶことができる。…[略] …「自由とは理性に聴従するの謂であるJ
o
J
(ヴイ ンデルパント著/篠田英雄訳『プレルーデイエ ン(序曲) (下)j岩波書庖.1927年,論文「規 範と自然法則J
.
pp.l28-129.) 同 同 書 .pp.265 -267. 同 同 書 .p.280. 凶 同 書 .pp.268 -269 倒 同 書 .pp.270 -271. 同 同 書 .pp.272 -273. 276. 間 同 書 .p.296. 倒手塚岸衛『自由教育真義j.pp.l32 -150. 倒 『批判的j.pp.90 -93.この引用文は,ナトルプ 『社会的教育学j1
第 一 編 基 礎 編 第 十 節 教 育 と 社 会 社 会 的 教 育 学J
.
次の一節のパラフ レーズである。「社会の第一次的な作用は意志に 対する作用である。人々は他者の意欲を経験す ることによって,意欲することを学ぶ。…[略] …私が理論的学習の場合,他者の視点に,意志 して自らを移して,他者が見,私がはじめ見な かったものを見ることを学ぶと等しく,私は他 者において,彼の意欲が,自覚の原本法則に於 ける意欲の最後の根拠を常に翻って指しこの 根拠から現れることを経験して,私ははじめて この最後の根拠に思いを致すのである。/こう して自覚,従って自覚的な意欲こそ意識と意識 の社会の中に,また社会と共に専ら発展するの であって,この社会は先ず意志社会である。他 者との最も深い合致に於いてこそ,私は自己と 他者を分ち,自己自身を見出すのであるJ
o
(ナ トルプ著/篠原陽二訳『社会的教育学』玉川大 学出版部.1973年. pp.l23 -124.) 篠原は.1
他 者との最も深い合致に於いてこそ,私は自己を 他者と分ち,自己自身を見出す」とのナトルプ の言明にボールドウイン「投視的・主観的・投 出的の弁証的段階」を読み込み.1
自由教育」の 42一(179)篠原助市における教育学理論の形成・展開とデューイ思想、受容との関係の解明 指導理論を構築する。木内陽一氏は,前掲論文 「実験教育学から新カント派哲学へ」において, ,